62-0513M 真の神の預言者のあり方
- 伝道者:ウィリアム・ブランハム
- アメリカ合衆国インディアナ州ジェファーソンヴィル
- 録音番号:62-0513M
- 年:1962
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おはようございます。いい朝ですね。ここにいるのが心地よい時期になりました。わたしは、生きてこの朝ここでみなさんと共に再びいられる事が嬉しいです。短期間にいろいろなことが起こるものですね。もう、いつあちらから大審判を受けよとお呼びがかかるかわかりません。いつでもその準備ができている様でいたいですね。平安を持っていられるように。2
先週の日曜の夜に、みなさんの前でお話しできたことを、とても嬉しく思います。先週の日曜の夜、『わたしたちには、すべてのことがそなわっている』という題の説教をしました。ロバーソン兄弟やみなさんが、その説教を喜んでくれたことを聞いて感謝しています。その日は説教するつもりはなかったのですが、来てみたらネヴィル兄弟がマルハナバチのように喉を腫らしていたのを見て、こう思いました、「かわいそうな兄弟。もし彼に頼まれたら、なんでもできることをして助けてあげよう。」彼は朝の集会で激しく説教しましたから、疲れて喉が腫れている状態がどんなに辛いか、わたしにはわかりますしね。それで、日曜の夜は、彼に代わってわたしが説教しました。そういうわけで・・・どうもありがとう。3
さて、祈りを必要としている人が大勢いますから、まずその人たちのことを念頭におき、すべての要望を祈りましょう。頭を下げましょう。天の父よ、感謝の心を持ってあなたの集会に入りなさいと聖書に書いてあります。聖徒の集会で、わたしたちの要望を聞いていただくためです。今朝は本当にたくさんの要望が来ているので、どのようにしてあなたに聞き入れていただいたらいいか、わかりません。でもあなたはそれらすべてをご存知です。そして声に出なかった要望もあります。あなたはそれらもご存知です。ですから、先週の夜シェファード姉妹と兄弟の子どものために祈ったときのように、わたしたちは、心から祈ります。あのとき、聖霊が戻って来てこう言われました、「彼女にはもう、ポリオがありません。彼女は回復します。」これを聞いたとき、わたしたちがどんなに安堵したでしょう。
病気の癒しや、愛する者を亡くした家族や、あらゆる祈りの要望を聞き入れてくださるようお願いします。父よ、それら一つ一つを心にとめてください。わたしの祈りと、みんなの祈りをまとめて、イエス・キリストの御名によって、御前に捧げます。どうぞわたしたちの祈りを聞いてください。アーメン。
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わたしのために祈ってくださったみなさん一人一人に感謝します。ご存知のように、ちょっとした爆発が、射撃練習中に起こりました。サタンがわたしを殺そうとしたのです。もちろん、彼は失敗しました。神がわたしを、まだお入り用だからです。わたしにお役目がある間は、手出しができないのです。神からのお役目が終了したら、召される準備ができます。しかし、これは神のご慈悲によるものなのでしょうか、良き友であるウッド兄弟が、あの世ではなく、この世においてわたしを見つけてくれました。5~6トンの爆発が、わたしの顔の近くで起こったのです。そんな感じです。しかし、ご覧のようにまったく被害を受けませんでした。顔をちょっとかすった程度で、その痕ももう消えました。一か所傷が残っている程度です。5
わたしは電話での会話から知ったのですが、ドーチ兄弟姉妹や、ブラウン兄弟らが集まってわたしのために祈ってくれたことを感謝したいです。本当に感謝です。電話で分かったのですが自分に祈りが必要な時、誰かが祈って下さる事に心から喜びを感じます。たとえ何もなくても祈ってくださったことを知っています。本当に感謝です。そのおかげで、守られています。神がわたしを元気にしてくださったゆえにとてもうれしいです。6
さて、ここの可愛い人々を神に献げる前に、お知らせがあります。今日の夜は、この会堂で礼拝がありますので、参加してください。今晩わたしはラドル兄弟のところに行って説教します。戻ってきたら、別の晩にジュニー・ジャクソン兄弟のところに行こうと思っています。それからセラーバーグの兄弟のところに。彼には一晩の借りがありますから、会いに行きたいと思います。ユーティカにいる兄弟・・・できたら夜の集会に参加したいです。7
今週は、ウィスコンシン州のグリーンベイに行き、ご存知のようにフルゴスペル・ビジネスマンの地域集会に参加します。次の日曜日には、前に行ったことのある高校の講堂での集会に参加します。なんていう名前の高校でしたっけ? メーサー? ああそう、スティーブン・メーサー高校の講堂です。それから月曜日には、前回シカゴの聖職者協会と話し合いをした場所での集会に参加します。そこでジョセフ・ボゼー兄弟のお別れ会があります。彼はタンガニカ、(確かそういう名前だったと思います)、ケニア、ダーバンなどを回って、南アフリカを始めとするアフリカでのわたしの秋の集会の準備をしてくれます。どうぞわたしたちのことを覚えて、これらの集会のために祈ってください。
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それから戻ってきてから・・・この会堂での集会に参加する時間があるかわかりませんが、次にノースカロライナ、サウスカロライナに行き、足を伸ばしてカウパレスに行き、ロサンゼルスのサウスゲートに行きます。そこで、できたらウェザビー氏に会いたいと思います。砲弾を爆発させたライフルを作った人です。彼は、前方にじゅうぶんなスペースを設けなかったために、砲弾が前に発射する代わりに後退してしまいました。それは古いライフルでした。それに飽きたので、改造して別の型の銃に仕上げました。わたしはそれに弾を込め、引き金を引きました。すると、銃は45メートル四方に飛び散り、わたしの手に残った部分は溶けていました。銃身は50ヤード線上に飛び、ボルトは、わたしから27~36メートル後方にある鹿のオリの後ろまで吹き飛びました。そして炸裂した弾の破片は、木の樹皮やあらゆるものを吹き飛ばしました。そのように暴発したとき、わたしの目はその銃から2.5センチほどしか離れていなかったのです。その銃は3,100キロほどの圧力に耐えられるものでしたから、そのときどれだけ大きなエネルギーがかかったのか想像できると思います。それに考えてみてください。銃が暴発したとき、わたしの頭と肩も吹き飛ばされていたはずです。しかし、主がいてくださいました。それでわたしは害を受けることなく、顔の周りをかすっただけで済みました。ひとつの小さな弾の破片がわたしの目の横下の方に入り、目の周りに輪を作りましたが、破片が入ったところは視力に影響を及ぼしませんでした。わたしの頭蓋骨に刺さった破片の中で大きなものは目の周りに刺さり、目には刺さりませんでした。ですから・・・ああ、なんてことでしょう。
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それほど前のことではありませんが、イエスがわたしの部屋を訪れて、こう言われたことをみなさんに話しましたね。「恐れるな。イエスキリストの御臨在が、あなたから決して離れることがないからだ。」ですから、このことはそのことばを証明するものだったのです。主がおられる事を。わたしの目を診察してくれたルイビルの医師で、わたしの友人であるサム・アダル医師にこんな手紙を書いてよこしました、「わたしには、あの朝主がおられて、主のしもべを守られたとしか言いようがないです。そうでなかったら、彼には頭や肩が残っているはずありません。」ですから、イエスは本当によくしてくださいました。感謝します。この事件を通して、もっと神に近づくことができました。神に触れて、影響を受けないことなどありません。
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それから3日後、わたしが集会を計画していたカナダから、その人が電話をくれました。彼はこのことはなにも知らなかったのですが、集会を延期してほしいと言ってきたのです。凄いですね。事件が起こっていなかったら、わたしはカナダに向けて旅立っているところでした。それで、電話をかけ直して、カナダでの集会を7月に開くことになりました。7月の最後の週にです。その後、主がお望みなら、ドーソンクリークに行き、アラスカ州アンカレッジに行きます。さて、これらの集会については、何の導きもありません。でも夏中ここでぶらぶらしているわけにはいかないのです。あちこちで人が死にかけていますから。何があっても、どこにでも出かけて種を蒔かなければなりません。もし芽が出なくても、空の鳥に食べられても、何であっても、種を蒔きたいのです。神がわたしに蒔くものを与えてくださったからです。ですから、種蒔きをしに行く事になります。
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さて、時間がありますから・・・。多くの人がいわゆる『洗礼』を赤ちゃんに施してキリストの信仰に結びつけます。それもいいでしょう。そうしたいのなら、あなたの自由です。もちろん本当に洗礼を授けるのではなく、赤ちゃんの頭に水をふりかけるだけのことですから。しかし、わたしは聖書の言うことを守りたいです。ですから、みことばが言われるとおりのことを、何であれ、わたしはしたいのです。しかし聖書のどこにも・・・・それは見つけられません。旧約聖書では、彼らは男児に肉的に割礼を施し、母親は清めの捧げ物として2羽の鳩か子羊を捧げました。しかし新約聖書では、この大切な奉仕を示唆する箇所を一つしか見つけません。それは献児です。人々は幼い子をイエスのもとに連れて行きました。イエスは子どもたちを抱き上げて祝福されました。イエスの時代、親たちはそのようにしていたのです。イエスの生き方は、私たちの模範です。イエスはこれを模範として行なわれました。12
さて、わたしたちは、人々が連れてきた幼い子を受け取り、神の前に掲げ、神からの祝福を願います。そして、子どもの両親から神に、子どもをささげる祈りをします。のちに子どもが、自分の意思でイエス・キリストの名によって洗礼を受けるようになるまで、イエス・キリストの名によって彼らを神にささげるのです。聖書には、何であれ私たちが言ったり、おこなったりする場合、イエス・キリストの何よっておこないなさいと言われましたから、わたしたちはそのようにしたいのです。13
さて姉妹、「ブリング・ゼム・イン」をお願いします。姉妹がやさしくピアノを奏でてくれている間に、お母さん方やお父さん方で、まだ子どもを主に捧げたことのない方は、よければ今、連れてきてください。会衆のみなさんはやさしく歌いましょう。連れてきなさい、連れてきなさい
幼な子をイエスのもとに。
わたしは小さい子どもたちが好きです。なにか、いとおしい気持ちにさせてくれるのですよね、子どもたちは。
この子は正真正銘イタリア人ではないですか? そうですね。イタリア人の家族(・・不明瞭・・)先日シカゴに住むあるイタリア人の姉妹が、この家族がイタリア人であると教えてくれました。名前は何といいますか? ジョナサン・デービッド。なんて素敵な名前でしょう。ジョナサン・デービッド。彼のお父さんはイタリア人の名前ですが、赤ちゃんには聖書の名前をつけたいと思ったそうです。聖書にはコルネリアスという名の立派なイタリア人が登場します。知っていますよね。彼はある部隊を指揮していました。良い人で、人々にほどこしをしていました。彼がまだ異邦人であったとき、・・・皆さん、この話は知っていますね。あるとき天使が彼の家を訪ね、神のご計画を知っている人のところに使いを出すように伝えました。そして・・・皆さん、この話は知っていますよね。ペテロは彼らが神を畏れる人たちであることを知ったのです。ペテロがまだ話をしているうちに、聖霊が彼らに降りました。この赤ちゃんも、コルネリウスと同じような人になりますように。
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ジョナサン、すばらしい!抱いてもいいですか? さあ、いらっしゃい、ジョナサン。まあ、なんという、家族にとっては角砂糖ちゃんですね。さあ、頭を下げましょう。天の父よ、コルネリアスという名の立派な人物の話をしてからもう何年も経ちますが、彼は良い人で、正しい人でした。人々にほどこしをし、神を愛していました。ある日、神の使いが彼の家を訪れました。ああ、神よ、この朝、この幼いジョナサン・デービッドをあなたに捧げます。天の父よ、あなたに祈ります。あなたに捧げるために、この子を母親と父親の手から受け取りました。この子の人生が、あなたに仕える人生となりますように、この祈りを捧げます。この家庭を祝福してください。教会のしっかりした敷石となりますように。父よ、祈りを聞き入れてください。イエス・キリストの名によって、ジョナサン・デービッドをあなたに捧げます。アーメン。
神があなたたちに恵みを与え、この子を神の諭しのうちに育てることができますように。ジョナサンを祝福します。
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さて次は、まあ、なんて幼い。男の子ですか、女の子ですか? 男の子!将来の説教師ですね、願わくば。名前は? マイカ? マイカ。わたしは今朝、彼について説教しようとしています。マイカ・エドワード。いい名前ですね。さて、赤ちゃんを抱くとなると、妻の方が上手なのですが、なにしろ、赤ちゃんを抱いたら壊れてしまうのではないかと、いつもビクビクしてしまいますから。なんて愛らしい。小さな目でキョロキョロしています。こんなにちいさいですけど、いくつ? 1ヶ月。さあ、頭を下げましょう。天の父よ、この若い夫婦は、結合の実りをあなたに捧げるためにここに来ています。神の諭しを受けて育てるようにと、あなたからいただいたいのちです。この幼いマイカを祝福してください。神よ、この子を聖書のマイカのような人にしてくださるよう祈ります。父よ、どうか聞き入れてください。神の祝福をこの子に与えてください。この子の父親と母親に祝福を与え、この子を霊に導かれる者にしてください。キリストのためのしっかりした敷石となりますように。父よ、どうか聞き入れてください。父親と母親の腕から、あなたの腕に、イエス・キリストの名によってマイカ・エドワードを捧げます。アーメン。主の祝福がこの子にありますように。そして父親と母親を祝福し、神の諭しのうちにこの子を育てることができますように。神があなたたちと共におられますように。(・・テープの空白・・)
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わたしは幼い子たちがとても好きです。どの子も世界中で一番可愛い子です。生まれたばかりのジョゼフを家に連れて帰ったとき、彼は、正直言って、今まで見た中で一番みにくい子でした。でも母親とわたしにとっては、彼はお人形のようでした。そんなものですよね。そう思えるのです。17
ちょっと知りたいと思っているのですが、ここにいる仲間たちの中で、どこかに・・・(目にベラドンナ剤が入っているので、かなり霞んで見えるのです。)ナッシュ姉妹からナッシュ兄弟のことを頼まれたのですか、彼は大丈夫ですか? ふたりはここに来ていますか? おお、いますね。ナッシュ兄弟のゆえに主を讃えます。さて、シェファード姉妹はいますか? 小さな女の子が病気だった姉妹です。彼女はもう大丈夫ですね。よかった。知らせを受けたとき、ちょうど5分後に、外部から来た人々のインタビューを受けるところでした。その子がポリオで、手も足も硬直していると聞いたので、祈るために急いで部屋に入って言いました、「教会の後で行きます。」ロイスに電話で、その夫人がもしわたしを必要とするなら、教会の後で訪ねると言ってもらいました。そして祈っていると、聖霊がこう言われました、「ポリオは消えました。彼女は大丈夫です。」18
ここの教会でみんなで祈りましたね。もう解決です。どうぞ、(注:ある女性が証しをする。)主を讃えます。祈りは物事を変えます!(え、あなたの義理の息子は今朝ここに来ていませんか?)
先週の日曜日にここで説教したとき、ある若者が来ていました。わたしはずっと彼を見ていました。そしてこう思ったのです、「どこかで見たことがある若者だぞ。」それからわかったのですが、彼は旧友ジム・プールの息子でした。なんといっても、わたしたちは小さい頃から一緒に育ちました。彼は、わたしがショットガンの事故にあった原因でした。それからのちになって、彼自身がショットガンで撃たれました。わたしの友人です。あの若者はキリストに導くことができると信じます。彼の父親を導こうとずいぶん苦労しました。今でも希望を捨てていませんし、導くつもりです。あの若者は導けると思います。彼を観察したところ、彼には、(他の人にはこれを適用できませんが、いわゆる、)良い霊の振動を持っていると感じたのです。良い感じです。だから彼をキリストに導くのにそう時間はかからないと信じます。だから、彼のために祈りましょう。そうです。
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それから、えっと、・・・・誰か病気か何かの人のことを思い出そうとしているのですが・・・。とにかく、みんなのために祈りましょう。それから覚えていてください。祈りの依頼を送ったら、(会堂のどこかに座っているはずの妻なら知っていますが、)すぐにわたしは自分の小部屋に行き、祈ります。何かの促しを受けるまでは、その場を離れません。あきらめずに祈り続けます。
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先日ドクター・サムが、わたしの目からあの破片を取り出そうとして、ひどく怪我をしました。彼はわたしの顔にタオルを当てなくてはならなくなり、言いました、「友の血を見るのは辛い。」わたしは血だらけでした。彼は言いました、「わたしにはとてもできない。」そして、それを取り出した次の日、彼が病院に入院しました。それでわたしが彼のために祈り、彼は無事退院しました。それから次の日、今度は彼の妻が病院に入りました。原因がわからず、ポリオではないかと言われていましたが、彼女のために祈ると、今では家で元気にしています。それでわたしたちはドクターの事務所に入り、一緒にドアを閉めると、すかさず彼が言いました、「さて、ビル兄弟、ひとつお願いがあるのですが、わたしとベティのために祈ってもらえませんか?」「祈りましょう。」わたしが答えました。
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彼こそが、主が幻でクリニックを立てる場所を示された人です。この話は覚えているでしょう。もし疑うなら、行って彼に尋ねてみなさい。彼はこう言いましたから。「いいですよ。誰でも来させなさい。すでに1万人の人にその話を伝えましたから。」22
(注:教会の1人が声をかける。「ブランハム兄弟」はい、兄弟「今朝、ここにいる人たちと他の人たちの信仰をもっと高めるために証しします。復活祭の朝、あなたは尊い魂を呼びましたね。3番目の男性です。あなたは、彼がセイモアから来たと言い、聖霊の油注ぎによって、あなたはこう言いましたね。『貴方はビルと呼ばれている」彼を知っています。わたしたちがここを去ったあと・・・。彼の名前はアイザックです。そして彼はビルと呼ばれています。」)そうです!彼の本当の名前はアイザックで、ビルと呼ばれているのですね。聖霊には間違いがありません。絶対に確実です。さて、誰かが言っていました、・・・・わたしは53歳で、31年くらいの間、説教壇の後ろに立って、神がなさる何千も何万ものことを見て来ました。
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昨日、わたしはケンタッキーの南部、ちょうどテネシー州との境あたりで、ドルトン兄弟とボートに乗っていました。彼は主からすべての子どもをもらった人です。(朝、ここで彼が話し始めたのを覚えているでしょう。)彼が言いました、「ブラナム兄弟、推測するというのは大変な作業でしょうね。」わたしは答えました、「ドルトン兄弟、何千何万回かける何千何万回もこのようなことが起こっているのですよ。」
「それなら、あなたが言ったことを本に書いたらどうですか?」
「ああ、ドルトン兄弟、わたしが見た主のなさったことを本にしようとしたら、本の量は、百科事典サイズで、このボートから向こうまで届くでしょうね。それで一度でも、たった一度でも、神のなさることで間違いがないのです。いつでも完全です。」
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ああ、そうか。今わかりました。もし間違いでなければ、シェパード兄弟の娘さんは、オレンジっぽい服を着ていますよね。先日の朝、彼女が歩いているところに通りかかったのですが、もしかしたら違う人かと思ったので、そのまま走り去りました。だから、あの時あなたの横に車を止めたのは、わたしだったのです。通りかかったとき、シェパード兄弟の娘さんかと思い、兄弟の車が故障したのかもしれないから乗せてあげようと思ったのです。ちょうどベッキーを迎えに行くところでしたから。でもそれから、もしかしたら、別の子かもしれないと思ったのです。ところが今、兄弟と一緒に座っているのを見て、あの時の女の子が彼女だったことがわかりました。だから、あのとき車を止めて、それから走り去ったのは、わたしでした。25
みなさん、主イエスを愛していますか? わあ、素晴らしい。並外れて素晴らしい。アーメン!(注:誰かがブラナム兄弟に話しかける)まあ、ウィラード兄弟、来てくれて嬉しいです。とても具合が良さそうで、会えて嬉しいです。わたしたち2人とも、顔にぐるりとハンバーガーをくっつけたような状態でしたからね。それにわたしときたら、ハンバーガーひと掴み分で殴られたような姿でした。その晩ウィラード兄弟が寝ている時に見舞って、正直、彼はひどい状態でした。でも今朝は、ひどく好調に見えますから、神に感謝して賛美を捧げます。アーメン!悪魔にはわたしたちを殺すことはできないのですよ。神が「こっちにいらっしゃい。」と声をかけてくださるまではね。声がかかったら、迷わず行きたいじゃあないですかね、ウィラード兄弟。そうです。それまでは、悪魔はただ無駄にもがいているだけです。それだけのことです。主イエスはわたしたちの助け、わたしたちの避けどころなのです。26
さて、いろいろ語ってきましたが、今朝はだいたい6時間の説教をしなければなりません。今回はお知らせをしませんでしたし、チケットなども送ったりしませんでした。ここにいるはずでないことは、すでにお知らせしましたから。でも、ここに寄っていって、ネヴィル兄弟を助け、みんなの顔を見て、ちょっと一緒に居たかったのです。先週の日曜の夜、ロバートソン兄弟が電話をくれ、(彼がここにいるかどうかわかりません。はっきり見えないので。)その晩のメッセージの反響を話してくれました。それから、誰かが電話でこう言いました、「あなたが、神がわたしたちにすべてのことを与えてくださったと語った時、わたしは考えてしまいました。」神は与えてくださったのです。神はわたしたちにいのちをくださいました。それなのにわたしたちはいのちを買おうとします。神は愛を与えてくださいました。それなのにわたしたちは愛を買おうとします。神は喜びを与えてくださいました。それなのに、喜びを買おうとします。神は平和を与えてくださいました。それなのに、平安を買おうとします。買う術などないのです。買うことはできません。それからわたしは、こう言いました、「神はわたしたちに死を与えてくださいました。」
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それについて、誰かが電話でこう言いました、「説教師よ、あなたは話をどこにもっていくつもりだ? ああ、ブラナム兄弟は自分で自分を窮地に追い込んでしまったと、私は思いましたよ。」そうではありません。それは聖書が語っていることなのです。聖書は、神はわたしたちに死を与えられたと言っています。
死をもらっても、どのように対処したらいいでしょう。ご存知のように、パウロは死に際して、「死よ、お前の棘はどこにあるのだ?」と言いました。死は、わたしたちを支配しません。わたしたちが、死を支配するのです。そうです。すべてのことはわたしたちに与えられています。
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それからわたしは、イスラエルがどのようにして、見たこともない、知りもしない約束の地に向かって行ったかを説明しました。彼らは、神の約束によって、そこに乳と蜜の流れる良い土地があることを聞いていましたが、誰もその土地に行ったり見たりした者はいませんでした。だから誰もその土地について知らなかったのですが、約束がありました。ですから、ただ信仰によって、彼らは砂漠を旅していたのです。彼らが境界線にたどり着いたとき、ヨシュアという名の勇士がいました。その名は、「イェホヴァは救い主」という意味です。彼がヨルダン川を渡って約束の地に入り、確かにそこに土地があるという証拠を持ち帰りました。(いいですね!)それは良い土地でした。ひと房のぶどうを運ぶのに二人掛かりというほど、いい土地でした。彼は、確かに自分たちのものとなる土地がそこにある証拠を持ち帰ったのです。29
さて、今度は教会のことですが、わたしたちは不死の地への旅をしています。死が存在しない地、死者が生き返る地です。そしてわたしたちの陣営には、偉大な救い主がおられます。イエスとは、「イェホヴァは救い主、愛されているもの」という意味です。彼は死というヨルダン川を渡ってその地に行き、死んだ後も生きるという証拠を持って、戻ってこられました。アーメン!それなら、死はどこにあるのですか?30
神はすべてのことをわたしたちに与えてくださったのです。今や、わたしたちは相続の保証をいただいています。よく聞いてください。今日はこのことについて説教するつもりはありませんが、とても気持ちが高揚しているのです。わたしたちは相続の保障をいただいているのです。かつては罪の中に生きていましたが、キリストの名によって洗礼を受けて、キリストとともに復活にあずかってからは、罪から解放されました。もう二度と戻りたくはありません。わたしたちは、罪からすくい上げられたのです。今や、あらゆる死からよみがえる可能性を秘めています。もしわたしたちがキリストを信じる信仰によって罪から上げられたのなら、そしてもし罪が・・・。いったい誰が、罪のゴミ溜めの中に戻りたいと願うでしょう。わたしたちは死からいのちへと移ったのです。それが保証です。アーメン!それが完全な復活のための保証なのです。身体的、霊的、すべての復活です。わたしたちは、すでに死からいのちへと移ったので、霊的死を克服しました。
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あるとき、エリヤがヨルダン川に行って、川を打った時、(エリシャが一緒でしたが)川が分かれて渡ることができました。川の向こうから戻ってきた時には、彼は2倍の分け前をもっていました。わたしたちがヨルダン川を打つと(キリストと一緒にですが)、一つの分け前をいただきます。でも戻ってくるときには、2倍の分け前をいただくことになります。わたしたちは、聖霊によって罪から復活して義に移され、永遠のいのちをいただいています。それから、キリストとともに戻ってくるとき、すでにいただいている霊的復活に加えて、身体的復活もいただきます。だから2倍の分け前です。常に典型があります。キリストと教会、エリヤとエリシャです。ああ、この話を始めたらきりがなくなります。これでは6時間のメッセージにとりかかることができなくなってしまいます。(注:ネヴィル兄弟がブラナム兄弟に話しかける。)そうです。ネヴィル兄弟、骨つき肉です。まだ油注ぎが残っています。みなさん、嬉しくないですか?
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ですから、もはや害がないのです。死には力はありません。それはわたしたちのものです。死は私を支配できません。わたしが死を支配するのです。どうやって? わたしを勝利者にしてくださったキリストによって。わたしはすでに死に勝利しているのです。どうやって勝利したのでしたか?キリストを信じることによって。死は罪の中にあります。罪は不信仰のことです。わたしは不信仰の者ではありません。わたしは信仰者です。わたしはそれを克服して復活しました。それが、わたしが身体的にも霊的にも完全に復活することの保証なのです。そうです。わかりましたか?
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だからわたしたちは、イエス・キリストによって、死を支配下に置いているのです。キリストは、死と地獄と墓と病気と悲しみとその他あらゆるものに打ち勝たれました。今やわたしたちは、キリストとともに復活し、霊的な意味で天の住処に座っているのです。キリストにあっては、すべてのことが足の下に置かれています。身体的復活でさえも足の下に置かれています。なぜならわたしたちはキリストのうちにあるからです。わかりましたか?わかったら、手を上げてください。アーメン!いいですね。わかっていればいいのです。そのことを忘れないように。わたしたちは死からいのちへと移りました。身体的、霊的、ありとあらゆるものが、今や、わたしたちに属しています。34
世間はわたしたちのことを狂っていると言いますが、地球全体が、わたしたちのものです。どのようにしてそれを相続するのですか? アブラハムは約束の地にいました。神が彼にその土地を与えられたからです。あるときロトが悪者に拉致されました。(彼はアブラハムの甥です。)そうです。その土地にあるものは、すべてアブラハムのものです。彼は戦士ではありませんでしたし、一度も戦ったことはありませんでした。彼の元には何人かの召使いがいましたが、戦士ではありませんでした。でも悪魔がやってきて、アブラハムに約束されているものを盗んで行った時、彼は召使いに武装させ、自分も武装しました。35
アブラハムには、身内の召使いだけで、どのようにして王の連合を打ち破ることができるか、わかっていませんでした。しかし神が方法を教えてくださいました。彼は自ら打ち破り、王たちを打ち殺して、勝利のうちに戻ってきました。なぜ勝てたのですか? 彼が神の約束を信じきっていたからです。その約束とは、その土地にあるものはすべて彼のものだというもので、ロトもその土地に含まれていました。(その通りです。)戦いの後、彼はメルキゼデクに会いました。アブラハムが道を上ってくる様子が見えませんか? 彼は自分が戦士であることを知りませんでしたが、実はそうであったことを知ったのです。そうです。そして彼は、約束の与え主、メルキゼデクに会いました。
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さて、アモス書を読みましょう。今朝は、(6時間も話さないつもりですが、)『まことの預言者のあり方』という題で話をします。そして今晩は、主がそう望まれるなら、『重圧(プレッシャー)をやり過ごす』という題で話をしたいと思います。37
さて、わたしは批判的な人物として知られています。でもわたしは批判的ではありません。間違っていることに対してだけ批判しています。間違っていることは批判されなければいけません。テープの録音を始めてくれませんか。アモス書の3章を読みたいと思います。アモス書3章の部分を読みます。1 イスラエルの子らよ、主があなたがたに向かって言われたこと、わたしがエジプトの地から導き上った全家に向かって言ったこの言葉を聞け。
2 「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたを罰する。
3 ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。
4 ししがもし獲物がなかったなら、林の中でほえるだろうか。若いししがもし物をつかまなかったなら、その穴から声を出すだろうか。
5 もしわながなかったなら、鳥は地に張った網にかかるだろうか。網にもし何もかからなかったなら、地からとびあがるだろうか。
6 町でラッパが鳴ったなら、民は驚かないだろうか。主がなされるのでなければ、町に災が起るだろうか。
7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」
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彼はその朝、目を細めて、サマリアの町の向こうの丘に立っていたに違いありません。規則正しく動く手が、灰色のひげ越しに見えます。暑い日差しが照りつけています。見栄えのするところがありません。現代の宣教師とはかなり違っています。彼の服はボロで、みすぼらしく見えるひげをはやしています。彼はサマリアの町を見下ろしています。見ているうちに彼の目が細くなっていきます。彼は見栄えしません。しかし彼には、この国に対する神のことば、「主が仰せになる。」があります。主が彼をサマリアに遣わした目的は、多分現代の宣教師がするキャンペーンとはかけ離れていたことでしょう。今日そうすべきと考えられているようなリバイバルのためには、彼は備えられていませんでした。でも彼は現在の宣教師ではなく、預言者です。彼はいっこうに現代的装備には無頓着でした。彼には「主がこう仰せになる。」がありましたから。
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彼は自分が人からどう見えるか気にしませんでした。洋服の着こなしを気にしたり、きちんとくしけずっているか気にしたり、誰かに見られていないか気にしたりしませんえした。彼は主からのことばを携えていて、そのことばを宣べ伝えることだけが彼の目的でした。いったいこの人物は誰でしょう。預言者アモスです。みすぼらしく、孤独でありながらも自分の立場をを知っており、自分のすべきことを知っていました。彼は本当の御言葉の預言者だったのです。
彼がこの町に来た理由は、みことばが彼に臨んだからです。主のことばが、まことのしもべに臨んだなら、状況がどんなであれ、どんなに困難でも、彼は行かなければなりません。準備ができているか、気持ちが向いているか、行きたいと思うか、そのようなことがどうであれ、彼は行かなければならないのです。神が語っておられるのですから、そのメッセージを携えて行かなければなりません。馬鹿げたことに引かれたりしません。お金を求めたりしません。人気を博そうともしません。彼は主の御名を持って行きます。それだけです。彼には、主から遣わされた使命があります。そして彼は、主のことばを携えているので、神のことばです。それこそが主のまことの預言者です。このメッセージの題は、『神のまことの預言者のあり方』です。
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この恐れを知らない神の人は、ヤブロアム2世の時代に預言しました。彼の歴史の一部をここに書き留めてあります。アモスは約13年間、預言活動をしました。ヤブロアム2世は、イスラエルの中でも賢い有能な人物と言えるでしょう。彼はイスラエルに繁栄をもたらしました。彼の統治によってイスラエルは栄えましたが、何かが間違っていました。彼は偶像礼拝者だったのです。先日これを読んでいて、この話が現代の状況にぴったり当てはまると思いました。人がどんなに賢くても、どれほど有能でも、どれほど繁栄をもたらしても、その人が神から離れているなら、その人は国の負債となります。神と神のことばから離れているからです。今日これに当てはまる人がいるのではないでしょうか。テレビに出て、どれだけ賢いか、どれだけ頭がきれるか見せている人たちです。でもそういう人たちは、「主が仰せになる」ことを受け入れることができるほど賢いでしょうか?
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ヤブロアム2世は賢い人でしたが、イスラエルは、背教状態でしたのでイスラエルの説教師も、司祭も統治者も、皆、主のことばから離れていました。でも彼らはそうは思いませんでした。彼らは主のことばとともに生きていると思っていたのです。しかし、「人には正しく見える道が、行く先は死につながっている」のです。なぜ彼らは間違っていたのでしょう。というか、祭司たち全員や、何千もの説教者や、王や、統治者らが皆、自分たちは神を礼拝するものだと言っているのですから、どうして彼らが間違っていると思うことができたでしょう。しかし、彼らは皆、間違っていたのです!彼らに必要なのは、繁栄をもたらす王ではなく、預言者だったのです。主のことばが臨み、それを解釈することができるのは、まことの預言者だけだからです。当時の預言者の様子を見ると、とても荒々しいありさまでした。あらゆる祭司とも、あらゆる説教師とも、あらゆる聖職者とも、そして政府とも、彼は対立しました。しかし、主のことばは彼に臨みました。預言者だけに臨んだのです。彼の聖書は、彼らの聖書と同じものでしたが、それでも彼は正しいみことばを知っていました。みことばは彼に与えられ、神はそのことの正しさを証明されました。
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彼らには立派な建物があり、宗教儀式などもあり、あちこちに祭壇が築かれ、いろいろなことが行われていました。しかし、彼らは百万キロも神のことばから離れていたのです。アモス書を読んで、これが今の状況とぴったり当てはまると、わたしは思いました。家に帰ったら、読んでみてください。統治者も祭司も、すべての者が、神のことばから離れていたのでした。アモス書の別の箇所を読みたいと思います。彼らがどこで間違ったのか調べなければなりません。2章の4節を読みましょう。
主はこう仰せられる。
「ユダの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが主のおしえを捨て、(それがみことばです。彼らはみことばを捨てたのに、それを守っているつもりでいたのです。)そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。(彼らには聖書があったのに、まやかしの偶像に惹かれていったので、惑わされました。)
原因がわかりましたか? 彼らは、みことばに独自の訳や解釈をつけたので、惑わされたのです。現代の状況に当てはまりませんか? あまりにも多くの者が、みことばに独自の考えを付け足して混乱を招いています。なんと的確な神の叱責を、この預言者は語ったことでしょう。
43
アモスは神の預言者、まことの預言者でした。アモスについての本を読んだことがある人なら、彼が大胆で恐れを知らない神の人であったことを知っているでしょう。彼は活動期間が短かったので、小預言者と言われていますが、その働きは、まさに木の根元に斧を置くものでした。彼は、最も恐れを知らない預言者の一人で、油注ぎを受けて登場しました。彼は「主が仰せになる」ことばを携えていました。彼は、語るべきことをわきまえていました。彼の上に神の油注ぎがあって、神のことばを正しく解釈することができたからです。44
アモスは荒野地方から、誘惑的な都会にやって来ました。それまで都に来たことはありませんでした。彼は田舎者です。荒野の果てで彼が祈っていたとき、神が彼のところに来られ、彼が属する惑わしの国家がいかに邪悪であるかを教えられました。サマリアはその首都で、ヤブロアムが統治する都の一つでした。その朝、丘の上に立っていた彼は、古びた粗製の田舎服を着ており、歩いて来たために足は泥や土ぼこりで汚れていたことでしょう。そこにたどり着くまでの幾たびの夜、古いざらざらの外套にくるまって寝たことでしょう。彼の時代にバスタブがあったかわかりませんが、もう何日も、体を洗っていなかったことと思います。でもそんなことは、人間の中身には害を与えません!今の時代は、あまりにも人の外見に意識が向けられ、中身がないがしろにされています。毎日体を洗っているか、髪をきちんととかしているか、洋服をとり替えているかなど、そういうことには注意しますが、中身はほったらかしの状態で、相変わらず罪深い衣を着て、信条やドグマで腐臭のする魂のままです。内側を探って、みことばの水で洗い清めてこの世のことから離れようとはしません。
45
その朝、彼は丘に立って、夢でも見たことがないような先進的な物で溢れている誘惑的都市を見下ろしていました。イスラエルは全盛期に入っており、周辺の国と同盟を結んでいました。艶やかな都でした。女性は肌を露出し、男性もそうでした。彼らは快楽を追い、競技だのオリンピックだのと騒ぎ、あらゆるものが催されていました。彼が目を細めたのも無理はありません。(でも、ニューヨークやロサンゼルスを訪れる旅行者のように、その艶やかさに目を細めたのではありません。)肌を露出した女性や、身持ちの悪い男性、そして罪を見たからです。46
友人が数人何日か前に、ある聖書大学の下の方で釣りをしてその帰りにやって来ました。有名な聖書大学です。肌を露出した若い女性と若者たちが、草の生えた道に横たわっていたそうです。多分その大学の学生でしょう。酒を飲んで楽しくやっていたそうです。ひどいことです。さて、そういう振る舞いに、多くの、自称クリスチャンのアメリカ人の食指が動くのです。彼らがロサンゼルスを見下ろすとき、あるいは、わたしは飛行機がロサンゼルスに降りるとき、彼らを見たのですが、(彼らは初めてやって来たのでしょう。)あるいはハリウッドに、あるいはヤシの木にネオンが巻きつけられたフロリダに。ああ、彼らは鼻に新しいパウダーをかけ、化粧を直します。彼らにとっては、それらはとても魅惑的に見えるのでしょう。手入れの行き届いた着こなしの人が街を歩いているのを見て、彼らもそこに行って、自分たちもぴっちりした洋服を着て、腰をひねって通りを歩いて見たいと思うのでしょう。彼らには、それが素敵なことに思えるのです。
47
でも、神の油注ぎを受けた預言者の目は、旅行者のように魅惑されて細くなったのではありません。神に祝福された者と呼ばれるはずの人々の道徳的退廃を見て、目を細めたのです。彼の目は魅惑的なものを見ていたのではありません。その目は魅了されて細くなったのではなく、神に選ばれた者と呼ばれていた人たちが俗悪で堕落した様子を見て、細くなったのでした。彼がこう言ったのも当然です。「獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神が語られる。だれが預言しないでいられよう。」彼は堕落を見ました。腐敗した状態です。それが彼の見たものの全てした。それらを見たとき、彼は魅了されるどころか、心から嫌悪をもよおしました。なぜなら、彼は預言者だからです。彼にはわかっていました、神が何に対して祝福を約束されたか、その祝福が何であるか、そしてその祝福を人々がどのように取り扱ったかを。悪魔は、本当の祝福を道徳的退廃に変化させてしまいました。神のみ旨と方法、そして神のいのちへの道をうまく利用して、改心していない人たちの目と欲求をそそるような祝福に変えてしまったのです。
48
今日の状態の典型ではありませんか!この世の罪や堕落を見、人々のしていることを見ていながら、どうして説教師は、ただ教団教会に属しているという理由で、説教壇からその人たちを祝福できたりするのでしょう。わたしの魂の理解を超えています。神が語られたのなら、預言しなさい!神の霊が、まことの神の預言者に下ると、彼はみことばを叫びます。わたしは批判的になりたくありません。しかしどうして黙っていられるでしょう。誰がそのようなことを見ていながら、そして神のしもべと言っていながら、叫ばずにいられるでしょう。わたしは、教団が何を言おうが、教会が何を言おうが、意に介しません。だからわたしはどこにも属していないのです。彼らの方からわたしを追い出すでしょうけれどね。でもまず神のことばが臨むのです。もし御使いなら、言うべきことばがあるはずです。でももし、このみことばと異なることを言うなら、神の御使いではありません。教団あるいは何かの学説と契約を交わした御使いです。でも神の御使いには、神のことばがあります。そして、アモスに目を向けるなら、彼には神のことばがありました。主のまことの預言者でしたから。
彼らは自分たちでみことばを解釈できると思っていました。「もちろんできますとも、わたしたちのしていることを見なさい。」
49
さて、アモスはこの朝、丘の上に立って、都を見下ろし、見通していました。見ながら頭を振っています。彼の目は細くなっていきます。袖で顔の汗を拭きます。埃が舞い、暑い日差しが彼の坊主頭に照りつけます。垂れたひげを手で撫でています。彼が見ているものは町のきらびやかさではありませんでした。彼は罪を見ていたのです!彼は喜んで見ていたのではありません。嫌悪をもよおしていました!なぜ彼は、「わたしもイスラエル人である。なんて我が国は繁栄していることだろう。」と言わなかったのでしょうか? 神のまことの預言者である彼に、どうしてそんなことが言えるでしょう?このような状態の結果がわかっており、この後どうなるのかがわかっているというのに。
50
今日、丘に立って、彼に見下ろしてもらいましょうか。ジェファーソンビルの丘に立って、自称クリスチャンの人々を見てもらいましょう。アメリカのあらゆる丘に立って、自称クリスチャンの人々を見てもらいましょう。神の油注ぎを受けた彼の目は、細くなることでしょう。手でひげを絡ませることでしょう。なぜなら、彼の目は、この世が見るようにきらびやかさや繁栄を見ないからです。彼が見るのは、神からかけ離れた姿です。人々の道徳的退廃です。国家の堕落です。教会の腐敗です。目を細めて眺め、それから粉々に打ち砕くために町に入って行くことを望む以外、彼に何ができたでしょう。51
もし司教が彼に会ってこう言ったらどうでしょう、「あなたは主の預言者ですか? それでは、あなたが口にできることとできないことを教えましょう。」こう言われて、彼が従うと思いますか?もし司教が、「わたしたちの教団に加わりなさい。そうしたら、あなたのキャンペーンを応援しますよ。」と言ったとしたら、彼は承諾すると思いますか? とんでもない。彼のような人がそんなことをするとは、想像もできません。彼は神から遣わされました。彼には教団の協力など必要ありません。彼には神のことばがあります。神の油注ぎがあります。神が定めた時に彼は現れて、「主が仰せになる。」と語ったのです。彼はまことの預言者です。彼のやり方は、「主が仰せになる。」以外にありません。
52
この魅惑的な都サマリヤが、独自のスタイルと高い教育を誇るイスラエルが、洗練された説教師や司祭が、何処の馬の骨とも知れないこの人物を受け入れたと思いますか? 多分彼の文法は間違っていたかもしれません。彼は田舎の貧しい家庭に育ち、神に呼ばれて家を出たのでしょう。それで神と神のことばを知るために荒野に入り、そこで預言者になったのでしょう。神は彼をそのようにして生み出しました。預言者は、神の前知識によって、その時代の御使いとして生まれます。そして神の使いとして、その時代の罪を告発します。53
この魅惑的な都が彼を受け入れたと思いますか? 町の女たちが彼の言うことに耳を傾けたと思いますか? 司祭たちが彼の言うことを聞いたと思いますか? とんでもない。彼には教団からの推薦状がありませんでしたから、「私はパリサイ派から遣わされてきました。」と言うことができませんでした。もちろんサドカイ派から遣わされたとも言えませんでした。彼には信任状がありませんでしたし、どこのグループからもフェローシップ・カードをもらっていませんでした。彼のキャンペーンを調整するために下調べに走ってくれる人もいませんでした。彼が来ることを知って、彼のキャンペーンを盛り立てるために全パリサイ派連合集会が開かれることも聖職者の朝食会もありませんでした。彼は誰にも知られていなかったのです。彼にはフェローシップ・カードも信任状も推薦状もありませんでした。でも彼には、「主が仰せになる。」がありました。これこそが、まことの預言者のあり方です。彼は、「主が仰せになる。」をもって、宣教したのでした。54
彼には「主が仰せになる」ことばがありました。人が作成した計画とはかけ離れていましたが、それだけが彼に必要なものでした。もし彼がこちらの方を取れば、彼は教会の名によって登場したでしょう。でもこっちの方の道をとるなら、彼は主の名によって登場するのです。ですから、まことの預言者は常に、主の名による道をとります。彼は主の名によって来ました。さて、フェローシップ・カードを提示することはできませんでしたが、彼には神のことばがありました。神が人々に送るのは、神のことばだからです。人々は組織を作り、そこから分派を形成して来ました。でもアモスには組織がありませんでした。彼にあったのは、「主が仰せになる」ことばだけです。
55
その安息日の朝、祭司たちは祈りをして、お決まりの礼拝をして、かつて生きていた偉大なるモーゼの話や、かつて生きていた偉大な別の人物の話を少しして、それから「かつてはそのような時代があったが、今ではご存知のように、新しい大統領が新しい政府を始めています。」などと話してから、家に帰る様子が、わたしには想像できます。しかし、そんなことには関心を示さない男がやって来ました。彼は「主が仰せになる」ことばを携えています。それが預言者のあり方です。誰からも協力を受けません。彼は、これからどんなことに直面するかわかっていました。あらゆることに対立することも、拒絶されることも、締め出しをくうこともわかっていました。でも彼は主の名によって、やって来たのです。
イエスはご自分の前にカルヴァリがあることをご存知でした。でも彼は主の名によって、やって来たのです。これがまことの預言者のあり方です。
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彼は、その国に対して語られた神のことばを携えていました。しかしまことの主のことばは、その国の人々には耳慣れないものでした。それなのに人々は、神のことばを知っていると思い込んでいました。(しっかり、このことを心にとめてください。)彼らは、自分たちが敬虔で宗教的と思い込んでいたので、神のまことのことばが自分たちとは関係ないものと思ったのでした。今日でも同じです。多くのペンテコステの人々にとっては、神のまことのことばの現れが、異質のことなのです。みことばのまことの解釈、まことの災いや呪い、神のまことの祝福を、ホーリネスと呼ばれる人々は相入れることができません。教会員や、クリスチャンと呼ばれている人たちには、相入れることができないのです。彼らは知らないのです。彼らに話してみなさい。そんなことは聞いたこともないと言うでしょう。それなのに、彼らの組織は成長し、繁栄しています。毎年、規模を拡張し、会員を増やし、組織の数も増えています。そして彼らは、大切なことはすべて、自分たちの宗派から現れると思っています。
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確かに彼らは、その預言者を受け入れませんでした。今日でも同じです。神は、こんな石ころを使ってでも、神のまことの預言者に仕立てることができることを、人は長く忘れてしまっています。神は辺境地の人を使うこともおできになります。神は文明から隔離した人を使って、神のことばを守り、神の名によって真理を預言し、木の根元に斧を置き、木のかけらを落とす者に作り上げることもおできになります。彼に協力者がいようがいまいが、どうでもいいことです。それがまことの預言者のあり方です。預言者は簡単な仕事だと思っている人がいますが、そういう人は自分が言っていることをわかっていません。預言者は、整えられタッセルをつけた馬車で運ばれてくるのではありません。頭に仰々しいものを被った大祭司から、「〇〇博士様、来場」と、お辞儀して迎えられることもありません。それはどこかの組織がやることです。
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全人のための王が来られたのは・・・馬小屋の、まぐさ桶でした。華やかさやきらびやかさからはかけ離れていました。彼は、か弱い赤ちゃんになって馬小屋に生まれたのです。アモスが来たのではありません。主のことばがやって来たのです。彼は主のみことばが来たのです、神からのことばは、いかなるものも、それを語る人のものではなく、神のものなのです!イエスは言われました、「働いておられるのは、わたしではない。」
彼らは抗議しました、「あなたは自分を神にしている。」
イエスは答えて言いました、「もしわたしが神の業をしているのでなければ、わたしを信じなくていい。でもわたしを信じたくなければ、業そのものが証明しているのだから、業を信じなさい。」
アモスは、通りを歩く神のことばでした。彼は無骨な姿で町に入ったことでしょう。世の流行に則してはいなかったはずです。彼は霊の力によってやって来ました。神のことばは、そのようにしてやって来るのです。教団の信条によってではなく、教壇上の女々しいやり方によってでもなく、霊の力によって来て、国とその民に神を現すのです。違うことなのです。全く違います!
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さて、彼らは気づきました。彼らは長い間、神が石ころからでもまことの預言者を立ち上げることができることを忘れていたことをです。彼らの教団がまことの預言者を立上げる必要はありませんでした。なぜなら、多分そうはできなかったから。もしそうしたとしても、教団の預言者になったでしょうから。しかし、神が預言者を起こされます。神は、何でも用いることができますが、たいがい、無名のものを神の働きのために用いられます。それが神による働きであることを人々にわからせるためです。自惚れて自分をひとかどの人だと思っている人物を、神は用いることができません。自己意識が邪魔するのです。こんにちのキリスト教会も同じ問題を抱えています。彼らは、知っているつもりでいます。聖書は、知ったつもりになっている人は、知るべきことを何も知らないと言っています。今日の問題は、あまりにも自分に重きを置きすぎ、あまりにも偽善的で、あまりにも教育を求めすぎ、あまりにも宗教的なので、救いの神のことばを何もわかっていないということです。本当に残念なことです。
60
そうです。神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り、みことばを語るまことの預言者を立ち上げることができることを彼らは忘れてしまったのです。特定の学校を卒業する必要はありません。神が彼らに学習を与えられるからです。大学に行って修士号も博士号も取る必要はありません。神は用いたい者を用い、みことばを授けられます。どのように? みことばが語られたなら、それが正しいことをしるしをもって証明されるのです。イエスがどの神学校出身か、誰も知りませんでした。そもそも彼はどこの学校にも行きませんでした。「彼はどこの学校を卒業したのか?」彼はどこの学校にも行きませんでした。「彼は何か資格を持っているのか?」彼には神がついておられました。彼はみことばでした。彼らはイエスの学校をつきとめることはできませんでした。神は、神学校出身者を用いられたことが一度もありません。神がそのようなことをされたことがあるか、歴史を調べてみなさい。一度もないはずです。神は、神学校以外から、無名で有望でない者を採用し、神のことばを授け、ご自身がその者を通して現れます。神がそのようにされたので、アモスがそこに立っていたのです。分かりますね。
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さて、アモスの語った言葉には、神の裏付けがありました。神はアモスが語る言葉が、それが主のことばであることを証明されました。もし今日、彼がここに来て語ったとして、この国とこの国の人々は彼を受け入れると思いますか? バプテスト派がアモスを受け入れると思いますか? メソジストは? 長老派は? ペンテコステは? カトリックは? とんでもない、彼らは当然のごとく拒否することでしょう。62
ちょっとの間、彼を現代に連れて来て、彼らが彼を受け入れるかどうかみてみましょう。今日の教会が彼を受け入れるかどうか・・・。彼がまずとるだろう行動は、あらゆる組織に、みことばに反しているという理由で対立することです。そうです!彼はすべての仕組みを非難することでしょう。あらゆる教義、信条、教団、すべてを非難するでしょう。わたしには想像できるのですが、ペンテコステの長老がこう言うのです、「まあ、なんと、神に栄光。あのような男は、我々の町にいてほしくないですね。」
それから長老派やバプテスト派はどうすると思いますか?「まあ、なんて無知な。彼のような者はこの国に必要ない。彼はただのつむじ曲がりだ!」彼らは、彼を追い出すためなら、書類を作成して彼を刑務所に送ろうと図ることでしょう。でも彼を刑務所に閉じ込めておくことができると思いますか? とんでもない。神のことばを檻につないておくことはできません。脱出します。彼らが檻に閉じ込めようとしても、ある晩檻の扉が開き、彼の元に一条の光が差し込んで、彼を救出します。確かに彼は、今のわたしたちの体制に異を唱えることでしょう。
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彼は何から取りかかるでしょうか? 打ち倒すことからです!なぜなら、彼は神のしもべです。まず彼は、基礎部分に取りかかり、信条を覆して、基礎を元に戻すことから始めるでしょう。基礎とは? 神のことばです。そうです。「天地が滅びても、わたしのことばは滅びる事は無い。」彼はあらゆる宗派、信条、教義を基礎から引き剥がし、投げ捨て、永遠の彼方に吹き飛ばします。ペンテコステ派が彼を受け入れると思いますか? とんでもない。バプテスト派、長老派は? とんでもない。ナザレ派は、ピルグリム・ホーリネスは? 彼に間違いなく憎悪を抱くことでしょう。
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彼らがリムジンで彼を町に迎え入れると思いますか? 彼らは、熱中症で彼が倒れることを望むでしょう。あるいはバリケードを張って、彼を町に入らせないかもしれません。町で、かつてなかったほど頻繁に聖職者会議が開かれ、「あのつむじ曲がりを町から追い出すには」と盛んに討議されるかもしれません。それでも彼には、「主が仰せになる。」があるのです。それがまことの預言者のあり方です。彼は蔑まれることでしょう。必ずそうなります。彼は、キャンペーンとしてまっすぐ基礎部分に取りかかりますが、決してこのようなことは言わないでしょう、「メソジストの皆さん、来て、手伝ってください。バプテストの皆さん、ここにいる皆さん、ペンテコステの皆さん、あなたがたは神からお呼びがかかる最後のグループだと言っていますが、みんな、わたしのところに来て、わたしのキャンペーンを手伝ってください。」
65
「どのように洗礼を授けるのですか?」「聖霊を受けたしるしは何ですか?」このような質問を、彼らは彼に突きつけるでしょう。そして彼が聖書の真理に立ち戻らせようとするとき、彼らは背を向けます。それがまことの預言者のあり方です。彼はあらゆることに立ち向かわなければなりません。確かに彼は拒絶されるでしょう。この国のどこでも彼のキャンペーンは阻止されるでしょう。彼は歓迎されません。それでも彼はやって来て、教会をみことばに立ち返らせるでしょう。それが教会の基礎だからです。誰かが他の基礎を立てるなら、それは砂地に置かれた基礎で、沈下していくことでしょう。使徒の教えという、この基礎の上にこそ、神は教会を建てられるのです。
66
先日話したように、煉獄について教える人がいて、聖フランシスや聖セシリアや多くの聖人の証言をあげるのです。彼女がある人たちのために煉獄から救うために祈ったというような証言です。そしてそのようなものに権威を与えています。でもそれは聖書外の権威です。それらの人たちには権威が与えられていません。聖書的権威が与えられているのは、使徒です。もし彼らの教えに反しているなら、それは嘘です。そうわたしは考えています。67
わたしは煉獄を否定しません。しかしそれは現実としての煉獄のことです。生きている間に自分の魂を洗い清めるのです。煉獄とは、「不純物を取り除く」ことです。何か間違ったことをしてしまったなら、間違いから離れて、罪の告白をしたり泣いたり断食したり祈ったりして、自分を清めるのです。それほど昔のことではないのですが、わたしは誰かから笑われてしまいました。主がわたしにある幻を見せてくださったときのことです。わたしはずっと、あの蛇が縛られるさまを幻で見せて欲しいと願っていました。いつも不思議に思っていたのです・・・ずっと望んでいたように、もしわたしがそのようにステップアウトするなら・・・それで、断食して祈りました。誰かが「何のためにそんなことをするのか。」と訪ねたので、こう答えました、「主から幻の中で、わたしがじゅうぶん真剣になっていないと言われたからです。」主が来られたあとは、わたしは自分から不純物を取り除きたいのです。死んでから司祭に清めの祈りをしてもらうのではなく、自分で自分の魂を清めるのです。しかし、おわかりのように、彼らは教会にお金を入れるために、権威のことばを取り出して、人の作ったドグマに引き渡したのです。彼らの眼中にあるのは、この世のこと、この世的教会、世界を牛耳る権力、政治的権力です。でも神の眼中にあるのは神のことばです。神のことばに反するものはすべて間違いです。わたしが考えるところでは、この世はみことばか虚無かのどちらかです。そうです。そのとおりです!
68
彼は真っ先に基礎に取りかかることでしょう。不純物を粉々に打ち砕くのです。そうしなければならないのです。もしアモスが今日存在するなら、それ以外、彼にはできません。心してください。彼は神のまことの預言者で、みことばが望む人ですから、それ以外のことはできないのです。彼には、みことばに立ち戻らせる以外のことはできないのです。全国のペンテコステが集結して、「アモス様、あなたが預言者であることは信じます。でも、あなたはみことばから逸脱しています。わたしたちはあなたに是正していただきたいのですが。」などど言っても、彼はみことばにとどまることでしょう。彼は預言者ですから、他にしようがないのです。彼には協力者は必要ありません。彼には伝えなければならないメッセージがあります。それに、「父がわたしにくださったすべてのものは、わたしに来る」ので、みことばを宣べ伝えるのです。彼の説教は、聖書に書いてあるとおりのことです。それゆえ、彼は拒絶されます。そうです。神のことばは預言者に臨み、みことばの正しい解釈も預言者に臨むのです。69
イスラエルは神の道から常に外れ、神はみことばを正しく解釈させようと、しるしと不思議を伴う預言者を送られました。どうやって預言者を見分けられますか? 「もし預言者の語ったことが、そのとおりになるなら、それが預言者である。」と神は言われました。神は、ご自分の預言者が正しいことを証明されます。イエスは言われました、「わたしを信じる者は、わたしがする業を、その人もする。これによって、信じる者にはこれらのしるしが伴うことを、あなたがたは知るようになる。」70
それでは、主の預言者と名乗りながら、どうして神のことばそのものを否定することができるでしょう。父と子と聖霊の御名によってと、称号を用いて洗礼を授ける人は、どうして聖書には彼らの支持する説が書いてないのに、イエス・キリストの名を使って洗礼を授けることを否定するのでしょう。わたしは厳しくて批判的かもしれません。しかし今はこういう態度をとるべき時です。本当です。どうして今日の人々は、何にでも飛びついて、女性は髪を短くカットして、ショートパンツを履いてタバコを吸って、映画を観に行って(あらゆるジャンルの古い映画を観て)、馬鹿騒ぎをして、それでクリスチャンだと言えるのでしょう。それが聖霊の促しだというのですか? そんなことは絶対にわたしの前では言わないでください。そんなことをしたら、神は、腹の底から嫌悪をもよおされます。わかりなさい。クリスチャンと称しながら、どうしてそんなことができるのです? 結ぶ実によって、人は知られるものです。71
彼は、怒り心頭して、ショートヘアーの女性を叱責することでしょう。それ以外、彼に何ができるでしょう。彼は預言者なのです。それがみことばなのです。彼は、「お前たち、イザベルよ!」と言って、叱ることでしょう。なぜなら、彼は預言者だからです。預言者はみことばにとどまらなければなりません。そうです。それで彼女らは従うと思いますか? とんでもない。彼らはこう言うことでしょう、「狂信的だわ。聖書に出てくる老いぼれパウロと同じくらいひどい女性嫌いだわ。」お前たち!クリスチャンを自称する偽善者の集団よ。72
「どれほど聖い生活をしようとしても、そんなことで何も変わらない。神のことばを否定して、それに従わないなら、あなたは罪人であり、不信仰の者なのだ。」彼なら、そう言ったことでしょう。彼は木の根元に斧を置き、容赦しません。彼は預言者であり、それがまことの預言者のあり方なのです。誰に対しても、みことばをもって接します。それが自分の母親や父親であっても変わりません。イエスがそうされました。彼は、彼女のことをお母さんと呼びもしませんでした。実際、彼女はそうでなかったのです。イエスは神でした。神には母がいません。もしいたら、誰が神の父ですか?73
彼は彼らを徹底的に叱りました。彼はあらゆる教団を強く非難しました。それらがみことばの上に建てられていないからです。みことばに則って造られた教団など見たことがありません。教団となった途端、みことばに反した存在となるのです。ですからどうして預言者が、みことばに反することを祝福できるでしょう。でも本当はそんなことして兄弟を傷つけたくないのです。それでもしなければならないのです。預言者ですから。そして彼は神のことばのまことの代表者であり、一歩も引くことはありません。命令に命令、規則に規則。どういう意味かわかりますか? これがまことの預言者のあり方です。誰かがこう言います、「主よ、わたしを預言者にしてくださったらいいのに。」神はそうはされません。神はそうされません。
74
彼は、教会で行なわれる馬鹿騒ぎやその類のこと、トランプ・パーティやスープ・サパーなど、あらゆる不品行を強く非難するでしょう。彼はそれらをこっぱ微塵にして、もと来た地獄に送り返すことでしょう。彼が受け入れられると思いますか? とんでもない。今日の教会は彼を受け入れないでしょう。ペンテコステ教会は彼を受け入れますか? 彼はペンテコステ教会に行ってこんなふうに言うはずです。「お前たち、ショートヘアーのイザベルの集団よ、『主はこう仰せになる』ということばの意味がわかっているのか!体に張り付いたような短い服を着て、ここにやって来るとは。毎日、何百人もの男に姦淫の罪を犯させていることをわかっているのか!」75
すると教会は、「あんな時代遅れの老人、坊主頭の年寄りは、教壇から追い出しなさい。役員はどこにいるか?執事よ、彼をここから追い出しなさい!」と言うでしょう。アモスは、「お前たち、みじめな偽善者の集団よ。」と叫ぶでしょう。そのとおりです。
「わたしたちは、このグループに属しています。」「わたしたちはあのグループに属しています。」
「あなたたちは悪魔を父とする者たちだ。悪魔はみことばを否定する張本人だからだ。」
あなたは、「わたしは異言を語る」と言いながら、髪を短くするのか!
神に栄光、ハレルヤ!
聖書は、そんなふうに短い髪にした女性が祈ることが不作法だと記しています。それでもあなたは自分をクリスチャンだと言うのですか!恥を知りなさい。どこか人目のつかないところまで這って行き、神との関係を正しなさい。
76
古びた短い服を着て庭に寝そべって、毎日何百人もの男と姦淫を犯していることを自分でも承知しています。「でも、わたしはそんな・・・」いいえ、イエスがそう言われました、「誰でも、情欲をもって女を見る者は、その女と姦淫を犯したのである。」女の方が自分を見せびらかしているのです。そしてあなたがそれをしているのです・・・77
先に言ったように、あなたはよみがえったので、この世に対して死んでいるのです。恥じて頭を背けなさい。女性を情欲の目で見る代わりに、このようなおぞましい罪に対して目を細めなさい。「お前たち、このようなことをしてクリスチャンだと名乗っている男らよ!」これが、彼が語ることです。今朝わたしは、彼の言葉を語っているのです。これらが彼の語る言葉です。忘れないで、彼はまことの預言者ですから、みことばにとどまらなければなりません。わたしは彼の言葉を引用しているだけです。もし彼がここにいたなら、彼はみことばですから、みことばそのものがいることになるのです。人ではなく、神のことばです。というのは、彼には主のことばがあるからです。78
人が作ったあらゆる教義を、彼は咎めます。父と子と聖霊の御名による洗礼だのというものを、彼は永遠の彼方に投げ捨ててしまうでしょう。その残り香さえも除去するように。そうです!この朝、どれだけの教会が彼に賛同することでしょう。ジーザス・ネームの集団が、「彼の意見に賛成」というでしょうが、彼らは組織です。それを彼は粉砕することでしょう。そうです。あなたがたが、自分のところの短い髪の女性に目をつむってることに対して。そうです。あなたたちのところの男性の行いに対して。そうです。預言者になるのは素晴らしいと言う人が多くいます。そのとおりです。もしあなたがすべてを売り払って、神と神のことばにとどまるとしたなら。
しかし、彼はどうやっても今日の教団から受け入れられないでしょう。教団は彼と関わりを持つことを嫌がることでしょう。
79
彼が爆弾を落とすのを聞きましょう。「お前たちが信じている神ご自身が、お前たちを滅ぼす。」それはどういうことですか?ペンテコステ派が信じている神が、彼らがしている、あるいは認めている不品行なことについて、教団に裁きを下されるのです。そのことをアモスが語っています。「でもわたしたちにはアブラハムがいます。律法もありますし、祭司もいます。預言者もいるのです。」
ああ、兄弟よ、彼らを見る彼の目が細くなって、それからあの言葉の爆弾を彼らに向かって落としたのです。そうです。彼らは彼を受け入れませんでした。彼は言いました、「彼らは自分たちが作った教義とともに滅ぼされる」それが今日でも彼の言うことです。当時と同じことを、今も言うことでしょう。「お前たちは神のために(何億円もかけて)教会を建設している。お前たちはエホバのために神殿を建て、神を愛していると言っているが、その神によってお前たちは滅ぼされる。なぜならお前たちが神のみことばを拒んだからだ。」
80
今も同じです!同じ神がアメリカを裁き破壊すると言っているのです。私はあなたがそのことを得ないように深く望みます。ただ同じ神が愛していると言いつつ自分自身の創ったドグマや不品行な生活に自分で入っていつか神の言葉から離れて破壊してしまうのです。「主が仰せになる」!以外のことは彼らには残されていないのです。81
みことばを守りなさい。国じゅうの人に福音を宣べ伝え、真理を教えなさい。聖職者たちは騒ぎ立て、叫び,継続します。人は批判します。組織はあなたを排斥します。女性は首を振って、ただでは髪を伸ばしません。何年たっても服装を改めません。アヒルの背中に水をかけるようなものです。「それでも神を愛しているというつもりか!」と、彼は言うでしょう。イエスはこう言われました、「あなたがたは自分たちの伝統を守って、神の戒めを無効にしている。」これがまことの預言者のあり方です。こう言うのは、容易なことではありません。誰もが考えるように、飛んだり跳ねたりして叫び、誰からも肩を叩いてもらうといったものではないのです。そんなだったら、それはまことの預言者でないしるしです自分のうちに語るべきことをもっていない、最たるしるしです。
82
研ぐための斧を持っていない限り、彼らはいつ彼の背中をたたきましたか? 彼は振り向いて彼らを咎めたでしょう。そうです。彼らはアモスの背中をたたくことはできませんでした。エリヤの背中もたたくことはできませんでした。預言者はそんなことに我慢できないのです。とんでもない!彼は神の真理を彼らに伝えました。天が広大であり、そこにわたしたちが行くとして、もしわたしたちが些細なことに従うことができないのなら、どうして天の霊に従うことができるでしょう。だからみことばに従わなくてはいけません。それがまことの預言者のあり方です。国家をみことばで粉砕しなければならないのです。そうすることで自分を粉砕することになるとしても。そうです。それが道なのです。83
彼は爆弾を落としたことでしょう。彼が彼らになんと言ったかわかりますか? 「混乱を巻き起こす者」です。ここで察することができるなら、彼はこう言ったでしょう、「混乱は政府ではなく、あなたたちの間にあるのだ。」「教会が混乱しているから、あるいは教会が信心を装っているから問題が起こるのだ。」共産主義が世界をなめ尽くそうとしているのは、共産主義ではなく、教会のせいです。人々のせいです。こんにち、クリスチャンと称する人々は、訓練を受けて天使のように歌います。そして大天使のように流暢に語ります。しかし悪魔のように神のことばを信じていません。そうです。歌は大天使のよう、服装は・・・わたしにはわかりません。それで神のことばを否定しています。
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教壇に立つ説教師で、博士とか師とか呼ばれている人に、「聖書はイエス・キリストの名によって洗礼を授けるように言っていますか、それとも父と子と聖霊ですか?」と尋ねるなら、その人は笑い飛ばして「父と子と聖霊」の方をとるでしょう。それで自分を神の子と称するのですか? 女性は、聖書が諌めていることを知りながら髪をショートにし、世俗的なことをし、不道徳な服を着たりして、常にそんなことを続けています。それでいて、異言を語り、飛んだり跳ねたり叫んだりし、年長婦人の会やお裁縫会に参加して宣教師を派遣したりしています。それは、神の前に悪臭を放つ行為です。それで、「主がこう仰せになります。」神はすべてのことを滅ぼされます!必ず。85
こういうことを言うのは容易ではありません。でもそれがまことの預言者のあり方です。傷つこうが傷つくまいが、爆弾を落として語らなければいけないのです。ヨハネはまことの預言者でした。彼はこう言いました、「木の根元に斧が置いてある。」これが預言者のあり方なのです。
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確かに、問題は彼女にあります。天使のように歌い、悪魔のように踊り、馬鹿騒ぎをしています。トランプ遊びだの競馬だのと。ペンテコステ派は娯楽の場に出かけます。映画館には彼らがたくさんいます。古い上映でもなんでも、どこにでも行って観たり、競馬に行ったり何でもかんでもして、それでクリスチャンを自称しています。彼らはそんなことをしながらも教会に行って叫び、異言を語り、洗足や聖餐式に参加します。どうしてかというと、・・・「犬は自分が吐いたもののところに戻る。彼らも同じである。」と預言者が言うでしょう。もしそれらのことがこの世的なものであって、決別しなければならないものなら、なぜ彼らはそこに戻っていくのでしょう? そうです。87
通りでロックンロールとかいうのを踊り、髪をショートにし、ショートパンツを履いたりして、ああ、なんということでしょう。それでクリスチャンと自称しているのです。いかにして・・・いえ、言うのはやめておきましょう。だからわたしは彼らを強く非難するのです。もしわたしが神のことばにとどまっているのなら、みことばがわたしに臨むのなら、わたしはみことばにとどまります。このみことばがわたしに臨んだのです。叱責しなさいと。聖霊に導かれていると言いながら、そんなことをしている人たちを。88
聖霊に導かれている女性が、髪をショートにしますか? 聖霊はそれを叱っているのですよ。もしそうなら聖霊はどういう性格をしているのでしょう? 想像できますか? 教壇に立つ説教師が、聖書の中で一箇所でも父と子と聖霊の称号で洗礼を授けた記載があるかと尋ねられたら、それを笑い飛ばし、イエスキリストの名で洗礼を授けるのは狂信者だと決めつけ、それで聖霊に導かれていると称しているのですよ。想像できますか? いったい、聖霊は自らのことばを否定するでしょうか? とんでもない。わかりますか? わかってほしいです。89
次にいつ爆発が起こって天に召されるかわかりません。でもそれまでは、しっかりとみことばに踏みとどまっているつもりです。天の審判の座で会うとき、わたしはみことばの席に立っているつもりです。そうなると信じています。だから違うのです。そんなことをして、それで聖霊に満たされているはずありません。90
あるとき牧師の妻がひどい格好のドレスを着て座っていました。「そんなことをいう権利はあなたにはない。」と言われても、わたしには権利があるのです。わたしにみことばが臨んでいるからです。だから全てを説教するのです。多くの女々しい説教者はこういうことに目をつむります。多分大胆さが足りな・・・いえ、多分まず第一に、そういう人は説教者としての召しがないのでしょう。しかし神のまことのしもべは、みことばにとどまります。そうです。その牧師の妻は、窮屈そうなドレスを着て、イヤリングを垂らし、化粧をして、髪をショートにしていました。しかし神は、そのようなものを汚れたものとみなし、叱責されます。それなのに、そんななりをして聖霊を受けているというのですか!91
そんなに昔のことではありませんが、フェニックスの集会で説教する機会がありました。その牧師の妻が壇上の席に座っていました。髪は少年のようなショートヘアでねじくれ上がっていました。ドレスといったら、下着が目立つのを隠すこともできませんでした。(膝を隠すこともできなくて、スカートが10センチから12センチも膝上の格好で座っていたのです。)それで飛んだり跳ねたりして歌をリードしていました。わたしは渾身の力を込めてそれを叱りました。どうせもう呼ばれることはないでしょうから。彼が次にわたしを呼ぶことは期待しませんが、彼は何が正しくて何が間違っているか知るのです。わたしが審判の座に着くとき、彼らのことについて、もはやわたしには責任がありません。それから立ち去って・・・92
ある教師と名乗る人物が、(わたしは彼がそうではないとは言いません)あるとき、わたしが行ったことのある町で、わたしの友人らの前で言った言葉があります。その兄弟を知っているでしょう。そしてこの兄弟が来て言いました、彼らは「ここに一度ブラナム兄弟が来たことがあります。(西の方の町です。)」
するとこの人物は言いました、「ええ、ブラナム兄弟はいい人ですよ。(彼は、誰かに直接批判を加えるような愚かな真似をしません。)でも、彼のテープをきいてはいけませんよ。聞いたら混乱してしまいます。」
そのとき、わたしの友人の一人がそこに居合わせてこう言いました、「ちょっと待ってください。わたしは彼のテープを聞くまでは、ずっと混乱していました。」それが違いなのです。彼は続けました、「わたしは、あなたたちがしているようなことを、どうして聖なる神が辛抱しておられるのか理解できませんでした。」
同じ人物が、別の場所で、別の兄弟に言いました、「ブラナム兄弟は預言者で、物事を識別することができます。それにいろいろなことも・・・でも、彼の教えを聞いてはいけませんよ。それは間違っているからです。」
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なんという狂気の沙汰、野暮な表現でしょう。知らないのですか!・・・もしそれが・・・わたしは預言者ではありませんが、もし神のことばが本物なら、それは預言者に臨みます。主のことばは預言者に臨むのです。みことばを解釈するのは預言者です。だからわかりますね、その人物の言うことは意味が通りません。どこかの狭量な教団からの回し者でしょう。いつか彼らは倒れ、腐り、地獄で消え去るでしょう。でも神のことばは永遠に存在します。この上に、主のみことばの上に、わたしは永遠の希望を置きます。それ以外のものは没すればよい。もし友達を皆失っても、すべてを失っても、キリストとの親交は続きます。わたしは希望を置く
ほかでもない、イエスの義のことばの上に
・・・・・・
わたしの魂の周囲がみな、崩れ落ちるとき
そのとき、キリストはわたしのすべてとなり、希望となる
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銃が暴発したとき、わたしは死んだと思いました。平安な感覚の中にあったのです。辺りを見回して、こう思いました、「そうだ、これだ。」教団がどんなよいことをしてくれるでしょう。組織がどんなよいことをしてくれるでしょう。このみことばによって裁かれるために、神の裁きの座に立たなければならない日が来るのです。多くの人を罵倒したり、折ったり、ねじったり、引き離したりしなければならないですが、でもわたしには希望があります・・・そこから心髄の部分、神のことばを引き出して、そこに永遠の魂が打ち建てられることです。そうです。神が、御手の中に入れて従順な子にしてくださいますように。聖霊に導かれる人がどうしてそんなことができるでしょう。聖霊に導かれる女性がどうしてそんなことができるでしょう。できないはずです。神は聖なるお方です。神のいのちを宿す人は、神と同じく聖なるものです。神のようになるのです。
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イスラエルは他国と同盟を結んで栄えていたので、自分たちはが神から承認されていると思い込んでいました。さて、こんにちのわたしたちもそのように考えています。数日前にホテルである人たちと話をしました。宗教界の名だたる人たちでした。彼らはわたしにこんなようなことを言いました、「神がわたしたちと共におられることを、神は証明されました。ブラナム兄弟、昨年わたしたちは、(数字を忘れましたが、)何百もの成長を遂げました。」私は言いました、「それは神が承認された証拠に、ちっともなりませんよ。」そうです。昨年売春は30パーセント増えました。神が売春と共におられる証拠になりますか? こういう議論はよくないですね。話さないことにします。しかしとんでもない!神が支持されるのはみことばです。誰でも偽りのない人なら、神のことばを支持します。そうです。
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彼らには同盟関係があったので、こう思った・・・・さて、ちょっと政府のことに触れましょう。この国は神のことばを退けました。イスラエルがしたのと同じです。イスラエルは神のことばを退けておいて、人々や祭司や預言者らは自分たちに都合のよいことを預言し、それで彼らには・・・嘘の預言以外に何ができるというのでしょう。みことばに反しているのですから。イスラエルの運命は決まりました。先祖たちの経験に基づいて建国された、この偉大な愛すべき国は、前の状態に戻ります。97
確かにイスラエルは偉大な国でした。彼らの先祖を御覧なさい。しかし神は彼らを容赦なさいませんでした。あの坊主頭の老預言者が彼らにみことばを投げつけると、彼が言ったとおりのことが起きました。歴史を調べてそれが本当かどうか調べてみなさい。彼が言ったとおりのことが実現したのです。彼は彼らを叱責しました。それでも彼らは、相変わらず、神聖な祭司らは神聖な衣をまとって何かを振りまいていました。しかも、このようにもあのようにも手を動かしてはいけず、伝統に従ったやり方にこだわりました。イエスは、「あなたたちは悪魔である父から出たものであって、彼と同じことをしている。」と叱責しました。
それで彼らはイエスを捕え、有罪にし、木にかけました。彼らはイエスを殺したのです。そうです。しかし、神は彼をよみがえらせました。そうです!
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いいえ、彼らは・・・わたしたちは今日アモスの言うことを信じないでしょう。こんにちのわたしたちも同盟を組んでいます。いわゆる・・・組織は成長を続けて順調なので、自分たちの働きを神が許可してくださっていると思いこんでいます。2~3百万くらいの人がプロテスタントに属し、カトリックときたら、5~6百万も増えています。だから、カトリックになることは神の思し召しだと勘違いしているのです。プロテスタントは、プロテスタントになることが神の思し召しだと勘違いしています。ナンセンスです。大砲の前に立つ使い捨て兵隊です。原爆の灰です。神の怒りが究極に達して爆発するでしょう。必ず、そうなります。99
聞きなさい。わたしは主のことばを語ります!アーメン。自分たちを、世界の状態を、この国の状態を見なさい。わたしたちは国連に入りました。国連って何ですか? 神を恐れない、罪深い集団です。厚かましくも、会議の前に祈りを捧げることさえも許しません。さっき読みましたよね。「ふたりの者が合意していないのにいっしょに歩くだろうか。まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者に示さないでは、何事もなさらない。」両者は、モハメッド教徒や仏教徒や無神論者や罪人や自己中心者などと一緒に、どうして歩調を合わせていけるでしょう。こんな状態のところに神が宿られると思いますか?
「でも、わたしたちは彼らと同盟を組むのです。西側の防衛力を強化するために。」彼らは周辺の国と組んで防衛力を強化しました。しかし、あの預言者はこう言いました、「神はお前たちを滅ぼされる。お前たちが仕えているつもりになっているその神が、お前たちの愚かさの故にお前たちを滅ぼされるのだ。」この朝、彼がここにいたら同じことを言うことでしょう。
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上はホワイトハウスから、下は貧農まで、彼は怒鳴りつけることでしょう。必ずや、彼は神のことばの爆弾を彼らの上に落とすことでしょう。それがまことの預言者のあり方です。「わたしたちの教会を見てください。わたしたちの偉大なる神聖ローマカトリック教会を。」
聖書は、大淫婦と呼んでいます。
「わたしたち長老は、プロテスタント教会をみな集めて結束させ・・・・世界教会協議会と呼ばれるようになりました。」
大淫婦のふしだらな娘。聖書はそう呼んでいます。聖書はまさしくそう言っているのに、教会はまとまらなければいけないと思い込んでいるのです。
友人のコリンズさん(アリゾナかカリフォルニアの兄弟)です、ね、エルマーわたしはこう尋ねました、「あなたは綺麗な小さなメソジスト教会に行っているんでしたよね。」
彼は答えて言いました、「ええそれが、その教会が教会協議会に加盟したので、もう離れました。」
「神の祝福がありますように!兄弟よ、あなたは天の国に近づいています。」
そうです!ドグマとは、人同士の交流や人の作った教義に頼り、神のことばから離れるとはなんということですか。今のわたしたちに必要なのは、このことばを頭から投げつける預言者です。本当にそうです。
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彼らは自己保身に傾いています。「ペンテコステですか? もちろんわたしたちは、世界教会協議会に加入しますよ。そこで多くの人と知り合って、彼らをペンテコステにするのです。」まるで、夫の心を神に向けるために、妻が夫とバーに行き、酔っぱらうようなものです。現代では、むしろ夫の方が、妻の心を神に向けるために、妻と一緒にバーに行き、酔っ払っているのでしょうか。まったくナンセンスです。悪魔の陣地から離れなさい!みことばを否定するものを、わたしも否定します。そういうわけで、わたしはあらゆる組織を否定します。組織化することは、みことばに相反しているからです。すべての信者がそう思うべきです。「でも、覚えておいてください。わたしたちが保有しているのは・・・」
新聞に載ったすごい記事が手元にあります。誰かがアリゾナから送ってくれました。それによると、某長老がこう語ったそうです、「教皇ヨハネ12世(あるいはそんなような名の。)は、素晴らしい人物です。彼は、カトリックとプロテスタントをまとめて教会の統合を提唱した、またとない人です。わたしたちの時代には実現しないかもしれませんが、15年、20年後にはそうなることでしょう。」
これを読んでわたしは思いました、「まあ、この人はどこかの長老でありながら、預言をしている。しかも、自分が語っていることがわかっていない。」
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この記事を書いた人は、冒頭にこう書きました、「今は、わたしたちが思っているより遅い時刻になっている。」この人もテープを聞いたことがあるのでしょう。そうです。彼は、「今は、わたしたちが思っているより遅い時刻になっている」と言い、「ブラナム兄弟、何年か前にこのことを言っていませんでしたか?」と聞きました。わたしは言いました、「そのとおりです。」これは主のことばですから、必ず実現します。そうならなければいけないのです。確かなことです。
「この聖なる長老は、それ以外のもっと大切なことを知るべきだと思いませんか?」
いいえ、彼が神のことばを否定して、そんなことを追求しているのなら、無理なことです。どれほど多くの教皇や預言者や仲間の聖職者が支持していても、そんなことは構いません。彼らがみことばから逸脱しているのなら、そのまま逸脱し続けるのです。
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彼らが神のことばそのものを否定し続けている限り、どうして神がそんなことを祝福できるでしょう。どうして神が、みことばをはねのけた者を祝福できるでしょう。神のことばと矛盾することを、どうして神が否定しないでいられるでしょう。あなたを蝕むガンを、あなたは祝福できますか? 手に持った電線を祝福できますか?「電線よ、しっかりつかまって、わたしを感電させておくれ。」なんて言ったら、狂気の沙汰です。どうして神が、みことばに反対するものを祝福できるでしょう。だからみことばにたち返りなさい。あなたたち、猟犬のような説教師の群れよ、いったいどうしてしまったのですか!あなたたちは、一杯の羹(あつもの)のために生得権を売る行為をしているのですよ。キャデラックに乗ったり、贅沢な邸宅に住んだり、何億もする教会を建てたりするために、自分たちの生得権を売ってしまい、会衆に神のことばを説教することを恥じて、怖気づいています。自分を恥ずかしく思わないのですか!それで神のしもべとか、神の預言者とか称している。あなたたちは、この世の塵芥を手に入れるために自分の生得権を売る行為をしているのですよ。そこから生じるのは何ですか? エサウがしたのと同じことです。なんという恥辱でしょう!104
ご自分のことばを擁護するために見張っておられる聖なる神が、みことばに相反することを祝福できるはずがありません。聞いてください。ちょっと長引いてしまったので、みなさんを死ぬほど息苦しくさせているかもしれません。でも尋ねたいことがあります。「天も地も亡び去るが、わたしのことばはひと言も滅びない。」と言われた聖なる神が、そのことばに矛盾することを取り上げて祝福することができるでしょうか。いったいどうすれば。見て!神はご自身で立証されます。神はご自分のことばを擁護されます。神ははっきりと正しいことを声にされ、教会員だからといって容赦されません。105
モアブを見てみなさい。モアブも神のことばを知っていました。イスラエルには神のことばがあり、モアブには神のことばへの表面的信心がありました。彼らは7つの捧げ物を用意し、淨い牛を7つの祭壇で捧げました。完全な数字、完全な捧げ物です。それに加えて、大祭司らと7匹の子羊を捧げ、神の子がのちに来られることを信じている証しをしました。王や執政官らが、偉い人たちや祭司や大祭司とともにその場に立会い、一生懸命信心深く捧げ物をしました。イスラエルを呪うためです。低地にはイスラエルがいて、無法者の集団のように見えました。でもイスラエルには何がありましたか? 神がこの集団行動に共におられたのです。そして、共におられることを、神ご自身が証明しておられました。106
長老が何人いようと、教皇などが何人いようと、神が共におられることを神ご自身が証明されるまでは、共におられることがないのです。彼らがみことばから逸脱し、みことばを否定している限りは、どうして神が彼らと共にいることができるでしょう。彼らには、生きた神のしるしがありませんでした。どうして神が国連と共におられるでしょう。両者が合意なしに共に歩くことができないと言われているのに。さて、ここにチャーチ・オブ・クライストと言う団体があって、ペンテコステと合流しました。ペンテコステは、異言を信じ、異言を語ることが聖霊を受けたしるしだと信じています。他にも彼らはあれもこれも信じていて、しるしと不思議も信じています。一方、チャーチ・オブ・クライストはそういうことを愚弄して言います、「なんと無知蒙昧な人たちだろう。そういうことは過去の出来事なのだ。」両者が合意なしに、どうして共に歩くことができるでしょう。なのに彼らは合流してるのです。合流して何をしようというのでしょう。お互いに安全を確保しあっているのです。そんなことからは離れなさい!わたしの安全はキリストとキリストのことばのうちにあります。神のことばは神ご自身だからです。
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生きておられる神のしるしが全く見られません。イエスは言われました、「もしわたしが、みことばを現していないのなら、わたしを信じてはいけません。もし神が、わたしをとおして語ったり預言したり、メシアがする業をわたしをとおしてしておられないのなら、わたしを信じてはいけません。」それなのに、あの人物は神から遣わされた預言者と称しながら、みことばを否定しています。あのような者に神の哀れみがありますように。どうして神にそのようなことができるでしょう。108
さて、次はいつ、みなさんにお話できるかわかりません。神次第ですから。幻で神に言われたとおりに、食料を樽に詰めて蓄えているのです。こんな質問が出るかもしれませんね。「アモスはどのようにしてこれから彼らに起こることを知り得たのか?」良さそうに思えますよね。でも見てください。よく聞いて。テープに録音されて世界中に広まることですから。
見て!イスラエルでは、神学校がかつてないほど充実していました。誰も彼らを邪魔しませんでした。彼らには独自の宗教があり、誰も「イェホヴァの神を礼拝してはいけない。」などど言いませんでした。
むしろ異教徒の国々から、「どうぞ礼拝しなさい。お互いに協定を結んでいるのですから。」と声をかけられました。
あの預言者は、その事象の背後を見通していたのです。現代の預言者も、それを見通しています。「どうぞ、そうしなさい。」
109
それでイスラエルは、「それなら、食べて飲んで楽しくしようじゃないか。」ということになりました。集まって信条を考え出し、組織や教団を創立しました。女たちは贅沢をし、罪深い生活をしました。ナイトクラブに行きつけとなり、肌を露出し、シルクのような短いスカートを履いていました。もしその当時の様子を見るなら、彼らの格好は現代の3分の1くらいのひどさだったでしょう。彼女らは、現代ほど、ひどいことはできませんでした。それに王や祭司をはじめ誰もかれもが、そのような状態でした。イエスは言われました、「あなたがたは、寡婦の家を食い尽くしている。偽善者め!」彼がこう言われたのです!このようなことを彼らがしていたので・・・・。あの預言者はその国を見下ろして立っていました。彼の心は張り裂けていたに違いありません。110
さて、あなたは言いますね。「どうして彼は、これから起こることがわかっていたのですか? どのようにして予見したのですか?」すべてのことが順調に運んでいました。食べるもの、着るものは豊富にあるし、大きな教会はあるし、繁栄を謳歌し、あちこちに投資しました。贅沢をし、街で踊り、不道徳なあらゆることが横行し、それでもすべて順調でした。現代のアメリカもよく似ています。テレビからは下劣なジョークが流れ、半分裸の女性が登場し、くだらないバカバカしい番組ばかりやっています。でもテレビを見なくても、周りを見渡せば、いやでも醜態が目に入ります。少女も少年も、男も女も、タバコ、飲酒、彼らイザベルたちが、クリスチャンと称しているのです。汚らわしい悪魔め。メソジストだとかバプテストだとか長老派だとかカトリックだとかペンテコステだとか称しているのです。見つめている彼の目が細くなったのも、無理もありません。111
すべてが順調に見えました。「見てください。我々は百万人もの魂を得ました。教会があまりにも大きくなったので、新しい教会を建てなければなりません。我々のところにはこんなにたくさんのお金が集まって、どうしてよいかわかりません。」「我々は国内最高の場所に教会を建てましたよ。しかも、最大級の教会を建てたのに、まだお金がたくさん残っています。神の祝福以外に考えられますか?」いいえ、あなたたちは、神のことばから逸脱しています。
「ブラナム兄弟、あなたは神がこれらを滅ぼすというのですか?」
そのとおり。ひとつ残らず滅ぼされます。
「どうしてそんなことがわかるのですか?」
アモスよ、どうしてわかったのですか? 医者のように、診断したからです。医者は患者の病気を見つけると、どう処置したらよいかわかります。彼は患者の病気と進行具合とこれからどのようになっていくのか、わかります。まことの預言者も同じです。あなたたちが何をしようがそんなことは関係なく、預言者は罪が進行しているのを見るのです。癌が進行しています。ペンテコステを始め、すべての教団に癌が進行しています。元に戻ることはできません。癌の末期です。彼らは滅びることになります。
112
その事態をアモスはその様に診断しました。彼は神のことばによって診断したのです。それがまことの預言者が診断する方法です。そして女性たちにこう言います、「短い髪の毛で裁きの座に着こうとするな!そのくらいの分別は持ち合わせなさい!」男性にも、他の人にも、そして説教師に対しても、言います。みことばを否定しながら、信心深さを装っている者よ、問題を避けるために宗派組織に加わる者よ、もっと賢明になりなさい。まことの預言者が見ているのと同じみことばを見ているのですよ。診断が下されました。「死、分離」医者と同じく、彼にも疾患が判断できます。どのような症状があるのかわかります。この国を見なさい。「ペンテコステは終わったのか?」彼らは、女性の短い髪を非難する説教者を、自分たちの教会に入れようとしません。しかし、聖書がそれを非難しています。彼らは恐れているのです。説教者が何を言い出すのかと・・・・
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西海岸でのキャンペーンの準備をしていて、ロイ・ボーダーが、聖職者たちと、(40人から50人の大きな集団でした)ミーティングを開いたときのことです。彼らが言いました、「ボーダーさん、お尋ねしたいことがあります。洗礼を授ける際に、ブラナム兄弟が、主イエス・キリストの名を用いているというのは本当ですか?」ボーダーさんはきちんとした紳士ですから、(みなさんも、ボーダー兄弟を知っていますよね)こう言いました、「失礼ですが、ブラナム兄弟は、キャンペーン先では説教をしません。彼は病気の人の祈りを率先します。今度のキャンペーンでもそうします。」
「わたしたちが尋ねているのは、そういうことではありません。」長老の一人が言いました、「彼はイエス・キリストの名によって、洗礼を授けるのですか?」(彼らもテープを持っていますから、知っています。)
「ええ、自分の教会ではそのようにします。彼は自分の教会でしか洗礼を授けません。」
「それです!それが知りたかったことです。彼を受け入れることはできません。そのような異端者を、わたしたちの教会の人達と一緒にさせるわけにはいきません。」
先日、親友のエド・ドールトンが、バプテスト教会から手紙を受け取りました。それには、「我々はあなたをバプテストの親交から除外します。理由は、イエスの名によって洗礼を授ける異端のグループにあなたが属するようになったからです。」と、ありました。
わたしはパウロと立場を同じにしたいです。「この世が異端と呼ぶ、そのような方法でわたしは神を礼拝します。それが神のことばだからです。」そうです!
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医者は間違いなく患者のどこに問題があるのか診断します。まことの預言者は、みことばによって診断します。何ですって?医者は患者の症状を見て診断します。そうですね? 症状を診て、どこが悪いのか診断します。どのくらい病気が進んでいるのか判断して言います、「もう処置を施すことはできません。」まことの預言者は、みことばによって診断し、治すための薬を投与します。すると人々は、彼の顔にその薬を投げ返します。それからどうなると思いますか?滅亡です。それで終わりです。快楽を愛し、この世に調子を合わせたいわゆる偽善者の群れよ!しかし、これがまことの預言者のあり方なのです。何とも素晴らしい!
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彼は疾患が分かっています。人々がみことばから離れ去ったのを見ていました。彼はみことばを調べました。そして起こるべき結果を知りました。彼は、人々の贅沢な生活を見ました。女性たちの行動も見ました。祭司たちがしていることも見ました。彼らが、いかにまことの神の礼拝から逸脱してるか、その様子を。それで、答えが与えられました。「お前たちが仕えていると称している神、その神がお前たちを滅ぼされる。」「なぜ?」
「お前たちがわたしの戒めを守らなかったからだ。」でも彼らは守っているつもりだったのです。先ほど読みましたね。2章の4節です。「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それなのに、あなたがたはわたしの戒めを捨てた。」
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あの坊主頭の預言者は灰色のヒゲを垂らして、立っていました。目は炎のように燃えていました。彼は祭司たちの群れに言いました、「お前たち偽善者が仕えているふりをしている神、その神がお前たちを滅ぼされる。」彼は協力者を得たと思いますか? おやまあ、彼に今日語らせて見なさい。協賛する人が出るでしょうか? でも、それがまことの預言者のあり方です。彼にはみことばがありました。それを理解していました。117
昔のミカのようにです。(さっき捧げた赤ちゃんと同じ名前の)先ほど、時間がないので少し飛ばしましたが、ミカは、アハブの前に立って、群衆を見ていました。彼はみことばを理解し、群衆にみことばを語りました。彼は自分に与えられた幻、自分の教えの内容を、みことばで検証した結果、自分が伝えようとしていることが、みことばと一致することがわかりました。みことばによれば、アハブは呪われ、彼の血を犬が舐めることになっていましたから。ミカは預言者ですから、幻を見ました。「どんなことばが臨むだろうか。」彼は祈りました、「ああ、神なる主よ、わたしはどうしたらよいでしょう。わたしの前に立っている説教者たちに対して、何を語ればいいでしょう。ここには国じゅうの組織が集結しています。そしてわたしに反対しています。主よ、王の前に立たされているわたしは、何を話せばよいのでしょう。」そして幻の中に入っていき、言いました、「さあ、登って行きなさい。」「しかし、わたしには、イスラエルが羊飼いのいない羊のように散らされているのが見える。」
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地区の長老が近づいてきて、ミカの頰を叩き、言いました、「主のことば、主の霊がどのようにわたしを離れ去って、お前に語ったというのか。」神が言われたことをご存知でしょう? 神は悪魔を送って、彼ら預言者を惑わすようにさせたのです。もとから彼らは、みことばに従っていませんでしたから。もしみことばを信じないなら、神は強烈な妄想を送って嘘を信じ込むようにさせ、それによって罰すると、聖書に書いてあります。まさにこのことが、この国の組織や人々に及んでいるのです。嘘を信じて、それによって神の罰を招いています。「救われるための名前は、天にも地にも、これ以外にないからです。」さあ、覚悟しなさい。組織や、その他諸々よ・・・
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さて、それでは、他の預言者たちは何を見ていたのでしょう。彼らも預言者には違いありません。でも、もし彼らが立ち止まって、自分たちの預言がみことばに合っているか確かめていたなら。もしメソジストが今日立ち止まって、自分たちの預言を検証するなら、彼らは適礼の洗礼を止めるでしょう。彼らは聖霊を受け、イエス・キリストの名によって、浸水の洗礼を行うようになるでしょう。もしアッセンブリーズ・オブ・ゴッドが今日立ち止まって、自分たちの預言を検証するなら、彼らはみことばに立ち返るようになるでしょう。もしワンネスが今日立ち止まって、自分たちの預言を検証するなら、彼らはみことばに立ち返るようになるでしょう。もし、あの預言者たちが立ち止まって自分たちの預言を検証したなら・・・・しかし彼らは推論しました。「あの土地は我々のものなのだから、ラモト・ギレアドに上って行けば奪回できるはずだ。あの土地はヨシュアが分けてくれた我々の土地なのだから。」しかし、ミカは言いました、「それは理にかなっているようですね。」
でもそれはそれです。推論はしたくありません。神が言われたことばを信じたいです。推論してはいけません。
120
もしアブラハムが推論していたなら、どうなっていたことでしょう。彼は自分の土地を離れることができたでしょうか? 100歳になっても、いまだに90歳のサラから子供が生まれると神をたたえていたでしょうか? だから推論を捨てて、ただ信じなさい。「知っているかい? ブラナム兄弟はただの偽善者なんだよ。」と、悪魔が言ったなら、
「ちょっと待って、それでは彼が教えていることが正しいか、聖書で調べてみよう。」と言うのです。
「だめ、そんなことをしたら・・・」悪魔は調べさせたりはしないでしょう。そしてわたしの悪口を言います。(まあ言われて当然かもしれませんが。)するとあなたはそれを真に受けて、推論し始めるのです。「言われてみれば、彼はこうするべきではなかったり、ああするべきではなかったかもしれない。」
121
そしてわたしを見ると、悪いところがたくさん目につきます。でも主イエスを見ても、悪いところがたくさん見つかったことでしょう。ちょっとの間、彼を見てみましょう。これからあなたたち一人一人を聖職者に位置づけます。さて、わたしたちは、イエスが地上に生まれたことがあるという事実を忘れようとしています。ここに赤ちゃんがいます。彼は国中から、婚外子であると証明された子どもです。彼の母親は、父親と結婚する前に身ごもっていました。そのことは立証されています。さて、彼らは聖書を調べたりせず、みことばには「処女が身ごもる」とありますが、ただ巷で聞いたことを信じました。それで婚外子とレッテルを貼りました。彼らはイエスに向かって、「あなたは罪の中で生まれた者なのに、私たちに教えようとするのか。」と言いませんでしたか?
122
イエスが何をなさったかを、見てみましょう。彼は国中の教会を実際に引き裂きました。その通りでしたか? 組織やその他諸々のものを。彼は何だったのでしょうか? 成長した少年みたいな若者で、教団にも属さず、ぶらついていました。「あなたはどこの教会に属しているのですか? あなたの父親は誰ですか? ヨセフはあなたの父親ではないのですか?」
「ヨセフはわたしの父ではありません。」
「それなら、誰があなたの父親なのですか?」
「わたしの父は神です。」
「なんということを、あなたは狂っている!」まさにそう言うことでしょう。「あなたは人間なのに、神が父親だと言うのですか!」
もし彼らがみことばを調べていたのであれば・・・ハレルヤ!聖書には、みことばが人となられたとありませんか?しかし彼らは、自分たちのビジョンをみことばに照らし合わせてみることをしませんでした。
それです。現代の問題はそれです。自分のビジョンを・・・自分の預言を、自分の教義を、神のことばに照らし合わせてみません。誰かが真理を語ろうとすると、それを払い落とします。アモスがしたように、あなたも同じことをするでしょう。
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さて、見てください。彼はこの状態にいます。もしあなたがみことばに立ち返っていなかったら、多分あなたは彼を非難していたでしょう。彼らは同じことをします。彼らは今日イエスを非難しています。もしここにいる女性が・・・そうです、みことばを読んで自分の短い髪を改めたらどうですか。みことばはなんと言っていますか? どうしてそうしないのですか?
父と子と聖霊の洗礼を改めたらどうですか。それは三位一体と呼ばれる嘘で、そんなものはこの世に存在せず、本当はおひとりの神の三つの役目、神の三つの称号というのが正しいのです。父は名前ではありません。父、子、聖霊などという名前は存在しません。父、子、聖霊の名前は、主イエス・キリストです。聖書ではどのように洗礼を授けていたか調べて、あなたたちの洗礼を改めなさい。
もしあなたの考えをみことばに照らし合わせるなら、立ち返って、主イエス・キリストの名によって洗礼を授けることになるでしょう。そうするように言ったのは、パウロです。彼はこうも言いました。もし誰かがこれと違ったことを教えるなら、その者は呪われるがいい。それが天使であっても・・・
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天使は何度も地上に降りてきていることを知っていますよね。なんとペンテコステはそれを鵜呑みにしていることか!聖マルチンの前に大きな眩しいものが現れたことがあります。マルチンはイエスの名によって洗礼を授け、聖霊を信じ、みことばを守っていました。それでローマは彼を破門にしました。ローマ教会は自分たちのドグマや、教義を強要しましたが、彼がみことばにとどまったからです。悪魔が来て彼を説得しようとしましたが、彼は悪魔に耳を貸しませんでした。ある日、サタンがキリストになりすまし、冠をかぶり、黄金の履物を履き、やって来ました。火のような輝きに取り囲まれた彼は、こう言いました、「わたしがわからないのですか、マルチン? わたしはあなたの主です。わたしを礼拝しなさい。」マルチンは彼を見ましたが、何かがおかしいと感じました。
「マルチン、わたしが誰だかわからないのですか? わたしはあなたの主、救い主ですよ。わたしを礼拝しなさい。」
彼は3回こう言い、マルチンはよく見ました。キリストが来られるとき、彼の民が冠を授けることになっています。キリストは黄金の履物など履きません。それで彼は「サタンよ、引き下がれ!」と言いました。ああ、ペンテコステなら信じてしまったのではないでしょうか? まばゆい光の天使ですから。
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その女性は、シカゴからやって来ました。シカゴには今度行くことになっています。彼女はこう言いました、「ブラナム兄弟、もし主の天使が現れて、あなたにイエスの名によって洗礼を授けるように教えたのなら、あちらの聖職者たちは信じると言っています。でも、それがあなたの考えであるなら・・・」わたしは言いました、「もし主の御使いが、これに反したことを言うなら、それは主の御使いではありません。」
もし御使いであっても、このみことばと違うことを言うのなら、それは嘘です。もし人が、神から遣わされたと言って、父と子と聖霊の名の洗礼が正しいと教えるなら、その人は嘘つきです。もし人が、髪を短くカットしたりするのは構わないと教えたり、教会では覆いとして帽子をかぶらなければならないと教えたりしたら、その人は嘘つきです。神のことばは真実です。みことばに反することはなんでも嘘です。真理はみことばであって、それだけが不変なのです。
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自分の預言が神からのものであるとミカが知った理由がそれです。彼には神のことばがありました。そうです!彼が見た幻は、神のことばが積み重なってできたものでした。ああ、もしアモスがここにいたら、彼はみことばにとどまるでしょう。そうです。でも現代の問題は当時の彼らのものと同じなのです。(もうすぐおしまいにします。)わたしたちが抱えている問題は、彼らが抱えていた問題と似ています。彼らは土台から外れたことを教えていました。だからイエスがこう言われたのです、「あなたがたは、自分たちの伝統を重視して神のことばを無意味なものにしている。」
そして、洗礼の嘘、聖霊を受けたしるしの嘘・・・・「手を振ること」がしるしだと言う者がいれば、
「異言をかたること」がしるしだと言う者もいます。
わたしは悪魔が異言を語り、握手をするのを見ました。そんなのはしるしではありません。さて、見てください。このようなことは・・・・あなたたちはこんな伝統を教えて、神のことばから離れているのです。そうです。
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さて、彼はあなたたちをみことばに引き戻さなければなりませんでした。しかし今日の我々の教師は、神のみことばの土台から外れたことを人々に教えています。さて、よく聞いてください。そういうことを彼らはしたのです。だからアモスは「お前たちが知っているつもりになっている神、その神がお前たちを滅ぼされることになっている。」と言ったのです。さて、何から外れたことを教えたのでしょう? 聖霊降臨の父たちが伝えてくれた信仰の基礎です。そう、それは聖書です。煉獄という嘘を教え、嘘の洗礼を教え、嘘、嘘、嘘、原典から離れたことを教えています。そんなことを信じてはいけません。聖書に戻って、煉獄や父、子、聖霊や水のふりかけやそういう類のことが聖書的なことか調べなさい。それが正しい道です。その類のことが基礎に乗っかっているか自分で調べなさい。
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調べればわかることですが、それらは土台から外れています。パウロは、・・・聖書には、神の教会は使徒と預言者の教えの土台に築かれると書いてあります。預言者と使徒は同じことを言わなければいけません。そうです。それなのに、わたしたちはみことばの土台から教団の土台に乗り替わってしまっているのです。間もなく終わりますから最後まで聞いてください。霊的な補聴器をつけてください。さあ、聞いて。わたしたちはみことばの土台から教団の土台に乗り替わったのです。このことをどれだけ長く話せばいいのでしょう。あと3時間ですか? みことばの土台から外れて、この世的快楽、世俗主義、不品行が教会に入り込みました。みことばから外れて信条に乗り替わったからです。このことを説教するには、3週間かけてやっと半分終わることでしょう。今は四つのことの解説をしているところです。みことばから外れて教団に乗り替わってしまいました。教団とみことば・・・教会が教団となった途端、みことばから外れるのです。
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すべきことは、ただひとつ。外れてしまった地点に戻り、そこからやり直すのです。今度はみことばに立ち返るのです。そうです。「悔い改める」というのは、「振りかえって戻る」ことです。あなたは間違った道を進んでいます。そうです。楽しみの教団。土台を娯楽や世俗や信条に移して得る結果は、道徳的退廃、霊的堕落です。
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彼は本物の預言者であるので、現代のわたしたちのうちに、当時彼が見たのと同じものを見ることでしょう。もし彼がこの教壇に立っていたなら、わたしはこう言うでしょう、「神の大預言者であり、恐れを知らないアモス兄弟、どうか、わたしに代わってここで説教してください。」すると彼は、このみことばで説教するでしょう。彼は預言者ですから、他にしようがないのです。彼は聖書に書かれていることを説教し、それはわたしたちが今ここで語っているのと同じことでしょう。彼は、わたしたちのうちに見ているように、イスラエルのうちも見ていました。道徳的退廃です。友よ、ちょっと見てください。ここにいる人たちの中でどれだけの人が現代の教会に道徳的退廃を見ていますか? そう、わたしたちにはわかっているのです。それなのにどうしたと言うのでしょう。みことばから逸脱しているのです。
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アモスが政府を非難しなかったことに気づきましたか?(家に帰って読んでみてください。)彼は政府を非難せず、教会を非難しました。教会がそのような政府を選んだからです。うーん、政治家たちよ!ちょっと細かく砕いて、飲み込みやすくしましょう。ここにいる皆さんと、このテープを聞く世界中の人のために。教会が、ヤブロアムのような人物を選んだのです。現代のわたしたちも、同じようなことをしていないでしょうか? 良い政府であるとして、岩の上に家を建てようと政府が望んだとしても、人民が砂の上に家を建てることを望んだら、そうせざるを得ません。そうではないですか? だから、「わたしたちの政府は、」と責任をなすりつけてはいけません。あなたが、国が、人民が原因を作り出しているのです。
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ある牧師が言いました、「ブラナム兄弟、あなたが言っていることは正しい。でも、もし私が同じことを説教したら、うちの教団から追い出されてしまいます。うちの教会員は、わたしを教会から追い出すでしょう。そうしたら、もう二度と集会で説教できなくなります。」わたしは言いました、「それでも説教しなさい。」
そうです!神のことばですから、そうする義務があります。もし神の預言者なら、みことばにとどまります。そうでないなら、自分の教団にとどまります。帰属しているところによって結果が違ってきます。
見なさい!無理な話なのです。人民が砂の上に快楽の家を建てたがっているなら、政府は岩の上に家を建てることができないのです。
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それでは、わたしたちは何を欲しがっているのでしょう。ちょっと見てみましょう。みなさんを疲れさせていなければいいのですが。でもちょっとそれを見てみましょう。どうしてもこの問題を取り上げずにはいられないのです。テレビ番組を見てください。それがわたしたちの求めているものです。コメディアンにあらゆる下品なジョークを言わせて楽しんでいます。それが見たいから水曜の夜は祈りの集会に行かないで家にいる、あるいは、その番組が見れるように、牧師が早く集会を切り上げる。下品でけがらわしい、5回も6回も結婚した娼婦が、セクシーな服を着て下品なジョークをとばし、そんなことを楽しんでいる番組を、あなたたちは、神の家よりも好きなのです。あなたたちのうちに、どんな霊が働いているのかわかります。
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そんな番組をわたしたちが許容しているのです。もしこの国の人々が、政府に対して手紙を送り、(1億通くらいの手紙を)「あのようなくだらない番組をやめてほしい」と抗議するなら、彼らは番組をやめざるを得ないでしょう。わたしたちが主体なのですから。しかしわたしたちが汚らわしさを望んでいるのです。だからああいう番組があるのです。ラジオ番組はどうでしょう。なんとまあ、「ロック・オブ・エイジズ」をツイストの曲に変え、「丘に立てる荒削りの」をスイングできるように、ロックンロールに仕立てています。あの「丘に立てる荒削りの」の歌をです。ええ、確かにラジオもテレビもみんな・・・・。
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最近まではフラフープ、小さい女の子たちが夢中になって。何もかもが不健全になってしまっているが、それをわたしたちは好んでいるのです。スポンサーは? ビール会社、ウィスキー会社、タバコ会社、この国にお金をもたらすものです。彼らは何をしているのですか? 政府に入れるべき税金を、下品で汚らわしいテレビ番組につぎ込んでいるのです。ペンテコステは、下品で汚らわしい映画が上映されていてもそんなものは観に行かなかったものです。でも悪魔は、そうさせるために、家にテレビを置くようにさせたのです。
預言者の言葉は厳しいものです。でも真理にとどまりましょう。そうです。
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通りの看板をみてください。女性がタバコを手にして立っていたりして、国中の小さなイザベルが・・・。先日奇妙な光景を目にしました。学校に子どもを迎えに行ったとき、ある女性が子どもを迎えに来ていたのですが、凍える寒さの中でショートパンツしか履いていなかったのです。そこに来た人たちはみな立ち止まってタバコを手にしました。タバコを手にしていなかった人は素早くタバコに火をつけました。(注:ブラナム兄弟が、煙りをふかす音を真似る。)タバコを持った手を車の窓から出して、「ねえ、気が合うね。」そんなところで何か言おうものなら、彼らは叱りとばします。そうです。リッキーやエルビスやその類の人たちに何かを言おうものなら、撃たれてしまうことでしょう。そして政府は、彼らはまだティーンエイジャーなのだからと彼らの肩を持つでしょう。「まあ、いいじゃないか。彼らにはわかっていないんだ。まだティーンエイジャーなのだから大目に見てあげなさい。」
まことの預言者の定義がわかりましたか? 彼のあり方が、見えて来ましたか?
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宗派教団の教会にいる汚らわしい夢追いびとをご覧なさい。彼らは背中を狙って撃ってくることでしょう。彼らがそうしないでいるのは、このメッセージが行き渡るまで神の憐れみによって守られているからでしょう。悪魔は命を狙ってチャンスをうかがっています。そうです。でもこのメッセージは行き渡らなければならないのです。「主なるわたしが、回復する。」そうです。「これらの石ころからでも、わたしは立ち上げる。」そうです。その通りですね。138
映画、看板、クリスチャンと称しながら、快楽を愛する罪人たち。人々はクリスチャンと称して、快楽を愛し、欲求を満たそうとし、女性は不品行な服を着て、男性はそれを見て口笛を吹きます。それでクリスチャンのつもりになっています。由々しきことですが、フロリダやカリフォルニアには大きなクラブがあります。男たちが集まって鍵を投げ入れ、女たちが入って来てその鍵を選びます。それが誰であれ、家に連れて帰って1週間一緒に住み、また戻って来て鍵を投げ入れるのです。それがクラブです。雑種の子やらなにやら、豚が豚を食い、犬が犬を食う。どうなってしまったのですか? 彼らがみことばを離れたからです。139
慎ましさの意味を彼らは知らないのです。男たちを欲情させるような短いタイトな服を着てここにやって来たりして、それで慎ましいつもりになっています。姉妹よ、あなた自体はなにも悪いことをしていないかもしれませんが、ひとこと言わせてください。あなたは悪魔の道具に使われているのです。そして裁きの座に着いたとき、「主がこう仰せになる。」あなたは姦淫を犯した罪を問われるでしょう。そしてあなたの魂は消滅します。とにかく分別を持つべきです。今そのことをわかりなさい。140
すべての仕組みが堕落して退廃しています。それは人々の望んでいることがそうだからです。家の主人のようなものです。もし家の主人が、政府を批判するなら・・・。息子をここから送り出し、大砲の前に立たせるような使い捨て兵士に仕立てるのは、わたしたち自身の堕落が原因しているのです。もし主を愛し、主に仕えるなら、正しい政府に投票し、この国は素晴らしいところとなるでしょう。そうです。戦争もなくなるでしょう。神はわたしたちの砦であり、力です。息子を戦場に送り出し、殺し、虐殺し、あらゆる悲惨な目に合わせるのは、わたしたち自身の行ないの結果なのです。聖書で神がそう言っておられます。神は変わらないお方です。常に同じです。人々自身の欲求がそうさせているのです。
141
家の主人のようなもので、もし主人が良い人だったとしたらどうでしょう。彼は正しいことをして神のために生きたいと望んでいますが、家族は快楽と不品行を愛していたとしたら。彼の妻がショートパンツを履いたりセクシーな服を好み、出歩いてイザベルのように振る舞い、娘や息子も同様だったとしたら。彼は息子を育て、愛し、包み、キスし、ベッドに寝かせ、祈りをしました。その息子が、「うちの親父は狂ってる。聖書のことしか頭にないんだから。」なんて言ったとしたら、彼はどうしたらいいでしょう。家族のためにできることがあるでしょうか。同じことが、わたしたちの政府と国民にも言えます。政府を非難してはいけません。責められるべきは、堕落した教会です。彼らがこのような政治家を政府に送り込んだのです。そう望んだからです。彼らが投票し、望んだとおりの選挙結果を得、神の裁きを招いたのです。彼ら蒔いたものを刈り取ることになるでしょう。彼らは今、種を蒔いていますが、やがてそれを刈り取ることになります。
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気をつけなさい警告です!わたしたちは狂気に見舞われています。(そうです!)ロシアと接触するために自分たちの流儀を買おうとしているのですから。共産主義と張り合うために自分たちの流儀を買おうとしているのです。いくら頑張っても・・・でもお金では・・・神の賜物を買うことができません!そうしようとした人物がいました。シモンです。ペトロは彼に、「お前はその金といっしょに滅んでしまえ。」と言いました。わたしたちがしていることは、魔術師シモンと同じで、神の賜物を買おうとしているのです。
みことばに帰ってきなさい。神にたち返りなさい。キリストにたち返りなさい。そうすれば共産主義などにビクビクしなくて済みます。正しい人物に投票し、アブラハム・リンカーンやジョージ・ワシントンのような本物を大統領にするのです。今の政府を責めてはいけません。むしろ自分たちを責めなさい。アモスならこのように言うことでしょう。神のまことの預言者なら、神のことばを知っていたら、このように言うことでしょう。もし彼がまことの預言者なら、みことばを知っています。みことばは預言者に臨んだからです。
143
イスラエルは敵国と同盟を結びました。しかし、敵国と同盟を結ぶということは、それ以前に、神のことばから離れていたということです。そしてわたしたちも、敵やその類のことと同盟を結ぶためには、まず神のことばから離れていなければなりません。同じことが起こっているのです。ローマにいいようにされています。なぜならわたしたちがそれを許しているからです。ローマはこの国の政権を握り、議席を確保し、人々の心を引きつけ、この国の教会も乗っ取ろうとしています。わたしたちは何をしていますか? 黙って座っています。そしてうなずいてこう言っているのです、「こういうやり方をしようが、ああいうやり方をしようが、大した違いはない。すべて神のことに変りはないのだから。」
預言者と称する愚かで惨めな堕落者よ、いったいどうしてしまったのですか!そういう人たちは神についての言葉を知りません。みことばを調べることもしません。自分たちで気づいていないのです。共産主義が世界を制覇するなどと言っていますが、そんなことはありません!ローマ主義が世界を制覇するのです!しかもそれをキリスト教の名に隠れて行なっています。聖書は、イエスは言いませんでしたか? 反キリストは非常に似通っていて、できれば選ばれた者をも騙そうとすると。
144
今必要なのは、・・・(これを言ったらおしまいにします。)今、わたしたちに必要なのは、まことの預言者です。アーメン!神のことばを受けとめることのできる人を必要としています。ですが兄弟よ、その人は拒絶されることでしょう。その人は突っぱねられ、追い出されます。それでも、強烈な叱りの言葉を残すでしょう。彼はそのような種を残し、選ばれた者がその種を見つけ出します。そうです。わたしたちは預言者を必要としています。みことばの正しい解釈が与えられ、神からのことばを直接聞き、そのことばの正しさを神によって証明される人が。そういう人が必要なのです。でも兄弟よ、マラキ4章によれば、そういう人物の登場が約束されています。その人は何を回復しますか? 人々の信仰を聖書に戻すことです。神が約束してくださっているのですから、その人物はやり遂げます。145
アモスにはわかっていました。(そうです!)イスラエルが、彼女の不信心な恋人によって滅ぼされることが、アモスにはわかっていました。現代の不信心な恋人は、まもなく彼らを滅ぼします。自ら進んで束縛されている(あなたたちのことですよ、ペンテコステよ。)教団の信条やその類のことが、あなたを滅ぼすのです。信条とか教団のことです。自ら進んで束縛されて、獣の刻印を受け、そのことに気がつかないのです。目の上にそれをぶら下げているというのに。確かにそう、ボイコット。何をしようとしているのですか? ここに属す、あるいは属さない。ちょっとの間待っていて、・・・ちょっとの間がちょと長引いて、それからこう言うのです。「それなら出て行こう。」いいえ、あなたは出て行かないでしょう。すでに一部になってしまっているからです。すでに刻印を受けています。刻印がはっきりあなたにつけられています。
エサウは、現実を知って激しく泣きました。彼はやり直す方法を探り、見つけることができなくて、激しく泣いたのです。そうなったら、そこにとどまるしかないでしょう。今こそ逃げ出す時です。
146
アモスには、イスラエルの不信心な恋人が彼女をまもなく滅ぼすことがわかっていました。それはイスラエルが神と神のことばと、いのちの道を捨てたからです。神のいのちの道から外れ、自分勝手な道を選びました。ああ、みことばは彼らにとってつまずきの石となったのです。それと同じことが現代にも言えます。クリスチャンと称している人たちにとって、神のことばはつまずきの石となっています。イエス・キリストの名による、水の洗礼を彼らに教えてごらんなさい。聖霊のバプテスマについて彼らに教えてごらんなさい。「ええ、わたしたちは聖霊をうけていますよ。」と、彼らは言うでしょう。
それならなぜ、まだ髪を短く切るのですか? なぜ今でも父と子と聖霊の名によって洗礼を授けているのですか? そのほかのことについても、どうして慣行を改めようとしないのですか? あなたの行ないがそれを証明しています。イエスは言われました、「その実によって、その人を知ることができる。」だから、あなたたちは何もわかっていないことを話しているのだと言うことが、わかります。そうですね。
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もしアモスがここにいたら、彼は教団宗派の非を大声で叫んだでしょう。知っていましたか?さて、おしまいにする前に聖書を一節読みます。3章8節です。
獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。
聞いてください!もうおしまいにします。これだけは言いたいのです。30分も遅くなってしまって申し訳ないと思います。でもこれだけは言いたいのです。わたしは狩をします。神がこのような好みを与えてくださったことを感謝します。先日銃が暴発したとき、わたしはすぐさま、もう撃つことができなくなるのではないかと考えました。わたしは銃を撃つことの恐れにとらわれたくありません。道路を走っていて衝突したとしても、運転免許を返上したりはしないでしょう。床のカーペットに足を引っ掛けて、窓から落ちたとしても、怖くて歩けなくなるなんてことはないでしょう。神ははっきりと教えてくださいました。あれはサタンの仕業で、神のせいではありません。あれはサタンだったのです。
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このことを霊的に適用できます。あの暴発の事実を知っている人が、この部屋にわたしを含め三人います。あの実態を知ったら、髪の毛が総立ちになることでしょう。でもだれにも教えませんでした。三人いれば証人になりますから。もういいのです。神がすべてをご存知で、前もって警告をくださいました。あれは部分的にはわたしの間違いでもあるのです。ある人の意見を取り入れてしまったからです。本当はそうするべきではありませんでした。断ることもできたのに、そうしなかったために、痛い代償を支払わされる目にあいました。だから・・・もういいのです。わたしのせいです。もう赦されました。前に進んでいくのみです。149
はい、アモス、この8節です。「獅子がほえたなら、だれが恐れずにいられよう。」アフリカのジャングルの中で狩をしたことがあります。ライオンがいる場所でキャンプしました。ライオンは百獣の王です。夜、ジャングルに横たわって、ギャーギャー鳴 く声を聞きました。ハイエナは笑ったり唸ったりし、いろいろな動物の声を聞きました。ハイエナが叫ぶ声には血が凍る思いがしました。ひょうが唸り、甲虫や猿やひひや、やおろずのものが、キーキー、ガーガーと鳴いていました。どこに行ってもあらゆるものが鳴いているのが聞こえました。でもライオンがひと声ほえたとき、甲虫でさえ、静まりました。あたりを死の静けさが支配したのです。皆しいーんと静まりかえりました。なぜなら、彼らの王が、ことばを発したからです。アーメン。
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獅子がほえたなら、だれが恐れずにいられよう。神が語られたのなら、だれが預言せずにいられよう。神か語られると、預言者は叫びます。言っている意味がわかりますか? まことの預言者は叫びます。友よ、神が語られたのです。すべての御国の生き物は、語られたことに耳を傾けなさい。ライオンが、何かがおかしいと察知して、ほえたなら、彼の王国は静まり返り、耳を傾けます。小さな甲虫でさえ、そうします。彼もライオンの王国の住民ですから。血も凍る鋭い遠吠えをするハイエナでさえ、黙ります。象は鼻でライオンをブンブン振り回すこともできるでしょうが、ライオンがほえたら、黙って静止します。アフリカ水牛は、鼻から火を吹くような荒い息をして、ライオンに飛びつかれても怪我をしないようなものですが・・・。サイは7トンもある鎧甲冑をまとい、鼻息も荒いですが、ライオンがほえるなら、ピタッと止まります。どうしたのでしょうか。彼らの王が語ったのです。彼らは何が語られるのか聞きたいのです。そして神が語られたのなら、預言者は叫びます。そして御国に属する者は、何が語られたかよく聞くのです。神は語っておられます。神が語られたなら、御国のあらゆるいきものは、語られたことを聞きなさい。祈りましょう。
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おお、ユダ族の獅子よ、立ち上がりほえたけりたまえ。汝はこの終わりの日に、声をとどろかせておられたもう。あなたは目を細めておられます。この地を見下ろし、クリスチャンの国と呼ばれる国家や世界の中にはびこる罪を見ておられます。尊い血によってできたこの国のうちに罪を見ておられます。教団がいかにあなたのみことばからそれたか、いかに偽の預言者が嘘をつき、神の真理が否定されているかを見ておられます。ほえたけってください、ユダの獅子よ。あなたの預言者らを叫ばせてください!神が語られたなら、どうして預言せずにいられよう。これは聖書から出た神のことばです。預言者をとおして御業を働いてください。どうして預言者が黙っていられるでしょう。もし黙っていたら、粉々に吹っ飛んでしまうことでしょう。
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ああ、神よ、あなたの預言者がほえたけりますように。神よ、あなたのメッセージをとどろかせ、御国のあらゆるいきものが耳を傾かせますように。彼らが止まりますように。女性らが立ち止まって自分たちの行いを改めますように。男性らが立ち止まって、自分たちの行いを改めますように。このテープを聞く説教師が、一人残らず立ち止まって、行いを改めますように。ユダ族の獅子がほえるからです。まことのみことばが、預言者に臨み、預言者が語り、叫びます、「悔い改めて、たち返りなさい。手遅れになる前に。」神よ、このテープのメッセージを、そして今朝ここにいる聴衆を、あなたに委ねます。あなたが承認してくださることを信じています。そしてこのテープを聞く、あるいはこの声を聞くあらゆる神の息子娘たちの心に届き、彼らが手遅れになる前に悔い改めることができますように。
主よ、わたしは信じていますが、もしあなたがアモスをここに遣わされたら、彼は同じことを叫ぶことでしょう。主の預言者であるなら、みことばを伝える者だからです。彼はみことばを伝えました。みことばと共にいるなら、彼がみことばです。主よ、イエス・キリストの何よって、祈りをかなえてください。アーメン。