55-0113 信仰の主な基盤

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • イリノイ州シカゴ市フィラデルフィア教会
  • 録音番号:55-0113
  • 年:1955
1
頭を下げましょう。われわれの天の父よ、われわれがここに来て、主の親愛なる愛される息子である主イエスを崇拝するという素晴らしい権利を与えてくださり、ありがとうございます。われわれをこのように大事にし、われわれの哀れで道に迷った罪人の位置に取って代わり、われわれの罪、そしてわれわれの病気を取り除いて、それを背負うために、主イエスを地球に遣わしたことに感謝いたします。今晩、この完全なるいけにえがもたらしたすべてを享有できることに大変感謝いたします。
2
主よ、今晩特別な方法で人々の心に入るようにお願い申し上げます。何か傑出したことをなさるようにお願い申し上げます。われわれが信じるのにそれが必要だからではなく、主を信じない人たちが信じるかもしれないからです。主よ、これらのことを叶えてくださるようお願い申し上げます。われわれが帰るときに、エマオから来た人たちのように、「私たちの心はうちに燃えていたではないか。」と言うようにお願い申し上げます。今晩われわれのために何か特別なことをしてくださるようお願い申し上げます。イエスの御名で感謝いたします、アーメン。どうぞお座りください。
今晩ここに来て、この講壇からこれらの親愛なる聴衆にもう一度伝道できるのはとても光栄なことです。われわれは集まることで祝福されると確信します。
私はちょうど...伝道者たちの集まりに行ってきたところです。私の親愛なるエクベルグ兄弟が「主の栄光から降りた」を歌っていたのを聞きました。それは私のお気に入りの歌です。そして私は...私は彼がここにいるのを知りました。私たちは素晴らしい時を共にしました。そしてエクベルグ兄弟がこのように元気そうで、健康そうで、そしてすべてがうまくいっているのを見て、私はうれしかったです。彼に神様の祝福がありますように。
3
さて、私は毎晩長引かないように、できるだけ早く御言葉に入るようにしています。なぜなら私たちはシカゴであなたたちと共にどのくらい長くいられるか分からないからです。かなり長い間いられると思います。昨晩お知らせしたように、急ぎたくないからです。興奮せず、ただ待ちます。神にチャンスを差し上げます。ゆっくりします。
そして、私たちは十分に長い間ここにいたいです。もしあなたがお祈りした後で何かが起きたら、私たちはここにいて、それは一体何なのかを見ます。時々それは人々がちょっと信仰が足りなかったり、信じない者と交わったり、間違った集団に入ったり、もしくは他の何かが起きたり、それともある種の...信仰の行動などのためなのです。主はそれがお得意です。だから神にお祈りして、われわれを助け、時期にふさわしい、言うべき御言葉をわれわれにくださるようにお願い申し上げます。
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そして、われわれのここにいる親愛なる牧師であるジョセフ兄弟によりますと、今週の日曜日と来週の日曜日は高校で集会を開くとのことです。それを聞いてうれしく思います。そして主があそこでわれわれを祝福し、主の栄光のために、主の御国の最も良いものをわれわれにくださるように願います。
さて、ヨハネの福音書の15章の7節、この御言葉を読みたいと思います。
あなたがたがわたしにとどまり、私のことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
そして次にヨハネの福音書の14章の12節、これらの御言葉を読みます。
  まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
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そして今晩、「信仰の主な基盤」をテーマにしたいと思います。このようなタイプの集会となる
と、たくさんの祈りが必要です。そして時間をかけて主イエスに自分自身を捧げる必要があります。
 人生の終わりに、道の末で、私がこの一生で出会った人々の前で立つ時、その時になって初めて、あなたはこれの意味は何なのか、何を払うべきか、そして聖霊の働きはこれらのことにおいてどのようにわれわれのためになるのかに気づきます。
今解釈するのは難しいです。信仰によって行動するしかありません。私も信仰によってそれを受け取りました。私は解釈することはできません。ただ信じるだけです。主はそれをお与えになり、私はただそれを受け取り、それをあのように成長させるだけです。それが主のことをなす仕方です。
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さて、われわれは非常の多くに人々が「ああ、もし私が信仰を持っているならいいのだが。」と口にするのを聞きます。信仰は長ったらしくて、無味乾燥な祈りの集会を意味するのではありません。それは長い間の断食を意味するのではありません。信仰は無意識のものです。もし本当の信仰を持っているのならば、それを意識することはできません。あなたは信仰を得たことさえ知らないのです。それはあなたにとって無意識のものです。
あなたはイエス様が御自分は風や波を鎮めさせられる信仰を持っていらっしゃるかどうか、もしくはラ...ラザロを蘇らせるのに十分な信仰を持っていらっしゃるかどうかをお疑いになることを想像できますか。もしくは...主は一度も御自身の信仰をお疑いになりませんでした。
 さて、われわれが信仰を得る前に、信仰の何かの基盤を得なければなりません。信仰の裏側には何かがあるはずです。
7
ある男性が、自分の一生を共にするパートナーを選ぶ時に、彼はたいてい彼女の生活、そして彼女はどんな家庭から出たのか、また彼女はどんな背景を持っているのか、などなどを尋ねます。それは...われわれは基礎を得るためにそのようなものが必要です。あなたは彼女に尋ねます。
 彼は彼女の話からしか情報を得ることはできません。それは彼が得られるすべてのものだし、彼女も彼の話からしか情報を得ることはできません。それ以外に方法はありません。
 そして、神がそのような方法で信仰を置かれるのをうれしく思います、そうすることでわれわれは...ある男性が彼の妻を娶ることはわれわれがキリストを花婿としてみること、もしくは主がわれわれを花嫁としてみることに似ています。われわれは御言葉に基づくしかできません。
 そうであるなら、われわれは何でしょうか。どうしてここにいるのでしょうか。何のためにここにいるのでしょうか。あなたはこれらの側面から考えたことはありますか。われわれは人間です。そして何がわれわれを人間にしたのでしょうか。何が原因でわれわれは地上のほかの生き物と異なるのでしょうか。〔ブランハム兄弟はちょっとせきをしました。〕(失礼しました。)人間として?
8
ある人がどんな状態にいようと、彼はやはり神の息子です。彼がどれだけ罪深くあろうと、どれだけ放浪していようとやはりそうです。彼は堕落した息子ではあるが、息子であることに変わりありません。神が彼の創造者でいらっしゃいます。神が彼の創造主でいらっしゃいます。神は代償を払って彼をお買いになりました。彼は一度も自分を神と和解させようとしていないかもしれません。彼は一度も救いを受け入れていないかもしれません。それは一度も彼に役に立っていないかもしれません。しかしそれでも彼は神の息子であり、彼女は神の娘であることに変わりありません。
 神は何のために人をここに置いたのでしょう。今、これらの考えにたくさん時間をかけることができるけれども、そうするつもりはありません。今晩は基本的な考えだけを話すつもりです。終わりましたら、病人のためにお祈りしたいです。おそらく伝道者たちはもうすでに話したかもしれません。
  さて、神が初めに人を造られた時に、人を地上のどんな物よりも勝るように造られました。神は彼に地上のあらゆる物を管理する権利を与えられました。彼は動物、鳥、そして海の中の魚介を管理しました。彼は風、植物を管理しました。彼はすべてを管理しました。
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人は地上にいる一つ下の階級の神のように造られました。彼は地上にあるあらゆる物、あらゆる要素を管理する力を与えられました。それがアダムでした。アダムはこれらの素晴らしい力を与えられました。しかし彼はこの与えられた力を自分自身のために使おうとした途端、彼は堕落しました。
 アダムは風に向かって話しかけることができ、しずめることができました。彼は木に向かって話しかけることができ、木は彼に従いました。彼は野獣に向かって話しかけることができ、野獣は彼に従いました。彼は水などあらゆるものに向かって話しかけることができました。すべての物は彼に従いました。
 さて、それが人の初めの状況でした。神は彼に地上のあらゆるものに勝る力を与えられました。その後、堕落によって、彼は力を失いました。彼が父なる神との関係、友情、そして交流を失った後、彼はこの力を気づかなくなりました。そして彼はそれを失いました。そして彼のすべての大きい「管」が塞がれ、彼は通ることはできませんでした。
 しかし今、アダムが神の中で持っていたすべてのものを、キリストはすべてわれわれのために取り戻されました。さて、救い主というのは、あらゆるものを元の状態に取り戻されるのです。
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そしてアダムは一度も病気になったことがありませんでした。彼は一度も死ぬことはありませんでした。一度も心配したことがありませんでした。彼は一度も頭痛になったことがなく、一度も怖がったことがありませんでした。彼はただ子どものように父なる神の腕にのぼりました。すべてが彼のものでした。そして彼が何を求めようと、彼は直ちに得ることができました。すべてが彼に従いました。なぜなら彼は神の子どもであり、そして子どもはすべてのものを相続するのです。
  さて、人が堕落すると、彼はこの相続権を失いました。そして今、彼が堕落によって失ったものを、キリストは救い主として来られ、取り戻されました。あなたは止まって、キリストは何のためにわれわれを取り戻されたのかを考えたことはありますか。主はわれわれに永遠の命を与えられました。主はわれわれを神との永遠な交流と関係の中にもう一度導かれ、われわれをもう一度神の息子と娘にされ、アダムが堕落によって失ったものをすべて取り戻されました。
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今、問題なのは、主は人をこの位置に取り戻されたが、人は堕落により、父なる神が何のために自分を地上に置いたのかに気づかなくなってしまいました。言い換えれば、われわれの脳の中の「つなぎ口」や「出口」―つまり信仰のことであるが、それはビジネスや家庭生活、そして家庭内のことで詰まってしまいました。そしてそれらの「管」があまりにも詰まってしまったので、神はこれらの「管」を通して人を作る目的を達成されることはできません。
 さて、神が人間の体を造られた時、すべての小さな部位はそれの役割があります、歯、舌、目、そして鼻などです。神はそれらのすべてを造られ、人が生きることができるように完璧に働かせられました。そして、もし神がこのように人間の体を精密に造られたならば、神はなおさらキリストの体である教会を精密に造られ、精密に運行させられるのではないでしょうか。
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もし神が人間の体を設計されたのならば、神はもちろん御自分の息子の体である教会を設計されるでしょう。神はわれわれを天の上のイエス・キリストの中で集まるようにさせ、これらの神の超自然の働き、つまり「出口」である予言、知恵、知識、そして神の癒しのような御霊の賜物をわれわれに得させます。これらのすべての賜物は神が御自分の力を放出する出口であり、御自分の黙示を人々に放出する出口でもあります。
誰かの個人としてではなく、1つの集団として、われわれは集まり、信者の大きな体になります。われわれはどのようにしてこの体、つまり主イエスの秘密の体になるのでしょうか。1つの御霊によって、われわれは洗礼によってこの体に入ります。
 さて、サタンは罪と死の法律を使って罪と死によってもたらしたことを操ります。サタンはガンを送りました。人はそれを認め、受け取りました。サタンは心臓病を送りました。われわれはそれを認め、受け取りました。
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そしてもしサタンが自分の力によって自分の法律を人の中で働かせることができるならば、神はなおさら御自分の力によって御自分の法律を人の中で働かせることができるのではないでしょうか。もしサタンが人々に自分の法律を認識させることができるのならば、神はなおさら御自分の民に御自分の法律を認識させることができるのではないでしょうか。例えば、神の癒し、黙示、力、賜物、聖霊の現れなどです。
 罪と死の法律は人々の中で働き、そしてキリストの自由の法律は来て、われわれをこれらのことから解放させます。
 だから私はこのことをかたく信じます。私は人々がこれらのことを認識するときが近づいていると思います。われわれはあまりにもたくさんの無駄な哲学、あってはならない教えなどなどを持っていて、それが人々のあらゆることに対しての考え方を変えてしまい、人々を神の御言葉から遠ざけました。
私が言い続けてきたように、信仰は断食によってもたらされるものではありません。信仰はお祈りや、読書によってもたらされるものではありません。断食、お祈り、そして読書、これらは皆良いことです。しかし信仰は人間の心にある確実な何かによってもたらされるのです。それはあなたがたが今晩この教会に来ると教えるように確実なのです。そしてあなたは奥さんに自分は集会が終わると家に帰ると言いました、無意識に、あなたは集会が終わると家に帰りました。あなたはただ外に出て、そして車に乗って家に帰りました。あなたは信仰がなければそうすることはできません。もしあなたは立てられる信仰がなければ、あなたは座っている場所から動くことができません。しかしあなたはよくこういう風に行動するので、あなたはただそれらの法律に慣れ、それが当たり前のようなことになったのです。
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さて、もしわれわれは完全に自分のことを神様に委ねることができ、自分の考えを捨てることができ、ただキリストの御心を自分のなかにいさせることができるならば、聖霊は同じように自然とわれわれを通して物事を成すことができるのでしょう。なぜならコントロールし、管理し、神のことを賛美し、神のために生きることはわれわれが創造された元々の目的です。
 さて、イエス様は言われました、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら...」
 父なる神と神の御言葉を別々にすることはできません。なぜなら御言葉は神の子であるからです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」父なる神と神の御言葉を別々にすることはできません。あなたは神の御言葉なしに神を持つことはできません。そしてあなたが神の御言葉を持っているなら、あなたは神を持っています。
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もしあなたは歴史学者のように少し戻りたいなら、あなたは御言葉を見ることができるであろう。初めに、ことばがあった。しかし、ことばはなんでしょうか。ことばは考えの表れ、言い表された考えです。神は初めにその考えをご存知であり、それを言い表されました。そしてそれはことばとなり、ことばは物質になったのです。
つまり神の御自分の御言葉によって発せられたあらゆることは一旦正しい通路に入ると、そのことについての約束はなんであろうと、物質に変わるのです。神はそれをなさいます。神は自分の御言葉に対して責任を持たれます。
そして、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら...」もしあなたは神を持っているなら、御言葉はあなたのなかにとどまります。そしてあなたは神を信じるように御言葉を信じる、なぜなら御言葉は神であり、分けることはできないのです。もしあなたは自分の中に神の御言葉を持つなら、あなたは自分の中に神のいのちを持ちます。あなたは自分の中に神を持ちます。そしてあなたを通して発せられた神の御言葉はなんであろうと、それはまるで神によって発せられたかのように成就されるのです。
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「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」あなたはそれの意味に気づいたことはありますか。イエスの御名によって神の御前に伺うのは、イエス様ご自身がお祈りされることと同じであることを知っていますか。祈っているのはもはや私ではありません。もし私は神の御名で来て、神は御自分の名を認識され、イエス様は言われた、「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」私がイエスの御名で父なる神の御前に伺うと、祈っているのはもはや私ではなく、イエス様なのです。イエスの御霊が私を通じてお祈りをされているのです。そして私は自分が求めたことを得られるのです。なぜなら、イエス様がこう言われたからです。そしてそれは神御自身の御言葉なのです。神は御自分が言われたことを必ず成就されます。
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だからわれわれは信じています...われわれは神に求めたことを得られるということをこれに基づいて確信することが出来るのです。なぜなら、神は神であるから、御自身の御言葉を取り戻すことはないのです。神は御自身の御言葉と共におられます。
 だから、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」簡単なことではありませんか。信仰が作り出したのです。われわれはその目的のために創造されたのです。そして堕落によって、われわれはその目的から遠ざけられました。そしてイエス様の救済により、私たちはふたたびそれに連れ戻されました。
 人間が初めのように優位にすべてを管理できることを妨げているのは、人間の中に造られた神の御力の管の出口が塞がれたことです。
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時々...敬虔にこのことを言います。時々、神学や教会の教義はあなたの信仰の管を塞ぎます。あなたがそれらのことは不可能だと教わるまであなたの管を塞ぎ、そして障害物を道の中に置きます。
 今夜この建物は電気によって光のエネルギーを供給されているのを想像することは出来ますか。電気は目に見えない力です。それは人に把握され、利用されています。ベンジャミン・フランクリンが初めてそれを発見したとき、彼は「それを得ました。」と叫びました。彼は自分が何を得ているのかを知りません。彼は何かを得たのです。
 しかし、それからエディソンはそれを応用しました。そして今日われわれはここから世界の至る所に向かって無線電報を送ることが出来ます。ある見えない力が周囲に向かって動き、それを捕まえられる人は誰もいません。機械だけがそれを捕まえることが出来ます。それは目で追うのには早すぎるのです。しかし今電報のエネルギーがここを通過しています。
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もし神の自然の法則である電気などを適当な容器に入れるとそのようなことが出来るならば、聖霊の力が人間の心を通過するとなおさらではないでしょうか。
 神はわれわれに電気を与えると約束されると、それらを自由にさせてしまうのではありません。聖霊が今日信者たちに約束されたことを見てください。振り返ると、神がある目的で電気をここに置かれたのが見えます。そして科学者は科学の領域に入り、それを見つけました。
 しかしわれわれはクリスチャンだけれども、鈍すぎるのです。われわれはどうしても理解できません。ええと、われわれは「お医者さんが私は回復することは出来ないと言いました。」と考えています。あなたがそう考えている限り、神の御心について考えていません。あなたは...あなたは回復することが出来ない。もしあなたが「私は死ぬのでしょう。お医者さんは私は死ぬと言いました。」と言うのであれば。私は医者を尊重します、彼は全力を尽くしたのです。
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もし彼があなたは死ぬと言ったならば、人間的に考えれば、私は同じことを信じます。しかし御言葉によると、私は信じることができません。そうです。なぜなら神は私がイエスの名で父なる神に何を求めようと、得られることが出来ると約束されたのです。そして私はそれを信じます。
 さて、もし神があの小さな管を掃除され、そこからエネルギーを送り出されることがおできであれば、何かは起きるのです。もしからだ全体が動き始めるのであれば、主のいのちは始まります...私の体の各部位が動いて、私の命が始まるとちょうど同じです。だからキリストの体のすべての部位を合わせると、神の御心は成就されるのです。私の言いたいことが分かりますか。
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教会の中には教師、使徒、預言者、癒しの賜物、奇跡、異言を話すこと、異言を翻訳すること、などなどがあります。これらのすべてのものはイエス・キリストの大なる奥義の身体の中に隠されていて、いつかは地球上で動くでしょう。私はもうじきそうなると信じています。
 道路をまたがって電線が引かれ、今晩あちこちに電気がついているのと同じように、それらは材料なのです。電線からエネルギーが出て、ここにあるようなものを生み出します。
   さて、しばしば神の地上にある身体がつながれる時...私たちは...?...私は敬意をもって電気工に言います。それは...その...水道工の仕事は良いものです。しかしわれわれは水でもって彼らを救うことはできません。あなたがたはそれは正しいことだと知っています。パブテスト派の信者にとっては良いことです。しかしそれは真実です。それは...
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もし身体が正しくつながれたら、天なる父は巨大な電源を入れ、何かが起きます。そうです。もし身体が...もし建物が正しくつながれたならです。
 もし正しく指導され、われわれの体のすべての繊維がキリストの中にいて、ただ神の御言葉に従うならば...
 もしあなたは神学や教義、そして迷信や不信仰、何かがあなたを邪魔するものを持っているなら、そのエネルギーは決してあなたを通過しないでしょう。しかしあなたは完璧につながれたのならば、大いなる電気工はそれを認め、聖霊によってそれに印をつけます。やるべきことはただ電源をいれ、そうすれば明かりがつけられる、それでよいのです。
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あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。(マタイ5:14)そしてわれわれは今晩、われわれ自身のことを恥ずかしく思い、正直に、そして謙虚にわれわれの不信仰を神に白状すべきです。そしてわれわれが自分の中でキリストの命を表わすことができないことを神にお許しを求めるべきです。神はわれわれに頼っています。
 神はこのように旧約聖書の人々とともにはいませんでした。あなたがたは気づいていません。あなたがたはときどきエリヤやモーセなどの人々を参照します。モーセやエリヤのような人々は偉大なる人で、神に任命されました。しかし彼らはあなたがたが持っているような特権を持っていません。彼らは特権を持っていません。彼らはあなたがたのようにキリストの中であらゆることを行なう力を与えられませんでした。
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彼らはこの日を予知し、抱き、そしてそれを信じ、それが来る前に来るべきことを捜し求めました。そしてわれわれは今その時代に生きているのに、それを恐れます。ほら、なんという特権でしょう。
 もし悪魔の身体が不信仰によって操られることができ、懐疑や恐怖は聖書に書かれたそれらがもたらすものをもたらすことができるのならば...それは病気、災難などのすべてのそのようなものを生み出します。
 そして人々は不信仰によってそれらのものを生み出すなら、神の力を信じる人々はこれらのことを制御し、矯正することができるのではないでしょうか。
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キリストは何のためにわれわれをお救いになったのでしょうか。どうしてわれわれをお救いになったのかを考えてみたことはありますか。どうしてキリストは救済の後に、「この人々に大きな力を与える必要はありません。彼を神の子にする必要はありません。そんなことする必要はありません。ただ彼にそれを信じ、天にあるいのちの書に名前を書くようにと言えば、それで済むのです。」と言われなかったのでしょうか。しかしキリストはわれわれにこれらの救済によって得られる祝福をお与えになり、われわれは聖霊の力によって神の仕事をすることができます。
   ヨハネの福音書15章で、イエスはこう言われた、「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。」果実はブドウの木の中にあるにも関わらず、ブドウの木は実を実ることはできないことをご存知ですか。それは枝を通さないと実ることはできないのです。そしてあなたがたは枝なのです。さて、ぶどうの木はそれのすべてのエネルギーをもっても、枝がそのエネルギーを受け取ろうとしない限り、何も生み出すことはできません。
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今、神の御自分の体の一員として、神はあなたがたが御自分の御霊の実を実ることを当てにされています。そして、もし神があなたがたを当てにされるならば、われわれは自分たちの導管を開け、今晩聖霊が来てわれわれにエネルギーを与えさせ、そしてこれらのすべての恐怖や懐疑からわれわれを解放させようではありませんか。復興が来るのです。
 「これらの力はあの時代の使徒にだけ与えられたものなのです。」と言う者がいます。私は歴史学者ではないが、たくさんの教会の歴史についての本を読みました。世界の歴史の中で、聖霊の波が教会に押し寄せた時に、復興が起きなかったのを見たことがありません。逆に、あかしの奇蹟や不思議のわざ、そして力あるわざがついてくるのを見ました。神はすべての時代の病人たちを癒され、そしてこれからも癒されることを続けます。なぜなら人々と教会は解放されること、そして聖霊が自分たちを管理することを望んでいます。
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マーティン・ルターは彼の親友のためにお祈りしたら、彼は癒されました。ヨハネ・ウェスレー... ヨハネ・ウェスレーが病人のためにお祈りした例は約二百四十件あるが、彼らは皆癒されたのです。
  彼が乗馬していた時、彼の馬は足を引きずり、彼は頭が痛かった。神は彼と彼の馬を癒されました。彼の馬は足を引きずらなくなりました。
 そしてあれからムーディ、サンキ、フィニーなどの人を通して、聖霊の波が教会に押し寄せた時に、あかしの奇蹟と不思議のわざが起こりました。
  なぜでしょう。ある人が言いました、「もし...」彼は言いました、ムーディだと思います。ムーディは神の癒しの教義を教えなかったが、彼の集会の中であまりにもたくさんの神の癒しが起きたので、彼は...彼は教会をフランスなどにあるような大聖堂に変え、そうすれば人々は来て癒されると思ったのでした。たくさんの人々は神の癒しの教義を教わっていないにもかかわらず、神に癒され、聖霊の証しをしました。もしすべてのことがあるべき所にあるなら、聖霊はそれをします。絶対そうです。
28
人々は癒されるために講壇に来ることができずにただ下で座っていて、聖霊に服従し、家に帰ったら完全に癒され、そして自分自身でさえそれに気づいていないということを私は見てきました。
 聖霊が治療者です。聖霊は今晩ここですべての命にエネルギーを与え、あらゆることをします。今、われわれは何が神の癒しの基礎なのかを見ました。時間がないので、これをしゃべったら終わりにします。これをしゃべったら終わりにしなければなりません。
 何かの間違いがあったのです。最初、神はあなたをあらゆる環境での主人として創造されました。最初は確かにそうでした、これは神の御言葉です。あなたが許可しなければ、何事も、何事も起きません。あなたはそのために創造されたのでした。
29
そうしたら罪は人の堕落によって訪れ、人々を盲目にしました。そして今、イエス様が来られてそれを贖われました。父なる神はあなたを導かれ、案内され、これらのあらゆる神が約束されたものを与えられるために聖霊をあなたに与えられました。
 教師たち、私は謙虚に言います。なぜなら私は主の御名を信じるすべての男女を愛しているからです。分かりますか。そして私は討論者ではありません。私は空騒ぎをするつもりはありません。私はそういうことを信じません。私はただ御言葉を受け入れ、そして信じます。それがすべてです。
 そして私はこれが神の御言葉だと信じています。そしてもしこれが神の御言葉なら、もし私が神の要求を満たしているならば、神は聖書に書かれたすべての約束を成就される責任があると私は信じています。そして神は聖霊によって私を御自身の御国の中にしるしをお与えになると信じています。私はそれは熱狂ではないと信じています。それに対してたくさんの熱狂者がいるけれども、しかしながらそれは熱狂ではありません、それは真理です。神は御自分の御言葉に責任を持たれ、世話され、それが成就するのを見届かれます。
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飢餓の状態にある人々よ...世界の中にあるすべての迷信は何処から来たのかご存知ですか。今日世界の中で現れたすべての迷信は、飢餓の状態の子たちのために現れたのです。飢餓の状態の子たちこそ異教の国家の中の異教徒たちが偶像を崇拝する原因なのです。それが熱狂する人々がこの国を行き渡る原因なのです。飢餓の状態の子たちは御言葉を調べ、これが正しいのか、それともあれが正しいのかを知ろうとしています。すべての迷信がそこから芽生えたのです。
 そして今日、たくさんのことはそこから起きたのです。誠実な心を持った人々は神を渇望しています...なぜならある男性もしくは女性の中には原点からの何かが来て、彼らにどこかに永遠の命があると教えています。それを偶像の中で見つけようとする人もいれば、それを聖人の中で見つけようとする人もいます。
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何週間前私はローマにある大きい教会の中にいました。彼らは私をある教会に連れて行き、そこではすべての僧侶が埋葬され、ガーデンのように作られました。何千もの僧侶が記念されました。彼らがそこに埋葬された後、遺体が腐敗し、皮膚の虫が遺体を食い荒らしました。
 そうしたら人々はこれらの骨を掘り起こし、部屋中に人々の骨や小指などの写真を貼り付けました。そして壁に沿って人の骨は頭蓋骨と一緒に縛られていました。建物全体がそれで満たされました。たくさんの僧侶は亡くなって埋葬され、彼らの骨はふたたび掘り起こされてそこに置かれていました。
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さて、私がガイドについて通り過ぎると、幾つかの頭蓋骨に気づきました、人々が通り過ぎるたびにそこで祝福を得ようと、僧侶が行ったところかどこかから何かを得ようと思い、それらの僧侶の頭蓋骨をさわることによって、幾つかの頭蓋骨は擦られて真っ白になったのでした。
建物の後ろ、つまり教会の後ろにとても印象深いものがありました。とてもふさわしいと私が思った標識があったのです。そこには「われわれは一度今のあなたがたのようであった、そしていつかあなたがたは今のわれわれのようになるであろう。」そしてそれが真実です。あなたがたに何か考えさせるものを与えます。
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しかし、これらの頭蓋骨をさわって、そこに祝福があるかもしれないと思うのは何でしょうか。どこか心が飢えている人々は頭蓋骨をさわることによって昔一度この遺体を所有していた人を感動させ、そして彼らに祝福を与えさせることができるかもしれないと思っているのです。それはただの人です。心から何かが叫び、切望し、探り、そして何かを見つけようと渇望しています。
何か正しいものがなくてはなりません、そして...もし人の心にあのような渇望があるならば、私たちはそれが始まった基礎を見て、それがどこから来たのかを見れば、正しいか正しくないかが分かります。きっとそうです。私は敬虔の気持ちであなたがたの兄弟としてこう言います。
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そして私はどなたかの信仰もしくはどの宗教をも見くびるつもりはありません。今晩ここで、おそらく、たくさんの異なる宗派や宗教などの方々が出席しています。私は彼らを皆尊敬します。しかし、病人のためにお祈りする前に、この基礎的な考えを見てみましょう。見てみましょう。
  この聖書の最後の節でイエスは言われた、最初から読みます、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら...」イエスは言われた、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ 5:24)。われわれは永遠のいのちを持っています。われわれはそれを信仰によって受け取りました。われわれはそれを信じます。
35
さて、イエスは言われた、「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」(ヨハネ14:12) 正しい翻訳は「さらに多い」です。欽定訳聖書には「大きな」と書かれていますが、「大きな」は質的な意味ではない、さらに大きいことはできない、これは量的な意味なのです。なぜなら神は全世界にいらっしゃいます。ここで働くこともできれば、イタリアで、パリでそしてほかのすべてのところで働くことができます。
 「あなたがたはこれよりもさらに多くのわざを行ないます。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしは世の終わりまであなたがたとともにいて、あなたがたの中にさえいます。」
36
われわれはクリスチャンとしてイエス・キリストはわれわれのために亡くなられたと信じます。イエスがここにおられたとき、この地球で歩かれたとき、病人を癒されたことを信じますか。全心を込めてそれを信じる方はどのくらいいますか。イエスは死人をよみがえらせました。悪霊を追い出されました。
自分は父なる神が自分に示されたこと以外何もしないとイエスは言われた。そうではありませんか。ヨハネ 5:19、イエスは言われた、「まことに、まことに、あなたがたに告げます...」
イエスはただあっちこっちに行かれ、「彼をここに連れてきなさい、私は彼を癒すことができるのを示しましょう。」と言われる方ではありませんでした。いやいや。イエスはあっちこっちに行かれ、父なる神がなすべきことを示された場所に行き、なすべきことをしました。
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イエスがこの地球におられたとき、われわれは...繰り返しになるかもしれませんが、わざとではありません。先ほども話しました。しかしちょっとだけイエスの一生を振り返って、どのような人間でいらしたのかを見てみましょう。そうすれば今日イエスがすることに検討がつくでしょう。
さて、イエスがこの地球におられたとき、彼はすべての神性の完璧な見本、神性が肉体の中での完璧な現われでした。キリストの中にいらっしゃるのは神でした。イエスの体は神のただの幕屋でした。この中で全能の神は人間の体に住みついていらっしゃいました。信じますか。救われたいならば、それを信じなければなりません。
38
イエスは神御自身として人々に対する愛を表わし、地球の罪を取り除くためにこの地球で肉体として現われました。イエスは御自分の肉体を死なせることができるように、御自分の肉体に病気を負わせることができるように、ここに来られました。その呪いはあなたがたにかかるべきだったけれども、イエスはあなたがたが再び父なる神との完全な交流の中入ることを贖うことができるようにその呪いを御自身で受け、一人の人間として亡くなられました。なんてすばらしいことでしょう。
イエスがなさったことは何なのか、われわれの心は想像することもできません。われわれは鈍すぎます。われわれの心は怠けています。バルブは閉められました。不信仰、恐怖、そして懐疑によって麻痺させられました。聖霊がバルブを開けさせて機能させることができるまで聖霊にわれわれの生活を支配させなければ、それは本来のように自由に流れることができなくなります。分かりますか。そうすれば見ることができます。そうです。それは父なる神なのです。
39
無意識にあなたの信仰はそこにあるのです。あなたは自分がこれをするのに十分な信仰があるのか、あれをするのに十分な信仰があるのかを心配する必要はありません。何が起ころうと信仰はそこにあるのです。あなたはただそれをするのです。なぜなら父なる神が言われたからです。そしてそれはあなたのなかにおられる生ける御言葉です。神はあなたの中におられ、キリストの中におられたときのように御自身を表わされます。「キリストの中におられたときのようにですか。」と言うかもしれませんが、そうなのです。
 イエスは言われた、「あなたがたは、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに多くのなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」それは神の御言葉です。ヨハネ14:12にあります。神はその約束を与えられました。それは感動を受けて書かれたということを皆さんは信じています。
 「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしは使徒時代の終わりまであなたがたとともにいます。」なのか?いいえ、そうではありません、「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいて、あなたがたの中にさえいます。」ヘブル 13:8にこう書かれています、「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、おなじです。」
40
神が地球上におられたときは何でしたか。人でした。謙虚で、卑しく、飼葉おけにお生まれになられました。われわれが知っている限り、イエスはどの学校の素晴らしい、良い教育をも受けたことがありません。イエスが御自分の故郷に来られた時に、彼らはイエスがどこでこの知恵を得られたのかを知りたがっていました。なぜならそこの人々は言ったのでした、「彼はどの学校に行ったのか。どの神学校の出身なのか。」彼らはそれに対して一切知りませんでした。「ここの大工の息子、農民ではないか。」
 イエスはどの人の訓練をも受けませんでした。12歳であの知恵を持っておられました。どの教師の知恵にも勝っていました。神の御力をもち、知恵で物事を行なうのは、世界の、地上の教育を持つのとは違います。
 神は賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださるからです。(マタイ 11:25)だから神学校や学校を通してそれを見つけようとする必要はありません。どうしても絶対見つからないからです。それは神がそれを現わされたときだけ知ることができる隠された秘密なのです。もしそれを見ると、本当であることが分かります...
41
さて、イエスをちょっと伺ってみましょう。イエスが地球におられた時、ある男、ピリポは来て、そして贖いを得ました。彼は友達ナタナエルのところに行って教えました。彼はナタナエルを祈りの会か何かの集まりに連れて行き、おそらく聴衆の中かどこかに立っていました。
 しかしながらイエスは見てナタナエルもしくはどこかの別のところに目を留められました。彼はおそらくお祈りの列かどこかにいました。イエスは言われました、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
そしてナタナエルは言いました、「先生、いつから私をご存知なのですか。」
イエスは言われました、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」なんと驚くべき事でしょう。ナタナエルは言いました、「おお、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
イエスは言われました、「わたしが言ったので、あなたは信じるのですか。」イエスは言われました、「あなたはそれよりもさらに大きなことを見ることになります。」
42
「さらに大きなこと」は光を信じてその中で歩く人にだけ約束されています。だからもしあなたが光を拒絶すれば、一つのものだけが残されています、闇です。分かりますか。だから光があるうちに...
 イエスを注意して見てみます。イエスはベテスダを通る時に、不具者たちや足の不自由な人たちはそこに横たわっていたが、イエスは御自分のことを治療者だと主張しませんでした。ただ木の台か掛け布団の上に横になっている人にこう言われました、「癒されたいですか。」
 聖書によればイエスはその人がそこにいることをご存知であり、そこに38年間横になっていたことをご存知です。それは昨日のイエスです。そうでしょう?イエスはその男が38年間そういう状態であったことをご存知でした。イエスは言われました、「癒されたいですか。」
43
どうしてイエスがその池を通られた時に癒されたのは盲目の人や、足の不具な人、足が不自由な人、病気で痩せこげっていた人ではなかったのでしょうか。どうしてイエスは彼らを皆癒されなかったのですか。イエスはこのことを19節で説明しています。
 イエスは言われた、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」私が言いたいことが分かりますか。
 その女性がイエスの服に触ったとき、イエスは一度も「私はあなたを癒しました。」と言われませんでした。イエスはこう言われました、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」彼女のイエスに対する信仰がこのことを起こさせたのです。
44
使徒ペテロとその影がその病人のところを通ったときに、その影が病人を癒したのではありませんでした。彼らが使徒を信じる心こそが神に近づくための接触点になったのです。
 イエスが地上におられた時、これらのことを約束されました。見てください。イエスはまさにこれらのことをなさいました。イエスは一度も誰かを癒すと言われませんでした。御自分はただ父なる神が幻によって示されたことのみをすると言われました。しかしイエスはわれわれが皆知っている力をお持ちでした。イエスは立たれたときに聴衆をご覧になって、ある人に対してある事柄をおしゃることができます。
 例として、イエスの服を触った女性が挙げられます。何かがイエスから出たのです。イエスが何かが起きたとお気づきになるのに何かの方法があります。このことを分かれば良いなと思っています。
45
イエスは何かの力をお持ちです。このような言い方をしましょう。イエス、この救世主はわれわれをアダムの罪よりも前の状態に贖われました。イエスが地上におられた時は神の息子の規範として、聖霊の最初の居住所としておられました。その後イエスはたくさんの子たちを神の御前に連れて行くことがおできです。イエスがここにおられた時、聴衆の中に、ある人が信仰を持っていると、イエスはその人に向いてその人の名前を言われることができる力を持っておられます。
ある女性がイエスの服に触りました。それは彼女を満足させました。彼女は聴衆の中に戻りました。彼女は自分の長血が止まるのを感じました。だから彼女は聴衆の外に出て、そこに立っていました。
46
イエスは周りをご覧になって、聴衆を見回され、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われました。イエスは「わたしにさわったのは、だれですか。」と言う必要はなかったのです。何があろうとイエスは彼女を見つけることがおできです。だからイエスはただ聴衆を見回され、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われました。彼女は何事もなかったかのように見て立っていました。イエスは言われました、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」分かりますか。それは昨日のイエスです。
 あなたがたに尋ねたいことがあります。主が地上におられた時、あのような生活を送っておられました。あのような仕事、父なる神の仕事をされました。イエスは言われました、「わたしは神の御心を行なうために来ました。わたしは父なる神の御心を行います。」イエスは昔のように神の御心、神の御言葉を成就するために来ます。そして神はイエスの中におられ、御自分が人々に対する願望を成就します。
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イエスは言われました、「わたしが行った後、父なる神は聖霊のかたちでこられます。この世の終わりまで、あなたがたとともに、あなたがたの中におられます。あなたがたはわたしの行なうわざを行ないます。」聖書にそう書かれているではありませんか。
 尋ねたいことがあります。もし今晩イエスが私が言ったような様式で来られたら...私はあなたがたに尋ねたいことがあります。イエスは亡くなられ...私はあなたがたに今晩ベッドの上でそれについて考えてほしいです。
 イエスが地上に肉体の形でおられた時、病人を癒す力をお持ちでした。イエスは幻をご覧になる力をお持ちで、父なる神が与えられることをなさいました。イエスはわれわれの身代わりになられて苦しみ、亡くなられ、埋葬され、そして復活されたが、その後イエスは御自分が持つ力を失われましたか。イエスは神に服従され、苦しみ、亡くなられ、埋葬され、そして復活されたが、その後イエスは神の与えられた力を失われましたか。さらに多くの力を得られたのではないでしょうか。そうです。
48
マタイ19:18でこのように書かれています...マタイ28:18のことです。イエスは言われました、「(イエスが復活された後)わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」イエスは御自分の力を失われなかった、むしろさらに多くの力を得られたのです。そうではありませんか。もしさらに多くの力を得られたのであれば、さらに多くのことをなさることがおできです。
今日イエスは教会の中に生きていらっしゃいます。それを信じますか。イエスは昨日、今日、いつまでも御自分がされた仕事はわれわれもすることができ、さらに多くのことをすることができると約束されています。それは真実だと信じますか。今晩われわれは何の信仰の基盤を持っているのでしょうか。
友よ、まず、あなたがたの中に神の癒しを信じない方がいるかもしれません、神の力を信じない方がいるかもしれません。最初、あなたがたはすべてを管理するために生まれました。罪は...
49
伝道者たちに尋ねてみたいと思います。病気を取り扱わずに罪を取り扱うことはできますか。病気を取り扱わないならどの分野からも罪を取り扱うことはできません。病気は罪の一つの属性だからです。病気やほかのすべての属性を取り扱わずに、病気、いや、罪を取り扱うことはできません。罪は主な...それは蛇の頭です。頭を殺すと、体を殺すことができます。頭を殺さずに体を殺すことはできません。
 だからもしイエスはただわれわれを癒すために来られ、われわれを贖われなかったら、われわれは贖いについてなにか言うことがあります。しかしイエスは魂を贖うために来られました。それは頭です。そして頭を殺すと、残りの体を殺すことができます。だから取り扱わずに...
50
イエスはただわれわれを罪から贖われ、それに伴う病気やあらゆる物、そして死からわれわれを贖われないことはおできになりません。イエスはわれわれを死から贖われました。そしてわれわれは死なないのです。聖書の中でクリスチャンが死ぬと書かれたところは一つもありません。われわれは永遠のいのちを持っていて、死ぬことはできません。最後の日に神はわれわれの体を蘇らせると約束されました。この保障でわれわれは安らかに眠ることができます。
 われわれは贖い、幸福、喜びを持っています。これはわれわれの贖いの証拠であり、われわれのいつかの日においての完全なる救いの証拠です。来たるわれわれの不死の体の証拠として、われわれは神の癒しを持っています。
 イエスの死によってもたらされた属性をわれわれのこの古い、罪で呪われた肉体で受け取った時に、それはわれわれを取戻され、いのちの中にふたたび取戻されました。われわれに川の向こう岸にわれわれがいつか行くであろう土地があることを証明し、その完全なる再びのエデンの園には病気も、悲しみも、死もありません。主の祝福がありますように、私の友よ。
51
私があなたがたシカゴとその周りに住む方々に言いたいのは、イエスは死からよみがえられ、昔イエスがなさったことは、今もなさるということです。
 あなたがたにわたしの信じることに同調するようには言っていません、私はどの教会にも属さないからです。わたしはどの宗教的な教会にも属しません。どの宗教的な教会とも対立するつもりはありません。
 しかしあなたがたにこのことだけを言っておきます、自分は宗教信仰のあるクリスチャンだとしか思っていないなら、奥義を見ることはできません。自分の教会にいても大丈夫です。しかし神の御霊から新しく生まれてください。そうすればあなたの心と魂の奥深いところのバルブは神があなたになってほしい完全なかたちに向かって開けることができます。クリスチャンとしてその宗派の中にいれば、あなたは良い行いをすることができます。もしあなたの牧師は聖霊に満ちた方ならば、あなたを賞賛するでしょう。
52
主イエスが今ここに来られますように。私は十分話しました。話しすぎました。しかしあなたがたにわれわれは聖書をベースにしていることを知ってほしいです。これはあなたが今まで聞いたのとちょっと違うかもしれません。あなたは何日か前の夜にここにいた人々が...わたしが話し終わる前に、このことを思いつきましたので言います。ある神の癒しを信じない宗派に属する人がいました。私は小さなお祈りの集会にいました。彼は私をつかまえて、こう言いました、「もしあなたは神の栄光のために主に仕えるしもべなら、神の栄光のために私は自らそれを見るでしょう。ここに体が不自由な小さな娘がいます。私の前に彼女を癒して立たせなさい。そうすると私は信じるでしょう。」
 見てください、この人は堕落した人です。伝道者であるにも関わらず、堕落したのです。同じ霊が「十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから。」(マタイ27:42)と言ったのを彼は気づいていませんでした。
53
隣の部屋にある罪人が座っていました。だから私はその罪人をそこに連れてきて、彼にこう言いました、「さて、この哀れな堕落した罪人がここにいます。神の栄光のために、今晩彼の魂を贖ってあげてください。もしあなたが彼を贖うことができるならば、私は彼女を癒すでしょう。」そうです。「この人を贖ったら、私はあの人を癒すでしょう。」できません。そうです。絶対無理です。
 彼はその男を贖うことができないのと同じように、私もその体が不自由の娘さんを癒すことができません。しかし、イエスはその娘を贖われることがおできです。そしてイエスはその男を贖われることもできれば、その娘を癒されることもできます。そうです。それは人によるものではないからです。われわれはただの道具です。われわれが自分自身を完全に神に託せば、聖霊が話された時に神の黙示がわれわれの唇を通して発せられます。そしていかなる神の賜物も...
54
ここにいらっしゃる多くの伝道者は自分はすらすらと、はじけるように伝道をすると言いたくないでしょう。あなたがたはそれは霊感によるものだと言いたいでしょう。私はそれを信じます。もちろんです。そのメッセージを話すには聖霊が与えられる力が必要です。そうでなければ、あなたは成功しません。
 ある男はチャールズ・フィニーなどの伝道をそのまま真似して教えました。同じ伝道をチャールズ・フィニーは前夜に聖霊の感動を持って教えました。前夜の同じ伝道において、何百人もの人々が祭壇に行きました。分かりますか。
ここで違いが出るのです。霊感によるものでなければなりません。聖霊によって油注がれなければなりません。癒しも同じです。神の癒しの賜物を通して何かが起こるはずです、それは聖霊で人々が信じるのに力が与えられます。
55
イエスは今晩ここに来られ、御自分が聖書の中でなさったことをなさり、私がイエスについての主張が本当であることを証明されます。私が真実ではなく、イエスが真実であり、私はそれを伝えます。
 誰もが自分が好きなようにあなたにあらゆることを伝えることができます。あなたはそれを信じる必要はありません。しかしもし誰かがあなたに何かを伝え、神があなたにそれは真実だと証明されたのならば、御言葉によれば、あなたは信じたほうが良いでしょう。それはするのに良いことです。神の祝福がありますように。お祈りしましょう。
  父なる神よ、長い間教えていました。およそ40、45分間の間、人々に彼らがここにいる目的が見えるように教えました。仕事に出かけ、夜家に帰り、食事をして、寝て、翌朝新聞を読み、ふたたび仕事に出かけるのは彼らの目的ではありません。日曜日朝に教会に行き、伝道を聞いて、家に帰り、仕事に出かけるのも彼らの目的ではありません。父なる神よ、われわれは主の道具です。主は彼らを正しい場所に贖われました。あらゆることにおいて、人々が正しい心で主を信じるように。
56
ああ、お祈りしましょう。父なる神よ、主は今晩御自分の聖なる存在でわれわれに力を与えられ、主の息子である主・イエスを遣わされました。イエスはこの約束をされました、いましばらくで世はもう主を見ることができなくなります。しかし、われわれは主を見ることができます。主は世の終わりまでわれわれとともにおられ、われわれの中にさえおられます。今晩、われわれは主を信じます。
  これらを通して...これらの親愛なる聴衆はこの部屋の中で座り、主・イエスご自身が近くに立たれていると信じ、主がおられなければ1匹のすずめでさえも道路に落ちないことを知っています。
 彼らは主が約束されたことを実行されることを知っています。だから、父なる神よ、私は自分を値しない器として、この弱い私を主にゆだねます。今晩私のすべてのバルブをお開きになるようお願いいたします。私だけでなく、今晩この建物の中にいるすべての人のバルブをお開きになるようお願いいたします。彼らの心の泉が開きますように、聖霊が栄光を伴って波打ってその中に押し寄せるようにお願いいたします。イエスが死から蘇られ、今晩われわれの中にお立ちになられていることに人々が(編者注:空白の録音)気づくようにお願いいたします。
57
主よ、叶えてくださるようお願いいたします。私は自分自身を主にゆだね、主が昔地上におられた時になさったことと同じようなことを叶えてくださるようお願いいたします。神の黙示の中で神が病人を清められる。このことが今晩起きて、人々が喜んでここを出て家に帰るようにお願いいたします。盲人の目が開かれ、耳が聞こえない人が聞こえるようになり、口のきけない人が話せるようになり、足が不自由な人が歩けるようにお願いいたします...(編者注:空白の録音)
 さて、Jの1番のカードをお持ちの方いますか。ええと、何人かの人を並ばせるつもりです。Jの1番、このカードの裏側を見てください。裏側に番号があります。Jの1番をお持ちの方、手を挙げることができるなら挙げてくださいますか。1番の方?2番の方、手を挙げてくださいますか。2番の方?3番の方?2番の方?よし、ここでお並びください。1、2、3、番の方?4番のカードをお持ちの方、手を挙げてくださいますか。この婦人ですか?この婦人です。5番、5番をお持ちの方?そこにいる紳士です。6番、6番をお持ちの方?そこにいる婦人です。7番の方?7番の方?はい、この婦人です。8番、8番をお持ちの方?8番の祈りのカードをお持ちの方?手を...8番ですか?はい、この婦人です。9番、9番をお持ちの方?9番の祈りのカードをお持ちの方?手を挙げていただけますか。9番をお持ちの方?9番をお持ちですか、旦那さん?案内係さん、下に行って、少しの間彼らの手助けをしていただけますか。10番、10番をお持ちの方?手を挙げていただけますか。どなたであろうと手を挙げていただけますか。10番の方?はい、こちらの婦人です。11番の祈りのカードをお持ちの方?11番の方はこちらです。よし。12番の方、手を挙げていただけますか。12番の方?こちらの婦人です。よし。13番の祈りのカードをお持ちの方、手を挙げていただけますか。私自身が見えないだけなのでしょうか。
58
隣に座っている方を見てみてください。耳の聞こえない方かもしれません。立ち上がることができない方、それとも手を挙げることができない方かもしれません。自分の近くにいる方々を見回してみてください。起きることができない体の不自由な方かもしれません。13番の祈りのカードをお持ちの方、ここにいますか。みなさん自分のカードや隣にいる方のカードを見てみてください。担架で横になっている婦人がいます。そちらの奥さん、彼女の番号を見てくださいますか。13番ですか。あっ、それは...はい、13番のカードをお持ちの方はいませんね?分かりました。14番、14番をお持ちの方?14番の祈りのカードをお持ちの方、手を挙げていただけますか。14番?15番?15番の祈りのカードをお持ちの方、手を挙げていただけますか。16番?16番の祈りのカードをお持ちの方、手を挙げていただけますか。17番の方?はい。17、18番の方、手を挙げていただけますか。18番の祈りのカード、18番の祈りのカードをお持ちの方、手を挙げていただけますか。18番の祈りのカード...番号を呼ぶときに、自分たちの番号を見てみてください。起き上がれない方かもしれません。耳が不自由で聞こえず、自分たちの番号が呼ばれたときに知ることができない方かもしれません。
18、19番、19番の祈りのカードをお持ちの方?手を挙げてください。18、19、20番の祈りのカードをお持ちの方?私は速すぎるかも...はい、試してみます...分かりました。はい、旦那さん、分かりました。
59
さて、われわれが...しばらく待って、見てみて...少し後でまた呼ぶかもしれません。その間、番号を見回してください。来るならば、13番、18番、そして19番の方だと思います。20番ですか?はい。分かりました。彼らに来させてください。もし外にいるなら、列の中に入らせてください。
 そこにいる方で、病気の方はどれくらいいますか。祈りのカードを持たない方はどれくらいいますか。祈りの列に入ることができない方はどれくらいいますか。あなたがたは祈りのカードを持っていません、神に自分の病気を癒していただきたいのですか。手を挙げてください。ただ手を挙げてください。はい、分かりました。
60
親愛なる友人、話したいことがあります。私がブランハム兄弟であることを忘れてほしいです。主イエス・キリストがここであなたとともにおられることを信じてください。私はあなたがたの兄弟に過ぎないのです。主イエス・キリストがここであなたとともにおられることを信じてください。座って信じますか。そうしてくださいますか。
 ただ座ってこう言ってください、「主イエス、私は本当にそれは真実だと信じています。私はその人が真実を話したと信じています。なぜなら彼は主の聖書の中から読んだからです。それは真実だと信じます。主よ、その人は私のことを知らないのは知っています。あの長血の婦人やエリコ門にいた盲人、バルテマイにイエスを振り向かせたように、どうかあの人を私に振り向かせて、そして『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。』と言わせてくださいませ。彼を私に振り向かせ、主イエスがあのかわいそうで卑しい方におられますようにと言わせてください。もし彼が主を代表しているのならば、私は主にお祈りし、お願いをします。私はそれを信じます。私は癒されたいです。あの人を私に振り向かせ、私が知りたい何かなどのことを教えさせることができる十分な信仰を与えてくださるようお願いいたします。」ただ主にお祈りをし、しるしやそれらしきものを求めるようにしてください。
61
われわれは…われわれは今しるしを持つ必要はありません。覚えてください、邪悪で淫乱な世代はしるしを探し求めます。友よ、われわれはあまりにも教育を受けたため、超自然的なことから離れるように教育されてしまいました。その通りです。
 イエスは言われました、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」われわれは決してしるしを探し求めていませんが、神は常にしるしとともにおられます。聖書の「創世記」から「黙示録」までの教会はみなしるしが伴っていました。しるしがない時に、神はいません。
  神の祝福がありますように。あなた方に聞きたいことがあります。聖書に書かれたイエス・キリストの生活をあなたがたはご存知です。イエスが父なる神が示されない限り奇跡をなさらないことや、ピリポに話したこと…イエスは井戸のところにいた婦人に彼女は何人の夫を持っていたかを教えられました。そのことはその婦人をびっくりさせました。
62
もし今晩主イエスがそれは真実だと示されたら、イエスを自分の主そして贖い主として受け入れますか。もしそうするなら、手を挙げて、「そういう時私はすぐに信じます。それがふたたびなされた時に、私は自分のすべての懐疑を置いて、それを信じます。今、それのために、主イエスが…」
 あなたがたが知っているように、私は昨晩インドのことについてあなたがたに話しました。今いかなる挑戦があるのかを見てください。私が主がなさろうとしていることが見えるように主が集会の中に何かをお与えになるまで待ってください。そしてその挑戦を見てください。分かりますか。同じようにこの挑戦を見てください。分かりますか。それは主は挑戦だということではなく…しかし今は神がわれわれに何かをしなさいとお教えになる時です。われわれはそう信じています。
63
われわれはこの聖書は真実だと信じています。この側面でわれわれはそれを越えることはできません。私の力でそれをするのではなく、いかなる人の力でもそれをするのではありません。神の力でするのです。そして神は何かの方法で人間に御自分をお示しになり、彼に信仰をお与えになります。
 ここに主があなたをお癒しになると書かれた御言葉があります。もし主が御自分はあなたをお癒しになられたことをあなたに示されたならば、あなたはこの祈りの列に来ないでしょう。あなたはそれを必要としません。もう済んだことです。主が御自分はそれをなさるとあなたに示されたとき、あなたは神の御言葉の黙示以外なにもほしくはありません。
  主の祝福がありますように…もしピアノ演奏者がそこにいるなら、親愛なる兄弟よ、ゆっくりと「信じるのみ」の歌を弾いていただけますか。ありがとうございます。しばらく静かにしてください。
64
祈りの列はたいてい…どのぐらい長く続くか分かりません。私は急いでシカゴを離れようとはしていません。私はここにい続けたいです。神はシカゴで何かを起こそうとしています…この伝道者は20年間もここで待ち望んでいました。私は毎回ここに来るたびに何かの奇妙な感動を感じます。それは何なのかは分かりません。それを知りたいです。もし神の御心であれば、神が導いてくださるまでここにいたいです。
 主よ、今晩われわれは礼拝を始めました。一日目の夜はちょっと長くなりましたが、われわれは急いでいません。父なる神よ、すべての人は自分の席に座って待っています。主のことを愛しているためにここにいるのです。父なる神よ、それがわれわれが待っている理由です。主のしもべが話しているためではありません。主の御霊が彼らの上におられ、彼らを惹きつけて、彼らをとどめさせているのです。
65
父なる神よ、われわれ一人一人が探して、カーテンの後ろにある何かを見つけようとしています。われわれは自分たちがあるところから来て、あるところに行くであろうことを知っています。われわれはそれについて、もっと知りたいです。父なる神よ、今晩それをわれわれに表わしてくださいますか。ここで御自分をお表しになってください。
 あの日パンを分けてたようなことを今晩もなさってください。そうすれば人々はそれはイエスだと知ることができます。あの時エマオスにいた弟子たちが、主がパンを分けたとき、彼らはただ一人があのように分けることができると知っていました。今晩この建物の中で主のやり方で物事をなさってくださいますか。主が地上におられた時になさったことと同じようなことをなさってください、そうすればわれわれはそれに感謝いたします、父なる神よ。
66
神の賜物は主が与えられたものです。そして天使によって私に伝えられました。この賜物によって主イエス・キリストが称えられるように、私は自分自身を主の御手にゆだねます。主の御名によってお願い致します。アーメン。
 私がいつもこう感じながら集会に参加できることを願います。主は今ここにいます。なんという感じでしょう。ああ、私がどれだけ望んだものか…私が戻ってきてから初めて…
 さて、みなさん本当に敬虔でいてください。信仰をもってください。信じてください。ここを見てください。ジョセフ兄弟、あなたとビリとあなたがたは時間に気をつけてください。私は神が今晩何かをなさるつもりであることを感じています。主の御霊が…
67
昨晩の人々と黙示と幻を覚えていますか。これが希望です。これが信仰です。これが完璧です。主はこう言われます。今私は自分がこの領域の中にいて、神が今晩何かをなさるつもりであることを感じています。私は何か良いことを感じています。主の祝福が今われわれのところに来られますように。
 さて、私が自分を道具、あなたがたの兄弟として自分を聖霊に捧げられるようにお祈りしてください。そうすれば主はいらして、この体で御自分が愛する御子を現わすでしょう。なんという名誉でしょうか。私は本当に値しないのですが、しかし誰がそれに値するのでしょうか。イエス・キリストの血がわれわれをそうしてくださいました。われわれはこの恵みに値しません。
 こちらがお祈りをすべき婦人だと思います。そうですか、奥さん?あなたのためにお祈りするつもりです。こちらに来てください。
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さて、ここにいる皆さん、もしあなたがたが祈りのカードを持って列に並んでいるのに、まじめに心を込めて信じないのであれば、祈りの列に来ないでください。なぜなら覚えてください、そうすると恐ろしいことがあなたの身の上で起こりかねないのです。信じてください。あなたがたはこれらのことを聞きましたね。
 技術職員、できるならば音量を上げてほしいです。なぜならもし幻がここで起きはじめるのであれば、私は自分はどのぐらいの声でしゃべるのかが分からないのです。もし可能であれば、あなたがたの何人かに私を押したり、突いたりしてほしいです。なぜなら今私はこの婦人がここに立っていることを知っていて、あなたがたが新聞で写真を見た主の御使いが...それをいくつか持って来ました、後で差し上げます。彼は今ここにいるのです。
 さて、祈りの列からここに来る時に、こっちを見て、私の質問に答えてほしいです。私の質問に答えるだけで大丈夫です。そうすればあなたはそれが正しいかどうかを判断することができます。
69
さて、私の前で立っているこの女性はまったく見知らない人です。私は彼女のことを知りません。そして私は、おそらく、一回もあなたに会ったことがありません。私たちは会ったことがありません、そうでしょう?私たちはお互いを知りません。私は接触点としてこれだけ言います、姉妹。言い換えれば(分かりますか)、説明できないことが起きはじめています。それは超自然的な何かです。それは私の知っていることを越えました。しかし何かの理由であなたの身の上で何かが起きたに違いないのです。私の身の上で何かが起きました。さて、もしあなたがわれわれの主、贖い主の御前に立っていたのならば、もし父なる神が主に示されるのであれば、あなたの問題やなぜあなたがここにいるのか、主はすべてご存知でしょう。そうでしょう?主はおしゃることができます。しかし主は...
 私が「私の質問に答えるだけで大丈夫です。」と言ったのは時々幻が起きた時に、私は話し続けていて、そして私自身がそれを知らないのです。いつか私はテープでそれを聞きます。後ろにいる方々は何かを言おうとしましたが、私は分かりませんでした。私はまだ幻の中にいました。なぜならそれは私をどこかに連れて行き、私は見たことを話さなければならないからです。そして私は戻ってきます。あなたがたがこれらのことの裁判官です。
70
もし神があなたの人生の中の何かを知ることがおできであれば、あなたはそれは正しいか正しくないかを知ることができます。私は知りません。しかし主が超自然の方法でここにおられ、あなたの生活で起きたことを知ることがおできであり、それは何なのかを教えることがおできであれば...もし本当にそういうことがあるならば、あなたに教えることは真実です。そうでしょう?
  さて、主がそうすることをお望みなのかどうか、私は知りません。しかし、気づきましたか。このようにあなたと話すと、ほかの信者も分かることができます...
  あるときイエスはある女性に飲み水を持ってくるようにと言われました。主はただある目的で彼女をお呼びになったのでした。彼女と話すためでした。彼女と長い間お話しをされた後、主はまっすぐに問題点をおつかみになりました。主は言われました、「行ってあなたの夫を呼んできなさい。」
 彼女は言いました、「私には夫はありません。」
 主は言われました、「あなたが5人の夫があった。」
 彼女は言いました、「あなたは預言者だと思います。」
71
主は—主は…彼女は主に言いました、「私は、メシヤが来られることを知っています。その方が来られるときにはいっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」しかし彼は誰でしょうか。彼女は言いました、「あなたは預言者に違いありません。」注意してください。心の秘密を知ることはメシヤのしるしです。聴衆たち、そうではありませんか。(編者著:聴衆は「アーメン」と言いました。)その女性は井戸で言いましたから、「メシヤが来られた時、彼はこれらのことをご存知でしょう。メシヤが来られる時...」それはしるしです。神の存在を示すメサイアのしるしです。
  そのことを読心術や魔術と呼ぶ人たちには何が起きるのでしょうか。私は分かりません。しかし主はその女性に話しかけて彼女についての何かをお分かりになりました。
72
さて、私はあなたのことは知りません。そしてあなたも私のことは知りません。しかしながらここにおられる聖霊があなたが真実だと知っていること、そして私が知らないことを示されるでしょう。そうしたら私があなたのことを知るための何らかの方法を持っていることが分かるでしょう。そうではありませんか。それは主イエス・キリストだと信じますか。信じるでしょう。聴衆も同じく信じますか。信じるならば、手を挙げてください。主が叶えてくださるように、これは私の祈りです。
 私がなぜ長引かせて、待っているのかを不思議に思うでしょう。それは私の周りにいる霊です。分かりますか。至るところで。それは、それは...たいていの場合、もし私が患者と単独にいることができるなら、違ってくるのでしょう。しかし今私の後ろに列ができています。一列の人がいます。彼らはここから外まで並んでいます。彼らはこの周りに、私の後ろ、至るところにいます。至るところに霊があります。
73
そしてたった一つの霊を見つけるには…おそらく私はこっちを見るとちょうど誰かがここに座っているのが見える。分かりますか。それは違ってくるのです。神が御自分の最高の恵みで何かをなさらなければなりません。神が権利を握られます。私はそれを支配することはできません。それは...
しかし私はあなたを見ました...この婦人のそばには、ある男性が立っています、彼は病人です。彼はあなたの主人ではありません。彼はあなたの家族の友人です。ただの友人です。そしてクリスチャンです。そして彼は...私は彼が支度して、ある医者がすでに彼を診断して、彼に何かの飲み物を与えるのが見えました。そしてそれが彼の胃の中に入っていきました。それは胃潰瘍を起こした胃です。彼は手術台に上がり、手術はすぐに始まりました。あなたは彼の代わりに来ました。それらのことは正しいです。そうではありませんか。もし正しいなら、手を挙げてください。
 もしここにおられる主があなたが望むもの、それはあなた自身のためではないけれども、それをご存知なら...それは誰かのためです。主はわれわれの望みを叶えることがおできになりますか。今主は死から蘇られたと信じますか。主は今昔と同じ強い力をお持ちです。聴衆も同じことを信じますか。(編者著:聴衆は皆「アーメン」と言いました。)
74
われわれの天におられます父なる神よ、私は代わりとしてこの婦人に私の手を置きます。なぜなら彼女はクリスチャンの身分としてある人を代表してここにいるからです。主はわれわれを代表されています。主はわれわれを代表して罪人として亡くなられました。癒す者としてわれわれの病気を代わりに負ってくださいました。そして、父なる神よ、ある日主は不死の命として復活の中でわれわれを代表されました。われわれはこれに感謝いたします。この婦人が代表している人のところに行く時、その人は死なずに、イエス・キリスト、神の御子を通して回復するようにこの婦人を祝福します。アーメン。あなたの友人に教えてください...あなたのハンカチ、今あなたが手に持っているハンカチ、それを持って、彼の上に置きなさい。
 聴衆は全能の神の御力にびっくりしたはずです。われわれが平然としてこれらのことを眺めていられるならおかしいです。
75
前に来ていただけますか、奥さん?私たちは会ったことがありません。そうではありませんか。私はあなたのことを知りません。一生の中であなたを見たことはありません。しかしながら今晩あなたはここに立っていて、私もあなたの前に立っています。私たちはともに全能の神、父なる神の御前にいます。
  私は主のしもべ、そしてこれらの人も主のしもべだと信じますか。私たちは皆クリスチャンです。主の偉大なる身体、主イエス・キリストの神秘な身体、つまりこれらのクリスチャンが、今晩ここに集まっていることを信じますか。あなたはクリスチャンです。私は誰かが横になろうとしているのが見えました。それは女性です。そして彼女は転びました。あなたは意識を失う、あるいは気を失う症状を持っています。私はあなたがあるドアを通って、そして転んだのが見えました。それは網戸でした。あなたはそこから転んで、足首、左の足首を負傷しました。彼らはあなたの足首にゆるく包帯を巻きましたが、直りませんでした。そしてあなたはもし自分が講壇の上に上がることができるならば、イエス・キリストはあなたをお癒しになると思いました。それは真実です。もし本当なら、手を挙げてください。
76
あなたは自分は神の御前にいると信じますか。もし私は十分に主の御霊が注がれて、あなたにおそらくあなたと神以外誰も知らないことを教えることができるなら…そうすればあなたは信者になるでしょう。そうですか。
 主はこう言われました、「これらのしるしは信じるものに伴います。もし彼らが病人に手を置いたら、病人は癒されます。」これは本当ですか。それならあなたの癒しのためにここに来てください。
 ああ、神よ、父なる神よ、天と地の創造者、永遠の命の創始者、あらゆる良いことの給与者よ、私たちの姉妹に信仰をお与えになってください。主の御言葉、神の御子の復活、そして今神はわれわれとともにおられます。私は主イエス・キリストの御名によって彼女が癒されたと宣告します、アーメン。姉妹、神の祝福がありますように。
77
信仰を持ってください。あなたがたのこころのすべてをこめて信じてください。私たちは会ったことがないだと思います、奥さん。神はあなたをご存知です。あなたのすべてをご存知です。私はあなたの事を知りません。しかしあなたに何かが起きていると確信しています。おそらくあなたが来たばかりのときに思ったこととちょっと違うはずです。しかしこれは神がおられることによって起きることです。私ではありません。私はただの人です。
 そこに座る旦那さん、あなたはイエスがあなたの胃の問題を癒されたと信じますか。主イエスがあなたを回復させられると信じますか。もしあなたが心のすべてをこめて信じるなら、よろしい…赤いシャツを着てそこに座っている方、今家に帰ってあなたが食べたいものを食べてください。あなたの信仰があなたを回復させました。あなたはそれが胃潰瘍だと思っていたが、それはガンでした。なぜならここに立っている女性もガンで苦しんでいるからです。ガンはここから取り除かれました。
78
あなたはガンを持っています。それは胸部にあり、悪化しています。医者はあなたにそれはガンだと教えました。それは左側にあります。そうでしょう?今癒されることができると信じますか。イエス・キリストの御名によって、そうなりますように。神の祝福がありますように。信仰を持ってください。あなたの心のすべて、魂のすべて、すべての意志で信じてください。それは神があなたにするようにと言われたことのすべてです。そうです兄弟。ただ信仰を持ってください。
 ここに座っている私を見ているある男性のまわりにある霊が動いているのが見えます。それは別の男性と関係があること、その二人は一緒にいます。あなたはヘルニアで苦しんでいます、そうではありませんか、旦那さん。はい、そうです。そこに座っている旦那さん、そうでしょう?あなたがた二人ともヘルニアを持っています。二人とも正しければ手を挙げてください。見てください。あなた方の心のすべてをこめて信じてください。神の祝福がありますように。
おお、今信じていますか。信仰を持つべきです。
79
私たちは会ったことがありません。そうではありませんか、奥さん?しかしここにはあなたをご存じの方がおられます。それはわれわれの天におられる父なる神です。神はあなたのすべてをご存じです。
 あなたはある神経性の病気に苦しんでいます。そしてそれはあなたがここに来る目的のすべてではありません。あなたはほかの問題もあります。あなたがここ来る主な目的は、誰かのため、それはおおよそ18才から19才の若い男の子のためです。私はあなたが医者のところに行って、医者は彼に何かの…おお、それはショック療法です。その少年は神経質もしくは不安感で苦しんでいます。彼は神経過敏です。彼は人混みに行くのが好きではありません。彼はクリスチャンです。しかし悪魔は彼を縛り付けました。そして彼は教会に来るのを怖がっています。あなたは癒されました。いって彼を連れてきなさい、そうすれば彼も癒されます。神の祝福がありますように。
信仰を持ちなさい。疑わないでください。イエス・キリストはあなたを癒されます。
80
(編者著:ある男性は聴衆の中から話しているが、ブランハム兄弟は祈りの列にいる人としゃべり続けています。)旦那さん、あなたは心のすべてを込めて信じますか。あなたは私は主のしもべだと信じますか。あなたは聖霊はここにおられると信じますか。私はあなたのことを知りません。神はあなたのことをご存じです。これは我々の初対面だと思います。しかし主はあなたのすべてをご存じです。旦那さん、あなたについて何か変わっていることです。
 聴衆の中で敬虔でいてください。集会を邪魔しないでください。敬虔でいてください。あなたは家に帰って食べたいものを食べてもよいです。主イエスはそこであなたの胃の問題を癒されました。神の祝福がありますように。信じてください。神に信仰を持ってください。
81
私はあなたの周りにある奇妙なことを見続けています。それは何なのかが分かりません。ちょっと待ってください。ああ、それは壁です。それはある場所です。それは…あなたは…おお、私はあなたがあるところから来ているのを見ています。それは刑務所か何かのところです。それはインディアナ州のミシガン市です。あなたがここにいるのはあなたが神経過敏であり、あなたの奥さんはいつも何かで落胆しているためです。それはある年をとった女性についてのことです。彼女はガンで病院にいます。そしてそれは彼女のお母さん、あなたの義理のお母さんです。あなたも伝道者です。あなたの名前はリヴァレンド・マッキンニーです。それは真実です。そうではありませんか。もう今は大丈夫です、兄弟。
 全能の神、生命の創造者よ、イエス・キリストの御名によって今こちらの男性に祝福をお送りになってください。アーメン。神の祝福がありますように。憐れんでください、神よ…あなたは信じますか。神に信仰を持ってください。
82
旦那さん、あなたは真剣に私を見つめています。何か悩み事があります、そうではありませんか。それはある友達のことです。彼はガンを持っています、そうではありませんか。あなたはある小さな女の子にも気をかけています。彼女はポリオを持っています、そうではありませんか。もしそれが真実なら、立ってください。
 ああ、神よ、ここにいる我々のこの友に憐みを給え。彼は別の人の代わりにいます。彼の強い望みが主の御言葉によって叶えられますように。主よ、主は約束されました、「あなたがたは望んでいることを祈り、信じれば、どんなことであろうと叶えられます。」イエスの御名でお祈りしました。アーメン。神の祝福がありますように、兄弟。
83
その天使、その光はここにいる誰かのところに素早く戻っていきました。私の友達がそこに座っていると思います。私はフランナゴール兄弟を見ていました。それは彼だと思います。彼が私の注意力を引きつけたかもしれません。私は狂ってはいません。それはあそこにいると見られます。
関節炎を患う婦人があそこに座っています。そうではありませんか、奥さん?その光が彼女が立っていた所にあります。関節炎を患う奥さん、それはあなたに与えるものです。あなたの隣に座っているあの婦人も必要としています。彼女は腰回りに何かの異常があります。そうではありませんか。あなたは大腸炎も持っているでしょう?そうでしょう?イエスがあなたを癒されると信じますか。あなたの友人の上に手を置いてください。そしてお互いに手を置いてください。全能の神よ、生命の創造者、あらゆる良きものの贈与者よ、これらの主のはしためたちに主の祝福をお与えになってください、主よ。彼女たちが癒されるように、彼女たちの心から望むものをお与えになってください。御子であるイエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
84
分かりました。病人を連れてきてください。来てください、奥さん。その子のためにちょっと私を見てほしいです。私は主のしもべだと信じますか。私はあなたにとっては見知らぬ人です。あなたの心のすべてを込めて信じますか、奥さん?よろしい。あなたはここに来て…あなたはここの出身ではありません。この子はあなたの子どもではありません。あなたは…あなたはこの子の世話をしています。しかしあなたは甲状腺腫のために来ています。そしてあなたはこの子の世話をしています。そしてこの子は小さな姉妹を持っています。それはその子のお姉さんです。そしてそのお姉さんは目が悪いです。この子たちの母親はカトリック教徒です。そしてあなたが来る前に彼女はあなたに、もし子どもが癒されたなら、彼女は信者になると言いました。
85
頭を下げましょう。全能の神よ、永遠の命の創造者よ、あらゆる良きものの贈与者よ、この子に祝福をお与えになってください。癒しを叶えてください。主よ、イエス・キリストを死からよみがえらせた主の力が今この子の目を元に戻されるようにお願いいたします。叶えてくださいませ、父なる神よ。主の御子であるイエスを通してお願いいたします。
皆さんしばらく頭を下げて、信じてください。皆さん頭を下げて、目を閉じるようにお願います。私は子どものためにお祈りしたいです。哀れみを持つ神よ、主の祝福をこの小さな子にお与えになり、この子をお癒しになってください。イエスの御名でお祈りしました。
頭を上げても大丈夫です。お嬢ちゃん、ここを見てください。ブランハム兄弟を見てください。この子は斜視です。さて、こっちを見てください、お嬢ちゃん、ここのあたりです。今度は後ろを見てください、こっちです。こっちを向いて私を見てください。彼女の目はあなたがたと同じようになりました。大丈夫です。彼女を連れて帰ってその母親に教えてください…
86
「神を褒め称えよう。」と言いましょう。(編者著:聴衆たちは「神を褒め称えよう。」と言いました。)天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。主の恵みがここに来られますように。主のしるし、奇妙なこと、そして奇跡が人々を感動させ、人々が主はキリスト、神の御子だと知ることができるようにお願いいたします。すべての人が主を賛美するように。これらの祝福を叶えてくださいませ。イエス、われわれの主によってお祈りしました。アーメン。
  ある婦人。..その婦人はもう少しで盲目になります。イエス・キリスト以外に彼女の目の望みはありません。来て信じてください。お祈りしましょう。
親愛なる生命の主よ、私はこの姉妹の哀れみのためにお祈りいたします。なぜなら彼女の先祖はこの丘で十字架を背負って主に仕えました。そして今晩ここに彼の子孫がいます。暗闇の中でよろけながら歩いています。哀れみ深い父なる神よ、彼女を癒してくださいますか、主よ。主はわれわれに悪魔に打ち勝つ力をお与えになりました。主は約束されました。私は主を信じます。私の中のすべての神経が主を信じます。そして主よ、聖霊がすぐに来られるように今私たち二人に力をお与えください。私はイエス・キリストの御名で私たちの姉妹を縛り付けるこの盲目の霊に彼女から離れるようにしかりつけます。聴衆の方々、まだ頭を下げつづけてください。
87
今、あなたに私を見てほしいです。その霊は離れたばかりです。あなたは私の顔が見えますね…?…私の鼻を指で触っていただけますか。そうです。あなたは目が見えるようになりました。聴衆たち、頭を上げても大丈夫です。今ちょうど彼女に私の鼻を触るようにと言ったところです。そうしていただけますか、奥さん。喜んで帰ってください。あなたは癒されました、姉妹。
心のすべてを込めて信じますか。神が糖尿病をあなたから離れさせ、あなたは癒されると信じますか。喜んで帰って、「主の恵みに感謝いたします。」と言ってください。神の祝福がありますように。
旦那さん、あなたは主を信じますか。神はその胃の問題をあなたから離れさせ、あなたは家に帰って夕食を食べると信じますか。神はそうなさいました。神の祝福がありますように。
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神の癒しにとって、腎臓の問題はたいしたものではありません。神はそれを癒してくださいます。あなたは心のすべてを込めて信じますか。こちらに来てください。父なる神よ、主の御子である主イエスの御名によって、われわれの姉妹を癒してくださいませ。アーメン。行って…疑ってはいけません。ただあなたの心のすべてを込めて信じてください。あなたは得られます…
ちょっと待ってください、何かが私の前に来ました。大きい建物です。皆さん敬虔にしていてください。われわれの天におられます父なる神は何かを話されています。私はある建物が見えます。私の前に近づいてきます。それはある町の中にあります。その町はある谷の中にあります。大きい先が尖った塔がその上にあります。とても高いところです。そのような形です。去っていきました。今移動しました。あるかどに来ました。ある女性です。彼女は彼女を愛する人たちによってあるクリニックに連れて行かれています。それはメイオ兄弟のクリニックです。その女性はミシガンから来ました。彼らはある検査をするために彼女を連れてきたが、問題は見つかりませんでした。それは脳の病気です。ここにいる誰かです。ここのどこかに座っています。それは脳の病気です。彼女の状況はひどい方です。お、どこですか。そこの担架に横たわっている奥さん、神の祝福がありますように。あなたです。立ってください。ベッドを持って家に帰ってください。あなたは癒されました。
皆さん立ちましょう。全能の神よ、生命の創造者よ、あらゆる良きことの贈与者よ、これらの人々を祝福してくださいませ…