62-0422 花嫁の木の回復

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • ジェファーソンビル インディアナ州
  • 録音番号:62-0422
  • 年:1962
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ありがとう、オーマン兄弟。神の祝福がありますように。
みなさん、おはようございます。この復活祭の朝に、この会堂で礼拝し、わたしたちの救い主イエス・キリストの復活を祝うことができて嬉しく思います。
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わたしたちの牧師が今まで説教してきた中で、今朝のメッセージが最高だったと思います。家に帰ってから妻に、「ハニー、君、朝早く起きなかったから、いいものを聞き逃したよ。」と言いました。復活に関して聞いたメッセージの中で、一番いいものでした。今朝、わたしたちの牧師が話してくれた復活のメッセージよりいいものを聞いたことがありません。全く驚くようなメッセージで、全て、的を得ていました。油注ぎを受けた人にどんなことが起こるかを見せられた感じです(分かりますよね?)。確かに油注ぎが顕著でした。こんな素晴らしい牧師が神から与えられていて、幸せです。
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そして、又、みなさん一人ひとりを感謝します。随分長い間、(いろいろな機会にあちこちで、)みなさんと集ってきました。しかし、これからわたしは、野外宣教に出かけます。ご存知のように、今週はブリティッシュ・コロンビアのクリー・インディアンのところに出かけます。それからフォート・セント・ジョンに行きます。主がお望みなら、この夏は東から始まって西海岸を沿って行き、アラスカのアンカレッジまで行きます。そしてそこから、もしかしたら、この冬のためにアフリカやその他の国々に打診を送ります。
そういうわけで、次回この会堂に戻ってくるまでには、しばらくかかるでしょう。少なくとも、8月か、秋頃になると思います。
みなさんが協力してくださっていることを感謝します。今朝、この会堂にじゅうぶんな席が確保できないことを心苦しく思います。現在は、もっと広い教会の建物を建てる計画の最中ですが、多分まもなくその実施が決まり、建物の建設に取りかかるでしょう。
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贈りものやバースディカードやイースターカードをありがとうございますと一人ひとりにお伝えしたいです。わたしへの贈りものをビリーが受け取りました。みなさん、ウッド兄弟、みなさん一人ひとりにありがとうと感謝します。
来る人来る人が、こう言います・・・「ブラナム兄弟に会わせてください。」「あなたのお父さんに会いたいです。」こういった声に対応するのは緊張を強いられます。
それでこう言います、「席がもういっぱいです。」
これがどれほど困惑する状況か想像できないと思います。どんなに多くの人に接しても、できることはこれだけなのですから。
わたしとしても、できれば一人ひとりと座ってじっくり話をしたいです。いつかはそうしたいと願います。でも地上にいる間は無理でしょう。世界中から人が訪ねて来るのですから。今週も海外5~6カ国からの訪問を受け、インタビューを受け、今週世界中の国々からの祈りのリクエストを祈りました。
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もし、地元ジェファーソンビルの小さな集いの中だけなら、一人ひとりに2~3時間かけてじっくりと問題の除去にとりかかれるのですが。でも現状では、地元の兄弟からの電話を2つ受けている間に世界中から100も200もの問い合わせが入って来るのです。そういうわけで、実質的には何千もの問い合わせに答えることができないでいます。分かってください。
世界中から、病人の祈りのために、こちらに来てとか、そちらに行ってとか、飛行機のチケットを送ったとか、手配を整えたとか、依頼の電話がかかって来ます。でもひとりの人間にそんなことできないのです。
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それで人々は失望しますが、わたしもがっかりします。この復活祭の朝に、告白させてもらいます。わたしにはどうしていいかわからないのです。あまりにも多くの、世界中の何千も何千もの人々から依頼を受けるのですから。ご存知のように7回世界を回って、世界中の1千万人以上の人たちと個人的に接して来ました。だから、それがどれだけの緊張か想像していただけると思います。
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誰でも、ちょっとした気苦労とかちょっとした失望とかは、経験していることでしょう。でも考えてみてください。わたしは格別の失望を次々としているのです。こんな具合です。電話口で、病気のお母さんが言います、「ああ神よ・・・ブラナム兄弟、ちょっと待ってください。主イエスよ、どうかブラナム兄弟をわたしたちのところに送ってくださいますように。」他の電話を切って、こちらの電話を取り、別の電話が鳴り、また別の電話が鳴りと、世界中から電話がかかってくるのです。電話口の相手に病気の赤ちゃんがいたり、病気の夫がいたり、危篤の妻がいたりして、祈りを求めてくるのです。
わたしが神経症にかかっているのも無理ないと思うことでしょう。神経症になる材料がじゅうぶん揃っていますから。でもわたしはずっとひとつのことを守って来ました。それは、ものごとに囚われて複雑になる代わりに、カルバリだけを見つめて進んでいくことです。それがだけが、イエスがわたしに望んでおられることです。
わたしは多くの間違いを犯して来ました。神がそれらを許してくださいますよう祈ります。多分行くべき場所に行かなかったことがあるでしょう。わたしは人間ですから間違いを犯します。
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今朝、日の出の礼拝に出かけるときの、裏庭での出来事ですが、微笑ましいお話があります。わたしには、エド・スチュワートという古い大切な友人がいます。(多分どこかの席に座っているでしょう。シカゴから来ています。)エド・スチュワートは、(彼は70代真ん中くらいです。)裏庭でわたしに出会いました。彼は什一献金を10セント硬貨で貯めていて、これくらいの大きさのぎっしり詰まった10セント硬貨をわたしに渡しました。わたしは知りませんが・・・彼らが海外宣教に行くからです。そして彼とわたしの友人であるレオナルド・スキャッグス兄弟が、インディアナのローウェルから来てそこに立っていました。今まで知らなかったのですが、彼はメーソンでした。彼がメーソンのボタンをつけていたので、それを知り、それから三人でひとしきりフリーメーソンの団体について話をしました。それからスチュワート兄弟がおもむろに、こう言いました、「ブラナム兄弟、わたしはあなたが好きですよ。あなたと話をしたいのだけれど、(言葉の表現を許してください。)あなたをつかまえるのは、トルコのハーレムに入るより難しいんです。」
誰かも言っていました、「主に会うのは、あなたに会うのよりやさしいから感謝です。」
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わたしは人が大好きですから、自分ではそうするつもりはないのですが・・・家に帰ってから食卓で妻にその話をして、笑いました。トルコのハーレムに入るのはどれだけ難しいことでしょうね。スチュワート兄弟、もしまだここに残っていたら、次からはそんなに難しくなければいいのですが。それは、みんなで笑えるちょっとしたユーモアでした。
だからわたしはみんなと会えることを願っています。わたしはみんなを愛します。(本当です。)それが友人であろうと敵であろうと、変わりません。
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さて、これからの集会のためにみなさんからの祈りを切望します。これからの集会では、インディアンの中に入っていきます。郷に入っては郷に従えと言われているように、インディアンのところに行ったら、インディアンのように生活しなければなりません。
アラスカのハイウェイで、狩りの相棒になってくれた宣教の友人は、とてもいい若者で、奥さんとともに素敵な家を離れて宣教活動しています。彼の腕や耳の後ろやあちこちが赤く剝けていて、湿疹だろうかと心配しましたが、それはノミやナンキン虫に喰われたあとでした。どのような生活をしているのか察しました。人々をキリストに勝ちとるためには、その人々と同じ暮らしをしなければなりません。彼らは、キリストが受けとる財産です。キリストは、死の代価を支払って、彼らをご自分のものとされました。だから誰かがインディアンのところに行かなければいけないのです。
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前回は、その部族のチーフが北部で行われた集会にやって来ました。聖霊が集会に臨んで・・・集会のあった場所は、 確かキャンプ場かそのグラウンドー旅行者の場所だったと、思います。その場所に聖霊が臨んで、彼の名前を呼び、彼が誰であるか、何をしたかを明らかにしたので、ああ、彼は納得しました。それが人間の力には及ばない、全能のお方からのものであることがわかったからです。
それで、チーフがそこの海岸辺りを燃え立たせたので、今回わたしたちは、小さなボートに乗って、疎外されているクリー・インディアンの住んでいる海岸沿いの場所をあちこち回って集会を開くことにしています。大きな宣教活動をしている兄弟たちは、彼らのところに行くことができないからです。
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さて、そのインディアンには・・・集会では、1銭もお金がないでしょう。(わたしの集会では献金をしないことを知っていますね。わたしはお金を受け取りません。)ここの教会がインディアンの集会のお金を払ってくれるからです。あなたたちの什一献金の一部は、貧しくて無学のインディアンが救われるため、救いのメッセージを届けるために使われます。なんといっても彼らはアメリカ人なのです。私たちの方が外国人だったのに、彼らから土地を奪ってしまったのです。この国を彼らに返すことはできませんが、キリストの希望を与えることはできます。そしていつの日か、戦いや土地の奪い合いのないところで、兄弟として共に暮らすようになることでしょう。その場所には、一人ひとりにじゅうぶんな広さがあります。もしわたしの愛する人たちが救われて、その日のために準備ができたら、その日が来たときに感謝することでしょう。
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今朝もここに、多くの友人たちが集まってくれていますね。その中に、名前を思い出せないのですが、前はリー姉妹と呼ばれていた、・・・ああ、やっぱりリー姉妹ですね。そして、癒しを受けた娘さんたちも来ていますね?娘さんの一人は、良き羊飼いの家というところにいました。(あ、違う名前でしたっけ?カトリックの施設の名前が頭の中でこんがらがってしまいました。)とにかく、その娘さんは、精神疾患でその施設にいたのですが、わたしが彼女のベッドの足元に座って、彼女の両親が近くに立っていたときに、主イエスが現れて、病気に終止符が打たれたと宣言してくださいました。それで、その娘さんはすっかり元気になって、ここに座っています。彼女が、主にとても感謝していることは間違いありません。
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ここから見渡すと、最近まで末期癌だった人たちの顔が見えます。かつて彼らは腹ばいになって、あるいは車椅子や松葉杖でここにやって来ましたが、みんな今朝は健やかになってここにやって来ました。世界中から。その働きは、わたしがしたのではなく、わたしたちの主によるものです。このお方は死からよみがえり、永遠に生きておられます。
わたしたちの主がほめたたえられ、祝福されることを心から祈ります。みなさん、わたしのために祈ってくださいませんか。どうぞお願いします。わたしはみなさんの祈りを必要とします。ここに居るあいだはいいのですが、ここから外に出て、実際の戦場に行かなければなりませんので、・・・これは訓練です。
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昨日、教会の方々が買ってくれた新しいステーションワゴンに乗って、(わたしの古い車は廃車になったので。)ドライブしながらラジオをつけてニュースを聞きました。昨夜ジョセフとわたしとで祈りに行き、グリーンズミルから帰る途中のことでした。ニュースは若者の訓練の様子を取りあげていました。若者は、ポケットに砂をいっぱい詰め込んで、頭をうんと低くして、頭上を飛び交うマシンガンの弾を避けながら、腹ばいになってバラ線や障害物を通って進む厳しい訓練を受けていました。
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さて、そのような訓練が行われているのですが、現在、実際の戦場での前線の様子は違います。訓練ではマシンガンの時間が設定されていて一定のレベルでの練習がされますが、前線では、マシンガンの弾はあちこちから飛んで来ます。だから練習と実際では違います。それで、・・・ここでするのは訓練ですが、貴方には前線が待ち構えているのです。
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だから今、敵と立ち向かうのです。前に『ザ・ファイト・イズ・オン』という歌を歌いましたよね。覚えていますか?
戦いが進行する、おお、キリストの兵士よ、
断固として敵に向かえ
武器がきらめき、軍旗がひらめく
この日、正と悪が交戦した
(そのとおり)
戦いが進行する、弱ってはいけない
強くあれ、神の力によってしっかり立て
神が味方なら、神の旗印は我らが頭上に
最後に勝利を歌うのは我らだ!
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(そのとおり)
今朝、話したいことがたくさんありますが、これほど多くの人たちが、詰め掛けてくれているので、できるだけ短くしようと思います。建物の中に入りきれない人たちのためには屋外スピーカーが用意されていて、車の中で聞いている人には専用のラジオ放送が用意されていますが・・・。この朝、ここに訪れてくださったみなさんに感謝します。
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さて、先に進む前に話ましょう、 この後すぐに洗礼式がありますね?その前にプレイヤー・ラインがあります。今朝、病気の人たちのために祈ります。神がこの場所に現れてくださることが、今日の主題である復活の証拠だと言えます。神は生きておられますか? 死んでおられますか? 復活の話は架空ですか? 実話ですか? もし神が生きておられるのなら、この約束は有効です、「わたしはいつもあなたがたとともにいる。この世の終わりまであなたがたとともにいる。」
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さて、もし神が、わたしたちのいるこの場所に来て、そのことを証ししてくださるなら、もはや疑問の余地はありません。覚えていてください。世界中に宗教があり、それぞれ聖なる日や祭りの日を設けていますが、その創始者が未だに生きている宗教はありません。みんな死んでいます。でも、わたしたちクリスチャンが信じている創始者は、死んでよみがえられました。
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最近、メキシコで生き返った赤ちゃんに関してのインタビューを、ある記者から受けました。その赤ちゃんは、朝9時に死んで、その夜10時半か11時に、演台上に立つ母親の腕の中で息を吹き返しました。何万人もの人たちがそれを目撃し、その晩3万人がキリストに回心しました。その様子を思い浮かべることができると思います。
わたしの目の前に幻が現れて、その赤ちゃんの名前などが示されました。その母親は祈りのカードを入手できなかったので、列に並ぶことができず、ずうっと後ろの方にいました。でも並ぶ必要はありませんでした。降りしきる雨の中、その母親は赤ちゃんを連れて来ました。
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わたしたちは立っている時彼らのことを、海外の人たちのことを考えてみてください。夜9時から始まる集会のために朝9時から立って待つのです。熱い太陽の日が差す中、お互いに寄りかかって日蔭をつくりながら立っているのです。座って待つのではなく、立っているのです。アフリカやそのほかの国ではそうします。インドでは一度の集会に50万人が集まります。
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この小さな母親は祈りのカードを得られなかったにもかかわらず、列に入り込もうとして、300人くらいのアッシャーから引き止められていました。彼女はカトリックでした。そのようなときに、聖霊がわたしにこう言ったのでした。「彼女に、その子を連れてここに来るように言いなさい。」
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そしてその小さな赤ちゃんは (朝から立っていたので、)びっしょり濡れた毛布に包まれ、その朝の9時に亡くなったと医師から宣告されていました。(医師が書いた死亡証明書もあります。)それからもう日が暮れて夜中になっていました。わたしは幻で示されたとおり、その赤ちゃんの上に手を置きました。そして赤ちゃんが息を吹き返したのです。その医師が証しをしています。
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又、わたしにインタビューした記者は、・・・(わたしは誰の信仰に対しても、聖書に沿っている限り批判をしたりしませんが)その記者はカトリック信者で、わたしにこう言いました、「私たちの聖人にも同じことができると信じますか?」
わたしは答えました、「もしその人たちが生きているなら、できます。」(こう言ったのは、カトリック教会では、死ななければ聖人になれないからです。)
彼は言いました、「でも死ななければ聖人になれないのですよ。」
わたしは言いました、「パウロは死ぬ前に聖人だったのですか?死んだ後ですか? 彼が手紙を書いた相手は死んだ人たちでしたか? 手紙で彼は、『エペソにいる聖徒たちへ』『どこどこにいる聖徒たちへ』と書いています。もちろん、パウロは死人宛に手紙を書かなかったですよね。」
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彼「それでは、あなたは聖書を持ち出して判断するのですね。でもわたしたちが教会です。」
私「そうです。いいでしょう。」
彼「わたしたちが教会です。」
私「では、教会がそれと同じことをするか見せていただきましょう。」本当は、それができるのは、キリストだけなのですよね。
彼「あなたはカトリック教会のことをどう思っていますか?」
私「その質問をしてほしくはなかったです。」
彼「いいえ、ぜひ聞かせてもらいたいです。」
私「心霊主義の最高峰です。」
彼「心霊主義ですって?」
私「そのとおりです。」
彼「いったいどういうことですか?」
私「あなたたちは聖徒の交わりと言っていますが、それは死者を介してとりなしをすることだからです。」
彼「あなただってキリストに祈るではありませんか。彼は死にました。」
私「でもキリストはよみがえりました。」キリストはよみがえりました。わたしたちがそれを知っているのは素晴らしいことです。キリストはよみがえりました。ありがたいと思いませんか? 頭を下げて、彼に感謝しましょう。わたしたちを義とするために、キリストは墓からよみがえってくださいました。
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天の父よ、イエスキリストを与えてくださったことを感謝します。今日は、イエスキリストが死と地獄と墓に打ち勝ってよみがえられた朝を讃える記念の日です。彼は地上におられたあいだ、あらゆる病気や悪魔や悪霊の力に打ち勝たれました。それから最後の敵である死が迫り・・・復活の朝、イエスキリストは神であることを証明されました。最後の敵も彼を捕まえることはできませんでした。墓は彼を朽ち果てさせることができず、地獄も彼を閉じ込めておくことができず、天国が彼を迎え入れました。
神よ、聖霊の力によって、わたしたちの心が主イエスキリストを受け入れることができますように。そして主イエスキリストの大使となり、地上における主イエスキリストの僕の模範となって、この地に逗留しますように。願いを聞き入れてください。
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神よ、ここに集うみなを祝福してください。かけがえのない人たちが立っています。明け方から狭い思いをしながら立っている人たちもいます。天の父よ、わたしたちの考えも及ばないほどのあふれんばかりの祝福を今日彼らに注いでください。そして彼らに強く願い求める心をお与えください。それぞれが、さまざまな願いを抱いてここに集まっていますが、みなが満たされて帰ることができますように。あなたは誰も拒まれません。あなたのところに来る者を、よいもので満たし、喜びを持って帰路につかせてくださいます。主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください。
全能全知全ての所におられる方よ、よみがえりの力によって、聖霊がわたしたち一人ひとりのうちに臨み、わたしたちの望みが、ほかならぬ義なるイエスの血の上にのみ打ち立てられますように。父よ、願いをかなえてください。
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これからわたしたちが読む御言葉を祝福してください。明け方の集会で、素晴らしいメッセージが与えられたことを感謝します。あなたがわたしたちの兄弟に臨まれ、(一瞬にして彼は変化しました)死にそうなこの時代を生きるわたしたちへのメッセージを与えてくださいました。主よ、このことを感謝しても感謝しきれません。神よ、わたしたちの心はこのことを考えると喜びでふるえます。
どうぞ主よ、絶えることなくこれからも兄弟に油を注いでください。そしてこの小さな教会を祝福してください。そして主よ、メッセージを届けに遠出するわたしを助けてください。イエスが王国に招んでくださる時まで、わたしたちがひとりのひと、ひとつの家族のように寄り添って、祈りあって、聖霊による聖なる一致のうちに暮らすことができますように。キリストの御名によって、その栄光のために祈ります。アーメン。
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(ネヴィル兄弟:「ブラナム兄弟、ちょっと割り込んでもいいですか?」)
もちろんいいですよ、兄弟。
(ネヴィル兄弟:「わたしたちからの感謝のしるしとして、仲間の若者が描いた作品をあなたに贈ります。ブラナム兄弟、わたしたちからの愛と感謝の気持ちです。」)
ありがとう、ネヴィル兄弟、教会のみなさん。
(ネヴィル兄弟:「この絵を描いた若者はジェリー・ステフィーです。」)
ジェリー・ステフィー兄弟がこの絵を描いたのですか。神の祝福がありますように。とても素敵です。ジェリー。
申し訳ない。この青年がアーティストの学校にいける手立てがあればいいのですが。神は芸術の中に生きておられるとわたしは信じます。そう信じませんか? 神は音楽の中におられます。神は絵画の中におられます。そして神はこの作品の中におられます。こんなに素晴らしい賜物があるのですから、それを伸ばさないのはもったいないことです。もっとたくさん描けばもっと伸びていくでしょう。ジェリー、神があなたを祝福してくださるよう祈ります。
そして、ネヴィル兄弟と教会のみなさん、この素敵な絵画とその下に書かれている句をありがとう。あとで読みます。
(ネヴィル兄弟:「わたしが読みましょうか?」
ええ、ネヴィル兄弟が読んでくれるそうです。わたしには・・・どんな内容か検討が・・・
(ネヴィル兄弟がその句を読み上げる。
彼は背丈の高い人ではない
高慢な態度はとらない;
彼は自分のことを吹聴しない
日々の暮らしの中で。
富や名声を求めないが、
誰も彼のようにはなれない;
彼はただわたしたちが望むように、
私たちの兄弟、ビル兄弟。
彼は忠実に教える
ありのままのことばで、
飾り気がなく、称賛を好まない
ただ主に従うのみ
彼の物言いは優しく穏やか
彼は声を上げない
悪に対して以外は、
それが使命だから。
決して学問を積んでいない
大学も学校も;
でも彼は何が大切か知っている
彼は決して騙されない。
なぜなら彼が受けた知識は
天からの永遠のものだから;
彼は教義を知らない、キリストからの教え以外は
律法ではなく至上の愛を知っている。
立派な告知はなかった
彼の粗末でつつましい誕生のときに、
でもわたしたちにとって彼は偉大なひと
地上に生きているひとたちの中で。
わたしたちは特別な名誉だと思う
彼を友達として知っていることを、
わたしたちは彼の主張を大切にし
最後までそれを守りぬく。
彼は自分は説教師ではないと言う;
彼はことごとく控え目、
でもひとたび説教台に立てば
誰が見ても明らかになる;
彼はあらかじめ運命づけられていた預言者
人にはなんとでも呼ばせておこう
神は私たちの大きな願いをかなえてくださった
ビル兄弟をわたしたちに与えてくださったことによって。
署名:・・・小さな羊の群れ)
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ありがとう、ありがとう。みんなの優しい思いをありがとう。誰が作った詩ですか?
(ネヴィル兄弟:「彼のお母さんだと思います。」)
わたしはこの賛辞に値しない者です。でもわたしにとって、これは世界中のお金より尊いものです。誰かが、わたしを神の僕と見なしてくれているなんて。どうぞわたしがそのようにずっと忠実でいられますよう祈ります。主があなたを祝福してくださいますように。わたしの思いは、あなたとともにあり、あなたへの愛を表します。
32
さて、かなりたくさんのことがあって1日かかってしまいそうです。なかなか御言葉に進むことができません。あまりにも素敵なことです分かっていただけますよね。
ちょっとお話ししようと思っていたのですが、主から幻をいただきました。それに誰かが、主が来られる夢を見ました。(そこでわたしは、これは見過ごしてはいけないことだと思いました。)
33
わたしの娘のレベッカをちょっと前にからかったのですが、彼女は大きな帽子をかぶって現れました。わたしは言いました、「ハニー、それは鳥の巣のようだね。あちこちに棒がつき刺さっているみたいだ。」「帽子を脱いでおいで。」
それからすぐに彼女が戻ってきました。今度は何かを詰め込んだ大きなpocketブックを持ってきました。わたしが、「どこからそんなものを持ってきたんだい?」と尋ねると、
彼女は答えました、「パパ、わたしは足が大きいから、それに合わせて大きなポケットブックが合うのよ。」
まあまあ、そんな彼女ですが、2回夢を見たのです。彼女とわたしとで車に乗っていて、わたしが彼女に、主が現れるのが近いと話す夢です。2回目も同じ夢を見ました。だから3回目の夢を待っています。その時には主がその意味を教えてくださると思います。
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いろいろなことが言われていますが、御言葉に移りましょう。
みなさんご気分はよろしいですか? そう願いますが、もしそうでなかったら、この集会が終わるまでに元気になるように祈ります。この集会が終わったときには。わたしたちの中に、一人も弱っている人がいなくなっていることを願います。
さて、キリストは罪深い人のために死んでくださったことを忘れてはいけません。それはわたしたちのことです。キリストはわたしたちのために、わたしたちが救われるために死んでくださったのです。
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みなさん、ちゃんと聞こえますか? 後ろの方の人は、聞こえていますか? そちらの方は? ちゃんと音が届いていますか? それならよかった。
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さて、いくつかの聖句を読みたいと思います。まずはヨエル書を開いて、1節から4節まで、それから2章の25節を読みます。それから創世記の20:7。
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さて、説教中に、もし疲れて外に行きたくなったら、どうぞそうしてください。でも、今日のメッセージが、当分の間はこの教会に集う人たちに聞かせる最後のメッセージになります。今朝はこのあと癒しの礼拝もあります。だからこのメッセージを、もし神が祝福してくださるなら、しっかり意味を掴んでご自分のものとしていただきたいと思います。
さて、わたしたちは信じていることを口に出し、「聖書がこう言っている」と、聖書によってそれを証明します。それから神がそれが真実であることを、それを実現させてくださることで証明してくださいますように。
「これはヒマワリの種です。」と言ってから、その種を植え、ヒマワリが咲いたら、言ったことの正しさが証明されるのと同じです。
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さて、それから立っている人のために途中で席を変わってあげてください。座っている人が席を譲って、しばらくしてまた席を交換するというふうに。わたしもできるだけ簡潔にメッセージしたいと思います。
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さて、忘れないでわたしのために祈ってください。そしてネヴィル兄弟とともに教会にしっかり繋がっていてください。そして来訪者のみなさん、またすぐに戻って・・・。
わたしはこれから、明確な召命のない集会を開くために遠出します。でも、世界が滅びていくのを黙って見ているわけにはいきません。パウロも一度そんな経験をしました。彼が他の国に行こうとしていたところ、途上でマケドニアに行けという呼び出しを受けました。今回も神がマケドニア呼び出しをされるかもしれません。そうしたら、計画を変更して神の呼び出しに応じます。
できる限りのことをするつもりです。こっちの角に種を蒔いて、あっちで少し蒔いて、そっちで少し蒔いてというふうにしていきます。その多くを空の鳥が食べてしまい、あるものは窒息してしまうことがわかっています。でも、少数でも良い土壌に落ちて芽を出すかもしれません。今回は種を蒔くことが大きな目的です。
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復活祭のメッセージとしてはとても可笑しな感じですが、ヨエル記の1章を読みます。
「ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。
老人たちよ、これを聞け。すべてこの地に住む者よ、耳を傾けよ。あなたがたの世、またはあなたがたの先祖の世に、このような事があったか。
これをあなたがたの子たちに語り、子たちはまたその子たちに語り、その子たちはまたこれを後の代に語り伝えよ。
かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごが残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。」
今度は2章25節を読みます。
「わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをされたあなたがたの神、主のみなをほめたたえる。わが民は、永遠にはずかしめられることがない。
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41 創世記20章7節を読みます。これからお話しするテキストの筋道を追うために読みます。聖句の背景を知るために6節から読みます。
「神はまた夢で彼に言われた、「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。
いま彼の妻を返しなさい。彼は預言者ですから、あなたのために祈って、命を保たせるでしょう。もし返さないなら、あなたも身内の者もみな必ず死ぬと知らなければなりません。」
さて、読んだ聖句から、このテキストの題を『回復』にしたいと思います。
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今朝、ネヴィル兄弟が卓越したメッセージを語ってくれましたが、その最後のところで彼は、「回復される」と言いました。そこからインスピレーションを受けて『回復する』という題をつけたのです。
さてその後、急いで家に帰って辞書をひき、聖書解説を調べました。そしてコピーしたりしました。それからウェブスターの辞書を引いて取り戻すの意味を調べました。回復とは元の持ち主に戻すことです。あるいは、元の状態に戻すことです。だから今、わたしたちは回復を要求できるのです。
さて、ウェブスターによれば、回復するとは、元の持ち主に戻すこと、元の状態に戻すことです。もし何かを取り戻す請求が上がれば、それを実行することができます。元の持ち主や状態に戻すことができるのです。神がこの乏しい言葉を祝福してくださいますように。
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回復する事とは、元に戻すことです。請求されれば実施されます。何かを正規の所有者に戻すということは、その何かが正規の所有者の手を離れて、どこか別のところにあるということです。回復するというのは、正規の所有者あるいは最初の地所に戻すということ、元の状態に戻すということです。私たちにはそれを実行する権利(もし法律があるのであれば)があります。正しい状態に戻すための行動を起こすことができます。-回復するために
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誰かがあなたの所有物を盗んで、隠しているとします。あなたは盗んだ人のところに行き、法の力によって返還を実行できます。法的執行です。
ああなんというテキストでしょう。このテーマで2日も話したいくらいです。法的執行。ネヴィル兄弟が説教してくれた内容をわたしが日曜学校の教えとして話そうとしています。だからわたしの話は彼の説教を続期であることを望みます。
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強制施行。それでわたしたちには、神から与えられたものをサタンに要求できる特権が与えられているのです。神が法だからです。神のことばは法です。神はこの御言葉をもって、確かに教会が要求できるようにされました。だから、わたしたちはサタンに対して、「それを返しなさい。」と要求する権利があるのです。
するとサタンは従わなければなりません。なぜなら、神から仲立ちとして遣わされた聖霊が、私たちの膝元に降って「これは主が言われることである。」と言われるからです。だからサタンは従わざるを得ないのです。聖霊がおられて、それを実行されるからです。
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地上の法は、地上で執行されます。しかし神の霊の法は、サタンに対して諦めるように執行されます。不正に神から掠め取ったものを、サタンは返さなければなりません。サタンは男や女や子どもの魂を神から奪いました。神がご自分の似姿に造られた人の身体に彼は病気を送り込みました。教会は聖書によって正当な法的権利を受けているので、聖霊の力によってこれらの取り戻しを執行できます。
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先週お話したと思いますが、ある兄弟がジョージアからルイビルにやってきて、車を駐車していたところ、誰かにその車を盗まれてしまいました。兄弟は車の中に自分と妻と子どもの衣類を残していました・・・それはここにいるエヴァンズ兄弟です。(エヴァンズ一家は、いつもなら集会に来ているのですが。)彼らはいつも2400キロもドライブしてここの集会に参加しています。かわいそうに兄弟は、家から1200キロ強離れた場所で何もかも失くしてしまいました。
彼は途方に暮れて警察に相談しました。しかしルイビルには大きな密売組織があるのです。盗んだ車の色を塗り替えるのです。ここでは車の売買の際に権利書など必要ないので、好きなナンバープレートに付け替えれば、その場で車の所有者になることができます。
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それで兄弟が困り果てていましたので、わたしたちはひざまづいて祈りました。ところでイエスには、このようにする必要はありませんでした。彼ご自身が御言葉ですから。でもわたしたちは御言葉ではないので、そのように祈ります。主のことばは預言者達に臨みますが、預言者達は未言葉そのものではありません。ただ、御言葉が預言者に臨むのです。でもイエスは御言葉でしたから、祈る必要はありませんでした。イエスは神ご自身ですから。でもわたしたちはイエスの預言者であり僕ですから、主の御言葉が臨むのを願わなくてはなりません。預言者が語る言葉が、主からのものかそうでないかは、彼の語ったことばがそのとおりになった時に判明します。
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それに聖書にはこう書かれています、「わたしの名によって二人か三人が集まり、みなで心を一つにするなら(わたしはその中にいる。)そしてもし彼らが、(疑うことなく)心を合わせて懸念の問題を祈るならば、願ったことはかなえられる。」
さて、ここに法があります。ここではその法の執行者は聖霊です。聖霊を信じず、拒否する人たちはどうなることでしょう。そういう人たちは自身のための平和とあわれみを拒否しているのです。
50
さて、わたしたちはひざまづいて祈りました。そこにはフレッド・ソスマン兄弟をはじめ、だいたい5人くらいいたと思います。わたしはこの件を神の前で申し立て、聖書にある約束のことばとともに神に願い出ました。偉大なる聖霊は、その要求に応じるためにみことばを受け取り、わたしに幻を与えました。わたしは、黄色いシャツを着た一人の男が、ケンタッキーのボーリンググリーンに向かって兄弟の車を走らせているのを幻で見ました。聖霊がその男をとらえて叱りつけたので、彼はボーリンググリーンまであと半分くらいのところで、Uターンしました。わたしは、彼が戻って来て、川の向こうの通りに車を乗り捨てたのを見ました。そこでわたしは立ち上がって、兄弟に言いました、「主がこう言われる。」
それで、その場所に行ってみると、道路脇に兄弟の車が乗り捨ててあって、ガソリンが(盗まれる前は満タンだったのですが)半分に減っていました。ちょうどボーリンググリーンまでの半分の距離とそこからここまで戻ってくる距離を走った分が減っていました。その場に居合わせた人たちがここにいます。彼らがその証人です。
何が起こったのでしょう? 法には強制力があります。「返しなさい!」それで解決です。これが、今日話している、『回復すること、元の持ち主に戻すこと』です。
51
もしサタンが、神の子であるという特権をあなたから奪ったのなら、この朝、聖霊によって、神から受けた権利の要求を実行しなさい。サタンから取り戻すのです!
もしサタンから病気の苦しみを受けているのなら、神の前で、神の法の執行を求める権利があります。その法とはこのことです、「イエスが打たれた傷によって、わたしたちは癒された。」アーメン。彼を戻しなさい。手を離しなさい。お前は彼を死に追いやったが、わたしたちは彼の返還を要求する。彼を戻しなさい。
もう一度元の状態に戻すこと、これが法の執行です。男も女も子どもも病気にかかっていますが、それは自然の状態ではありません。だからわたしたちの要求を実行する権利があります。厳密に言えば、それはわたしたちの要求ではなく、神がわたしたちに与えてくださった要求です。だからそれをわたしたちの要求としているのです。「イエスが打たれた傷により、わたしたちは癒された。彼はわたしたちの罪のために傷を負い、その打たれた傷によって、わたしたちは癒されました。」
わたしたちには法を執行する権利があります。その法律制定者は神であり、神なる聖霊がここに神の仲介としていてくださり、執行してくださるのです。アーメン。
聖霊が働くためには、あなたが神にお願いしなければなりません。そして信じなければなりません。
52
すべてのものに、法則が与えれています。(ああ、いつになったらテキストにたどり着けるのか!)
魚の法則があります。魚の中に法則があって、水の中で生きることができます。その法則にのっとって、魚はまっすぐに海の底に潜ることができます。そうすることで害が及ぶことはありません。平気です。
あなたがそうしようとしても無理です。魚の法則はあなたの中にはありません。それは魚に適用される法則です。魚は空気を収縮させることによって、張り裂けることを防いでいます。魚はそのように造られているので、魚の法則にのっとって、海の底に降下し、そこから上がってくることができます。
53
キリストに法則がありました。それは人に適用される法則です。どんなに深い墓でも、海の底でも、地獄の底でも、どこに葬られていても適用される神の霊の法則です。それはもう一度よみがえらせるという法則です。分かりますね
54
鳥にも法則があります。鳥の体の素材は地に属していますが、羽を広げて空高く舞い上がるという法則をもっています。科学に反するものです。科学者は、物は重力によって地にしばられているといいますが、鳥は重力に逆らって大地を離れ舞い上がることができます。そのようにする法則が与えられていて、そのための体の構造になっているからです。なんだか、神聖な気持ちになってきました!
55
さて、わたしたちにも法則があります。いのちの法則です。その法則に従うために必要なのは、ただ生まれ変わって神の子としてキリストの体の一部になることです。あなたが悪魔を倒す必要はありません。わたしたちには法則があり、それは聖霊の法則です。それに従うためには、自分を解放して神に働いていただくことが必要です。いくら自分で奮闘しても、成果はあがりません。自分を明け渡して神に働いていただくなら、解決します。
56
もし魚が、「大きく息を吸って、酸素を溜め込んでから、潜ってみる。」と言ったらどうなるでしょう。そんなことをしたら張り裂けて死んでしまいます。
もし鳥が、「どれだけ早く走れるか試してみよう。もしかしたら飛べるかも。」と言ったらどうでしょう。飛べはしません。落っこちてしまいます。鳥の法則がどのように働いているか、知らなければなりません。
57
わたしたちも同じです。わたしたちがいくら戦っても、引っ張っても、急いでも、「これをしなくちゃ。」「あれをしなくちゃ。」と言っても、それは問題の解決にはなりません。必要なのは、いのちの法則があなたの内にあることを知って、自分を明け渡して神に働いていただくことです。そうすれば、神があなたを癒し、聖霊のバプテスマに導き、神の約束の実現に導いてくださいます。神があなたに与えられた約束はすべて、自分を明け渡して神に働いていただくことで実現します。
58
警察官が、あなたの所有物を盗んだ人を法廷に連れて行くときに、あなたが彼を引き止めて、「わたしには、彼がこれをすべきかすべきでないのかわかりません。」などど言っても、彼をしかるべき場所に行かせることはできません。彼から手を離しなさい。
このようにするのです。サタンよ、去れ!そうすればあらゆる疑心があなたの心から逃げていきます。すると神があなたを立ち上がらせてくださいます。
59
今は復活祭のときです。わたしは復活祭が好きです。でも、こんにちでは、ウサギやらアヒルやらピンクのひよこやら綺麗な帽子やら新しいドレスやらの方が強調されています。それは復活祭ではありません。復活祭はよみがえりです。回復することです。今は神の回復時期です。大地をみてください。神が回復を進めておられます。何を? 自然です。そうです。神は花を、葉を、果物を復活させておられます。神が復活させておられる、それが復活祭で、回復するという意味です。
どうやって? 判決が下り、要求できるようになりました。だから、花はもう一度咲く権利を要求します。神による自然の法則が、大地全体を動かします。自然に作用する神の法則が、復活祭を引きだします。よみがえりです。なんと美しい! 太陽が戻ってきて、冬が大地から絶やしたものを復活させます。
60
60 教えられているように、神は地球に太陽の周りを回らせます。地球が太陽から遠くなっていくと、(それが罪びとの状態です。太陽(sun)があるのに、神の子(Son)から離れていくのです。)
地球が太陽から遠ざかったとき、死が地球を襲います。それが冬です。冬はあらゆるものを枯らします。地球が太陽を避けて回っていると、大地に横たわる種が凍り、果肉がなくなり、みんな絶えてしまいますが、命だけは残ります。
でも太陽が地球に近づいてくると、復活祭がやってきて、回復が始まります。花は咲き、全てが回復します。冬が絶やしたものを太陽が復活させます。そうです。
61
人間にも当てはまります。冬の厳寒期に形式的宗教が奪ったいのちを、神の子の到来が近づくこの終わりのときに、キリストの教会は取り戻します。「わたしは回復する。と主は仰せられる」分かりますね。
神は花を、葉を、自然を、大地の種を回復します。それで、神がご自分の住まいも回復するつもりであられることを、わたしたちは知ることができます。神はエデンを回復させ、死が奪ったすべてを元に戻されます。そうです。
それでも元に戻らないものがあるとすれば、それは間違った場所にいるからです。正しい場所にいれば、命を吹き返すはずです。ですから神よ、元のあるべき姿に戻るために、わたしたちが正しいところにいるようにさせてください。
62
冬が奪ったいのちを、太陽が復活させます。太陽が戻ってくるとどうなりますか? 太陽が死に強要して・・・(よく聞いて!)春の太陽が地上にさすと、死が奪ったものを強制的に手放させ、よみがえらせるのです。何のために? 復活です。もとどおりにするためです。
何をするのですか? 太陽が来るというのは、神の法です。神は地球に法則を送りました。重力の法則です。自然界のすべては神の法則によって営まれています。花の生涯が終わり、種ができて土壌の中で朽ち、それから復活します。
種は死んで横たわっていますが、わたしたちには何もできません。ここにある光を点灯したとしても何の役にも立ちません。わたしたちにできることではないのです。でも神の法則があります。太陽があたると種からいのちが生まれるという法則です。もはや死には拘束する力はありません。
63
神は自然界と霊界におけるすべての法則を制定し、ご自身に仕えるようにされました。それらの法則は、どんな状況にあっても、みことばに従って作用します。すごいですね。このことに関する聖句があります。
神はすべての法則を動かしておられます。考えてもみてください。このことを心に留めておいてくださいね。もう直ぐしたら癒しの礼拝が始まりますから。神はすべての法則を動かしておられます。ということは、すべての法則が神のことばによって作用しているのです。(理解できますか?)神のことばです。神の法則は神のことばによって作用するのです。神は太陽に命じ、月に命じ、地球に命じ、自然界に命じられます。すべてが一致しています。すべての法則は神が仰せになったことばと調和しています。わたしたちのうちにあるいのちの法則も、わたしたちに復活をもたらします。そうなることになっています。そうならないことなどあり得ません。
64
だから、キリストのうちにあったいのちの法則が・・・「わたしは、聖徒に墓の穴を見せることなく、彼の魂をよみに捨てておかない。」というみことばが発せられたので、時間も悪魔も何も、キリストを墓に留め置いて朽ち果てさせることはできませんでした。神の法則がみことばを実行したからです。神の法則は、聖霊によって、どんな状況にも関わらず、約束されたことを実行します。
65
ヨブは言いました、「たとえ蛆虫がわたしの体を滅ぼしても、わたしはこの目で神を見る。」
わたしたちがどんなに弱くても、乏しくても、汚れていても、罪深くても、重病でも、悩んでいても、そんなことに関係なく、みことばに基づいて、「それを返しなさい。」と言うなら、相手は従わなければならないのです。これは神の霊の法則がそうさせるのです。アーメン!
ちょっとのあいだ、このことをよく考えてみてください。状態がどうであれ関係なく、強制力を伴って要求できるのです。状態がどうであれというのは、神の法則により、みことばが状態をみことばに合わせてくださるからです。そうなるべきなのです。
ここに花が枯れて横たわっているとします。種が朽ちています。果肉も無くなりました。でもそんな状態に関係なく、花はまた芽を出すのです。なぜなら神がそう定められたからです。
66
ヨブが墓に置かれたとき、多分、ヨブがイエスが来られるのを見たのは、実際にイエスが来られる4000年くらい前だったでしょう。4000年経ったら、人間の体がどうなっているか想像してください。スプーンの端に乗っかるくらいの灰も残っているかどうかという感じでしょうか。それでもヨブは言いました、「わたしは、他でもない、この目で神を見る。」
それにマタイ27章によると、イエスの死と埋葬と復活の後、多くの聖人が地の眠りから醒め、塵の中から起き上がったと記しています。なぜですか? あの預言者が、神のことばを口にしたからです。みことばが発せられたので、神の法則が、霊によって彼らを生き返らせたのです。聖書によれば、彼らは町に入って、多くの人の前に現れました。イエスがよみがえられただけではなく、聖人たちもイエスとともに生き返ったのです。
67
なぜですか? 詩篇にこうあります、「門よ、おまえたちの頭をあげよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。」
イエスが、死と地獄と墓と病気に打ち勝って3日目によみがえられたとき、囚われていたものたちを引き連れて天の高みに昇られました。囚われていたものとは? わたしたちに今与えられている約束を、ずっと待ち望んでいた人たちです。彼らは聖霊を受けていませんでしたが、信じて証しました。彼らは信じてライオンの口を閉じ、猛火を消し、剣の刃を逃れ、女たちは死んだものを生き返らせてもらいました。その約束がまだなかったにも関わらずです。でも彼らはそれを待ち望んでいました。羊の生贄では罪を覆うことはできても、取り除くことはできません。でも彼らはそのお方が来られることを信じていたのです。信仰によって、暗がりの彼方にそれを見て、願い求めました。彼らは固く決意して、砂漠をさまよい、羊やヤギの皮をまとい、苦しめられ、困窮し、困り果てました。これらの人々は、よみがえることを待ち望んで、証しながら死にました。そしてあの復活の朝、(神の法則が、ヨブたち預言者の口からみことばとして発せられたことにより、)彼らは、死からよみがえったのです!何と素晴らしい!
68
そうなのです。どんな状態かに関係なく、よみがえったのです。ある者は罪の意識に苛まれ、裁きに臨むことを恐れていました。多くの人は・・・死ぬのは難しくありません。誰でも正気を失ったり、いろいろなことがあります。体を焼かれて、海でその灰を四方に撒かれた人もいます。でもそうしたからといって、裁きから免れることはありません。どんな状態であろうと変わりはありません。
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わかりますか? どんな状態かに関わらず、誰でもどこかで神に会うことになるのです。だから自分から神に近づいて会うべきです。なぜなら、神がみことばを仰せられ、そのみことばをもって法を布かれたからです。その法は神の法です。神ご自身のいのちがその法の真髄です。だから神はご自分にかけて誓われるのです。神以上に優れたものは存在しないからです。契約は、誓いなしには締結しないので、ご自分にかけて誓われました。それが唯一の方法でしたので、神はご自分にかけて誓われ、ご自身が誓いとなられたのです。(ああ、兄弟よ。)神が人となられた行為が、ご自身が誓いとなられたことです。そしてご自身の死と埋葬と復活により、神は、その法則が正しいことを証明されました。イエスは言われました、「この神殿を壊してみなさい。わたしは3日でそれを建てよう。(わたしと言われました。一人称単数です。)わたしは3日でそれを建てよう。神殿を壊して、どうなるかみてみなさい。」イエスは神の法則をご存知だったので、そう言われたのです。神の法則がみことばに従って実働することをわかっておられました。イエスは、「わたしはわたしの聖なるものに墓穴を見させない。」という神のことばが、預言者の口をとおして発せられたことを知っておられました。だから決着したのです。そのとおりになったのです。
70
するとそのみことばによって、神の法則が実働するのです。(まもなく、すごいことに行き着きます。)神の法則は、神のことばとともにあります。
さて、法廷で判決文が書かれるとします、「本件、〇〇により、被告人に懲役を処す。」法廷が下した判決文は、法の定めにより実行されます。神が仰せになると、それは法です。神の仰せのことばを、聖霊が実働します。(アーメン!)信じる者のためにです。そのためには、あなたが信者であると認められていなければなりません。信者のバッジをつけている必要があります。
誰かは「そんな力があるのですか?」と言います。
いいえ、力はありませんが、権威があります。何かをする力は持っていませんが、権威が与えられているのです。
71
もう何度も話したことがありますが、ルイビルの小さな警察官のことです。彼はわたしより小さくて、帽子は耳に覆い被さり、制服はブカブカでした。彼が通りを歩くとき、脇にピストルをカバーしてかけ、小さな棍棒とホイッスルを持ち、白い手袋をはめていました。通りでは車が、(あるものは350馬力で)高速ジェットのように行き交っていました。おおよそ、彼には、逃げ出したポニーを止める力もなかったでしょうが、通りに立つ彼の胸にはバッジが光っていました。ホイッスルを吹いて手を上げるだけで、300馬力の車にでさえ、ブレーキをかけさせることができたのです。それは彼の力ではなく、持っている権威のおかげでした。
それが教会です。人からは、ホーリーローラー(注:霊に満たされて、礼拝中に声を上げたり飛び回ったりする人に対する蔑称)と呼ばれているかもしれませんが、なんと言われようとも、権威を背負っています。権威がもの言うのです。状態に関わらず、神の法はみことばと共に実働します。教団の信条ではなく、みことばとともに実働するのです。言い換えれば、みことばによってしか実働しません。状態は関係ありません。
72
先ほど読んだ聖書にあったように、アブラハムの妻は取り戻されなければなりませんでした。なぜなら、神がアブラハムに約束したことに反して、王が彼女を妻にするために奪ったからです。
王は何をしようとしていたのでしょう。危うくアブラハムは殺されるところでした。アブラハムは、このペリシテ人の王が彼を捉えるのを見た後で、言いました、「妻よ、お前は美しいので、もし彼がお前の美しさに気づいたなら、私は殺されるだろう。彼は私を殺してあなたを妻にするだろう。だから私のことを兄だと言っておくれ。」
73
それでアビメレクは、彼女を見初めて自分のところに連れて行きました。彼女が美しい女性だったからです。たったの100歳でしたけれどね。神は、アブラハムとサラをとおして、わたしたちに起こることを示されていたのです。そのことについて、わたしはずっと、メッセージやテープなどで語ってきましたし、神のことばによって、そのことが証明もされてきました。神は、人類全体に対してなさろうとしていることを、アブラハムとサラをとおして教えてくださいました。
74
アビメレクはサラを妻にするために連れて行き、いざ、彼女を妻にしようとしましたが、どうなりましたか? 神は以前アブラハムに、「サラによって、あなたは子をもうける。」と言われました。それなのに、今、若者が彼女を妻にしようとしているのです。アブラハムも100歳くらいになっていました。それでも彼によって・・・
神が言われたことに気づきましたか?「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。
今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であっって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」
そうです。何があっても神のことばが有効なのです。神の約束があるので、誰もサラに手を出すことができませんでした。
75
サラは、本物の教会、自由な身の教会の典型でした。自由な身の女と自由な身の子は、生まれ変わった者たちからなる約束の教会の典型です。ホーリーローラーでも、狂信者でも、人にはなんとでも言わせておけばいいでしょう。聖霊降臨以来、人々は、教会の動きを止めようと躍起になってきましたが、止めることはできません。決してできません。教会から手を引きなさい。それだけです。神が教会を引き上げ、著しいことをなさいます。それは、わたしがここに立っているくらい確かなことです。もうちょっとしたら、教会が始まってからここまでのことをお話しします。神よ、助けてください。わたしたちがどこにいるのか、証明してみせましょう。そうです。自由な身の教会を潰そうとする動きがありますが、それは不可能です。そうです。
76
「彼女から手を放しなさい。」なぜ神はそう言われたのですか? 彼女をとおして自然の種の子が世に出るからです。自然の種の子は誕生しなければなりませんでした。もしサラが、アブラハム以外の男性と結婚すれば、自然の子は生まれませんでした。
だから、神は自然の種の子のために、彼女を守りました。それなら霊の子の場合はなおさらです。神は、アブラハムの信仰を受け継ぐ、王の系列の子を守られます!
サタン、手を離して、彼らを返しなさい。お前には彼らを組織や何かに抑え込んでおくことはできない。彼らは自由の身なのだ。彼らを離しなさい。行かせなさい。彼らは王の系列の子孫なのだ。
77
さて、神は回復することについて話してきました。さてはヨエルが語った言葉から・・・(前にも同じ聖句からお話ししたことがありますが、今回は角度を変えて話したいと思います。時間がなかったので、今日お話ししようとしているようには、徹底して話したことがありませんでした。)
しかし神はヨエルのこの箇所で、ご自分が植えられた果樹の話をしています。神は、聖霊降臨のときに、ある目的を持って果樹を植えられました。その果樹に、神のことばの実をつけるよう求めておられました。神のことばです。聖霊降臨で教会が誕生してから、今日まで、神は教会が神のことばを守ることを求めておられました。イヴは失敗しました。ユダヤ人も失敗しました。律法を守ることができなかったからです。みな失敗しました。だから神は、ご自分のために木を植えられたのです。
78
エデンの園には、2本の木がありましたね。その木についていろいろなことが言われていますが、わたしにも見解があります。でもとにかく、1本は汚れた木でした。そしてもう1本は汚れていませんでした。そのいのちの木は天の神のもとから来ました。イエスはこう言われましたね、「あなたがたの父はマナを食べたが、みな死んでしまった。でもこの木はちがう。この木の実を食べるなら、あなたたちは永遠に生きる。」
誰もエデンの園にあるいのちの木に近づかないようケルビムが守っていました。いのちの木はエデンの園にあるのです。さて、これは霊的なことです。
さて、神が植えられた木のことですが、それは9種類の実をつけることになっていました。つまり9つの霊の実です。9つの霊の実は9つの霊の賜物を伴います。それが神の木です。その木を神は、聖霊降臨のときに、地上に植えられました。
79
ここでちょっと止めましょう。いつも時間がなくなるのです。それで、いくつかの聖句を飛ばさなければなりませんが、詩篇の1を取り上げます。
ダビデは過去にこの木を見ました。それで何か嬉しい歌を作るときに、まず思い浮かんだのが、この木でした。その木は水の流れのほとりに植えられていました。「その人はこの木のようだ」神が植えられた神の木です。どこに植えられましたか? 水の流れのほとりです。水は単数形で、流れは複数形です。メソジスト派やバプテスト派や長老派あルーテル派などではないのです。単に水の流れです。つまり、同じひとつの霊によって与えられる9つの霊的賜物、同じひとつの経路を通ってくる9つの霊の実のことです。「その人は流れのほとりに植えられた木のようだ。」
80
ダビデはそれを見たので、こう言いました、「いかに幸いなことか・・・その教えを口ずさむ人。」ダビデはその人は死ぬことがないと言いました。葉がしおれることがないというのはそういうことです。なぜなら彼は水の流れのほとりに植えられたからです。ダビデはこうも言いました、「その根は、枯れることがない。」
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大きな木を見たことがあるでしょう。わたしが子どもの頃、仲間と大きな木の下で遊んだものです。あれはブナの大木でした。風が吹くと、木のてっぺんが吹き飛ばされるのではないかといぶかったものです。でも本当は、木の上に風が吹くたびに、木が揺れ、根元に隙間ができ、もっと深くしっかり根を張ることができるようになるのです。
クリスチャンが嘲られ、笑われ、冷やかしの対象となるときも、同じことが起きます。迫害はクリスチャンを動揺させて、もっと祈らせ、もっと深く神を求めるようにさせ、嵐にも耐えうる信仰を持つようにさせます。
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そのように、人が流れのほとりに植えられていて、9つの泉の流れから生きる糧を受けているなら、なんとその人は確かな場所を生きる環境としていることでしょう。その人は水の流れのほとりに植えられていて、水は単数形、流れは複数形なのです。同じ霊から与えられる癒しの賜物や預言の賜物などを受けているのです。あらゆる賜物を、ひとりの与え主から受けているのです。
ダビデはその人を見ました。その人はこの木のそばに植えられていたので、死ぬことがありません。なぜでしょう? その人がその木の根から命を受けていたからです。木の命はどこにありますか? それは根に宿っています。そうです。根から上がってきて、実をつけるのです。時が来れば実を結ぶために、木の根に命を宿しているのです。
83
覚えておいてください。この木は、実を落とすことがありません。木を手に入れて、水から遠ざけておくなら、その木は萎びたりんごを成らせるかもしれませんが、それはボコボコして虫食いです。でも実を落とすことはできます。
こんにちの教会の問題はここです。水の流れから遠ざけられ、霊の賜物から遠ざけられた教会は自然のまま育ちます。霊的賜物や霊的なことから離れた教会は、実を落とします。どんな実を落としますか? この世的な信者です。世俗的な行いをし、盗みや騙しや嘘を働き、喫煙、飲酒、ギャンブルをしています。また、説教師に支払いをするためにトランプパーティやダンスパーティや食事会を催します。こんなことが、彼らが落とす実です。この世と変わりません。不信心者から、「この人たちとわたしたちと、どこが違うのか?」と、疑問をもたれても仕方ありません。
84
ロシアで共産主義が起こったのと、メキシコでカトリック教会が燃やされたのはこのためです。わたしはメキシコで、石灰の穴を見ました。それらの穴で、修道女の生んだ赤ちゃんが焼かれたのです。その石灰の穴には人骨が、成長した人間の骨が残っていました。彼らは何をしたのですか? 自分たちの収穫の実を落としたのです。そして神が、彼らを木から振り落としました。そういうことです。
85
しかし水の流れのほとりに植えられた人は、(突き刺さっているのではなく、植えられたのです。)時が来れば実を結びます。その人のときが巡ってきたなら、その人の実をつけるのです。
詩篇1です。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。」
86
8このような人は、時が来ると実を結ぶとありますが、人称代名詞に着目してください。彼の実とは、神の実のことです。そしてときが巡り来ればとは、預言者が現れるときのことです。だから、神の実が、神のときに、預言者の出現によって、実るということです。「このような人は、時が来ると実を結ぶ。」
そこに二つの『彼の』という人称代名詞が使われていないか確かめてください。彼の、神の実を、ときが来て使者が出現するときに、実らせるのです。神の実をもたらす使者は、神のときが来たら、それをもたらすのです。もたらす者のときが到来したら、神の実をもたらすのです。「その人は、彼のときが来れば、彼の実を結びます。」
それはしおれることがありません。なぜなら、前もって定められている実をもたらすものだからです。それは前もって定めらたものなので、滅ぼされません。
87
エペソの1:5に、こうあります、「キリスト・イエスにあって、天の場所でともに座ることになる。」何が起こったのですか? 「神は、イエス・キリストによって、神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」神は、ご自身の前知識により、あらゆるものが軌道に乗って起こる前に定めておられました。その前知識により、神は前もって見ておられたのです。だから、初めから終わりまでのすべてを知っておられます。それはこの木の根に宿った、前もって定められた実なのです。そしてこの木は、あらかじめ定められた実を宿しているために、枯れることがありません。
88
これが、ヨエルが語っていた木のことです。虫に食われても枯れません。その木は根に、前もって定められていた真理を、つまり神のことばを宿していたからです。そしてこの木は、エデンの園に植えられていた木です。すべての樹木は、女によって、枯れました。わたしたちはみな、女によって、死にます。誕生すると、死が待ち受けています。女によって死が入り込み、その女によって生まれたからです。
罪のために、みな死ななければなりません。しかしキリストによって新しく誕生すると、死ぬことがありません。これが、もうひとつの木です。この木は、エデンの園から始まって、ずっと迫害を受け、嘲りを受けて来ましたが、枯れません。前もって定められているからです。打たれても、殴られても、なんとまあ、いろいろな仕打ちにあって来ましたが、枯れません。彼は死にません。なぜなら彼の内に、前から定められていた神のことばを宿しているからです。何が起ころうともそれは、定められていた彼のときが来たら、神の実を実らせることになっています。
89
ヨエルは、すべての木が上から下まで虫に食い荒らされるのを見ましたが、こう言いました、「主が言われる。わたしは回復する。」なぜなら、神の定めが、その木の根に宿っていたからです。それは前から定められていた神のことばを宿しているので、実を結ぶことが決まっているからです。
なんという木でしょう。この木はエデンの園で成長し始めました。それからどうなりましたか? カインの子孫である虫たちが寄ってたかって茎を食べました。それで神は、その木の収穫を箱舟に乗せ、救出されました。そうです。
90
裁きの軌道を辿ると、イスラエルに至るまで、ずっと同じことが繰り返されています。それから聖霊降臨のとき、教会が花嫁の木として植えられました。神が聖霊降臨のときに植えられた木は、ときが来れば神の実をつけるよう、前から定められていました。
さて、その実は素晴らしいものになります。その木は聖霊降臨のときに花を咲かせました。聖霊降臨のときに何が起きたか、みてみましょう。イエスはこう言われました、「わたしがする業を、あなたもするようになる。」それで、彼らは病気を癒しました。その日・・・
91
ご復活の数日後、というか50日後の五旬祭の日、天から激しい風が突然吹いて来ました。現代ではそれを別の形式で行なっています。今では、聖職者が、「あなたの名前をこの書に記録しました。」と言ったり、司祭が、「ここに来てこ種なしのパンを食べなさい。」と言えば、教会のメンバーになれます。おかしいと思いませんか? 聖職者が、「わたしたちのところに来て、メンバーに加わりなさい。」と言うのですよ。
どちらも間違っています。聖霊降臨の日に天から降ったのは、(説教壇から離れて道路に降ったのではなく)天から降ったのは、何でしたか? 司祭? 違います。聖職者? 違います。それは突然激しい風が吹いてくるような音がして、彼らが座っていた家中に響き渡ったのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまりました。すると彼らは、どもってまともに話せなくなりました。彼らは余すところなく栄光を受け、聖霊が彼らを満たしたのです。わけのわからないことを口走りながら、彼らは通りに出て行きました。その様子はまるで・・・。威厳のある会衆が出て来て、言いました、「この人たちは新しいぶどう酒で酔っているのだ。みんな酔っ払っている。ごらん、男も女もみんな千鳥足でよたよた歩き続けている。」
92
さて、これは「聖霊が言われたこと」です。聖書に記されているからです。このようにして教会は組織され・・・いいえ、組織されたのではなく、制定されました。この二つの言葉は大きな違いです。
そのようにして彼らは・・・。カトリックの人たちに言います、祝福された処女マリアがその集団の一人だったことを知っていましたか? そうだったのです。聖霊を受けた後でなければ、神がマリアを天に迎えなかったのなら、あなたたちはどうやって天に上るというのですか? 何か足りなくないですか? ちょっと考えてみてください。そうです。マリアはその集団の中にいました。マリアは、威厳や尊厳を捨てて聖霊に満たされるまで、その場所で待っていなければならなかったのです。
93
彼らは酔っ払いのようになっていました。聖書にそう書いてあります。「彼らは新しいぶどう酒で酔っているのだ。」
しかし、彼らを代表してペトロが立ち上がり言いました、「今は朝の9時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、これは預言者ヨエルが予言していたことに他ならないのである。(今日、わたしが取り上げている預言者です。)すなわち、『神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』」
ペテロは聖霊降臨の日に、わたしが今日取り上げている預言者の預言を引用して、説教し、この木を植えました。その場所にその木は植えられたのです。上出来でした。彼らは霊の賜物を受けて出て行って、病人を癒し、キリストを宣べ伝えました。そして牢屋に入れられましたが、みことばのためなら、喜んで苦しみを受けました。
94
もし優柔不断な態度で外国に行くなら、あなたは良いアメリカ人を代表していません。例えば日本に行くとします。そこでこそこそ隠れながら、「聞きなさい、わたしはあなたたちの味方です。わたしは敵側に属していますが、実はあなたたちの味方なのです。」なんて言うなら、あなたは裏切り者です。そういう裏切り者は、射殺されて当然です。
神のことばを知っていながら、所属教団の命令に背けなくて、みことばに妥協するなら、同じことが言えます。そんな人は裏切り者です。そうです。しかし、この人たちは裏切り者ではありませんでした。この人たちは、教会がなんと言おうと、構わず叫んだり、泣いたり、わけのわからない言語を口走ったりしていました。それは自分で理解できない言葉を誰かに話しかけているようでした。それで、そこにいた外国から来ていた人たちに、彼らの話している言葉が理解できました。話している本人は何を言っているのかわからず口走っていたのですが、聞く人にはそれが理解できたのです。彼らは言いました、「この人たちは確かに酔っ払っている。」
しかしペテロは言いました、「この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。聖霊に満たされたのです。」
それからみな、殉教しました。例外はヨハネで、24時間煮えたぎる油の中に入れられたにも関わらず、誰も彼の内に宿る霊を焼き殺すことはできませんでした。黙示録を書いたヨハネは唯一、長寿を全うしました。
95
さて、その通りです。何が起こったのでしょう? 神はこの時に、神の霊の9つの賜物を実らせる木を植えられたのです。キリストの内に宿っていた永遠のいのちの霊が、教会に注がれました。今や霊の賜物が教会で成長し、あちこちで実を結びました。彼らは自分たちの利益のために働かず、組織も作らず、お互いを兄弟として愛しながらやっていました。わたしは、彼らが小さいことを大切にしていたことを嬉しく思います。彼らは、教団の教えではなくキリストを教え、規則ではなく愛を大切にし、教本ではなく聖書を基本にしました。それはわたしが信じることと同じです。彼らはそうしていたのです。世界がわたしたちの教区です。
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彼らがそうやって福音を宣べ伝えていた頃、教会はどれほど栄光に満ちていたことでしょう。神が共におられたのですから。イエスは天に上げられる前にこう言われました、
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわちわたしの名によって・・・」
信じる者に伴うしるしは、今ではどのようなものになっているでしょう。牧師と握手すること、教会に属すること、母親か父親が教会員なので自動的に教会の記録に名前が記載されていること。
97
でも、イエスが言われたしるしは、そういうものではありませんでした。そういうしるしは自然の教会のもので、わたしが語っているのは霊の教会です。自然の木のことではなく、霊の木のことを語っているのです。(あとで、この二つの木について話します。)霊の木です。イエスが言われたのは、「この木に繋がっている者には、次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。」
これが、信じる者に伴うしるしです。このしるしは、今ではどこに行ってしまったのでしょう? イエスは、世界に向かって、信じる者にはどんなしるしが伴うか例を掲げてくださいました。イエスは、こうも言われました、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。彼らの天使は、常に、天におられる父の御顔を仰いでいるからだ。」天使です。
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さて、気が付いてください。そしてその木は植えられ、目覚ましい霊の働きがありました。彼らが、あらゆるところに出かけて行ったことがわかります。聖霊が降りた五旬祭の日に、3千人が信じ、洗礼を受け、仲間に加わったのですから。そして信者仲間の付き合いはどれほど素晴らしかったことでしょう。誰も貧しい人がなく、誰もが寛容で親切で、お互いを思いやり、一つの大きな家族を形成していました。素晴らしい。
そこへ、鋭い歯を持った醜い小虫が現れました。ヨエルが見たこの虫は、4段階に分れて登場しました。4段階で姿を変えて現れた虫は、美しい神の木を食い尽くしました。想像して見てください。ヨエルの1章で、彼が何と行ったかみてみましょう。
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さて、その虫は4つの別の虫として書かれていますが、実際には同じ虫なのです。この同じ虫が、4段階に分かれて登場しました。どのようにこの虫が、大きくて美しい神の木に寄り付いたか、みてみましょう。(ここで言う木とは、教会のことです。)
最初のは、かみ食らういなごで、小さな虫でした。かみ食らういなごが、何をしましたか? その木に実っている果実を喰らい尽くしました。教会の歴史を遡って、最初にどんなことが起きたかをみてみましょう。社会的に地位の高い人たちのグループが現れて、一般の信者に向かってこう言いました、「あなたたちが、病気を癒したり、これらのことができるというのは、素晴らしいことです。ですから、こうしたらどうでしょう。このような素晴らしいことは、町の有力者にも広めるべきです。例えば、町長とか、裁判官といった、もっと地位の高い人たちにです。でもあなたたちが今やっているような方法では、彼らは怖がって近づいてきません。」
「彼らは今でも怖がっています。」と、誰かが言いました。多分それは正しい意見でしょう。そうです。有力者たちは聖霊を恐れています。(失礼)
100
わたしはこんな歌を歌っていました。「オールド・タイム・レリジョン」って聞いたことありますか? こんな感じの歌です。
昔からの聖霊には
悪霊は近づけない
だから人も寄り付かない
でもわたしには最高のもの
ほかには何もいらないくらい
兄弟を愛することができる
密かなことが明るみに出る
だからわたしも最高なのです
(その通り)
嘘がつけなくなる
死に際して救いが来る
悪魔が吹き飛ぶ
だからわたしにも最高なのです
そうです。それだから聖霊を避ける人たちがいるのです。
101
さて、さて、それは神です。人々はイエスを拒絶して言いました、「この男が?」尊厳を持った大きな教会が言いました、「あなたは我々に教えようというのですか? 逆に教えてあげましょう。我々はDrやPhDやLLやQUSという肩書きを持っています。」「わたしは最高司祭です。」「わたしはこれこれやそれそれです。それなのにあなたはわたしに教えようというのですか? 罪から生まれた者のくせに。あなたは不義の子ではありませんか。あなたの母親は、結婚する前にあなたを身ごもったのだから。」
イエスは言いました、「誰が、わたしに罪があると責めることができますか。誰がわたしを非難できるでしょう。」
そうです。罪とは、神のことばを信じないことです。言い換えれば、イエスはこう言われたのです、「わたしがしている業で、神のことばと一致しないことが、ほんの少しでもありましたか? みことばの成就と違うことが、何か少しでもありましたか? 聖書を調べて指摘してみなさい。もしわたしが、父の業をしているのでないなら、わたしを信じなくてもいい。」「あなたたちは、それぞれ偉い者だと言っているが、その業を見せてもらおう。」
それ以降、人々はイエスに何も尋ねなくなりました。彼から離れて行ったのです。悪魔がイエスに飛びかかったのと同じ状態です。悪魔は闇雲にイエスに飛びかかりましたが、100万ボルトの衝撃を受けて、すぐさま飛び退きました。イエスは、悪魔の手に負える相手ではなかったのです。これは本当のことです。
102
かみ食らういなごが、その木になっていた果実を食い尽くしました。(その実に関することを2ページにわたって書きましたが、そのうちの一部分だけ読みます。)まず、初生りの実で虫が食べたのは、兄弟愛です。そうです。兄弟愛が無くなって、教会が力を失っていきました。
それから虫が食いついた実は、・・・。愛が最初にその木に成りました。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が聖霊の実です。9つの霊の賜物と9つの実です。
103
初めの虫は、木の果実を食い尽くしました。さて、大きな神の木を想像してみてください。その木は、9つの霊の賜物を実らせています。彼らは病気を癒し、異言を語り、悪霊を追い出し、目覚しい働きをし、神のことばをありのまま宣べ伝えました。組織を作って束縛しあうような行為はせず、彼らは自由の身で、著しい働きをしました。そこに老練で小賢しい悪魔が、バッタのように2本の角を掲げ、鋭い歯をもってやってきました。これが最初の虫で、兄弟愛を食い尽くしました。「知っているでしょう。誰々さんはこれこれのことをあそこの教会でしたんですよ。わたしには、あの連中のしていることが信じられませんね。」などとつぶやいて、兄弟愛を消していきました。
104
次に虫が食べたのは、信仰の実です。みことばを信じる信仰です。「どうやって、それが本来のみことばの意味かわかるのですか? この言葉は何度も訳されているのですから。」その小賢しい悪魔は、今でも食い荒らしています。そうです。「みことばは、それぞれの言語に訳されて修正されているのですから、本来の意味はどうだったのか定かではありません。」
さて、次に虫が食べた実は、救いの喜びです。「しぃっ、静かに。あなたたちは騒ぎすぎです。」あらまあ、
105
「ああ、ブラナム兄弟、どうしてあなたはそんな説教ができるのですか?」と、ある女性が言いました・・・いえ、あれは女性ではなく男性でした。(その男性が今日ここにいればいいのですが、彼は別の教会に属しています。)その人がこう言いました、「先日、あなたの説教を聞きに行ったのですが、周りの人たちが泣いたりして騒がしくて、あなたの声を聞き取るのに苦労しました。」「どうしてそんな環境で説教ができるのですか?」
わたしは言いました、「彼らがそうやって喜びを表現してくれなかったら、わたしは説教しませんよ。」
106
幼なじみにジム・プールがいました。彼とわたしは、フリッツという名の犬を飼っていました。フリッツはなんでも追いかけ回すのですが、スカンクは苦手でした。フリッツは、その臭いを嗅いでから、スカンクを恐れていました。そこで、山と積んだ藪の中にスカンクを隠しておいて、フリッツを呼び寄せ、ちょっと撫ででから「とびかかれ!」と言ってけしかけたら、彼はスカンクを捕まえたのです。彼を撫でてから「とびかかれ!」とけしかけたからです。
そういうわけで・・・。わたしが知っている中で、一番悪臭を放つのは悪魔です。ですから、わたしがみことばを語っていて、誰かが「アーメン」と言うと、それは「とびかかれ!」という合図となり、わたしたちは悪魔を窮地に追いやることができます。
107
これで、虫が喜びを食い荒らしたことがわかりました。ダビデも、救いの喜びを失ったことがあります。彼は救いを失ったのではなかったのでしたが、その喜びを失いました。それで叫びました、「主よ、どうかわたしに救いの喜びを戻してください。」喜びです。
かみ食らういなごは、喜びの実を食い荒らし始めました。「ねえ、ちょっと、あなたたちはうるさすぎますよ。わたしが何か言うと泣いたり、『アーメン』と言ったりして。こうやって叫ぶことは馬鹿げていますよ。やめなさい。」
すると、あなたは死体安置所に座っていることに気づくのです。周りはみんな死体です。教義の教えという防腐処理の点滴が、死体の静脈に射ちこまれています。本来なら、神の霊が流れているはずの場所に、錆びついた教会の教えが点滴されているのです。氷のように冷たくなって、死に体となっているのも無理はありません。霊的温度はマイナス90度です。もし誰かが「アーメン」と言おうものなら、みんなが鶴のように首を伸ばし、誰がなんと言ったのか確かめようとします。こういう状態は恥ずべきことです。神の霊は、喜びと平安と愛をもたらすはずなのです。それなのにこの虫が食い荒らし始め、すべての喜びを食い尽くしてしまいました。
108
次に犠牲となる実は、平安です。救われたことを実感した心の平安です。彼らはあなたにこう言います、「さて、わたしのあとに続いてこの信条を言うなら、あなたは救われます。」
「わたしたちの教会に属するなら、あなたは救われます。」
「その人のところに行くなら、あなたは救われません。救われるためにはわたしたちの教会に属さなければなりません。」
「めでたし聖寵満ち満てるマリアと言わなければなりません。」
「この書に名前を記録しなければなりません。」
「・・・しなければなりません。」
なんということでしょう。これでは喜びも何もありません。でもこれは神の木ではありません。どこにいるかわかりますか? 雑種の木です。わたしがする騾馬の話を知っていますよね。騾馬は雑種です。雑種なので、父親も母親も知りません。でも、血統書付きの馬は、何代にも遡って父親も母親もわかります。聖霊のバプテスマを受けた血統書付きのクリスチャンもそうです。彼らは聖霊降臨の日に誕生したことを知っています。彼らは、始まりのときまで、系図を遡ることができます。ペトロは血統書を持っています。国も人種もずっと遡って、彼らは血統を維持しています。良い血統のクリスチャンは、自分がどこから来たのか知っています。
109
「えへん、わたしはルーテル派です。」
「わたしは長老派です。」
ああ、あなたたちは雑種です。そうではないですか?
「そういうあなたは誰ですか?」
「わたしは生まれ変わった者です。」
「何に生まれ変わったのですか?」
「神の霊です。」だから雑種ではないのです。正しい生まれです。教会の信条ではなく、神の霊によって生まれ変わったので、神があなたの内に生きておられます。
110
かみ食らういなごによって、心の平安が食い尽くされてしまいました。それから次から次へと食いつき、すべての種類の実を食べ尽くしてしまいました。
それからこの虫が死に、今度は群がるいなごとなって現れました。これが第2段階で、群がるいなごの登場です。群がるいなごは何をしましたか? 群がるいなごは葉を食べました。そうです、群がるいなごは葉の破壊に取りかかったのです。
かみ食らういなごが残したものを、(この虫は果実を食べ尽くしましたが、葉は残しました。)群がるいなごが来て食べました。
さて、群がるいなごは何をしましたか? 葉を枯らしました。何のために葉を枯らしたのですか? 信じる者たちのつながりを断つためです。そうです。
「彼は長老派だから、わたしたちとは関わりがありません。彼はナザレ派だし、彼はペンテコステ派だし、彼はあの派で、彼はこの派だから、関係ありません。彼はわたしたちのグループに属する者ではないのですから。」
「病気を癒す集会をするですって? ふん、うちの教会はそういう類いのことは信じません。」
111
その老いぼれた群がるいなごは何をしましたか? 信者どうしの交流をすべて断ち切りました。交流って何ですか? 木の葉は何のためにあるのですか? 一息ついて涼むためです。小鳥が飛んで来て枝に止まると、葉のそよぎで、ふうっと一息ついて涼みます。(あなたの木がまた登場しましたよ。『その人は、水の流れのほとりに植えられた木のようだ。』そうです。)木陰に人は集まり、聖霊と交流して、一息ついて涼みます。みんな不満を抱え、何が起きているのかわからず、自分が死ぬのかわからず、本当に救われているのかもわからず、どこの教会に行くのが正しい道かわからずにいます。そんな時、葉の茂った木陰に座わるだけでいいのです。天から激しい風が吹いてくるような響きが起こるにまかせ、風が葉を揺らすと、安らかな気持ちになれるのです。
「あの礼拝中にうるさく騒ぐ連中のところに行って、意見を言わなければ、気が済まない!」
まあまあ、木陰にちょっと座って。そうすれば落ち着きますよ。でも、あなたのところの木ではそれはできません。なぜなら、群がるいなごに葉を食べられてしまったからです。あなたのところの木の下に座るのは、炎天下に座るのと変わらないので、一息ついて涼むことができません。
112
わたしたちは、どうするべきか知っていますね。聖書で言っています。前もって定められていた教会、つまり神の子らは、天の住処に座るのです。そこは、涼しくて、快適で、くつろぐことができます。アーメン!
男性がタキシードを着て、女性がこんな風に着飾ってているところで、誰かが周りを見てこう言ったとします、「おい見ろよ、あの女性はパーマをかけたことがないな。みすぼらしいじゃないか。イースタードレスも(そんなものがあるとすれば、)着ていないよ。(そうです。イースターに、後ろの方の席で眉をひそめて、ヒソヒソと・・・)イースタードレスも着ていないなんて。おや、あの男性を見ろよ、去年と同じスーツを着ているよ。何考えているんだかわからない。」そんなところでは、場違いな感じがします。
113
先日、かわいそうな女性と話をしました。彼女は町の立派な教会に属していました。(ここの教会の理事のロイ・ロバートソン兄弟から連絡を受けて、末期癌の彼女のところに祈りに行きました。)彼女に尋ねました、「あなたはクリスチャンですか?」
彼女はこう答えました、「どう言っていいかわかりません。わたしは、ある教会に行っていました。」そして泣き出しました。
「どうしたのですか?」と聞くと、
彼女はこう答えました、「わたしがちゃんとした服装をしていなかったので、みんなから軽蔑されたのです。」
114
なんとも居心地の悪い場所ですね。でも聖書は、わたしたちが天の住処にともに集うと言っています。それがどんな状態であるか、教えましょうか。オーバーオールを着た人とタキシードを着た人が肩を組んで、お互いを兄弟と呼び合うのです。そして古い更紗のドレスを着た女性が、シルクサテンのドレスを着た女性に手を回し、「今朝の調子はいかが、姉妹。神は素晴らしい!」と言うのです。そうです。そこには喜び、平安、愛、みことばの信仰、辛抱、寛容、忍耐があります。イエス・キリストにあって天の住処に座り、しばし一息ついて涼むのです。その役割をするのが葉です。
それなのに、老いぼれた群がるいなごは何をしましたか? やって来て葉を食い尽くしてしまったのです。「あなたはわたしたちのところに属しなさい。さもないとどこにも属せませんよ。」そうやって、霊の清涼感を取り上げてしまったのです。彼は自分を信条にしました。
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さて、いくらでも老いぼれた群がるいなごについて話すことができますが、次に行かなければなりません。第3の段階では、とびいなごとして現れました。実に嫌な虫です。とびいなご。このとびいなごが何をしましたか? これは木の生命線である樹皮の中に入り込んで、木を覆っている樹皮を滅ぼしたのです。木の覆いをです。宗教とは何ですか? 覆うことです。宗教という言葉の意味は、覆うことです。
かみ食らういなごが、会衆の中に入り込んで皆に威厳を持たせ、そのあと群がるいなごが、信者同士のつながりを断ち切った後に、このとびいなごが現れて、彼らの宗教を剥ぎ取り、教義を植えつけました。そうです。異端の言葉を植えつけて自分自身を覆いとし、人々を集めて信条を教え込みました。この虫は、樹液を行き渡らせるのに必要な樹皮を、神の木から剥ぎ取って、その大切な宗教を奪ったのです。とびいなご!この虫を知っていますか?
116
とびいなご、それはローマでした。初期の教会は、聖霊を受けた人たちによって成り立っていました。ペンテコステの組織ではありません。何であれ、組織化したものは命を失います。あとで聖書からそのことを裏付けます。聖霊を受けることが必要です。誰に対して言っているのですか? カトリックの人々です。それから? メソジスト、バプテスト、長老派、そのほか、それを求める人たちです。求めなければいけません。
属するのではいけないのです。私はもう53年間もブラナムの一族ですが、一度も家族に属したことはありません。なぜなら、生まれつきブラナムだからです。私はブラナムとして生まれました。クリスチャンも同じです。どこかの教会に属したからクリスチャンなのではありません。それならただ組織の一員です。わたしたちがクリスチャンなのは、聖霊によって生まれ変わったからです。
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さて、このとびいなごは、樹皮の中に入り込んで自分を植えつけ始めました。何をしたのですか? 彼は木の覆いである宗教を、その教義を剥ぎ取りました。宗教には教義があります。何でも覆う覆いです。わたしたちの宗教が、血による覆いであるのがその理由です。いのちは、みことばを覆う血の中にあります。いのちは血の中にあり、血は宗教です。血の中にあるいのちが、結果を出します。わかりますか?
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イチジクの葉で覆うのでは役に立ちません。アダムとイヴがそれを試しましたが駄目でした。カインも同じことをしたのを知っていますか? カインは植物をいけにえとして捧げましたが、受け入れられませんでした。アダムとイヴに無効だったのなら、今日も無効のはずです。最初に神が拒絶されたものは、永遠に神から拒絶されます。人が作った教義や概念は決して神に受け入れられません。神のみことばだけが受け入れられるのです。みことばは血によっていのちとなっています。それは、キリストの犠牲の血です。そうです。
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(今朝、兄弟から聞いたのですが、)棘を引っ張って・・・。ご存知のように、この国には、それぞれの組織が本物の十字架の釘だと主張して所有している釘が19個あります。もし本物だとしてもそれがどうしたというのですか。そんなもの、わたしはいりません。神は、何も遺物や形見として残されません。神は聖霊を送られました。神が残されるものは、生きていて、決して滅びないものです。釘に何のいいことがありますか? キリストがかけられた十字架の現物に、何のいいことがありますか? いいことなどありません。釘を知るのではなく、十字架を知るのではなく、生きておられるキリストを知ることです。
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さて、人々は釘を保有したり、遺物を保有したり、記念の場所を保有したりしたがります。今日ではエルサレムの町を行ったり来たりして、あちこちの場所を訪ね、遺物や何やらを大切にしています。でも、そんなことはくだらないです。そんなものは排斥され、腐り、捨てられたものです。
121
ローマの教会に行ったことがあります。そこでは、亡くなった司祭を庭に埋めて、肉が剥げ落ちたら、骨を取り出し、それを照明器具にし、その周りを頭蓋骨で飾って置いてあります。その教会を訪れる人たちが頭蓋骨を撫でて祝福を願うので、頭蓋骨は擦れて白茶けてしまいます。聖ペトロ寺院に行くなら、そこにはペテロの足とされるものが置いてあり、人々がキスするので、9度も10度も、別の足に付け替えなければなりません。
何と馬鹿げていることでしょう!ただの迷信です。人が作った教義の教えです。神は、神のいのちである聖霊を、像の中ではなく、わたしたちの内に送られました。神が宿りたいと願っておられるのは、像ではなく、あなたです。『聖像』なんて言われていますが、聖像なんてものはあり得ません。あなたが、神の宿る聖なる姿です。聖書がそう言っています。そうです。「あなたは、わたしのために体を用意してくださった・・・」
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さて、この小さなとびいなごが破壊活動を始めました。何を破壊しましたか? とびいなごは樹皮の中に入っていき、樹皮を破壊し始めました。それはどういうことですか? 霊的な教会を自然の教会にしてしまったのです。そうです。真理を取り去って、嘘を植えつけたのです。
かみ食らういなごが木の果実を食べ、移動するいなごが葉を食べました。そして今度は樹皮、覆うもの、宗教、教義です。それをとびいなごが食べ尽くしました。
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聖書を別として、最初に教義が作られたのは、どこでしたか? 歴史家の人なら、どこから教義が生まれたか知っているはずです。ローマです。ローマから、聖書を逸脱した教義が始まったのです。ローマの人々はドグマを受け入れました。エイレナイオスや聖マルチンやポリカルプらは、ヨハネの死後・・・神のことばを伝えたために、ヨハネはパトモス島に流されました。彼は煮えたぎる油の中に24時間入れられていましたが、そこから連れ戻され、そのあと聖書を書きました。神が彼に聖書を書かせることを決めておられたからです。それが神のことばです。神のことばから、一言でも削ったり、付け加えたりすることはできないのです。書いてあるがままに受け入れるべきです。それがみことばです。
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気が付いてくださいね、神の人たちが、戻ってきてみことばを掲げようとしましたが、ローマが介入したので、人々はみことばの代わりにドグマを受け入れました。さあ、ローマが何をしたか、偽物の教義をいくつか取り上げてみましょう。
まずは、水の洗礼についてです!ペテロは、ペンテコステの日に、神のことばである聖霊からインスピレーションを受けてこう言いました、「悔い改めなさい。皆が主イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許していただきなさい。」
それに対してローマは何をしましたか? 変節して、「父と子と聖霊の名によって、洗礼を受けなさい。」と、聖書の教えを変えて、それを信条にしてしまいました。それが、若いいなごが食べたものです。水の中に漬ける代わりに水をかけるだけにし、名前を父と・・・
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父と子と聖霊は名前ではありません。そんな名前は存在しません。父は名前ではなく、子は名前ではなく、聖霊も名前ではありません。ペテロが、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」と言ったのは、主イエス・キリストのことを指していたのです。そしてその通り、主イエス・キリストの名で、ペテロや他の使徒たちは洗礼を授けました。みなさんに挑戦します。聖書のどこかに、あるいは歴史的記録の中に、ローマ・カトリック教会以前で、誰か一人でもイエス・キリストの名前以外を使って洗礼を授けていた記録があったら、教えてください。
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さて、是非そうしてください。わたしが今話していることは、テープになって世界中に行き渡ります。何百人もの司教や聖職者たちと集会を開いたことがあります。そこでこう言いました、「立ちなさい!」「聖書を持ってここに来るか、そうでないなら、ずっと黙っていなさい。」すると彼らは黙っていました。面と向かっている間は。そのあとで、いろいろと囁きあい始めました。彼らは立ち上がって面と向かう大胆さは持ち合わせていませんでした。立って面と向かって話すことを無作法だと思っているからそうしたのではありません。そうすることを恐れたのです。自分たちの間違いに気づいていましたから。とびいなごが食べ始めて、食べつくしてしまったのが、そのことです。
「そんなことは、本質的な問題ではない。どんなやり方で洗礼を受けてもいいじゃないか。」
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そうでしょうか? 使徒19章に、パウロがエペソの海岸の上の方を通っていたとき、何人かの弟子に会ったと書いてあります。(彼らは信者です。)洗礼者ヨハネの弟子であった、洗礼宣教師アポロが、彼らにみことばを教えていました。彼らは喜びのときを過ごしていました。そこにパウロが通りかかり、言いました、「信仰に入ったあと、聖霊を受けましたか?」
彼らは、「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません。」と答えました。
「それなら、どんな洗礼を受けたのですか?」言い換えれば、「どのようにして洗礼を受けたのですか?」
「わたしたちは、洗礼を受けたのです。」
「どのようにして?」
「ヨハネの洗礼です。その人は、イエスに洗礼を授けたのです。だから由緒正しいのではないですか?」
パウロは、「いえいえ、今は違います。「あなたがたは、洗礼を受け直さなければなりません。」と言い、主イエス・キリストの名によって彼らに洗礼を授け、彼らの上に手を置いたところ、聖霊が彼らに臨みました。パウロはこうも言っています、「もし天からの天使がこれと違うことを宣べ伝えるなら、その天使は呪われるがいい。」天使にしてそうなのですから、ましてや宣教師やとびいなごは尚更のことです。
だから、とびいなごが食べたのが何だったか、わかりましたね。イエス・キリストの名によって授ける水の洗礼を食い尽くしてしまったのです。
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とびいなごが次にしたことは、聖霊のバプテスマを取り去ることでした。聖霊を受けると、みことばに光を当てることになるので、彼は聖霊を別のものと取り替えたのです。
どれだけ多くのルーテル派、プロテスタント信者、カトリック信者が、今朝、堅信を受けて聖体拝領をしたことでしょう。彼らはそれを『ご聖体』と呼びますが、そのラテン語の意味は、『聖霊』です。
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カトリック教徒が、教会の前を通るとき、こんなふうに十字を切るのを見たことがありますか?(編注:十字をきる真似をする)それは、その教会に神がいるからです。神とは? 薄い小さなパンです。(丸い形をしていて彼らが礼拝する太陽の神にかたどって作られています。)そのパンは、祭壇に置かれていて、夜はネズミやゴキブリが這いずり回るに任せています。はっきり言います。そんなものは、私の神ではありません。
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初聖餐式、教会への堅信などは、ナンセンスです!でも、それがとびいなごの仕業によって、人々が行なっていることです。神の霊を排除して、司祭や修道女らが作った丸いパンをその代わりにしているのです。歴史をたどって前に戻り、それが正しいことか調べなさい。そんなことを無理にも飲み込もうとしているのですか? カトリックだけでなく、プロテスタントの多くの人たちも同じことをしています。そうです。
プロテスタントといえば、聖霊を受ける代わりに、何をしていますか? 教会に登録させて、握手をしています。聖霊が降臨したペンテコステの日に、通りに出て行って握手する人はいませんでした。天から突然力強い風が吹く音がして、彼らがいた家中に聖霊が満ちたというのが真相です。聖霊は木の葉に降り、樹皮に降り注いたのです。
131
新しく生まれ変わる代わりに、(イエスは『人は生まれ変わらなければならない』と言われました。)教会に属するシステムを用いて、さあ、教会に来て繋がりなさいと言っています。みことばの代わりに、若いいなごは信条を教えました。若いいなごがしでかしたことがわかりませんか? 教会から霊的なことを排除して自然体を植えつけたのです。
わたしたちはカトリックの延長線上にいますが、プロテスタントからも痛手を受けていることを知っていますか? 今日のプロテスタント教会に、聖霊の働きが見られますか? プロテスタント教徒に、聖霊を受けた反応がありますか? ルーテル教会の信者の中に? もしあるなら、わたしはルーテル教会に行って、食事を共にし、素晴らしい時を過ごしたいです。長老派の中に? 聖霊の働きはどこに見られるのでしょう。教会は自然体を受け入れてしまったのです。
ご存知のように、わたしは去っていきますが、このことを決して忘れないようにしてください。自然体を受け入れてはいけません。それは死を招きます。自然体のひとは死にます。なんであれ自然体のものは滅びることに決まっています。ひとを生かすのは霊です。霊はいのちを与え、生き返らせます。それが霊の働きです。
132
彼らが何をしたか見てみると、イエス・キリストの父と子と聖霊による水の洗礼をすること、名前でなったくなく、称号に変えました。
「別に大した違いではないではないか。」
そう言うなら、こんな場合はどうでしょう。ある人が土曜日の支払いの日に、あなたに小切手を渡すとします。彼は自分の名前の代わりに、『上司より』と書いたとします。『今週の賃金150ドルを山田太郎氏に支払う。上司より』と書いてある小切手を持って銀行に行ったらどうなると思いますか? 当然返されてしまいます。
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もし御名を称号に変えることが大した違いではないと言うのなら、どうしてパウロは、神を讃えて喜んでいるクリスチャンに、このようなことを言ったのですか?「あなたたちはイエス・キリストの名によって聖霊を受け直さなければなりません。」
みことばが語られたら、それを守りましょう。言葉を置き換えたりしてはいけません。神が言われたとおりに語るのです。わたしたちは、みことばによって裁かれるのですから。
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さて、よく見てください!彼らがしたことは、新しく生まれ変わる代わりに、教会員になることを要求し、みことばの代わりに信条を教えたことです。聖書のどこに、「めでたし聖寵満ち満てるマリア」と書いてありますか? プロテスタント教徒が引用している使徒信条が、聖書のどこに書いてありますか? 使徒信条とは何か、聖書が説明していますか? 聖徒の交わりは、聖書に反した行いです。父と子と聖霊の洗礼が、聖書のどこに書いてありますか? 書いてないのに、彼らはその行為を続けています。
それに彼らは、兄弟同士のつながりや交流の代わりに、階級制度を取り入れ、教皇を頂点におき、司教が平信徒に、何をすべきで何をすべきでないかを指示する体制にしました。ペンテコステでも、教区の牧師が、誰を受け入れるべきか指示しています。しかし教会は、キリストに伺いをたてます。
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彼らは教義や、人手によるものに置き換え・・・。とびいなごがしたことは? 木から樹皮を取り去り、代わりにこう言いました、「わたしは、木からそれを取り去るが、代わりにこれを与えよう。また、それを取り去って、代わりにこれを与えよう。」
「でも、ブラナム兄弟・・・」
プロテスタントの教会はどこから来ましたか? カトリックからです。黙示録17章に書いてあります。この女は淫婦で、ふしだらな娘たちの母であると。だからプロテスタントもカトリックと変わりません。壺はやかんのことを黒いと笑うことができないのです。だから、カトリックを批判できません。
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兄弟愛。みなが兄弟同士であるべきなのに、彼らは兄弟愛を取り去って、差別を与えました。信者が平等ではなくなったのです。さあ、ここに注目してください。いいところです。ここが終わったら次に進みます。
137
何か悪いことをしてしまったら、聖霊によって魂を清める必要があると、聖書は指摘しています。ひざまずいて、聖霊に悪いところを探っていただき、自分がなくなるまで神の前にとどまると、魂は清められます。ところが彼らは、それを翻し、煉獄というものを創り出しました。人が死ぬと、司祭がお金をとって、その人を煉獄から救い出すための祈りを捧げるという制度です。
そんなものは馬鹿げています!煉獄から祈りで救い出す、それがとびいなごのした行いです。魂を煉獄から救い出すための祈りに何百ドルものお金が必要となるなんて。聖書に煉獄やらそれに匹敵するものが出てくるか調べてみてください。そんなものは聖書にありません!ところが彼らは、人が死ぬと煉獄に送り込むのです。彼らはこう言います、「聖ボニファスがこれこれのことを言いましたから。」聖ボニファスが何と言ったかなど、どうでもいいことです。
138
「でも、〇〇さんが、彼女に言わなかったかしら、彼女が夫のために祈ったと。あの偉大な聖〇〇が・・・」
彼女が何をしようと、どうでもいいことです。それは信頼できることばではなく、信頼すべき使徒のことばに反しています。神は使徒に、教会の秩序を委ねられました。教会は使徒の教えの上に建っているのであっって、聖ボニファスら聖人の教えの上に建っているのではありません。みことばに反しています。
わたしは、聖ボニファスや他の聖人や聖スージーや聖マリアが言ったことなどに、かまっていられません。馬鹿げています。もし彼らの言ったことが、みことばに反しているなら、虚偽に他なりません。わたしは権威のない言葉を信じないので、プロテスタントの信条も信じません。それは元をたどればカトリックのドグマです。自分たちもたくさん信じていながら、どうしてプロテスタントは、カトリックのドグマを笑うことができるでしょう。(この辺でやめておきましょう。このことはテープに収められ、世界中に行き渡りますから。)
139
プロテスタントは、人が作り出した信条を教会に取り入れていながら、どうしてカトリックを非難することができるでしょう。信条もドグマも聖書に反しています。なぜなら、プロテスタントも組織であり、大淫婦の娘だからです。淫婦とは? 夫に不貞をはたらく婦人のことです。キリストの教会と称していながら、神の聖なることばの代わりに、自分たちの間違った教義を教えています。
イブがしたことと同じです。悪魔に耳を貸したことにより、地上に死とあらゆる悲しみをもたらしました。彼女が、神のことばを信じずに、霊的不貞をはたらいたからです。それと同じことを今の教会はしているのです。神のことばに対する霊的不貞です。彼らは自分たちの教義に賛成しない人を、教会に入れません。
彼らがわたしによこした手紙によると、「このことをあなたが信じるなら、そしてそれが正しいとあなたが言うなら、あなたを・・・」
わたしは返事しました、「わたしはあなたたちのところに行きません。」とんでもないことです。わたしは聖書に書いてあるとおりに説教し、それ以外は言いません。
140
みことばにとどまりなさい。兄弟よ、それがわたしたちがすべきことです。終わりの日が近づいていることを知っています。終わりの時刻が迫っています。
彼らはこう言い、ああも言いますが、権威のない言葉は、なんであれ、誰が言おうと、信じてはいけません。もし誰かが・・・
141
近頃、ある姉妹が、あるグループから遣わされてわたしに会いに来ました。300人強の聖職者が集まっていたところで、イエス・キリストの名による洗礼について説教したことがありましたが、そこには、シカゴのミニストリアル連合の全評議員会から大勢の人が集まっていました。その集会に先立って、主が幻によって、彼らがどこの場所に集まり、何が起こるかを知らせてくれました。そこでわたしはその場所に行き、彼らに言いました。(そのテープがありますから、聞きたい人はどうぞ。)司教や博士や枢機卿やあらゆる聖職者が立っていたところで、わたしは言いました、「誰でも、この教えに反対するものは聖書をもってここに来なさい。」「何をそう大人しくしているのですか?」誰も何も言いませんでした。なぜなら、彼らはみことばに恐れをいだいていたからです。それでわたしは言いました、「何も言えないのなら、なぜわたしを吊るし上げるのですか? それなら口をつぐんで、行って何か別のことをしなさい。聖書による裏づけがないのなら、黙っていることです。」
142
それで、その同じグループの人たちが、女性を寄こしてこう言わせたのです、「ブラナム兄弟、もし主の御使いがあなたにそう言ったのなら・・・。」(主の御使いのことはわかりますね。彼が写っている写真があります。)「もし主の御使いがあなたにそう言ったのなら、わたしたちは信じます。」
そこでわたしは言いました、「聖職者のグループとは、そんなに頼りないものなのですか!もし主の御使いが、このみことばに反することを言うなら、それは主の御使いではありません。」主の御使いなら、みことばを支持します。それがあらゆる時代に、彼がして来たことであり、これからも同じです。彼はみことばを守ります。聖霊による油注ぎを受けた聖職者は、同様に、みことばにとどまります。聖書は最初から最後まですべて聖霊によって書かれているのに、なぜ、聖霊に満たされている人が、聖書が言っていることを否定できるでしょうか。その人のうちに宿る霊が、その間違いを記録に残します。信条の間違いを。
とびいなごは食べ続けていましたが、神の真理を食べ尽くしてしまいました。
143
使徒の教えに反する権威のない言葉を信じては駄目です。使徒の教えは聖書であり聖霊です。すべての言葉が真理であるので、信じて受け入れなさい。少しでも削除したりせず、すべての約束が成就するのを注意して見ていなさい。
まさに今ここに神の現れがあります。イスラエルが紅海を渡ったときと同じ神がここにおられないのなら、それは神ではありません。ペンテコステの日に降臨した神が今ここにおられないのなら、同じ神ではありません。それなら、死者の復活も起きないことになってしまいます。もし同じ神が今ここにおられないのなら、歴史の神に何のいいところがあるでしょうか。神のようなお方がおられないのなら、説教師を神学校に送りこんで、孵卵器で雛に返すように育ててあちこちに行かせて、何のいいことがあるでしょうか。
144
神のことばを取り去って、いったい何をしようとしているのですか? どこに権威があるのですか? 「教会に権威がある」と言いますが、教会って? 969もの組織の教会がありますが、そのうちに一つでも正しい教会があるのですか?
誰も、何をすべきかわからず、混乱しています。そうです。しかし神は教会によって人を裁かれません。神はキリストによって裁かれるのです。そしてキリストはみことばです。聖書にこうあります、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」
145
神は教会と人々を、復活して今生きておられるみことばによって、裁かれます。もし復活して今生きておられるみことばが、聖書と相反することを言うなら、それは復活して生き返った言葉ではありません。なぜなら、神はこの真理を証言しておられるからです。
神はここで何かを言い、別のところで何か違うことを言うことができません。わたしなら、ここで言ったことと別のことを違う場所で言うことができます。あなたもです。人間ですから、だんだんに知識や理解を得て変化していきますが、神はそうではありません。神は全知のお方ですから、神がはじめに決定されたことは永遠に変わらないのです。だから神はここで言ったことと違うことを別の場所で言うことができません。神が神であるためには、神の仰せのことばは常に同じでなければならないのです。
ですから、あなたの内に宿る霊が神からのものであるなら、このことばが真理であることを証言します。言葉のひとつひとつが正しく、そして過去も現在も未来も変わらないことを証言します。そう聖書に書いてあります。そうです。
146
さて急ぎましょう。次の段階で登場する虫に移ります。最初はかみ食らう虫でした。この虫が神の木の何を食べましたか? 果実です。次の段階で現れたのは? そして何をしましたか? 今度は群がるいなごとして登場して、すべての葉を食い尽くしました。それが群がるいなごの習性です。次に登場した虫がしたのは? 今度はとびいなごとして登場して樹皮の中に入り込みました。
さて、4段階目に登場したのは滅ぼすいなごです。滅ぼすいなごは? この虫は吸血虫です。命を吸い取ってしまいます。霊である命を奪うのが、この虫のしたことで、木の内部に入り込んで樹液を吸い取りました。滅ぼすいなごとはこのことです。このいなごのことを、わたしたちは何と呼びますか? 教団です。それがこの虫の正確な名前です。いのちを吸い尽くす破壊者だからです。
147
神が何かことを起こされると、その都度、人々は宗派を作り、そこで神の働きを死滅させてしまいます。誰か教会の歴史の中で、そうならなかった事例があったら、教えてください。一度でも、組織化した教会が神の霊の働きを続けていたことがあったら教えてください。とびいなごが樹皮の中に入り込み、信仰を取り去り、そのあとで滅ぼすいなごが出てきて木の命を吸い尽くしてしまいました。
木にはどのような命があったのですか? 聖霊です。どのようにして取り去ったのですか? ドグマと聖霊は共存できません。ドグマを奉ずる場所に聖霊が我慢していられるわけがありません。この虫は木の命を取り去って、ドグマを植え付け、教団を作りました。「聖書がなんと言おうと、わたしたちの宗派はこうします。」
148
覚えておいてください。宗派教団を作ると神の働きは死に絶え、二度と起き上がることはありません。最初に組織化したのはカトリックですが、即座に神の働きは死にました。最初からドグマを奉じていましたから。
そこからはじめに起こった改革がルターによるものでしたが、組織化して死にました。次にウェズリーが登場しましたが、組織化して枯れました。それからペンテコステ派が起こりましたが、これも組織化して枯れました。長老派もルター派全ての他のそしてナザレ派もピルグリム・ホーリネスも、これらの全ての組織がが組織化して同じ結末をたどりました。どれも死に絶えてしまいましった。彼らの状態を見てください。なぜそうなってしまったのですか? 彼らは組織化したことによって死を招いたのです。
彼らが何をしたのですか? ドグマを取り入れたのです。ナザレ派の人たち、素晴らしい・・・ペンテコステの次に現れた教会、あなたたちは清めの教えを信じましたが、聖霊の賜物や異言や神の力の現れについては、それを悪魔の仕業と呼び、いのちを失いました。そうです。ナザレ派は今どうなっていますか? 死んだ状態です。今でも教会員は増えているでしょうが、死体の状態です。
いつかの夜にわたしは見ました。そうです。すべてのことを見ました。牧師が死体にキスして性交しているのを。「どのみち彼らにはもう時間がありません。これがすべてです。」いつかテープでそのことがあなたのところにも届くでしょう。そうです。
149
神は霊の実を実らせるために木を植えられたのでしたね。でも人は何をしましたか? 人はいつでも、それに手を加えたがるのです。昔もそうでしたし、今でもそうです。(さあ、活をいれて素早く行きましょう。)人はいつでも、霊的な教会を人為的なものに変えようとします。
ルターは霊的な教会を作りましたが、どうなりましたか? ルターが亡くなるとすぐに、教会は造りものになりました。神の人として目覚しい働きをしたジョン・ウェスレーは何をしましたか? 誰が彼のことを神の人ではないと言うことができるでしょう。彼とチャールズが亡くなるとすぐに、教会は組織化され、いのちの輝きを失いました。
歴史を通して、同じことがずっと繰り返されています。 人工的装い、よい職業、町で一番大きな教会、賢い人々を作り上げ、「町の有力者たちがわたしたちの教会に入りたいと言っています。」と自慢します。
150
それと全く同じことがペンテコステ派の教会でも行われているのです。そうです。水準を引き下げて霊の働きをないがしろにしました。洒落た大きな建物を建てたがり、偉い肩書を持つ牧師を求めています。それに、親たちは息子を神学校に入れて牧師にさせています。神学校で何を学びますか? 神学やあらゆる人工的なものです。そして、リッキーだのエルビスだのといった類いになって帰ってきます。そのとおりです。
今日の教会が生み出すのは、信心を装った、たわごとばかりです。聖書は、終わりの日に、人々は信心を装うが、その実、信心の力を否定するものとなると言っています。なぜですか? 食い尽くすいなごが樹液を吸い尽くしたからです。組織が教会から霊的なものを取り去ってしまったのです。
151
第一テモテ3章で、パウロはこう言っています、「終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。」滅ぼすいなごに吸い尽くされたのです。この木はかみ食らういなごによって、以前に打撃を受けました。主がお望みなら、この木全体のことを見てみましょう。
152
その最大の教会が言います、絶対に「昨年わたしたちの教会は、随分多くの献金が貯まりましたよ。」
確かにそうでしょうとも。カトリックはあなたの教会を凌駕しています。昨年共産主義が起こって追い出されるまでは、カトリックはロシアにも大きな勢力を伸ばしていました。メキシコでも同様に勢力をのばしていましたし、世界中のいたるところに勢力を広げようとしています。そうなのです。
153
共産主義を恐れてはいけません。共産主義は神のいない活動をしていますが、説教者たちは説教台で檄を飛ばして共産主義を非難しています。わたしも共産主義を信望しません。しかし、教会で、「わたしたちは共産主義に飲み込まれる。全世界が共産主義者になる。」と説教するのはおかしい。神のことばに、明らかに反しています。聖書には、そのようになるとは書かれていません。
聖書に書かれているのは、ローマ主義、つまりカトリックが世界を飲み込むことです。ダニエル書を開いてみてみましょう。金の頭はネブカデネツァール王のバビロン王国で、それを継いだのがメディア−ペルシャで、そのあと起こったのが、ギリシャ帝国で、最後がローマです。10本の足の指は地下のあらゆる王国に通じています。
154
鉄のカーテンがあり、竹のカーテンがあり、紫のカーテンがあります。兄弟よ、他のカーテンを恐れる必要はないが、紫のカーテンには気をつけなさい。こんにち、この国では、紫のカーテンが王位に就いています。
アハブが王位に就いたとき、背後にいたのがイザベルでした。聖書は、カトリックのことをイザベル、淫婦と呼んでいます。アハブは悪い人ではありませんでしたし、ケネディのことも悪い人だとは言いません。わたしは彼が男であるということ以外、あまりよく彼のことを知りません。彼は大統領であり、いい大統領になるでしょう。彼が問題なのではありません。彼の背後にある組織が問題なのです。カトリック勢力が次第に内閣やあらゆる機関に入り込んでいくから、待っていなさい。それからどうなるか注意して見ていなさい。カトリックが他の国で何をしたか、常に何をしているか、見なさい。
155
そして、黙示録13章に書かれていませんか? この国(アメリカ)の番号は13です。国旗には13の星と13の横線が描かれています。植民地も13で、何もかも13です。そして黙示録13章にこの国が登場します。
聖書は、この獣が小羊のように登ってきたと記しています。宗教の自由、そして、公民と教会の二本の角。それからしばらくすると、彼らは結合して、竜のようにものを言うようになり、竜がしたのと同じことを、竜の前でしました。そして聖書は、彼らが獣の像を作ったと記しています。それは教会連合のことで、ニューヨーク市にあります。大きな遺体安置所のようなものです。メソジストもバプテストもペンテコステも、キリスト教会統一の意志を持った人たちみなが、そのようなことをして、バビロンに属するために自分の生得権を売っているのですよ!いったいどうしてしまったというのですか? まさに、エサウがしたように、ごった煮のために自分の生得権を売っているのです。そして得るものはといえば、獣の像だけです。そうです。だから、共産主義を恐れてはいけません。カトリック(普遍的教会)主義を恐れなさい。
156
聖書が言うように、羊のふりをして甘言を用いて近づくが、注意してみると、その背後には狼がいるのです。気をつけていなさい。それはよこしまなものです。みことばに反しているからです。聖書に書かれていることは成就されなければなりません。共産主義は神の手中の駒にすぎません。共産主義はなぜあんなことをしなければならないのか? 神が許可を与えられたからです。みことばが成就するためです。そのことに気づいていましたか? そのように考えたことがありましたか? 神は、ご自分が語られたことばを必ず成就されます。
157
あるとき、アハブとヨシャパテの前に400人の預言者が立っていました。ヨシャパテは正しい人で、こう言いました、「ラモン・ギレアドに登って行く前に、主に伺いを立てるべきではありませんか?」
アハブが答えて言いました、「確かにそのとおりです。(周知のように、イザベルが見張っていました。)わたしのところに400人の預言者がいますから、連れて来ましょう。」
王の前に出た預言者らは、みな優秀な人たちで、みな預言して言いました、「登って行きなさい。主がともにおられます。」
しかし、神の人であるイスラエル王には、腑に落ちない点がありました。それで、「他に預言者はいないのですか?」と尋ねました。
400人の預言者が、口を揃えて「登って行きなさい。主が言われました。登って行きなさい。」と言ったのに、
「しかし、どこかに別の預言者がいるはずだ。」と言ったのです。
アハブは答えました、「いるにはいますが、実に憎たらしいやつです。」そうでしょうとも!「彼は常にわたしを叱りつけるのです。いつもわたしに対して悪いことばかり言うのです。」
神がアハブに悪いことを言っているのに、どうして良いことが言えるでしょう。
158
それでミカヤが連れてこられ、言いました、「登って行きなさい。そうです。しかし、わたしにはイスラエルが、羊飼いのいない羊たちのように、散り散りになっているのが見える。」
すると偉い説教師が司教の元にやって来て、ミカヤの口を打って言いました、「主の霊はどのようにわたしを離れ去って、お前に語ったというのか。」
想像するに、彼はこう答えたでしょう、「もともと、あなたのうちにはおられなかったのです。そのことが後になってわかるでしょう。」
アハブは怒鳴りました。「そいつを獄につないで、難儀のパンと悲しみの水だけを与えておきなさい。戦いから帰って来たときに、処遇を考えよう。」
ミカヤは言いました、「もしあなたが帰還できたのなら、神のことばはわたしに臨まなかったことでしょう。」
159
なぜなら、彼はみことばと共にいたからです。みことばにそぐわない預言は何であれ・・・わたしが今伝えたいことは、どんなに良く聞こえても、どんなに多くの説教師が、「共産主義が世界を征服して、教会を排除する。」と繰り返し言っていても、決して共産主義と戦おうとしてはいけません。戦う相手はローマ主義です。これは「主が言われる」ことです。
主は、ローマ主義が世界を征服するのであって、共産主義ではないと言われました。それはただの操り人形です。しかし、神はそれを作らなければならなかったのです。
160
主はミカヤに言われました、「わたしはアハブをそこに連れ出さなければならないので、彼らにあんなことを言わせたのだ。それはアハブに関してエリヤが言ったことばが成就するためである。」
神は共産主義を起こさなければならなかったのです。何のために? 遺体安置所を一つにまとめて、教会連合を結束させ、獣の像を作るためです。それが、これから起こると神が言われたことばです。心配する必要はありません。ことが結束していく様子を見ていなさい。
161
どうやら、みなさんを疲れさせてしまったようですね。しかしこれは真実です。いつまたみなさんに話せるかわかりません。もしかしたらもう話す機会がないかもしれません。もしかしたらもう会うことがないかもしれません。しかし何が真実であるかを知ってほしいのです。注意してください。このことばは真実です。わたしではなく、このことばです。もしわたしが言うことが、このことばと矛盾していたら、わたしを信じてはいけません。みことばを信じてください。もしわたしがみことばに反して説教していると思うなら、それをわたしに伝える義務があります。そうです。わたしのところに来て、それを指摘する義務があります。来て、みことばがなんて言っているか確かめましょう。
162
これで、共産主義は集めるための道具であることがわかりした。戦いのためにゴグとマゴグを集結させると神は言われました。これは真実です。これらの勢力は集められなければならないのです。聖書はそうなると言っています。
163
神は霊の実を実らせるためにこの木を植えられましたが、人は常にそれを人為的なものに変えてしまいました。信心を装いながら、なん億円もかけて都会に大きな建物を建てました。なんていうことでしょう。6億も8億も建物に費やしておきながら、イエスが来られると宣べ伝えているのです。一方宣教師は、わたしが知っている宣教師は、靴一足持たず、1日2食で我慢して福音宣教をしています。
いったい、どうなっているのかわかりますか? 彼らが、イエスが戻って来られると信じているとは信じられません。その人たちがしていることが、言っていることよりはるかに多くを語っています。あの宣教師はわたしの集会にやって来たとき、靴を履いておらず、小さなズボンを腰に巻きつけていました。宣教地でノミやアメーバや様々な虫や病気と共に暮らし、彼の手はアメーバにやられてボロボロになっていました。その彼がわたしのところに来て「あなたがブラナム兄弟ですか?」と聞きました。
164
わたしは「そうです。」と答えました。
「ああ、あなたに祝福がありますように。わたしはいつもあなたのために祈っています。」
それを聞いて、こう思いました、「ああ、神よ。どうかこの人に、わたしのためにずっと祈らせてください。この人こそ、その人です。」
「ブラナム兄弟、わたしはあなたの記事を読みました。あなたが言っていることは真実です。わたしたちはあなたの味方ですよ。」
ああ、兄弟よ、これこそ、その人です。貧しい人です。
誰かがこういうのを聞きました、「それが誰か知っているかい?」
「ああ、彼なら私たちの教団には属していないよ。」
わたしは聞きました、「彼は誰ですか?」
「さあ、彼はわたしたちの仲間じゃないな。」
「だから彼は誰なのですか?」
「彼は独立しているんだ。」
「おや、そうですか。では彼は何をしているのですか?」
「あっちで大した仕事はしていないさ。わたしたちのところに所属する気が無いのだからね。」
「でもわたしは、彼についてもっと知りたいのです。」
165
小さい頃、りんご畑にりんご狩りに行くと、棒が集中して置いてある木のところに行ったものです。良いリンゴのなる木にはうまく叩いて落とすための棒がたくさん置いて当たったのです。
「彼はホーリローラーだよ。」
おいしい実をつける木のあるところには、かかしが立っているものです。悪魔も同じことをします。近づけないように、脅かすのです。でも心配しないで、かかしを超えて行きなさい。
166
わたしが植えたインゲン豆を、ウッドチャックが来て食べているのを見ていました。インゲン豆を植えると必ず、こやつが来て食べてしまうので、こう考えました、「こやつを脅かしてやろう。」それで紙袋を使って、(わたしは本当は芸術家なのです。見てごらんなさい。)恐ろしく見える絵を描きました。(わたしが描くと本当に恐ろしいのですよ。)その紙袋にいくつかのインゲン豆を入れて棒に吊るしておきました。風が吹くとこんな風に揺れるようにして。
ウッドチャックが穴から出て、インゲン豆を食べるために走って来て紙袋のかかしにぶつかりました。彼は後ずさりしてかかしをこんな風にして見て、ハッとして飛びつきました。かかしは立ったままでした。彼はもう一度見て、もう一度確かめました。後ろを見ると美味しそうなインゲン豆が列になって生えています。彼は彼なりにかかしを見て少しずつ近づいて行き、おどかそうとしましたが、びくともしません。それもそのはず、生きていませんから。かかしなんてそんなものです。
167
そこで彼は、小さな足でその紙袋を叩きました。かかしはガラガラ音を立てました。彼は飛び上がって退き、こんな風にしてかかしを見ました。そしてまた叩きました。ガラガラ。ただガラガラと音がするだけです。アイルランド人のフクロウみたいに、空騒ぎの羽がついているだけで中身はありません。それで彼がこんな風に叩くと、4~5回ガラガラと音を立てました。それで彼がどうしたと思いますか? かかしの後ろ側に回り、わたしのインゲン豆を食べ続けました。わたしより知恵者だったのです。
彼は、かかしなんかに妨げられませんでした。かかしの後ろに良いものがあることを知っていましたから。誰かが、「ああ、彼らはホーリーローラーだよ。」なんて言っても、そこで怖気づかないで進んで行きなさい。信じて進んで行くのです。そうしたら、そこに聖霊が臨んでいるのかもしれませんよ。やってみなくてはわかりません。
168
さて、そんなわけです。
宗派団体の滅ぼすいなごがしたことを調べてみましょう。肉の教会と霊の教会・・・教団を創ったこの滅ぼすいなごに注目しましょう。神の木はすでに、樹皮が食い尽くされ、実が食い尽くされました。ああ、兄弟よ、すべて失くなってしまいました。霊の賜物を失い、神の癒しも異言も預言も何も無くなってしまいました。彼らはこれらのことを信じません。知らないのです。彼らにあるのは、すべて人が作ったものだけだからです。
169
肉の教会があります。人によって作られた教会です。一方、霊の教会があります。聖書がそのことを教えています。肉の教会と霊の教会。聖書は言います、「奴隷の女(ハガル)とその子を追い出せ。自由の身の女とその子とともに相続にあづかることはできないからだ。」
それなら、肉の教会は何を相続するのでしょう? ひと束に括られ、焼かれるのです。自由の身の女とともに相続人となることはありません。もし奴隷の女が、教団組織の子に縛られているのなら、彼女は自由の身の女とともに相続にあずかることはありません。自由の身の女の子どもは携挙されることになっているからです。そして奴隷の女の子どもは裁きの場に立たされます。追い出せ、そうです。霊の教会は自由の身分なのです。そうです!
170
滅ぼすいなご、宗派教団のエソウ。エソウとヤコブは双子で、どちらも信仰を持っていましたが、エソウは肉的な人でした。彼は良い人で、外で遊んだり盗んだり酒を飲んだりと、その類いのことはしませんでした。彼は信仰を持った人ではありましたが、こうも考えていました、「とにかく信仰があるのだから、それでいいじゃないか。」
しかし弟のヤコブは、生得権を欲しがって、そのためなら手段を選ばない覚悟でした。そのために祭壇の前で叫び、わあわあ泣きわめき、鼻水を垂らしても、(失礼)あるいは、外に出て、涙で顔をぐちゃぐちゃにして(失礼、こんなことを言うつもりはありませんでしたが、)それで祭壇の前で、手に入れられるまで泣いたとしても、彼はそれを手に入れるためなら、かまわずそうしたことでしょう。とにかく生得権を手に入れたのです。
171
彼らの内のある人達は「ブラナム兄弟、あの人たちは祭壇で、わあわあわめいたり、泣いたりしていますが、わたしはあんなふうになりたくないですね。」
それなら、あなたはそうはならないでしょう。
あるとき、いつも幸せそうな南部の黒人の兄弟に、雇い主が尋ねました、「なんで、おまえはいつもそう楽しそうなんだ?」
彼は答えました。「心底から信じられる神を知ったからです。」
「そんなことあるわけない。」
「ボス、あなたは、ひとつ間違いを犯しています。そんなことがあるわけないと知っていることです。」彼は別のことを知っていましたから、こう言いました、「あなたはこう言うべきだったのです。『自分で知るまでは、』と。」
172
ある日、雇い主が言いました、「わたしも、心底信じられる神を知りたい。」
黒人の兄弟が言いました、「いつ始めますか?」
「今すぐ」
「いいでしょう、始めましょう。」
雇い主は干し草置き場に行って、言いました、「ここならいい、妻にも聞かれずに済むし、何も邪魔なものがない。」だいたいの人は、このようにしたがるのです。皿の上に乗せて、さあどうぞ、受け取りなさいというようなやり方を。「わたしたちは、ここにひざまずきます。」
しかし、兄弟は言いました、「ここでは駄目です。」
それで馬小屋に行きました。「ここなら大丈夫か?」
「いいえ。」
「それなら、とうもろこし貯蔵所に行こうか?」
「いいえ。」
「じゃあ、どこならいいんだ?」
「ついて来てください。」
そう言うと彼はズボンをまくり上げ、豚小屋に入り、泥の中を必死に歩いて行き、言いました、「さあ、ここまで来てください。ここなら大丈夫です。」
雇い主は言いました、「そんなところまで入って行きたくないね。」
彼は答えました、「ボス、あなたはまだ、本気で神を知りたいと思っていないようですね。まだそこまで熱心ではありません。」
173
ナアマンも同じことを考えましたよね。ナアマンは言いました、「わたしはこの重い皮膚病を直したい。」
エリヤは彼にこう言いました、「あの泥だらけのヨルダン川に行きなさい。その川は地中海に注いでいるので泥だらけである。そこで7度身を浸しなさい。」
ナアマンは言いました、「なんということだ。ダマスコの川の方がずっと水がよいではないか。その方がずっときれいで澄んでいる。」(先日ここでその映画を見ましたから、知っていますよね。)「いや、そんなところに行きたくはないね。行けるはずもない。わたしを誰だと思っているのか。王の軍司令官であるぞ。」
「でも、その重い皮膚病を直したいのなら、ヨルダン川に行きなさい。もし病気のままでいたいのなら、自分のところの川に行きなさい。」
エリヤは、「身を浸せ。」と言いました。ナアマンが水の中に入っていく様子が、わたしには見えます。想像できますか? そうする行為は、彼の威信を大いに傷つけたでしょう。彼が爪先立って、鼻をつまんで入っていく様子が見えます。
174
そんなふうにして、キリストのもとに来る人もいます。「わたしは病気を治したいのです。わたしは天国に行きたいのです。でも、他の人に見られたら、何と言われることでしょう。」
ああ、偽善者よ。どのみち得られるものは何もないでしょう。人が何と思うか心配する必要はありません。どうせ、得られるものはないのですから。そういう人はまだ本気で願っていないのです。そうです。本気が足りません。本気で願うようになったら、神は与えてくださいます。準備が整ったら、神は与えてくださいます。
175
宗派教団の滅ぼすいなごが、食い尽くしてしまいました。それぞれが登場して、木を荒らしにかかったとき、次の虫が動きやすいようにとっかかりを残していったことを留意してください。たいした賢い虫です。まず、霊である木の実を食べつくしたので、兄弟のつながりである葉を食べられる環境ができました。それで群がるいなごがやってきて、葉を食べることでその木を生活拠点としました。この虫が何をしましたか? 葉を食べつくしてしまったので、人々は木の下で一息つき涼むことができなくなりました。それで次の虫は樹皮に入り込んだのです。
その虫は、幹の畝に穴を開け、命を支える背骨である教義を取り去りました。穴が開けられると、すぐに次の虫が登場しました。滅ぼすいなごが木の樹液を吸いつくし、教団を組織したので、人はその木からいのちを受けることができなくなりました。いのちはどうなりましたか? 木の根っこにとどまりました。そうです。いのちは根っこに降りてとどまったのです。
同じ虫が、命を奪うまで木の心臓部に穴を開けました。その虫は果実を襲い、葉を襲い、樹皮を襲い、生命線である心臓部を襲ったのです。
176
さて、この破壊者がしたことを調べてみましょう。まず・・・(ちょっと省かなければならないと思います。いいえ、省くのはやめましょう。ちょっと・・・)この木の心臓部に入り込んで、この虫がまず最初にしたことは・・・
最初の段階に戻って、この虫がしたことを調べてみましょう。この虫がまず最初に咎め立てたのは、神が地上に植えられた最初の貴重な果物の木でした。
177
ちょっとの間、我慢して聞いてください。これは復活祭にふさわしいメッセージです。
178
この虫がまず最初にしたことは、神の最初の貴重な果物の木を破壊することでした。その木とはキリストです。彼はエデンの園にあったあの木でした。最初の果物の木、それをこの虫は破壊したのです。神が地上に植えられた最初の木はキリストでした。神の実を結ぶその木を破壊しようとしたのです。彼は、あらゆる類いの組織を手中に納めていましたが、実際に実をつける木に手をかけるところまできたとき、このローマ虫は木の中に入り込み、破壊してしまいました。
その木とは? イエスはこう言われました、「(ヨハネ書です)もしわたしが、父の働きをしていないのなら、父の果実を実らせていないのなら、わたしを信じなくてもいい。」イエスは神の果実を実らせていました。どんな果実ですか? そのことをちょっと調べてみましょう。何度も繰り返してきましたが、初心に戻りましょう。ここに座っている人たちは、祈ってもらうために待っていますから。
179
人々が、イエスをメシアと気づいた初めのしるしはなんですか? ペトロがイエスの前に来たとき、(アンデレが彼を引き合わせました。)イエスはペテロを見て言いました、「あなたの名はシモン。ヨナの息子だ。」
それで彼はメシアだとわかりました。聖書に記されたメシアのしるしをイエスが現されたからです。歴史によると、大勢が自分はメシアだと言って現れましたが、誰もイエスがされたようなことはできませんでした。モーゼは言いました、(モーゼが語ったことは神のことばであり、廃れることはありません。)「メシアは、わたしのような預言者として現れるだろう。」だから、初めて会う人を前にして、「見よ、あなたの名はシモン。ヨナの息子である。」と、イエスは言われたのです。そしてペテロはその時、イエスが何者かわかったのでした。
180
180 ピリポがナタニエルを連れて来たときのことです。ナタニエルは信仰深い立派な人でした。(道すがら、ピリポはナタニエルに、イエスがシモンにされたことを話していました。)そして彼がイエスのところにやって来たとき、イエスは何と言われましたか? 「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心にはいつわりがない」
「どうしてわたしをご存知なのですか。」
「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た。」
「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
わかりましたか? これこそが神の果実です。「もしわたしが父の業をしないのなら・・・」イエスは彼らの心の思いをご存知でした。
ある婦人がイエスの衣の裾に触れ、そっと抜け出して会衆の中に座っていました。イエスは辺りを見回して言われました、「誰がわたしに触れたのだ?」みな、自分ではないと否定しました。彼は見回してその婦人を見つけました。彼女は下血の問題を抱えていたのでした。イエスは言われました、「あなたの信仰があなたを救った。」
181
何と言う事でしょう!サマリアの女の場合は・・・イエスは、このように異邦人のもとを訪れたことはありませんでした。弟子たちにも、異邦人のところに行ってはならないと言いました。異邦人とはわたしたちのことです。今は異邦人のときです。イエスは前以て言われたように、聖霊の姿となってわたしたちのもとに来てくださっています。でも、その当時、イエスが異邦人のもとに行かれたとき、何が起こりましたか? 彼がサマリアの女のところに行かれたとき、「水を飲ませてください。」と言われました。
彼女はこう答えました、「ユダヤ人のあなたが、水を飲ませてほしいと頼むのは、通常考えられないことです。」
肌の色や何やらで差別がありました。イエスはそのとき、誰もみな同じ木から生まれた者たちで、違いはないことを伝えておられました。わたしたちはみな、神の息子や娘です。
彼女は言いました、「わたしたちは先祖であるヤコブを崇拝しています。」(わかりますか? ヤコブはユダヤ人の先祖でもあるのです。)「わたしたちの父ヤコブはこの井戸を掘りました。あなたはヤコブより偉いのですか?」
「わたしが与える水は永遠のいのちである。」
182
「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています。」
「あなたの夫をここに連れて来なさい。そうすれば決着する。」
「わたしには夫はいません。」
「あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉の通りである。」
「主よ、最後に預言者が現れてからもう400年たちましたが、あなたは預言者だとお見受けします。そうでなかったら、わたしに5人の夫がいたことなどわかるはずありません。わたしたちは今がメシア到来の時期だと知っています。キリストと呼ばれるメシアが来られる時、このようなことを知らせてくださいます。」
ここにも果実が現れました。イエスは言われました、「わたしがそれである。」
それを聞いて、彼女は水瓶を置いたまま、町に走って行きました。彼女が放置したのは、宗教宗派組織の古い水の入った瓶でした。ヤコブがいくつ井戸を持っていようとも、彼女は新しい泉を発見したのです。町に行って彼女は叫びました、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。この方がメシアかもしれません。これが神の果実かもしれません。これがメシアである証拠かもしれません。」
183
しかしユダヤ人には理解できず、こんなふうに言いました、「彼は、占い師だ、ベルゼバブに取り憑かれているんだ。」
イエスは言われました、「わたしはあなたがたを許すが、やがて聖霊が来て、わたしがしたのと同じことをする。そのときに異を唱える者は、決して許されない。」 
「わたしが父の働きをしていないのなら、わたしを信じなくてよい。」しかし、その果物の木は、実をつけていました。さあ、ここに注目してください。イエスは、どのような教会をつくると言われましたか? あなたがたカトリックは、イエスが教会を建てたと言いたがりますが、どのような教会をイエスは建てられましたか? イエスが一度でも、教団や信条を口にしましたか? いいえ、彼は常にそれらと対立していました。彼はこう言われました、「あなたたちは白く塗られた壁だ。中には腐って死んだ人の骨が詰まっている。」
184
イエスは彼らのことを、あらゆる表現を使って非難しました。彼らのしていることに真っ向から反対していたからです。それが、神の果実です。望むなら、2+2は4になります。
イエスは、彼らの組織、理論などに異議を唱え、彼らを偽善者、草の中に潜む蛇、悪魔と呼びました。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、父と同じことをしている。あなたがたの先祖で、わたしが遣わした預言者を迫害しなかった者がいるだろうか?」「そうしておきながら、あなたがたは預言者の墓を建てる。」「彼らを墓に追いやったのは、あなたがたなのだ。」
185
兄弟、イエスは手加減されませんでした。そうです。それが神の実なのです。神の実とは、神のことばにとどまること、神のことばを現すことです。一方、こうも言われました、「聖書は、メシアが現れたとき、わたしが何をすると言っていますか? 聖書のことばにある実を、わたしが実らせていないのなら、わたしはメシアではあり得ない。しかし、そのみことばの実をわたしが実らせているのなら、つまり、メシアがすることになっている業を、わたしがしているのなら、わたしがメシアである。(アーメン!)誰が、わたしに罪があると言って、わたしを責めることができるだろうか。」そのとおり。「どの宗派が、わたしがしているのと同じことをするだろうか?」そのとおり。メシアなら、こうされるはずなのです。そしてメシアは、預言者でなければなりません。「さあ、あなたたちのそのもったいぶったやり方で、わたしと同じことができるか見せてもらおう。」彼らは、黙り込むしかありませんでした。
イエスは神の実を実らせておられたのです。聖霊が彼のうちに宿っていたので、神の実を実らせることができました。さて、注意してよく聞いてください。できるだけ早く終わらせて、みなさんのイースターのご馳走が冷めてしまわないようにしますから。もっとも、みなさんのイースターのご馳走は、復活であるべきですね。
186
イエスは、神の預言者であり完全無欠の神の木でした。模範の木でした。花婿の木でした。アーメン!素晴らしい!(さて、単刀直入に言います。)イエスがエデンの園に植えられていた花婿の木であるなら、(そう信じますか?)雌木がなかったら、身をつけることはできません。だから花嫁の木が必要なのです。花嫁の木は、花婿の木と同じ素材でなければいけないので、みことばを現す木でなければなりません。(悟ってください。)この雌木は、花嫁なので、花婿と同じいのちを宿していなければなりません。「わたしがする業をあなたもするようになる。」そうですね? イエスは花婿です。
187
「それは反聖書的な見解だ。」いいえ、聖書的ですとも!今わたしは、誰かが思ったことをキャッチしました。もうすぐ癒しの集会を始める下準備ですね。確かにキャッチしました。それが聖書的である証拠を見せましょうか? イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたはその枝である。(ヨハネ書)わたしはぶどうの木。あなたたちはその枝である。わたしに繋がっているなら、あなたたちは実をつける。」と言われました。雄木と雌木が花粉をつけ、それを交換しあって実がなります。ぶどうの木と枝は、同じことをします。そうです。
188
そして彼は言った、さて、この最初の木は預言者の木で、完璧な木でした。預言者たちの神でしたから。彼は、かなめの木でした。彼は、神の預言者であり完全無欠の神の木でした。というのは、彼はみことばだからです。彼以外の預言者は小預言者でした。みことばは預言者に臨みますが、彼はみことばそのものであって、みことばが預言者の姿をとったお方であったからです。アーメン!(さあ、うまい具合に話が進んでいます。)
189
さて、聞き漏らさないように、ここを注意してください。とても大切なことなので、ちゃんと書き留めておきました。(編注:車のクラクションが鳴る。)アーメン!誰かが外で声を上げているようですね。クラクションで応答して。外で聞いている人たちも、中にいる人同様、享受しているようですね。
190
イエスは神の預言の木でした。というのは、彼は神のことばが人となって現れたお方だったので、神のことばを、何ひとつ漏らさずに宣べ伝えたからです。彼は、何ひとつ欠けたところのない預言の木であり、何ひとつ漏らさずに預言のことばを宣べ伝え、神の完全なみことばによる完全な預言の実を実らせました。ああ、兄弟よ、この木の話をすれば、イエスはいのちの木でした。その木にイヴとアダムが近づかないよう、ケルビムが見張っていましたが、今は、その木に近づくよう、ケルビムが彼らの子孫に奨励しています。道が拓けたのです。彼らは戻されています。ああ、人類よ。
191
そうです。イエスはみことばを、部分的に省いたりせずに、余すところなく宣べ伝えられました。神学者サタンが彼のところに来て、「聖書にこう書いてある・・・!」と言うと、すかさずイエスは、「そうだ。しかしこうも書いてある・・・」と答えられました。
「だが、聖書はこう言っている・・・」と、サタンが言うと、
「そして聖書はこうも言っている・・・」と、イエスが答えられました。
192
完璧な預言の木が、完璧な預言のしるしを伴った預言のことばを何ひとつ漏らすことなく宣べ伝え、完璧な預言の結果をもたらし、完璧な霊の実を実らせました。あざける者たちは(ここのところは早く飛ばしますからね。)あざける者たちは、彼を、(彼はみことばでした)木にかけました。彼らはみことばの木を、人が作ったローマの木にかけたのです。兄弟よ、腑に落ちましたか。神の完全な霊の木であるイエスを、彼らは人が作ったローマの木にかけたのです。アーメン!
今でも同じです。彼らは神の完全は木であるみことばをとって、混ぜ合わせ、信条を作成して掲げています。死といのちを混ぜ合わせることはできません。イエスは葬式に参列されたことがありません。彼が参列されたら死者が生き返ってしまいます。死といのちは共存できないからです。死といのちは相反しています。イエスは葬式で説教をされたことはありません。彼は死者をよみがえらせるのです。アーメン。そうです。
193
さて、彼らはイエスを木にかけました。そうですね? 「木にかけられたものは呪われる。」そうですね? 聖書は、「人が作った木にかけられたものは、呪われる。」と記しています。
だから、もし今あなたが、人が作った木にぶら下がろうとしているのなら、手を離しなさい。その木に、あなたを縛り付けさせてもいけません。それは死者がぶら下がるところですから。人が作った、ルーテル派やバプテスト派や長老派やペンテコステ派の教団は人が作った木です。そんなところでぶらぶらしていてはいけませんし、そんなところに縛られないようにしなさい。彼らは、できるならあなたをそこに縛り付けておいて、彼らの教義を覚えさせ、あなたのいのちを奪ってしまうでしょう。そうです。
194
でも、そのようなところに、完璧な木はかけられました。神の完璧な果実が、人が作ったローマの木にかけられたのです。人が作った木にかけられるものは呪われました。彼らは、イエスが実らせた果実を見るのを嫌い、自分たちの視界から彼を消し去ったのです。
(史実として残っているのですが、)マグダレナのマリアは、行進のところに走って行って叫びました、「彼が何をしたというのです。彼がどんな悪いことをしたのですか。」彼女は行進を止めて、続けて言いました、「いったい、彼がした何が悪いというのですか。貧しい人たちに福音を伝えただけではありませんか。病気の人を癒し、死んだ人をよみがえらせ、まさに生ける神のしるしが彼のうちに現れていたのではありませんか。どうすれば、こんなに彼を責め立てられるのですか。」
彼らは彼女の口を平手打ちして言いました、「わたしたちの司教をさしおいて、こんな悪評高い女の言うことを聞けるものか。」そうです。今日でも同じことが繰り返されています。
195
さてイエスは、ご自分のなさったことをとおして、ご自分がなに者であるかを彼らに明らかにしたうえで、言われました、「もしわたしがメシアでないなら、あなたたちは何者なのか? わたしに罪があると非難するのなら、みことばのどこに間違いがあるのか、はっきり示しなさい。それでは、わたしがあなたたちの間違いを指摘しよう。」罪とは、不信仰のことです。知ってますね。
彼らは、イエスの存在を抹殺するために、(自分たちの組織をけちょんけちょんにされて、激しい憎しみを抱いていましたから。)彼を葬って、入り口に巨大な教団の石を転がして封をしました。彼が生き返ることができないように、念を押したのです。
ああ、考えてもみてください。ダビデはこの完全な木を見て言いました、「水の流れのほとりに植えられた木。ときが来れば葉を茂らせ、実をつける。その実は落ちることなく、その葉は枯れることがない。その人はなにをしても栄える。」
イエスは繁栄の子でした。ヨセフはその典型で、彼はヨセフの対型でした。ヨセフは、行くところどこでも成功しました。イエスも同じです。「わたしのことばは成功を収め、決して虚しくわたしのところに戻ることはない。わたしが意図したことを必ず成し遂げる。」イエスはみことばです。みことばは、神によって地上に送られ、神の目的をすべて成し遂げます。さて、よおく聞いてください。これは話の一番おいしいところです。
196
さあ、察してください。イエスは彼らにこう言われたのです、「わたしが神から命じられた働きをしていないなら、わたしはメシアではない。だからわたしを信じなくてもよい。でも、わたしがその働きをしているのなら、それを信じなさい。もし、この働きをしている人間であるわたしを信じることができないのなら、わたしがする働きを信じなさい。その働きがわたしを証しする。わたしのしている業が、わたしが語ることより多くを語るからである。」
そうです。このことはいつの時代にも当てはまります。そのとおりです。
さて、察してください、「もしわたしが父の働きをしていないのなら、わたしを信じてはいけません。しかし、わたしがそれをしているのなら、わたしを信じなさい。」そう言われて、彼らは何をしましたか? 尊い木を切り倒して、人が作った木にかけました。(そうです。木からいのちを奪い、罵るために人が作った木にかけたのです。)しかし、彼らは気に入りませんでした。大勢の人たちが、悲しみの泣き声を上げて立ち尽くしていたからです。それで彼らは彼を木から下ろしました。
197
彼らは言いました、「さあ、我々の宗派組織を堅固なものにして、ホーリーローラーたちを締め出そう。」
それで彼らは、急いでイエスの遺体をアリマタヤのヨセフの墓に入れ、哨兵を何人も使って巨大な石を転がしておきました。(この前、巨石を転がした軌跡の映像を見ましたか? 何トンもの重量です。)彼らは、彼らの組織の巨石を転がして封をし、イエスが生き返ることができないようにしました。でもそんなことで彼を阻止できたでしょうか? とんでもない!「しかしわたしは回復すると、主が言われる。」さあ、今日のテーマです。もう一度言います、「わたしは回復すると、主が言われる。わたしは彼をよみがえらせる。3日後に彼はよみがえる。」
彼らはイエスを岩の後ろに隠しておくことができませんでした。彼らは、視界から彼を消し去ることができませんでした。彼らはイエスの手から逃れることはできませんでした。「わたしは彼をよみがえらせると、主が言われる。」そして3日後に、彼は起き上がり、よみがえりを果たされました。
198
復活の後、彼は上げられる際に言われました、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。わたしもあなたとともにいます。生きておられる父がわたしとともにおられ、わたしを遣わされたように、わたしもあなたたちとともにいて、あなたたちを遣わします。わたしは世の終わりまであなたたちとともにいます。わたしが証しした業と同じことをあなたたちもするので、あなたがたがわたしから遣わされたことが明らかになります。」
素晴らしいですね。信じる人には次のようなしるしが伴います。信じるふりをする人ではなく、信じる人です。「わたしがするこれらのことを、あなたたちもします。生きておられる神がわたしのうちにおられるからです。その業をするのは、わたしではなく、わたしの父なのです。同じように、それらの業をするのは、あなたたちではなく、あなたたちのうちにいるわたしなのです。さあ、全世界に出て行きなさい・・・あなたは、わたしにとって花嫁となるのです。」そうです。
199
「わたしはあなたとともに行きます。あなたはわたしの一部となるのです。あなたはわたしの花嫁になります。わたしのいのちが、あなたのうちに宿ります。夫と妻が一つであるように、あなたとわたしは一つになります。その日には、わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいて、あなたがわたしのうちにいるのが、あなたにわかるでしょう。」うーん、素晴らしいことです。サタンは激怒することでしょう。神が唯一のお方であることがわかりますか? 神はすべてを余すところなくキリストに注がれ、キリストはすべてを余すところなく教会に注がれました。そうです。みなひとつになるのです。
さて、見てください。花嫁は一人で、いのちの木もひとつです。言い換えれば、夫と妻がひとつであるように、キリストと花嫁もひとつです。同様に、同じ霊、同じ働き、同じしるし、何もかもひとつです。「わたしがする業を、あなたもするようになるからです。」全世界に出て行って、すべての造られたものに対して働くのです。そうですね? よく聞いてください。今から爆弾を落とします。
200
ローマの滅ぼす虫が、花嫁の木を根元まで食い尽くしました。同じローマの木が・・・キリストを切り倒したのは、何の木でしたか?(会衆が答える:『ローマの木』)キリストの花嫁の木を切り倒したのは? (会衆が答える:『ローマの木』)どのようにして? みことばをないがしろにして、代わりの教えを取り入れることによって。だから、プロテスタントの教会も、神のみことばを受け入れないのなら、ローマ教会の娘ということになります。神は今まで一度も組織を作られたことがありません。ローマ・カトリック教会がはじめに組織化し、そこから出たものも組織化して、みなローマ教会とともに死にました。
201
聖書は、彼女の子どもたちを火で焼くと言っています。そうですね? 聖書にそう書いてあります。麦と毒麦は終わりの日まで一緒に成長し、毒麦は束ねられて焼かれると聖書に書いてあります。そうですね? それから麦が倉に入れられます。そうですね? 毒麦は自ら結束して教会連合という組織を作っています。原爆で焼かれるためです。まさにそのとおりです。しかし神の教会は、倉に入る準備をし、携挙されます。確かなことです。自由な身の女は、奴隷の女と一緒に相続しないからです。うーん、アンソニー兄弟!
ああ、我らは、あの喜ばしい1000年の時代の到来を眺めている
我らが主、祝福されたお方が、待ち受ける花嫁を迎えに来られる
労苦し、眺め、祈りながら、我が魂は歓喜に満ち溢れている
我らが主がもう一度地上に戻って来られるから
ハレルヤ!そうです。イエスは毒麦を焼き、小麦を倉に納められます。
202
ローマの滅ぼすいなごは、パウロの時代に、その木を食べ始めました。パウロがこう言っています、「(聖書に書いてあることです。)わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中に入り込んできて、容赦なく群れを荒らすようになることを、わたしは知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろ曲がったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者が起こるでしょう。それは、前から聞いていた反キリストの霊が、すでにこの世に現れていて、不従順の子のうちに働いているからです。」不従順の子とは? みことばに従わない者のことです。
そうです。すでに組織化への動きが始まりました。わたしの言っていることがわかりますか? 友よ、わかったら「アーメン」と言ってください。
あの滅ぼすいなごが食い荒らし始めました。ヨエルはそれを見たのです。よく聞いてください。終わりに近づいています。ヨエルはそれを見て言いました、「かみ食らういなごの残したものを、群がるいなごが食らい、群がるいなごの残したものを、とびいなごが食らい、とびいなごの残したものを滅ぼすいなごが食らった。」預言者がそう言い、そのとおりのことが、神の木に起こりました。虫によってその木が切り倒されたのです。
203
ローマの滅ぼすいなごは、花嫁の木を食い荒らし始め、根元まで食い尽くしてしまいました。実も葉も樹皮もみんな食い尽くし、花婿であるキリスト・イエスを倒したように、花嫁の木も切り倒してしまったのです。そしてその代わりに信条を作り教団を始めました。同じ虫の仕業です。しかし、そんな無残な姿になっても、おお、神よ、あなたは素晴らしい!花嫁の木の根っこには、前もって定められていた種が宿っていました。アブラハムの信仰にならう人々のことです。その種は枯れません。みことばが約束の根っこに宿っていたのです。「わたしは回復すると、主が言われる。」何をですか? 「かみ食らういなご、群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなごの食い荒らした幾年もの損害をわたしは償うと、主が言われる。」
204
このことを、先週と先々週の日曜日に話したことと照らし合わせます。もう直ぐ終わりますから、よく聞いてください。「わたしは回復すると、主が言われる。虫の大群が食い荒らしたものを一つ残らず、回復する。」
さて、じっとしてよく聞いてください。このことがはっきり分かるように神に心から祈り求めながら聞いて。
205
神が約束された、「わたしは回復する」が、実現し始めました。神は花婿の木をよみがえらせたように、花嫁の木も復活させられます。必ず現れてきます。そのことは確かです。「わたしは、虫の大群が食い荒らした損害をすべて回復すると、主が言われる。」この神の約束が実現し始めました。
初代教会が始まった当時のように・・・わたしは今から教義を取り上げていきます。信じたくなければ、それも構いませんが、事実は調べておいたほうがいいと思います。
はじめに神は、どのようにその木を育てられましたか? ああ、これを話そうとするとわくわくします。こんなふうにしていると神の奉仕者らしく見えないかもしれませんが、構いません。このことをお話しできて、とても嬉しいのです。
206
ローマの虫が食べてしまった教会ですが、神はこの教会を、まず信仰によって義とすることから始められました。洗礼者ヨハネをとおして。聖ヨハネ書17:17で、イエスはこう祈っています、「真理によって、彼らを聖なるものにしてください。あなたのみことばは真理です。」次になされたのは、教会を聖なるものとすることでした。信仰によって義とされた後、真理によって聖なるものとされました。聖なるものとされたのち、イエスは彼らに、上から力を受けるまでエルサレムにとどまっているように命じられました。(ルカ24:49)5旬祭に聖霊が臨み、木が誕生しました。義とされ、聖なるものとされ、聖霊によるバプテスマを受けたことで、キリストが宿り、果実が実りました。アーメン!そうではありませんか?
207
洗礼者ヨハネは神の義を説きました。ところで、自然分娩を構成するものとして、出産時に最初に妊婦に起こることはなんですか? 破水です。「悔い改めて、主イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。」これが神の義です。次に起こるのは? 出血です。そうですね? 血によって聖なるものとなります。その次に起こるのは? 命の誕生です。水と血と霊です。1ヨハネの手紙5:7で、こう言っています、
「・・・天で証しするものが3つあります。父とみことば(つまり子)と聖霊です。この3者はひとつです。
地で証しするものも3つあります。水と血と霊です。これらはひとつではありませんが、一致しています。」
208
子なしに天の父はありえないし、聖霊なしに子はありえません。でも、聖なるものとされなくても、義を得ることはできます。また、聖霊のバプテスマを受けなくても、聖なるものとされることはできます。ナザレ派の兄弟よ、そのことをどう思いますか? 信者らは聖霊のバプテスマを受ける1年半前に、イエス・キリストによって聖なるものとされていたのです。そうですね? 彼らはイエス・キリストによって聖なるものとされました。
209
さて、最初の花嫁の木をいなご虫たちが食べ荒らしてしまいましたが、神は、その木の根っこから、前もって定められていた者たちを芽生えさせておられます。これが水の流れのほとりに植えられた、枯れることのない木です。この水によって生きています。表に現れることはありませんでしたが、存在しています。
神が同じ方法によって、木を回復させておられることに気づいてください。まず木が育ち始めたとき、カトリックからマルチン・ルターが現れ、信仰による義を説きました。次に現れた使者は、ジョン・ウェスレーで、聖別を説きました。ルターが、「義なるものは信仰によって生きる」と義を説き、ウェスレーが聖なるものとなることの必要性を,
第二の恵みの働きとして説きました。それから聖霊のバプテスマがありました。神は最初に木を植えられましたが、今度も同じ方法で回復させておられます。わかってきましたか?
210
あのこざかしい虫は、初めの木を食べ荒らして枯らしてしまったあの虫は、ルター派の枝を食べ始めました。でも、今度は木を枯らすことはできません。神が「私は回復する・・」と言われたからです。
あの虫はルターにとっかかり、ルター派の枝を枯らしました。そして次にウェスレーにとっかかり、ウェスレーの枝を枯らしました。しかし、木の幹は成長を続けています。
最初の木は、虫に食い荒らされて枯れてしまい、木の命は後退して根っこにとどまりました。しかし今度は、前もって定められていたみことばがあるので、何もこれを押し留めることはできません。神は言われました、「私は回復する。彼らがどれだけ組織を作ろうとも、あれこれ画策しようとも、私は回復する。」これで決着です。どんなに笑ったり、ばかにしたり、嘲ったり、ホーリーローラーと言ったり、いかれていると言ったりしても、この木の息の根を止めることはできません。すでに神のことば、「わたしは回復すると、主が言われる」が、存在しているのですから。
神がイエスを3日後によみがえらせたのと同様に確かなこととして、3段階に分かれて、神はこの教会を完全で力に満ちたものとして回復されます。「わたしは回復すると、主が言われる。」
211
何が起こったのですか? あの滅ぼすいなごが食い荒らし始め、最初の木と同じように枯らそうとしました。しかしルター派の枝を枯らしただけで、ルターがもっていた霊までは枯らすことができませんでした。そしていのちは継続しています。
それからウェスレーが現れ、偉大な働きをした預言者ウェスレーが亡くなった後、何が起きましたか? 組織化したので、その枝は枯れました。しかし教会のいのちは継続し、それからペンテコステが現れました。その後、ペンテコステが組織化し、その枝は枯れました。しかし教会のいのちは継続しています。
212
ペンテコステも、同じ過ちを繰り返したのです。最初の花嫁の木が、教団の信条を取り入れたことによって切り倒されたように、悪魔は今度の木にも同じ策略を用いて倒そうとしました。でも神は、すでに定めておられたので、今度の木は、どんなに損害を受けても成長を止めません。もしそうでないなら、ルター派が組織化した時点で、その木は終わってしまっていたはずです。そして第2のローマ・カトリック教会になってしまっていたことでしょう。
だが神は、すでにみことばを公布されたので、神の法則により、それは成就されなければなりません。遅霜がどれだけ積ろうと、今度の木は枯れることがありません。寒波が襲うかもしれないし、教団間の紛争が起こるかもしれませんが、神が生きておられるのと同様に確実にこの木は成長していきます。そうです。神が、「わたしは回復する。」と言われたからです。
213
今年は春の到来が遅く、復活祭の時期も遅いです。人々は、「主が来られるのは遅い」と言い、すべてがこんな調子です。冷たい風が、多くの教団の枝を枯らしています。しかし、前もって定められているいのちを滅ぼすことはできません。「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない。」「神は前もって知っておられた者たちを召し、召し出した者たちを義とし、義とした者たちにすでに栄光をお与えになった。」ハレルヤ!子羊のいのちの書に名前が記されたものは、死ぬことがありません。
214
地獄の虫どもが総出で襲いかかってきても、この木の成長を止めることはできません。共産主義もカトリック主義も何もこの木を妨げることはできません。「わたしは回復すると、主が言われる。」どんな人工のローマの木にもかけることができないし、どんな墓にも納めることはできません。「わたしは回復すると、主が言われる。新しい復活が訪れる。わたしは初代のものと同じ力を持つ同じ教会を誕生させる。初代の花嫁がしていたのと同じしるし、同じ霊の実、同じ働きをする花嫁を誕生させる。わたしは花嫁を取り戻して回復すると、主が言われる」
すべての教団に食い荒らされてしまったものと、すべての組織に食い荒らされてしまったものが復帰するのです。「わたしはすべてを回復すると、主が言われる。」
215
さてあなたは言いますよね「宗派に入っているものはどうなるのか?」
神は良き農夫です。樹の手入れをして、枯れた枝は剪定されます。それだけのことです。神は剪定した枝をどうされますか? 燃やします。神はこの木の持ち主です。きちんと剪定して大切な遺産を残します。神の遺産とは? 神のことばです。神はご自分のことばを確かなものとするために見張っておられます。どこでみことばが成就するかしっかり見張っておられます。神が回復作業をしておられるので、教会が組織化して枯れると、神はその枝を切ってしまいます。そして教会は育っていきます。
ルター派が、「我々は組織となって、カトリックよりも大きくなろう」と言ったとき、チョキンと神はその枝を剪定されました。そしてそのあとを別の預言者であるウェスレーが継ぎました。偉大な預言者ウェスレーが亡くなると、メソジスト派が組織されました。そのあとを継いでペンテコステ派が起きました。ペンテコステ派が組織化されると、神はこの枝も剪定されました。こうしてこの木はてっぺんに向かって伸びていっています。神が完全に回復されます。
216
実はどこに実りますか? 木の下の方ではありません。木の上から成り始めるのです。太陽の光は木のどの部分に当たり始めますか? ああ、素晴らしい!夕べの光が現れたら、木のてっぺんから照らし始めるのです。木の下の枝からではなく、木のてっぺんから照らし始め、そこから果実が熟していくのです。
アーメン!神を愛しますか?アーメン
神に仕えますか? アーメン!
神を信じますか? アーメン!
わたしは、心から神を信じます。さて、神は、あらゆる組織の枯れた古い枝を切り落とされます。この木が成長しててっぺんまで届くためです。そしてこの木のてっぺんには、神の実が実ります。
217
さて、気が付いてください。神は確かにこの木を剪定されます。剪定された枝は枯れているので、神のぶどうの実といっしょに第一の復活にあずかることはありません。彼らは組織の束になりますが、ぶどうの実とは別にされます。
218
さて よく見て! 神は、組織を芽生えさせたことはありません。教会が組織に自らを接ぎ木したので、神がその枝を剪定して生命線を断ち切ったのです。それは組織の実を実らせます。でもそのぶどうの木から枝が出て、伸びるなら、ぶどうの実をつけます。ローマは虫を派遣して食い尽くさせようとしましたが、神はその木を高く成長させ、虫の手が届かないようにしました。それはてっぺんまで届きます。アーメン!先に進みましょう。
219
この木は、ひとつの場所から別の場所へと移っていきます。ひとつの区切りから別の区切りへと、ルターからウェスレーに移り、ウェスレーからペンテコステに移り、ペンテコステからみことばに到達します。
すたれることのない神のことばを信じる者たちにとっては、復活の時期が戻ってきました。今は復活のときです。よみがえるときです。神の民は世界中にいますが、それらの人にとって、今は復活のときです。彼らは復活しました。アーメン!彼らは信条や組織宗派から生き返りました。それらのものからよみがえって、復活のときを迎えています。前もって定められていた神の種は、ずっと根っこに潜んでいました。もう何年も何年も何年もみことばの中に潜んでいたのが、今やっと芽を出し始めました。今は復活の時間です。世界の基が気づかれる前から定まっていたこの教会は、立ち上がり始めました。
220
神は、すべてのことが起きる前に、あらかじめ定めておられました。そのことを・・・どのみち伝えます。とにかく、初めの完璧な木は、命尽きて3日後に復活しました。初めの木が絶命した後、神は3日後にその木をよみがえらせたのです。そうですね? 回復されました。さて、花嫁の木も回復されます。3つの時代を経て・・・いえ、むしろ3つの段階を経て。そう、3つの段階を経て回復されます。それは、義とされること、聖なるものとされること、そして聖霊のバプテスマを受けることの1,2,3段階です。
221
さて、気が付いてください。3日後に、初めの木は最初の状態に回復しました。同じしるし、同じ不思議な業を伴う、イエスが復活されたのです。以前と同じイエスです。1日目の終わりではなく、3日目の終わりに、そのしるしが現れました。おお、兄弟よ、どうか判ってください。3日目の終わりに、キリストの真の姿が現れたのです。察してください。(腑に落ちてきましたか?)
1日目はまだ死んだ状態でした。2日目もまだ死んだ状態でした。ルターとウェスレーの期です。3日目の明け方、噂が飛び交いました。1日目(ルター)には何もありませんでしたし、2日目にも何もありませんでしたが、3日目(聖霊のバプテスマの期)に、イエスが過去も現在も未来も変わらないお方であるという噂が広まりました。そして3日目の終わりに、イエスご自身が現れたのです。イエスは人々のあいだに姿を現され、「わたしを見なさい。わたしは以前と同じわたしだ。」と言われました。
222
聖霊のバプテスマを受けるまでは、死んだ状態が続きましたが、それからイエスが変わらずにおられるという噂が広まりました。そして今、この終わりの日に、イエスはわたしたちとともにいてくださり、わたしたちのあいだで、働きをされています。
3日目の終わりに、イエスは彼らのところに現れて、復活されたしるしを提示されました。彼が過去も現在も未来も変わらず生きておられること、生きて存在しておられることの証しをされたのです。イエスが存在しておられることの生きた証しが、まさに今、この終わりの日に、神の教会に属するすべての人に、現されているのです。(腑に落ちましたか?)アーメン。彼らが一致していたからです。アーメン!3日目の終わりにです。
223
聖書は、終わりの日に夕べの光が輝くと、記しています。夕べの光は西に輝く光で、東の方で輝いた光と同じものです。初代教会は、ローマの異教礼拝によって倒されましたが、その初代教会をもたらした東の光と同じ光が、夕べに輝く光です。同じ光であることを察してください。
夕べの光はなんのために輝くのですか? 回復するためです。わかりますか? 東の空に輝く朝日と同じ目的を、夕べの光も持っています。ローマによってもたらされた暗黒時代が切り倒してしまったものを回復するためです。神は夕べの光を輝かすことによってそれを回復されます。何を回復するのですか? 余すところのない神のことばです。キリストの全体像を教会に現されるのです。キリストのなされたすべてのことを、同じやり方で、この夕べの光は再現します。言わんとしていることがわかりますか? ああ、素晴らしいと思いませんか? わたしたちはそのことの目撃者となっているのですよ。
224
(まさに預言によれば、)今、この夕べの光は、何をするために現れるのですか? あの虫が食べ尽くしたものを回復するためです。それは成長し始めましたが、どうなりましたか?宗派となったので、神から切り落とされ、束にして放置されました。神は、それが勝手に組織化するに任せておかれたのです。次々と現れましたが、神はそれも束にして放置されました。しかし木は成長していきました。それから神は、次のも束ねて放置され、こう言われました、「いつか、これらの束は焼かれることになる。」彼らの組織は束ねられています。
しかし一方、木のてっぺんでは、初生りの実がみのりました。木のてっぺんにおいてです。だから、夕べの光に照らされるのは、木のてっぺんなのです。
225
さて、ノアの方舟には3つの仕切りがありました。下の仕切りには、地を這うものたちが、真ん中の仕切りには、家禽類が、そして上階には光がありました。光が初めにあたる場所です。下でもなく真ん中でもなく、上階です。同様にこの木も、初生りの実をつけるのは、下の方ではなく、真ん中の部分でもありませんでした。これらの部分は組織化したので切り落とされました。しかし、てっぺんの部分において、神は言われました、「わたしは回復すると、主が言われる。わたしは夕べの光を遣わし、みことばの力をもう一度取り戻す。わたしが約束したことばをすべて取り戻す。わたしが約束したとおり、同じ聖霊が同じしるしを現す。わたしはかつて花婿にしたように、花嫁のために、復活のときを、よみがえるときをもたらす。」
夕べの光が出現して輝き、朝の光がしたのと同じしるしを行います。同じ光が、同じ木を照らすなら、同じ実を実らせます。アーメン!「わたしは回復すると、主が言われる。」ということばが、成就したことを証しするのです。
226
さて、よく聞いてください。聞き逃さないで。4人の死の使いがいました・・・。ここら辺でやめておいたほうがいいですか?おしまいにしましょうか・・・?(注:会衆が「だめ!」と叫ぶ。)それでは、よく聞いてください。4人の死の使いが木を枯らしてしまいました。そうですね? それらは、かみ食らういなごと移住するいなごと若いいなごと食い尽くすいなごでした。そうですね? ローマの悪魔であるドグマが4人の死の使いとなって、木を枯らしてしまいました。実と、葉と、樹皮と、木の生命を取り去ってしまったのでしたね? 4人のドグマの使者が、根っこを除いてすべての部分を枯らしてしまいました。ところで、4人の死の使いが木を枯らしたのなら、4人のいのちの使いが、木をよみがえらせるのです!
227
解りましたか? アーメン!神が、「わたしは回復する。」と言われたからです。神はどのようにして回復されますか? 4人の死の使いが木を枯らしたのなら、4人のいのちの使いがそれを復活させるのです。初めの使者は?義を説いたマルチン・ルターです。2番目の使者は? 聖めの必要を説いたジョン・ウェズレーです。3番目は?霊の賜物を回復させたペンテコステです。聖霊のバプテスマが復活しました。それでは4番目は?みことばです。何ですって? みことばです!
228
偉大な働きをした4人の預言者がいました。一人はマルチン・ルターで、神の義という光を輝かせました。その光は微々たる光でした。次にウェズレーが登場し、聖めという、もっと明るい光を輝かせました。ウェスレーの後にもっと強い光が現れました。ペンテコステ、聖霊のバプテスマをもたらした預言者です。それから終わりの日に、マラキ書4章に記されたエリヤが、みことばを携えて現れることになっています。
神のことばは、預言者に臨みます。夕べの光は現れて、何を回復することになっていますか? 子の心を父の信仰に向け直すのです。これが4番目の光です。
229
4匹の害虫、4人の使者がその木を枯らしました。4人の死の使いがドグマを植えつけてその木を枯らしましたが、4人の正しい使いがその木を元に戻しました。
「人の子よ、預言しなさい。これらの骨は生き返ることができるか?」(もっと時間があればいいのですが。ここに書き留めてあることを読まずにとばさなければなりません。)「預言しなさい。これらの骨は生き返ることができるか?」教会が生き返るのに、4段階を踏まなければなりませんでした。エゼキエルが見た枯れた骨が生き返るための4段階は何でしたか? 筋が置かれただけでは、いのちはありませんでした。風が吹き付けたとき初めて、いのちが入り生き返りました。4番目の、いのちのメッセージが与えられて、初めて生き返ったのです。「わたしは回復すると、主が言われる。」ハレルヤ!神に栄光!褒め称えます!
230
4番目の光は来て、同じしるしを現します。まず、神の義が説かれて樹液を回復しました。聖めの教えが説かれて樹皮が回復しました。葉を回復させたのは? ペンテコステです。どうして? 聖霊が降って、葉がざわめき、手をたたいて喜びました。これがペンテコステです。それから? 4番目はみことばそのものが回復しました。みことばが人となって現れました。義が植えられ、聖となる教えが植えられ、聖霊のバプテスマが植えられた後、やっと、キリストがなさったしるしが復活の証しとして戻って来て、みことばを立証したのです。あらゆる組織は滅び、キリストが、ピラミッドの頭石のように、中心の座に着かれました。
231
初めに義・聖・聖霊のバプテスマと続き、それから、頭がやって来られます。聖霊を受けた者たちは研ぎ澄まされ、キリストが地上から挙げられた時に行われたのと同じ働きをするまでに、キリストに一致していきます。そして、キリストが戻って来られるときに、義とされ、聖とされ、聖霊のバプテスマを受けすべてのプロセスを経た者は中空に挙げられます。あのピラミッドは、もう一度立ち上がります!神の家は息を吹き返します!いのちの木はもう一度成長し始めます!
国々は分断し、イスラエルは目覚める
預言者が預言したしるし
異邦人の日は限られ、恐れに塞がれる
戻れ、散らされていた者たちよ、
贖いの日は近いからだ
人の心は恐怖でくじける
聖霊に満たされよ
ともしびの芯を整えよ
見よ、贖われる日が近い。
偽預言者は偽り、
神の真理を否定する
キリストなるイエスは神であるという真理を(アーメン!)
・・・
しかし我らは使徒が通った道を歩む
贖いの日が近いから
人の心は恐怖でくじける
(原子力やら何やらで)
それでも聖霊に満たされよ
ともしびの芯を整えよ
見よ、贖われる日が近い。(アーメン!)
232
終わりのときに、すべてのしるしが復帰し、ロトのしるしも再現されます。前に話しましたね。エホバの天使が人となって現れ、テントに背を向けて座り、「あなたの妻、サラはどこにいますか。」と尋ねました。
「あなたの背後のテントにいます。」
「わたしはあなたのところに戻ってきます。」と天使が言うと、サラは笑いました。「なぜ、サラは笑ったのですか。」彼女はテントの中にいました。アーメン!
イエスが戻って来られるとき、同じようなことが起こると言われました。それから、マラキ4章の夕べの光が闇に輝いて、前もって定められているみことばを照らします。ハレルヤ!
233
4番目の使者は何のために現れるのですか? みことばに光を当てるためです。前もって定められていたみことばは、現れ出て、定められていたことをしなければなりません。神が、「わたしは回復すると、主が言われる。わたしは回復する。」と言われたからです。そうです。夕べの光は、定められていたそのみことばに光を当てるために現れます。
夕べになって光がある
栄光の道を見いだすために
光は今水の流れのなかにある
イエスの御名のうちに隠されて。
老いも若きも罪を悔い改めよ
そうすれば聖霊が満たしてくださる
夕べの光が現れたから。
これは神とキリストがひとつである証拠である。
234
分かりますね。そうです。ひとつが、ともにわたしたちのうちにおられて、ひとつとなるのです。同じしるし、人間の力によるものでないしるしが、現れています。深い地下の根っこから、前もって定められていた神のことばを生じさせるために、みことばが現れています。それは宗派から受け入れられず、突っぱねられ、拒絶されてきたものです。しかし、その光は輝き出ます。その光は輝き出ます。どこから? エルサレムですか? いいえ、違います。夕べの光は、エルサレムに昇るのではありません。それではどこに? 西の方角です。東にはすでに日が昇り、人々はそれを拒否しました。だから夕べの光は西に輝くのです。なんのために? みことばに光を当てるためです。光を当てて、果実を熟させ、花嫁の木を立ち上げて、初代と同じしるし、不思議、霊の実を現すためです。「夕べになって光がある。」その通りなのです。
235
ああ、それからみことばは、時になると果実を実らせるのです。決して枯れることなく、実をつけます。ダビデが言ったように、時が来れば、(アーメン!)初めと同じ実をつけます。
今や、神の手中にある定められていたみことばが、目の前に現れているのが現実です。それはどういうことでしょう?それは、主が来られる時が迫っている証拠です。そしてこの時、「私は回復すると、主が言われる。若いいなごが残したものを(メソジストの食べ残しを)、食い尽くすいなごが食い尽くし、すべて剥ぎ取って倒してしまったが、夕べの時刻になったら、わたしはそれを回復する。」ああ、なんともまあ、今から説教を始めたいくらいです。本当にそうできそうです。
イエスをどんなに愛していることでしょう
イエスをどんなに愛していることでしょう
イエスをどんなに愛していることでしょう
イエスの愛があるから。
イエスから決して離れません
イエスから決して離れません
イエスから決して離れません
イエスの愛があるから。
アーメン!イエスを愛していませんか? わたしは心からイエスを愛します。さあ、癒しのプレイヤーラインを開始しましょうか?
236
父なる神よ、今話したメッセージをあなたの御手に委ねます。途切れ途切れのメッセージですが、聖霊が油を注いでくださり、テープとなって世界中に行き渡りますように。そして、わたしが地上から去った後も、どうぞ主よ、メッセージは受け継がれていきますように。あなたのみことばですから。主よ、夕べの光が輝きますように、そしてキリストの輝かしい花嫁をもたらしますように。主よ、あなたのみことばが決して虚しくあなたのもとに戻ることなく、必ず目的を果たすことができますように。どうか祈りを聞き入れてください。父よ、すべての賛美をあなたに捧げます。
さて、父よ、これはあなたからのことばですから、なんと言おうと、信じます。でも主よ、この復活祭の朝に、あなたのことばが真実であることをどうか実証してくださる事を望みます。ここに初めての方々がおられるもしれません、ですから、あなたが今も変わらずイエスであり、形式の中におられるのではなく、復活された神であり、実際に生きてわたしたちの間におられることを実証してください。父よ、どうぞ祈りを聞き入れてください。あなたをたたえます。イエスの御名って、アーメン。
237
どれだけの人が病気にかかっていますか? 手を上げてください。まあ、・・・ビリー・ポールがカードを配ったと思いますが、そうですね? 何の数字ですか? Eの1から100までですね。全部の数字は無理ですが、少しずつやっていきましょう。よかったらここに列になって立ってくださいね。
1番のカードを持っている人はいますか?E-1のカードを持っている人、いたら手を上げてください。手元のカードをよく見てください。1番の人はいませんか? カードの番号が間違っていないかな? いいでしょう、それなら別の番号から始めましょう・・・ああ、そう、あなたが持っているのですね。それなら、1番の人、歩くことができたら、こちらの方に回って来てください。もし歩けなかったら、お手伝いしますよ。1番、2番のカードを持っている人、手を上げてください。2番ですね、こちらに来てください。3番、ここにいますね。4番、5番。みなさん、ちょっとの間座っていてください。5番ですか? 6番の人、手を上げてください。6番、6番、6番?どこ? 誰かが手で示しています。ここからでは見えませんが、ああ、後ろの方にいました。ちょっとまって、7番?後ろの方の女性ですね。8番?
みなさん、ちょっとの間、席から離れないで、静まってください。さあ、これから実証の時間が始まります。
238
6番7番・・・1、2、3、4、5、6、7?そこまで来てください。8番、8、9、10、10、11、12? なるほど、来るのをやめたようですね。それでは、始めましょう。よろしい、それでは祈りましょう。
父なる神よ、あなたからのひと言は、わたしたちにとって大きな事なのです。主よ、人々にわからせてください。あなたからのことばを、できるだけ率直に話そうとしましたが、手落ちがあったことを主よ、どうか許してください。たくさん貴方の僕による不首尾がありました。主よ、どうかわたしの失敗に目をとめるのでなく、語られたあなたのみことばに目を止めてくださいますようにそれを告げ知らすのですから、そのことを心から感謝いたします。心から嬉しく思います。主よ、これは命より大切なことです。みことばのためにいつでもわたしの命を捧げます。これは本当です。あなたのことばですから。
239
しすて主よ、わたしの愚かな話し方を許してください。多くの時。茶化したり冗談を言ったりしましたが、それはしてはいけないことでした。主よ、恥ずかしく思います。そういう家庭環境から出たものですから。できるなら、目をつむってください。あなたの御血で覆ってくださるよう、お願いします。わたしは罪を告白します。あなたには罪を見逃すことはできませんが、わたしが告白したので、許してくださいます。
わたしは自分の罪を告白しました。この人たちの罪も告白します。彼ら一人一人を許してください。わたしたちのしていることが見せかけ行為でないことを、どうか人々が理解しますように。わたしが先に語ったように、これが終わりの日の聖霊の働きで、みことばを実証しているのだということがわかりますように。しかし、父よ、わたしはただの人間で、所詮わたしが何を言っても、彼らは、「そんなのは単なる解釈だ。彼がそう思っているだけだ。」と言います。父よ、あなたが仰せになり、それが正しいことを証明してください。そうすれば彼らは意見を変えなければならないでしょう。それはわたしの解釈ではなく、あなたのものだからです。主よ、どうぞ祈りを聞き入れてください。もしわたしがあなたの僕であり、わたしの罪が許されているのなら、そして、あなたがわたしをこの働きに召し出してくださったのなら、仰せになってください。この願いを聞き入れてくださるよう、祈ります。
240
病気に苦しむ人たちをイエスの名によって癒してくださるよう祈ります。そして、あなたがここにおられることを、しるしをとおしてわからせてください。井戸のところで女に話しかけたときのように。あなたは彼女の問題を指摘されました。彼女には5人の夫がいたからです。夕べの時刻が来たら、そのしるしを行うと約束されました。確かに、終わりの日にそれを行うとあなたは約束されました。「人の子が来るときもそれが起こる。ロトの時代に起こったことが起こる。」と、あなたは言われました。神が人のうちに生きておられ、聖霊の姿で教会という信じる人々の間で活動され、同じしるしを行われます。主よ、どうか今日、そのしるしを行ってください。 父よ。
それから、人々が理解し、みなが、神の栄光のために癒され、救われますように。アーメン。
241
さて、みなさんの注意をこちらに向けてください。ちょっとの間、真剣に厳かにしてください。今、みんなでできる限り静まってください。
242
あなたたちは、本当に今のわたしの立場がわかっていますか? わたしはここで、神のことばを語りました。わたしが言ったことはすべて真実です。イエスはこう言われました、「わたしを信じる者は、わたしがしている業をその人もするようになる。」さて、あなたに質問します。「アーメン」と言うか、言わないか慎重になってください。イエスは、ご自身で誰かを癒すとは、決して言われませんでした。それは真実です。「その業をするのはわたしではなく、わたしのうちにおられる父である。」と、イエスはいわれましたね? そして聖ヨハネ5:19で、「まことに、まことに、(絶対に)あなたがたに言います。子は、(人としてのご自身のことです。彼は、神が宿られた幕屋でした。)子は、自分からは何もできない。しかし父がなさることを見て、同じことを子もするのである。」言い換えれば、「父はわたしに、何をすべきか幻を見せてくださる。それでわたしは示されたことを行うのである。」
243
あるとき、プレイヤーラインに並べないかわいそうな女性がいました。彼女は何年も長血の問題を抱えていましたが、ただあの人の衣の裾に触ることさえできれば・・・と心に願っていました。彼女は貧しい年寄りの女性で、お金も持っておらず、名もない存在でしたので、司祭や有力者たちが堂々と立っている場所に一緒にいることはできませんでした。彼女は立っていることができないので、這いつくばってイエスに近づき、衣の裾に触れました。「このお方はわたしたちに真理を教えてくださった。だから神のことばが彼にあることを信じます。ただ彼に触れることができれば、わたしは健全になるでしょう。」
244
あなたは信じますか? その女性が信じたように、彼が神のことばだと信じますか? 聖書は、イエスがわたしたちの大祭司となっていると記しています。それを信じますか? イエスがよみがえって、天に挙げられたあと、彼は高く天に挙げられて人々に賜物を与えたとあります。そして今、彼は神の右の座に淪いておられます。天の大いなる君が、わたしたちの告白を聞き、とりなしをしてくださっているのです。そうですね? この大祭司は、理解してくださるお方です。何を? わたしたちの弱さをです。イエスは今も変わらないお方だと信じますか?
245
さてもしあなたが、わたしを一日中触っていたとしても、何の変化もありません。他の兄弟や姉妹を触っても、何の変化もありません。ただ手を置くという言いつけに従っているだけのことです。でももしイエスに触るなら・・・!あなたがすべきなのはそのことです。でも、もし彼らがするような儀式に従って、彼に触ったとしても・・・彼らは言いました、「この偉大な教師は預言者であると信じます。」彼は何も言いませんでした。しかしあの貧しい女性には、イエスの心を動かす何かがありました。それは彼女の信仰です。彼女が衣の裾に触れたとき、彼は言いました、「誰がわたしに触ったのだ?」
246
聖書がこう言っているのを信じませんか? イエスは今日でも、前と変わらない大祭司ですので、わたしたちの弱さに同情できない方ではありません。あなたがプレイヤーラインに並んでいようといまいと、あなたはイエスの心を動かすことができるのです。もしあなたが病気であるなら、あるいはあなたの愛する人が病気であるなら、もしあなたの心に重いものがのしかかっているなら、厳かに神の前に来て言いなさい、「神よ、教壇に立っているあの人のことをわたしは知りません。彼は頭の禿げたただの人に見えます。でも、彼が説教したことは真実であると信じます。彼は、あなたが大祭司であると、正しいことを語りました。わたしはあなたに触れたいです。もし彼が真実を語ったのであれば、どうぞあなたが彼の口を使って、わたしに語りかけてください。衣の裾に触った女性に、あなたがしたように。」もしイエスが過去も現在も未来も変わらないお方であるなら!さあ、そうしなさい。もしそれだけではイエスを過去現在未来変わらないお方にできないなら・・・そうではないですか? みなさん、姿勢を整えて、厳かに祈りましょう。
なんて言いましたか? ああ、10人集まっていますね。10、11、12、13、14、15・・・カードの番号が10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20、21、22、23、24、25の人・・・これでちょうどいい数となるはずです。みなさんをあまり長く待たせないといいのですが、でも今・・・いいでしょう、さあ始めましょう・・・
247
さあみんな、彼らが集まっている間に、『ただ信ぜよ』をハミングしましょう。
信じなさい、信じなさい、
信じるならば、全てなされる
信じなさい、信じなさい、(何を信じるのですか?
神のことばを、約束を。何のために?)
信じるならば、全てなされる。
248
山から下りてきたとき、弟子たちがしょんぼりして立っていました。彼らはてんかん症状の子を癒すことができなかったのです。父親が子どもをみながら泣いていました。弟子たちはあらゆる策を試しましたが、効きませんでした。イエスが歩いて近づくのをみて、誰かが言いました、「彼がやって来る。」聖職者たちを通り越して、誰かがイエスを指し示しました。イエスこそ、わたしが指し示したいのです。わたしでもなく、教会でもなく、イエスに注目してください。そして言いました、「彼ならできる。」
それで父親はかけていき、イエスの足元に跪いて言いました、「主よ、わたしの子をあわれんでください!悪魔が様々な方法でこの子を苦しめるのです。もう何ヶ月もこんなふうに泡を吹き、痙攣を起こして倒れます。」癲癇です。「いろいろなところで診てもらいました。あなたの弟子たちのところにも連れてきたのですが、よくなりませんでした。」
イエスは言われました、「もしあなたが信じるなら、わたしにはできる。信じる者にはすべてのことが可能となるからである。」
ただ信じるだけでいいのです。(過去も現在も
未来もずっと変わりません。みんな集まりましたね。
静かにしてください。)
信じるならば全てなされる(なんと素晴らしいときでしょう。)
信じなさい
信じなさい 信じるならば
ただ信じるならば全てはなされる。
249
ああ主よ、みことばが、ここでは今大きく拡がっています。夕べの光を当てて、生き返らせてください。イエス・キリストの名によって、祈ります。アーメン。
主イエス・キリストの名によって、ここにいるすべての霊をわたしの支配下に置く。神の栄光のためである。
祈りのために並んでいる列を見ると、誰も知り合いがいません。みんな知らない人たちです。列に並んでいるすべての人は、初めて会う人たちであり、その人が誰で、どんな問題を抱えているのか知りません。列に並んでいる人は、手をあげてください。会堂にいる人の中で、わたしが初めて会う人はどれだけいますか? あなたたちにも、ここに並んでいる人たちと同じ権威があります。ただ、一人ひとりと向き合うかだけの違いです。(こっちのマイクを使いましょう。今度は聞こえますか?)
250
ここにいる女性は・・・ここで、再び男と女が出会っています。わたしは彼女のことを知りません。今まで会ったことがありません。まったく知らない人です。わたしはだた、みことばに従って、行動しています。「わたしがする業を、あなたもするようになる。」と主が言われたことばに従っています。いつかの朝、幻がまた訪れて、こう言われました、「あなたがどこに行こうとも、決して離れることのないイエス・キリストのご臨在があなたとともにある。」わたしはそのことばを心から信じます。もう二度とわたしと会うことがなくても、これが真実だと信じますか?
251
ここに今まで一度も会ったことのない女性がいます。彼女はプレイヤーカードを受け取っただけです。息子が通常やるように、ここにきてカードをとり、人前でよくシャッフルして、欲しい人に配ります。誰も、どの番号から列が始まるのかわかりません。だから息子は、「いくらかくれるなら、前の列に入れるようにしよう。必ずそこにいなさい。」なんて言うことができないのです。自分でもわからないからです。誰にもわかりません。ただ、・・・聖霊が「呼びなさい。」と言われたら、呼んで開始するだけです。聖霊は、誰かまったく初めての人に目をかけることが、よくあると思います。
252
さて、ここに立っている女性ですが、彼女は何かの問題を抱えています。それは病気かもしれないし、彼女以外の誰かが病気なのかもしれないし、ただ立っているだけかもしれないし、病気のふりをしているのかもしれません。あるいは、何かをあばき出そうとして立っているのかもしれません。もしそうなら、何が起こるか注意していなさい。いつかそうした人のことを見たことがあるでしょう。死体となったその人をドアから運び出さなければなりませんでした。だから、それが正しいことかどうか、知りなさい。
こちらに来て。友よ、わたしたちは遊び半分で教会にいてはいけません。今は終わりの時です。木のてっぺんで実が実っています。そうです。主がやって来られます。
わたしは彼女を知りませんが、神はご存知です。彼女が生まれる前から、神は彼女のことを知っておられます。彼女がここに立って、わたしがここに立っていることをずっと前から神はご存知でした。全知全能の神ですから。そうですね?
さて、神が全知全能で、なんでも知っておられるなら、彼女がなぜここに立っているのかもご存知のはずです。それなら同じ神が・・・
253
神が宿っておられたイエスが地上におられた時、井戸のところで女に話しかけ、彼女の問題を指摘しされました。そのことはみんな知っていますね。すると彼女がこう言いました、「主よ、あなたは預言者であるとおみうけします。」それが、彼女が口にした最初の表明でした。今はキリストと呼ばれるメシアが登場する時です。彼が来られるとき、同じ業をすることを知っています。
イエスが、過去も現在も未来も変わらないお方であり、みことばで約束されたとおり、つまりわたしが話したように夕べの時刻に彼が現れて同じ業をされるなら、待ちどおしいではありませんか。教会がよみがえるのを待っているのですから。
254
さて、もしキリストがこの女性の問題を、かつてのように言い当てたなら、みことばの正しさを実証することになります。
さて、わたしたちがお互い見知らぬ人同士であるので、彼女は自分の手を握っています。わたしは彼女を知りませんし、今まで見たこともありませんでした。彼女はただ、知らない人としてここに立っています。それからそちらにいる人たちも同じです。ここに座っている人で幾人かは顔見知りです。でも多くはありません。もちろんコリンズさんは知っています。ベン兄弟の奥さんです。それからドーチ兄弟姉妹の顔が先に見えたのですが、ドーチ兄弟姉妹、後ろの方にいますね。幾人かは顔馴染みですが、多くはありません。馴染みになるほど、あまり長くここにいることがありませんから。そして今日は、この会堂に初めて来た人たちもいますから、祈ってください。
255
もしわたしが、あなたにとって知らない人なら、夕べの光が来たことを明言します。夕べの光は朝の光と同じです。それは神の神秘の実を同じく実らせます。霊的に話しています。そうです。わたしは今イエスが井戸端で女に話しかけたように、話しています。
イエスはその時、「水を飲ませてほしい。」と言われました。わたしも同じことを言います。わたしが話しているのではなく、キリストです。でも、なぜあなたがここに立っているのか、キリストがわたしに明らかにされるのなら、あなたは彼があなたの人生のすべてをご存知であることを知ることになります。
もし彼が、あなたの過去のことを明らかにされるなら、あなたはそれが正しいか間違っているかわかります。もし彼が、過去のことを知っていて、それをあなたに伝えるのなら、未来のこともわかっていて伝えることができます。それが起こる前に、明らかにすることもできます。
あるいは過去のことも、未来のこともすべてのことを明らかにされます。会衆の皆さん、イエスを信じますか? まさにそのとおりです。あなたが、イエスがそうされたかどうか信じることを信じます・・・まだ信じています。しかし確固たるものにしなければなりません。
256
さて、今この女性を見ています。彼女はだんだん油注がれてきました。彼女は自分が見知らぬ人であることを気づきました。でも、ちょっとご覧なさい。多くのみなさんは、あの光が写った写真を見たことがありますよね。その光が今、わたしとこの女性のあいだにかかっています。見えませんか? 表現するなら、緑色のような、黄色味をおびた緑のような、エメラルドの光です。言ってみましょうか? 今あなたは、甘美な謙遜の思いにとらわれていますね? そうだったら、他の人に見えるように手を上げてください。彼女はそれを感じざるを得ません。
さて、彼女のことに介入することができるかもしれません。わたしは彼女を知りませんが、これは神にかかっています。神でなければできないことです。わたしにはできませんが、神ならできます。
257
この女性は手術を受けるか決めかねています。医者は何かの手術を受けなければいけないと言いますが、彼女は医者のところに行きません。
そして彼女は・・・腫瘍ですね。腫瘍が脊柱の右側にありますね。当たっていたら、人に見えるように手を上げてください。さあ、信じますか? あなたには見えませんが、それが正しいと心から信じますか?よろしい。
「もしかしたら、推測しているんではないですか? ブラナム兄弟。」
百万回も、完璧に推測することはできません。彼女を立たせておきなさい。今あなたから光が離れてしまいました。ちょっと待っていて。彼女は大丈夫そうです、クリスチャンですね。ちょっと待って。もし、彼がほかのことも明らかにしてくださらないのなら、・・・ええ、戻ってきました。彼次第ですから。そうです、医者が手術して摘出したがっているのは腫瘍でした。そのことが彼女の問題となっています。でも彼女はキリストを信じてお任せしようとしています。そして・・・彼女はこの近くの人ではありません。彼女は誰かを連れてきています。それは夫で、彼も問題を持っています。そうです。
神が明らかにしてくださると信じますか? あなたの連れ合いのことを、何が悪いのか、見ています。さあ、あなたの夫に、夕食のご馳走を食べてもよいと告げなさい。胃腸の悪いところはなくなりました。
258
これはイエス・キリストがなさっているのでしょうか? あなたはテネシー州から来ました。ナッシュビルです。ビンクリーさんですね。家に帰ってよくなりなさい。
主イエスを信じますか?もしこれが、かつてここにおられた主イエスと同じでないなら・・・女を調べ、彼女に話しかけ、言ったことが真実かどうか尋ねましたね。もしあなたが、ただ信じるなら。納得しましたか? さあ、私にはできないってことがわかりましたね。わたしはただの人です。あなたの兄弟です。でも彼は神です。
さて、次の人ですか?あなたが列に並んでいる人ですね?
259
もちろん油注ぎがあるのです。不覚におちいるくらいわたしが弱くなったのに気づきましたね。あの女がイエスの衣の裾に触れたとき、イエスがこう言われました、「力がわたしから抜けていったのを感じた。」そうですね? 彼から力が抜けていったので、弱くなったのです。みことばそのものであるお方がそうなったのなら、ましてや、主が臨む者はいかにあらんやです。神の子がそうなったのなら、神の恵みで救われた罪人であるわたしはいかにあらんや。ぐるぐる振り回されてしまうのです。でもわたしはイエスの大使としてここにいます。情けない大使です。すべての罪を悔い改めます。だからわたしを見るのではなく、イエスを見てください。そのような見方をしてください。
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さて、わたしはあなたにとって知らない人ですね。わたしもこの女性を知りません。お互いに知らない人同士です。そうです。さて、もし主イエスが・・・わたしがあなたを知らなくて、あなたもわたしを知らない。もし主イエスが、あなたがここに来た理由をわたしに教えてくれたなら。あなたがしたこと、あなたがすべきでなかったことなど、明らかになったら、それが驚くべき奇跡であることがわかりますね。それは説明できることではないのです。
奇跡は説明できません。それは誰でも知っています。これは驚くべき奇跡となるでしょう。それは次の奇跡よりももっと奇跡となるでしょう。例えば、車椅子の女性がいて、関節炎であちこち縫合されていたとして、わたしが「立って歩きなさい!」と言うと、その人が歩き出したとします。すると皆が叫び出します。しかし、実際にはその人の信仰の力によるものなのです。立ち上がって、歩く・・・それは可能でしょう。しかし、誰かの人生の過去にさかのぼり、言い当てるのは、それよりもっと大きな奇跡なのです。それができるのは神おひとりですから。だから、それが神の業かどうか、あなたにはわかるのです。
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おや、どこか別のとことろで、何かが起こっています。ちょっと待って。光が離れて行きました。どこか会衆のところへ、どこだろう。行ってしまいました。ちょっと待って。ちょっとこの人と話をさせてください。真剣におごそかになって、注意していてください。さあ、祈りましょう。あっちの方で祈っていますね。あなたたちにこう祈ってほしいのです、「主よ、どうぞわたしのところに来てくださいますように。」列に並んでいない人たち、祈ってください。
もう一度、あなたの信仰のために、あなたに言います。もし他の女性に起こったのなら、あなたにも起こるはずです。あなたの信仰にかかっています。あなたの信仰が奇跡を起こすのです。わたしではありません。あなたが神を信じることです。イエスは決してこうは言われませんでした、「わたしはこれからあの女性に会うことを知っている。」そうではなく、ラザロが生き返るときが来たとき、神はイエスに、何をすべきか示されました。神は言われました、「あっちに行きなさい。」そしてイエスはご自分を証明されました。彼はそこを離れて行かれたのです。それから戻ってくるとこう言われました、「ラザロは眠っているのだ。」そしてラザロのところに行き、彼を墓からよみがえらせました。死んでから4日たっていましたが、彼の魂を呼び戻されたのです。イエスはそのとき、力が出て行って弱くなったとは言われませんでした。それは神が賜物を使ってなされた業だったからです。でも、あの女がイエスの衣の裾に触ったときは、神の賜物を用いたのは彼女だったのです。同じことがここで行われているのです。あなたがするのです。
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さあ、聞きなさい。狩りに行くならば、クマやらなにやらのことが前もって知らされます。どの場所でそれらが現れるか、一語一語はっきり示されました。それは神の業であって、わたしを邪魔するものではないのです。でも、人々が神の賜物を使い始めるとき、わたしは神の公僕となり、傍受します。その情報をもって神に近づくと、神が答えてくださるのです。
さあ、この女性が幻に現れてきました。幻が動いています。周りを見ることができるようです。女性は病気です。重い病気です。まず胃腸がひどく悪い状態です。それが本当なら手をあげてください。それから合併症もいくつかあります。そうですね。あなたと一緒に来た人がいます。それはご主人です。彼も病気です。もし神がご主人のどこが悪いのか明らかにされたら、わたしが神の預言者であることを信じますか? ご主人は目と耳の状態が非常に悪いです。神はあなたを知っておられると信じますか? あなたの名前を明らかにしたら、わたしが神の預言者で、先見者であることを信じますか? あなたはロバートソンさんで、アラバマ州ハンツビルから来ました。ご主人のもとに戻り達者でいなさい。
あなたは信じますか? 信じるものには、すべてのことが可能なのです。しっかり構えて、神がそうされることを信じなさい。疑ってはいけません。ただ、神があなたを癒し、なんでも願うことを与えてくださると心から信じなさい。
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大丈夫です。さあ、こちらに来てください。あなたが次の人ですね? 失礼ですが、わたしたちはお互いに知らない人ですね。イエスがサイモンという名の人のところに来て、彼のことを明らかにされたとき、サイモンは心から信じました。同じことが起こったらあなたもそうなさいますか? そうですね。わたしたちは知らない人同士です・・・。神は、男も女も区別なさいません。神ですから。
あなたが、今感じていることを、僕をとおして神が明らかにしてくださると信じますか? あなたがここにいる理由、あるいはどこか悪いところがあるとか、なんでも。明らかになったことが真実かそうでないか、あなたにはわかります。神が明らかにしてくださいますように。幻がこの男性に訪れました。彼は病気でここに来たのではありません。聖霊のバプテスマを待望しています。それが彼の願いです。正しいですか? あなたはこの地域の人ではありませんね。あなたは、道路を越えていったところの、えっと、インディアナ州セイモアという場所からきましたね。あなたはビルと呼ばれています。ビル、戻って、イエス・キリストの名によって聖霊を受けなさい。
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こちらに来てください。わたしが神の預言者であると信じますか?イエスキリストは神の子で、今も生きておられることを信じますか? このようなことが起こるのは彼がそれを許しておられるからだと信じますか?(あとどれほど列にいますか? あまり疲れ果ててしまいたくないので確認します。)いいでしょう。さて、あなたは自分のために来たのではありませんね。誰か、ここにいない人のために来ました。もしわたしが、その人の問題を言い当てたら、その人の癒しを受け入れて信じますか? その人は癌ですね? 彼らが癒されることを信じますか? それなら、主イエスをたたえながら行きなさい。
みなさん、信じますか? これが聖霊のなせる業であることを信じますか? 素晴らしいと思いませんか? 神を信じますか? どれだけの人が残っていますか?大概は2人か3人が証人なのですが。(注:誰かが「3人、あるいは4人」と言う。)4人ですか。今ここに立っているのは5人目の人ですよね。よろしい。さあ、イエス・キリストは神の子で過去も現在も未来も変わらないお方であることを、みんなで信じましょう。
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あなたは赤ちゃんのことでここに来ましたね。もし神が、あなたの赤ちゃんのどこが悪いのかを明らかにされたら、神の癒しを信じますか? 重い心臓の病気ですね。そうですね。赤ちゃんはこの町ではなく、この州でもないところから来ました。赤ちゃんがどこから来たか、神が明らかにされると信じますか? そう信じれば、赤ちゃんが良くなると信じますか? 赤ちゃんを連れて、ケンタッキー州フランクリンに帰りなさい。信じて、信仰だけを持つのです。ちょっと、こちらに来て。イエス・キリストの名によって、悪霊を糾弾する。死が去って命が訪れますように。彼らが病人の上に手を置くと、癒されたと、あるとおりです。
何か食べたいですか? 神が具合を良くしてくださることだけを思いなさい。あなたから今、去っていきましたよ。アーメン。
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266 あなたは、婦人病があなたから去ることを信じますか?よろしい。席に戻ってこう言いなさい、「主よ、ありがとうございます。」
初めまして。ああ、悪魔の喘息ですね。ちょと待って。ちょと待って、何かおかしなことが起こりました。いいえ、おかしいのではなく、正しいことが起こりました。あの時あの人をとらえたのと似たような状況が起こっています。それが何か確かめさせてください。ちょっとわたしを見てください。黒人の男性です。このあたりに座ってわたしを見ています。彼は病人を連れています。そうですね? 喘息と蓄膿症です。そうですあなたの信仰が神に触れたのです。あなたはここの人ではありませんね。あなたは北東の方から来られた。ニューヨークですね。そうです。あなたはハントさんです。今信じましたね。あなたの横に座って、祈っているのはあなたの友達ですね。わたしが神の預言者であることを信じますか?あなたは、彼と一緒にここにやって来ました。あなたの名前はコールマンです。あなたは、お父さんの喫煙の問題を祈っていますね。これは「主が言われる。」ことです。信じなさい。
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あなたの胃腸は過敏です。それがあなたの問題ですね?イエス・キリストの名によって、言います。安心して食べなさい。癒されたことを信じますか? 戻ってこう言いなさい、「主よ、ありがとうございます。」心から信じなさい。
あなたは神経の不調に悩ませれています。心から信じなさい。家に帰って健やかでいなさい。
あなたは神経過敏です。神があなたを健全にしてくださると心から信じなさい。少しでも疑ったりしてはいけません。
あなたは神経過敏と心臓の問題ですね。イエス・キリストが癒してくださると信じますか? イエス・キリストの何よって、よくなりなさい。
神経の不調と胃腸の問題と心臓の問題と胃の不調で、食べるものが全て酸っぱく感じてしますね。行きなさい。心に疑いを持ってはいけません。願いは聞き入れられ、不快な症状はなくなります。
あなたの背中が痛むのですね。心から信じますか?それなら行きなさい。イエス・キリストが治してくださいます。
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ちょっと待って。ちょっとの間静かにして。何かが起こっています。ここにいる女性は不思議です。あの光が、彼女の周りを素早く回ってから向こうに飛んでいき、また戻ってきました。何かが起こったのです。
ちょっと待って。黒人の男性が見えます。さっきの人とは違います。ちょっと待って。ビリー、ちょっと引っ込んで。あ、わかりました。そこに座っている黒人の男性です。あなたも背中に痛みを抱えていますね。そうです。あなたは私にとって、知らない人です。わたしも、あなたにとって知らない人です。でも、ひとつ、背中の痛みよりもっと大切なことがあります。キリストに心を向けなさい。そうすれば祝福を受けます。さあ、キリストを救い主として受け入れますか? あなたはオハイオから来ましたね。そうです、オハイオからです。家に戻ってよくなりなさい。イエス・キリストがあなたの罪を許してくださいます。家に帰って、癒されなさい。
さて、姉妹、こちらに来て。合併症、神経過敏と衰弱。神があなたを健全にしてくださると信じますか? 席に戻って、「主イエスよ、あなたがしてくださったすべてのことを感謝します。」と言いなさい。
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あなたは神が、あなたの背中を直し、肝臓を癒してくださると信じますか?それなら、行きなさい。イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。喜びをもって「イエス様感謝します」と言いなさい。
君は信じるかい?神が君をいやしてくれると?言いなさい「神様感謝します。」とそして言って神を賛美しさえすればいいんだよ。
さて、心から信じますか?それな行きなさい。イエスキリストがあなたを癒してくださいます。ちょっと待って、彼女ではありません。そこの女性ではなかった。
ちょっと待って。今、水が飛び散るのを見ています。誰かがどこか海の向こうから、ここにやって来ました。女性です。彼女はオランダから来ました。どこにいますか? ああ、そこにいますね。姉妹よ、大丈夫。あなたは癒しのためにはるばるここまでやって来ました。わたしを預言者だと信じますか? あなたはリューマチと関節炎と凝りに悩まされています。主イエス・キリストを信じなさい。そしてこのメッセージをあなたの仲間に伝えなさい。主の祝福がありますように。
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信じますか? ここのずっと後ろの方に座っている人、女性です。彼女は胆のうに問題を抱えています。ああ、彼女は受け損ないました。神よ、助けてください。インディアナポリスから来ました。名前はジェワルトです。その場でお立ち上がり下さい。そうですイエス・キリストの名によって、よくなりなさい。
心から信じますか?イエスが死からよみがえったと。(はっきりしない言葉)お祈りしましょう。
主イエスよ、あなたの聖なる力をこの教会に送ってください。この教会に吹きまくって、わたしたちの姉妹のうちにも来て命を助けてください。主よ、彼女に、彼女が求めている偉大な癒しを送ってください。ここにいる人々を癒してください。あなたに栄光がありますように。どうぞ聞き入れてください、主よ。
そしてお互いに手を置きあっている人たちにも。これらのハンカチのためにも、イエス・キリストの名で祈ります。ひとり残らず癒されますように。主よ、しるしを現してあなたのみことばを確かなものとしてください。そしてサタンよ、腐った悪魔よ、お前は敗北した。お前は自分の作った信条で神を裏切ったが、神は、神の子を回復すると言われた。夕べの光が輝くとき、神は元どおりの栄光の姿に教会を戻される。そして今がそのときである。回復すると私たちには権利がある。私たちには大祭司なる弁護者がついている。そのお方に訴え出て、権利を取り戻す。長い間縛られて来たが、もうお前にその力はない。イエス・キリストの名によって、復活の力と、ここにおられる聖霊によってお前に命じる。この会衆から出て行け!(注:会衆が大胆に喜ぶ。)