62-0318 最初の種は神の仰せのことば

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • アメリか合衆国インディアナ州ジェファーソンヴィル
  • 録音番号:62-0318
  • 年:1962
1
ありがとう、ネヴィル兄弟。休憩の間に洗礼を授けるのですね。友よ、おはようございます。ここにいることができて嬉しいです。今朝は早くから集会を始めました。いつものことですが、皆が座れるほどじゅうぶんの席がなくて申し訳ありません。ずっと立っているのは辛いですよね。それに今朝発表したように、今回わたしはたっぷりと時間を使いたいのです。長い集会になりますから、集会の途中で、席を譲り合ったり、交互に座りあったり、あるいは外にちょっと空気を吸いに行ったりして、まったく構いません。そうしたら席を交換できますから。
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今度作る会堂では、じゅうぶんな席を確保した広い建物を計画しています。今の教会では250人から300人分くらいしか席がありませんが、そこに100人多く詰め込んでいる状態です。わたしはここに来て、駐車場を探し回っている車を見かけました。やっと入り口にたどり着いても、ホールも壁もどこもかしこも、人がごった返して隙間もないくらい。それで帰っていく人もいます。主からのメッセージをすべての人に届けたいのですが。
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さて、お知らせします。12時までにお話を終わらせて、12時から休憩にします。各自で食事をしてください。この休憩時間に奉仕者やネヴィル兄弟らが、希望者に洗礼を授けます。各自食事をして戻って来たら、2時きっかりに午後の集会を始めます。
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今週はずっと祈っていました。もし、話したいことの4分の1、あるいは3分の1でも削らなかったら、とうてい終わらないでしょう。ですから、集会に来ていろいろと協力してくれたり、助けて、祈ってくれた皆さんに感謝します。
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わたしはさっき、ある老夫妻に会うことができました。何年にも渡って忠実な働きをしているキッド兄弟姉妹です。わたしが、立ち寄ってくれるようにお願いしたので、さっき寄ってくれたのです。わたしはちょっとでも会いたかった。
わたしが赤ちゃんの頃からずっと福音を宣教している先輩と語れるとは、何という特権でしょう。そして栄光ある、いにしえの福音は、道の終わりが近づくにつれてますます輝きを増しています。
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ここに置いてある祈りの布のためにも、あとで祈りたいと思います。さあ、頭を下げて祈りましょう。
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天の父よ、あなたは、「もしわたしが地から上げられるなら、わたしの元にすべての人をひき寄せよう。」と仰せになりました。私たちの人生の目的は、死にゆく世代の人々の中にあって、イエス・キリストが今も神の子であり、世界の救い主である事実を広く知らせることです。そのことを信じる人たちがいて、イエス・キリストを救い主として認めた何千もの人たちと、ともに生きていることを嬉しく思います。
わたしたちは、地上での生命が終わったら、別のいのちが待っていることを知っています。それはすばらしく輝かしいことでしょう。この世の苦労、この試練の地で経験する人生の暗がりなど数時間で過ぎ去り、今はただ軌道に乗るため、カウントダウンを待っていることを知っています。間もなく神のときが満ちるからです。長いあいだ引きとめられていた大きな腕が、やっと解き放たれることでしょう。そして神の教会は地上から離れて宇宙の彼方の地に移されることでしょう。そこには病氣も悲しみも老いも死も存在しません。主よ、だから今日わたしたちは集まってこれらについて思いを語るのです。
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この集会が、決して虚しいものでないことを感謝します。史上最大の事実として、神の子は死んでおらず、約束どおり、わたしたちのうちに永遠に生きておられることが、証明されているからです。わたしたちは世界を所有したり、何百年も若さを楽しんだりできるかもしれませんが、神を愛する人たちのために貯えられているときに比べれば、それが単なるいっときに過ぎないことを嬉しく思います。だから兄弟姉妹の注意を、かつてない、素晴らしい時刻が間近に迫りつつあるという事実に向けたいのです。主よ、そのときがやって来ようとしているので、わたしたちの心は燃えています。そのときのために準備を整えさせてください。
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ところで、一人ずつ狭い通路を入っていきます。仲間の一人を埋葬したばかりです。ベル姉妹は本人の希望で速やかに逝ってしまいました。あまりにもあっけなかったので、行って彼女のために祈る間もありませんでした。でも彼女の希望は、天に召されて、あなたがどれほど良くしてくださり、心に願うことをすべて与えてくださるかを確かめることでした。あなたは誰も取り残されません。そう約束してくださいました。
あなたを理解しない人々のために祈ります。あなたを理解するための心をお与えください。罪人に改心を、病人に神の癒しの知識をお与えください。おお神よ、聖徒らを祝福し、彼らの心をひとつに繋げてください。このテープが世界中の町や教会に届けられ、どうか、かつて誤解をしていた奉仕者の兄弟たちが、今度は理解しますように。そしてあなたの教会が準備を整えることができますように。
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そして主よ、あなたはわたしを母の胎内から取り出し、以来ずっと養ってくださり、こんにちに至っています。恵みによって、わたしが貫いてきた行動の理由を人々に説明することを、あなたが望んでおられると感じています。そうすることで、なぜ、あなたの僕が一風変わっているのかを理解してもらうことができますように。
父よ、この一週間、わたしたちが祈って調べて書き上げた聖句や本文や言葉を認めてください。どこであれ、それを聞くことのできる良い土壌に届きますように。それを聞いて、守って、育成することのできる良い土壌に。すべての賛美があなたに捧げられますように。イエスの御名によってお願いします。アーメン。
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会堂に入れずに車にいる人たちにお知らせします。装置をつなげましたので、ラジオをつけて1150に合わせてください。そうすれば車のラジオからメッセージを聞くことができます。
さて、これは•••テープの録音は始まってますか?
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さて、この会場や、テープが届くあらゆる場所にいるすべての友に対して、今までわたしが言ってきたことと、してきたことの説明責任を負っていると感じています。何度も人々から質問を受けました。「わたしたちの牧師は、なぜあなたはそうするのかと言っています。ブラナム兄弟、なぜそう言ったのですか?なぜそのようにするのですか?」さて、心から言いますが、すべてわたしがしてきたことは、知りうる限り最善の意図を持ってしてきました。そしてすべてわたしが言ってきたことは、心から言ってきました。目的があってしてきたのです。今朝は神の助けを借りて、わたしがしてきたことの目的と理由を、聖書を引用しながら説明したいと思います。
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多分ここには多くの奉仕者たちが座っていることと思います。そして多くの人がこれを聞くでしょう。じゅうぶんな時間があって、わたしがこれまで考えついたことと聖書を、照らし合わせてみることができればいいのですが。しかし兄弟の皆さん、あなたたちは、今まではわたしに反対していたかもしれませんが、わたしはここにいる、あるいはテープを聞くどちらの兄弟に対しても話しています。あなたたちは、わたしが正しいとして貫いている姿勢のために、まったく賛成できずにいたかもしれません。あなたたちには、違うと思うことに反対する権利があります。しかしこの朝、神の助けを借りて、わたしが貫いている姿勢の根拠を皆さんにお知らせできると思います。
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今まで何度も教会、教団、女性の服装、男性の振る舞いに対して厳しく説教してきました。そのことは、聖書が完全に支持してくれていると思っています。ですが、わたしは決して、誰に対しても、悪い感情を抱いたことはありません。神はわたしの心をご存知です。たとえ、誰かととてつもなく意見が違っていても、わたしはその人を愛します。神の霊がわたしにとどまっておられる限り、わたしは常に神の教会、神の民を愛します。彼らが何をしたとしても、彼らからどんな仕打ちを受けたとしても、関係ありません。わたしは彼らを愛します。
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昔モーゼという人がいました。人々は絶えずモーゼを、南部弁で言うなら、手こずらせていました。ぶつぶつ不平不満だらけで、いつもモーゼをわずらわせていました。しかし神が、「彼らから離れなさい、わたしはあなたを選んで新たな国民としよう。」と言われた土壇場のとき、モーゼは身を投げて神の怒りの道を塞ぎ、言いました、「彼らではなく、わたしを滅ぼしてください。」民衆は神とモーゼに反抗しており、モーゼは彼らを叛逆の民と呼んでいましたが、それでも彼らを愛していました。それで、「わたしを滅ぼして、彼らを救ってください。」と言ったのです。それはモーゼの内におられるキリストでした。
もし人が、どれほど反対を受けたとしてもそのように感じないのなら、その人の内にはキリストが欠如しているのです。わたしはそう信じます。もし人が、口先だけでなくて、心から、人間に対してそう思わないのなら•••
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あるとき、びっくりしたのですが、(ちょっとここで面白い話をしましょう)ちょうどシカゴの集会があったときに、黒人の男性がいて「ドクターブラナムに会いたい」と言い続けていました。彼は大きくて立派な帽子をかぶり、2.5センチくらいある十字架を胸にぶら下げ、礼服を奇妙にまとい、おかしな指輪やビーズなどを身につけていました。わたしは同僚のバクスター兄弟に、「彼を部屋に通してください。」と言いました。彼はやって来て腰掛け、言いました、「あなたをどうお呼びすればいいでしょうか。神父か師か長老か、あるいは別の敬称で呼ばれたいですか?」
わたしは、「もし好意をもってくれるのなら、兄弟と呼んでください。」と言いました。彼は敬意を表してわたしをそう呼んでくれました。それから彼の肩書きを教えてくれましたが、なんとまあ、彼の肩書きや教会名、その教会の役職などがズラズラとあり、紙に書いたら数行を要するところでした。
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しかし彼が言ったひと言は、わたしがいつも賛同していることでした。「ブラナム兄弟、わたしが関心を寄せているのは、」彼は、教会で興味のあることをつらつらと掲げていましたが、こう言いました、「わたしが関心を寄せているのは一つの種族です。それは人類です。」
それでわたしは、「それなら、握手しましょう」と言いました。人類のすべての人のために、あらゆる信条あらゆる人種のために、キリストは死んでくださったのですから、わたしの関心はそこにあるのです。そしていつも関心を寄せるように心がけてきました。関心、そうです。
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今日は説教をするつもりはありません。というのも、説明するのに少なくとも、多分、4、5時間かかると思うからです。ですから、2時間後に休憩をとって食事時間にしましょう。それから2時に•••2時前に戻ってきてください。きっかり2時に始めたいですから。できたら1時半くらいに席に着いてください。そうしたら時間通りに今夜出発できます。
夕方ジョージア州ティフトンに、明日の集会に備えて出発しなければなりません。説教の集会ですが、高校の講堂でおこないます。それが終わったら、わかりませんが、神が導かれる場所に出かけます。いろいろな場所です。アーガンブライト兄弟たちが海外から依頼を受けたので、西部を横切ってカナダに入って、世界を回って。しかしわたしは・・・
そのうちわかるでしょうが•••・わたしがやり終えた後、もし神が助けてくださって、神から受けたとおりにあなたたちに伝えることができるなら、集会が終わった時にはもっと理解してもらえると信じます。そう願います。
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それから、もし理解できなくて質問したいことがあったら、本を持ってきてください。もしテープレコーダーを持っていて自宅でテープを聞くことができるのなら、座って心を開いて—心を開くのです—落ち着いてこう言うのです、「主よ、わたしは心穏やかでいます。今からテープを聞きます。」聞いていて何か引っかかるところがあったら、テープを止めて聖書を調べてください。聖書でイエスは、「これらはわたしを証しするのである」と言われました。だから、聖書を読んでそれが正しいか調べましょう。
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さて、聖書を開いて•••(えっ、右の方?彼は別のマイクを使うよう教えてくれました。今朝はたくさんマイクがあるからわからなくなってしまいます。)さて、聖書の創世記を開いてください。今夜は黙示録で終わります。わたしはみことばを信じます。創世記1章の一部を読みたいと思います。もし記録を取りたい人がいたら、鉛筆と紙を用意してください。たくさんの聖句を引用しますから。わたしはいつも聖書を読んでいたいです。
初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
神は仰せられた。「天の下の水がひと所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
夕があり、朝があった。第三日。
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さて、今朝はこの題目、「最初の種は神の仰せのことば」で始めたいと思います。「最初の種は神の仰せのことば」これについて述べていきたいのです。さて、神が、「種類にしたがって芽ばえさせよ。」と仰せになったことに気づかれましたか? 何であれ、その種類のとおりに芽ばえなければならないのです。
神のことばは永遠です。神は無限のお方なので、ひとこと言ってから、それを改良することはできないのです。なぜなら神が決められたことは、すべて完全だからです。いったん神が仰せになったら、そのことばは永遠に生き続けます。決して死にません。なぜなら神だからです。神が死なないのと同様、神が仰せになったことばも死なないのです。それで聖ヨハネの1章を読みます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」初めに神が永遠の目的を持って仰せになったことばが、その同じことばがやって来られて人となり、わたしたちの間に住まわれたのです。それは神のことばです。
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何年か前に聞いた話ですが、(確実な情報かわからないのですが)ある女性が、時計の文字盤の針を動かすためにラジウムを混ぜていたところ、舌でラジウムを舐めてしましました。その女性は死にましたが。何年か経って、検察か何かのためにとっておいた彼女の頭蓋骨を、何かの装置にあてたところ、ガラガラ音がして、死後何年も経っているというのにまだラジウムが彼女の頭蓋骨の中で活動していることがわかったそうです。ラジウムはずっと生きつづけるのです。
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神の言葉はずっと生きつづけます。聞いたところによれば、人の声を捉えることのできる装置を使えば、わたしが今日話す声は、1万年経ってもまだ空中で捉えることができるそうです。まるで、小石を池の真ん中に落とすようなものですよね。落ちたときにできた小さな波紋は、視覚では捉えられなくなってからも、池のふちを打つまで続きます。わたしたちの声の電波は、世界を何度もなんども回って伝わっているのです。だから自らの声が、自らを裁くことになるのです。わたしたちが語ったことが、証言となって立ち上がって、わたしたちを裁くのです。自らの声が、神の裁判の席で、耳の中にこだまするのです。神の偉大な装置は、語られたあらゆる声、すべてのつぶやきを捉えることができます。
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さて、悪い言葉を消去する方法が、たった一つあります。それは悔い改めることです。神にしか消去できないのです。もし消去されなかったら、それは永遠にあなたについてまわります。ですから完全なる神はご自分の永遠の声をもってそれを捕らえられます。そういうわけで、神の決断はすべて、完全でなくてはならないのです。神がいったん発せられた声は、ずっと響いていて最後の審判のときに再生されます。
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もしこれが理解できたら、あるいは理解しようとしたら、常にわたしが神のことばにこだわる理由をわかっていただけるでしょう。神のことば以外のものは、すべて消え去るのです。神は永遠で、神のことばも永遠です。わかっていただけるように、できるだけ長い時間をかけて話すつもりです。テープを聴く人のためにも話しています。聖書が神のことばであることを、皆さんは知らなければなりません。
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ところで、裁きのときは近づいています。神の声は、生きるものすべてに聞こえるよう発せられていますから、どこかで私たちに追いつきます。奉仕者はそれを受ける責任があります。この神のことばをすべての人が耳にするなら、この場でか、裁きの席でか、どちらかで聞くことになります。もし教会が神のことばなら、ローマ・カトリックの教えのとおり、わたしたちは教会の声を聞かなくてはなりません。しかし教会は混乱していて、ローマやギリシャなど、それぞれで教えが違っています。すると信仰の置きどころを、どの教会にしたらよいのでしょうか。
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ローマ教会が正しいのですか? ギリシャ教会が正しいのですか? それとも他の教会ですか? ルーテル教会、バプテスト教会、メソジスト教会、長老教会ですか? それぞれが違った教えを説いているので、どれが正しいのでしょう。西と東ほども違っているところもあります。しかしわたしの意見では、神の声が裁くのです。神の声は絶対に正しくなければなりませんから、それは完全な出処でなければなりません。しかし教団ごとにそれぞれ言うことが違っているなら、信仰の置きどころを見つけられません。
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言いたいことがわかってもらえましたか。ある人は、この教会に属さなければならないと言い、「唯一この教会に救いがある」と言います。これはカトリックの主張です。ルーテル教会がやってきて、彼らが道であると言います。メソジスト教会はまた別のことを言い、バプテスト教会は別のことを言い、ペンテコステ教会が別のことを言います。これでは混乱の集会のようです。しかも、聖書を持ち出すと、ある兄弟は「それは今の時代に当てはまらない」と言い、別の兄弟は、「それは単なる歴史だ」と言い、また別の兄弟は、「それは詩集だ」と言います。「教会には聖書のことばを変える権利がある。」と言いだす人もいます。それなら何を拠り所にできますか。いったい信仰の拠り所はあるのでしょうか。
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もしわたしたちが裁かれるとすれば(すでに裁かれているのですが)、何かによって裁かれるとすれば、それは託された神のことばによると信じます。もしそうでないなら、神は地上にひどい混乱をもたらす不正な神ということになります。哀れな人間の心はまごついて、どうしたらよいのかわからなくなり、こちらに属したり、あちらに属したりします。哀れな人は、正しい場所を探そうとしてこちらの教団の言うことを聞き、別の教団の言うことを聞き、こちらの方が正しそうと思います。それでいいと思った方に行きますが、また別の方に戻ったりします。どうすれば正しいのかわからないからです。しかし、神が何かを拠り所にして世を裁くとするなら、それは神のことばです。わたしはそう信じます。
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さて、兄弟の皆さん、こう言うのは、ここにいる兄弟だけではなく、世界中でテープを聞く兄弟に対しても話しているからですが、もう少し我慢してください。どこかに裁きが向かって来ます。ある人は、「キングジェームス訳」と言い、別の訳を唱える人もいます。今はスタンダード訳というのも作られています。
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もし神が至上最高の神なら、実際そうなのですが、永遠のお方ですから、ご自分できちんと、とり図らわなければならないのです。すべては神次第です。わたしが神のおられる天国に行きたいと願ったら、わたしが何をすべきかわかる場所を提供してくださのは神です。どこか信頼を置いて、「これがそうだ」と言える場所を。賛成してくれますか(衆:アーメン)。すべては神にかかっているのです。
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もしわたしが、「主よ、わたしはルーテル教徒です。」と言い、別の人が「わたしはカトリック教徒」と言って争っていたなら、かわいそうにあなたはどうしますか。もしカトリック教会が正しかったら、ルーテル教徒は誰も救われません。もしルーテル教会が正しかったら、カトリック教徒は誰も救われません。
信仰の拠り所となる場所がなければなりません。あなたがどう考えるかわかりませんが、わたしにとっては、聖書が絶対に正しい神のことばです。そして神は、みことばから点の一つでも抜け落ちないように、見張っておられると信じます。
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娘のレベッカが言いました。「パパ、学校では、この世界は何百万年も経っていると教えているの。聖書と矛盾していない?」
「とんでもない。矛盾なんかしていないよ。」
「でも、岩の構造や石灰岩の沈殿物なんかの研究で、何百万年もかかってできたと証明されているのと、神が天地を24時間で造ったと言われているのと、くいちがっていない?聖書の誤りを立証しているのではないの?」
わたしは言いました、「いいや、ちがうよ。神はモーゼに聖書を教えたとき、こう言われた、『初めに神は天と地を造られた。(まる)』どのくらい長くかかったかはわたしたちの知るところではないんだ。それから進んで、地上に種を蒔くときがやってきたんだけれど、とにかく、初めにと言っているあいだに何百億年も何兆億年も、永久の年月が経っていたかもしれない。しかし『神が天と地を創造された。(まる)』なのだよ。それで決着。それが最初なのさ。神には間違いがないのだよ。」偉大な説教者パウロは、テモテに、「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」と、言づけしました。心を開いて聖書を調べること、それがわたしの努めです。
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さて、わたしはみことばに対してそのような信仰を持っています。だから自分勝手に解釈できません。聖書が、聖書は自分勝手に解釈してはいけないと述べているからです。その箇所を今はっきりとお伝えできませんが、メモしている人は後で調べてください。確かペトロの手紙(2ペトロ1:20)で、勝手な聖書解釈を禁じています。
ですから霊感を受けた書き手が•••もしそれが間違いなら、他のところはどれほど間違っていることでしょう。すべて正しいか、すべて間違っているかのどちらかです。中間はありません。教会について、「でも教会では•••」と言うかもしれません。いいえ、教会を拠り所にするなら、どの教会が正しいのでしょう。わかりますか、信仰の拠り所となるところに戻らなければいけません。わたしにとっては、神のことばがそれです。聖書は、人のために立てた神のご計画であると信じています。ずっとそうでした。
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イエスは、聖書は成就されなければならないと言われました。聖書に書かれているすべてのことがです。さて、このことを覚えていてください。テープを聞く人たち、わたしはテープの終わりにもう一度、聖書は成就されなければならないということを持ち出しますから。クラスのみなさん、ちょっとこのことを頭に入れましょう。わかりますか。すべて聖書に書かれていることは、成就されなければならないのです。重ねて言いますが、成就されなければならないのです。もし成就されなければ、それは神のことばではないのです。それなら、もし神のことばでないのなら、わたしたちはどこにいるのでしょう。神のようなもの、あるいは自分たちがしたいものを手に入れよう。聖書が言うように、「食べて飲んで楽しくやろうじゃないか、どうせ明日は死ぬのだから。」ということになります。わかりますか。
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さて、もしそれが神のことばでないのなら、わたしたちは誰も救われません。でももしそれが神のことばなら、神は絶対に信用できます。神はすべての誉れの源泉、始まり、源です。すべての真理の源である神は、ご自分で言われたことを守られます。もしこれが神のことばでないなら、神とは誰ですか? 神はどこにおられますか? いったい、神はおられるのでしょうか?
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「ええ、ブラナム兄弟、神を感じます。」そう言うなら、異教徒も偶像に対してそう言っています。
旅行に出て、自分の目で見聞きすることには効果があります。
「だから、これは見てわかると思います。」
そうです。
「わたしはこのように変わったので、信じます。」
わたしもそうです。しかし異教徒も同じなのです。なんとアフリカ人の品行は•••アフリカの部族の中には、アメリカ人がクリスチャンと呼ぶのを恥じ入らせるほど、道徳と清潔を守って偶像礼拝をしている異教徒もいるのです。ですからそれが神なのかもしれません。わたしが言おうとしていることがわかりますか? 顔をじっと見つめると、覆わなければならない大きな丸があります。だから、戻ってどこかに信頼を置かなければなりません。
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さて、ルーテル教会の主張をとってみましょう。落第です。カトリックの主張は?落第です。バプテスト教会やペンテコステ教会の主張は?落第です。だからそれらに信頼を置くことはできません。聖書には、誰かを介してそれが真実であると証明されたこと以外は、ひとことも書いてありません。わかりますか。それは事実です。わたしがよくいうことですが、「多分わたしの信仰では、エノクが登ったところには登れないかもしれない。でも少なくとも他人の道を登ってはいない。」偉大な信仰は•••
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さて、こういう理由で、わたしは聖書を信じるのです。わたしが引用するのも聖書です。次に言いたいことは、聖書は矛盾しないと、わたしが信じていることです。これまで世界中を回って、聖書が矛盾していると主張する人に、それを実証できるか挑戦してきました。わたしを納得させることができるかと挑戦して来ました。聖書は矛盾しません。あなたが、聖書に矛盾しているのです。神は矛盾することがおできになりません。もし矛盾したら、神ではありません。もしこのことばが神で、しかも言うことが食い違っているとするなら、それはあなたが神と相反しているのです。もしそうなら、神はどこにおられるのでしょう。なんだかややこしくなってきました。
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もし神が、ご自分のことばに矛盾しておられるなら、わたしやあなたと何ら変わなくなってしまいます。神が矛盾出できるとすれば。しかし、みことばは、賢者や分別者の目からは隠されているのです。
だから、マタイ28:19の「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子にしなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」という聖句と、使徒の働き2:38の「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を許していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」という聖句が矛盾していると言う人がいますが、それは矛盾していません。
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誰でも、洗礼を受けるときは、父と子と聖霊の御名によって受けなければなりません。そして、もしイエス・キリストの御名を使わないのなら、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けたことになりません。あなたは名前に付随する呼称によって洗礼を受けたのです。これが正しい啓示でないなら、言いつけに従ってイエス・キリストの御名によって洗礼を受けたときに、聖書は間違っていることになります。もしもイエス・キリストが弟子たちに、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けるように任命したのに、弟子たちが、イエス・キリストの御名によって洗礼を授けてきたのなら、聖書は完全に矛盾しているといえます。でも、よく調べてみるとそうではありません。弟子たちはイエスが言われたとおりにしたのです。名前に付随する呼称ではありません。ずばり名前です。だから矛盾していないのです。
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人々が指摘する矛盾点を、ここに書き留めて起きました。どれだけその中から引き合いに出せるでしょう。この24年間、いえ30年近く、聖書の矛盾点を示してほしいと頼んできました。一つもありません。聖書には、真理が、真理だけが書かれています。だから信仰は聖書を、神が語られた聖書を拠り所とすることができます。聖書に解釈を加えてはいけません。ありのままに受け取るのです。個人的解釈をしないでください。
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これを聞いて感情を害する人がいても、わたしのせいにしないでください。わたしは、自分が信じていることと自分が貫いていることの理由を説明しようとしているだけなのです。わたしは世界に向かって、自分が貫いていることを明らかにします。これが信念だからです。
どんな言葉でも聖書に加えたら、それが誰であれ、罪を犯したことになります。その人は命の書から抹殺されます。黙示録22に、「誰でもこれにつけ加える者、この書のことばを取り除く者•••・」とあります。わたしは信条や教義などは信じません。でも聖書に書いてある神のことばは、神のご計画であると信じます。それ以外のことは罪であり、永久に廃棄されなければなりません。どんな人でもどんな信条でもどんな教団でも、みことばに点一つでも加えたり、取り去ったりしたら、永遠に滅ぼされます。神は過去のお方ではないので、書物を書いて人の手に渡し、それが混乱の元になるに任せ、最後に世界を、その書に則って裁くなどということはされません。その書を書かれた神は生きておられ、その書のことばの中に生きておられ、書かれたことばを実証されます。(テープを聞いて学ぶ人たち、この点をじっくり学んでください。この所見に注意してください。わかりましたか。)
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さて、創世記から始めて黙示録まで来ました。これらすべてが神のことばです。黙示録で、誰でもこの書のことばを取り除いたり、つけ加えたりする者は、命の書から取り除かれると記されています。あとで聖書を引用しましょう。黙示録1章です。
黙示録の1章は何を指していますか。みことばです。さて、みことばは永遠です。勝手に書き変えることはできません。足しても引いてもいけません。わかりましたか。手を加えてはいけないのです。神が目を光らせておられます。神のことばに何も足したり引いたりしてはいけないのです。神のことばは永遠だからです。さて、このことを念頭に置いて、わたしが言おうとしていることは、創世記から黙示録のあいだにあります。それは何とも混ざることがありません。
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さて、ここが意見が合わないところです。今から夕方5時まで、意見の相違を見ることでしょう。これが神の裁きの書で、私たちは神のことばに則って裁かれることになると信じる人は、どれだけいますか? 神のことばは足したり引いたりしてはいけません。それなのになぜそうしてきたのでしょう。さてそれについて触れていきます。なぜそのようなことが、野蛮にも行われてきたのでしょう。それを創世記から黙示録まで、別の時代から今に至るまでのあいだに答えを探してみましょう。
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テープを聞く人のために、ここではっきりさせておきます。みことばを信じる理由とみことばについて神が語られたこと、つけ足したり引いたりしてはいけないことについてお話ししましたが、これから難解な部分に触れていきたいと思います。調べた長い文脈を説明して、何が起こったのか知らせたいと思います。それで自分の信念にこだわる理由をわかっていただけると思います。
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みことばは、何とも混合することができません。今は交配の時代です。動物、とうもろこし、小麦、なんでも交配させて見た目をよくしようとします。しかしそれはよくない。腐敗です、生命がありません。死んでいます。繁殖できません。それは死んでいます。なぜなら、すべて地上に存在するものの最初の種類は、神が仰せになったことばから生まれたからです。
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騾馬は、異種交配によってできた雑種なので、騾馬同士で繁殖できないのです。神は馬とロバを造られました。それらをかけあわせると騾馬になりますが、雑種ですから繁殖はできません。(あとで、蛇の種に触れたいと思います。)それは繁殖できないのです。
49
さて、今日の話のタイトルは「初めの種は神の仰せのことば」でしたね。マタイ24:35を開いてみましょう。イエスがなんと言われたか、そこから調べましょう。24章34節から始めます。どれだけこのことばが永遠かを確かめてみましょう。
「まことにあなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
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さて、このことばを何かと混ぜることはできますか。今度は黙示録22章19節を読みましょう。なんと書いてあるでしょう。18節から始めます。
「私は、この書の予言のことばを聞くすべての者にあかしする。(創世記から神はみことばを語られたことを覚えていてください。)
私は、この書の予言のことばを聞くすべての者(それは司祭、教皇、司教、枢機卿などをです)にあかしする。
もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。」
教義とはなんですか。あなたたちが聞いている信条ってなんですか。聖書に書いてありません。すべての教団に弁解の余地はありません。
「また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、(同じことだとは言っていません。違うのです。)神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
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それが説教師であっても、生涯教会員であった人であっても、主教でも教皇でも、もし、この書からたったひと言でも取り除くなら•••イヴはたったひと言を疑ったためにすべての災難を招いたことをお気付きですか? 神が仰せになったことばの、たったひと言を、イヴは真実だろうかと疑ったのです。それが原因で、あらゆる病気、疾患、赤ちゃんの不幸がおこり、それが原因で、あらゆる病院を建てなければならず、あらゆる手術をせねばならず、あらゆる死に方をせねばならなくなったのです。ひとえに、ひとりが、たったひと言に疑いをかけたからです。
52
イヴは何をしようとしたのでしょう、交配です。かけ合わせをしたのです。神が仰せになったことは、そのことばどおりに受け取らなければなりません。何とも交ざりあいはしません。イエスは言われました、「もしあなたにからし種ほどの信仰があれば•••」からし種は交配できないと聞いたことがあります。それは何とも交配できないのです。穀類なら交配できますが、からし種はできないのです。わかりますか。あなたにその種の信仰があれば、ひと言•••神のことばのたったひと言•••宣教師たちの多くが挫けてしまうのは、ここなのです。(これについてはあとで触れます。)彼らは「この聖句を信じます。」と言い、信じて受けたことは実行できますが、しかし別の聖句についてはどうでしょう?「言われたことをすべておこなう人は幸いです。アーメン。(わかりますか。)彼には、いのちの木を受ける権利が与えられます。しかし魔術師や犬ども不品行の者どもなどは外に出される。」とあるとおりです。
さて、ここにはいろいろな立場の人たちがいますが、わたしが用意している話は、実に、歯に絹を着せぬものです。だから姉妹たちには、ご理解を願います。
53
さて、わたしが信じているのは、神のことばです。神が仰せになってできたものは、最初のものです。すべて神の仰せによって存在するようになったものは、最初のものです。最初のものでない被造物は、交配できます。イヴは最初にできた被造物ではなかったので、自分の種を使うことができました。彼女は人の副産物でした。神は、すべて整った完全な人を造り、そこから一部分を取り出して、人の助け手を造りました。
ロバと馬をかけあわせることはできますが、長続きしません。死に絶えます。原種だけにいのちがあって、生殖できるのです。理解していただけるといいのですが。最初の種には、いのちがあります。カルトや教団組織が滅ぶのは、そういうことだと思います。あらゆるカルトや教団が滅んだことを歴史が証明しています。そして蘇生しなかったし、これからもしないでしょう。彼らには再生する力がないのです。繁殖能力を持っていません。それでイヴの子どもたちは死にます。
54
テープを聞く人が学ぶために、じっくりと時間をかけて話しています。急がないで時間をかけて説明したいのです。これから何が起こるかわかりません。神が来られるのを見る前に、わたしがこの世から取り去られても、このメッセージは残って語り続けます。真実です。みことばにとどまりなさい。
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さて、最初の種は、神が仰せになってできたことを覚えていてください。神はことばによって、地上にすべてを植えつけました。最初の種のままであるなら、自然に繁殖していきます。種を交配させるなら、廃れて終わりです。イヴは人類最初に交配をおこなったものです。あとでそのことを証明しますから、ここでテープをおしまいにしないでください。
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彼女は花嫁でしたが、交雑をおこないました。気づいてください。それによって死が入り込んだのです。神のことばと知恵を混合しようとしたことによって。わかりますか? そんなことをしてはいけないのです。たとえ説明する知恵があったとしても、ただ、「神がそう言われた」、それで決着です。「神がそう言われた」、それがすべてです。もし説明できないのなら、そのままにしておき、ただこう言うのです、「神がそう言われたのだからそのとおりです。」と。わかりますか。ただ「神がそう言われた」、それで決着です。
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さて、気づいてください。神のことばは、他と混ぜてはいけないのです。人が勝手に手を加えてはいけません。神はそのようにする者を罰せられます。神のことばは何とも混合できません。神のことばは独立しています。あなたたちの言葉による助けを必要としません。わたしたちは自分の言葉を使って話すべきではありません。神のことばで説教するべきです。神のことばです。
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ですから、本物のいのちは、本来の繁殖方法で自然に再生していくのです。よく調べてください、今聞いている人もテープを聞く人も。い・の・ちは、最初の再生方法でしか繁殖できないのです。始まりのときと同じ方法でなら、自然に繁殖していくのです。わかりますか。もし再生しないのなら、それは雑種だから絶え果てるのです。1代目で消滅するものもあるでしょう。無くなってしまうのです。気がつくと元に戻ってしまうでしょう。稔性(いのち)がないのは雑種だからです。
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創世記1:11で、神は、「種類にしたがって生じさせよ。」と仰せになりました。さて、神が言われると、そのとおりになります。常にそうです。「種類にしたがって生じさせよ。」種を交配させると超作物ができますが、何の超なのでしょう。聞いてください。ちょっとぶらぶらしましょう。(それについて説教することはできるのですが、話すのを控えているところです。)実証済みのように、種を交配させると超作物ができます。どんな種類の作物ができますか。偽の作物です。いのちはありません。
もろこしの交配種は、大きくて、実入りが良く、見た目も良いですが、命の種子を持っていないので、植えても芽が出ません。1代限りでおしまいです。イヴも同じで、交配種を生みました。こんにちのありさまを見れば、イブがもたらした交配種がよくわかります。これは神の目的ではありませんでした。ちょっと待っていてください。今考えています。
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かけあわせるとハイブリッド作物ができます。ハイブリッド作物は不稔性なので、再生できません。自然繁殖できないのです。なぜなら神がそう言われたからです。種類にしたがって生じなければならないのに、種を交雑してしまったのですから。
さて、教会の状態が見えてきましたか、話を教会のことに持って行こうとしているのです。交配種は、種類にしたがって生じることができないので、絶えます。なぜ? 交雑したからです。それはしてはならない行為です。死をもたらします。おしまいです。世代ごとにリバイバルが起きました。それはみことばを知る機会でした。おお、最高権威の神が裁判の席に着きます。ジョン・ウエスレーのグループが立ち上がります。するとコチコチに凝り固まったこんにちのメソジストたちが答弁するでしょう。ルターが立ち上がり、カトリック信者が立ち上がります。そしてエイレナイオスやマルティンやポリカルプたちの後ろの方に立って、神のことばを教義と配合した件で裁きを受けることになります。ルターのリバイバルの後に組織されたルターのグループも同じように答弁しなければならないでしょう。ジョン・スミスのリバイバルの後に組織されたバプテストのグループも同様です。アレキサンダー・キャンプベルも同様。そしてペンテコステも同様です。神は、聖霊が降った最初のリバイバルで、人々を召集され、みことばに結びつけようとされましたが、彼らは組織化し、そこにとどまってしまいました。そして教団を創り、いのちを失いました。
「でも彼らの働きをみてください。」
と言うなら、後でそのことに触れましょう。今は種を蒔いて問題提起をしているのです。それから後で、何が起こったかをお話ししましょう。
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そういうわけで、各世代にリバイバルが起こりました。神はひとりの人に、みことばを授けられます。するとその人は、神からのメッセージを同世代に伝えます。その人が舞台から去ると、誰かがそのメッセージを用いて何かと混ぜてしまいます。すべてが完全に後退して•••ここでちょっと話をやめたいと思います。急ぐ必要はないでしょう。元に戻ること。それがまさに、創世記の初めに起こったことです。神は人間という、神の作物をつくられました。それをイヴが交配させてしまったのです。それで何が起こりましたか? ですからイヴは裁かれるのです。
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ルターが話し始めます。他の者たちも、自分たちの言い分を述べます。続いてキリストが語られます。弟子たちが、そして預言者たちが話します。イエスはこう言っておられませんか、「あなたたちの先祖で、神から遣わされた預言者を迫害しなかった者があるだろうか」と。あるとき王が使者を派遣し、別の使者を派遣し、また別の使者を派遣し、そうこうして最後に王の息子を派遣したと、イエスは教えておられませんか。わかりますか。各世代が、神からの使者を受けとっているのです。なぜなら、エデンの園での初めの作物であるアダムとイヴから始まって、ずっと繰り返されているからです。彼らの半分は救われません。賢いおとめ、眠っているおとめ。半分は•••ある者はみことばを守り、別の者はみことばに手を加える。行ったり戻ったり、必死にそれを繰り返して今に至っています。神のことばと歴史的事実からそのことを証明しましょう。そうです。交配です。
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ハイブリーディング(交配)が初めにおこなわれたのは、エデンにおいてです。創世記の初めに起きました。そして、黙示録においてイエスの再臨によって、終決します。さて、正確に覚えてください。それが、リバイバルが世代ごとに起こる理由なのです。リバイバルによって人々は、神のことばを受ける機会を得ます。しかし、みことばをありのまま受ける代わりに、みことばに人の手を加えて、どこか別のところに行ってしまうのです。
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わたしが、神から与えられたと信じている使命は•••今日は少し個人的なことも言わなければなりません。皆さんとそして世界中に、そうすると伝えましたから。(わかりますか。)地上でのわたしの使命は、そう信じているのは、なんだと思いますか? やがて来られるみことばの先駆者です。やがて来られるみことばとは、キリストです。神のうちにおられるキリストが、千年のあいだ統治し、すべてを正しい状態に戻されます。彼がみことばだからです。わかりますか。
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それではヨハネの3:5を開いて、イエスが言われたことを確かめましょう。皆さんご存知の箇所ですが、テープを聞く人が間に合わないかもしれないので、ゆっくりめくって読みます。聖ヨハネ3章の5節です。3節から読みます。
 「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』
ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』
イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』」
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それは種のことを言っているのでしょうか。最初の種はすべて、神の仰せのことばから生まれました。そうです。イエスが語られたことばから、そのことを証明しようと思います。神の仰せのことばによって、最初の種はできました。それなら、人は生まれ変わらなければならないとはどういうことでしょう? 人の現状は、死んだ状態だからです。人は雑種なので、生まれ変わらなければならないのです。それはどういうことでしょう。イヴの犯した罪によって、人は罪の状態で生まれ、不正な行為によって形成され、嘘をつく世界に誕生します。初めから嘘つきなのです。どんなに賢く、教育が高くても、嘘つきにちがいはないのです。聖書がそう言っています。どんなに両親が聖人でも、人は生まれつき嘘つきなのです。人が真理を語る唯一の方法は、自分の口で聖書のことばを言うことだけです。それだけです。みことばに反していることは、すべて偽りです。どう取り繕っても、人は嘘つきに変わりありません。
ピシャリと言ってしまいましたが、神が言っておられることなのです。「すべての人が偽り者としても、神は真実な方である」とあるとおりです。このことばに反することを言ったり、他の人種のせいにしたり、他の世代のせいにしたり、何をしたとしても、人が偽り者だというのは事実なのです。だから生まれ変わらなければなりません。そうすれば、すべてのことばがわかるようになります。生まれ変わる唯一の方法は、いのちを生みだす神のいのちが、人の内に宿ることなのです。
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種が芽を出すには、水が必要です。種を蒔いても、土に水分がなかったら、ただの埃です。埃では育ちません。土に適度の水分がないと、種は芽を出して成長しないのです。そうですね。文字は殺すが、霊はいのちを与える。わかりますか。水分が必要なのです。神のことばは最初の種です。それを証明するために、ルカ8章を開きましょう。11節です。本当かどうか、聖書がなんと言っているか確かめましょう。ここで多くのことを語っているので、4節から読みます。
「さて、大ぜいの人の群が集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。」
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水分です。バプテストや長老派やルター派には水分がありません。
回心した人は、初めはキリストをまっすぐ見て信じます。そのうち教団が彼を縛り上げ、霊の水分を枯らしてしまいます。すると、彼は教団の人となり、死んでしまいます。バプテストだけではありません。ペンテコステも同じです。教団の言い分を信じないでください。多くの人はそうはしないとわかっています。でもちょっと待って。そのことを聖書でどう言っているか調べましょう。
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水分がなかったので、枯れてしまった。8章の7節から続けます。
「また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。」
わかりますか。わたしは誰にも打撃を加えようとしているわけではありません。ただ思うに、クリスチャンビジネスマンやその他のペンテコステ組織の人たち、何百万ドルも費やして、立派な建物を建てたりしている人たち、この世の富は、神の栄光と霊を押しふさいでしまいました。窒息して死にかけています。この世の関心ごとの方が大きくなって窒息してしまいました。
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女性は活動的になりたがっています。髪型をボブカットやウオーターカットにして、ショートパンツを履き、この世のようになりたがっています。説教師は「ア〜メン」と言う練習をして演壇にたちますが、神のことばを語るのを恐れます。食いっぱぐれたくないですから。キャデラックに乗りたいし、•••彼らはもはや霊的なことに重きを置いていません。そうです。もし立派な服を着なかったら、背教者と見なされたり、後ろ指を刺されたりしかねません。
後ろの席に座っているキッド兄弟が、今朝話してくれたところでは、彼らはもう、キッド兄弟を必要としていないそうです。理由は彼が年老いているのと、神のことばを臆せず語るからです。いったいどうなっているのでしょう。彼らには水分が欠乏しているのです。
「また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』
イエスは、これらのことを話しながら、『聞く耳のある者は聞きなさい。』と叫ばれた。」
ああ、なんというたとえ話でしょう。この聖句からたった今、説教を始めたいくらいです。8章8節のところですが、
「•••別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』
イエスは、これらのことを話しながら、『聞く耳のある者は聞きなさい。』と叫ばれた。」
(叫ばれたとありますが、こんな感じだったのかもしれません。「百倍もの実を結んだ!聞く耳のある者は!聞きなさい!!」言い換えれば、もしあなたが神に耳を傾けることができるなら、聞きなさいということです。わかりますか。)
「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが•••・」
(奥義•••イエスは何を言っておられるのでしょう。注意してみてください。神の国の奥義とはなんですか。ちょっと考えてみてください。)
「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。•••」
(わかりますか。しかし神のことばは、裁きのとき、彼らを裁くために裁判席に着きます。なぜなら、彼らが見るには見たからです。みことばはそこにおられたのです。)
「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。」
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種のいのちは何ですか? 神のことばです。ですから、いのちのために、信条や教団を経由する必要はないのです。みことばに戻って来ることが必要なのです。さて、いのちの種についてです。
神のことばが神の種で、御霊は水です。さて、ヨハネ3:14に戻りましょう。わかりますか。霊は•••?•••水です。さて、ヨハネ3:14です。これを読めばそれが何を意味するのかわかります。
「モーゼが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」
わかりますか。モーゼが青銅の蛇を上げたのと同じ理由で、キリストは上げられたのです。どういうことでしょう。モーゼが青銅の蛇を上げたのは、滅びようとしている人たちが、それによっていのちの水を得られるかもしれないからでした。そしてイエスは•••(ああ、神よ、)イエスは神のことばです。それについて証明するために午後はガンガンといくつもりです。
72
イエスは神のことばです。彼によって、いのちがパッと開きました。最初の種の内にあったいのちです。このいのちは霊です。神の種の上に霊の水が注がれると、種のいのちを生みます。別のものが生まれたなら、別の種類の種だったことになります。理解できますか。
もし神の霊が最初の種に水を注ぐなら、もしそれが最初の種なら、霊の水は注がれます。そして最初の種のいのちを生みます。はっきりわかりますか? 最初の種のいのちを生むのです。
73
聖書は神のことばで、すべてが真理であると、わたしは信じます。イエスは、みことばが人となって現れた方です。イエスと神のことばはひとつ、同一です。イエスは何でしたか? 彼は最初の種だったのです。
(さて、午後のために、ここで言葉をはさむのを差し控えなければなりません。わかりますか。辛いことです。)
イエスは、本来イヴが生むはずの最初の種でした。いいですか。イブが生むはずの種は、イエスだったのです。しかし彼女は神のことばに疑いをかけて交雑種を生みました。いのちが、いのちを生むための唯一の種、それはイエスだったのにです。いのちは、その種から出なければいけませんでした。そしてその種はいのちを与えるために死ななければなりませんでした。わかりませんか? だから、その種に水やりするために、水が与えられたのです。
74
エデンの園の聖霊は、その種に水やりするためにおられました。人は本来死ぬためではなく、生きるために造られたのです。しかし交配したために死が入り込みました。イヴが交雑種を持ち込んだのです。さて、あなたは蛇の種を否定しますが、それでは聞きます、「葬式って何なんですか。」彼女が交配した結果です。わたしたちは皆、最初の種の交雑種です。だから次から次へと死んでいくのです。しかし(ああ、神よ)最初の種からできた、いのちの胚芽が存在します。それが神の種であることを、神はイエスを復活させたことにより証明されました。わかりましたか。そのいのちによって、本来の神の教会になるようイヴに与えられた本来の種に変わるのです。そしてキリストの花嫁の胎から、いのちが受け継がれていくようになります。わかりますか。
これはとても意味深い、光彩を放つことです。飲み込めるように少し時間をとりましょう。
イエスがその種です。彼が神のことばによって生まれた最初の種なのです。「おことばのとおり、この身になりますように。」それが最初の種です。みことばを受け入れるのです。
75
さて、イエスはみことばが人となって現れた方です。イエスとみことばは、ひとつであり、同一です。イエスのうちに神が完全に現れたのです。イエスがみことばの種であり、みことばの胚芽だったので、神はイエスの内に、ご自分を完全に現すことがおできになったのです。(胚芽は種のいのちの部分です)わかりましたか。イエスが神のことばの胚芽だったのです。胚芽は霊です。胚芽は水です。イエスはその種のいのちを生み出して、他の種にも水やりをするために、ご自身を打ち砕かれなければなりませんでした。わかりますか。イエスは言われました、「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分けてみことばにとどまる。わたしは霊を送って水やりをする。彼らもわたしと同じものを生みだすだろう。」
彼らは奇跡を生み出します。神の力を生み出します。決して否定しません。なぜなら、最初の種と同じだからです。
「ひっつき虫(草)さん、一緒に暮らしましょう。」なんて言いません。とてもとても、決してそんなことできません。異種と混ざることはできないのです。死といのちが混合することはありません。あなたは死んでいるのと同時に生きていることができないのです。
76
意味していることをわかっていただけますか。種の内にあるのは胚芽です。キリストです。キリストは、神のことばが完全な形で現れた方です。だからキリストのうちにあるのは、何でしょう。彼は、初めのアダムの子、アダムから生まれて人類を継続させるはずの約束の子でした。しかし、イヴが蛇と交配したために、いのちを持たない雑種の子を生み出してしまったのです。それからのち、最初の種であるイエスが来られ、それを明らかにされました。イエスは、アダムが失ったすべてでした。わかりますか。イエスが正解なのです。イヴは最終的にその子を生むはずでしたが、蛇を受け入れて交配してしまいました。知恵や知性や知識に耳を傾けてしまったのです。
77
さて、話を花嫁にもっていくまで待ってください。それが、わたしが確信している理由なのです。みことばに立ち帰らなければいけません。だから、誰かがみことばに関して、わたしと意見を交わしたいと思っているなら、歓迎します。そうです。いつでも時間を作ります。もしイエス・キリストの御名による洗礼が正しくないと言うなら、いらっしゃい、意見を交わしましょう。蛇の種などないと言うなら、一緒に聖書を調べましょう。もし女性は髪を長くするべきで、それが女性の覆いとなるとは信じないのなら、聖書を調べて意見を交わしましょう。もし今が終わりのときでないと言うなら、私の話していることが信じられないのなら、来てわたしと話しをしましょう。わたしのところにいらっしゃい。寄っていきなさい。
78
種であるなら、みことばを否定することはできないのです。本来の種はみことばだからです。もしあなたがみことばなら、どうしてそれを否定できるでしょう。自分自身を否定することになります。自分の目的をくじくことになります。誰かが、「なぜあなたはあんな人たちとつき合うのですか。」と言いました。もしわたしがそうしないなら、わたしが遣わされた目的をくじくことになるのです。光を必要としている場所があるのです。
さて、話を進めていきながら、もの事がみことばとどのように完全に一致しているか、明らかにしましょう。
79
だから神はイエスをとおして働くことがおできになったのです。イエスは何とおっしゃいましたか。「父が示してくださらなければ、わたしからは何もできない。」完璧です。そして彼がなさったことはすべて、聖書による裏付けがありました。「あなたたちは聖書を研究している。聖書はわたしについて証しをするものだ。もし聖書に書いてあることをわたしがしないのなら、わたしは本来の種ではないということになる。しかしもしわたしがしているなら、なぜあなたたちはわたしを信じないのか。(そのとおり。)もしわたしの態度が気に入らなくてわたしを信じることができないのなら、わたしが言っているみことばを信じなさい。わたしがおこなっている業を信じなさい。わたしの種はわたししか生み出さないから。」
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ひっつき虫はひっつき虫でしかないのです。他の種と交配してもひっつき虫でしかありません。そうです。それしか表現できないのです。
だから二重性は偽善です。雑種です。神に仕えていると言いながら、みことばを否定したら、偽善者です。騾馬が自分を馬だと言ったとしても馬ではありません。自分をロバだと言ったとしてもそれも違います。偽善です。雑種の生まれです。酷な言い方をしていますが、事実なのです。騾馬は自分から騾馬になったのではなく、人の知恵のなせる技の結果です。人の知恵によってもたらされた雑種の生まれです。
81
さて、神が、イエスのうちに完全にご自身を現すことがおできになったのは、イエスが神のことばだったからです。イエスは神のことばでしたから、神以外の何ももたらすことができませんでした。もしあなたのうちに神がおられるなら、あなたはそれ以上の何になれるというのでしょう。
神のことばは預言者にやってくると、イエスは言われませんでしたか? 誰に神のことばが臨みますか? 預言者です。イエスは彼らを神々と言われませんでしたか? それはなぜ?神が預言者のうちに現れたからです。神が仰せになったことばが現れたのです。わかりますか。そうです。イエスは言われました、「どうして否定するのか•••少しでも知恵があるなら、わかるはずだ。」「神ご自身が彼らを神々と呼ばれたのだ。」「どうして彼らを信じると言いながら、わたしが神の子と言ったからといって、わたしを否定するのか。」どうして彼らにはこれがわからなかったのでしょう。
82
こんにちも同じです。
「わたしが、来ることになっている最初の種です(女の子孫)。」 「あなたに種を与えよう。」 蛇は女を汚してしまっています。「しかしあなたに与えるあなたの子孫(種)は、彼の頭を踏み砕く。」 再び取り戻されることになります。皆さんにすべてが理解できるといいのですが。「わたしは、勝利するために、そしてイブがしてしまったことを正しく直すためにやって来た。」 その唯一の方法は、女が失敗したことを、別の女が成功させることによって、つまり、ひとりの女が疑ったみことばを、別の女が信じることによってです。「わたしは勝利を得る者です。わたしは、自身の死によって、女がしてしまった罰を負い、代わりにいのちを与えるために来ました。わたしのいのちをとおして、あふれるほどいのちを与え、あなたたちを神の子にします。」 (わかりますか。)あなたたちの内にその種があるかぎり。
あなたたちはそれを混合したので、教団の混血児を得るだけです。ただそれだけです。みことばを否定するものは•••・姉妹たち、どうか許してください。言われたとおりに言わなければならないのです。それしか方法がないのです。
83
神の子はすべて同じものであるはずです。そう、そのとおり。みことばと霊から生まれたら、ヨハネ3章にあるように、神の仰せになったことばに戻るのです。水と霊によって生まれたら、どうなりますか。そうすると、初めにそうあるべきであった状態に戻るのです。わかりますか。そのためにキリストは死なれたのです。わたしたちを元に戻すために。元の状態とは? 神の子です。
もしイヴがその子を生んでいたとしたら•••彼女はそれをやり遂げることができたでしょう。神は言われませんでしたか、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」しかし彼女は、不貞をはたらきました。
84
「それはひどい言い方だ、ブラナム兄弟。」と言う声が聞こえます。しかしちょっと待ってください。あとでそのことに触れます。「そんなこと有りえない。」と言う人がいますが、聖書ではどう言っているか調べましょう。そうすれば正しいことがわかります。それは隠されていません。もし隠されているとしたら、それは滅んでいく人に対してです。わかりますか。
85
あなたは、神の仰せになったことばに立ち帰ります。すると、神のことばが現れた者となるのです。わかりますか。イエスも同じことを言われました、「わたしを信じる者は、•••つまり、わたしのありのままを信じ、わたしの主目的である、人々を神のことばに立ち帰らせて、みことばに何も付け足させないということを信じる者は、わたしがする業を、その者もするのである。」そうなのです。
86
なぜこんにち、そのようになっていないのでしょう。それは交配、混血、混ぜ合わせだからです。騾馬なので、何を信じていいかわからないのです。騾馬は、父親も母親も知りません。純血種でないからです。私生児たる生き物です。
だから、神を信じると言いながら神のことばを信じない者は、教団の信条を受け入れて、みことばとかけ合わせてしまうのです。そういう人は神に属していません。死んでいます。死んでいながら、同時に生きていることはできません。神のことばは、そのような環境では育ちません。偽善者となってしまいます。そんなことは司教や司祭や枢機卿なんかに任せておきなさい。そうです。みことばをとるか死ぬかです。私生児のうちに神のことばは育ちません。同じ畑で育っていても、羊の囲いの中に入っていないので、育ちません。
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それで気づきませんか? わたしたちは、神の仰せのことばをが現わす者になるのです。神はそれを教会に求めておられます。ご自身を教会をとおして現されることをです。でも人の内にその種がなかったら、どうして神はご自身を現すことがおできになるでしょう。勝手な思いを抱いているあなたたちを、どうして神がお使いになることができるでしょう。自分勝手な信仰で、「うちの牧師の教えでは•••わたしの信条によれば、奇跡の時代は•••」などと言っている人が、いかにすれば神の子の現れとなることができるでしょう。イエスの死は、そういう人と関係ありません。「ええ、わたしはイエスを救い主として受け入れます。」いいえ、受け入れていません。そう言っているだけで実際は違います。その人のしていることが証拠です。イエスも同じことを言われました。「もしあなたがわたしを私生児というなら、•••」
彼らは、「わたしたちはアブラハムの息子なので、誰からも教えを受ける必要はない。」と言いました。
「もしアブラハムの息子なら、わたしを知っているはずだ。」わかりますか。 「誰がわたしに罪(不信仰)があると責めたてることができるか。神がわたしに約束されたことで、成就しなかったことが一つでもあるか。父が約束されたことで、わたしが成就しなかったことが一つでもあるか。(不信仰は罪です)それならあなたにそれができるだろうか。」彼らのプライドはくじかれました。確かに。 「誰がわたしを罪(不信仰)に定めることができるか。」わかりますか。「もしわたしが信じていないなら、なぜ父はわたしをとおして御業をなさることができるのか。父は約束なさったすべてのみことばを成就しておられる。さて、あなたはどこでそれを手に入れたのだろうか。」
88
それなら誰が私生児でしょうか? 彼らでした。神のものと称する私生児••• イエスは言われました、「あなたたちは、悪魔である父から生まれたものであって、その父と同じ業をしている。」 悪魔はどのような業をしましたか? 神のことばを、イヴをとおして交配させました。
まったく同じことを、こんにち大きな教団がしています。彼らの父である悪魔の業をしているのです。信条とみことばをかけ合わせています。それは最初に、彼らの父である悪魔がしたことです。
兄弟たちに神の祝福がありますように。そこから抜け出しなさい!イエスがそう言われました。あなたの内におられるほんの少しの神の存在でも、見て確かめるべきです。交配、なんということか。
89
もし人の内に神の種があるなら、神の霊によって水が注がれ、イエスがなさったのと同じ業を、その人もします。イエスは神の最初の種ですから、彼が死んだことによって、同じ神の種があなたに戻ってくるのです。そしてもしイエスの内におられた霊があなたの内にもおられるなら、同じ業が現れるのです。信じられませんか?よろしい、ヨハネ14:12を開いてみましょう。
あなたたちは、「ブラナム兄弟、私は本当の信者です。」と言いますが、よろしい、それではイエスがあなたたちを何と呼ぶか、調べてみましょう。
「まことに、まことに、(キッパリと断言して)あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
90
それは何ですか。同じ種です。ここに小麦を植えて、そこにも小麦を植えておいて、「さあ、こっちからキュウリを収穫して、そっちから小麦を収穫しよう」と言えますか?それは無理です。キュウリを収穫したいのなら、キュウリを植えるべきです。もし交配させるなら、もはやキュウリではなく、にせものになってしまいます。そうじゃありませんか? にせものです。友よ、はっきり言わなければなりません。それは交配した元の種のどちらとも違うものなのです。雑種で、不良品です。稔性がないので絶えてしまいます。すでに死んでいるので子孫を残せません。途絶えておしまいです。
もしキュウリがほしいのなら、キュウリの種から始めます。もし教会がほしいのなら、神のことばから始めます。もし神のいのちがほしいのなら、神のことばから始めます。神のことばをとことん全部受け入れるのです。もし神が完全な姿であなたの内におられるなら、雨が降れば、あなたの内なる庭に蒔かれたそのとおりのものが収穫できます。それでは、後の雨はどこにやって来るのでしょう。それはどこを追跡するのでしょう。エリヤが(訳注:エリシャのこと)野生のウリを持って、預言者の仲間と行ったときのことです。彼らは預言者の教団をもっていました。彼らはその野生のウリを豆だと思っていたのです。おやまあ。
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それなら、神のことばと同一の種からは、イエスがなされたのと同じ働きが現れるはずです。神のひとり子は神の模範の種ですから。イエスが洗礼を受けられたのち、聖霊が彼の上にとどまりました。イエスが生み出したいのちは、聖霊による水やりによって同じ種のいのちを生み出し、イエスがなさったのと同じ働きをするのです。もし同じ種なら同じことをします。神のひとり子の種は神の子の種を生み出します。さて、ボブカットヘアの女性は恥を知るべきです。その真理を否定して、「大丈夫、髪の毛など大したことではない。」と言う説教師は恥を知るべきです。神は大切なことだと言われました。
92
だから、わたしはみことばを信じるのです。みことばは種です。雨が種の上に降れば、同じ種の芽を出します。さて、リバイバルはどうしてしまったのでしょう。1944年には何百万ものバプテストや長老派やペンテコステなどが増えましたが、どこにイエス・キリストの働きの現れがあるのでしょう。「父が示してくださらなければ、わたしは何もすることができない。」どこからそのような種は来るのでしょう。
聖霊は、水やりをしてその種を芽吹かせます。その種には聖霊の水が必要です。その種が蒔かれると、次に聖霊の水の出番です。もし聖霊の水があなたに降りかかって、あなたが、「神を祝福します、ひとこと言わせてください説教師よ、わたしはこれこれという者で、あの事は信じません。」と言うなら、あなたは教団人間です。初めから老いぼれ偽善者でしかないのです。そういう種類の種が蒔かれていただけです。
93
どうか、どうか誤解しないでください。あなたたちを愛しています。あなたたちにこれをわかってもらいたいだけなのです。今日が終わったら、もうやめて、あとはお任せします。だけど一度でも何が正しいか、わたしがなぜ信じていることに固執しているかを知っていただきたいのです。率直に言います。わたしは、悪魔があなたたちを騙しているのを知っています。神のことばは間違いがありません。悪魔はあなたたちを騙しているのです。そうです。だから、このような説教しているのです。神がそうするよう言われたからです。
「まあ、ブラナム兄弟、今は別の時代です。」でもみことばは変わりません。2年ほど前ですが、ヨセフの時代の小麦を、穀物庫から取り出して植えてみたそうです。(雑誌でこの記事を見ませんでしたか?)すると小麦が実ったそうです。何年経っても小麦は小麦なのです。あとは水をやるだけです。
94
神のことばは何千年も前に語られた時と変わっていません。ただ必要なのは水やりです。なぜ作物ができないのでしょう。それは別の種類の種を持ったからです。
「教会のレターを変えたいと思っている人はどれだけいますか?」 始めたときより2倍、地獄の子に近づきます。「メソジストの中にどれだけバプテストになりたい人がいますか?バプテストで、ペンテコステになりたい人は?ただ教会員証を変えるだけのことです。」 ああ、なんたることか、たわごとです。くだらない考えです。悪魔のがらくたです。そこにはいのちのかけらもありません。交雑種です。偽善的です。死んでいます。2度死んでいます。根っこから引き抜かれています。イエスはこう言われなかったでしょうか、「天の父が植えられなかったものはすべて根っこから引き抜かれる。」 教団でも何でも、それらは引き抜かれるのです。神のことばだけが変わらないで存在します。そうです。だからイエスが、「すべての人の言葉が嘘でも、わたしのことばは真理である。」と言われたとおりです。
95
私たちはどうすればいいのでしょう。正気に戻るべきです。しかし聞くことができるように前もって定められていなければ、聞くことはできません。そのことについても触れていきます。聞くことができず、アヒルの背中に水が落ちるように、落ちてしまうのです。羽は吸水するためではなく、撥水するためにあります。
箱舟はゴフェルの木やシッティムの木から造られました。その木は空洞なのです。中ががらんどうになっているのです。そのような性質を持った木なで、バルサムの木よりも軽く、最も軽い木なのです。なぜそうなのか?それはタールを染み込ませるためです。「樫の木だっていいじゃないか。」と誰かが言っても、それではだめなのです。樫では弾いてしまって染み込ませることができません。樫は撥水性で、ゴフェルは吸水性です。そして本物の神の種は、霊を吸収します。すべての教団主義は取り除かれ、あらゆる不信仰も取り除かれます。苗床に横たわるいのちの胚芽に、聖霊が訪れると、新たに種をもうけます。新たな神の子の誕生です。(アーメン)新たな幼い神、神の子です。
96
わたしはチャーリーとエラ・ブラナムから生まれたので、ブラナムです。彼らが合意の上で種子を結合させ、できた種、それがわたしです。
神と神のことばが結合すると(ハレルヤ)、神の霊が神の種、神のことばに水やりをします。そして神が生まれます。それは一個人ではなく、神です。なぜならあなたは死んだのです。死んだので、もはや、あなたではないのです。自分が死んで、中ががらんどうになったとして、胚芽ができるのを待っているのです。もはや、あなたではないのなら、何でしょう? それは人ではなく、人の内におられる神です。それは、神が初めに仰せになったことばのように胚芽です。神のことばが人に現れたのなら、その人自体は、死んだものとなるのです。同時に私生児と嫡子になることはできません。死の子かいのちの子かどちらかにしかなれません。もし死の子なら、悪魔に手渡して、殺させなさい。そしてちょっとの間神にお渡しして、神が、その人の内にいる悪魔を殺して空っぽにされるようお任せするのです。それから、神があなたの内にご自身のいのちを植えつけてくださるよう、お任せするのです。するとあなたではなく、神のいのちを生きる者に変えられます。聖霊によって水やりされた神のことばは、同じものを生み出すからです。わかりますか。これについてお話ししたいと、どんなに願うことか。しかし3、40ページの資料のうちまだ3ページしか進んでいないのです。
97
イエスがなさった業と同じことを、わたしたちがするのです。同じみことばですから。もしあなたがキリストの働きをしたいと思うなら、キリストがなさったのと同じことをしなさい。「わたしを信じるものはわたしがしている働きをする。」 何を信じるのですか。わたしたちのもとに来られたキリストは最初の種の胚芽であるということです。その種はどこにおられるのでしょう。ここにあるハンカチを使って説明しましょう。ここに、本来そうあるべき人がいます。本来のあるべき人です。それがどうなってしまったのでしょう。イヴが交配してしまったので雑種が生まれました。するとどうなるのでしょう。死ぬ者となってしまって、繰り返し死んでいくのです。
みことばは、変わらずにここにとどまっておられるのに、何が起きたのでしょう。神のことばは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と仰せられたとおり、ここにとどまっておられます。このみことばは、落ち着く場所を探していましたが、とうとう、ひとりの処女の胎に場所を見つけました。(二つの胎について、午後にもっとお話ししたいと思います。)そしてどうなりましたか。このお方から、いのちの胚芽が生まれました。聖霊の水が与えられると種の核ができ、繁殖できる状態になります。聖霊はこのお方から来て、上って行かれました。
98
そして、わたしたちが登場しました。何が起こりましたか? わたしたちは信じたのです。さて、イエスは何と言われましたか? 「わたしを信じる者は(わかりますか)•••わたしを信じるものはわたしがする業をします。−−聖霊が鳩の姿になってわたしの上に現れ、そしてこのことをされたのです。(交配によってではなく、処女懐胎によって)」 通常夫が妻に行う生殖行為ではなく、交配ではなく、処女懐胎によって。「あなたが信仰によって、父や預言者たちや神のことばすべてを受け入れるなら、わたしはこのいのちをあなたに注ごう。するとあなたは、他ならぬわたしと同じことをするようになる。」
99
「わたしがしている働きをその人もするのである。」イエスは何をされましたか? 父から示されたことだけをされました。聖ヨハネ5:19で、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」とあります。神は人になられたのです。神は人となりわたしたちの間に住まわれたとあるとおりです。神が仰せになったことばは、処女をとおして生まれ、その体に水である聖霊が宿られました。みことばの水で洗われたのち、イエスの内に入り、とどまられたのです。そしてキリストの内に神ご自身が、神のいのちが現れ出ました。神は、油注がれたお方であるキリストの内におられました。
100
キリストは、「油注がれたお方」という意味です。人に神が宿っておられるとはどういうことでしょう。人の体に宿った胚芽、油注がれたお方が、神の霊の油注ぎを受けて、神のことばの現れとなられたのです。「そしてわたしたちはこの方を見ました。父のひとり子、栄光に満ちたお方•••」 わかりますか。これがキリストです。神のことばの現れです。そのお方が、交雑種となり果てたわたしたちの負債を支払うために死なれたのです。(なんということでしょう。)そのおかげでわたしたちは、もはや自分で無くなるほど自分に対しては死んで、神のことばで満たされ、神のことばを信じることができるようになりました。すると、キリストの内におられる聖霊が、そのみことばに水やりをなさり、成長させてくださるのです。わかりますか。
すると何でしょう。ひとり子の働きを継続するために、神が現れてくださっているのです。というのは、わたしたち交雑種の命のために死んでくださったお方によって、神と和解し神の子としてくださり、教会をとおしてみことばによって同じいのちが流れるようにしてくださり、キリストの内にあったみことばを引き続き現して行くことができるようにしてくださったのです。キリストは神のことばの現れです。このお方は、死んでいのちを与えてくださいました。キリストの体は上げられ、霊が降ってきました。もし信じるなら、「わたしを信じる者はわたしの行う業を行う•••」 もし信じるなら、この神のことばの上に聖霊が降りてこられて•••
101
聖書のどこにそんなことが出ているのか。」
聖書はあなたの中にあるはずです。みことばは種です。ここにある限り変化しませんが、みことばが心の中に届くと、聖霊によって神の働きを現すのです。すると幻が訪れ、力を得、謙遜になって「なんでも知っている」的態度が消えます。あなたは空っぽになり、キリストが勢いを増します。あなたは死んで、キリストが生きるのです。キリストが死なれて、わたしが生きる者とされました。わたしが死ぬとキリストが生き、わたしが死ぬとき、キリストはいのちを約束された。だからキリストのいのちをいただくために、わたしは自分に死ぬのです。どのようにするのですか。種である神のみことばを信じて受け取るのです。そうすれば、聖書に書かれていることが実現します。
102
さて、兄弟の皆さん、国中を見渡すと、いかに偽物が多いかわかります。もう少し話を続けますね。
キリストがなさったのと同じ働きを教会もするはずなのです。聖ヨハネ14:12に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、また、それよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとにいくからです。」とあります。キリストは、種である神のことばが人となるよう、前もって定められたいたので•••ここで止めておきましょう。あなたたちは大丈夫でしょうが、テープを聞く人の中には理解できない人もいるかもしれません。
103
わたしたちは、すでに定められていたのです。神の子たちはすべて、先に決められていました。それについてあとで聖書で説明します。箇所はエフェソ1章5節です。わたしたちはすでに定められていたのです。なぜ? キリストは最初の種です。そしてこの最初の種が、やがて起こる堕落により、わたしたちの身代わりとなることを、神は予見しておられました。神の子たちはすべて、先に定められていたのです。あなたたちは言います、「それなのに、神は非難されるのか?」 いいえ、そうではありません。人には自由意志が与えられています。神が知っておられるというのは•••・。神は無限のお方なので、すべてのことが起こる前に、すでに知っておられるのです。わたしたちが誰かということも、ずっと前にご存知です。
104
さて、神はイヴにそうさせたわけではありません。神がさせたわけではありませんが、イヴがそうすることはわかっていました。聖ルカ12章に(訳注:ヨハネ12章のこと)「彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。」と、イザヤを引用したことばがあります。イザヤはイエスの栄光を見たので、こう語りました。彼らは目も耳もすべて揃っていましたが、見ることができませんでした。なぜでしょう。彼らは神のことばを寄せつけなかったのです。それでイエスは、「ああ、偽善者よ、あなたたちは悪魔の子であり、悪魔の業をする。そしてわたしを非難する。わたしの働きを拒否する。」と言われました。キリストと同じく神のことばを余すところなく生み出す働きをしたミニストリーがあるでしょうか?
105
「どのようにしてそのような予定説ができたのか?」
これに関してすべての人が理解しているわけでありません。終わった後で手をあげてください。
106
初めに神はアダムとイヴに、生めよ増えよ地に満ちよと命じられました。それで性交という行為が与えられました。しかし交配の結果どうなったでしょう。死が入り込みました。これに関しては、午後、2つの胎の話の中で説明します。
さて、神は予見によって、息子や娘たちの世界を定められました。彼らがそこに存在することはあらかじめ定められていたのです。彼らは、神のことばに疑いをかけて交雑種になってしまいましたが、その後神は、彼らを最初のあるべき状態に戻してくださいます。最初のことばに戻って、神の子となることができるのです。創造の初めのときのように。
107
キリストはキリスト以外にはなれませんでした。神のひとり子だったからです。そうです。言わんとすることをわかってもらえますか。もし熱心なら、神のことばを見て信じます。なぜ? 何か新しいことがあるからです。なぜ? 家系に伝わる特徴について聞いたことありますか? 息子が父親に似ているとか、あるいは母親か祖父母に似ているとか。それが系統とか同族とかいうことです。聞いたことあるでしょう。神によってすでに定められているというのも同じことです。本来なら正しい仕方であなたはここに存在しているはずなのですが、今の仕方で生まれてきたので、死に服従させられています。しかし定められているので、あなたは神のことばを聞き、それによって本来のあるべき姿に戻されます。アーメン。何が神のことばを信じさせ、他のことをはねつけさせるのでしょうか。それは、あなたの内に何かがあるからです。はるか大昔に、あなたは永遠に生きる者として造られていたのです。
108
「よろしい。では、それを述べた聖句は?」
そう来ると思いました。聖句は、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)
「それなら、説教して何の徳になるのか、ブラナム兄弟。』
作物が育っているのです。わたしにできることといえば、網を仕掛けることです。ただできるだけ遠くまで網を投げることだけです。この世の垢にまみれている人々はそれをはじきますし、教団もそれを振り捨てます。仕方のないことです。しかし、それを受け入れる人もいます。その人は間違いなく神の子に戻ります。(アーメン)すでに定まっているからです。
109
それでイエスをとおして、神は働くことができたのです。イエスは定められた子でした。彼は、天地が創造される前から屠られた子羊でした。何千兆年も前、創世記1:1で神が語られる前に、イエスはその役割を負っていました。アーメン。それでイエスは父のみ旨を行ったのです。彼はみことばの現れでした。イエス以外の子たちも皆、同じ現れになります。そう定められているからです。
110
世界が始まって以来、すべての時代の小さな群れは復活することになります。彼らが忍耐した理由•••。パウロもヘブル書11章でこう言っています。「ある人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖でつながれ、牢に入れられるめに会い、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊やヤギの皮を来て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、ー この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。」アーメン。パウロが言う、のこぎりで引かれた人とは誰ですか。預言者イザヤです。彼は、この世が始まる前から預言者に定められていて、イヴの胎から誕生するはずでしたが、女の胎から誕生せねばなりませんでした。彼の霊は証しをするためにやって来ました。
イエスも証しをするために来られました。死と埋葬と復活を経験し、人は死んでもキリストによって復活することを証しされました。イエスは来るべき種だったからです。アーメン。わかってほしいです。
111
イエスと同様に定めを受けているあなたは、神の教会であり、みことばの種を持っています。
「確かに、ブラナム兄弟、わたしはすべてのみことばを信じます。」 それなら伝統の道に後戻りしないでください。しっかりみことばにとどまって、何が起こるか注意していなさい。「主よ、みことばを信じます。聖霊を送ってください。」と言って、よく観察していなさい。もし神が証しされたら、あなたはそれを受けたとわかります。感覚によってではありません。悪魔もそうします。奇跡によってでもありません。悪魔も奇跡を起こします。神のことばを絶えず信じて、決して否定しない、そういう生き方によってわかります。そうです。それが、みことばが現れたこと、霊の水やりが行われたことの証しです。
112
さて、見逃してはいけないことがあります。イエスは肉的に言えばアブラハムの子孫でした。約束された子孫です。霊が降りてから、イエスはどのような生き方をされましたか。信仰による生き方です。
「つまりアブラハムのように逗留者になるということですか?』
そこがこんにち、勘違いされているところです。神の人はこうしなければならない、それに従おうとか思っている人がいます。ああなんという勘違い。キリストは、どのようにしてアブラハムの子孫だったのでしょう。彼の体から出た者ということではありません。なぜなら、イサクの子孫はしまいには堕落して死んでしまいました。背教して交雑種となってしまいました。率直に言います。アブラハムの信仰の種、つまりどんな状況でも神のことばを信じる信仰を継承している者が、アブラハムの子孫なのです。そうです。叫びだしたくなりました。アブラハムの信仰の種•••それはアブラハムの肉から出た者ではなく、アブラハムの信仰を継承する者です。彼は何を信じましたか? 神のことばです。何が起ころうと、みことばに相反するものは無きものとみなしました。なんとまあ、教団など、バラバラに引き裂かれてしまうことでしょう。確かに。
113
もし、結婚と離婚について聖書に書かれている真理一つだけでも取り上げて説いたら、あちこちの町の教会で議論が起こることでしょう。でも皆、間違っています。みことばからそれを証明できます。男性はこうするべきああするべきで、女性はああするべきなどと、わたしは何も言う気はありません。すでにわたしは、彼らの混乱の元にじゅうぶんなっていますから。イエスは、「彼らを放っておきなさい。瞽が瞽を導いている•••」と言われました。彼らはただ騒ぎ立てているだけで、信じようとしません。もし彼らが、永遠のいのちに生まれついていたのなら、みことばを信じたはずです。わかりますか。そうです。彼らがそうしないなら、神が彼らにご自身を現されることでしょう。彼らが信じないのなら、信じないだけのことです。
114
先にこちらの方の話をすませてしまいましょう。なぜわたしが、それらのことを信じるのか、どのようにそれを信じるべきなのかを話します。信じなければいけないのです。もし信じないなら、滅びます。
「何を信じるのですか、ブラナム兄弟、あなたをですか?』
いいえ、わたしをではありません。みことばのことを言っているのです。何も新しいことを言っていません。ただ、聖書が、みことばを信じるよう伝えていることを話しているだけです。わたしは、みことばを、書いてあるとおりに信じるよう努めています。何もつけ足さず、削りもしません。書いてあるとおりに読み、信じる、それだけです。全能の神の恵みと助けにより、神はそれを証明してくださいます。誰か、それが間違いだと立証できますか。さて、テープを聞いているあなたにも尋ねます。一度でも間違ったことを話したことがありますか?•••神が証明してくださらなかったことが。今まで一度でも、言われたとおりにしたのに、神が証明してくださらなかったことがありましたか?
115
彼が、みことばの種を結ぶよう定められていたように、何に、同じ水が注がれたでしょう? こんにちの教会は,
花嫁に定められていますか? 神は、シミもシワもない花嫁を迎えると言われませんでしたか? それなら、定められているのではないでしょうか。わかりますか。キリストはアブラハムの高貴な胤に定められていましたが、彼の上に霊が下ると、神のことばを証ししました。霊である水が、みことばの種に注がれると、アブラハムの信仰の高貴な胤は同じ作物を生産するのです。
「そんなこと信じられない。」 いいでしょう。わたしたちがアブラハムの子孫かどうか、調べてみましょう。創世記17章です。「そんなこと信じられない」と批判する人の、何人かにでもわかってもらいたいのです。17:7です。6節から始めましょう。
「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし(アブラハムの子孫)、あなたを幾つかの国民(全異邦人の)とする。あなたから、王たちが出て来よう。
わたしは、わたしの契約を(ここに注意して!)、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」
116
アブラハムの子孫とは誰でしょう? アブラハムから生まれた子たちではありません。パウロは、律法を守らないユダヤ人は、ユダヤ人ではないと言いました。だから、内面がユダヤ人のことを指しているのです。わかりますか。アブラハムの子孫とは、教団や両親や誰かがなんと言おうと、神のことば全部を信じる者のことです。神は、「わたしは、わたしの契約をたった今(すでに定められていたのです)、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの信仰を持つ子孫との間に立てる。」と言われたのです。
117
「ブラナム兄弟、それはすべての人に与えられる•••」 ちょっと待ってください。エフェゾの手紙1章を調べましょう。ここを読んで、神がなんと言っておられるかみましょう。
さて、聞いてください。パウロは誰に宛てて書いているのでしょう。みなさん、用意はいいですか? もうあとちょっとで、・・だいたい45分くらいでお昼休みにしますから。注意して聞いてください。
使徒パウロ(使徒とは何ですか? 遣わされた者です。)•••イエスから遣わされたパウロが、(正しいですか? 「サンヘドリンの意志により」あ、間違えて読んじゃいました。「ルターの意志により、あるいは•••」まあとにかく)
「神のみこころにより、キリスト・イエスに遣わされたパウロから、聖徒たちへ・・(誰へ? すべての人へ? いいえすべての人が受け入れることはできません。)キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」
118
それは、すでにキリストのうちにいる人たちのことです。ここにいる皆さんが、その人たちであることを望みます。すでにキリスト・イエスにある使徒たちです。わかりますか。赤ちゃんに伝えることはできないのです。彼らはミルクを飲むのであって、固い食べ物は食べられません。彼らは成長が止まっています。覚えておいてください。彼らに固い食べ物は無理なのです。さて•••
「忠実なエペソの聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなた方の上にありますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、(さて、パウロは教会に対して語っています。外部ではなく、教会です)天にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださいました。(ここにいる人たちのように、よく噛んで消化するのが大好きな人に対して語っています。)
119
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び•••」
わたしたちが神を選んだのですか?  「おおブラナム兄弟、失礼ですが、私が選びました。」 そうではありません。みことばによれば、あなたではありません。イエスは、「あなたが選んだのではない。私が選んだのだ。」と言っておられます。
神はいつ、 イエスはいつ教会を選んだと言われましたか? 世界の基が置かれる前です。
「世界の基の置かれる前から彼にあって選び•••(先のリバイバルで誰々博士にあって選ばれた? いいえ、あなたはそれを信条のテキストで読んだかもしれませんが、ここでいう「彼にあって」は違います。)
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び•••」
(いつ、わたしたちは選ばれたのですか? 先のリバイバルで? 救われた晩に? いいえ、世界がまだ存在せず、星もなく、原子も分子もなかったとき、わたしたちは選ばれたのです。アーメン。おお、どうかわたしに説教を始めさせないでください。今は説明をする時間ですから。)
「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、(教会員にしようと? いいえ違います。)御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと(最初の種•••)、愛を持ってあらかじめ定めておられました。(何ですって? あらかじめ定めておられた•••おお)」
120
誰がそうしたのですか? 神です。いつそうしたのですか? 世界の基が置かれる前です。イヴの犯した過ちにより、彼女から生まれるすべての子が非合法の子となって死ぬ運命にあるなら、君主たる神は、ご自分の子を救い出す方法を作りださなければなりません。「父がわたしに与えてくださったものはすべて、わたしのもとに来る。父が引き合わせてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない。」さて、あなたの成した偉業などあるのでしょうか? 本当は何もしていないのです。あなたは恥じ入るべきです。すべては神の成せる業なのです。輪はきちんと動いています。
先日ある人がやって来て、誰かがわたしに関して何か悪いことを言って、わたしを非難していると告げました。わたしは「ああ、放っておきましょう。」と言いました。
「どうしてそんな風に受け流せるのですか、あなたの家族に関わることなのに。そんなに•••』
「おやまあ、それは世界の基が置かれる前から定められた、わたしの試練なのです。だから、まあまあ、構わないのです。」
「どうすれば、受け流せるのです?」
それで言いました、「下を見ていたら、わたしはしょっちゅう落ち込んでいなければなりません。」
121
今の人たちの実情はそんなものです。「ブラナム兄弟、もし神のことばの真理を受け入れたら、わたしは村八分にされてしまいます。」 だから、どうしたというのですか。あなたは何を求めているのです? 道の終点を見やるのです。近くばかりを見ていると、迷子になります。もし、あなたがどこに行くのかわかっていて、遙か目的地に目を向けるなら、周りでごちゃごちゃしていても気にかかりません。わかりますか。そうです。あなたの目標に目を向けるのです。みことばにつながって、とどまっていなさい。
122
神はご自分の子にしようと定められた•••さて、わたしたちはすでに、神の子になると定まっているのだと信じますか? 光も流星も分子も原子も何も存在する前に、イエスはすでに屠られた神の子羊でした。ああ、神のなんと深淵なことか。それなのに不自然でちっぽけな培養器から産まれたちっぽけな頭脳が、神の叡智に討論を挑むとは。恥ずかしいことです。
いったい自分を何者だと思っているのでしょう。地獄の鉢の上で毎日暮らしながら、地獄など存在しないと言っている人もいます。地面の1万3千キロ下にはマグマが湧いているのに、上を向いて神と神のことばを無視しています。みことばを受け入れないということは、神を拒むということです。なんということ。主よ、なんとあなたは偉大なのでしょう。どれほどありがたいことでしょう。
123
だから信じる人とみことばと霊は、ひとつにならなければいけないのです。もう一度言います。信じる人とみことばと霊は、完全にひとつなのです。自分の考えでするのではないのです。自分の頭を使わなくてもいいのです。素晴らしいでしょう? キリストの思いがあなたの内にあるからです。あなたの内におられるキリストの思いが、みことばを受け取って、キリストと同じ働きをするのです。キリストはみことばだからです。あなたの内にキリストの思いがあるなら、あなたはみことばとなるのです。するとあなたは神の生きたことばとなり、地上で神を現す働きを継続します。(そうです!)教会はそうあるべきです。
すると、初期の時代、使徒たちがしたような働きをするようになり、聖書が再現されます。聖書があなたの内で息を吹き返します。
124
さて、少なくてもあと15ページくらい話さなければならないのですが、急ぐのは嫌です。でも急がないと、午後にひびきますし、明日別の集会がありますから。できるだけさっさとやりましょう。皆さん、信じてますか?
125
よろしい。それで、聖書がキリストの始めの頃のように息づいてくるのです。キリストと同様、あなたも神によって定められた種ですから、雨によっていのちを吹き返すのです。イエスご自身が選ばれた種の上に、聖霊が降りると•••いつ選ばれたのですか? 世界の基が置かれる前です。それなら、彼らは定めの種です。そうでしょう? 彼らは重い足取りで二階に上がって行きました。彼らはみことばの種でした。しかし活気のないみことばでした。
突然、天から音がして、水がどどっと落ちてきて、彼らのいる家を満たしました。すると種は成長し始め成熟して神のことばになりました。
126
それでは、なぜリバイバルの火が弱まってしまったのでしょう。それについて、10の聖句を挙げて知らせるべきなのですが、多くを飛ばします。大まかなことをわかってもらうために。
いつからリバイバルの火が弱まってしまったのでしょうか? さて、個人の名前を挙げなければなりません。本当はしたくないのですが、神から示されたので、名前を挙げます。言いたくないことを言わなければなりませんが、はっきりさせるために•••わたしが貫いていることの理由を話していますが、どこにたどり着こうとしているか、だんだん見えてきましたか? わたしは、これがみことばであると信じます。キリストは教会を持っておられて、教会は畑で(後でもっと詳しく話します)、霊が来られる前にあなたは畑にある種を持っていなければいけないのです。わかりますか。
127
なぜ、リバイバルの火が弱まったか。最近は、ビリー・グラハムが偉大な宣教をしているという声を耳にしません。オーラル・ロバーツは、かつてのように国中を熱で沸かしていません。わたしの集会などは、話題にものぼりません。ちょど3人だけでもこのありさまです。どうしてしまったのでしょう。
さて、これから本当に難しい教えをします。もしこのテープが、ビリー・グラハムやオーラル・ロバーツの手に渡ったとしても、兄弟であるあなたたちを決して軽視してはいないということをわかってもらいたいのです。福音を宣べ伝える同志として、わたしも含まれていることを理解してください。その後、わたしが貫いていることの理由をもっとよくわかってもらえると思います。神の前とあなたたちの前で、正直にその理由を話すことで、理解を得ることができればと願います。
128
さて、ビリー・グラハムによって世界が燃え上がったのは、そう昔のことではありません。彼のミニストリーは続いていますが、今はそれほど評判を聞きません。どうしたのでしょう。 オーラル・ロバーツは地上を炎上させましたが、今は衰えています。トミー・オズボーン、みんな素晴らしい神の人たちです。どうしてしまったのでしょう。わたしは神からの召しを受けたと信じていますが、わたしのミニストリーはどうなってしまったのでしょう。さて、これらの疑問への答えを教えます。何が起こったのでしょう。
「ブラナム兄弟、あなたのミニストリーは最も衰退していますよ。」 それは本当です。そうです。ビリー・グラハムのは、わたしのよりずっと話題にのぼります。ビリーのことはオーラルのよりもよく聞きます。一日にオーラルのことが話題にのぼる量は、わたしのことを聞く六ヶ月分に相当します。トミー・オズボーン、トミー・ヒックス、これら神の人たちの方が、わたしよりずっと話題にのぼります。こうしていくと、わたしのミニストリーが、最も遠のいてしまっています。何が起こったのでしょう。「ブラナム兄弟、あなたはみことばやすべてを本当に信じていると言っているのに、いったいどうしたことですか。何が起こったのですか。」 それはわたしたちも知りたいことです。
129
さて、傘を閉じて雨粒を振り落して、ちょっとのあいだ心を開いて聞いてください。始めに創世記1章を読みましたね。種を生じる草を種類にしたがって、地の上に芽生えさせよ。そうです。大地は種でいっぱいです。雨が降るとそれぞれ種類にしたがって芽を出します。
わたしは、収穫期が近いと信じています。そうではありませんか? 皆さんもそう思っていますね。わたしたちは、間もなく収穫期を迎えることになります。さて、種は蒔かれました。そのことが大切なのです。種は蒔かれました。その時、わたしの前を何が過ぎていったか、あなたたちにも見えたらいいのに。種は蒔かれました。蒔く時があり、収穫する時があるのを覚えておいてください。彼らは知っていると言いました。
130
さて、3種類の種が蒔かれました。教団の種を巻いたのはビリーグラハム。彼が種まき人の大将です。オーラル・ロバーツがペンテコステ派の種を蒔きました。それからみことばの種が蒔かれました。さて皆さん、聞いて理解しなければなりません。神から言われない限り、わたしはもうこのことを話しません。だからしっかり聞いて、理解してほしいのです。3種類の種が蒔かれました。それで種まきの時は終了しつつあります。(わかりますか。)完了しつつあるのです。種は、雨が降る前に蒔かれなければなりません。(そうですね?)雨とは霊のことですが。さてこれから反対しようとしているあなた、ちょっとの間、我慢してください。種が蒔かれて、それから雨が降って種に水やりをします。そうですね? さて、ここにいる人で、ヘブライ語がわかる人がいますか? よかったら、単語を調べてください。
131
多くの教団等が、今は後の雨の季節だと言っています。そういう声を多く耳にしますが、ばかげています。そんなことはありえません。おっと、•••何かが起こっています。私の目の前を通り過ぎました。霊が動くのが見えたのです。アーメン。これで、今行ったことが真実であるとわかります。これは『主がこう仰せられる』確証です。幻で、ちょど来たり動いたりして•••下を向くことができません。いつもですが、見るとこんなふうにわたしの前で上昇して、急に止まります。そしてこう動き、こう見えます。ここら辺に座っている人を見ようとしているのしているのですが。あっちを見て、どこでもわたしが見ると、そこにいるように見えます。
さて、もとに戻ってもう一度始めましょう。実際に何が起こったのかまったくわかりません。
132
見てください。わたしは収穫の時が近いと信じています。種は植えられました。福音教会、バプテスト教会、長老教会、ルーテル教会などの教団の種が蒔かれました。それからペンテコステ派の教団にペンテコステの種が、オーラル・ロバーツやトミー・ヒックスやトミー・オズボーンのような偉大な神の人によって蒔かれました。そして神のことばが、教団などの不純物に紛れることなく蒔かれたと信じます。それが重要なことなのです。わかりますか。
種が蒔かれると、成長するために水やりが必要です。
「どうしてです? ブラナム兄弟、そこには・・」
そうです。そのとおり。あなたの考えていることがわかりました。隠すことはできません。だから頭の中で考えていることに気をつけなさい。
133
さて、種は蒔かれました。今度は育つために水が必要です。「ブラナム兄弟!(あなたが頭で考えていることを明らかにします。)わたしたちはすでに水を得ました!」 そう言うのならそうでしょう。確かに、水を得ました。キャベツとか、何かの種を蒔いたことはありますか。通常・・・蒔いた時に水をかけますよね。わかりますか。
でもちょっと待ってください。種まきのときに降ってきたのはなんでしょう。初めの雨です。「ああ、ブラナム兄弟、それは馬鹿げている。」
ちょっと待ってください。ヨエル書2章にある「初めの」という単語の原語を調べてみてください。書き留めたい人は書き留めてください。moureh モレーです。モレーは、ヘブライ語で教えという意味です。アーメン。教えの雨が先行したのです。教団の教えの雨が降りました。「44年に百万人増」運動です。バプテスト、某氏、誰それ氏を教会員に。オーラル・ロバーツをはじめとする兄弟たちも、ペンテコステ運動を展開し、経済的•••・大ペンテコステ運動によって会員が何百万人にも膨れ上がりました。わかりますか。そうです。そしてみことばの種まきも行われ、ほんの少数の群れができました。
134
さて、moureh モレーという単語は、「教え、初めの雨」という意味です。教えの雨が先行したのです。
ビリー・グラハムは世界に衝撃を与えました。ペンテコステ運動も世界に衝撃を与えました。みことばも世界に衝撃を与えました。さて、今はどうなっているのでしょう。今は後の雨が降るのを待っているのです。そのときこそ、種が成長して実を結ぶのです。理解してください。
135
畑に種を植えると、同じ種の作物を実らせます。教団がもっと教会員を欲すれば、教会員を得ます。それが教団の得たものです。ペンテコステがもっとペンテコステ派を望めば、それを得ることになります。しかし、みことばは神の子を生みます。必ずやってきます。著しい後の雨がなすべきことに注意を払ってください。いかに壁を這い上り、飛び越え、来るべき軍隊になるかを。待っていてください。あなたが得る作物は、あなたの畑に植えられた種と同じ種類です。
136
ふたつの種類の教派は統合してソドムに向かいました。しかしみことばは、選ばれた高貴な種と一緒に残りました。アーメン。わかりますか。イエスは、「ソドムの時代にあったようなことが、人の子が現れる日にも起こる。」と言われました。二人の天使が、二人の油注がれた使者がソドムに下って行き、少しばかり神を思う気持ちが残っていた背教者とその妻を救い出そうとしました。彼の花嫁が不名誉なことをしたのはご存知ですね。その娘たちときたら、脱出した後、何をしでかしたことか。「滅茶滅茶場ちがい」な状態。変な言い方で失礼。ちょっとしたギャグです。でもいつもそうでした。さて、神のことばを拒むことはできません。
137
しかし、ひとりはアブラハムのもとにとどまって、しるしを与えました。そうですね? アブラハムとその集団はなんと呼ばれましたか? 下って行かなかった、選ばれた種です。彼らは巡礼者でした。こっちに旅し、あっちに旅し、そっちに旅して超教派の身に徹していました。しかしあの教派は下っていって町を作り、ロトは司教のようなもの、つまり町の重役になりました。町の門のところに座って、裁きをし、「いいや、そんな奴を町に入れてはいけない。そいつは我々の神学に反対しているから、追い出せ。」なんて言う人になっていたのです。ロト老人は、座って「我々のグループの信用状を持っていないの者は受け入れるわけにはいけない。」なんて言っていました。いったい、誰があなたを神の家の判事に任命したのか、交雑種よ! 神のことばは、どんなことがあっても宣べ伝えられていくのです。
138
聖マルティンはそのような集団のところに行きました。彼が門を破って入っていくと、男(訳注:皇帝)は立って彼に敬意を表そうとしませんでした。それで神は、彼の衣装に火をつけて、無理やり立たせ、町に入った神の預言者に敬意を表させました。そうです。彼が座っていた王座に火がついたのです。教会史に載っています。聖マルティンは真理のことばを携えて下って行き、奇跡としるしをおこない、みことばの正しさを証明しました。彼らには独自の司教職があり、すべて事足りており、したいことをしていましたが、神はマルティンを送って•••。もしかしたらその集団の中に選ばれた子がいて、救い出さなければならなかったのかもしれません。
139
さて、ちょっとここで止まりましょう。ロトにはかつて、超教派になる機会があったのです。彼には、アブラハムと旅を続けるという選択肢がありましたが、この世の執着が彼を留めました。今も同じ状況が続いています。ソドムにいた人たちは奇跡を見ませんでした。彼らは目が見えなかったのです。神のことばが宣べ伝えられると、不信者の目は見えなくなります。ビリー・グラハムたちがやったのもそれです。信じない者たちの目をくらましたのです。イエスが言われた、「ソドムの時代にあったようなことが、人の子が現れる日にも起こる。」ということばを否定することはできません。それは聖書に書いてあります。人の子が現れるときにも同じことが起きると。
140
さて、ここに注意してください。みことばであるお方がいました。このお方はどこにいましたか? 約束された者、選ばれた者とともにいました。みことばは選ばれた者と一緒にいました。今も、神のことばは選ばれた者、約束によって、アブラハムの高貴な種となった者のところに来てとどまります。
そのお方は何をしたのでしょう。八百年後にイエス・キリストのお姿でなさったのと同じ働きです。アブラハムの天幕の入り口で、天幕を背にして、このお方はアブラハムの名前を呼びました。アブラムではなくてアブラハムと呼びました。数日前に彼は神と会い、アブラハムに名前を変えられていたのです。そして知らないそぶりで、「あなたの妻のサラ(サライでなく)はどこにいますか?」と聞きました。
「あなたの後ろの天幕の中です。」
彼は、「私(一人称単数形です)は来年の今頃、必ずここにまた来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに待望の男の子が生まれているでしょう。後の雨が降ろうとしています。あなたは信じて、すでにじゅう分長い間種を寝かせていました。約束の子はやって来ます。」アーメン。これが今の真の教会、選ばれた子孫へのことばでもあります。
「あなたは彼が来るのをずっと待っていました。わたしは彼をあなたのもとに送ります。」アーメン。誰がそういったのですか? みことばです。
141
「ああ、それがみことばであるわけないじゃないか。」 失礼ですが、アブラハムは彼をエロヒムと呼びました。全能で至高なるお方のことです。彼はみことば、エロヒムでした。どこにやって来られましたか? アブラハムの種のところです。
このお方は教団教派とは関係を持たれないのです。選ばれた者のところにまっすぐ来て、伝道し、しるしを行われました。そしてイエスは•••さて、ちょっと待ちましょう。
142
しかしサラは、•••。汚染に注意しましょう。わかりますか。実際に疑いをかけたので、神はその場で彼女を殺すこともできました。知っていましたか? 彼女は否定して密かに笑いました。多分声を立てずに、心の中で笑ったのでしょう。(編:ブラナム兄弟がサラの笑いを再現してみせる)ほんのちょっと笑ったのです。「私は年老いてもう百になろうとしている。閉経して五十年も経っているし、主人との夫婦の関係は二、三十年もない。それなのにわたしの主人と楽しみを持つと言うのですか。」わたしの主人、アブラハム。皆さん、サラのように夫のことを大切にするべきです。パウロも同じことを言っています。夫をそのように愛しなさいと。別の何かと混ぜ合わせてはいけません。
わかりますか。あなたの心を思い起こしなさい。午後に胎の思いについて話します。
143
サラはアブラハムを、わたしの主人と言うくらい愛していました。「わたしの主人も同様に年老いています。それなのに二人がまた楽しみを持つのですか?」  そして彼女は、・・(編:ブラナム兄弟がサラの笑いを再現する)。すると天使が正体を現しました。彼はみことばだったのです。彼は言いました、「なぜサラは笑ったのか。」彼はサラに大声で言いました。サラは答えました、「いいえ、笑いませんでした。」
「いや、確かにあなたは笑った。」 神の憐れみに他ならない。神はその場で彼女を殺すところでしたが、できませんでした。ああ、わたしたちの愚かさがわかりますか? 神はわたしたち皆を殺したいところですが、それができません。もしサラを殺したら、アブラハムを取り去らなければならなくなります。サラはアブラハムの一部ですから。彼らは一体なのです。教会を取り除いて破壊することはできません。教会はキリストの一部ですから。みことばは人となられました。「驚くような神の恵み、なんと甘美なことか。」神にはできないのです。わかりましたか? 神には彼女の命を取り去ることができませんでした。アブラハムの一部、彼の肉の肉、骨の骨でしたから。
144
失敗しても、「ああ、わたしは失敗してしまった。」と言ってはいけません。アブラハムも何度も失敗しました。わかりますか。でも神は教会を取り除くことも、選ばれた者を取り除くことも、あなたを取り除くこともできません。あなたは神の一部ですから。あなたはみことばです。みことばはあなたの内にあります。みことばが現れていることで、それがわかります。それは愛、喜び、平安、辛抱強さです。神が語られたことばをすべて信じると、神はあなたをとおして働かれます。だからあなたは、キリストであるみことばの一部なのです。キリストはみことばであると教えられています。そしてわたしたちは、キリストの肉の肉、骨の骨なのです。それがわたしたちです。さて、次に移りましょう。
145
モレー、モレー、雨、初めの雨、種植えの雨が先行しました。さて、何が起こりましたか? 初めの雨が降って種が植えられました。それから後の雨が降りました。何が起こりましたか? ソドムの町とその住民は焼かれました。そしてアブラハムは約束の子を得ました。
イエスは、「両方とも育つままにしておいて、刈り入れの時、毒麦を集めて焼くために束にし、麦は倉に入れなさい。」と言われました。わかりますか。後の雨はもうそこまで来ています。あまり長く待ちたくありません。本当に素晴らしいことが起こることがわかっているからです。
146
二つの教派は団結します。ペンテコステ派と他の複数の教派です。しかしみことばは、あの時そうであったように、アブラハムの約束の子孫のもとにとどまります。聞く耳と見る目と理解する能力を持っていますか? イエスは朝、ここにいると言われませんでしたか? イエスは、「人の子が来るときもソドムの時代のようだと書いてありませんか?」と、言われませんでしたか?雨のシャワーを浴びて、二つの収穫が訪れようとしているのがわかりませんか? 彼らは最後のシャワーにやって来たのです。それから何が起こりましたか? 天使と主はいなくなりました。そしてその雨が降りました。
147
さて、注意して聞いてください。後の雨について話してきました。すべてのしるしが、今が終わりのときであることを指摘しています。神のことばを信じている人なら、それがわかっています。
ここでまた別の話を持ってきたいと思います。無礼な態度をとりたくないのですが、また名前をいくつか挙げなければなりません。手加減したくないと神に言いました。ここで、知っていることをありのまま伝えたいのです。ところが、いくつかの事柄は言わずにとっておかなければなりません。わかっているのですが、•••主が許可してくださる範囲で、すべてお話ししたいと思います。もっとたくさんのメッセージを受け取った後、聖霊が、「それを言ってはならない」と言われたのです。ウッド夫人が知っています。「ウッド夫人、あなたに電話して、聖霊からダメだと言われたことをお話ししましたよね?」それで戻ってから祈ったのです。その夜、まぼろしで主が現れて、「行ってこれをしなさい。これをとってそこに置きなさい。彼らはこのことを理解しませんから。まだこのことを明らかにするときが来ていないのです。これをここに置きなさい。」それでわたしはそうしました。そうです。わかりますか。「従順は犠牲より優れているのです。」
従うこと•••
148
さて、今は終わりのときです。賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話は、今のことをさしています。さて、愚かなおとめは交配をすることになります。彼女は種はありましたが、油を持っていませんでした。湿分が種を発育させるのです。さて、彼女は何をしていますか? 二つの集団、ペンテコステ派と世界に広がる福音伝道教団が、一緒に現れました。何のために? ソドムに行って、(ここに注目してください)刈り入れをするためです。
149
愚かなおとめに注意しましょう。わたしの親友であるペンテコステ派の学者は、とても賢くて頭脳明晰で・・・・。わたしは、クリスチャン・ビジネスマンの兄弟が、監督教会の牧師やカトリックの司祭と仲間になったことを喜んで、神を讃えて叫んでいるのを聞きました。彼らはすやすや眠り込んでいるのではないかと思います。「ああ、ブラナム兄弟、最も素晴らしいことが起こっています。監督派の人たちが来て、聖霊を受けたと報告したのです。彼らは異言を語り、これこれのことをしました。神に栄光あれ!これはまさに•••彼らの教会に革命が起こったのです。」 ああ、兄弟たちよ!これが何なのかわからないのですか? これはしるしです。
150
愚かなおとめが、油が欲しくなって買いに行っているときに、まさにそのときに、花婿が来るのです。ペンテコステよ、いったいどうなってしまったのですか。でも神が示されない限り、この真理を理解することはできません。はるか大昔に神に選ばれた人でなければ、事実を見逃すことになるのです。聞く耳をもち、理解する心を持つ者は幸いである。時が迫っているからである。すべてのしるしがこのことを指摘しています。わかりますか。
151
彼らの経験しているリバイバルは、 見栄えのするものです。「ブラナム兄弟、わたしたちを締め上げる気ですか?」 そうしたいところです。何が正しくて何が間違いかどうやってわかりますか? みことばで試すのです。それが正誤を知る方法です。そこにどんな霊が働いているのか、みことばで試します。もしみことばを拒むのなら、神からの霊ではありません。どんなに目覚ましいことをしていようとも、みことばを拒めば、神からのものではないのです。
さあ、みことばのテストをして、何が起こるかみてみましょう。イエスはこのことを警告しておられました。マタイ24:35です。
152
ちょっと待って、お昼休みまであと20分ほどしかありませんが、まだ3分の1も終わっていません。でもとにかくこれを読まなければなりません。マタイ24:35。イエスがなんと言われたかしっかり聞いてください。イエスは、二つの霊がとても似かよってきて、選ばれた者さえ危うく騙されそうになると言っておられます。知っていますよね。それが本当か、みてみましょう。
 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
さて、二つの霊がとても似かよってきて•••、そのような状態になるはずなのです。ペンテコステ派の教団は本物に似た働きをするようになり、イエスが言われたように、選ばれた者たちまで危うく騙されそうになるのです。わたしを殺してしまうほどです。でも教団に属する兄弟たち、わたしがしてきたことが、わかりませんか? この霊は、できるなら選ばれた者たちも騙すほど似ているのです。しかし永遠のいのちを受けると決まっている選ばれた人たちは•••。あなたたちはこれを攻撃しようとしています。わたしたちはあとでそれを取り上げて、パンチをくらわせます。選ばれた者だけに、理解できることなのです。
153
「では、あなたが間違っていないとどうしてわかるのですか?」 それなら、わたしをみことばで試してみなさい。あなたの教団をみことばで試してみなさい。誰が正しいか確かめましょう。聖書は「すべて試してみなさい。」とあります。「どんな方法で洗礼を授けても変わりないではないか。」 いいえ、違います。それはサタンがイヴを騙した口上です。
使徒19章では、彼らは、善良なクリスチャンから洗礼を授けていました。洗礼者ヨハネからです。
パウロが、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。
「それなら、どんなバプテスマを受けたのですか。聖霊を受けたらそれがわかるはずです。」 「どのようにしてバプテスマを受けたのですか?」
彼らは、「ヨハネから受けました(イエスに洗礼を授けた偉人です)。」と言いました。
パウロは、「それは今では効果ありません。」と言いました。ヨハネは悔い改めのための洗礼を授けましたが、まだ犠牲が捧げられる前のことなので、罪を赦すためのものではありませんでした。これを聞いたとき、彼らはイエス・キリストの御名によって改めて洗礼を受けました。
154
神が、「履物を脱ぎなさい。」と語られたときに、もしモーゼが、
「今朝、しっかりと履物を結びつけてしまったので、もっと敬意を払うために、代わりに帽子を脱ぎましょう。」と言ったらどうか。無効です。神は履物と言われたのです。帽子ではありません。これはイヴ母さんを騙したときと同じ、悪魔の手法です。神が聖書に書き残したみことばすべてが、そのまま真理なのです。私はそのように信じています。
さて、あなたたちは勝手に、「わたしたちは真理を手にしている。」と言っていなさい。それほど目が見えていないのなら、そのまま進みなさい。暗闇でよろけることでしょう。兄弟よ、あなたを裁くのは教義ではなく、みことばなのですよ。そうです。
155
「ブラナム兄弟、ちょっと待ってください。主を祝福します!彼らが病を癒すのを見ました。」 そうでしょう。わたしもです。「彼らが異言を語っているのを見ました。」 わたしもです。それでも信じられません。みことば以外誰も、聖霊を受けた証しが、異言を語ることだとは立証できないのです。ずっとそう挑戦してきましたが、誰か立証できますか? わたしは異言を信じます。しかし悪魔も異言を語ります。魔女も魔術師も異言を語ってそれを解釈し、イエス・キリストなど存在しないと言うのです。異言を語る人が他人の妻と同棲しているのを見たことがあります。顔をじっと見ているうちに、彼の前にまぼろしが現れました。彼を脇に呼んでそれを証言させました。それをあなたは聖霊のなせる業とみますか?
156
「でもブラナム兄弟、聖霊が異言を語らせることを信じないのですか?」
もちろん信じます。でも、みことばによる試験が必要です。ヤンネとヤンブレも奇跡を働きました。そうですね。モーゼがエジプトに下って行って、おこなったしるしを、ヤンネとヤンブレの二人の魔女、悪魔も真似しました。モーゼが、
「ノミ」と言うと、彼らも
「ノミ」と言い、モーゼが、
「地面の杖」と言うと、彼らも
「地面の杖」
「蛇」
「蛇」
そうです。彼らは奇跡を真似できました。聖書には、終わりの日に、悪魔が立ち上がって奇跡を行い、人々を惑わすとあります。兄弟よ、本当に厳しいことです。でも真理を知らなければなりません。
157
イエスは言われました、「多くのものがわたしのところに来て、『主よ、主よ、わたしはあなたの御名によってこれをしてあれをしたではありませんか。』と言うだろう。」
「わたしから離れ去れ。不法を働く者どもよ。」 不法を働くとはどういうことですか。それが悪いこととわかっていながら、やってしまうことです。神のことばは正しいとわかっていながら、どうして偽善を働くのですか?それはあなたの教団が、ここから少し、あちらから少し教えを採用して、あとは無視するなんてことを行っているからです。イエスは、「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。あなたのことは全然知らない。」と言われました。あなたは、この世の地獄を歩くか、後に来る地獄を歩くかです。わかりますか。
158
覚えておいてください。これは真実です。ヤンネとヤンブレがモーゼに逆らったように、「終わりの日に、彼らがモーゼに逆らったように、その霊がまた現れます。」と聖書にあります。人々が解放される直前にです。ハレルヤ。解放のときが来ました。イエスがマタイ24章で言われたように、彼らはできるならば、選ばれた者をも惑わそうとするのです。「ヤンネとヤンブレがモーゼに逆らったように、みことばを拒絶するものも•••」真理に逆らう者のことです。みことばは真理ですから。そうでしょう。さて、友よ、これは表面的に簡単に済まされるようなことではないのです。わかりますか。
159
偽の霊はとても似かよって来て、できれば選ばれた者をも惑わそうとするが、それはできないとイエスは言われました。その種は、前もって定められていたところに落ちます。教派の種が蒔かれました。みことばの種も蒔かれました。そしてヤンネとヤンブレが•••・。聖書は、終わりの日に、これらの悪魔が立ち上がって奇跡や不思議なしるしを行い、人々を惑わすと書いています。どのようにして、違いがわかるのでしょう? みことばによってです。
160
旧約聖書でも、「律法と預言者のことばに逆らって語る者に、いのちはない」と言っています。彼らがことばの一つでも否定したら•••。父と子と聖霊の御名によって、洗礼を受けた者があるか、誰か聖書から証明できますか? できないのなら、どうしてそうするのですか? 信条、交配、いのちのない子、私生児、そういうものは死んでいる上にさらに死ぬので、根こそぎ引き抜かれます。「わたしの父が植えられなかったものは、根こそぎ引き抜かれます。」 「天と地は滅びますが、わたしのことばは滅びません。」 イエスのことばです。さて、わたしが貫いていることの理由が、わかってもらえましたか?
161
女性が髪を切っても冒涜にはならないと、聖書のどこに書かれているか指摘できる人がいますか? そら、誰もいません。それならわたしに対して騒ぎ立てているだけです。人々は、「ブラナム兄弟は預言者だから、彼が言い当てることは信じてもいいでしょう。しかし彼が聖書の教えを始めたら、信じてはいけません。」と言っています。あなたたちは何も知らないのです。聖書は、主のことばは預言者をとおして語られると言っていませんか? わたしは自分のことを預言者だと言っていません。わたしは預言者ではありません。それはあなたたちが言っていることであって、わたしはあなたたちが言っていることを言っているだけです。それなのにあなたたちは、手のひらを返すようにそんなことを言うのですか?そんなことは言った覚えがないなどど言わないでください。あなたたちが言ったことはテープに記録されています。知らなかったでしょう。知らなかったとはっきり言ってくれれば、テープであなた自身の声を聞かせてあげます。
162
ヤンネとヤンブレがモーゼに逆らったように、奇跡を働く者が現れました。しかし、彼らの働きのどこにみことばが、真理のみことばがあったのでしょう。ヤンネとヤンブレも奇跡を働いてなんでもしていました。しかし一人の油注がれた預言者と助手が立ち上がりました。モーゼという名の預言者は、「主がこう仰せになる」という権威のみことばを持っていました。最後はどうなりましたか? 民が解放される前にすべてが明らかになり, いわゆる奇跡の仕掛け人たちは滅びてしまいした。
163
さて、彼らは何をしようとしていますか? 後の雨を創り出そうとしています。馬鹿げています。なぜなら後の雨は、またたくまに世界中に広がるものだからです。そうです。それでは、後の雨がもたらすものを見てみましょう。それは連盟です。ペンテコステ派や他の全ての教団が提携して、部外者を締め出し、発言を封じるようになるでしょう。そうです。そのようなときに、主が来られます。そのときこそ、主が現れるのです。そしてあなたは雨が降るのを見ます。じっとしていなさい。黙っていなさい。なすに任せなさい。
164
しかしみことばは、油注がれた預言者のもとにとどまりました。主のことばは預言者に臨むからです。神はご自分の方法を決して変更されません。さてまた、三人が登場しました。ソドムに行って人々を目くらましする奇跡を起こしたときのように、ヤンネとヤンブレが出て行って奇跡を行いました。一方には、油注がれたアブラハムが、神と伴侶のサラとともにいました。ヤンネとヤンブレは、モーゼの行う奇跡をなんでも再現して見せましたが、一方、油注がれたみことばをもつ預言者は、助手と立っていました。これについて、2時間もお話しできたら嬉しいです。
165
創世記1章に、すべての種はそれぞれの種類にしたがって芽を出すとあります。永遠にその法則は変わりません。種には、いくつかの種類があります。「信じていいかもしれない。」などど言う人は、その教会は艱難時代を通らなければなりません。いったいどこでそんな種をもらってきてしまったのか、不思議でなりません。「こう言っていることは信じるし•••」 いいでしょう。しかし、大昔に雨が降ったことを知っていますか? どこに降りましたか? 裁きが下る前に、ノアは箱舟の中にいました。ロトは、ソドムに裁きが下る前に脱出しました。だから、わたしたちは艱難の前に携挙されるのです。確かにそうです。なぜ裁かれなければならないのです? イエス・キリストは、わたしを艱難から守ってくださいます。そうです、わたしはイエスを受け入れ、そして自由になりました。そのときが、わたしの艱難でした、「血を見たなら、わたしはあなたのところを過ぎ越そう。」 そうです。エジプトの艱難のとき、モーゼはイスラエルの民とともに守られていました。
166
種はすべて、それぞれの種類にしたがって芽を出します。神は人を、神に属するものとして、ご自分のかたちに創造し、地上で神のことばとなるようにされました。それをイエス・キリストのうちに顕示されました。というのは、神がキリストのうちにおられたからです。つまりその種類は、『カミ属・ヒト』ということになります。わかりますか。神がみことばであることをどれだけの人が理解していますか? みことばが、『ヒト』であるキリストのうちに宿られたので、彼から発せられるみことばは、神の現れでした。
ところで、初めに神はご自分のかたちに人を創造されました。今でもその事実に変わりはありませんが、神学校や学校や人工孵化器によって、雑種が生まれています。しかし、神が人を召されると、人は神ご自身のかたちとなり、みことばが彼のうちに宿るのです。それこそが神の人、神のかたちの現れ、神の似姿です。そのような人のことをイエスは、「彼はわたしがしている働きと同じことをする」と言われました。だから神は、ご自分に属するものとして、ご自分のかたちに人を創造されたのです。
167
神に属する種類とは何ですか? 神はみことばです。もし人が神のことばを否定するなら、どうして彼が神の似姿と言えますか? ちょっと質問です。自分自身に聞いてみてください。人が神のかたちに造られているなら、みことばが神ご自身のかたちを現しているのに、どうして人に神のことばを否定できるでしょうか? 「そういう意味ではないのです。神の似姿に造られたとは言いましたが、本当はそうではなく、間違いでした。それは別の時代の話で、そういう意味ではありません。」 ああ、お慈悲を。ゴミ溜めです。悪魔がイヴに与えた残飯です。そんな人に選ばれた者の首を突かせてはなりません。彼らは信じていないのに、「さあ、こっちに来てわたしたちの仲間になりなさい。」なんて言います。誰の仲間になってもいけません。仲間になるのではなく、新しいいきものに生まれ変わるのです。
168
そうです。カミ属として神の似姿に生まれて、地上でみことばの現れとなるのです。イエスは、神が表現されたみことばでした。そのことを信じますか? それならわたしたちは何になりますか? 神の子です。教会というキリストの神秘の体によってみことばを現しながら、イエスが地上でなされた働きを引き継いでいくのです。それが神に属する種類の人です。
さて、ルーテル派はルーテル派の、メソジスト派はメソジスト派の、カトリックはカトリックの、ペンテコステ派はペンテコステ派の、ワンネスはワンネスの、トリニティ派はトリニティ派の種類の作物を収穫します。しかし、もしあなたが神に属する種なら、話は違います。あなたはみことばの姿の現れとなり、みことばを実現させる者となるのです。そうならなければなりません。雨が降るなら、そうなるのです。
169
そして神はそれぞれの種を創られ、人をご自分の形にならって造られました。•••このことを詳しく話す時間はもうないのですが、いうなれば、神の創造はとびきり上等なのです。神のことばはすべてとびきり上等、一級品揃いなのです。ああ、もうお昼休みにしなければならないのに、6分の1しか進んでいないのです。でも仕方ない、やめておきましょう。いいでしょうか?午後ここに戻ってくる人がどれだけいますか? よろしい。あまり長く引き止めて、皆さんを疲れさせたくありません。録音係の人、まだちょっと録音しておいてください。すぐに終わりますから。
170
さて、神はご自分に属するものとして、ご自分の似姿に人を造られましたね。神に属するものとして人を造られたのです。すると、人とはどのようなものだったのでしょう。振り返って、彼が人となったとき、どんなだったか見るなら、それが神が造られた人の姿なのです。人は神に属するものとして•••アーメン。それが神に属する人です。
あるとき神は人に言われました。
「あなたはわたしの心にかなっている。」
神の望みにかなった人、それはダビデでした。ダビデのうちに神の霊が宿っておられる、覚えていますか? ダビデは見捨てられた王でした。油注ぎを受けた者は常に拒絶されます。自分の民から拒絶された王ダビデは丘に登りました。これについて3分ほど話します。自分のものであるはずの民と自分の息子が、王座から彼を追放しました。油注がれた王ダビデに対して、捻じ曲がった教義を頭にすり込んだ老いぼれ小男が唾を吐きました。(聖書は、彼が足萎えであったと言っています。訳注:唾を吐いたシムイにはその言及はない。)彼は王に唾を吐きながら並行して歩いて行きました。キリストも同じでした。唾を吐かれて•••。側に立って彼に仕える使者が、つるぎを抜いて、「あの犬の首をつけたままにしておいていいのでしょうか。王に唾をかけたのに。」「彼を打ち殺しましょう。」と言いました。
171
ダビデは、「劔をしまいなさい。これは受けなければならない試練だ。」と言い、エルサレムの丘を登っていきました。捨てられた王は、丘から見下ろして泣きました。それから八百年後、ダビデにわけ与えられていた霊、ダビデの子が、拒絶され、唾をかけられ、笑い者にされて同じ丘の上に立っておられました。その場面を想像できます。カルヴァリの丘に登っていくとき、天使が沿って歩きながらこんなふうに会話していたのです。「あの犬の首をつけたままにしておいていいのでしょうか。」
「構わないでおきなさい。」やがて時がやってきます。
しかしダビデが戻ってきたとき、事態は逆転しました。彼は勝利者として帰還したのです。あの男は走ってきて憐れみを乞いました。そうです。放っておきなさい。彼はやがて力を帯びて帰還されます。すると、笑うのは反対の側です。そうです。だから放っておきなさい。
172
神は、「ダビデよ、あなたはわたしの心に適ったものである。」と言われました。神が人を造られたとき、人は神に順じたものでした。ダビデは言いました、「あなたに対して罪を犯さないよう、わたしはあなたのみことばを心に秘めています。」 あとひとつ、ダビデに必要なのは雨でした。雨が降ればダビデは芽を出していたでしょうが、聖霊はまだ与えられていませんでした。しかしダビデにはみことばがありました。彼は自分のうちにみことばがあることを知っていたので、「わたしはそれを心に秘めている。主よ、それはまだ花を咲かせて実をつけていないが、それでも心にそれを秘めている。主よ、」と言ったのです。でもみことばの現れであるイエスが来られたとき、胚芽のいのちを取り出して、とうとうみことばの実を稔らせたのです。霊の雨がなくてもダビデの杯は溢れるばかりになっていたのですから、わたしたちの杯はいかばかりなことでしょう。神を愛しますか?
神は素晴らしいではありませんか。なんともありがたい。
我が主イエスは素晴らしいではありませんか。
目が見たこと、耳が聞いたこと、
神のことばに記録されたこと
我が主言えるは素晴らしいではありませんか。
そうじゃないですか?どれだけの人が彼を愛していますか? 主は素晴らしい。
173
さて、友よ、わたしは好きで厳しくするつもりはないのですが、厳しいことを言います。どうか理解してほしいと思います。ずっとわたしが貫いている姿勢の理由を、皆さんに今日説明しています。
さて、お昼前のちょっとした分析はこうです:つまり、神のことばが、わたしの人生の主題であり、目的であるということを理解してもらいたいのです。わたしは、神を喜ばせることを生きる目的としています。すべてのことに耳を傾けていたら、神のことばを信じることはできませんし、神を喜ばせることもできません。わたしが意図していることは、みことばを知ってそれに従って神に仕えることにより、神を喜ばせることです。わたしは何にでも反対しているわけではありません•••。さて、神の霊によって生れ変り、選ばれた人の衆に加わっている人は、かつてはメソジストやバプテストや長老派やペンテコステ派や何かだったかもしれません。もしあなたが彼らのところに行こうと思ったら、そうした方がいいでしょう。求めている誰かがいるかもしれません。もし種を蒔くなら、いつか収穫することになるでしょう。「彼は単なる騙し屋だ」なんて言って通り過ぎていく人もいるでしょう。でも主も、人からそう言われませんでしたか。「彼からは何の得るところもない。」などど。それならわたしと調べてみませんか? 「彼は単なる騙し屋だ。」などど言うのなら、みことばで検証することにしましょう。もし聖書と矛盾しているのなら、騙していることになります。でももしあなたたちの神学がみことばと食い違っていたら、それは正しくありません。
174
さて、傍観者は、「ちょっと試して様子を見よう。」などど言います。それでは窒息してしまいます。でも本当に自分を空にして、「主イエスよ、これから先はもはやわたしではなく、あなたがわたしの中心です。」と言うなら、100倍の収穫を得ます。それを信じますか? わたしも信じます。自由と正義です。わたしは、主に献身して、みことばを宣べ伝え、命を張っても神の真理を守ることを誓いました。これからもその意志は変われいません。
自分から欲するわけではありませんが、必要なら自らの血を流すこともやむを得ません。信仰を守って血を流してきた人たち、ライオンの洞窟で殺された人たち、十字架にかけられた人たち、のこぎりで轢かれた人たち、教団から破門を受け、羊の皮やヤギの皮を被って放浪し、極貧を経験した人たちのように、わたしもその恩恵にあずかることができるなら幸いです。キリストの名のために受けたとがめに耐えることができた喜びを、キリストの弟子として分かち合うことができるなら。キリストのために、彼らは苦しみを耐えることができました。わたしは苦しみを受けたくはありません。誰だってそうです。すべての教団と手をとりあって、「さあ、兄弟、一緒に行きましょう。」と言いたいです。でも、もしそうしたら、神の御手から離れることになってしまいます。そんなことは決してあってはならないことです。ただ一人だけになっても、わたしは神と神のことばを守ります。
175
エディー・ペロネットが言うように、「キリストは堅固な岩です。わたしはその地盤の上に立ちます。他の地面は沈んでいく砂です。」そして、キリストはみことばです。「初めに•••」すべての種はその種類にしたがって芽を出します。教派の種はその種類にしたがって、ペンテコステ教派の種はその種類にしたがって、バプテスト派の種はその種類にしたがって、絶えず絶えず、教派の芽を出しています。神が望まれるなら、午後このことについて話しましょう。それがどのように始まったか、何が要因だったか、それを示す聖句を調べて、どのようにそれが最後を迎えると書いてあるか、お話ししましょう。
176
中に入れなくて車中でこのメッセージを聞いている皆さん、神の祝福がありますように。壁のところに立っている人も、座っている人も、みんなに神の祝福がありますように。神の恵みにより、誰の気持ちも害することがなく、自分のことを明らかにできたと信じます。午前中話したことを信じていただけるなら、同じようにそれを守っていきたいと思いませんか。大丈夫です。頭を下げて祈りましょう。
177
恵み深い天の父よ、これで集会を終わるわけではありませんが、ちょっとの間休憩をとります。午前中に蒔かれた種が、滋養分豊かな土の上に落ち着きますように。そして豊かな豊かな永遠のいのちの実を結びますように。父よ、今朝蒔かれた種は後の雨を待ちます。待つこと•••。主を待ち望むものは、新たに力を受けるとあるとおりです。神よ、どうぞわたしたちが、みことばの先回りをすることなく、しっかりみことばにとどまりますように。どうか主よ、この願いを聞き入れてください。
わたしたちと、食事に出かける人たちを祝福してください。どうか彼らに昼食を与え、それを祝福して、彼らを力づけてください。そして午後早めに戻って来て、始まる前に皆席に着いていることができますように。そして主よ、わたしはこれから祈りに行き戻ってきますが、どうか助けてください。午後に新たな油注ぎを与えてくださるよう祈ります。主よ、あなたからのことばであると確信することを人々に伝えることができますように、どうか聞き入れてください、父よ。
178
愛すべき我らが牧師ネヴィル兄弟が、もうすぐ集団を引き連れて洗礼に向かいます。どうぞ祝福してください。そして父よ、あなたの僕パウロが指摘した以外の方法で、洗礼を受けている人がここにいるなら•••。パウロは、自分は神のことばを受けていると言い、「もし人や天使が(サタンが天使を装ったように、天使も天から下りてくるのです)、下ってきて神が言われたことと違うことを言うなら、その者は呪われよ」と言いました。罪を赦されるためにイエス・キリストの御名によって洗礼を受けていない人々に、洗礼を受け直すように忠告をしたのはパウロです。父よ、聖書にそう書かれていることは知っていますが、頭でわかるだけでなく、心で理解できますように。これから洗礼が行われますが、人々が支持している三位一体の三神のことは、聖書には一言も書かれていないという事実に彼らが気づきますように。もちろん父よ、あなたには三つの役割があり、それは父と子と聖霊であることは信じています。でもあなたを三つの神に分けることはできません。あなたはおひとりであり、父と子と聖霊の役割をお持ちで、私たちはあなたをイエス・キリストのお名前で読んでいます。イエス・キリスト、これが父と子と聖霊のお名前です。
179
父よ、そのことを人々が理解して、罪の赦しを受けるための水の洗礼を、あなたのことばに従って受けることができますように。そして誰もが、洗礼において注意すべきこの点を、心に留めることができますように。時が迫っているからです。午後に語ろうと思っていますが、敵はますます強く、大胆になってきています。権力の座を手にして以来、彼らはあらゆる方面に勢力を伸ばしています。共産主義のことではありません。主よ、それがローマ主義、老練な大淫婦と娘の娼婦であることを人々が悟りますように。主よ、彼らが獣の姿でやってくるのが見えます。もうそこまできています。
父なる神よ、憐れんでください。安全な箱舟の中に入って、後の雨を待つことができますように。イエスの御名によってお願いします。アーメン。
180
さて、建物の中にいる皆さん、何か食べに出て行きたい方はどうぞそうしてください。そしてできるだけ早く戻ってきてください。さあ、立って主を讃えましょう。主のことばをどれだけの人が信じていますか、手を上げてください。アーメン。主に感謝します。
おお、どれほどイエスを愛していることでしょう。
おお、•••・
(編注:ブラナム兄弟がハンカチの上に祈っている。)主イエスよ、これらのハンカチを祝福してください。。あなたの霊をこれらのハンカチの上に注いでください。イエス・キリストの御名を信じます。•••?
おお、どれほどイエスを愛していることでしょう。
あなたが先に愛してくださったからです。
181
(編注:1時間半ほどの休みが終わって午後の部が始まる。)
ええ、いいでしょう。彼が癒しの証しをしたいそうです。(編注:兄弟が証しをしている)
そのとおり、エド兄弟、そのとおりですよ。素晴らしいではないですか。私はいにしえの証し•••?・・聞くのが好きです。車のラジオも始まりましたね。
皆さん、調子はいかがですか? さあ今から真夜中まで、ぶっ続けていきましょう。主が助けて祝福してくださったので本当に嬉しいです。
さて、始める前に、話題の中心であるお方に祈りを捧げましょう。
182
恵み深い天の父よ、あなたもこの老いた聖人の証しを聞かれましたね。長い間彼は妻と一緒に働いてきて、いかに彼女があなたに信頼しなければならなかったか、そして彼女があなたに、彼が説教師となるよう願い求めた結果、今の彼がいます。それから、彼が死の床に臥していたとき、国で最高の医者から、あと数時間の命ですと言い渡されました。彼の体は癌に蝕まれていたからです。膝などが感染していてもう二度と歩くことができない状態でした。でも、それから何年か経った今、彼はまだ歩いています。父よ、とても感謝します。これは、みことばが蒔かれて、水が与えられて、作物が実った証しです。
父よ、あなたのことばから、午後の話を引き出してくださるよう祈ります。わたしたちが聞きたいのはあなたのことばなのです。それから霊の水やりをしてください。イエスの御名によって、この祈りをあなたに託します。アーメン。
183
急いでやりましょう。今朝妻が、立って聞いている人たちや女性たちや、わたしのようにちょっと年取ってきた人たちがどんなに大変な思いをしているか、話してくれました。皆さんの熱心さをありがたく思います。さて、メッセージに戻りましょう。あまり話しを急ぐのも良くないし、かといって、急いで話さないと、夕方までにじゅうぶんな時間がなくなります。この集会が終わり次第、ジョージア州テフトンに直行しなければならないのです。明日の夜、高校の講堂を借りて伝道集会をします。一晩限りの集会ですから、すでにここで話したことのある話をするつもりです。
184
午前中、創世記1:11を中心に、「初めの種は神の仰せのことば」という主題でお話をしました。その主旨は、人々にわたしが貫いている姿勢の説明をすることでした。このテープを多くの人が聞くことと思います。もしイエスの到来が遅れるようなら、わたしが去った後も多くの人がこのテープを聞くでしょう。わたしが言いたいのは、神のことばが真理であるということです。わたしはそう信じます。
185
さて、朝話したことの続きですが、数年前には国中を沸かしていた宣教の働きが、今は止まってしまったかのように見えます。彼らが宣教活動から退いたとは言っていません。彼らは活動していますが、結果が現れていないようです。どうなってしまったのでしょう。それは、畑の種まきが終了したからです。忘れないでください•••・。
186
ヘブライ語の言葉をもう一度教えてほしいと頼まれました。ヨエル書2:28で、初めの雨と後の雨が降ると言っています。初めのという言葉はヘブライ語でmourehモレーといい、その意味は「教え」です。言い換えれば、教えの雨と収穫の雨が降るということです。教えの雨はすでに降りました。今は収穫の雨が降るのを待っています。初めの雨は種蒔きのときに降ります。それから作物が育ち始めます。作物が実る前に、別の雨が降ります。それが収穫の雨です。春に雨が降って、それから六月ごろ雨が降り、作物が実ります。
187
さて、雨が霊であることがわかりました。そしてわたしの考えの全体像を途中まで話しましたが、それはこうです:雨が降りました。大地への種蒔きが終了したので、今は静かになりました。どこにどんな種が蒔かれたかはわかりませんが、ラジオやテレビやテープなどをとおして、国中に種が蒔かれたのです。これから霊の雨が降ります。すると蒔かれた種と同じ種類が収穫されることになるでしょう。このことを忘れないでください。
188
ペンテコステ派と福音派の二つの教派は、一つの教団となって共に働くことになると予測します。彼らは合併して教会評議連盟あるいは教会評議会の会員となるでしょう。彼らは、すでにそれに属しています。そして彼らから、強要とかボイコット運動とかが起こり、教会同盟以外の活動を規制し始めることでしょう。聖書でこのことを記しています。すなわち、獣の刻印を受けていなければ売ったり買ったりできなくなると。獣の刻印とは、ローマ主義のことです。そして獣の像とは、プロテスタント教派のことです。獣が持っていた力と権威を獣の像に吹き込み、物が言えるしたと、聖書には書かれていますが、そのとおりになりました。教会同盟がそれです。すべての教派が連合する結果、それになります。
189
ここには大勢の若者がいます。イエスは今夜戻って来られるかもしれませんし、来年かもしれません。いつ戻って来られるかはわかりません。でも覚えておいてください。たとえ、イエスが戻って来られるのを、自分の目で見ることができなくても、—できることを願っていますし、そうなるのではないかと思いますが、—たとえわたしがそのときまで生きていなくても、決して、このことばから耳と心を背けないでください。忘れないでください。イエス・キリストの御名によって、宣べます。同盟のようなものが結ばれ、ボイコット運動が起きます。ここのような集まりは閉鎖されます。そして教会連盟の許可や許可証がない限り、集会を開いて話をすることができなくなるでしょう。このようになると、わたしは心から信じます。
190
この動きは、教派の中に今すでに現れています。教団の動きが、聖書のその箇所に記されています。そう、宣教したければ教会連盟に加入しなければならない、そのような結果になるでしょう。これがわたしの予測です。キリストの僕として、みことばの理解と霊感によって受けた結果としてお伝えしています。すべてのしるしが、終わりを示しています。これについてはおしまいにします。
さて、愚かなおとめでさえも油を求めて叫んでいます。覚えていますか、彼女は処女です。処女ということは教会を示しています。黙示録17章に出ています。教会はおとめなのです。パウロは、こう言っています、「わたしはあなたがたを純潔な処女としてキリストと婚約させた。」(コリント11:2) 黙示録17章に出てくる大淫婦は教会のことです。ヨハネがひどく驚いたのは、その美しさでした。彼女は美しいが、その内部には、殉教したキリストの聖人たちの血が残されていました。そうです。
191
確か68,000,000人がローマ・カトリック教会によって、殉教しました。ヒッポの聖アウグストの時代から、68,000,000人ものプロテスタントが、カトリック教会の教義に異議を申し立てたという理由で殺されたと記録されています。」聖書に「この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」と書いてあるとおりです。
イエスは、彼らがあなたがたを殺し、自分たちは神に仕えていると思っているときが来ると言われませんでしたか。彼らは忠実に行動していて偽善者ではありませんでした。彼らはそう教え込まれていたのです。そういうみことばが蒔かれたので、作物を実らせなければなりませんでした。わたしたちは神の種にとどまってることを忘れないでください。最初の種は神の仰せのことばというのが、今日の主題であり、わたしたちの種です。わかりますか。みことばにとどまっていなければなりません。みことばは、語られたとおりの実を結びます。
192
だからわたしは、神による癒しを信じます。まぼろしを信じます。天使を信じます。このメッセージを信じます。すべて神のことばからきているからです。神のことばに由来しないものは信じません。あり得るかもしれませんが、それでも神のことばにとどまります。そうすれば間違いありません。神は神であられるので、望みどおりに何でもおできになります。でも神のみことばにとどまっている限り、確信していることができます。
193
さて、愚かなおとめは教会のことです。教会なのに愚かです。わかりますか。彼女は、すべきことをするのに、のろのろと時間を稼いているのです。それでも彼女は花嫁だと思っています。
ところで、3という数字は完全を表すと覚えておいてください。すべてのことは3つをもって完成します。神の役割は、父と子と聖霊です。父なる神は、火の柱として現れた神です。イスラエルをご自分のもとに引き寄せようとされましたが、彼らは来ませんでした。父なる神は子の内に宿られ、ご自分を神の御子とされましたが、同じ神であり、神の種の現れです。このお方が、人々をご自分のもとに引き寄せましたが、彼らは神を十字架につけてしまいました。聖霊は同じ神であり、初めに神の御子とともにおられ、今のこの終わりの時代には、もう一つの神の役割として、教会に住まわれ、みことば(父と子と同様、みことばを語っておられます)を人々に伝えますが、彼らは拒否しています。いつも同じことが繰り返されます。3つの姿で現れたひとりの神です。こんにち神が、人をとおして働きをされているのは、神が働かれているということです。わかりますか。神が人々の内におられるのです。
194
神が望まれるなら、明日の晩はこれについて話したいと思います。宇宙におられる神、御子のうちにおられる神、人々の間におられる神についてです。以前この場所でその話をしたと思います。
195
さて、愚かなおとめは油を買いに、あるいは、買いに行かされました。ところが、時すでに遅しでした。なぜでしょう。友よ、なぜ? 種まきはすでに終了していたからです。わかりますか。ソドムのときには、3人が現れました。常に3という数字が現れます。キリストも3度現れます。まず花嫁を贖うため、次に花嫁を空中にさらっていくため、そして、最後は花嫁を連れて千年紀(ミレニアム)に戻ってくるためです。すべて3で帰結します。3は完全を表し、5は恵みを表し、7は完成を、12は礼拝を、40は試みを、50は解放を表します。「ペンテコステ」は「解放、50」という意味です。
196
さて、神は数字の中におられ、数字をみごとに使っておられます。神のことばは完全であり、神の御業は完全であり、すべてにおいて神は完全です。完全な神だからです。そうです。このおとめたちのうちにも•••。聖書には大淫婦が登場します(聖書がそう言っているので、姉妹たち、勘弁してください。今日は率直に言います。)彼女は大淫婦、淫らな女たちの母と呼ばれています。おんなじことです。
聖書で大淫婦と呼ばれているのは教会のことです。淫らな女と呼ばれているのも教会、花嫁と呼ばれているのも教会のことです。3つの教会があることになります。これらが誰の花嫁なのか、どのように拒絶されたか、すべてを、主が望まれるなら、調べていきましょう。
197
ところで、忘れずに言っておきますが、共産主義を恐れないでください。共産主義は神の道具です。ネブカドネツァール大王と同じです。不信心者ではありますが、彼は神によって遣わされて、イスラエルをちょん切りました。イスラエルが不従順だったからです。預言者は、この先何がやって来るか告げ、土地にとどまって神を忘れないように言いましたが、彼らは無視して自分たちの思いで行動したので、大王がやっって来て彼らを捕らえていきました。預言者が言ったとおりになったのです。
共産主義が起こったのは、カトリック教会が非合法にロシアに進出したからです。彼らはお金と土地とあらゆるものをロシアの民から巻きあげました。それが理由で共産主義が起こったのです。
198
フィンランドで、あの小さな少年が生き返ったとき、そこにいた共産国の兵士たちは、立って敬礼しながら、わたしを通らせました。彼らの頰には涙が流れていました。そして、「これが神なら、わたしたちは信じる。」と言いました。確かにそうです。ご自分のことばを守り、死んだ者を生き返らせる神なら、確かに信じられます。しかしただ教会に行って、あとは悪魔のような生活をして、世俗と全く区別がつかない、何の働きもしない、そんなものなら彼らは信じません。正直言って、わたしも信じません。そうです。
共産主義が世界を支配するとは聖書に書いてありません。しかし聖書は、あらゆる箇所で、ローマ主義が世界を支配すると教えています。だからそちらの方を注意していてください。
199
昨日何が起こりましたか? 共和党議員がケンタッキー州を代表する席を得たことに対し、カトリック信者のケンタッキーの議員が、「彼はプロテスタントで何の気骨もない。」と言いました。カトリックはどんどん大胆になってきています。他にもそんな事例があります。
今は愚かなおとめが栄えるときです。それがわかります。今まで起こったことがないようなこと、今まで誰も口にしなかったようなことが起こっています。それをわたしたちは目撃しています。
200
さて、愚かなおとめと交雑種のペンテコステは同じことです。どちらもこの世と混じり合っています。•••わたしもペンテコステだということを忘れないでください。だけど教団のペンテコステではありません。腹立たしくなります。そうではなくて、ペンテコステ(聖霊降臨)の経験をしたということです。もし聖霊を受けたのなら、メソジストもバプテストもカトリックもペンテコステです。ペンテコステの体験を組織化することはできません。それは神のことだからです。神を組織化することはできません。
201
イエスは、これから起こることを明かされました。愚かなおとめがする出来事、人々がやっと声を上げて油を求めるが、すでに遅すぎたこと。わかりますか。さて、3つの教会に注目しましょう。一つは大淫婦です。彼女は自己中心の存在です。もう一つは愚かなおとめで、プロテスタント教会を指します。最後は花嫁です。これが終わりのときの3つの教会です。
さて、主がそうさせてくださるなら、創世記からこれらの教会を明らかにし、黙示録の携挙のところまでいきます。
202
3つの教会はどれも正統のように見えます。ペンテコステは本物の教会のように見えます。「わたしはペンテコステ派に属しています。」 それは豚小屋に住んでいると言っているのとなんら変わりません。ただのドラやシンバルです。どこに属そうと、神の霊によって生まれ変わり、聖霊を受けていないのなら•••。もしあなたが神のことばのすべてを信じないのなら、それはまだ聖霊を受けていないということです。まったくそのとおりです。あなたは真理のことばを聞きます。その時もし、それを信じるよう聖霊の促しがないなら、別の霊がいて、真理を受けるのを妨害しているのです。つまり、あなたの内に宿っているのが、聖霊ではないということです。
203
先に話しましたが、ヤンネとヤンブレがモーゼに逆らったように、終わりのときにこれらの霊は同じように働きます。そして神はそれぞれの種類にしたがって芽を出す種を造られました。これが神が造られた最初の種です。それから神は、ご自分の似姿に人を造られました。人は神のことばの種でした。そしてイエスは、神のことばが人となったお方でした。わたしたちが神のことばを受け入れると、わたしたちは神のことばを宿した人になるのです。わかりますか。教会とはこのような状態であるべきなのです。
204
さて、神がご自分のかたちに人を造られたとき、「神は人をご自身のかたちとして創造された。•••」さて、聞き逃さないでください。ご自身の仰せのことばによってご自身のかたちに人を造られたとき、人は完全な存在でした。ではいつ人は堕落したのでしょう。それは、神が人から副産物を取り出して、花嫁を造ってからです。それがあらゆる問題の源なのです。霊的な人なら、もうこれで気づいたことでしょう。問題を引き起こしたのはアダムではありません。みことばに疑問を抱いたのはアダムではありません。みことばに疑問を持ったのは、アダムの花嫁でした。同様に、イエスはみことばを疑ってはおられません。彼ご自身がみことばですから。疑っているのは、彼の花嫁です。
205
そこで交配が行われたのです。アダムによるのではありません。それがわからない人は、恥を知りなさい。アダムのせいではないのです。彼には関係ありません。もしアダムによって死がもたらされたとしたら、神からもたらされたことになります。しかしそうではなく、交配によって死がもたらされたのです。死は、神のことばからではなく、教派や信条との交配によってもたらされました。みことばであるイエスの代わりに、教義を持ち込んだことによって。死は、みことばからもたらされたのではありません。みことばはいのちですから。「わたしのことばはいのちです。」とイエスが言われたとおりです。そして霊がみことばにいのちを吹き込むのです。みことばに不純物を混ぜ合わせることによって、死が入り込みました。もしアダムが神の仰せのことばであり、神の造られた最初の種であるなら、(彼が最初に創造されたのです)第2のアダムも、神の仰せのことばによって創造されたのです。ついてきていますか? アダムは騙されませんでした。騙されたのは彼の花嫁です。イエスは騙されませんでした。みことばは騙したりしません。みことばで騙しているのは、彼の花嫁です。わかりますか?
206
神は、初めのアダムに花嫁を与えられました。彼女は誘惑に負けました。神は、第2のアダムであるイエスに花嫁を与えられました。彼女も堕落しました。なぜでしょう。それは彼女が原型ではなく、副産物だからです。こんにちの花嫁も、花嫁と称してはいますが、副産物です。実際はみことばではなく、教団が提供する教本によってでき上がっています。みことばを多く混ぜ込んでできた副産物は、偽善という代物を作り出しています。イヴはみことばのほとんどを信じ、ほんの一部分を疑っただけでした。こんにちの教会はマタイ28:19と使徒 2:38を直結して考えることができません。こんがらがっています。これは何百もある中の一つの事例にすぎません。
207
さて、アダムの花嫁は、第二のアダムの花嫁の予型です。アダムの花嫁は待つことができませんでした。神がアダムとイヴに、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と言われたのは、これから起こる約束の出来事でした。彼女は、アダムの妻にはまだなっていませんでしたから。キリストの花嫁も、まだ妻ではありません。婚礼の宴がまだ行われていないからです。悟ってください。これは意味深いことです。彼女は待てないで、交配してしまいました。蛇の種と交配したのです。そして、死をもたらす子を生みました。それ以来イブは、神の意図に反する子を生むことになったのです。そして、ペンテコステの日に処女から生まれ、キリストに捧げられたキリストの教会が、ローマ時代になって道から外れたとき、彼女はローマの教義と交配してしまいました。プロテスタント教会も同じことをしています。待つことができないのです。
208
若くて清純な好青年と婚約した娘が、二人が一緒になる前に、別の男によって妊娠していたことがわかりました。許婚は結婚前に彼女が別の男の種を宿したことを知ったのです。何という屈辱。まさにそれをアダムは経験しました。
キリストもそれを経験しました。彼女は待つことができませんでした。こんにちの人々の問題もそこにあります。本物の聖霊が教会を導いてくれるのを待てなくて、別のものを作り上げます。復活された本物のキリストが、人々をとおして現れてくださるよう、主を待ち望み続ける代わりに、異言を語ることが聖霊のバプテスマの証拠だと言ったり、あらゆるたわごとを言って、教会に人を呼び込んでいます。待ちきれないのです。
209
彼女は何をしたのでしょう。出かけて行って教派主義を身ごもったのです。初めはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド、それからワンネス、それからいろいろ。花嫁と称して、あらゆる類のたわごとや恥知らずなことを孕んだのです。女性たちは神のことばの言うところに注意を払わず、むしろ世俗の方を向いており、男性も同様、説教師までもが同様のありさまです。それでも花嫁だと言っています。どういうことですか? キリストの花嫁はこの世を身ごもったのです。世俗のファッションや世俗の流行を追い、大きな教会を建て。豪奢な•••それは何を示しているのでしょう。彼女が悪魔のものだということです。それは悪魔が真っ先にしたことです。彼は、天国に美しい王国を建てようとして、天国から追い出されました。天から破門されたのです。それが現代のキリストの花嫁の状態です。彼女は追い出されました。神から破門されたのです。何故なら、彼女はふしだらな女であって、処女ではありませんから。これは意味深いことです。理解していただけるといいのですが。
210
アダムの花嫁は待ちきれないで彼女の種を混ぜ合わせてしまいました。違法行為です。わたしたちは神のことばだけを信じるべきです。
さて、兄弟よ、ここにいる人もテープを聞く人も、どうしてわたしが、みことば一つ一つのために戦っているかわかってもらえますか? 先にも言ったとおり、みことばは神の真実だと信じているからです。神は聖書を固守されます。神はこの世を、みことばであるイエス・キリストによって裁かれます。このみことばは人となり、イエス・キリストとなられました。時間をかけてゆっくり理解できるように話しています。忘れないでください。みことばです。
そして今キリストは、花嫁がめちゃくちゃになっているのを知っています。彼はそんな状態のものと結婚すると思いますか? とんでもない。彼は聖なるお方です。彼女は待ちきれずに違法行為を行いました。それはアダムが見たものと同じです。
211
さて、兄弟姉妹の皆さん、後ろを振り返って見てください。何かの影が見えたら、それの実体がやって来ることがわかります。アダムは、妻の妊娠を知らされました。「蛇がわたしを騙したのです。」と彼女は言いました。
主がよしとされるなら、ふたつの型を取り上げながらお話しします。他には考えられません。
212
アダムの花嫁は待ちきれずに先走りました。こんにちの花嫁も同様です。手を加えた何かをつくり上げたいのです。「神に栄光!」と叫んで演台上で演出したり、何にでも手を出したいのです。彼女がしていることは? 何かを作り出すことです。
それは偽物以外の何でもありません。そうです。もしそうでないなら、この世は神の力で炎となって燃えているはずです。教会は炎となり、死者は蘇り、あらゆることが起こっているはずです。ですが、キリストが迎えに来て、みことばの種を蒔く前に、彼女は何の種を植えたのでしょう。雑草の種です。世俗的、教派的種です。だから今、彼女は収穫期を迎えているのです。誰の気分も害することがないことを願いますが、神から与えられたことを正しく伝え、正しく受け止められるよう願います。
213
さて、イヴは違法に自分の種を交配させました。みことばに反する行為をしたのです。彼女は何を求めたのでしょう? 知恵です。知恵を求めたのです。今日の花嫁も同じです。彼女は説教師を学校に送り込み、孵化器の中で心理学やら何やら教え、聖書にないことまでも頭に詰め込ませます。そうして卵を孵化させています。そこから出てきた集団は、あらゆることに妥協し、神のメッセージは否定し、自分が何をしているかわかっていません。
彼女は無知です。自分が間違っているとは思っていません。イヴもそうでした。彼女は自分が正しいと思っていました。イブが原型なら、教会は対型であって、同じように行動するのです。2 x 2 = 4です。
214
イヴの子どもたちはどうなりましたか? 初めに生まれた子は•••。神が「生めよ(アダムの花嫁に対して)増えよ、地にみちよ。」と言われたのなら、それは神からの任命です。しかし、イブはそれを果たさず、混ざってしまったのです。アダムが彼女のところにきたとき、すでに彼女は母親になっていました。言っていることがわかりますか?
同じことがキリストの花嫁である教会にも起こりました。ちょっと、最初の花嫁の方に戻って話します。彼女の最初の子が生まれたとき、その子は私生児で、死をもたらす子でした。それからあとは、みんな死ぬ運命にある子が生まれました。このことに性交が関わっていると気がつきませんか? もし性交が原因でないなら、どうして死ななければならないのでしょう。神からの任命を受けたのに、どうして滅びなければならないのでしょうか。神のことばは永遠です。神が、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と言われたとき、それは神の永遠の目的でした。その任命に従っていれば、死ぬはずがないのです。神のことばですから、あなたは生きなければならないのです。その子が正しく生まれていたなら、この世に死は存在しなかったはずです。でも彼女は待ちきれなかったのです。
215
こんにちもそれが問題なのです。神のことばを待ち望んで、本物の花嫁として現れる代わりに、叫んだり跳んだり異言を語ったりして、いかさまに取り繕っているのです。みことばを受け入れる者が、本物の花嫁で、子を生みます。その子は死ぬことがありません。みことばによって花嫁が生む子は、死なないのです。なぜなら、その子もみことばだからです。アーメン。わかりますか? その子はみことばの子なので、死なないのです。最初の種の子、永遠の子です。ハレルヤ。
イエスがまさにその子であり、神の仰せによって生まれた永遠の子でした。死ぬ必要はなかったのですが、わたしたちの負債を支払うために死なれました。負債を払うにはそれが唯一の方法だったのです。イエス以外は皆、悪魔のせいで性交によって生まれた子なので、その資格がありませんでした。やっとわかってきましたか?
216
教皇であれ司祭であれ司教であれ、誰もが皆死にます。皆、交雑種だからです。皆、サタンとイヴの間に生まれた子です。彼らがなんと言おうと、サタンとイヴの子です。最初のみことばとはなんの関係もありません。最初のみことばはいのちです。ところが、みことばに不純物を混ぜ合わせた結果、死をもたらしたのです。ペンテコステだとかバプテストだとか、好きなことを言っているこんにちの教会も、みことばに教義を混ぜて、死をもたらす子を生んでいます。教会自体にいのちがないので、彼女は死んでいて、その子も死んでいます。
神は、「わたしはこの女を病の床に投げ込もう。その子どもたちも死病によって殺す。」と言われました。黙示録にそう書いてあります。どれだけの人が、それが正しいと知っていますか? 彼女を虚ろな床に投げ入れ、その子どもたちも炎で殺す。麦とともに蒔かれた毒麦はどうなりますか? 焼かれるのです。みことばを偽ることはできません。それは真理です。良心のとがめを感じながらも、みことばに逆らってしまうこともあるかもしれません。でも、みことばをまっすぐに走らせ続けるなら、それはイチニ、イチニ、イチニ、イチニ、イチニ、とずっと走り続けます。彼女を虚ろな床に投げ入れよう•••。彼女がもたらすものは死の子に他なりません。
217
教団教派が、交雑種の子しか生み出すことができないのなら、なぜ、あなたは教団に族したいと思うのですか? さて、兄弟の皆さん、わたしが教団教派に反対する理由は、そこにあります。彼女は初めから娼婦なのです。聖書がそう言っています。歯に絹を着せぬ言い方ですが、今日は率直にものを言うつもりです。彼女はみことばをそのまま受け入れる代わりに、教義や信条を取り入れて、霊的姦淫をおこなっています。そして子どもたちにも、そうするよう教えています。
さて、女から生まれるすべての人が、死ぬ運命にあるのと同じで、その子どもたちは死んだ胎から生まれたので、死ぬ運命にあります。彼女が交配したからです。彼らは違法行為から生まれた子なので、私生児です。そうです。どうか、スルーしないでください。
218
イェホヴァには、かつて花嫁がいました。アダムにも、イエスにも花嫁がいたように、イェホヴァにも花嫁がいたのです。知っていましたか? でも、彼女は娼婦となってしまって、捨てられました。聖書にちゃんと書いてあります。彼女は娼婦となってしまったと。なぜそうなってしまったのでしょう。(その箇所を読む時間があればいいのですが、でも後でちょっとそのことを話します)それは、サムエルが統治していた時代、人々が王を要求したときです。イスラエルは、サムエルをとおして神が統治されていたので、おとめであり、これから何かを生み出そうとしているところでした。ところが、イスラエルは周りの国々を見回して、自分たちも他の国々のように王が欲しくなったのです。
219
この世に押し流されたペンテコステよ。あなたも同じことをしたのだ。ペンテコステは真理から離れて他の教団教派と区別できなくなっていると、ここに座っている百歳近くになる説教師が、説教したのに、耳を貸さなかった。あなたたちはそれらを悪魔から出たものと呼んでいたが、それは正しかった。ところが、他の教会がしたのと同じように、あなたたちも組織化してしまったのだ。それから、神が言われたように、あなたたちは自分の周りに垣根を作った。行って教え、•••?•••「神に栄光、ハレルヤ!」と叫んだり飛び上がったり、異言を語ったりして、「聖霊を受けたから彼を会員に加えよう。」などと言っている。彼は水によっても、霊によっても、正しい洗礼を受けていません。彼が間違っていることはその実が証明しています。違う種類の種を得て育てているのです。「兄弟の上に神の祝福がありますように。あなたの上に手を置いてあなたを長老にします。わたしたちはこの組織をアッセンブリーズよりも大きなものにするのです。」こんな感じです。ペンテコステの、あるいは他の教会の歴史を読んで、わたしが言ったことが間違いか、調べてみなさい。
220
バプテスト教会はメソジスト教会に負けまいとし、メソジストはルーテル教会に負けまいとし、ルーテル教会はカトリックの上を行こうとしています。誰もが誰かを出し抜こうとしています。それが組織の霊のなせる業です。イエスは、「いのち通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだすものは少ない。」と言われました。イエスが、少ないと言われたのですから、これは神のことばです。その種は少ないのです。億も何十億もいないのです。いのちの門を見いだす者は少ないのです。先に定められている者だけが、聞く耳を持ちます。初めの雨は、すでに降りました。
221
さて、イェホヴァには愛する花嫁がいたのに、娼婦と成り果ててしまった。彼女は何をしたのか? この世の権力を追いかけたのだ。神は油注がれた老預言者をとおして何をされたか? 主のことばは預言者をとおして語られるのです。サムエルは出ていって、「子どもたちよ、私のところに来なさい。あなたたち皆と話がしたい。なぜあなたたちは王を欲しがるのか? イェホヴァがあなたたちの王ではないか。なぜ信条など作り出したがるのか? 聖書があなたたちの信条ではないか。聖書は真理で、信条は偽りだ。人が作ったものにはいのちがない。」と言いました。
聖書のどこに使徒信条などと書かれているのか。「聖徒の交わりを信じます。」とは何事か? 聖人との交わりを信じる者は霊媒者ではないか。死者と交わるのは霊媒である。神と人との仲介者は、ただ一人キリストだけである。キリストは、死から復活して永遠に生きておられる。プロテスタントまでもが、そんなことを信じて、丸首の襟までつけている。他のことはどうか知らないが、カテキズムまで鵜呑みにしている。彼らも好きなのだ。この世に同化するのが好きなのだ。
222
「わたしたちも、もとはペンテコステでした。タンバリンを手に街角に立って祈りました。女性は髪を長くして、神を賛美していました。」おや、まあ、あなたたちにはもっと分別があるはずです。本物のクリスチャンが笑うことでしょう。ボブカットの髪型にして顔に塗りたくってウィンナーソーセージのような格好をして、それで出かけていって。それであなたたちは神に仕えていると思っているのですか? あなたたちにはもっと分別があるはずです。世間にだってもっと分別があるはずです。恥を知りなさい。そんな格好で街角に立つのは•••。わたしは非難しているのではないし、平静を失ってもいません。ただ真実を言っているのです。時が来れば、あなたたちにもわかるでしょう。常にそうなのですが、わかったときには遅すぎるのです。今までもそうでした。
223
イェホヴァの花嫁は、異邦の民のあとを追いかけて身売りしたがりました。イエスの花嫁も同じことを求めています。神のことばは誰に臨むのでしたっけ? 預言者です。サムエル老預言者は、出ていって言いました。「子どもたちよ、なぜ他国のように振る舞いたがるのか。わたしが主の名によって語ったことで、実現しなかったことが一つでもあるだろうか。」 覚えてますか? どれだけの人がこの箇所を読みましたか「主の名によって語ったことで、一つでも実現しなかったことがあるだろうか。他にも、大きなキャンペーンを主催したりして、あなたたちからお金をとったことがあるだろうか? 一回でもお金の無心をしたことが•••」 あ、サムエルの話をしているのでした。主のことばが臨む人です。「わたしがあなたたちに、そんなに多く要求したり、これこれをしろと要求したりしたことがあっただろうか?」
「いいえ、ありませんでした。あなたは常に正しいことしか言いませんでした。」
「では、なぜ彼らの真似をしたがるのか?」
「サムエルよ、あなたは正しい。でも我々は、どうしてもそうしたいのです。」
224
ペンテコステ教会がしているのも、まさに同じことです。だからわたしは、ペンテコステ教会に属さないのです。神のことばを守って、神の前で純潔なおとめでいたいからです。大きな催し物なんかをする必要はありません。そのようなものに束縛されることを拒絶します。これはわたしの知恵ではなく、神からの知恵です。わたしがもし、人や悪魔にへつらったとしたら、「ええ、テレビ番組を持たなければなりません。それにはこれだけのお金がかかりますから払ってください。」なんて言って、密かに人を操ったかもしれません。しかし、主の御名によって語ったことで、実現しなかったことはありません。わたしはみことばしか語ってきませんでした。調べてみなさい。あなたたちに何か要求したことがありますか? いいえ。神がなんとかしてくださっています。わたしには、お金のかかる大きな企画はありませんし、これからもありません。神に属する人は、神のことばを聞きます。霊がどこに行くか、何をするか導いてくださるのを感じ取ることができるのです。それだけが必要なことであって、何億ものお金がかかる企画や何億何千億ものお金のかかる建物などは必要ないのです。
225
非難しても、わたしは気が咎めません。これは非難されるべきことです。誰の感情も傷つけたくはありませんが、神を悲しませている人を不愉快にさせても構わないと思っています。もし神から遣わされて、これらのことをして証しを立てているのなら、耳を傾けるべきです。わたしは真実のことを語っています。これが真実であることを、神はしるしだけでなく、みことばによっても証ししておられます。
226
ですから、イェホヴァの花嫁は娼婦と化して、婚外子の衆を生み出したのです。そうですね? それは真実です。それでネブカドネツァール王等によって連れ去られなければなりませんでした。キリストの花嫁も同じことをしました。待っていられなかったのです。
それで彼らは、何かを作り出さなければなりませんでした。聖霊が教会に臨むまで、待ちきれなかったからです。彼らは自分たちの教団をもっと大きくしなければなりませんでした。もし彼らが、五十年前に聖霊が降りて、みことばが宣べ伝えられたとき(訳注:アズサリバイバル)の状態を守っていたらどうなったことでしょう。多分、教会員は50人にも満たなかったことでしょう。そうです。でも彼らは正真正銘のクリスチャンで、神の力をおび、彼らの語る一言一言が、みことばのおびただしい影響を及ぼし、世界は彼らの言動に震え上がっていたことでしょう。それなのに、こんにちのありさまときたら、騒がしいドラやシンバルの音ばかり。たわごと、もの笑いの種、この世の恥、神の恥となっています。
227
ある朝、教会役員のフレッド・ソスマン兄弟とバンクス・ウッド兄弟とわたしとでアリゾナからミズーリ州スプリングフィールドに向かう途中、朝ごはんを食べにある店に入りました。ウッド兄弟が、コリンズ姉妹に似た人がいるというので、見ると、ブロンドの長い髪を後ろで束ねた女性が立っていました。確かに似ていました。そこに年配の女性もやって来ましたので、わたしは、
「あれは彼女のお母さんではないかな。あの長い束ね髪だもの。」と言い、
「そうに違いない。ここはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の近くで、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団本部があるから、彼女たちはそこから来ているのだろう。」と言いました。
そこに髪を短くした女学生たちが座っていました。すれっからしのようなのに、みんな聖書を抱えていました。
228
わたしは彼女たちが店を出るまで、その女学生たちの行動を見ていました。忍び笑いをしたり、大声で笑ったり、現代の風潮そのものでした。まさに明日のペンテコステの収穫物(もしあるとすれば)です。なぜですか? どうしてこんなことになってしまったのですか? それが蒔かれた種だからです。そのとおり。
年配の女性が出て行って、女学生たちも出て行った後、コリンズ姉妹に似た女性が来て、「お望みのものはすべて揃っていますか?」と聞いたので、
「ちょっとお聞きしたいのですが。」わたしは言いました。
「ええ、どうぞ。」
「あそこにあるのは聖書学校でしょうか?」わたしは知らないふりをして聞きました。
「ええ、そうです。」
「あそこはお得意さんのようですね。」
「ええ、そうです。」
「あなたもあの学校に通っているのですか?」
「いいえ、ごめんなさい、わたしは違います。」
「なぜそう思ったのかというと、あなたが長い美しい髪をしているからです。あそこにいたのはあなたのお母さんですか?」
「いいえ、彼女はここで働いているのです。わたしは長い髪が好きで、わたしの娘も髪を長くしています。わたしの夫が長い髪を好むのです。」
そこでわたしは言いました、「あなたのご主人に神の祝福がありますように。」
229
わたしは言いました、「なんだか不思議な気持ちです。ここにいた神学生たちは大統領夫人のような髪型をしていたのに。」
「そうですね。」
彼女が立ち去るとき、わたしは「ありがとう。」と言い、それから、「あの通り向かいの建物に通う交雑種の若造たちを叱責するために、神があの女性をここに送られたのだ。」と言いました。
そのとおり。世間の真似をしたがる庶子たち。どれだけ多くの女性たちが、あの国の王妃イザベルの真似をして、それで天国に行けたと思いますか? わかりますか。もしあなたがこの世を愛し、この世のことに関わるなら、あなたのうちに神の愛はありません。国家最大のペンテコステが生み出す、粒よりの未来作物が、そのありさまです。それが花嫁だとは、わたしには理解できません。
230
彼女は何をしようとしていますか。演台の上でぴょんぴょん跳ねる演出です。バカにしているわけではありません。彼女は教会員をもっと増やすために、何か別のものを作り上げようとしているのです。神が働かれるまで待つことができずに、先走っているのです。なんとかして会員を得なければならないからです。それで人には、「それをしなければいけない。」なんて言いながら、自分は外れて行くのです。その種が頭角を現そうとしています。
231
わたしは宣教師です。アフリカで、全裸の男女が動物の血を自分たちの体にふりかけて、顔に塗りものをして—-化粧はここから来ています。異教の特色です。化粧は人間のためのものではなく、ましてやクリスチャン、信者がすべきことではありません。聖書で唯一、顔を塗りたくっていたのはあの悪魔イザベルです。
そう、彼らは顔に塗りものをして、耳に木のブロックの様なものを入れて耳たぶを垂れ下がるようにしています。—時には唇を割いてひっくり返して、それが美しいと思っています。そしてシマウマのような模様を体に描いて、叫び、憑霊状態になって踊り、異言を語り、悪魔を礼拝しています。それが聖霊の証し?
232
インドにも行ったことがありますが、そこでは火の上を歩いたり、あらゆる修行が行われています。ルビーのイヤリングをつけた大きな偶像の前で、自分たちの体に苦痛を与え、肉体に突き刺し、鞭打って自らを痛めつけている人たちがいます。嘘をついたら、唇を縫い閉じて懺悔します。あるいはサーベルで唇と顎と鼻を串刺しにしたり、クリスマスツリーの飾り玉のようなものに水を満たして魚釣りの針に付け、それを体に何千本も刺して、偶像の周りを踊り、山羊を殺し、真っ赤に燃える火の上を焦げることなく歩いています。ペンテコステも真似したらどうですか?
233
イスラエルは、神なる主を誘惑したことはありませんが、誘惑に流されました。でも彼らは、何かをでっちあげようとはしませんでした。そこがこんにちのペンテコステの問題なのです。彼らは待ちきれずに、何かをでっちあげています。ああ、神よ。彼らは待ちきれずに、姦淫を犯しています。アーメン。毒麦が何かを造ろうとすると、何ができますか? 初めの花嫁の時と同じです。
彼女は、私生児を生んで死をもたらしました。わたしたちは皆その子どもです。でも神が、別の生まれ方をして人となってくださり、わたしたちをもとの神の子に戻してくださいました。わかりますか。イヴのいのちの種は発芽しませんでした。一度も発芽しませんでした。それは彼女が交配したからです。ときが満ちてアダムが花嫁のところに入るまで待てなかったのです。キリストも同じです。彼は約束どおり教会に来るはずでしたが•••。神は繁殖を約束されましたが、教会は神のときが来るまで、待たなければなりませんでした。
234
それがこんにち問題となっていることです。彼らは神のときを辛抱強く待つことを嫌がるのです。それで、悪魔が彼らに入れ知恵をして、「どこよりも大きな組織を作ろう。」なんてことになっているのです。
なぜわたしが、こんなにも組織に対立するかわかってもらえましたか? みことばが、わたしの内におられる限り、わたしは全身全霊で組織に異を唱えます。神は、常に組織を憎んでおられるからです。神がそう言われました。
235
それで、イヴのいのちの種は発芽しなかったのです。サタンの嘘と混雑したために、アダムの愛らしい花嫁は汚れてしまいました。キリストの花嫁も同様です。イブはなぜ汚れてしまったのですか? 神のみことばにとどまっていなかったからです。もしそうでなかったら、何も言わないで。でもそうだったら、そうだと言ってください。花嫁を持ったのは3人います。アダムとキリストと神です。さて、アダムの花嫁が正しくいのちを生むことができなかったのは、神のことばに疑いを持ったからです。正しいと思ったら、アーメンと言ってください。(編注:会衆が「アーメン」)イェホヴァの花嫁が追い出されたのは、預言者をとおして語られた神のことばを拒否したからです。イヴやその他の人々のように、姦淫を犯し汚れた者となりました。花婿が来る前に身ごもってしまったからです。
これが残酷な状況でないというなら、想像してみてください。ある若者が娘のもとに来てみると、別の男の種を宿していたのを。なんてことでしょう。それを神は経験されました。アダムもキリストもです。ああ、神よ。
236
そうです、彼らはみことばにとどまらなかったために、雑種になりました。イスラエルも、キリストの花嫁もです。キリストの花嫁であるペンテコステも、同じ状態になりました。
彼女は、みことばによる霊の子を生むことができません。彼女自身が、教団教派と交わって、雑種となっているからです。教会協議会とか何とかいう団体に属して、他と変わらなくなってしまいました。もう彼女に稔性はありません。
237
言いたいことはたくさんありますが、先を急がなければなりません。これら一つ一つについてお話ししたいのです。
238
さて、本物の花嫁は、•••ハレルヤ! 教団教派に加わりません。前もって定められているからです。焦って教団に加わらなくても、すでに花嫁になることが決まっているのです。
マリアのように•••聞き逃さないように注意してくださいよ。用意はいいですか? アーメン?(編注:会衆「アーメン!」)キリストが花嫁のもとに来るとき、花嫁はマリアのように処女の状態でいます。神が娼婦の胎をとおしてキリストを生まれさせることはありえませんでしたし、キリストの花嫁の場合も同じです。神のことばをもてあそぶ娼婦のところに、神のことばが送られるはずはありません。ひどい言葉を使っていますが、聖書がそう言っているのです。わたしが言っているのは、聖書に書いてあることだということを理解してください。
239
マリアのように花嫁は、純潔なおとめとして、みことばを受け入れます。みことばはキリストです。みことばであるキリストが、花嫁のところに来るとき、彼女はキリストと同じ、純粋なみことばになります。このことを受け入れてもらえいたいのです、ネヴィル兄弟。わかってください。キリストはみことばです。神のことばです。彼の衣には「神のことば」という名が記されていた。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばは人となられてわたしたちのところに住まわれた。」 キリストは神です。神はみことばです。キリストの花嫁が来るとき、彼女はキリストと同じ、純潔です。
240
キリストは教団に属しましたか? イェホヴァは? 同様に、花嫁も教団に属しません。彼女はキリストの一部だからです。教義は要らないし、何も取り入れません。彼女はみことばによって純潔を守っています。神が仰せになることば一つ一つに、「アーメン。アーメン。おことばのとおりにこの身になりますように。アーメン。」と言います。神のことばをきっかり守るのです。
花嫁は、みことばの純潔な胎から生まれました。イエスも、処女の胎から生まれました。わかりますか。
241
アダムがイヴのところに来ると、彼女は身ごもっていました。彼女は何かをしたのです。彼女は交配して交雑種の子を生み、その子は死にました。ヨセフが許婚のところに来ると、彼女は身ごもっていました。しかし、いのちを身ごもっていたのです。アダムが花嫁と一緒になる前に、ヨセフとマリアのように、キリストと教会のように、•••。アダムとイヴが一緒になる前に、彼女は蛇から受けた堕落した種を宿していたのです。彼女は死を宿していたのです。霊的、身体的死です。しかし人間であるヨセフがマリアのところに来ると、(神に栄光!)彼女はいのちを宿していました。神のことばが彼女の胎内に宿っていたのです。
242
神のお仰せのことばを返してください。人の胎を介して来られたみことばである神のことばを返してください。アーメン。神はそうされるでしょう。神が語られると、そのとおりになります。神に栄光!アーメン。それがわたしたちの神です。なんと意味深いことでしょう。それを解くことができれば、見つかるでしょう。その場所で神は彼らを見つけられたのです。
243
アダムの妻は、すでに悪い種を宿していました。その種は死です。ヨセフの花嫁も身ごもっていましたが、両者の違いは何ですか? アダムの妻はみことばに疑いをかけました。ヨセフの花嫁はみことばを信じました。これが大きな違いをもたらしました。かけがえのないみことばを信じること。世界は、神のことばによってできました。ハレルヤ。わたしはみことばにとどまります。教団教派はなるに任せて没落せよ。わたしはみことばを基盤とします。
これが、わたしが貫いていることの理由です。教団を非難してきたのもそのためです。「なんだ、彼はただ教会を壊そうとしているだけじゃないか。」 彼らは主に対しても、同じことを言いました。いつの時代にも、そう言われるのです。
244
さて、キリストは花嫁のところに来て、何を見出しましたか? 同じことです。(聞き逃さないよう注意していてください。)彼女は初めは純潔なおとめでした。初代教会時代は順調で目覚しい働きをしていました。神は彼女を花嫁とされました。ところが何が起きましたか? 歴史を調べればわかりますが、606年に、ローマ宗教の教義と交配して組織を身ごもったのです。それ以来、聖書の大淫婦は、次々と教会を生んできました。それらはふしだらな娘たちで、やはり娼婦です。それがプロテスタント教会です。彼女たちは大淫婦から生まれて、独自の組織を作ってきました。どうしてわたしが、教団組織を嫌うか、わかってきましたか?
245
さて、生まれたみことばははキリストで、教団の教えによって汚されてはいませんでした。初代の教会には、教団など存在せず、ただみことばによってのみ存在し、霊が水やりをしていました。兄弟の皆さん、神はみことばを、そのように植えられたのです。そして聖霊が水やりをしました。教会は成長して子を生みました。しかし、こちらの教会は、教団となってしまったので、そうはいきません。彼女は、この世と交わってしまいましたから。
246
さて、神は御体をとおしてみことばを確実なものとされました。そうですね? ところが彼女は、エデンでアダムの妻がしたように、不貞をはたらきました。イェホヴァの妻も、サムエルの時代に、夫でありみことばである神と、神のスポークスマンである預言者を捨てて王に走ったことで、異邦人たちと同じように不貞をはたらきました。それで神は、彼女と離婚しました。キリストもこんにち、同じことをされました。
247
花嫁の子らは(わかりますか?)花嫁と姦淫しました。•••聖霊降臨から生まれたキリストの花嫁は、みことばの純潔なおとめでした。しかし、不貞をはたらいてアダムやイェホヴァの妻のように姦淫を行うようになりました。キリストの花嫁は、ローマの多神教と姦淫したのです。そして、愛人であるローマの神々の歓心を買うために、自分の夫を三つにちょん切ってしまいました。ああ、神よ、彼らを憐れんでください。彼らには何百もの神がいます。バラムは太陽の神、アスタルテは天の女王です。それで花嫁は、悪名高き愛人を悦ばすために、•••。雅歌で(訳注:エゼキエルで)訴えていないでしょうか。彼の妻は娼婦で、来る者拒まず、いつでもどんな愛人にも体をゆるしていると。遠慮なくストレートに言いましたが、これは聖書が語っていることです。彼女と寝たいと思っている男は誰でも彼女と寝ることができると。同じことを、キリストの花嫁もしているのです。組織の老いぼれて汚らわしい習慣を、構わず受け入れています。
248
こう言ってしまったからには、きっとわたしは非難を受けます。でも構いません。これを言ったので祝福も受けるからです。これは真理です。神がこの真理をわたしに語るよう託されたので、できる限りうまく伝えようとしているのです。
249
彼女は多くの愛人を悦ばせようとしました。そのため彼女は、神のみことばと愛人をかけ合わせようとしましたが、うまくいきませんでした。それで神のことばを「廃棄」して、自分のことばを作りました。自分自身ががことばであると宣言したのです。カトリックのことだけを言っているのではありません。プロテスタントも同じように協議会を立ち上げ、不貞をはたらいています。ふしだらな娘たちと言われるわけです。厳しい言い方でしょう。このように厳しく言って、あなたを震え上がらせて、目を覚まさせたいのです。
250
そのようなことをして、彼女は、みことばの夫であるイエスのもとを去りました。イェホヴァの花嫁が、サムエルを捨てて、サウルのところに行ったのと同じです。みことばの油注ぎを受けた預言者を捨てて、王笏を持つ王を選んだのです。本当は、千年紀に花嫁が、王笏を持つ王のところに行くことになっていましたが、残念にも彼女は捨てられました・・・。キリストは、異邦人を花嫁に選んだのです。そうですね? 聖書にそう書いてあります。
ところが彼女は、みことばであるイエスを捨てて、教皇と教義を夫にしてしまいました。今や、カトリック教会には教皇がいますが、イエスはおられません。プロテスタント教会も、教団教派はありますが、イエスはおられません。同じことです。どちらも獣の刻印です。
251
それゆえ、誰もみことばの子を生むことができなくなりました。教会自身がふしだらな女ですから。聖書がそう言っています。彼女は手に盃を手に持ち、人々に教義を与えましたが、それはふしだらで汚れた憎むべきものです。ふしだらとは、汚れた生活をすることです。そして、人々に彼女が与えた教義とは、汚れた不品行のことです。地上の王たちは、この女の不品行のぶどう酒に酔いしれました。まさにそのとおりになっています。カトリックだけでなく、プロテスタントも、間もなく自滅することでしょう。
252
聞きなさい、メソジストよ。誰がジョン・スミスを殺したのか。カラスたちよ。わたしは彼の教義を信じないが、あなたたちの教義も信じない。ジョン・スミスには、この国で彼の宗教を宣べ伝える権利があったが、あなたたちは、彼をイリノイで殺してしまった。彼の教えが少し異なっているという理由だけで、彼を撃ち殺したのだ。それなのにあなたたちは、カトリックのしたことを叱責している。
メソジストの信徒たちよ、永遠のいのちに定められている者よ、くだらない教えから離れなさい。ジョン・ウェスレーは、墓の中でひっくり返っていることだろう。ジョン・ウェスレーは、教会など創設しなかった。彼が亡くなった後、不良の連中がそんなものを創設したのだ。ジョン・ウェスレーは関与していない•••。昔のペンテコステたちは、このようなものを創り出さなかった。聖霊の働きが止んだ後に創設されたのだ。そのとおり、イエス・キリストは、わたしたちが今ペンテコステと呼んでいるような代物は創設されないし、聖霊も然りである。あなたたちは、聖霊の代わりになるものを創設したが、聖霊を殺すことはできない。やがて、本物の花嫁が現れるだろう。彼女は既に定められており、神がそう約束されたから。
253
教会は、みことばの夫であるイエスから去って教皇と結婚したので、霊の子を生むことはできません。教義を頭に詰め込んだ子なら、たくさん生むことができます。でも、彼女はふしだらな女なので、霊の子を生むことはできません。彼女にできるのは、教会の教えを守らせることと馬鹿騒ぎです。カトリックは、小さじ一杯のキリスト教的迷信と、バケツいっぱいのローマ主義でできています。ペンテコステ教会も変わりありません。飛んだり跳ねたり叫んだり、異言を語ったりしていますが、神が使者を送って死者を蘇らせても、その使者が教団に反対したり、教団に属していないという理由で、追い出してしまいます。
254
この大淫婦は、罪を赦す力を持っていると言い張っていますが、人は主張するところによって、義とされません。人は主張ではなく、おこないによって知られるのです。どうすれば、彼女に罪を赦すことができるのでしょう。彼女を見てごらんなさい。イエスも同じことをされて、「あなたたちは、どこで聖書に反したと言ってわたしを非難するのか。」と言われました。
彼女は罪を赦す力があると主張しますが、それができるのは、神のことばだけです。そうです。神だけが、罪を赦すことができます。ファリサイ人たちもそう言っています。ところがこの盲目偽善者の連中はどうしてしまったのでしょう。彼らには、目の前にいるのが、みことばであるということがわからなかったのです。イエスはみことばです。神に栄光!ですからイエスには、罪を赦すことができたのです。彼は、神であり、みことばが人となって現れたお方でしたから。
255
カトリック教会は、イエスからその力を授かったと言っています。そのとおり。イエスは教会に力をお与えになりました。それは確かです。しかし彼女の娘たちは皆、教団の娘であり、ふしだらな娘です。「ブラナム兄弟、大胆なことを言いますね。」 わたしから出た言葉ではありません。神からのことばです。
「どうして彼女らがふしだらなのです? どうしてそのようになってしまったというのです? 皆よい人たちではありませんか。」 わたしは、人についてどうのこうの言った覚えはありません。カトリック信者が悪い人だなどと言っていません。彼らはわたしたちと同じ人間です。でも、母体の教会となると、間違っていると言わざるをえません。プロテスタントも同じです。メソジストもバプテストもペンテコステもどの教派も、みんな同じです。
256
でも、どうしてふしだらな娘になったかということなら、みことばで試せば答えが出ます。聖書のことばに関して、どのような答えをするか試してみましょう。「ええ、もちろん。そのようなことは神学校で教えてもらいました。昔はそのように行われていました。でも、(ハ、ハァ)それは使徒の時代の出来事です。そんなことは使徒にしかできません。」 キリストの教会と称する者たちよ、「聖書が語っていることを語り、そうでなければ黙って•••。」 あなたが語っていることを聞きたいものです。いいえ、黙りなさい。兄弟よ、神のことばは、すべてを黙らせます。誰も自慢できません。そうです。
257
彼女の娘たちは皆、ふしだらです。どうして? 母親と同じく、みことばに反して霊的姦淫を行ったからです。そうしたために、カトリック教会は娼婦になり果てました。同様に、娘たちもふしだらになったのです。みことばに反して、霊的姦淫を犯したからです。母親と娘たちには、不貞の胎があります。そこからは死しか生まれません。神は、死からいのちを生まれさせることができませんし、すべて死んで生まれたものは、生きていないのです。ヨブが言ったように、「汚れたものから清いものを引き出すことができましょうか。だれひとりできません。」 そのとおりです。彼女自身が死んでいるのに、どうしていのちを生むことができるでしょう。娼婦なのに、どうして純潔なおとめになれるでしょう。そういうことです。
258
さあ、これで創世記から黙示録まで、栄養たっぷりの重要なところに入ってきました。彼女と娘たちは、不貞の胎を持っています。そこからは死しか生まれません。もしあなたが、正しいと思って教団に加わるなら、どこに足を踏み入れることになるのか、気をつけなさい。そこは死の真っ只中です。もしそれがわからないのなら、あなたは霊的盲目者です。
259
さて、先週の日曜日のお話を覚えていますか。魂に通じる門です。胎には、身体的なものと霊的なもののふたつがあります。信じますか? 身体的と霊的胎です。心は霊に通じる胎です。先週お話ししたことを覚えていますか? 外部からは五感を通して、種の中に入ってきます。視覚、味覚、触覚、臭覚と聴覚です。内部からのは、意識、記憶、想像力など五つがあります。さて、いのちの側からは一つしかありません。受けるか拒否するかそれを決めるのはあなたの自由意志にかかっているということです。わかりますか。
260
霊的に姦淫を犯すとは、つまりこうです。神のことばが正しいとわかっていながら、心のうちで、みことばに反する悪魔の嘘を受け入れてしまうことです。それはまさに、イヴがしたことです。まず初めに、サタンの嘘を信じることによって、心の胎にそれを受け入れてしまい、心を汚します。それで心に死が入り込みます。それから実際の行為が行われるということです。夫を裏切って、妻が姦淫を犯すのも、まずは夫以外の男の言葉を信じることから始まり、それから実際に不貞をはたらきます。イエス・キリストの花嫁が、人の作った信条や教義を、みことばの代わりに受け容れたとき、彼女は姦淫を犯したことになるのです。
261
イエスは、こう言われませんでしたか? 「みだらな思いで他人の妻を見る者は、既に心の中でその女を犯したのである」と。人は心の胎にその思いを受け入れると、心の胎からことが起こり始めます。サタンが入ってきます。
「わたしは、いつか、いのちを地上に蒔き、・・地を満たす」というみことばが、わたしたちに植えられています。イヴは失敗しましたが、マリアは成就しました。彼女はみことばを受け入れ、イヴはサタンの嘘を受け入れました。マリアは神のことばを受け入れたのです。そしてマリアの種から大地は再び実り、キリストの花嫁、つまりみことばによって、至福の千年紀がもたらされます。神のことばを受け入れた者からみことばが発せられ、そのことばが、選ばれた者たちの心に植えられ、そこに聖霊が来て水を与え、彼らは死なない者となります。「終わりの日に、わたしは彼をよみがえらせよう。」 おお、兄弟姉妹の皆さん、これは本当のことです。
262
心は、霊が発芽して成長するところです。吸収したり解放したりするところです。人が姦淫を犯すのは、神のことばに反する何か悪霊から来るものを受け入れるからです。イヴは、(しっかり聞いてください)イェホヴァのことばに反して、サタンの嘘という悪い種を受け入れてしまいました。その結果、死がもたらされました。
263
これに関しての話は、もう直ぐ終わりにしますが、わたしがおしまいにしなければならないところにたどり着くまでに、このことをしっかり頭に入れておいてください。1ページ飛ばしますから、ちょっと待ってて・・
264
さて、イヴはサタンの嘘を信じて、悪い種を受けてしまいました。どれだけの人が、それを信じますか? そうそのとおりなのです。彼女はサタンの嘘を受け入れました。その結果、何が生まれましたか? サタンは、「ねえ、知ってる? これは輝かしい、素晴らしいことなんだ。このことのために君は造られたんだよ。実際そのとおりなのさ。」
「まあ、わたしが?」
「ねえ、見て美しいだろう? 試してみるべきだよ。」
「でも、主なる神が、だめ、だめ、だめ、まだダメっておっしゃったわ。だからいけないんです。」
「でもわかるだろう?」
「まあ、そんなことしたら・・」
「ねえ、死ぬなんてことはないよ。」 悪魔には、ひずめも先割れの尻尾もありませんが、なんと滑らかな舌を持っていることでしょう。彼は、説教台の裏で画策するぺてん師です。あるいは、髪をオールバックにして、若い娘をたぶらかす不良です。かわいい娘の周りをうろついて•••まあ、やめておきましょう。
265
さて、イヴは悪い種を受けました。しっかり聞いてください。主がそうさせてくださるなら、話のヤマ場に入ってき行きましょう。悪い種は、サタンの嘘のことです。彼女が賢くなるとか、立派な教会に所属できるとか、町の名士になれるとか、そんな類の嘘です。俗世の人と変わらなくなるということです。イェホヴァの花嫁が欲しがったのは、それです。そして、マリアにみことばが臨んだとき、サタンが囁いたであろうことも、それです。しかしマリアは、サタンを振りはらいました。
「どうしてそのようなことがありえましょう。」
「聖霊があなたに臨むのです。それは神のことばです。」
「おことばのとおり、この身になりますように。」 こうして、いのちが生まれました。
サタンがこう言ったのを知っていますか? 「みんなの笑い者になるよ。」
ばら色の頬の少女は、その声を無視しました。体に何の変化もおきていませんでしたが、神がそう語られたので、ユダヤの地に行き、「ねえ、赤ちゃんが生まれるのよ。」と言いました。それがすべてです。もう一度祈りの列に並び直す必要はありませんでした。彼女は信じたのです。それだけです。妊娠の兆候はありませんし、何も感じませんでしたが、「ねえ、赤ちゃんが生まれるの。」と言ってまわりました。神がそう言われたからです。これが、アブラハムの(信仰の)血を引く種です。
266
「赤ちゃんが生まれるだって? アブラハム、あの奥さんからか?」
「神がそう言われたのだ。」
「あなたは25年前も、同じことを言っていたよ。」
「わかってる。でも神がそう言われたのだ。」 これです。これが共通点です。
こんにちなら、なんと言うでしょう。「でも、教団から追い出されてしまうよ。」
「でも神がそう言われたのだ。神のことばだから。」
「でもそんなやり方で洗礼を受けたら•••・」
「でも神がそう言われたのだから、そうするんだ。」
これが純潔なおとめです。洗礼のことだけではありません。みことばすべてに従うのです。
267
さて午前中に、姉妹たちに許しを願いましたが、•••・キリストと花嫁の話しですが、•••いつでも女性が間違いを犯すときは、まず先に、心の中で許容するのです。そうです。ペテン師が彼女を説得すると、彼女は良心のとがめにもかかわらず、それに耳を傾けます。それから、実際の行為がおこなわれます。サタンは、初めにイヴの心につけ入り、彼女は心の胎で神にを疑いを持ち、それから、実際の行為がおこなわれました。
268
わたしたちが生まれ変わるための唯一の方法は、まず、心の胎でみことばを受け入れることです。それから、聖霊が降り、いのちをもたらします。兄弟の皆さん、それが本当の福音の教えです。もしここに聖パウロがいたとしても、同じことを教えるでしょう。アーメン。
イヴが犯した間違いの結果は? 身体と霊の死でした。みことば以外の言葉を受け入れて、はしゃいでいる今の人たちの行き着く先は? 身体と霊の死です。体も霊も消滅して、何も残りません。確かにそうなります。
269
マリアの心の胎が純潔だった証拠は、彼女が神のことばを信じたことです。誰からどんな非難を受けようとも、どんなひどいことを言われようとも、動揺しませんでした。何があっても神のことばを信じていたからです。
ああ、早くこの話をおしまいにしたいです。みなさん、理解できていますか? 初めに心に入るのです。文字通り彼女の胎に入る前に、まず心の中に聖霊を受け入れ、お任せしなければなりませんでした。霊の子が生まれる前に、みことばは、あなたの心の中に定着していなければなりません。つまり、信じるということです。
「わたしのことばを聞いて、わたしが神から遣わされたことを信じる者は、永遠のいのちを得、裁きの座に立たされることはなく、(あるいは艱難の試練に会うことはなく)死からいのちへと移される。」そのとおり。
270
純潔なおとめの胎、純潔なおとめの心が、神のことばを信じたのです。「ブラナム兄弟、そんなことはあり得ない。ジョン・ウェスレーだって、あの著名な誰々だって、見たはずだ。」
確かに、悪魔もマリアに同じことを言ったかもしれません。「お前は何者だ? 町で一番の貧乏人じゃないか。たかだか16かそこいらの水汲み娘。父親はなく、母親は盲目の年寄りじゃないか。(彼女の母の名はアンだと聞いています)いったい何のためにそんなたわけたことを言ってまわるのか。」
「聞きなさい。わたしの母は 目が見えませんが、神を畏れる人です。小さいときから、わたしに言い聞かせてくれたので、わたしの心にみことばが植えつけられています。神はイザヤ9:6(訳注:イザヤ7:14)で、おとめが子を身ごもると言っておられます。」
271
ハレルヤ!みことばが、人を介して現れることがわかりませんか? 神は教会に来られます。神のことばから生まれる教会が誕生します。教会は、生きた神のことばだからです。
「どうやってそんなことがわかるのか。」
「そんなこと言って•••」
「これからどんなことを言われるかわかりますか?あなたは•••と呼ばれるようになって・・」
「わたしが何と呼ばれようと構いません。主のおことばのとおりにこの身になりますように。」
ああ、みんなそう言えますか? もし心の底からみんなが、「主よ、あなたのおことばの通りにこの身になりますように。」と言えたらどうなるかわかりますか? 選ばれた人が本気でそう言うなら、その瞬間、空に閃光が走ります。(そのとおり)来たるべきものを迎えるため、本当にそのことがわかるなら、そのことばの上に霊の水が注がれ始めるでしょう。
272
純潔なおとめの心の胎が赤ちゃんを宿したらどうなりますか? 永遠のいのちが生まれます。イヴは良い女性で、最初は純潔でしたが、悪魔の嘘のことばを受け入れてしまいました。悪魔は彼女を間違いに誘い込み、その結果、死をもたらす子が生まれました。
マリアは純潔な心と純潔な胎を持っていました。天使が来て「あなたは赤ちゃんを生むでしょう。」と言い、それから悪魔が来て「そんなことは黙っていた方がいい。」と言いました。天使が「それは神のなせる業です。」と言ったので、彼女は疑うことなく、イザヤの9:6を思い浮かべ、言いました、「見よ、主のはしため。」 結果は? 聖書に書いてあるとおり、処女が身ごもり、永遠のみことばが彼女のうちに宿り、永遠のいのちが生まれました。
273
イェホヴァの花嫁、混雑種•••「どうしてそんなことを言うのです。ブラナム兄弟、午前中にあなたは、イェホヴァの花嫁が姦淫したと言いましたね。」
そうです。さて、注意して聞いてください。あと1時間くらいしかないので、少しとばして読み始めます。できるだけ早く読みます。わたしに我慢して、一緒に祈っていてくれるなら、あと1時間で終わることができるでしょう。
274
さて、イェホヴァの花嫁は、どこで間違いを犯してしまったのでしょう。イェホヴァは、エジプトにいる花嫁のところに、誰を遣わしましたか? 彼はアブラハムに、わたしの花嫁であるあなたの子孫は、400年の間エジプトに逗留するであろう。」と言われました。そうですね? 約束された解放のときが満ちました。(現在も、みことばが成就するときになっていませんか? 確かにそうです。)彼らはどのようにして、みことばを受けましたか? 祭司らが結集して組織を創り、「諸君、これから匿名で投票を行う。我々は、ファリサイという組織を創る。神はこの組織をとおして働かれるのだ。」なんて言ったでしょうか? 神は決してそのようなことをなさいません。
275
それなら神は何をなさいましたか? 主のことばを携えた預言者を送られました。神は彼を選び、油注いで、神の証しとされました。悪魔の力で奇跡をおこなう大勢の中にあって、モーゼはみことばにとどまりました。
雑多な民衆を引き連れてエジプトを脱出した、大切なイェホヴァの花嫁であるイスラエルは、約束の地に足を踏み入れる前に、モアブと姦淫をおかしました。そうですよね。ではどのように? 神のみことばに反する偽の預言者にそそのかされたのです。彼は、あらゆるしるしや儀式的なことに長けており、モーゼに負けないほど霊的な人物でした。
276
しっかり聞いてください。イスラエルには油注がれた預言者がいて、荒野でキャンプをしているにもかかわらず、昼は雲の柱、夜には火の柱に守られ、水を提供してくれる岩もあり、順調に暮らしていました。そして、大切なことですが、彼らには七つの完全な祭壇がありました。その上で七匹の清い子羊が捧げられました。子羊はやがて来られるキリストを暗示していました。
277
モアブに頼まれてやって来たバラムは、同じように七つの祭壇を建てました。基本のことをわからずに、彼らのことを語るのは慎んでください。イエスは、「(偽メシアの霊は)選ばれた者をも騙そうとするであろう。」と言われました。霊的啓示です。それを受け取ったら、それは神のことばです。みことばが現れたことがわかるでしょう。
さあ、モアブのことですが、バラムは疑う余地なく、大祭司であり偉大な人物でした。彼は七つの祭壇を建て、七匹の子羊を捧げ、来るべきメシアを信じていることを告げていました。兄弟の皆さん、もし基本だけを取り上げるなら、神はモアブも、イスラエルと同様に認めなければなりません。
カインが主のために築いた祭壇は(サタンの息子が主に祭壇を築いたのです)、アベルと同じものでした。二人とも主に礼拝し、教会に行き、什一献金をしました。二人とも義務を果たし、同じ神に礼拝しましたが、一人は受け入れられ、一人は失われました。なぜでしょう。
278
イエスは、「この岩の上に、わたしの教会を建てる。」と言われました。カトリック教会は、「その岩がここにある。教会はその岩の上に建っている。ペトロがその岩である。」と言い、ペトロがそこに埋葬されていると主張していますが、それは嘘です。わたしが知る限りでは、ペトロがそこに埋葬されたとされている頃に、彼はエルサレムにいたと聖書が教えています。ペトロはそこに行ったことがないのです。でもまあとにかく、彼らは彼がそこにいたと言っています。パウロがそこにいたという記録さえないのですが、まあ、ローマで埋葬されたことにしておきましょう。たとえそうだったとしても、イエスのことばをとり違えていることに、変わりはありません。彼らは霊的なことと物質的なことを、ごちゃ混ぜにしているのです。
279
プロテスタントは言います、「いいえ、イエスが言われたのは、その岩こそが、ご自分であるということです。」
イエスはそうは言いませんでした。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と言った時、イエスが言われたのは、「ヨナの子シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
ペトロは、神学校でそれを学んだのではありません。「教団はそれを教えないが、あなたにこれを明らかにされたのは、天の父である。わたしはこの岩(神の真理のことばの霊的啓示)の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに抵抗できない。」
280
モアブも同じことをしました。バラムがやってきてイスラエルの子たちに言いました、「やあ、友よ、・・・」 彼らがペンテコステにしたのも、同じことす。「やあ、友よ、わたしたちは同じ神を信じているのだから、同志ではないか。わたしたちに区別はないさ。」 モアブの先祖はロトの娘です。うまく誤魔化そうとしても、やはり場違いな存在でしかありません。彼らがやってきて言いました、「どう見たって、わたしたちはみんな、同じではないか。」(ロトの娘たちは何をしましたか? そう、実の父親と姦淫を犯したのです。)それなのに、みんな同じだなどと言うのです。「メソジストの皆さん、バプテストの皆さん、そして我々長老派、みんなあなたの油を欲しがっているのです。わたしたちは皆同じです。」 そして何をしましたか? 彼ら同士の間で結婚したのです。ペンテコステも、プロテスタント教派と同じことをしました。ペンテコステも教会連盟に加盟して、教団となりました。イスラエルが、霊的不貞と文字通りの不貞を犯して、神から追い出されたのと同じに、加盟したのを機に、神はペンテコステを拒否されました。サマリア人となった子どもたちは、呪われています。そうですね。イェホヴァに追い出されたからです。
281
キリストの花嫁も、同じことをしました。人の教えを取り込み、許婚であるキリストを追い出したのです。束になった洗いざらしのペンテコステよ、いったいどうしてしまったのです。黙示録3章20節の預言のことば、イエス・キリストは、ご自分の教会の外に立ってドアを叩いています。(編注:ブラナム兄弟が演台を叩く)それは、ラオデキアの教会時代のことで、聖書の中で最も痛ましい光景です。教会は何をしでかしましたか? 不貞をはたらきました。キリストが来られるとき、なぜドアを叩かなければならないのですか? イエスは、花嫁を迎えるために来られます。しかし彼が来てドアを叩いたとき(編注:ブラナム兄弟が演台を叩く)、彼は締め出されました。
282
「ここには入れませんよ。ここでリバイバル集会を開くことはできませんよ。聖職受任証を見せなさい。」神の霊に満たされた人に対して、真理の神のことばを現しているミニストリーに対して、彼らはこう言うのです。神の人に向かって、不道徳だとか何とか、何も言えないはずです。誰が神を非難できますか?教団のことになると、「彼はワンネスではない、アッセンブリーでもない、彼はトリニティーだ。いいや彼はトリニティーではない、アッセンブリーだ」などと言い合っています。
あなたたち庶子集団よ、恥を知りなさい。神は外に立っておられるのですよ。(先のキリストの先駆者)ヨハネが何と言いましたか? 「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。『私はこれこれに属する』などと思ってもみるな。」
283
話を続けましょう・・・おお、わたしはこれが好きです。キリストの花嫁は、アダムの花嫁と同様、種を交配させ、教団を選んで、キリストを追い出してしまいました。確かに彼女はそうしたのです。彼女は、将来の夫である神を遠ざけて、イヴがしたように、サタンの死ぬほど嘘っぱちの種を受け入れました。その結果、死んで形式的になった教会が生まれました。あなたはそれを嘘だと言いますか?
あなたのペンテコステの情熱は、どこに行ってしまったのですか。今ではバプテスト教会より形式的になっています。確かにそうです。今は悪い夢を見ているような気になりませんか? でも、ヨエル2:28で何と言っていますか? 「だが、わたしは回復する、と主は言われる。」
(編注:テープの空白)
284
アダムの妻がサタンの嘘を信じて死の種を身ごもったように、ヨセフの妻は、みことばを信じて神の種を身ごもりました。
それがどうしたというのです? いったいわたしは何を言おうとしているのです? テープでこの話を聞くみなさん、車の中で聞いている皆さん、会堂で聞いているみなさん、なぜわたしがこのようにこだわり、公然と非難しているかわかってもらえますか? わたしは誰をも非難していません。人を非難しているのではないのです。でも彼らと同じ立場に立っては、やっていけないのです。無理です。それが間違いだとわかっていますから。
285
イエスを例にとって語るのはなんともうれしいことです。イエスがサタンから誘惑を受けた場面です。「この世のすべての王国をあなたにあげよう。これらはわたしのものである。」 サタンはイヴのところにも同じようにして近づきました。まず食べ物をチラつかせるのです。「もしあなたがわたしを礼拝するならこれをあげよう。わたしたちのグループに属しなさい。」
イエスは言われました、「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から発せられることばのひとつひとつによって生きると書いてある。」
286
自分の立場が危なくなるのを恐れたり、教団にいられなくなるのを恐れて、はっきりした態度をとれない説教師よ、あなたに選択肢があると思いますか? 彼らはあなた追い出しますよ。あなたの弱さを、気の毒に思います。神への信仰はどこにあるのです? わたしも同じような経験をしてきました。わたしは17年間労働して、あるとき神によって連れ出され、フルタイムのミニストリーに入りました。その時思いました、「さあ、サタン、かかって来い。」ってね。そこでです、いったん、物事の真実を神が明らかにしてくださったなら、この世に怖いものはなくなります。あなたを負かすことのできる敵はいなくなります。それは、あなたが強いからではなく、神があなたのうちにいてくださるからです。偉いのは体ではなく、体の内にいてくださるみことばです。マリアではなく、マリアから生まれたみことばです。
287
人は何によって生きるのでしたっけ? 食料配給券ではなく、神のことばによってです。あなたを配属してくれる教団によってではありません。「信任状がありますか? あなたは評判がいいですか? ちょっと調べさせてください。まあ、だいたい100パーセントに近いランクに入っていますね。それでは試しに2、3日ここでリバイバル集会を開いてもいいですよ。それから後のことは、また相談しましょう。」 まあ、まあ、なんということ。こんな人たちといっしょに、神は働かれるでしょうか? 彼らは死んでいる上にまだ死のうとしています。根っこから腐っているので、引っこ抜かれてぽいと捨てられます。
288
神の祝福がありますように。聞いてください。わたしは、神のことばの他は信じられません。みことばが、わたしの生き方に反映され、わたしのすべてになることを願い、同じようにあなたたちも願うことを望みます。あなたの歩み、語り、態度すべてが、神のことばにかないますように。キリストの思いが、あなたの内にありますように。そうすれば、みことばを身ごもるようになります。もし教団の思いが入っているなら、教団を身ごもります。でももし、キリストの思いがあなたの内に入るなら、キリストは神ですから、神はご自分のことばを否めません。あなたは、みことばを身ごもり、それを信じます。するとあなたは、追い出されても、追放されても、すべての扉が閉まっても構わなくなります。どんな状況に追いやられても、いつも同じでいられるようになります。アーメン。ふう、ちょっと急ぎます。
289
キリストは今や花嫁を迎え、みことばの種を、彼女の霊的胎と心に植え付けようとされています。彼女は純潔ですから、彼女の内でみことばの種と教団のゴミが混じることはありません。
3日間部屋で、主を待ち望んで断食していました。神が、これから起こることを示されたとき、思いました。「神よ、これはどういうことでしょう。ここにわたしが映っています。これらをみな、教会に知らせたら、わたしはどうなるのでしょう。どうすればいいのでしょう。あらゆる教会の原型と影や、あらゆるものを見せられた末に教会が消滅するのを見せられました。あなたは何をされるおつもりですか?」 それからみことばが、心に来ました、
「わたしは回復すると、主は言われる。(そうです!)回復する。」松の老木は山火事で焼かれるとき、枝を振るって種を落とします。その種が新しい芽を出します。古木は教団組織やら何やらと一緒に焼かれますが、みことばの種は残ります。神のことばは、また芽を出して成長します。みことばの種は失われることはありません。
290
今が終わりのときだということは、知っていますね。作物を収穫するには、まず種を蒔かなければならないことも、知っていますね。それでは、どうしてわたしが、教会から追い出されても、あらゆることを言われても、あらゆる名前で呼ばれても、みことばにとどまっているか、わかりますか? 種が蒔かれ、種蒔きは終了したのです。今はそういうときです。種蒔き終了。彼女は蒔かれました。同様に教団の種も、その他も蒔かれました。
291
偉大な働きをしている素晴らしい兄弟のビリー・グラハムが、ルイヴィルで、こうこぼしました、「パウロは、町で集会を開いて1人を回心に導き、翌年そこに戻ってみると、その1人から60人が回心していたとあるが、なんとしたことか、わたしが6週間のリバイバル集会で2万人を改宗させても、半年経って戻ってみると20人しか残っていない。」
どういうことですか? 彼らは神に回心したのではなく、教団に改宗したのです。それだけのことです。教団の種を蒔けば、収穫できるのはそれだけです。「さあ、兄弟よ、教会に来て、台帳に記名しなさい。」その程度のことしか彼らは知らないのです。
292
ペンテコステも同じことです。「異言を語るだけでいいのです。それが聖霊の証拠です。さあ、教会に来なさい。」
間違った洗礼をして、いろいろなイベントをして、それだけでいいのです。
でもキリストが来られるのは、純潔なおとめのところです。一点のシミもなく、教団や教義のシワもない教会のところに来られます。教会は、純粋にみことばだけになります。
293
主を祝福します。さて、わたしたちは、キリストの花嫁となるために、キリストの体となりました。キリストの肉の肉、骨の骨となるためです。ここで質問です。前に雨が降ったとき、なぜキリストの花嫁は、誕生しなかったのですか? 答えてください。
もしこれからそうなると言うのなら、もうすでに期限切れだと言わざるを得ません。ノアの時代、彼が辛抱したように、神は花嫁の準備をされています。ペンテコステよ、50年前に雨が降ったあと、どうして花婿であるキリストは花嫁を迎えに来なかったのですか? 考えてみてください。どうして?なぜなら、あなたたちはキリストのためでなく、自分たちのために教団を創ってしまったからです。キリストは、ふしだらな女と結婚しません。彼はおとめと結婚するのです。厳しい言い方ですが真実です。回りくどい言い方をせず、率直に、真理を語ります。あなたたちに理解してもらうためです。
294
なぜキリストは、彼女のもとにやって来なかったのですか? なぜなら、彼女がふさわしくなかったからです。彼女は姦淫を犯しました。だから生まれた子は、永遠に生きることができず、死んでいくのです。アダムは、妻が身ごもっていることを知りました。だからイェホヴァは異邦人の花嫁を迎えなければなりませんでした。その花嫁も身ごもっていました。そういうわけで、キリストはあらたに花嫁を得なければならなくなりました。彼はいわゆる妊娠集団から離れて、彼の種を蒔かれます。誰かがその種を受け取ります。それは最終的に教会となるよう、定められた人です。
295
アダムとイェホバの花嫁のように、キリストの花嫁も教団が作成した教義に犯されていました。神が創世記1章で言われた真理のことばは、それぞれの種は種類に従って芽を出すということです。霊が教会に降っても、すでに教会は人の手により、独自の考えを持つ教団の種が植えられていますから、そのようにしか成長できないのです。そんな教会のところに、キリストは来ることができません。厳しいでしょう? でも現実です。
296
随分前のことですが、(テープで話すのは初めてですが、)わたしはミシャワカに行きました。黒人の少年のことを覚えていますか? そこで初めて、それまで聞いたこともなかった、ペンテコステの人々に出会ったのです。彼らの集会に出くわしたので、のぞいてみたところ、なんとまあ、天使の集団を見ているようでした。今まで異言について聞いたこともありませんでしたが、彼らは走り回ったり飛び回ったりしながら、異言を語っていました。「なんと素晴らしい。」と、心から感動しました。白人も黒人も、老いも若きもごった返していました。南部にはまだ白人と黒人の分離政策が残っていましたから、彼らは北のほうで集会を開かなければならず、それで、イリノイ州ミシャワカで集会が開かれたのです。
297
わたしは1ドル75セントしか持っていませんでした。ちょうど家に帰るガソリン代です。数日前5セントで買ったパンと、水飲み場で汲んだ水を持ってとうもろこし畑に行きました。愛車から座席を外して、よれよれしじら織りズボンとTシャツの上に座席を置き、寝押ししました。次の朝、また集会に行きました。彼らは食事を提供してくれましたが、もらうのは気が引けました。献金する余裕がなかったからです。
その日、彼らは踊っていましたが、踊るというより跳ね回っていました。そして霊に促されて歌っていました。「なんて素晴らしいんだ」と思いました。ひとりの人が異言で語ると、もうひとりが解釈していました。彼らは会衆の中から人々を呼び出していました。「なんと素晴らしい。」わたしは夢中になりました。
298
「誰々さん、ここに来なさい。主があなたを呼んでおられます。」すると誰々さんがやって来ます。
そしてひとりが異言で語ると、もうひとりが解釈しました。「千年紀がもうすぐそこまで来ているに違いない。これが証拠だ。」と、わたしは思いました。そして、「神の働きをしているあの人たちと握手することができたらいいのに。」
と思い、外を歩いているときにそ、のうちのひとりに近づきました。わたしはよそ者ですから、彼らはわたしを知りません。教会の周りを歩き回っているうちに休憩になり、そこでその人に会ったのです。彼と握手をして言いました、「初めまして、兄弟。」
299
ご存知のように、神はわたしに、人の秘密を見通す力を与えられました。だから、「彼と会って、何か言葉を交わせば、彼が本物かどうかわかるぞ。」と思いました。それで、指導者らしきその人と握手して、「初めまして、兄弟。」
と言いました。彼も、「初めまして。」と言い、少し会話するうちに、彼が本物のクリスチャンであることがわかりました。それで思いました、「神よ、あなたを褒め称えます!」
それからしばらくして、もうひとりの人に会い、挨拶しました、「初めまして、兄弟。」 そして話をしているうちに、彼が、これぞ偽善者と太鼓判を押せるような人物であることがわかりました。彼は黒髪で、ブロンドの女性との間に一人、ブロンドの女性との間に二人の子どもがいました。それをまぼろしで見たのです。
300
「さて、困ったぞ。いったいどういうわけで、同じ霊が、片や敬虔なクリスチャンに、片や悪魔の偽善者にとどまっているのだ? 神よ、これはわたしには理解できないので、このまま放っておくことにします。」 わたしは、19か 20才そこいらの若者でしたから、そう思ったのです。「このまま放っておこう。何がどうなっているのかわからないから、何も言うことができない。わからないから批判もできないが、あの人が悪い人なのは間違いない。」 わたしは目撃したのです、同じ霊が降りて、両極の二人に同じ働きを与えていたのを。「何かがおかしい。そういうことだ。」
301
彼が言いました、「聖霊を受けたかい?」
「あなたたちが受けているものを、わたしも受けたか、わかりません。」
「神に栄光!異言を語ったことはあるかい?」
「いいえ、」
「それなら、まだ聖霊を受けていないのだ。」
それでわたしは言いました、「それなら受けていないのでしょう。これは何か新しいことで、今まで聞いたことも見たこともないからです。」
「それなら、あそこに行って受けて来なさい。確かにあなたはそれを受けますよ。」
わたしは「ありがとうございます。」と言ってから思いました、「兄弟よ、あなたが受けたものを、受けたくはありませんよ。」 それからしばらくそこにいてから出て行き、夜森の中で祈りました。「神よ、どうかお慈悲を与えてください。わたしはもう帰ります。」 それで家に帰りました。それについては、良いとも悪いとも言えませんでした。
302
あるとき、グリーンミルに行き、(そこに古い洞窟があって、わたしのお気に入りの場所であることはご存知ですね)3、4日そこで断食して祈っていました。別のことで気にかかっていたものですから。洞窟の中がカビ臭くなったので、ある午後、外に出ました。日光に照らされて木の葉が輝いていました。古木が倒れて横たわっているところに座って、目をこすって(ずっと暗いところにいたので)、川の流れの方を見やっていました。こんな風に聖書を置いて、「さて、聖書のみことばを読もう」と思いました。古木の枝に寄りかかって体を休めながら、聖書を取りました。全身埃だらけでした。
303
すると、ヘブル書6章が開いたので読みました。
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力を味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福に預かります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」
そして思いました、「いったい何のことだ? 今祈っていることと脈絡がないじゃないか。」 わたしは別のことで祈るためにそこに来ていたのです。そこで聖書を置いて、「さあ、もう一度聖書を開いて、読んでみよう。」と思いました。すると風が吹いて、開いていた旧約聖書からページがパラパラまくれて、ヘブル書6章が開きました。目をやると同じ箇所です。それで、もう一度同じ箇所を読みました。そして思いました、「ビル、なんだか迷信的になった来たぞ」って。
304
「それなら読んで見よう」と思って読みましたが、没頭することができませんでした。そこで「それなら、手を上げて主を賛美しよう。うん、それがいい。」 聖書を置いて、賛美し始めました。手を上げたとき、「ヒュー」と風が吹き(編注:ブラナム兄弟が風の音を真似する)、見るとまた、ヘブル書6章が開いていました。もう一度読んで思いました、「いったいどういう意味だろう。理解できない。」ペンテコステ集会の出来事をすっかり忘れていたので、「どういう意味だろう?」と思ったのです。
305
座って、こう思いました、「主よ、この聖句から何を引き出せばいいのですか? 主の選びのことはわかっています。彼らは一度光を受けて聖霊にあずかる者となり、天からの賜物の味を知り•••」  わたしは言いました、「それは、境界線まで来て、それ以上進まないボーダーライン信者のことですね。彼らは、ヨシュアのときのように、真理を悟る寸前のところまで来ていながら、元に戻ってしまうのです。(ヨシュアとカレブは乗り越えましたが、他の者は境界線にとどまりました。神のよき業を見て来たのに、拒否したのです。)
人々は教会でいつも言います、「ブラナム兄弟、わたしはそれを信じます。」しかし、それに向かって行動しようとはしません。彼らは、境界を乗り越えることができないのです。集会にやって来た女性に、ショートヘアについて話します。すると翌年には、彼女らがショートヘアにしているのを見る羽目になります。男性も同じことです。そういうボーダーライン信者がいることはわかっています。」
306
「そういう信者がいることはわかっていますが、わからないのは、『いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。』というところです。なんのことを言っているのでしょう。わかりません。」
そう言ってからしばらくじっと座っていました。それから思いました、「神よ、もしこれが、わたしに何かをわからせようとしている大切なことなら、まぼろしを与えて教えてください。父よ。」それから木のうつろの向こう側を見上げ(わたしはチャールスタウンの上の方にいました)丘の向こうのニューマーケットの方を見やり、そして見ていると、虹のようなものが谷の上にかかっていました。その虹を通して、何かが現れるのが見えました。目を凝らしていると、それは世界でした。白い衣の人が見えました。
307
ここにいる多くの人は、若いから知らないと思いますが、種まきのときには、種の入った大きな袋を肩から下げて、手で撒いたものです。ウッド兄弟は覚えてますよね。こんなふうに、種を広く撒きましたよね。こんなふうに種を手にとって、撒いたものです。風に乗って地面に落ちるに任せてね。
わたしが見た白い衣の人は、そんなふうにして種を蒔いていました。大地の畝に沿って、ていねいに蒔いていました。わたしは、「これは何を意味しているのだろう。」と不思議に思いました。それから見ていると、その人が背中を向けた後に,いんちき師が、こんなふうにしてやってきました。ぱんぱんの袋を持って、彼の後から種を蒔いています。こそこそしながら地上に種を撒き散らして歩いていました。
308
それから作物が芽を出すのを見ました。麦と、毒麦やらいばらやらあざみやらです。みんな一緒に成長しました。それから干ばつがやってきました。小さな麦は頭を下げて「はっはっはっはっはっ」と、水を求めてあえいでいました。小さな毒麦も水を求めて「はっはっはっはっはっ」とあえいでいました。一斉に雨を求めて祈りました。すると、祈りに答えて大雨が大地を潤わせました。小麦は飛び上がって喜び、「神に栄光、栄光、栄光!」と叫びました。毒麦も飛び上がって喜び「神に栄光、栄光、栄光!」と、叫びました。
それで、思いました、「どういうことなんだろう。麦が喜んで叫ぶのはわかるが、毒麦の方はどういう意味があるんだろう。」すると、神が言われました、「ヘブル書6章を読みなさい。」
309
雨は、正しい者の上にも、不正な者の上にも降ります。それが問題なのです。いまだにキリストの花嫁の準備が整っていない理由は、わたしたちがみことばの種を蒔く代わりに、教団の種を蒔いたからです。それで、教団の数が増えただけで終わりました。しかし、麦の種も蒔かれました。そうです。
同じ霊によって、本物の信者が、異言の賜物を受けて、みことばの水やりを受けて、クリスチャンとなります。その同じ霊が、イヴの交配がもたらしたように、別の代物をももたらし、両者を喜ばせ叫ばせます。何が真理なのでしょう? 初めから種が違っていたということです。
310
だから、人がどう手を加えてみても無駄なのです。「たとえ、わたしが人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラやうるさいシンバルと同じです。また山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら何の値打ちもありません。またたとえわたしが持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えても、愛がなければ何の役にも立ちません。もし、人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラやうるさいシンバルと同じなのです。」 わかりますか? なんの値打ちもないのです。教会よ、聞きなさい。ペンテコステよ、なんの役にも立たないのです•••なぜなら、交雑種の種だからです。何をしても、みことばに成長することはできません。
311
さて、そこです。キリストの『体』を生れさせる体は、処女の胎でなければならないのです。そうです。聞いてください。44年に百万人増加(これはバプテストのスローガンです)が生まれたり、ペンテコステ教団がうまれたりするのは、そういうことです。ペンテコステからは、キリストの体が霊的に誕生するはずでした。教会が、後の雨だと思っていたのは、種まきの雨にすぎませんでした。教会は教団に属する教会を生み、宣教団体を立ち上げ、コラの道に入ってしまいました。教団の教えの方に行ってしまったのです。
312
さて、原型を調べるために旧約聖書に戻りましょう。ここで、あることをお話ししてから、みなさんを解散させます。これらのことを証明するために、旧約聖書から原型をたどりましょう。このことをお話しするためにもう、5、6時間も使ってしまいました。さて、これから話題を変更します。だけど、まあまあ、急がなくてはなりません。もうあまり時間が残っていないので急いで読みます。みなさん、疲れましたか? (編注:会衆が「いいえ』と答える)おやまあ、では、疲れているのはわたしだけですね。それでは先に進みます。
313
今まで話してきたことが、すべて聖書と合致していなかったら、ガッチリとかみ合っていなかったら、わたしが話してきたことは間違いだと断定できます。もう時間がありませんから、説明を入れずに急いでお話ししていきます。できるだけ早く済ませるとみなさんにお約束します。
わたしには霊の内にとどまる場所があります。何が起こっているのか、聖書に照らし合わせながら教会に知らせるなければならないのですが、ふと迷いました、「主よ、人々をここにずっと立たせています。そこにも立たせることになるでしょう。何を話せばいいのでしょう。わたしには未来を予測できません。何をどうしろとか指図できません。わたしは何をしたらいいのでしょう。彼らを困難な立場に立たせてしまうでしょう。」それから手を上げて言いました、「神よ、わたしがしていることは、あなたの御意思です。今までこんなことをしたことはありません。」なぜなら、種が蒔かれていなかったからです。「でも今が、それを話すべき時だと信じます。でも、どのように話せばいいのでしょう。」
314
すると自分の話し声と同じくらいはっきりと声がしました、「ペンを持ちなさい。」 それをこれから読みます。書いているときは何を書いているのかわからなかったのですが、書き終えてペンを置いたとき、まさにこれこそ答えであるとわかりました。それを見てこう思いました、「おお神よ、お慈悲を。これです。これこそわたしが探し求めていた答えです。」 さて、いくつかのことは飛ばして、主が望まれるならそのことをお話しします。
315
旧約聖書に書かれていることは原型であって、キリストと教会に当てはまります。アダムとイヴが、キリストと教会に当てはまることを信じますか? イェホヴァと妻が、キリストと教会に当てはまるのを信じますか? もし原型と対型があるなら、対型は原型から取ってくるので、原型に似ているはずです。キリストは頭、神の真理の石、真理のことばです。それを信じますか? そして花嫁は体です。
これに関する聖句が必要なら、後で調べることができます。本来なら読むべきですが、時間がないので、箇所だけお伝えします。1ペトロ2:1-6 エフェソ5:23です。後でその箇所を読んで確かめてください。
316
旧約聖書とキリスト、例えばこれを見てください。(妻はわたしのポケットから1ドルを抜き取っていないでしょうね。ああ、ありました。ちょっと前にサンドイッチを買ったものですから。みなさん、失礼、こんなこと言ったりして。でも彼女はいい妻です。)さて、1ドル札の裏側に•••(彼女のおかげです。神の恵みと彼女の助けによって、ここに1ドル札があるんだと思います。)さて、裏側の左にアメリカ合衆国の印章(グレートシール)が印刷されています。そうですね? でも、なぜピラミッドがグレートシールと呼ばれているのでしょう。あなたの紙幣もそれを証明しています。郵便を送るたびに、あなたは主の年、1962年を証言しているのです。すべてのことがキリストを証ししています。
317
国の印章が、ピラミッドだということに気づいていましたか? ピラミッドには、頭石が載せられたことがないと知っていましたか? そうなのです。わたしはエジプトのカイロに行って、この目で見てきました。一度も頭石が載ったことがないのです。なぜでしょう? それは、隅の親石が捨てらたからです。この建物の隅の親石は礎石のことです。礎石とは何か、ご存知ですか? アーチを造るとき、両側を支えるのが礎石です。隅の親石は建物を支えるものです。そしてピラミッドにとっての隅の親石は頭石で、それがすべての部分を結合させるのです。さて、この頭石は捨てられました。ピラミッドの上に浮かんでいるものに気づきましたか? エノクがピラミッドを建てたとき、それは何を表現していたのでしょう?
318
それは、つまりこうです:福音の教会が到来するという意味です。ピラミッドの下の広い部分は初期の改革を表しています。その時代には、キリスト信者がカトリック教会を否定すると、死を宣告されました。そこから上にいって、信仰に加えて清めの必要が宣べ伝えられました。ジョン・ウェスレーによって、清めの必要が教えられると、教会はもっと小規模になっていきました。
319
ジョンウェスレーの時代の後、ペンテコステ教会が生まれました。そして神はその中から、みことばを受け入れた残りの者を受け取られました。ペンテコステの時代には、霊の賜物が回復して、頂点に近づいた状態になってきました。ピラミッドの下の方は頂点から遠く、真ん中は少し近づいて、上の方はもっと近づいていますが、残りの部分と完全に適合しなければならないので、砥石で研ぐ必要があります。ピラミッドは、石と石の間にカミソリの刃を入れることができないほど接合しています。ソロモンの神殿も、そのようだったそうです。
320
神は、交雑種となったペンテコステ教会の中から、選ばれた者を取り出し、みことばの最後の仕上げをされます。このことばは、みことばご自身に近いものとなっていき、しまいに両者は混じり合います。そして頭石の到来です。「恵みの上に恵み、驚くばかりの恵み。」頭石がこのように、(編注:ブラナム兄弟が絵で説明する)そこに落ち着きます。わかりますか。下部はこんなに広いが、上に行くにつれて狭くなって、狭くなって、狭くなって(ミニストリーの規模が)しまいには•••。まずルターが信仰による義を説き、ウェスレーが集団を清め、ペンテコステで霊の賜物の回復がありました。
神はそこから群れを取り出して、みことばと適合するまで砥石で磨き、みことばと同じ働きをさせようとされています。それが花嫁です。
321
さて、キリストは、サタンの働きを滅ぼすために現れました。信じますか? キリストは神のことばです。ことばによって、サタンの作り出した混雑種の働きを滅ぼすのです。そうですね? キリストは、サタンの働きを滅ぼすために生まれました。
さて、キリストの体も同じ働きをします。頭と体は一体だからです。そうですね? もしキリストが頭なら、頭はみことばです。キリストの体も同じですから、みことばの教会です。キリストの体は、処女のみことばから生まれた教会です。教団に属する教会ではありません。
322
体が動くのは、頭からの指令が届くからです。そうですね? 頭から動けという指令がでるまでは、体は動きません。もし頭が肉で、体がコンクリートでできていたらどうでしょう。いくら頭が動け動け動けと言っても、指令が伝わりません。では、もし頭がキリストで、体が教団教派だったらどうでしょう。純潔なものと不貞なものが一緒に働けるでしょうか?
ああ、兄弟の皆さん、これについてしばらくお話ししたいくらいです。体が動くのは、頭から指令が送られるからです。
そして頭はみことばです。頭はみことばです。
323
現代の教会と比較してみましょう。なぜ、教会で奇跡が起こらないのです? なぜ、教会にみことばがないのです? みことばは教会に入れないのです。教団に阻止されています。
神の人がやってきて、妥協することなく神のことばを聖書に忠実に説きますと、教団の人がやって来て、「えへん、駄目です。追い出しなさい。」となります。これでは体は動けません。
324
体は、頭が指令したとおりに動きます。それでは、頭がいつ、「組織化せよ。」と言いましたか? いつ頭は、「女性が髪を短くするのは構わない。」と言いましたか? どこにそんなことが書いてありますか? 聖書にはありません。どこに「わたしがする業を、あなたたちはすることができない。」と書いてありますか? しかし聖書は(ヨハネ14:12)、「わたしがする業を、あなたがたもするのである。」と言っています。あなたがたとは、体のことです。わかりますか?
なぜわたしが熱心にこのような種を、キリストの体のために蒔いているかわかりましたか?本当の雨が、まもなく降ります。雨の前に、その種が蒔かれていなければならないのです。生きているうちに、そのことが起こることを望みます。その種は初めのときのように、神の仰せのことば、生きたことばになって、神の力を持つのです。なぜなら、それはキリストの内に、キリストの体の内にあって、キリストの働きをするものだからです。神が、この体に与えられた約束に目をとめましょう。
325
さて、話がやっと、クライマックスのシオンの山にたどり着こうとしています。神がこの体に、つまり純潔な生まれの体に、(編注:ブラナム兄弟が叩く)なんと言われたか、みていきましょう。わたしたちは、粉飾された体ならいつも見ていますが、本物の体に目を向けてみましょう。神はなんと言っておられるか、どのような約束がされているか、調べていきましょう。
ヨハネ3:16は正しいと信じますか? 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 このことばを信じる人は、アーメンといってください。(編注:会衆がアーメンと答える。)わたしは体について話しています。
326
今度はヨハネ20章です。ヨハネ20章の19節から読みます。みなさんが、このことばを信じるよう挑戦します。ああ、なんだかワクワクして来ました。聖霊がここに集って、こう言うのがわかればいいのですが、「それはわたしのことです。」ってね。さあ、聞いてください。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、•••戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。(さて、皆さん、心の準備はいいですか?)父がわたしを遣わしたように(イエスはみことばです。神の種です。みことばの種です)、わたしもあなたがたを遣わします。(このことばを信じますか? さらにすごいことばが続きます)』
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』
327
これは真実ですか? 誰に向けられて語られたことばですか? 神の種にです。つまりみことばです。神の種は、みことばからしか生じないからです。マタイ16:19を読みましょう。
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。なんでもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
このことばを信じるよう提唱します。もしこれがみことばでないなら、ヨハネ3:16も、みことばではないことになります。ある聖句は信じて、別の聖句は無視するなんてことが可能でしょうか。神のことばは全て正しい。しかし、それは、他ならぬ神の種が植えられた処女の胎に入らなければなりません。信じますか?
328
不貞をはたらく女たちもそれを主張して、教団の力により罪を赦しています。でも彼らの子どもたちを見てみなさい。ダンスホールに通い、髪を切り、ピエロのように化粧しています。男性は他人の妻と暮らし、町でふざけ、男女一緒に水浴びをしています。確かに教団独自の方法で罪を赦しているのでしょう。でもその正体は実によって判別できます。彼らは正しくありません。なぜなら、ショートパンツをはき、髪を短くし、化粧をしているからです。イエスは、「彼らは実によってわかる。」と言われました。どんな種類の種が植えられたのか、実によってわかるのです。
教団の種は、教団の赦しを与えます。神は、「みことばは、みことばのとおりになるように。」と言われました。だからそのとおりになっているのです。兄弟よ、聖書は正しい。信じますか?
329
教会は霊の賜物を受けていると主張しますが、聖霊がそれを証明します。どのようにして? みことばが語られて、「そのとおり、アーメン。」という答えが返ってきたら本物です。
「悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。」「はい、そのとおりにします。アーメン。」 あらゆるみことばに対して、「アーメン。」 それです。みことばのとおりにすることです。神が、罪を赦す権限を与えると言われたのは、聖霊に満たされた、みことばの体に対してです。みことばは神です。ですからみことばだけが、罪を赦すことができるのです。
330
午前中にちょっと触れましたが、ファリサイ人は、「この男は罪を赦しているが、それは冒涜である。神おひとりにしか罪を赦すことができないのだ。それなのにこの男は罪を赦している。」と言いました。この言い分は正しくもありました!しかし、彼らにはその男がみことばであると悟ることができませんでした。みことばは罪を赦します。みことばが神だからです。あなたが自分でなくなるとき、•••。神は、誰がこの賜物を受け、正しく使うか、前もって知っておられます。この賜物を受ける者を、神はみことばと霊によって証明されます。わかりますか? 学校に行ったり、学位を取ったりして信じるようになる人もいます。でももし、長く学校で学びすぎたり、司教になったり、教皇か枢機卿か何かになる勉強をしたりしたら、あるいは、誰かが手を置くことにより、誰かを何者かにすることができるなどと信じたら、それはみことばから外れています。
331
ローマ11:29で、「神の賜物と招きとは取り消されないものです。」と言っています。神からの贈りものです。また、ヨハネ15:16で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものはなんでも与えられるようにと、わたしがあなたを任命したのである。」とあります。注意して聞いてください。地上におられたときのイエスと、対立していたその頃の教団の考えが、どんなに違っていたことでしょう。彼らは肩越しにイエスにうしろ指をさし、言いました、「我々はモーゼの弟子である。神が燃える柴をとおして、モーゼに現れたことを知っている。」 彼らは、モーセの話を知っていましたが、モーゼの神を知りませんでした。というのは、ヨハネ6章で、イエスが、「モーゼやアブラハムが生まれる前からわたしは存在している。」と、彼らに言ったからです。彼らは燃える柴の話もモーゼの歴史も知っていました。
今の時代も同じです。キリストのことばを知っていると主張していますが、神がキリストのうちにおられたことを知らない人たちがいます。絵に描いた火で、誰が暖まれるでしょう。神学校での学びとはなんのことですか? 彼らはモーゼのことは勉強しましたが、モーゼの神を知りません。
332
イエスにはこう言うことができたはずです。(アーメン。なんだかダビデが投石ひもを回し始めたときのような感じになってきました。どうか冒涜的だと思わないでください。わたしは大丈夫です。ちょっと気持ちが高揚していますが、大丈夫です。)
イエスには弟子たちに、こう言われたはずです、「わたしをお遣わしになった父はわたしの内におられる。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたたちを遣わす。」「わたしをお遣わしになった父はわたしの内におられる。もし、父が約束されたみことばの業をわたしがしなかったら、わたしを信じなくてもよい。聖書はわたしについて証しするものだからである。」 ハレルヤ。教会よ、あなたはどの立場に立っているのですか? 教会は言います、「神がこれこれのことをされたことは知っています。でも、今ではそんなことは起こりません。」『神がモーゼとともにおられたことは知っています。」
イエスは言われます、「しかしわたしをお遣わしになった神はわたしの内におられる。もしそれが信じられないのなら、わたしについて聖書になんと書いてあるか調べなさい。わたしが何をするか聖書に書いてある。もしわたしがそれをしなかったら、わたしを信じなくてもよい。」
333
どうか、これを冒涜と感じずに、わたしが説いているメッセージについて言わせてください。もし神がこのメッセージを真実と証明してくださらないなら、これは真実ではありません。しかしみことばが、わたしが言っていることを真実と証明するなら、みことばを信じてください。みことばは、わたしが真実を言っているかどうか証しするものです。みことばは証言です。みことばは、わたしに与えられたミニストリーを裏付けてくれます。終わりのときに神はこれを約束されました。そして今が、終わりのときです。神が約束されたことが今起こっています。それが本当かどうかわかるでしょう。
神に証明していただきましょう。もしわたしが説いていることが、神から真実と証明されなかったら、それは真実ではありません。でも、みことばがこれを語り、それが実際に行われているのなら、あなたはどうしますか?
334
イエスは言われました、「あなたたちがモーゼを知っていると思っていることは知っている。あなたたちが知っているのはモーゼの話である。しかしあなたたちはモーゼの神を知らない。わたしはモーゼが生まれる前から存在しており、モーゼに話しかけたのはわたしなのだ。わたしは『わたしはある』だからである。わたしはみことばである。』しかし彼らには悟ることができませんでした。彼らは悪魔から出たものだったからです。教団の教えは、真理を悟ることを阻みます。しかし、みことばを阻止することはできません。みことばは誰かのところに降り、そこからこの時代の花嫁が生まれます。
335
絵に描いた火とは、なんと異なっていることでしょう。イエスは、こう言うことができたはずです、「わたしをお遣わしになった父はわたしの内におられる。わたしがする業がそれを証明している。なぜならわたしは、わたしが行うと聖書に書いてあるとおりのことをしているからである。」 ユダヤ人は歴史から神を知っていました。今も同じです。なぜ彼らが、神を歴史的に知っていたのでしょうか? それは彼らのうちに歴史の種が蒔かれているからです。なぜ彼らには神を悟ることができないのでしょうか? それは彼らが教団の教えによってできた雑種だからです。イエスはご自分をお遣わしになった方を知っていました。その方がイエスの内におられたからです。それでイエスは、教団となんの関係もない立場にいました。アーメン。「あなたはどこの学校を卒業したのですか?」「どこからその知恵が出てくるのです?」「どこで学んだのですか?」 彼らはイエスが通った学校を見つけ出すことができませんでした。それなのに12歳のとき彼は、教師やファリサイ派の人たちを困惑させました。学歴ではなく、おこなう業が、ものをいうのです。
336
教師やファリサイ派が、なぜ子どものイエスに物言うことができなかったのでしょう。彼が語ったことが、神のことばだったからです。彼らはそれに太刀打ちできませんでした。人々がイエスの教えに驚いたわけです。マルコ1:22に書いてあります。人々は彼の教えに驚きました。なぜなら彼が権威ある者のように語ったからです。イエスには、自分が語っていることの意味が、はっきりわかっていました。教会は今、2倍の霊のはたらきをしているはずです。エリヤの外套がエリシャの上に落ちたのと同じく、イエス・キリストの霊が教会に注がれたからです。
「ブラナム兄弟、あなたが言っているのは、キリストの教会のことですね?」 そうです。それがキリストの体です。わたしの妻はわたしの体の一部ではないですか? あなたの妻はあなたの体の一部ではないですか? 聖なる結びつきにより、肉の肉、骨の骨になったのではありませんか? だからクリスチャンは娼婦と結婚してはいけないのです。それは正しいことではありません。神のことを台無しにするからです。
337
「ブラナム兄弟、ちょっと待ってください。あなたが話しているのは、キリストの霊が注がれて•••」 イザヤ9:6に、そう書いてあります、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
主権はどこに?(編注:会衆が「肩」と答える。)肩はキリストの体の一部ですね? 彼の肩は彼の体の一部です。地上での主権はどこにありますか? キリストの体にあります。聖徒が地を裁くのです。そうですね?
パウロは言いました、「あなたがたの間で、仲間の争いが起きた時、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。」 そうです。聖なる者たちが世を裁くのです。主権はどこに置かれるのですか? キリストの肩です。主権はキリストの肩に置かれます。
それは体の一部で、キリストの地上での力です。神の地上での力は、神のことばに委ねた人からなるキリストの体です。
338
聞いてください。神の使者はいつでも拒絶されます。モーゼも、イエスも拒絶されました。ルカ10:16もそう言っています。「あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」
1サムエル8:7では、神のメッセージが拒絶されました。神には、サムエルという預言者がいましたが、人々は彼とメッセージを捨て、この世を選びました。言っていいのか悪いのかわかりませんが、これは神の掟です。神の掟とは、神の証明を受けた使者を受け入れることです。聖書で確かめてみましょう。ヨハネ13:20を読みます。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
神に認証された使者を受け入れることです。兄弟よ、これを素材に何千もの説話ができるでしょう。これは神の掟です。受け入れなさい。
339
サムエルは会衆に聞きました、「あなたがたに聞きたいことがある。わたしが主の名によって語ったことで、一つでも実現しなかったことがあるか?」
「いいえ。」
「大きな建物を建てるために献金を募ったり、自分の名誉のために大規模なことをしたことがあるか?」
「いいえ。」
「わたしが語ったことばに、神は答えてくださったか?」
「そうです。」
「それなら、なぜわたしの言うことを聞かないのか?」
340
「あなたが不貞によって生まれたことを知っている。」と言ったファリサイ派に対して、イエスは言われました、
「誰がわたしに罪があると非難できるのか。あなたたちに神のことばを明らかにして、あなたたちが信じるか確かめてみよう。神が、あなたたちのうちにある神のことばを証明されるか確かめてみよう。もしわたしが、自分について語るなら、わたしは嘘つきである。しかし、もしわたしが神のことばを語るなら、神がわたしをとおして神のことばを語られるなら、わたしの語ることは正しい。すると誰が神のことばを信じていることになるか、わたしか、あなたたちか?」
イエスは、「わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。」と言われ、イエスを受け入れた者に対しては、「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた神を受け入れるのだ。」と言われました。これについて話す時間がもっとあればいいのですが。
341
神からのインスピレーションを受けて遣わされた神の僕が、神のことばを解釈して伝え、それをあなたが理解すると、あなたは地上で神に仕えることがでるようになります。
それを信じますか? 聖句を読んでみましょう。1コリント11:1で、パウロは、「わたしがキリストを見ならっているように、あなたがたもわたしを見倣ってください。」と言い、ルカ10:16で、イエスは、
「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」と言われました。
これで、神が使者を遣わして、メッセージを伝えさせられることが確かめられました。神は常にそのようにされます。
342
さて、信仰のある教会が有する力についてです。キリストは天と地において、すべての権力を持っておられます。信じますか? それなら、キリストがあなたの内におられるなら? キリストはすべての権威を持っておられますか? マタイ28:18に書いてあります。そうです。
キリストは体にみことばの種を植えられました。そのキリストはわたしたちの内におられてみことばの種となられたのです。神は余すところなく全てをキリストに注がれ、キリストは余すところなく全てを教会に注がれました。だから、教会にはその権力があるのです。
343
さて、神の再生の法則は、種はそれぞれの種類にしたがって芽を出すのでしたね。みことばであるキリストの種は、体から生まれるのです。(皆さん、疲れてきましたか?もうちょっと我慢してくれたら、祈ります。)このことをしっかり咀嚼してもらいたいのですが、キリストの種は、キリストの体から生まれなければなりません。生まれな・け・れ・ば・ならないのです。教団からは生まれません。それは、生まれ変わって神の種となった者から生じるのです。
さて、わたしの種はどこからできますか? わたしの体からです。りんごの種は? 母体の木からです。種は体から生じます。そして聖書の教会はキリストの体です。新生はキリストご自身を体に宿らせることです。キリストの教会はキリストのことばです。だからヘブル13:8の、「イエス・キリストは過去も現在も未来も変わらないお方です。」ということばを実感できます。信じますか? これは教団の交配種に当てはまることばではなく、軌道に乗るためにロケットの中でカウントダウンを待っている人々のためのことばです。神に栄光!教団の交配種のためのことばでは決してありません。それは種に与えられているのです。
344
パウロは、人々から何か偉そうな話を期待されるのを恐れていました。(彼には高い教育がありましたから。)1コリント2:1-8で、パウロは言いました、「わたしがあなたがたのところに行ったとき、知的なことばは用いませんでした。あなたがたの信仰は神学の教えによって培われるわけではないからです。そうではなく、わたしは単純に、神の力と聖霊の現れによって宣教しました。それはあなたがたの信仰が、神のことばに培われるためです。」そうです!
345
教団に属する教会は、数で花嫁を圧倒します。1000対1の割合です。聖書がそう言っているのを信じますか? イザヤ54:1に書いてあります。読んでほしいですか? いいですよ。
「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて喜べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。と主は仰せられる。」
結婚した妻の子より妾の子の方が、何倍も多いのです。でもどれだけ多くの数がいようと、彼らには本当の父がいないのです。
教団の庶子たちはユダ8-13に書かれている世俗教会のことです。「水のない雲、自分の恥のあわを湧き立たせる海の荒波。」 教団に属するペンテコステ教会のことは2テモテ3:1-8に書いてあります。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者。」彼らから生じる実が、彼らの正体です。
346
さて、話の奥深いところに入っていきますよ。この種を育む本物の教会、この正真正銘の種を宿す教会。さて、かの宦官はあらゆる神学博士から学んできました。神は福音伝道をするように天使に任命されたことはありません。そのことを知っていましたか? ガラテア1:8に書いてあります。もし天使が天から降ってきて福音を宣べ伝えても、それが使徒たちが伝えたのと異なった内容なら、天使は呪われるべきとあります。ですから、もしみことばと違うことを伝えるなら、天使が間違っているのです。神は天使よりも低く降りて来られ、子たちに福音伝道をまかされました。それを信じますか? 神はそれを天使には任命されませんでした。
347
さて、ピリポは、聖霊を受けてエルサレムで礼拝していました。アーメンと言えますか? かの宦官はあらゆる神学博士らから学びましたが、どうして何かを得ることができなかったのでしょう? 彼はエルサレムから帰る途中でイザヤの預言書を勉強していました。
天使はピリポに指示を与えましたが、実際にいのちの胚芽を宿しているのは体であり、それはピリポでした。さて、兄弟よ、ここからが大切です。いのちの胚芽はどこからきますか? 天使からではありません。天使はただ彼に道を示したのです。天使はメッセンジャーで、ピリポは子です。ピリポが胚芽、メッセージ、みことばを宿していたのです。こうして子が生まれます。ピリポが宦官の上に手を置き、ピリポがイエス・キリストの名によって洗礼を授け、それから確かに神の霊が降ったのでした。
さて、胚芽は体から芽を出します。なんの体ですか? キリストの体です。そしてピリポはキリストの体の一部でした。
348
使徒10:48でも、同じようなことがおきました。ペトロが屋上にいると、天使が彼に、コルネリウスの家に行くように指示しました。みことばはどこから来ましたか?体からです。おお、そうなのです。天使が来て、「心配しなくてもよい、これらのものを清くないと言うな。何も考えないで行きなさい。」と言い、そしてペトロが、ことばを語ったのです。天使でも枢機卿でもありません。ペトロがことばを語ったのです。それはペトロが体の一部で、みことばを宿していたからです。兄弟の皆さん、天使は何をするか指示を与えますが、いのちはキリストの体から出てくるのです。
349
ダマスカスに向かう途中のパウロには、幻によって指示が与えられましたが、みことばである胚芽を宿していたのはアナニアでした。アーメン。預言者であるアナニアが幻で、「上って行って彼の上に手を置きなさい。」と言う指示を受けたので、こう言いました、
「サウル兄弟、あなたが道の途中で出会ったのは主です。」 どうしてわかったのでしょう? アナニアにはみことばが宿っていたからです。主のことばは、預言者のところに来ます。だから預言して言いました、「主が、わたしをここに遣わされました。わたしが手を置くと、あなたは癒されて、聖霊を受けるでしょう。そして視力が回復します。」 すると、パウロの目から鱗のようなものが落ち、彼は立ち上がってイエス・キリストの名によって洗礼を受け、もっと深くキリストを知るために出て行きました。天使が指示を与えました。そうです。パウロにも種の胚芽が宿っていました。
その種に永遠のいのちを与えるのは神の霊です。ひゅう。
350
あれ、もう2時ですか? わかっています。これから10分ほど、読んでもいいですか? 了解をもらえたようですね。ずっとここにいてもいいのですが、とどまっているわけにもいきません。今は5時25分前ですね。何時にジョージアに着けるかわかりません。この所で止まって、見解も述べることができればいいのですが、とにかくゆっくり読みます。
351
さて、よく聞いてください。これが、わたしがペンをとって書いたことです。友の皆さん、ずっとわたしが貫いてきた信念をわかっていただけますか? 教団から抜け出して、神の本当の教会を立てるために戦っている理由がわかりますか? なぜ本当の教会はみことばから生まれなければならないと主張しているのかわかりますか? 真の教会は人の知恵からは生まれません。それは神のことばによらなければならないのです。だから、わたしは書いてあるとおりにみことばを信じるのです。みことばに何も付け足したり、削ったりしません。書いてあるとおりに教え、これからもその姿勢を続けていきます。
さて、兄弟の皆さん、(テープを聞く皆さん)、もし、わたしの意見に異を唱えるなら、わたしはあなたのために祈ります。もしわたしが間違っていたら、あなたはわたしのために祈ってください。今から読みますので、どうぞしっかり聞いてください。聖霊が「ペンを取りなさい」と言って、話してくれたことです。いくつかの部分は読まずにとどめておきますが、それ以外は皆さんに、明らかにします。
352
これがみなさんにお伝えすることです。創世記1:11にあるように、神の再生の法則は、種はその種類にしたがって芽を出し実を結ぶということです。終わりのときに、花嫁なる真の教会は頭石に達します。すると教会は超教会となり、その教会の人々は超人類となります。偉大なる頭石に接近するにつれ、彼らはキリストに非常に似たものとなっていき、キリストの姿そのものとなり、キリストと結合できるまでになります。そして彼らはキリストとひとつになります。彼らは、生きておられる神のことばそのものを現すようになります。教団の教会は絶対にそうなりません。彼らが生み出すのは、みことばに教義や信条を混ぜ込んだ混合製品です。
353
初めの子は、神が仰せになったことばの種でした。彼には花嫁が与えられました(すでにお話ししたことを繰り返しています。)花嫁は同じ子を生むはずでしたが、間違いを犯しました。(花嫁が与えられたのは、初めの子と同じ神の子を生むためでしたが、彼女は別の種と交配してしまいました。)それで人は死ぬ運命に陥ったのです。
第二の子は神が仰せになったことばの種でした。アダムのように花嫁が与えられましたが、婚姻の前に彼女も間違いを犯しました。アダムの妻と同様、彼女にも自由意志が与えられており、神のことばを信じていのちを得るか、疑って死を招くか選択する自由がありましたが、後者を選んでしまいました。
354
それから、みことばの種を持つ小さな群れが現れます。神は彼らをキリストの最愛の花嫁にされます。この純潔で神のことばしか知らないおとめによって、約束されていたことは成就します。人によって作られた信条や教義に汚されていないこのおとめのうちには、神のことばが宿っているからです。神の約束のことばが、マリアのうちに宿ったように、神ご自身のうちにあった約束のことばは、現れたのです。聖書に記されたすべてのことは、神ご自身によって成就されます。キリストが処女の胎から生まれたように、(今度は霊的な胎から)このおとめも神のことばを受け入れて、「あなたが仰せになったとおりのことが、わたしに起こりますように。」となります。天使によって語られたのですが、それはイザヤ9:6にすでに記されていた神のことばでした。この小さな群れはキリストを愛し、キリストが持っておられる能力を備えます。キリストが彼らの頭であり、彼らが頭に従うからです。最高首脳であるキリストは、神です。
355
なんという調和でしょう。イエスはまず父から示されなければ、何もなさいませんでした。(神とキリストとの調和です。ヨハネ5:19に書いてあります。)花嫁も同様です。キリストが、いのちのことばを花嫁に見せると、彼女はそれを受け止めます。決して疑いません。
何も、死でさえも、彼女を害することができません。なぜなら、この種は蒔かれると、水を吸収して必ず再生するからです。アーメン。(とんでもなく大きく『ハレルヤ』と叫びたくなりました。)これが秘訣です。みことばが花嫁に宿ります。キリストがなさろうとしている思いを、花嫁はみことばによって知ります。それからイエス・キリストの名によって、彼女はキリストの思いを実行します。花嫁には権威のことば、「主はこう言われる」が与えられます。
それからそれが発芽し、聖霊による水やりがなされて、成長し、目的を果たします。花嫁はキリストの思いだけを行います(アーメン。そう信じます。)誰も別の考えを押しつけることはできません。花嫁は「主はこう言われる」を行い、キリストから示されなければ黙っています。このようにして、神の働きが行われるのです。花嫁の内におられるキリストご自身が、神のことばを、引き続き成就されるのです。キリストは地上におられたとき、すべてのことばを成就されたわけではありません。まだ時が満ちていなくて残されていたことがありました。それを花嫁を介して成就されます。
356
さて、ヨシュアとカレブのように、わたしたちも立ち上がろうではありませんか。(注意して聞いてください。歴的背景について話します。)ヨシュアとカレブのように立ち上がろうではありませんか。約束の土地が目前に迫っているからです。約束のものが与えられるときは近づいています。ヨシュアはヘブライ語で、救い主を意味し、教会を約束の地に引き連れて行く、終わりのときの指導者を表します。カレブはヨシュアを支持する本物の信者を表します。神はイスラエルを、みことばに対して汚れなきおとめとされましたが、途中から彼らは別のものを欲しがるようになりました。終わりのときの教会も同じです。
357
神は、定められたときが来るまで、イスラエルを動かさなかったことに留意してください。(さて、ここです。ある意味がこめられています。)ヨシュアは、その時が来るまで待ちました。多くの人が彼のところにやってきて、こう言ったことでしょう、「ヨシュアよ、あなたは任務を忘れたのか? 活気がないじゃないか。なぜ何か行動を起こさないのか。昔はすぐに『主がこう言われる』と行動を起こして、神の働きをしていたではないか。」 しかし神に遣わされたこの賢い預言者は、神の約束を知っていると同時に、約束の時を待つことも知っていました。だから、神から明解な指示を受けるまでは、決断のときではなかったのです。
(このたとえの意味がわかりますか? さて、聞いてください)そして定められたときが来ると、神は、みことばを守って神に付き従ったヨシュアに、約束の土地を与えられました。神は彼を信頼し、彼以外は信頼しませんでした。同じことが繰り返されます。
358
大いに油注ぎを受けた預言者であるモーゼは、神から使命が与えられていることを知っていました。誕生時の特異な状況からして、彼が神の僕として生まれたことは明白でした。時が訪れたらアブラハムの子孫を解放するという使命を。モーゼはエジプトにとどまって聖書解釈について議論したことはありませんし、祭司と口論したこともありません。人々がモーゼを受け入れるようになるまで、彼は荒野で神に仕えていました。彼は民のところに行き、証しをしたことがありましたが、理解されませんでした。それで神はこの預言者を荒野に呼び寄せたのです。神はご自身が彼を選ばれたということを証しされました。モーゼが荒野に退いて、時が来るまで待たなければならなかったのは、モーゼのせいではなく、人々にモーゼを受け入れる準備ができていなかったからでした。モーゼは、自分が神から遣わされたことを、民が理解すると思っていたのです。(これはわたしが書いたのではありません。神が書かれたのです。)今も同じです。
359
神のことばが及んで力強い働きをした預言者エリヤは、大統領夫人率いる現代的ショートカット集団と、イザベルのメイクアップ集団に、神のことばを説き終わったところでした。エリヤの預言がことごとく真理であることを、神は証明されましたが•••。疫病を送って、神の預言者とそのメッセージを拒否した時代を滅ぼすまでは、神はエリヤを荒野に退かせなければなりませんでした。
神はエリヤを荒野に潜伏させました。王でさえ、彼を呼び出すことはできませんでした。神のご意思に逆らって彼を連れ出そうと説得に来た者たちは、殺されました。(ああ、神よ)しかし、神が忠実な預言者にまぼろしで語られると、彼は荒野から出て行き、「主がこう言われる。」を実行しました。彼が何をしたかというと、まっすぐみことばに戻ったのです。12個の石をぐるっと巻きました。
360
洗礼者ヨハネは、キリストの忠実な先駆者であり、油注がれた預言者でした。彼の父親の学校も、ファリサイ派の学校も、どこの教派も、彼を荒野から連れ出すことはできませんでした。それは、彼が神の声を聞いていたからです。子羊なる油注がれたものの到来を知るまで、神は彼を荒野にとどめておられました。
皆さん、霊の心で聞いていますか? これ以上どんな例を挙げることができるでしょう。少し飛ばします。
361
現在はなんと異なっていることでしょう。多くの自称宣教師が、人々のために神からの答えを受けていると主張していますが、それは、油注がれた預言者モーゼの権威を否定して議論をふっかけたコラと同じ過ちです。お金を儲けるためのたくらみでもあります。金の子牛政策とでも言いましょうか。大きな建築物や学校、それらを利用して、多くの者が同じ種類の種を培養しています。モーゼの時も現在も同様、人々は本物の神のことばを聞いたにもかかわらず、そちらの方に惹かれていくのです。神から認証され、油注がれた預言者から神のことばを聞いたにもかかわらずです。
人々はコラの偽りに惹かれました。神はイスラエルに、神のことばを語る者が神に認証された預言者であると、はっきり語られました。コラは聖書的預言者ではありませんでしたが、人々に人気がありました。現在もコラと同じです。手に血をつけ、演台で火の玉を出し、指に油を浸し、そして女性説教師も同様、ショートヘア、ボブヘア、化粧・・あなたはそんなことに関心を寄せないと思っているでしょうが、イスラエルがコラに関心を寄せたように、今の時代も、人々はそちらに引き寄せられるのです。真理のみことばから逸れて、教団の教えに入っていくのです。それらの人たちに何の種類の種が蒔かれているか、はっきりわかります。
362
しかし、神に感謝します。すべてのイスラエルがコラの側に立ったわけではありませんでした。神のことばを語る油注がれた預言者モーゼのもとにとどまった者もいたのです。こんにちも同様、神に選ばれた者は、神のことばと霊のうちにとどまります。
363
毒麦は集められて束ねられます。そうですね? このことはすでに実現しました。みことばを捨てた組織的教会は、かつてないほど結束を強めています。教会連盟を創り、神の裁きの火が下る準備をしています。(これはわたしが書いたのではなく、神が書かれるのをお任せしたのです。)ペンテコステ教会は、いわゆる•••。そしていつの日か、みことばの麦は集められてご主人のもとに挙げられ•••。
364
注意して聞いてください。神は、終わりのときにマラキ4章を約束されました。マラキ4章はまだ成就していません。しかし、イエスが引用されるほど、信頼の高い預言者マラキをとおして語られた神のことばなので、必ず成就します。それはキリストが2度目に来られる直前に起こります。
(しっかり聞いてください。)その時までに、すべて聖書に書いてあることは成就しなければなりません。聖書は終了します。この油注がれた使者が到来すると、教会時代は終わり、同時に異邦人の時代も終了します。この使者は、蛇のことから、初めの雨の使者のことまで、聖書全体に書かれている神のことばの種を蒔きます。それからこの使者は教団の人々から排斥されますが、先人ヨハネやエリヤも同じことをされました。エリアがアハブ時代に排斥され多様に、アメリカで同じことが起きるでしょう。この国の原型はイスラエルです。
365
「イザベル宗教」というのがあります。アメリカについていうなら、先祖たちが自分たちの信仰を守るためにここにやってきて原住民のインディアンを追い出しました。イスラエルもエジプトを脱出した後、土地を占領しました。この国にはワシントンやリンカーンなど、神を畏れる指導者がいました。イスラエルにも、ダビデなど神を畏れる偉大な指導者がいましたが、やがてアハブが王座に就き、背後でイザベルが政権を握りました。今のアメリカも同じです。ですから今こそは、その人物が現れるときなのです。聖書に書いてあるとおりです。これは、「主がこう言われる」です。
366
それから後の雨が降ると、カルメル山の対決が繰り返されるでしょう。聖書は字句どおり成就しました。洗礼者ヨハネはマラキ3章に記されたキリストの先駆者でしたが、初めの雨のときに種を蒔き、会堂や、ファリサイ派やサドカイ派などの教団から排斥されました。イエスが来られたときに、変容の山の上での対決がありました。終わりのときに現れる先駆者も、初めの雨のときに種を蒔くでしょう。それからイエスが、教団対みことばの教えの対決をされるでしょう。キリストが来られると、対決が行われ、花嫁は携挙され•••。初めの対決はカルメル山で、2番目は変容の山で行われました。3番目の対決はシオンの山で行われることになるでしょう。主に栄光!
367
多くの人たちは、エリヤやモーゼや洗礼者ヨハネのしていたことを理解しませんでした。彼らは人々から受け入れられず、同時に彼らの語ったメッセージも拒絶されました。しかしとにかく、種は蒔かれたので、次に来るのは裁きです。彼らは、神から送られたしるしであり、それは裁きのときが近いことを告げていました。種まきのときは終了したのです。
368
本物のキリストの花嫁が、神のことばを宣べ伝えることを禁じられる日が来ると確信しています。そのことを黙示録13:16 で預言しています。教団が、刻印を強要し、それを拒否するものを排除するからです。そののち、子羊が花嫁とともに、この淫婦を裁きます。
369
モーゼは神の働きをするために生まれましたが、その働きをするためには荒野に退き、天性に加えて特別な賜物を神から受けるまで待たなければなりませんでした。そして、定められたファラオが王座についていなければなりませんでした。また、人々がいのちのパンに飢え乾く必要がありました。それらの条件が揃ったのち、神はモーゼをエジプトに戻しました。今この終わりのときに、しるしを働く何千もの人たちが現れて、しるしを求める時代を煽っています。彼らは、この終わりのときに与えられた神のことばと真の神の働きを知らず、知ろうともしません。
先にわたしは、「血や油を使った斬新な見世物を壇上で行う者たちを、それが神のことばかどうか、聖書的かどうかおかまいなしに人々は支持している」と言いました。イエスは、終わりのときにこのようなことが起こると警告されました。先に話したようにマタイ24章で、にせの霊が聖霊に似通って、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとすると書いてあります。どのようにして、にせの霊を見分けますか? みことばによって試すのです。みことばを語って、相手がどのような反応を示すか見るのです。もしみことばを信じないなら、彼らのうちにその種の胚芽はありません。彼らは悪魔からのものであって、あなたを騙そうとしているのです。初めの花嫁が騙され、2番目の花嫁も騙されたように、彼らは3番目の花嫁を、みことばを人の教えと交配させることによって騙そうとしているのです。
370
神はみことばに先駆けて、しるしを送られたことはありません。(アーメン。辛辣に言います)神はみことばに先駆けて、しるしを送られたことはありません。しるしは、みことばを証明するためのものであって、大切なのはみことばです。
エリヤは女に、「まずパンを焼いてください。」と言いました。奇跡が起こったのは、女がエリヤのことばに従った後です。まずみことばがあり、それから奇跡が起こります。聖霊はみことばの種を活性化させます。神から遣わされた使者が、聖書のある箇所は信じて、ほかの箇所は信じないなどということがあり得るでしょうか?
371
神に遣わされた真の預言者は、終わりのときにみことばをはっきり示し伝えます。教団は彼を嫌うことでしょう。その預言者は教団に手加減しないからです。彼は、最初にキリストが来られたときの先駆者のようでしょう。「おまえたち、まむしの子孫よ•••・。」しかし、定められている者たちは、彼のことばを聞いてカウントダウンの準備を始めることでしょう。アブラハムの信仰の種を保有する者は、どんなことがあっても神のことばを守ります。神によって、そう定められているからです。そして定められたときが来ると、マラキ4章の使者が現れます。わたしたちはその人の登場を信じて待っているのです。このことは、終わりのときに起こるとする神のみことばに準じています。今はまさに終わりのときです。
372
その使者は、みことばを、かつてそうであったように正確に伝えることに専念します。神は、彼が宣べ伝えることの正しさを、エリヤにしたのと同様、証明されます。その使者は、エリヤの霊を持って登場し、シオンの山での軽挙の準備をすることになります。イエスは、終わりのときがロトの時代と同じだと言われました。その使者の宣教は、聖霊と混じり気のない神のことばによります。神の真理という言葉が、あまりにも乱用されているので、多くの人たちがこの真の使者を誤解するでしょう。(わたしはここに、預言と書きました。預言のことばです。)偽り者たちが、神の真理という言葉を使いすぎるので、神に仕える本物の奉仕者たちが、この使者を誤解することでしょう。
373
終わりのときの預言が繰り返されると確信しています。初めの先駆者が荒野から出てきて、「みよ、神の子羊を。」と叫んだように、2度目の先駆者も、人々の注意をみことばから生まれた花嫁に向けて、同じことをするでしょう。彼は、キリストの花嫁に、天に現れるキリストを指し示し、「みよ、神の子羊を。」と叫ぶことでしょう。神よ、どうぞわたしたちが、この差し迫る出来事のために準備できるよう助けてください。
374
さて、ここまでにしておきましょう。信じますか? ここまで話してきたことを理解しましたか? 友の皆さん、これは神からのことばです。もう6時間も経ちました。まだ言い足りないことはありますが、ここまで長く話せば、聖霊があなたの心に、話の主旨を沈着させてくれたことでしょう。わたしたちは終わりのときにいます。すでに種は蒔かれました。後の雨が降ろうとしています。
間もなく教団同士が結びついて教会連盟を強固なものにしていくことでしょう。恐ろしいことです。ここのような教会は追いやられて活動できなくなります。ちょうどそのようなときに、イエスが現れて、誰が花嫁で誰がそうでないかをはっきりとされます。
375
クリスチャンの友よ、覚えていてください。わたしは人間ですから間違えることがあります。しかし神は神なので、間違えることがありません。聖書に書かれたすべてのことは成就されなければなりません。イエスはそう言われました。それで、これから成就されなければならないことの一つに、ボイコットがあります。獣の刻印がないものは売ることも買うこともできなくなる事態が起こる前に、教会が連れ出されるために神の種が蒔かれていなければなりません。理解していただけましたか。種が蒔かれていなければならないのです。教団の種は獣の姿、ローマ教会を形成し、•••。真の花嫁も現れていなければなりません。
376
アダムの花嫁はいのちを生むことを拒み、死を生みました。わたしたちは皆、彼女の産物です。この体はご覧の通り、死んでいきます。
イェホヴァの花嫁も死にました。神は、彼女に三行半を手渡され、代わりに異邦人の中から、神の名を受ける者を選ばれました。神の名、女性は男性の名を名のりますね、つまり花嫁です。しかしこの花嫁も前の花嫁同様のことをしました。教団組織を創り、自らを汚したのです。それでも神は、各時代にリバイバルを起こし、神の預言者を送られました。(預言者は宣教者です。真の宣教者は神のことばを宣べ伝え、神のことばにとどまります。)彼らはリバイバルを起こし、選ばれた者を集め、選ばれた者は種となっていきます。神は同じものを使われません。神学者や歴史家に聞いてみなさい。組織化した教会からリバイバルが起こったことがあるか。一度もないはずです。教団と化した教会はいのちを失い、横たわるのみです。
377
ドゥワイト・ムーディーのことを考えますと、ムーディー聖書学院は死んでいるも同然です。メソジスト、ペンテコステ、長老派、ルーテル、ナザレ派、ピルグリムホーリネスはといえば、バディ・ロビンソンやジョージ・ホワイトフィールドなど、神を畏れる人たちが立ち上がり、福音を伝えました。その時代の人々は聞いて種を受けました。キリストの体の一部となるための種です。例えばもろこしでいうなら、茎や葉や穂の部分になる種です。体のどの部分になる種であれ、その時代に啓示された神のことばが種として植えられました。それから天の四隅の風が呼び起こされ、その時代に選ばれたものが受け容れられました。それら選ばれたものたちを通して、生ける神の神殿が建てられています。
378
さて、このミニストリーの目的は、イエスがなさったのとまったく同じ働きをするようになるまで、花嫁を研磨することです。頭石であるキリストが来られるとき、頭石にぴったりはまるためです。携挙は起こります。彼らは連れ去られ、残りの体の部分も一緒について上がります。花嫁は天に上げられるのです。教団の教会ではありません。神のことばの教会が上げられるのです。信じますか? ここにハンカチが置いてあります。
379
これからどこに行くのかわかりませんが、わたしは行きます。あなたがたと同様、わたしも神の思いに従おうとしています。この会堂にずっといられればいいのですが、そうもいきません。汚れた霊に苦しめられている何千もの泣き声が聞こえるので、眠ることもできません。小さな子どもの泣き声が聞こえ、子どもを抱えた母親が、祈りの列に押し入るのが見えます。ある母親は赤ちゃんに風を送り、雨に当たらないよう覆いを被せて庭に立っています。彼らのことを思うとわたしの心は潰れそうです。
380
この会堂を建てたとき、わたしが礎石を置いた日、ある朝現れた幻をはっきり覚えています。それを書き記して礎石に置きました。幻で天使が、「これはあなたの会堂ではない。」と言い、「あなたはみことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」と言いました。わたしはこの働きが好きです。世界中の神の子どもたちが好きです。神がわたしをどこに導こうとされているのかわかりません。指示を待っています。もう一年も待っています。2年あるいは3年待つことになるかもしれません。次に何が起こるかまったくわかりませんが、待っています。一つ確かなのは、聖書によれば、みことばはすでに蒔かれたということです。次に来るのは聖霊です。
381
ビリー・グラハムも、オーラル・ロバーツも、他の神に仕える人たちも、あらゆるところで宣教するでしょう。主はわたしを種まきのために別のどこか(どこかの畑)に送られるでしょう。しかし、この国の種まきは終わり、収穫を待つ段階に入っていると信じます。
聖霊が降ると、人々の間で活発な動きがあり、確かに教団同士は一緒に動くようになります。そして神の教会は排斥されます。教団は互いに同盟を結び、同盟部外者には売り買いできないように共謀するでしょう。ほんの少しの間、ローマが世界を牛耳ります。共産主義でなく、ローマ主義が世界を思いのままにし、神に捨てられた教団組織の教会で構成されるプロテスタント主義が、それに協賛します。このことが起こるのは、神のことばを知っているのと同じくらい近いです。
382
皆さんを愛します。感謝しています。もしかしたら1週間後の日曜日に戻ってくるかもしれません。これからフロリダに行き、主のお望みなら明日の夜はジョージアにいます。いくつかの小さな集会をあちこちで開きます。主が導かれるなら、ボーダー兄弟から届いた集会の予定がたくさんあります。30から40の教会が集会の協力を申し出てくれていますが、なぜだかわかりませんが、聖霊がわたしにストップをかけています。どうかわたしのために祈ってください。わたしもあなたたちのために祈ります。こうして、お互いに協力しあっていきましょう。神が私たちを助けてくださいますように。ここにいる誰一人、落第して、来たるべき素晴らしいときを逃すことがないように願います。
383
友の皆さん、わたしはいろいろなことで非難されています。非難されても仕方のないことがたくさんあります。わたしは確かに不注意です。どうしてかわかりません。そういう性格なのかもしれませんが、誰かがわたしを隅に追いやり、喧嘩をふっかけます。すべきではないことをしたことがあります。したくてしたのではないのですが、盗みを働きました。わたしたちが生きている今の時を見ると、とても怖くなります。わたしは行動を始める前に、神に伺いをたてたいと思っています。神から離れたくないからです。どこに行くにも神とともにいたいのです。どうぞ祈ってください。
384
わたしが話したことは真理であることを、どうか覚えていてください。皆さん、朝早くから一日中お疲れさまでした。多くの人は立って聞いていて、足がしびれたことでしょう。車で聞いていた人は、バッテリーが上がってしまうところでしたね。若者たちがテープに録音しておいてくれたので、あとで入手できます。もしテープを入手したら、家で真剣に聞いてください。主があなたに何かを教えてくださいます。主を愛しますか? テディはどこにいますか? ハンカチと人々のために祈る前に、あなたたち一人一人のために祈りたいと思います。この歌を歌いましょう。それからネヴィル兄弟が次の集会の案内をします。
愛します、おお神よ、愛します(みことばを愛しますか? それなら神を愛しています。)
あなたが先に愛してくださったから
そしてわたしを贖ってくださった
カルヴァリの木の上で
主は素晴らしいと思いませんか。頭を下げましょう。
385
天の父よ、このようにする必要を感じたので、何時間もかけて、わたしが貫いてきた姿勢の理由をできるだけわかりやすく兄弟たちに話し、説明をしてきました。
今この人たちを、ここにいる人も、あとでテープを聞く人も、あなたのもとに引き寄せます。神ご自身が彼らに解釈を与えてくださいますように。わたしは確信しています。わたしが語ったみことばが、定められた者たちの上に落ちることを。あなたのみことばは真理です。
父よ、ごめんなさい。数々の間違いを犯してしまったわたしを許してください。そしてここにいる人もテープを聞く人も、すべての人の罪を赦してください。主なる神よ、わたしたちは、終わりが近づいていることに気づいています。あらゆるしるしが現れていますから。主よ、霊的な心を持つ者は、わたしが語ってきたことを把握すると確信します。主よ、すべての人が、今がどのような時なのか理解しますように。何かが迫ってきています。破壊するものの音が聞こえます。近づいてきています。
386
助けてください、主よ、助けてください。ここにいる一人一人のために祈ります。病人のために用意されたハンカチのために祈ります。主よ、わたしがすべてのために信仰の祈りを祈ることができるよう助けてください。わたしは神のことばを受け入れる人に、信仰によってこの種を蒔きました。イエス・キリストの名によって、また神の信仰によって、主なる神よ、あなたにこの人たちを委ねます。聖霊を送って水やりをしてください。みことばの胚芽が発芽しますように。あなたは変わることなく癒してくださる偉大なる神、変わることなく救ってくださる偉大なる神、復活させてくださる偉大なる神です。あなたは神です。彼らが成長して主イエスの花嫁なる作物、みことばを受け入れる純潔な心の胎を持つ作物を実らせますように。どうか祈りを聞き入れてください。主よ、彼らをあなたに委ねます。できることなら、すべての人があなたの花嫁になりますように。イエス・キリストの名によって、アーメン。
387
愛します、おお神よ、愛します
あなたが先に愛してくださったから
そしてわたしを贖ってくださった
カルヴァリの木の上で
(みんなで歌いましょう、手を上げて。)
愛します、おお神よ、愛します
あなたが先に愛してくださったから
そしてわたしを贖ってくださった
カルヴァリの木の上で
さて、これまで6時間みことばを説いてきました。最初にお薦めするのは、悔い改めて、主に向き直ることです。そして、罪の赦しのために、イエス・キリストの名によって洗礼を受けることです。(洗礼の準備がすぐ整います)すると神が約束どおり聖霊を与えてくださいます。この約束は、あなたとあなたの子どもたちと子孫に与えられています。メソジストもバプテストもカトリックも長老派も、誰でもこの言葉を受け入れるものは、ためらわずに来なさい。信じますか?
これからの進行は牧師にお任せします。洗礼の準備が整うまで、ネヴィル兄弟、さて、ちょっと座ってください。わたしたちの牧師ネヴィル兄弟から集会の案内があります。再会するまで、皆さんに神の祝福がありますように。