62-1014M 完全な身丈に成長する人
- 伝道者:ウィリアム・ブランハム
- ジェファーソンビル インディアナ州
- 録音番号:62-1014M
- 年:1962
1
ありがとう、ネヴィル兄弟。主の祝福がありますように。今朝、またこの会堂に戻って来られて嬉しいです。この朝が輝かしいものになりますように。わたしたちの主の御臨在の中で、皆と共に素晴らしい1日が過ごせると信じています。さて、とても大切な授業なのですぐに始めたいと思います。大勢の人が立っているので、長引いてみなさんに不快な思いをさせたくありません。だからすぐにクラスを始めます。
2
さて、今夜は、『わたしの人生の道しるべ』という題のお話をしたいと思います。来られる人はできるだけ今夜の集会に集まってください。でも、ご自分の教会で集会があるなら、そちらを優先してください。世の光となるために、教会の集会に参加するのは、兵士が配置につくのと同様、大切な勤めです。次に集まる時には、もっと場所を確保したいと、ずっと願っていることなのですが、それができなくて困っています。教会の理事は、熱心にいろいろと検討しているのです。あるところに書類を送り、承認され、別の場所にそれを送り、拒否され、またやり直さなければならず、こっちで承認されても別のところで却下され、・・・ああ、なんという時を過ごしているのでしょう。でもご存知のように、サタンは正しいことに反対して戦いを挑んでくるのです。覚えておいてください、常に正しい・・・
3
アンソニー、あなたが見えないものだから、どこに行ったのかと思っていましたよ。会衆の中に、あなたのお父さんがいるのを見つけました。あなたが一緒に座っていると教えてくれたので、あなたとあなたのお父さんのミラノ兄弟がニューヨークから来て集ってくれて嬉しく思います。主が望まれるなら、今度海外のどこかに、ニューヨークから飛び出そうと思っています。みなさん、一人一人がここに集まってくれて嬉しく思います。昨晩は素晴らしい集会でしたね、少なくともわたしはそう思います。「天の神殿のイザヤ」の話をしました。
今朝のお話というか教えのタイトルは、「生ける神が住まわれる生ける幕屋となる:完全な人」としたいと思います。生ける神が住まわれるための、生ける幕屋となるための教えです。
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わたしはまだ聞いていないのですが、素晴らしい歌があるそうですね。今晩は聞いてみたいと思います。テネシーから来たアングレン兄弟の昨晩のことを、妻が話してくれました。今朝は顔が見えないようですが、会堂のどこかにいるのでしょうね。今晩彼の歌を聞きたいです。できたら、「ダウン・フロム・グローリー」か「ハウ・グレート・ザウ・アート」を歌ってほしいです。アングレン兄弟の歌を聞きたい人がどれだけいますか? ああ、わたしはよい歌が大好きです。メーダが、彼の声はバリトンだと言っていました。バリトンというとバクスター兄弟を思い出します。みんなも知っているように、彼は歌手です。それで、「ダウン・フロム・グローリー」か「ハウ・グレート・ザウ・アート」を歌ってほしいです。
彼を見つけたようです。アングレン兄弟、よかったら今晩歌ってもらえますか? 今夜の集会までいられますか? ああ、それなら、こうするのはどうでしょう。誰にも迷惑をかけたくはありませんから、今度「七つの封印」の話をするときに、もしあなたが来ることができたら、「ダウン・フロム・グローリー」か「ハウ・グレート・ザウ・アート」を歌ってほしいです。テープに録音したいと思います。
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主に仕えるのは素晴らしいことではありませんか。もしクリスチャンになっていなかったら、どうなっていたかわかりません。クリスチャンであることは、只々とても素晴らしい。飛び跳ねて声を張り上げたい気持ちです。クリスチャンであること、考えてもみてください、キリスのもとに固定しているのですよ!いつも名前を言い間違えるのですが、S.T.だったか、T.S.だったか、とにかくサムナー兄弟、あなたと素晴らしい奥さんに感謝します。彼女は6ヶ月くらいかけて「七つの教会時代」をタイプ打ちしてくれました。タイプされたものを受け取りました。これから校正して製本します。「七つの教会時代」の本です。
サムナー姉妹、どこかにいることと思いますが、必ずあなたに支払いをさせてください。本当に大変な作業でしたね。こんなに分厚いものになりました。わたしも読むのに6ヶ月くらいかかるかもしれないのに、それをテープ起こしして重複しているところを省いて本にしてくれるとは。準備が整い次第印刷に回します。これは今すぐにも人々が手にして学ぶべきことだと考えるからです。そうしたら、さっきビリーが、印刷に回す手はずが整ったと知らせてくれました。
ですから、姉妹よ、この会堂はあなたの働きに対して支払いをします。無報酬で働くなどということはさせません。もし本が仕上がって、価格か何かをつける必要ができたら、本が売れた時にあなたが何らかを受け取ることができるように価格を設定します。役員と話してください。彼らが何とかしますから。主が祝福を持ってあなたによくしてくださりますように。
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ここに座っているキッド兄弟姉妹は、百歳にちょっと届かないくらいの歳でしょうか。さっき姉妹と話したら、彼女は、「お会いするのは今回が最後さもしれません。ビリー兄弟。わたしはもう歳ですから。」と言いました。「まあ、そんなことを言わないでください。」と答えました。彼らは歳をとった父と母のような存在ですから。わたしたちみんな、キッド兄弟姉妹が好きです。彼らのような老夫婦が教会に入ってくるのを見ると、何か心が湧き立つのです。わたしが生まれる前から福音宣教をしていて、そのわたしがもう老人になっているのですからね。考えてみてください。わたしが生まれる前からずっと彼らは宣教しているのです。そしてわたしが、「ああ、もう歳をとってしまった。もうこのくらいでおしまいにしていいのではないか」と考えていたところ、キッド兄弟姉妹がやてきて、「神に栄光!」と賛美しているのを見たら、「いやいや、まだわたしは元気だぞ。」と勇気が出るのです。
彼らを見ると、元気が出てきます。彼らはまだ現役で活躍しているのです。今朝やってきて、本を頼まれました。本を持って行って売るためです。テープも頼まれました。テープをかけて人の魂を勝ち取るためです。百歳近くになってもそうしているのです。「昨晩話した2本の翼はどこにあるのか?」と、 自分に聞いて見ました。「わたしの2本の翼はどこにあるのか」と。
キッド姉妹おいくつですか?(「わたしは、81ですよ。」)キッド兄弟は?(「82です。」)81歳と82歳で、いまだに2本の翼を羽ばたいてご活動中でおられます。
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キッド姉妹が知りうる限り、オハイオで何か異変が起こっているという電話が家にかかってきます。先日電話で彼女が言いました。小さな赤ちゃんが、(女の子の赤ちゃんだったと思いますが、)腸が外に出て、いえ、膀胱が外に出たままで生まれてきて、医者が処置に困っているというのです。医者は手術を恐れていました。それでわたしたちは祈りました。(キッド姉妹が、聴衆の間から関連の話をする。)・・・腸を中に入れる手術をしても、子どもは助からないだろうと考えたのです。でも子どもは助かりました。今度は直腸が閉じているので食べ物を通すことができないことがわかり、キッド姉妹からまた電話がありました。それでわたしたちはまた祈りました。今、子どもの腸は正常に働いています。ここにいる姉妹が証人です。医者も証人です。偉大なる創造主である主イエスがなさったことの証人です。サタンは何をしようとしましたか? あの赤ちゃんの命を断とうとしたのです。赤ちゃんの母親は、主に立ち返ったことと信じています。赤ちゃんに起きたこの大きな奇跡の後で、キッド姉妹がその母親をキリストに導きましたから。
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昨日カリフォルニアから電話がありました。初めてカリフォルニアに行った時に一緒だった奉仕者の若い兄弟からです。彼の孫が、心臓の管の4本のうち3本が閉じたままで生まれたというのです。わたしは、その場合のことを彼に教え、こう言いました、「神は、他の管を正常に作られたお方なのだから、必ずあなたの孫は癒されますよ。あなたは息子に、元気を出しなさいと伝えなさい。」わたしが初めてカリフォルニアに行ったとき、彼の息子は集会に来ていました。18年、いや16年前のことでした。その集会で彼はとても影響を受けました。それから赤ちゃんができて、生まれて、何かおかしいとわかり・・・
赤ちゃんは青かったのです。医者は酸素を注入したりいろいろしようとしましたが、生きる望みはなさそうでした。それで医者が調べたところ、心臓の3本の管がぴったり閉じていることがわかったのです。たった1本だけが動いていました。
それで彼は父親に電話をかけ、言いました、「親父、至急ブラナム兄弟に電話してほしい。彼に、『キリストにお願いしてください。そうすればキリストが助けてくださる。』と伝えてほしい。」それで決着です!見て、影響を受けて行動したからです。昨日話したことと同じです。いいタイミングでふさわしいことをしたのです。
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9 話ばっかりしていて、なかなか授業に入れそうもないですね。寒い朝の糖蜜のようで、分厚く張り付いてなかなか切れないのです。わたしたちはそのようにつながっているので幸せですね。さて、心を落ち着かせて授業に入りましょう。みなさん、黒板が見えますか?ここをもう少し明るくした方が、・・・え、なんて言いました?(ドックが、「スポットライトをつけましょうか?」と尋ねる。)いや、今は必要ないと思いますが、ドック、もう少し明るくしたいのです。ここを明るくできますか?いいでしょう。じゃあ、明かりをつけましょう。後ろの方の人は見えますか? 黒板に書いてあることが見えたら手をあげてください。見えない?わかりました。じゃあスポットライトをつけましょう。
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10 彼らが支度してくれている間に、授業を始めましょう。今朝は遅くなって、・・・いいえ、15分も早いです。ですから、急がず時間をかけましょう。急ぐと言いたいことをすべて伝えることができなくなるからです。先日テープを聞いていて自分が恥ずかしくなりました。言った内容のことではありません。喋り方が速すぎたのです。神経質なものですから、やたら速く喋ってしまいました。ちょっと待った方がいいような気がします・・・11
ルイビルの真ん中に大きな動物園を造るという記事を見ました。たしか、ブラウン氏が動物園のために100万ドル寄付したとか。もしわたしにそんなお金があるのなら、動物たちをもとの場所に解放しますね。何であれ、あんな檻にいれることが正しいとは思いません。動物園に行って、哀れな動物が、熊やライオンなどが行ったり来たりして囚人生活を送っているのを見るのは気の毒になります。なんといっても、動物より賢い人間の知恵によって、彼らは捕らえられたのですから。人間は動物をとらえ、檻に収容しているのです。これは悪魔の仕業と考えます。神が作られた素晴らしい場所、野原などを、本来ならば自由に歩き回るはずの、かけがえのない人々を捕らえて、教団とか信条とかいう収容所に入れて縛りあげてしまったのですから。なんとひどいことでしょう。
わたしは動物園が好きではありません。でも人間がそのような動物なのではないかという気がします。檻に閉じ込められて、必死に逃げ出そうと、何かをするために脱出しようともがいているのです。
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みことばに近づく前に、頭を下げてみことばの作者に祈りをもって近づきましょう。尊い天の父よ、わたしたちはあなたの息子である主イエスの名によって今朝ここに集まっています。人の姿で地上に来られた神が、わたしたちの罪のための捧げものとして死なれ、この神自身の義によって、わたしたち不義の者が、彼にあって完全なものとされました。
主よ、告白します。わたしたちはふさわしくない者です。わたしたちに良いところなどありません。そしてわたしたちはみな、大きな監獄に閉じ込められいるのです。どの隅っこにいようと、監獄にいることに変わりありません。お互い手助けすることもできません。でも神の無限のあわれみによって、神が降って来られ、監獄の扉を開いてわたしたちを自由にしてくださいました。もう閉じ込められていません。わたしたちはこの世の動物園には閉じ込められていません。自由になりました。檻の外にいます。
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おお、神を愛し、どれほど慕い求めていることでしょう。神が約束してくださった素晴らしい野原を歩いて行き、自分たちの目で神のお姿を見ることができるとはなんということでしょう。昔の預言者が見たように、偉大なる永遠の神のお姿が現実のものとしてわたしたちの目の前で明らかにされることになるとは。いつの日か、この世での暮らしが終わった後で、永遠の命に復活し、もはやすたれることがなくなることを確信します。彼らはそのことを知ったので、安心して休息しています。わたしたちは老いることなく、死ぬこともありません。飢えることもなく、何ひとつ欠けたところのないものとなります。そして神と共に歩くことになるのです。神がこう言われるのを聞きたいですね、「この世の基礎が築かれて以来、あなたのために用意されてきた主の喜びの中に入りなさい。」
罪が入り込む前、アダムとエバのために神が用意された状態のように、病気も困難も何もありません。そういう状態を神はわたしたちのために用意されました。わたしたちが来ることを知っておられたからです。罪が大きな障害となりましたが、イエスの血によって、罪は取り去られました。神が約束してくださったので、わたしたちの終着点はその約束の地です。それは永遠に変わらないことです。
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父よ、みことばを学ぶわたしたちを祝福してください。その地にたどり着くためにどのような人になったらいいのか知りたいのです。今日この学校に尊い大先生をお迎えして教えを聞くことができるよう助けてください。聖霊が降って、みことばによってご自身を明らかにしてくださいますように。神の名と神の栄光によって祈ります。アーメン。15
さて、まず第2ペトロの1章を開いてください。そこの一部を読みたいと思います。第2ペトロの1章です。紙と鉛筆を持っている人たちに言います。今朝言われたのですが、時々わたしが顔をマイクから離すので、声が不明瞭になるそうです。そうするつもりはなかったのです。いつの日か、天井から蜘蛛の巣のようにマイクが吊り下がっているような装置ができたらと思います。そうしたらどこに立っていてもちゃんとマイクが・・・マイクが天井にぐるりと付いていたなら、完璧でしょう。16
そして今、私が話している間、この集会の後、よかったらここに描いてある図をスケッチしてください。わたしはタイプアウトしたものも持っています。画鋲を外してこの前に置いておきます。もしそうしたいのなら、午後早い時でもいいですから来て、そうしてください。理解を深めるためです。17
さて、わたしたちは七つの封印に近づいています。七つの教会時代のメッセージはすでに済みました。今回のは、主イエスの血によって贖われることになる人に関する教えと、その人が行くことになるあの教会時代、つまり、封印の終わりに現れる永遠の教会時代を結びつけたメッセージです。さて、我々は七つのラッパと七つの災いなどについても、おいおい学んでいくことになりますが、もっと多くの人が座れるような大きなスペースができるのを待っています。
わたしは、期待していたこととこれを結びつけることができると考えました。このような図を描くことになるとは思っていなかったのですが・・・・・・・、先日わたしは大切な友人であるコックス家の人たちと一緒にケンタッキーにいました。シーズンが終わる前にもう1日リス狩りをしたかったからです。あそこに立っているチャーリーと兄弟のロドニーが一緒でした。ところが一匹もリスが現れなかったのです。わたしが森の中であんまり大きな声で叫んだので、リスがみんな逃げてしまったのでしょう。男の子たちとネリー姉妹、マージー姉妹には日曜日に話してあげると約束したのですが、こういうわけだったのです。これから話すメッセージは、このようにして出来上がりました。これが、今までの教えと見事につながったのです。合点がいきました。それで、森の中で正真正銘の叫びの霊を放ちました。
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さて、第1ペトロ、いえ、第2ペトロの1章の部分を読みましょう。イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストとの義によって、私たちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
このような言及の仕方はいいですね。今朝のメッセージの主題は、信仰を基盤としているからです。もう一度同じところを読みますから、よく聞いてください。
イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストとの義によって、私たちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
ペトロが、「わたしはこの信仰を得ました。それで、同じこの尊い信仰を得たあなたたちに伝えます。」と言ったことに留意してください。これはこの世に対してではなく、教会宛に、キリストにある人々宛に書かれたものです。
神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵と平安とが、あなた方に豊かに加わるように。(神の御力が、今やわたしたちにすべてのことを与えてくださっているのですよ。)
いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、私たちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召された方を知る知識によるのである。
また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。(その約束ですよ)それは、あなた方が、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質に預かる者となるためである。
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さて、このことばを深く心に浸透させましょう。今朝は、説教ではなくて教えの時間です。神のご性質。もういちど4節を読みます。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなた方が、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質に預かる者となるためである。
わたしたちは、この世から脱け出したのですよ。ペトロはこの手紙を教会宛に書いています。ですからわたしたちは、その道とは何かを、今朝見出そうとしているのです。神が命じておられることはなんですか?ここには、神を愛していながら、もっとキリストのようになりたいと願わない人は、一人もいないはずです。さて、準備ができたようですね。クリスチャンなら誰もがそれを望みます。
わたしは古参兵の域に入りますが、ここにいるキッド兄弟姉妹をご覧なさい。多分この会堂で一番の年長でしょう。でも彼らに、「あなたが望んでいることはなんですか?」と聞くなら、「もっと神に近づくこと。」と答えるでしょう。キリストを知るとわかりますが、キリストにはなにか、こう、愛おしいものがあって、彼に対して正しくあろうとしたくなるのです。
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こういう言い方を許してください。実はちょっと前に妻に、(二人とも、もう歳ですが、)・・・「昔のように愛してくれてる?」と聞いてみました。彼女は、「もちろんよ。」と答えました。
それでわたしはこう言いました、「わかっていると思うけど、君のことをとても愛しているので、つかまえてわたしの内に引き込んでしまいたいくらいだよ。そうしたらひとつになれるからね。」
さて、それに1億を掛けたら、キリストに恋している信者たちがどれほど彼と恋に落ちたいと思っているかがわかるでしょう。しかもキリストは、その約束によって、わたしたちがキリストの神性にあずかることができるということを教えてくださっているのです。この死ぬべき体が、どうしてそのようなものにあずかることができるようになるのでしょう。
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ここで言わせてもらいたいことがあります。わたしがそう信じる理由は・・・・。ちょっと前に、誰かからひどい誤解を受けました。聖職者協議会から手紙を受け取ったのですが、そこには、わたしが『運命の人説』を信じていて、もし今の伴侶が運命の人でないのなら、別れて運命の人と結婚し直さなければならないと説いていると書いてありました。なんとまあ!そこでわたしはこう言いました、「そのような異端説を唱えたことはない。」わたしは常にそのような異端に反対してきました。そんなことは支持しません。どんでもない。神が伴侶をわたしたちに与えてくださることは信じます。それは真実のことですから。二人はお互いの部分となるのです。そうです。人は結婚する前に、そういうことをしっかり考えておくべきです。
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ある若者がわたしに尋ねました、「ブラナム兄弟、わたしはあの娘、〇〇さんと結婚するべきと思いますか?」私「どれほど彼女のことを思っているのですか?」
彼「彼女を愛しています。」
私「もしあなたが彼女なしでは生きていけないのなら、結婚したほうがいいでしょう。でも彼女がいなくても生きていけるのなら、やめといたほうがいいでしょう。でも彼女がいなかったら、死んでしまうというのなら、結婚したほうがいいでしょう。」
わたしが彼に伝えたかったことはこうです。つまり、もしそれほどまでに彼女を愛しているのなら・・・・。結婚する前はすべてのことが素晴らしく思えるものです。でも結婚した後に、人生の苦労がやってきます。その時こそ、お互い理解し合うことができるよう愛する時なのです。そうすれば、もし彼女に失望したり、あるいは彼女から失望されたりしても、お互いを理解することができるのです。
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キリストとの関係もそうです。わたしたちはキリストを深く愛しているなら、祈ったことがかなえられなくても、動揺しなくて済みます。どうすればそうなれるのでしょう。そうなれるための唯一の方法は、キリストの神性にあずかることです。そうすれば、どうして祈りがかなえられなかったのか、その理由を理解することができるようになります。神の性質をもつ人になることです。さて、「世にある欲のために滅びることを免れ」と書いてありますから、免れたのです。誰が免れたのですか? 教会です。キリストのうちにある人たちはこれらのことを超越しています。自分たちが偉いのではありません。キリストが引き上げてくださったのです。
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今朝ここにいる黒人の兄弟姉妹たち・・・これから言うことは決して悪い意味ではありませんが、前にある集会で、(この話はもうしたことがあるかも知れません。あちこちで話してきましたから。)黒人の姉妹が、「証しをしてもいいですか?」と、わたしに尋ねました。「もちろんいいですよ。どうぞ。」
彼女はこう言いました、「神の栄光のためにこの証しをしたいのです。あたしは、そうあるべき者ではありません。あたしは、なりたい自分でもありません。でも一つだけ確かなのは、あたしは、かつてのあたしではありません。」
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彼女はどこかで、成長させられて来たのです。そのように、わたしたちは死からいのちへと移されて来ました。振り返って、かつてわたしたちがすくい上げられた穴ぼこを見ればわかります。わたしたちは、なりたい自分にはなっていません。そうあるべき人物にもなっていません。でも、感謝なことに、もはやかつてのわたしたちではないのです。そうです。発展途上にありますが、この世の退廃からは免れました。この世の欲望や退廃を、わたしたちは超越しているのです。26
さて、そういう種類の人に対して、ペトロは話しているのです。そういう人とは、この世の退廃を免れた人のことです。それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、
知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、
信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
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さて、どうすべきか、いかにすべきかの概要を、彼は示してくれました。先ほども言いましたように、わたしたちは神に近づこうと努力しています。ですから、教会の今朝のメッセージにこれを選びました。みんな求めて旅をしています・・・・。昨晩、「町の外から来ている人はどれだけいますか?」と尋ねたら、98パーセントの人が手を上げましたね。「100マイル遠くから来た人は?」と尋ねると、80パーセントくらいの人が該当したと思います。「500マイル遠くから来た人は?」と尋ねると、3分の1近い人が、500マイルも旅をしてここにやって来ていたのでした。はるばる旅して来た人々のことを考えてみてください。それらの人々は自分を見せるために教会に来たわけではありません。この世が見たがるような綺麗なものはここにはありません。ここの人たちはみな普通の人ですし、貧しいですし、普通の格好をしています。天使を気取るクワイヤーによる素晴らしい賛美歌もありませんし、パイプオルガンも、ステンドグラスもありません。ベンチを見つけて座るのも困難な状況で、壁際に立っていなければなりません。
彼らはそんな理由で来るのではありません。彼らの内側に、肉眼では見えない何か美しいものがあるからここに来るのです。それはキリストの美しさをとらえることのできる霊の目です。だから彼らはここに来るのです。
28
ですから、集会の何日も前から、絶えずわたしは森に行って祈ります。妻には、「今朝はリス狩りに行って来る。」と告げ、紙と鉛筆をポケットに入れて出かけます。辺りが明るくなり始めると同時に、どこかの木に背をもたれかけ、両手を上げて言います、「主よ、今日わたしは何をしたらいいでしょう。あなたの子どもたちのために、わたしに何を与えてくださいますか?」そしてわたしが、焼き払われたように見える何かを打つと・・・・来るのです。こんなふうに。神の訪れが近づいて来ると、遠くから、こんなような調子の何かが聞こえて来るのです。
2・・・・・かける・・・・・2・・・・・は・・・・・・4
(近づいてきます。)
2・・・かける・・・2・・・は・・・・4
2・・かける・・2・・は・・4
2かける2は4
これがずっと続きます。神の御臨在の訪れです。
29
身ををゆだねます。それからしばらくすると自分が離脱していくのです。それからまぼろしが訪れます。「どこどこに行って、何々のことをしなさい。」心を鎮め、思いを神に集中させ、世界から出て、世界から離れ、一人で荒野にいる、そういう状態に自分を置くのです。すると訪れが始まります。「1・・・・1・・・・」数字の時もあるし別のもの時もありますが、ただ、かすかな音から始まって次第に近づいて来るのです。それからだんだん速まってきます。両手を上げて。声を出してはいけません。両手は上げたままです。まずわかるのは、自分がまるのまま連れて行かれることです。それから、神がわたしに知らせようとなさることを、これから起こることをわたしは見ます。
時には、それはある一点にやってきます。その一点の場所が定まると、そこで止まります。そういう時はまぼろしにはならずに、聖句がどっと注がれてきます。わたしは忘れないようにペンを握って必死に書き取ります。それから家に戻って書いたものを見直して調べます。見直した時には意味をなさないように思えることもあります。
でもしばらくして、ピンと来るのです。ピンときたら、また開始です。それでこのような本ができましたし、一生懸命、神に示されたことをスケッチし始めました。「主よ、会堂に行ってみんなに伝えます。『行きなさい。彼らに教えたいことがありますから。』」このようにして、見事に出来上がったのです。まず先に神が教えてくださらなければ、みなさんに教えることはできません。
それで、みなさんが眺めているこのつたない図ですが、・・・・。描き始めたときは、ここの部分がわからなかったのです。でも、数日前に森の中でピンときました。
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さて、これらの人々は、ペトロがここで言っているのは、わたしたちが神の性質を持つようにならなければいけないということです。さて、わたしたちは、神の似姿に成長するよう、それぞれ努力を続けています。七つの封印の教えが終わった後で・・・・。七つの封印が解かれた後で、・・・・。封印とは何かわかりますね。七つの封印を解くとは、神の働きを解禁していくことです。そのことを、ここに貼ってある図を通して理解するでしょう。封じられていたものを解いてメッセージを明らかにするのです。
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先週の日曜の夜、わたしは『鍵』の説教をしました。鍵とは信仰です。信仰が鍵を握っているのです。そして鍵は聖書で、扉はキリストです。信仰が、聖書のとっかかりの要の部分を掴んで、神の栄光と愛を人々に解放するのです。ですから信仰が鍵を握っていて、キリストを人々に解放するのです。解放するというのは、明らかにすることです。ですから今日は、同じ鍵を使って、神の似姿に成長する優れたクリスチャンになることができるよう、生ける神が宿ってくださる生きた幕屋となることができるよう、道を開示していきます。思い出してください、神は三つの方法でご自身を現わされました。初めは火の柱として、父性を現わされました。次に同じ神は、イエス・キリストとして現れました。わたしたちと同じ体を造られたのです。第3に、その体の死を通して、神は教会を聖なるものとされました。その中に神が住まわれるためです。わたしたちの上におられる神、共におられる神、内に住まわれる神、すべて同じ神です。ですから父と子と聖霊と呼ばれているのです。三つの神ではなく、三つの役割を持つひとりの神です。
もしニケア会議の時にこの考えを尊重していたなら、わたしたちは今こんなに混乱してはいかなったでしょう。そうではありませんか? 三つの神ではありません。
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どのようにしてイエスが父と会話をされたのか、イエスと父がひとつであるとはどういうことか、人々は理解できません。ちょっと明らかにすれば、分かることです。三つの神ではなく、三つの役割なのです。神が被創造物の姿に身を落とされたのです。神は賛美礼拝されることを望まれます。『神』という言葉は、『崇拝の対象』という意味です。ご自分の民を調えて、創造された本来の目的を果たすようにされるのは、神の務めなのです。神は人を、神の息子・娘にする以外の目的で造られたことはありません。ですから、もし神の息子・娘になっていないのなら、その人はマトを外していることになります。『罪』というのは、『マトを外す』という意味です。マトから外れている状態です。
もしわたしが、50ヤード先のマトに向かって撃って、(自分の銃を使って撃って、)マトから10~12センチ外れていたとしたら、どうしてしまったのでしょう。わたしの銃は調整が必要になります。何処かがおかしいからです。もしわたしが神への信仰を失っているなら、クリスチャンになっていないなら、・・・・神はクリスチャンにするためにこの世にあなたを送られたのです。もし道から逸れたなら、引き返して道を正しなさい。道を正す唯一の方法は聖書です。聖霊は聖書を通してあなたを軌道修正させ、まっすぐマトに向かうことができるようにしてくれます。そうです。
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33 さて、みことばから学びましょう。ステファンは使徒の働き7章で、こう言いました・・・彼が神の幕屋について言った言葉です。生ける神が住まわれる生きた幕屋について彼が言った言葉を、使徒の働き7章から調べましょう。44節から読みます。
わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型に従って造るようにとモーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。
この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っている通りである。
『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。』
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さて、幕屋というのは、休むところです。休んで寝たりして元気を取り戻すところです。さて、ヘブル10章5節でパウロがこう言っています。それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えてくださった。」
それなら今、幕屋とはなんのことですか? 体です。神は体に宿られます。
神がかつて天の高みから山に降られたとき、牛でさえ、山に触れようものなら殺されました。神は聖なるお方です。昨晩話しましたね。聖なるケルビムでさえ、聖なる顔を羽で隠したのです。罪を知らない存在にも関わらず、神の前では顔を覆い隠し、へりくだって足を覆い隠しました。
聖なる神は、罪を容赦することができません。神がおられる山にはいかなるものも触れることができません。それなのに、神は体を造られ、被造物として御子イエス・キリストの姿をとってわたしたちの間に住まわれました。御子はいのちを捧げられました。神の血球が破壊されました。その血からいのちが現れて、わたしたちに及ぶためでした。
その血によって、わたしたちは清くされました。わたしたちの命は、性欲によってこの世にもたらされましたが、今はイエス・キリストの血によって清くされ、聖霊をいただいたので、性質まで変えられるようになりました。わたしたちは、神の性質に変えられるのです。そしてわたしたちは、神の住まいとなります。
35
イエスは言われました、「その日には、わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられ、わたしがあなたがたのうちにおり、あなたがたがわたしのうちにいることがあなたがたにもわかる。」どのようにして神が教会におられるのか、これでわかります。教会は、今や、キリストの働きを受け継いでキリストの働きをしているはずなのです。「わたしを信じる者は、わたしのしている業をその人もするのである。しばらくすると、この世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが、世の終わりまであなたがたとともに生き、あなたがたのうちに生きるからである。」このとおり、わたしたちはキリストの働きを引き継いているのです。
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聖書で、ステパノはソロモンの建てた神殿に言及し、至高なるお方は人の手で建てた神殿には住まわれないと言っています。「天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。・・・しかしあなたは、わたしのために、体を造ってくださいました。(アーメン!そうです。)あなたは、わたしのために、体を造ってくださいました。」神は人の体の内にお住まいになり、その人の存在を通してご自身を現わされます。これが神の望まれる完全な賛美礼拝です。神がわたしたちのうちに宿られ、神がわたしたちを通して現れる。ああ、どれほどこのことを話し続けたいことでしょう。みんなが暑さで窒息寸前になるまで。
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神は常にご自身を人に投影されることに注目してください。神はモーゼのうちにご自身を反映されました。モーゼを見てみましょう。彼は指導者になるべくして生まれました。キリストもです。モーゼが生まれた頃、彼を見つけ出そうと幼児虐殺が起こりました。キリストの時も同じです。モーゼはその危機から救われました。キリストも同じです。モーゼは律法を与えました。キリストも同じです。モーゼは40日間荒野に入り、神の戒めを授かって戻ってきました。キリストは40日間荒野にこもり、戻ってきてこう言いました、「昔から『姦淫してはならない』と言われているのをあなたがたは聞いています。しかしわたしは言います。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」それから他にもいろいろなことが・・・・神はご自身を、人を通して反映されます。38
ヨセフをご覧下さい。大家族の兄弟たちの中で霊的な子として生まれました。兄弟たちは皆立派な人たちで、族長になりました。でもヨセフは変わっていました。彼はまぼろしを見、夢を解釈することができました。それで兄弟たちから憎まれました。神が彼を地上に送ったのはその業をするためでしたが、そのために彼らから憎まれました。これらすべてが、十字架を指し示しています。それから見て。彼は、兄弟たちから30個近い銀で売り飛ばされ、兄弟たちから穴の中に投げ込まれました。彼は穴の中から引き出され、エジプトに行ってファラオの右腕になりました。世界を支配していたファラオに謁見できる人はいませんでした。ただヨセフを介してしか、誰もファラオの前に出ることはできなかったのです。誰も、キリストを介さないでは神の御前に出ることができません。
ヨセフが宮殿を出るときには、その前にトランペットが鳴らされ、先駆者が叫びました。「ヨセフのお出ましだ。ひざまずけ。」どこにいても何をしていても、どんなに重要な仕事をしていても、ヨセフが通り過ぎるまではひざまずいていなければなりませんでした。
そしていつの日か、トランペットが鳴り響いたなら、すべての者がひざまずき、すべての者が告白することになります!我らがヨセフなる、キリストが栄光の座を立ち、降ってこられるとき、自分の仕事など重要でなくなるのです。すべての者がひざまずき、キリストは神の子であると告白するのです。そのとおり。
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どれ程大きくダビデのうちにキリストが投影されていることでしょう。かなりの上でダビデは、拒絶された王でした。自分の息子から王座を奪われ、オリーブ山に登りながら振り向いてエルサレムを見て泣きました。彼が山を登り始めると、彼が世話をして神を教えた彼の民から、反旗を翻され、物を投げられ、唾を飛ばされ、笑い者にされたのです。彼は拒絶されました。ああ、800年後に現れた神の御子を完全に反映していたではありませんか。ご自分の民から拒絶された王、オリーブ山からエルサレムを眺めて泣きました。拒絶された王です。神はキリストの姿を預言者たちに投影されたのです。
それから神を完全に現されたお方が登場しました。わたしたちの間におられる神です。それ以来、神はご自分を、こちら側のカルヴァリである教会のうちに反映しておられます。それでわたしたちは皆、生ける神がお住まいになる場所、生ける神の幕屋になろうと努力しています。
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さて、彼はこう言いましたね、「まず信仰を持ち、それから徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛を持ちなさい。」そうです兄弟愛、それから愛を加えなさいとありました。もう一度その箇所を読みましょう。5節からです。それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、
知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、
信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。
ペトロはここで、そういう人物に到達するための概要を教えてくれています。
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ここで言っておきたいことがあります。自分がクリスチャンだと告白しなくても、信仰、徳、知識、節制、などを部分的に持ち合わせている人はいます。今日は日曜学校です。それは事実です。クリスチャンのふりをしなくても、それらを部分的に持っている人はいるのです。でもそれでは役に立ちません。カラスが孔雀の羽をつけて孔雀になったつもりでいるようなものです。自分で自分を侮辱する行為です。カラスのままでいる方がずっといいです。クリスチャンにならずにこれらのことを身につけようとしても、場違いに終わるだけです。イチジクの木がリンゴを実らせようとするようなものです。同じ木ではありますが、できるはずがありません。イチジクの木はリンゴの実を作ることはできません。
あるいは騾馬が、羊毛を作り出そうとするようなものです。羊になろうとしても、騾馬は騾馬です。羊毛を作り出すことはできません。羊毛は羊に与えられたもので、騾馬のものではありません。いくら羊のように振舞っても、騾馬は騾馬です。「羊のように食べることができるし、羊のようにこれをすることができる。」と言って、いろいろとできることを試みても、羊毛を得るためには羊でなければならないのです。
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ここでちょっと立ち止まらせてください。ところで羊は羊毛を作り出すわけではないのです。羊は羊なので羊毛があるのです。多くの人が努力してこう言います、「私は努力して上手にします。努力してこれをするようにします。」何かを作り出そうとしてはいけません。できっこないですから。羊は羊毛を作り出すことを頼まれたわけではないですが、羊毛が生えるのです。なぜなら羊だからです。クリスチャンであれば、霊の賜物を実らせるのです。霊の賜物は作り出すものではありません。作り事はいけません。自分でないものになろうとしないでください。あなたはあるべきあなたであればいいのです。そうすれば自然に実を実らせます。
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人がこのように言うのを聞いたことがありますか?「わたしは教会員になったのだから、もう嘘をつくのはやめるべきだと思う。」またしても、作り事です。できるはずありません。とりつくろってみても、騾馬が羊毛を作り出すことができないのと同じで無理なのです。カラスが鳩になろうとするようなものです。カラスが鳩の羽をつけて、「見て、わたしは鳩なんだよ。」と言うのが想像できますか? ヘンテコな姿をしていることでしょう。それが、たいそうな人物であるようなふりをする人の姿です。うまくいくわけありません。「わたしは徳の高い人になるべきだから、人徳者になろう。だから、これから信心深い生活を送ろう。」それは、ただ他人の羽で偽装しようとしているだけです。羽を手に入れることはできるでしょうが、それをつけても自分の羽にはなりません。そんなことをしても、化けの皮だと見破られます。
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老いたカラスが鳩の羽をつけて、「見て、わたしは鳩だよ。」と言うのが想像できますか? 誰が見てもカラスにしか見えません。すぐにカラスだと見破ることができます。キリスト者を装うというのはこういうことです。なれるはずがありません。まず、生まれ変わらなければいけないのです。生まれ変わったなら、あなたは新しい人になります。これが正しいスタートです。そうしたら、羽の装いを気にする必要はありません。生まれ変わったなら、正しい羽が自然に生えてくるのです。
よくわたしが言うように、豚に磨きをかけてタキシードを着せて外に出して見なさい。彼は泥の中に飛び込んで転げ回ることでしょう。仕方のないことです。豚は豚なのですから。豚は泥まみれになるのが本性なのです。本性が変われば、自然と改まっていくものなのです。
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さて、ここが重要です。新たに生まれ変わらなければなりません。変貌しなければならないのです。「でも、ブラナム兄弟、ここにいる女性は、今まで一度も悪いことをしたことがないんですよ。善良な女性です。」「この〇〇氏は、とても良い人で、悪いことなど何一つしたことがありません。誰をも傷つたりしません。」そんなこととは違うのです。確かにそういう人たちは良いお隣さんになることでしょう。でも生まれ変わらない限り、クリスチャンにはなれません。イエスは、人は生まれ変わらなければ(ヨハネ3章)、天の国をさえ、見ることができないと言われました。『見る』とは、『理解する』ことです。あるものを見ようとして、「見えないよ」というなら、それはわからないということです。。
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なぜ大声をあげるのか、人には理解できません。なぜ言語が変わって異言で話し始めるのか、人には理解できません。神の栄光が人の目前に降りてきて、まぼろしによってある事柄をその人に見せ、どうすればいいかを教えるということが、普通の人には理解できません。主が昨晩もしてくださったように、何が起ころうとしているか、何がこれから必ず実現するかを教えてくださるなどということは。普通の人は知性で理解しようとします。「彼は何をしたのか? どんな手口を使って騙そうとしているのか? どういう仕掛けがあるのか?」一人が異言を語り、別の誰かが解釈して、共同体の誰かが何をしたかとか、何をすべきでないか、はっきり言い当てたところに、普通の人が居合わせたならこう思うでしょう。
普通の人だったら、これは何かいっぱい食わそうとしているのだと思うのです。二人の間に事前に何か取り決めがされていたに違いないと。新たに生まれ変わらない限り、人には理解できないのです。でも生まれ変わったなら、同類になるのです。新しい人に生まれ変わったのですから、もう以前の疑い深い性質は消えてなくなります。もはや新しい人になったので、何かを付け足そうとしなくても、自然と増し加えられていくのです
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さて、これは大事なことです。人は新しく生まれ変わらなければなりません。生まれ変わったのに信仰がないということはあり得ません。そうです。わたしが描いた図では、基礎の部分を・・・信仰はすべての基礎です。「信仰がなければ神に喜ばれることはありません。・・・神のもとに来る者は、神を信じ、神を真摯に求める者に対して報酬を与えてくださるお方を信じなければなりません。」信じなければならないのです。もし、聖書に疑いをかけたり、みことばが正しいか疑問に思ったりしたら、最初に信じたところまで引き返した方がいいでしょう。罪とは何ですか? 不信仰です。人間を支配する要素は二つしかありません。疑うか信じるかです。そのどちらかしかありません。どちらを選ぶかによって生き方が変わります。また、どれだけ信じるかによって、どれだけ高くまで登れるか違ってきます。でもまず、信仰を持たなければなりません。この基礎についてしばらく話させてください。
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さて信仰とは信じなければなりません。信仰は・・・「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、・・・」信仰があるなら、望んでいる事がらはすでにあなたのものなのです。なぜなら、信仰によって明らかにされるからです。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、(ヘブル書11)まだ見ていない事実を確認することである。」どんな事実ですか? 神の事実です。そういうわけですから、もしあなたが、「ブラナム兄弟、神が癒し主であることを信じます。」と言うなら、嘘でなく本当に信じているなら、そして神があなたの癒し主であると信じ、主が受けた傷によってあなたが癒されたことを事実と信じるなら、あなたが癒されるのに何も妨げになるものはありません。癒されることは決定です。希望を持っているだけとしたら、こっちで逃れ、あっちで逃れしているだけですが、信仰を持ったなら、あなたは癒されることをすでに知っているのです。なぜならその証拠をすでにつかんでいるのですから。
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誰か、今朝のオーラル・ロバートの説教を聞きましたか? わたしは、彼が救いの信仰があると語って、救いの信仰を求める祈りをしているのを聞きました。「ラジオに触ることで接点をつかみなさい。何かに触って接点をつかみなさい・・・するために・・」そう言っていました。人々が何かに手を置くことで、「つかまえた。彼がラジオに触るようにと教えてくれたのでつかまえることができた。」とか何か言うことができるためです。それでもいいでしょう。しかし本物の信仰は何にも触る必要はありません。わたしはオーラル兄弟を批判しているわけではありません。とんでもない。彼は神に仕え、素晴らしい働きをしています。わたしはオーラル・ロバーツのことを尊敬しています。彼のような人がもっと大勢いればいいのにと思います。
しかし、わたしが言おうとしているのは、信仰には何も補助が必要ないということです。信仰は神のことばを信じることです。信仰は何かに触ることで来るのですか?いいえ、「信仰は聞くことによって、神のことばを聞くことによって来ます。」これがよりどころとなります。前にも言いましたように、信仰(私が言ったように)は遠いところにあるのではありません。信仰は今ここにあるのです。
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さて、キッド姉妹が話してくれた、腸が外に飛び出して、直腸が詰まって食べ物を通すことができない赤ちゃんの母親がいましたね。その母親は、キッド姉妹から証しを聞いて、もしわたしと連絡が通じて、わたしがその赤ちゃんのために祈ったら癒されると信じたのです。さて、神はわたしたちに人々を与えてくださいました。なかには、まるでここにいるネヴィル兄弟と話すように、神と本当に親しく交わる経験を持つ人もいます。そういう人に祈りをお願いすることがあります。それは正しいことです。それで、もし祈ってくれている誰かが、神と話をしていると信じるならば、それは信仰が定着したことになるのです。信仰が固定しました。これで決着です。
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さて、ローマ人がイエスに会いに来て言いました、「わたしはあなたを屋根の下にお迎えする価値のない者です。わたしにはその資格がありません。でも、わたしの息子が重病なのです。ただひと言おっしゃってください。そうすれば息子は助かるでしょう。」どういうことでしょう? 距離など関係ないのです。神はどこにでもおられるお方ですから。神は全能の神です。どこにでもおられて、なんでもおできになるお方です。神が偏在されているのなら、神はあらゆる場所におられるのです。神はドイツでも偉大なことをされ、スイスでも、アフリカでも、たった今偉大なことされています。そして神はここにもおられるのです。まさに今!
だから彼は言いました、「わたしはあなたを屋根の下にお迎えする価値のない者です。ただひと言おっしゃってください。」これがローマ人の信仰でした。彼は信じたのです。
イエスは言われました、「行きなさい。あなたの息子は助かる。」
彼は二日かけて家に戻る途中、彼の部下がやって来て報告しました、「あなたの息子は助かりました。」
彼はとても興奮して尋ねました、「昨日の何時に回復し始めたのか?」
「11時頃から良くなり始めました。」それでローマ人は、ちょうどイエスが「あなたの息子は助かる。」と言った時刻がそれであることを知り、信じました。アーメン。
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全能であられ、偏在しておられ、全知で、無限。これが神です。ですから電話をかけて「祈って!」と言うなら、それでつなぎ合わさり、あなたの信仰が神を呼び出すのです。祈りと神が同時に結びつきます。祈り、信仰、ここからここへと変化し、一つになります。「ひと言おっしゃってください。ただひと言おっしゃっていただきたいのです。そうすれば万事良くなります。」イエスはその場所に行く必要がありませんでした。ただひと言かけるだけでよいのです。神は偏在されていますから。神は万能です。神はこの世の底ででも、この世の頂点ででも、どこにおいても万能です。神であられますから。「ただひと言おっしゃってください。」彼はそう言いました。
あとは信仰にお任せすればいいのです。信仰がすべて成し遂げてくれます。ですから基礎として信仰を持たなければなりません。キリスト者として、現在のあなたも未来のあなたも、全存在にかけて、みことばの信仰が基礎です。
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わたしがみことばを信じる理由がそれです。みことば以外のものに信仰を持つことができません。もし教会を信仰の対象とするなら、どこの教会にしたらいいのでしょう? カトリック、ルーテル、メソジスト、バプテスト、ペンテコステ? どこにしたらよいのかわかりません。それらの教会には皆、ためらいがあったり、ねじれたところがあります。しかし神のことばに信仰を置くなら、それは固定します。誰も意味を解釈する必要がありません。「主がこう言われる。」こう言われたなら、わたしは信じます。これが基礎です。54
わたしの親友の町医者の良き医師ドクター・サム・アダールは、みなさんも知っているでしょう。わたしの幼なじみです。彼が言いました、「ビル・・・・」あのまぼろしがおとずれたあとで、彼に、どのような場所にどのような病院を建てるかを教えました。それが事実かどうか、彼のところに行って尋ねてみなさい。実際に起こる2~3年前にその場所を教えたのです。わたしは言いました、「あなたは町のほとんど一区画を手に入れますよ。」他にはリハビリテーションの場所と薬局があって、それ以外の場所は全部ドクター・アダールのものになると、それだけ教えました。
結果として、ドクター・アダールは、そのまぼろしを成就させました。しかしその場所について彼は、「そこは25年間も裁判沙汰になっていて誰も手がつけられないんだよ。」と言っていました。
「ドクター、あなたが謙遜だから、主があなたにその場所を与えられるのですよ。」と、わたしは言いました。
「わたしはそんなにいい人ではない。」
「あなたは亀ですよ。甲羅に閉じこもって、友人たちにはその甲羅しか見えないんです。でも内側はとてもいい人なんです。甲羅からでてらっしゃい。神はその土地をあなたに与えてくださったのです。」
「ビリー、今まで君を疑ったことはないが、今度ばかりは疑わざるを得ないよ。」
わたしが、「事務所に行ってみなさい。」と言ったので、彼は出て行きました。
次の朝、彼は電話をかけてきて言いました、「わたしは凍えて死にそうだよ。」
それは7月くらいでした。「どうしたのです? なにがあったのですか、ドクター?」
「わたしはあの場所を購入しましたよ、ビリー。昨夜ボストンで会議があって、今朝にはわたしのものになっていました。」
「言ったとおりでしょう。」
先日、銃の暴発で顔の治療を受けに彼のところに行った時、彼がこんなようなことを言いました、「ここに来た千人くらいの人にこの話をしてきたと思うんだ。」これはどういうことでしょう? 神が語られたのなら、そのとおりのことが起こるのです。
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昨夜数人の友人たちが訪ねてきました。彼らは、42インチ(約106cm)の長さの角を持つトナカイとシルバーチップのグリズリーベアを狩りで仕留めるとまぼろしで教えられたという話を聞いてやって来たのでした。その実物を見たくて、どれだけ多くの人が訪ねて来たかわかりません。わたしは言いました。「メジャーがあるから、これで角を測ってごらん。」みなさんは、実際に獲物を仕留める前にこのことを聞いていましたね。なぜでしょう。神が語られたなら、そのとおりになるのです。それが理由です。これが基本です。救いの計画があります。もし幻で見せられたとおりのことが実現して、この教会がそれが正しいことを知っているとしたら、みことばはどうでしょう。みことばは幻よりも正確です。もし見せられた幻がみことばを語っていないのなら、その幻は間違いです。まずみことばを第一にするべきです。みことばは神ですから。神はどこにでもおられますから、神がここで語られたことがカナダで実現することがあり得るのです。神は遍在でおられるのです。
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そうです。まずは新たに生まれ変わらなければなりません。新たに生まれ変わったなら、信仰を持つようになります。みことばを信じることができるようになるのです。生まれ変わるまでは、みことばを心から信じることができません。宗教的な人なら、正しいことをしなければならないという知識は持っているでしょうが、決して神のことばを心から信じることはできません。できっこないのです。生まれ変わらなければ無理です。生まれ変わったなら、必然的に信仰が生まれます。信仰を持ったなら、この図の基礎の部分に書いてある『し・ん・こ・う』を持ったなら、成長する基盤が出来上がりました。57
さて、多くの人が祭壇前で、「主よ、赦してください。」と祈りを捧げ、神によって清くされる経験をします。そして祭壇の前で叫び、喜びのひとときを味わいます。それから戻ってこう言います、「神を祝福します。とうとうやり遂げました。」しかし、それは完成ではなく、成長するスタート地点に立ったのです。まだ何もやり遂げていません。これからです。ただ基盤を固めただけです。家を建てようとして、基礎にコンクリートを流し込み、「やったあ、仕上がった。」と言うようなものです。家を建てるための基礎が出来上がっただけです。その上に家を建てなければなりません。さて、やっと今日話そうとしていることにたどり着きました。
家を建てるには、この基礎を築くのがまず第一です。キリスト者の基礎は何ですか? 神のことばを信じることです。それが基礎です。それから成長が始まります。この基礎をスタート地点として成長します。
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さて、家を建てるには、支柱を立てたりいろいろします。ウッド兄弟や大工さんや工務店の人なら、どのようにして家を建てるか教えてくれます。でもわたしは、どのようにして神が住まわれる霊の家を建てるかをお話しします。神はあなたを住処にしたいと望んでおられます。神はあなたを神に似たものにしたいのです。あなたが、神を映しだすようになってほしいと望んでおられるのです。59
昔、まだ溶鉱炉で溶かすようになる前は、ゴールドを作るのに、金の塊を叩いたものです。叩いて鉄や銅や不純物を取り除くのです。叩いて叩いて、ひっくり返してまた叩いて。インディアンは今でも金を叩いています。鉄や泥や不純物がきれいに取り除かれたか、どうやって知ったと思います? 叩いているうちに金が鏡のように、叩いている人を映しだすようになるのです。叩いている人がはっきりと映しだされたなら、じゅうぶんきれいに不純物が取り除かれたことがわかります。
神もそのようにされます。神は、地上で見出した金の塊を、聖霊によって叩きます。ひっくり返して、またひっくり返して、もう一度ひっくり返して、叩きます。神のお姿が映しだされるまで叩きます。それが、わたしたちがなるべき姿です。神の子を映しだすものです。
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そして、今、わたしたちは神の業をするはずです。キリストがそう言われましたから。「わたしを信じる者は、(ヨハネ14:7(12))・・・わたしを信じる者は、わたしがしているわざをするであろう・・・」あなたはキリストの業に感化され始めました。でも多くの人たちが、キリストを宿してキリストを反映するようになる前に、キリストの業をしようとしています。そこで問題がおこっています。あなたもそういうことが起こっているのを知っています。わたしも知っています。神の道につまずき倒れた人を見かけます。道端に廃棄された聖職者やクリスチャンが積み重なって山になっているのを見ます。正しい方法で歩み始めなかったからです。
ですから、今朝はこの小さな群れとわたし自身のために、どのようにして生ける神の住まいとなることができるかをお話ししようと思います。どれだけの人が、生ける神の住まいになりたいと望んでいますか?
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さて、こうするのです。はじめに必要なものは何ですか? 信仰を持つことと、生まれ変わることです。それで基礎が固まります。基礎ができたら、次に、基礎の上に来るのが、ペトロが言ったように、「信仰には・・・」まず信仰があって、信仰に徳を加えるのです。これが次の層です。まず信仰という基礎を築いて、信仰に徳を加えるのです。これを聞いて、多くの人がパンチを食らったのではないでしょうか。そうです。信仰には徳を加えるのです。でも、男も女も童貞の生活をしなさいと言っているのではありません。そんなことは徳とは関係ないことです。聖書が言っている徳とは、・・・。ルカ書で、「わたしから力が出て行ったのを感じた。」とイエスが言われたとあります。(訳注:ここでいう力と徳は同じ言葉が使われています。)そうですね? キリストのようになりたいのなら徳を持たなければなりません。キリストのようになるためには徳が必要なのです。
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もし、わたしがはじめに好きになった賛美歌であれば、『イエスのように』です。わたしがイエスのようになるためには、人に与えることができる徳が、わたしから出る必要があるのです。イエスから出た徳が、人に与えられたからです。徳が出て行くためには、まずその徳を持っていなければなりません。持っていなければ、与えようがないのです。空財布を振るようなものです。もし誰かが、わたしたちから徳を引き出そうとしたらどうなりますか? 『元手金不足』で小切手が却下されるなんてことになるかもしれません。引き出すものがなかったら、小切手は却下されます。誰かがあなたをクリスチャンとして見ているとします。もしあなたが明日、罪人のように羽目を外したとしたら、あなたから徳を引き出すことは望めません。そうです。徳はわたしたちのうちにあるべきなのです。徳を持つまでは・・・・。本物の徳を持ったなら、それを信仰に加えることができます。それが基礎の次に建てられる壁です。
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さて、まず第一に信仰を持たなければいけないのですが、信仰だけでは役に立ちません。ペトロは、「信仰に徳を加えなさい」と言いました。信仰に加えて徳を持たなければならないのです。徳がないのは、現代の教会の多くが、その必要性を説かないからかもしれません。「そういう時代は過ぎたから、今は必要がない。今は教会に所属すればそれでいいのだ。そういうことが必要だったのは昔の話である。」『徳』とは何のことか知っていますよね。わたしたちは徳を持たなければなりません。
イエスから徳が出ていって、婦人の病を癒したのですから、イエスは教会にも同じ徳を持つことを要求されます。イエスはわたしたちの模範ですから。イエスに、人々に与える徳があったのですから、私たちも人々に与える徳を持つよう、要求されています。
それでは徳とは何ですか? 徳とは力のことです。神の力を信じない人もいます。「そういうものがあったのは昔の話です。今は名前を記帳するだけでいいのです。そして水を振りかけるか注ぐかして洗礼か何かを受ければそれでいいのです。」
でもペトロはこう言いました、「徳を加えなさい。」
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ペテロが言っているのは神の住まい、神の神殿を建てることです。信仰を持ったなら、それに徳を加えなければなりません。そうです全世界のために徳を持つのです。もう20年も前でしょうか、野のゆり牧師の説教をしたことがあります。「野のゆりのことを考えなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」というイエスのことばから、引き出した説教でした。
野のゆりを見なさい。深い泥の中から顔を出しています。一日中ずっと底から首を出していなければなりません。こうして引き出した徳をどうするのでしょうか。放出するのです。賞でる人にとっては美しい景色となり、ミツバチにとっては蜜の供給源となります。文句を言わずに、蜜を作り供給します。もしミツバチがやって来たときに『元手金不足、蜜なし』なんて掲げられていたらどうでしょう。ミツバチは頭をかいて、「こりゃ、とんでもないゆりだ。」と困惑することでしょう。
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救いを求めている人が、教会に行ったとします。ところがその教会では、奇跡の時代は過ぎ去ったと信じていたとします・・・。ジャック・コーが言っていたように、豪華なメニューのレストランに入って、メニューを見ると「Tボーンステーキ」などがあって、「Tボーンステーキ」を注文したところ、返事は、「でも、それは昔のことであって、今はありませんよ。」そうしたら、メニューを置いてレストランを出ますよね。そこには食べるものがないのですから。そして何か食べるものを出してくれるレストランに行きますよね。
霊の人も成長するために食べ物を必要とします。食べ物とは神のことばです。わたしは、ひと言ひと言、みことばをみな信じます。
神は、神の人たちの食卓を用意してくださる
「来て食べなさい。」選ばれた人たちを、神は招待される
マナを食べさせてくださる
神はすべての必要を満たしてくださる
常にイエスと食事をするのはなんと嬉しいことか
そうです。そこには食べ物があるのです。教会にはそれがあります。キリストを知る知識によって完全な身丈まで成長する人たちのための生ける神の教会のことです。
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さて、徳を持たなければなりません。それから、まず知っておかなければならないのは、匂いをかぐのが好きな人がいることです。彼は自己中心的ではありません。よい匂いを持っているのです。匂いを漂わせるためには、まず匂いを持っていなければなりません。蜜を提供するためには、まず蜜を持っていなければなりません。美しさを表すためには、まず美しさを持っていなければなりません。わかりますか? このことについてずっと話をすることもできますが、時間が過ぎて行ってしまいます・・・・あなたの信仰に徳を加えなさい。
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さて、はじめは信仰、次に徳、そして3番目には、知識を加えなさい。知識です。この世の知識ではありません。それは神にとっては愚かなものです。判別するための知識のことです。何を判別するのですか? 善と悪です。どのようにして判別するのですか? もしあなたにクリスチャンとしての知識があるなら、それに徳と信仰を加えて、みことばが正しいかどうか判断します。信条やら不信仰やら、これまでしてしまったことをすべて取り除くなら、神は嘘をつくことができないということを信じることができるようになります。それが知識です。「すべての人の言葉が嘘でも、神のことばは真理であるとすべきである。」こうして知識を持つようになります。これは最高の知識です。
この知識を得るために、大学か何処かに行って4つの学位を取得しなくてもいいのです。これらすべての徳を神は、あなたの信仰の基礎の上に立ててくださるからです。それは真に生きる神の人として、完全な身丈に成長するためです。そうです。
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知識を加えなさいなぜならば・・・神のことばを知ることです。奇跡の時代は終わっていないと、今、信じて受けとめるのです。神のことばは、このように信じなければなりません。知識とは、神は言われたことを実行されるということです。アブラハムは神のことばを信じました。彼は100歳になっていましたが、神の約束を疑いませんでした。どう見てもおかしいですよね。100歳の男が、90歳の妻から赤ちゃんが生まれるのを期待しているなんて。ほとんど50年前に出産適齢期は過ぎています。彼女がティーンエイジの頃から一緒になって、暮らしてきたのです。
アブラハムの生殖機能も、サラの子宮も衰え果てました。希望といえるものはすべて消え去りました。それでも彼は信じて希望を持ちつづけたのです。神は約束されたことをすべて守られるお方だという知識を、彼が持っていたからです。
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さて、そのようにして得た時には、信仰に加えなさい。まことの徳を得たなら、信仰に加えなさい。キリスト者として生活し、キリスト者として振る舞い、キリスト者になるなら、それを信仰に加えなさい。知識を持ったなら・・・・。「でも、まだ聖書がすべて正確なのかよくわからない。使徒行伝2:38が、どう使徒行伝(マタイ)28:19と結びつくのかよくわからない。」
分りました。あなたはまだ知識を得ていないのですから、何も加えてはいけません。ではどうすればいいのでしょう。あなたは、聖書は矛盾しないという、神を知る知識をじゅうぶん得ていないのですから、そのままにしておきなさい。そのまま放っておきなさい。
聖書は矛盾しないということがわかったなら、こう言うことができます・・・・。神から啓示を受けて、聖書のすべての言葉は、神秘によって書かれ、神の知識によらなければ理解することができないことがわかったなら、神のことばに「アーメン」と相槌を打つことができるようになります。そうなったら、信仰に加えなさい。
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オー、そうなったら、あなたはいい線をたどっています。成長していますよ。何が成長していますか? 信仰です。そして徳、そして知識が成長しています。どのようにして人が作り上げられるのですか? 逃れようがないのです。これこそキリストの身丈にまで成長するための正しい道です。何が正しいか判断するのです。神のことばを信じるために、正しいか正しくないかを判断するのです。信条に仕えるのと神に仕えるのとどちらが正しいか。新たに生まれ変わるのと教会に所属するのとどちらが正しいか、あなたは判断をし始めます。正しい判断を。
説教者が、「奇跡の時代は終わった。」と言えば、聖書は、「イエス・キリストは過去も現在も未来も変わらないお方です。」と言います。あなたはどちらを信じますか? 「私は神の方を選ぶ。」と言うなら・・・
心から「私は神の方を選ぶ。」と言うのでなければ、言わないでいなさい。でも心のうちで何かが、あなたの信仰が湧き上がってそれを言わせるなら、それは本物です。「神は変わらないお方だとわかります。変わらないお方であることを目撃したからです。何もわたしからこの事実を奪うことができません。神は本当におられるのですから。」これは信仰に加えなさい。基礎に据えるのです。
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今やあなたは成長していますよ。神の国に向かって成長しています。マトを得ています。そうです。さて次に、説教師や多くの人はこう言います、「これら聖書に書いてあることは、今の時代には当てはまりません。なぜなら、現代はこういうことは必要ないからです。神による癒しとかは、今はする必要ないのです。教会を厳正な場所に保つためには、異言を語る必要はないのです。わたしたちのところではそんなことはしません。」(これについては、このことに言及した聖句をここに書き留めてあります。本当に必要ないかどうか知るために。)
でも、こう言う人もいます、「そういうことをする必要がないかどうか知りませんが、ひとつだけ確かなことがあります。人前で正しく語るためには訓練が必要です。精神科医のところに行って、精神状態を診断してもらい、人前で発表する能力があるかIQも診断してもらうべきです。そうすればたくさんの会衆を集めることができると思います。組織を立ち上げることができます。」
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組織を立ち上げることがわたしたちの使命ではありません。わたしは、組織を立ち上げるために今日ここにいるのではありません。組織を立ち上げるためにキリストがわたしを遣わされたことなど決してありません!キリストは、個々の人をイエス・キリストの身丈まで成長させて、活力の源とするため、そしてみことばによって霊の住まいとするために、わたしを遣わされたのです。みことばによって、個々の人をそのような住まいに仕立て上げるのです。さらに大きな教団を作るため、組織を立て上げるためではありません。そうではなく、神の息子や娘にするために立て上げるのです。そういう考えです。信仰には徳を、徳には知識を加えなさい。それでうまい具合に成長していきます。
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さて彼らが次なようなこと、「そのようなことは現代では受け入れなくていいのです。」と言い出したら、いいえ、受け入れなくてはいけませんと答えます。必須です。聖書は嘘をつくことができません。聖書が語ることを勝手に解釈してはいけません。書いてあるとおりに受け取るのです。それらのことは必要です。それらを得るためには、天から得た知識を持たなければなりません。天から得た知識は、みことばを証明します。信じなければならないのです。信じたつもりになっているだけでは駄目です。これらには見せかけのものは一つもありません。あなたが、「わかった。」と言う時には、カラスが孔雀の羽をつけたようにならないでください。すぐに剥がれ落ちます。それは自生したものではなく、付け焼き刃ですから。
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ダビデが詩篇1で語った言葉を思い出します。「このような人は流れのほとりに植えられた木のようになる。」植えられた木と、ぽんと突きささっただけの木の違いがわかりますね。植えられた木というのは、大地に深く根付いている樫の老木のようなものです。突きささっただけの棒なら、どうなるか知れたものではありません。根がなくて、基盤がないのですから。神学校か何かを出た人たちも同じです。「〇〇博士が私をこの聖職に任命してくれたのです。」そんなのはたいした意味もありません。信仰によって、キリストがあなたを生んでくださった。これです。あなたは再生されて、その基盤に生まれついたのです。あなたがその基盤に生まれついたのなら、それからあとは、神があなたに増し加えたいと望まれるものをいただいていくだけです。どんどん増し加わっていくのです。これが正しい道です。
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さて、この知識に関して、もう一つ話すことが出来ればと思います。それは、神の知識です。こんにちでは、聖書は意味をなさなくなったのでしょうか? 多くの人が、聖書に書いてあることは、そのままのことを意味しているのではないと言います。もし神がわたしを観察しておられるなら、わたしが罪を犯したなら、間違いを正してくださいます。もしわたしが神の子なら、神はそうされます。あなたにも同じことです。神の息子・娘なら、間違いを犯した時に、神が正してくださいます。神があなたに特別目をかけて観察し、間違いを正してくださるのなら、ましてや、神のことばに対してはどれほどでしょう。みことばは模範であり、神そのものなのですから。「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。・・・そして人となってわたしたちの間に住まわれた。」
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みことばはイエス・キリストの啓示なのです。聖書がそう言っています。キリストはみことばの中に啓示されています。もし神があなたを観察して、あなたが法を犯した時にあなたを叱責されるのなら、ましてや、あなたを叱責する法を、神が注視しないことがあり得るでしょうか。アーメン!だから、そんなたわごとは聞かせないでください。わたしが信じるのは、聖霊からの生粋の知識です。聖霊が教えてくれる知識は、みことばに対して「アーメン」と、常に相槌を打つのです。聖書の中で、矛盾しているように思える箇所を見つけたなら、座って祈りながら調べるのです。すると聖霊が忍び寄ってくるのを感じます。しばらくすると、矛盾していたと思えた箇所がうまく結びつくことを発見します。そして理解できるようになります。これが知識です。
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ある人が、「さてまあ、聖書ではキリストは過去も現在も未来も変わらないと言っています。」と言えば、教会は、「ある意味ではキリストは変わりません。」と言います。ふむふむ、さあギャップが生じました。でも違うのです。キリストは変わりません。そうです。イエス・キリストは過去も現在も未来も変わらないお方です。キリストは、一点の変化もなく、教会において同じことをしておられます。
「しばらくすると、(先ほど引用した箇所です。)・・・しばらくすると、この世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」「この世の終わりまで、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたの内にいる。」「わたしがする業を、あなたがたもするようになる。」「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である。」枝は、ぶどうの木につながっていることによってのみ、いのちをつなぐことができます。ぶどうの木が持っているものは、枝をとおして現れ出ます。素晴らしい!それで、キリストは過去も現在も未来も変わらないお方です。ですから主イエス・キリストのいのちは今でも受け継がれているのです。
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知識です。この世の知識ではありません。それは推論です。この世的な知識は推論に基づいています。でも信仰には推論は通用しません。神は、これから起こることを明らかにされます。世界中の科学者が、そんなことはあり得ないと異を唱えても、神が示されたことを信じるのです。そうです。推論はいりません。聖書は、あらゆる思惑を捨て去りなさいと教えています。信仰のために推論はいりません。信仰は推論を必要としません。信仰は何をすべきか知っています。信仰は行動です、信仰は踏みとどまることです。ぐらつきません。何ものも信仰を揺さぶることはできません。誰がああだこうだ言っても、動揺せず、踏みとどまります。待っても待っても、何も変わらなくても、それでも踏みとどまります。
神はノアに、これから起こることを教えました。ノアはそれを信じました。神はモーゼに、これから起こることを知らせました。モーゼは信じました。神は弟子たちに、これから起こることを教えました。彼らは上階の部屋にとどまり、聖霊が降りるまでそこで待ちました。そうです。
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さて、この世の知識ではなく、天からの知識を持つことです。天からの知識を得たなら、神はあらゆる知識の源であり、神はみことばですから、あなたは天からの知識を用いてみことばを信じ、すべてのことをみことばに基づいて推測するようになります。この教会が、というか、わたしが被った税金の事件ですが・・・ある時、係の一人がわたしに聞き取り調査をしました。彼はわたしに何の問題も見出せないと言いました。それで彼らは・・・。それでわたしは言いました、「では、問題がないのなら、なぜわたしを放免しないのですか?」
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彼は前もってわたしに聖句を読んでくれ、言いました、(彼はタバコを手にした体格のいい人でした)「ブラナムさん、わたしは聖書を学んでいます。」わたしは言いました、「それを聞いて嬉しいです。」
彼は言いました、「さて、この迷信はいったい何か知りたいのです。あなたはこれらの布切れを送ってお金を取っていますね。油注がれた布とか言って、布切れに、ちょっとした迷信の祈りを注いであちこちに送っていますね。」「そしてそれでお金を取っているのです。」
わたし、「いいえ、お金はとっていません。」
彼、「でも、迷信的行為の方は・・・」
わたし、「あなたは迷信と呼びますが、失礼ですが、先ほどあなたは聖書を学んでいると言いましたね。」
彼、「そうですよ。」
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「それなら、使徒19:11を言ってみてください。」知識です。彼は自分の仕掛けたわなに陥ってしまいました。それで話題を変えようとしましたが、わたしは言いました、「それではヨハネ5:14を言ってみてください。」彼にはできませんでした。「それならヤコブ5:14は?」彼にはできませんでした。「ヨハネ3:16を知っていますか?」知識があって賢くても、この世的なものです。でも・・・彼は言いました、「ブラナムさん、あなたは聖書によってこの件を済ませようとしますが、我々はこの国の法律によって決着をつけようとしているのです。」
「失礼ですが、この国の法律は聖書を基に制定されたのではなかったのですか? それなら聖書が正しいのです。」アーメン!
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そうです、知識です。この世の知識ではなく、みことばの霊的知識です。神が言われたことを知ることです。神が言われたとおりにすることです。そうです。そのような知識を持ち、それが真実であると信じ、神は変わらずにそれを成し遂げられると信じるならば、そして、神が語られたことは真理であることがわかって、その一言ひと言に『アーメン」と相槌を打つなら、それは正しいことなので、あなたの信仰に加えなさい。そうです。もし誰かが、聖書は力を失ったと言うなら、聖霊のバプテスマなどありえないと言うなら、それは加えてはいけません。そんなことをしても無駄です。岩に粘土をこすりつけるようなもので、すぐに剥がれ落ちます。そんなものは役立ちはしません。崩れるだけです。
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「現代では聖書は信頼できません。気をつけなさい。そのようなことを信じても・・・」このようなことを常に聞かされていますよね。「聖書は信頼できない」など、くだらない言い分です。もしそんな考えを持ったのなら、それは信仰に付け加えてはいけません。そんなことは役立ちません。そんなことをしたら、建物全体が崩れてしまいます。建物は聖霊によって接着されて、モルタル固めをされるのです。
加硫されたゴムチューブは、ただパッチをくっつけたものより長持ちするのを知っていますか? ちょっと熱を加えてタイヤにつぎ当てするのです。するとタイヤが少し熱くなってちょっと早く走ります。そして溶解するのです。そうです。それが現代人の多くに当てはまる問題なのです。彼らは知識をこの世的知識に、古びた世俗接着剤で貼り付けようとします。だから試練にあうと、「まあ、わたしが間違っていたのかもしれない。」なんて言って、空気抜けしてしまうのです。すぐにしょげかえってしまいます。今まで叫んだり飛んだり跳ねたりしてきたことがなんの役にも立たないのです。元の木阿弥です。
でも、もしあなたがチューブに溶解するほど、聖霊の熱のうちにとどまるなら・・・それで決まりです。あなたとチュープはひとつになるのです。あなたと神の約束がひとつになるほど、聖霊の熱のうちにとどまるなら、それをあなたの信仰に加えなさい。そうでないなら、加えてはいけません。
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「みことばは信頼できない」と言うなら、それを加えてはいけません。どこかの教会のように、「聖書で約束されている聖霊のバプテスマはただ12使徒だけに適用されるのです。」なんて言うなら、そんなことをあなたの信仰に付け加えてはいけません。そうしたら土台から崩れてしまいます。昨晩お話ししたウジヤですが、イザヤが信頼しきっていたこの人物は、土台から崩れてしまいました。重い皮膚病にかかったのです。それで虚しい最後です。
さて、「12弟子だけに適用される、ただ12弟子だけ。」といえば、
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ある晩ライト兄弟のところに行った時、(彼は今どこか後ろの方にいると思います。)ある福音奉仕者が来ていました。そこでわたしは4~5人の説教師と一緒に話をしていました。この福音奉仕者が、立ち上がって言いました、「さて、親愛なる皆さんに言いたいことがあります。みなさんは良い人たちです。」わたしは誰かに耳打ちして言いました、「さあ、何かが始まるよ。気をつけて。」今そこにいるジュニー・ジャクソンが神の恵みについてちょうど話し終えたところでした。・・・彼は待ちながら燃えたっていました。彼は立ち上がり、・・・
「さて、わたしは言いたいことがあります。ここにいるブラナム氏は反キリストです。」と、こんな調子で言い始めました。それで・・・
説教師の誰かが、何か言おうとしましたが・・・わたしが止めて言いました、「ちょっと待って。今は何も言わないで。ここには彼一人とわたしたち仲間しかいないのだから。」「彼を放っておこう。彼はわたしを槍玉に挙げているのだから。」わたし自身言い返したくてしょうがなかったのですが、どうしていいかわかりませんでした。
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彼は言いました、「ブラナム氏は反キリストです。」続けて彼はあらゆることをしゃべりました。「聖霊のバプテスマ」とか、「聖書には、聖霊のバプテスマを受けたのはただ12弟子だけだと書いてある。神の癒しについて言えば、ただ12弟子だけが癒しの業をおこなった」とか、「わたしたちは、聖書が語ることを語り、聖書が語らないことは黙っている。」とか言いました。彼が30分ほどべらべら喋る間、わたしは待ちました。それから言いました、「ちょっと待ってください。もうたくさんのことを書き留めましたから。それに返答する機会を与えてください。」そして立ち上がって言いました、「失礼ですが、・・・彼は、聖書が語ることを語り、それは彼の教会ですが、聖書が語らないことは黙ると言いましたね。ここにいるみなさんが証人です。」
「そうです。」
「彼はただ12使徒が聖霊のバプテスマを受けたと言いました。わたしの聖書には、初めの一撃を受けたのは120人と書いてあります。」アーメン!彼が言うようなそんな類の知識は捨ててしまいなさい。
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わたしは言いました、「それなら、パウロは聖霊を受けなかったことになりますね。でも彼は聖霊を受けたと言っていますよ。」「フィリポがサマリアに下って宣教した時、彼は信じた人々にイエスの١s&Wによる،~礼だけを١آけていました。聖霊はまだ彼らの元に降っていませんでした。それからペトロとヨハネがやってきて、彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らの上に降りました。それはただの12人だったのでしょうか。」さらに続けて言いました、「使徒10:49によれば、ペトロが屋上にいた時に、コルネリアスのところに行くようにという幻を見ました。」「ペトロがまだ話している間に、彼の言葉を聞いている人々に聖霊が降りました。」「聖書はまだまだ語っていますよ。あなたの教会はどこにあるのです?」仮想世界に引っ込んでしまっているのです。
さらに続けて言いました、「神の癒しについてですが、あなたはただ12弟子だけが癒しをおこなったと言いましたね。聖書は、ステファノがサマリアに下って行って悪霊を追い出し病を癒し、町に大きな喜びが起きたと言っていますよ。彼は12人に含まれていません。彼は使徒ではなく、信者の世話役だったのです。」アーメン!
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さらに続けて、「パウロは上階の部屋にいた12弟子の一人ではありませんが、彼には癒しの賜物がありました。」「癒しの賜物だけに限定して言えば、パウロは30年経ったあとも、コリントで癒しの賜物をキリストの共同体に与えていました。」本で読んだ類いのそんな知識は、ゴミ箱に捨てた方が役に立ちます。この知識を得なさい。神が、過去も現在も未来も、イエス・キリストは変わらないと言われたのなら、「アーメン」と言うのです。そうです。12人だけでなく、すべての人にです。あなたの信仰が、一言ひと言に納得してアーメンを言うなら、それを良しとして、加えなさい。
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4番目に・・・ちょっと急がなければなりませんね、でもこれについて話すのがとても嬉しいのです。4番目に・・・ありがとう。節制を加えるのです。節制までたどり着きました。まず信仰を持たなければなりません。信仰に徳を苦加えます。正しい徳を加えるのです。それから、知識を加えます。正しい知識をです。さて、節制を加えるところまでたどり着きました。ここで言う節制とは、お酒を飲むのをやめることではありません。ここで言う節制はアル中の治療を意味しているのではありません。これは聖書の節制です。聖霊の節制です。肉欲の抑制のことではなく、聖霊の節制のことをさしているのです。つまり、無駄口をたたかずに舌を制御する、挑戦を受けるたびにカッカしないよう気性を抑えるということです。なんとまあ、わたしたちの多くは、この時点で挫かれてしまいましたね。それなのに、神がなぜ昔のように教会に奇跡を起こされないのか不思議に思っているのです。
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そうです!節制を加えなさい。節制とは、あなたに怒りがぶつけられた時に、どのように優しく答えるかです。「あんたら、ホーリー・ローラー(注:聖霊のバプテスマを受けた人に対する蔑称)ときたら、」と言われたら、袖を捲り上げて飛びかかっていってはいけません。神の愛をもって話しなさい。節制、思いやりです。そのようになりたいと思いませんか。
怒らせるようなことをされても、仕返しをしてはいけません。キリストを模範としましょう。「もし神の子なら、これらの石をパンに変えたらどうだ?」と言われたとき、彼はそれをやってみせて、自分が神であることを見せつけることもできましたが、節制されました。「ベルゼベブ」と罵られたとき、「わたしは赦します。」と言われました。そうですね? 髭を抜かれ、顔に唾を吐きかけられ、「十字架から降りて来い。」と罵られましたが、
彼は、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわかっていないのです。」と言われました。
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キリストにはすべてわかっていました。彼のうちには神が余すところなく宿っておられましたから。キリストが人々の問題を指摘して奇跡を行われるのを人々は見てきました。それで彼らは、ボロ切れを彼の頭に結んで目隠しをして、棒で彼の頭を叩き、「預言してみろ。誰が叩いたか当てたら、信じてやろう。」と言いました。彼は自制を保ちました。さて、そのような節制を得たら、あなたの信仰に加えなさい。もしまだ、カッとなっていきり立ってイライラしているなら、まあ、節制を得たとは・・・・。それは加えてはいけません。というか、加わりません。
くっつきませんから。ゴムを鉄に加硫することはできません。無理です。加硫させるためには、ゴムのように柔軟な素材でなければなりません。あなたの信仰と節制が、聖霊の節制と同類であるなら、神に溶接します。そしてあなたはつけ加えられます。
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あなたの徳がキリストの徳と同じなら、それを加えなさい。あなたの知識がキリストの知識と同じなら、というのは、「神よ、わたしはあなたのみ心をおこなうためにここにいます。」と言い、父のみことばで悪魔を破ること。また、天と地は廃れますが、みことばはすたれることがありませんということ。そういう知識があるなら、あなたの信仰と溶接します。キリストが持っていたのと同じ節制があるなら、それは溶接します。もし持っていないのなら、・・・ただの取り繕いの、中途半端な、浅漬け節制なら、・・・。「おっと、ここは彼をぴしゃりとやるべきだが、しないほうが良さそうだ。明日の新聞に自分の名前が載るのは困るから。」こういう節制のことを言っているのではないのです。そんな節制は加えないでください。無駄です。
でも、心からの寛容さで人を許すことができ、平和を保ち、やり過ごすことができるなら、それは溶接します。それはあなたの信仰に加えなさい。まったく、教会が不完全なわけです。そうではないですか? 無理もありません。
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わたしが、「悔い改めて洗礼を受けなさい。聖書の言うとおり、イエス・キリストの名によって。」と言いますと、厳格な三位一体主義者はそれを信じず、こう言うでしょう、「それは古くからの反キリストだ!彼はジーザス。ネーム主義者だ。彼はジーザス・オンリー主義者だ。」気をつけてみなさい。なんとまあ、どういう節制を持ち合わせているのでしょう。どうしてわたしのところに来て、こう言わないのでしょう、「このことは話し合おうではありませんか、ブラナム兄弟。あなたから説明を聞きたいものです。」そうして耳を傾ければ、あなたもわかるようになるのです。それから立ち去ればいい。もうちょっとしたら、敬虔さの話の中でそのことに触れようと思います。
でもあなたが軽率にもすぐに結果に飛びつこうとするなら、うーん、それは節制ではりません。そのような対応をするなら、あなたはまだ聖書がいうところの節制を得ていません。でもこれらすべてを身につけたら、あなたの信仰に加えなさい。
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それから4番目に、忍耐をあなたの信仰に加えなさい。「もしあなたに信仰があるなら、忍耐することができます。」聖書がそう言っています。ですから、次にこの建物に付け加えられるのは忍耐です。神はご自分が建てあげられるものに本物の素材を使っておられます。兄弟姉妹よ、わたしたちはどれほどそれに不足していることでしょう。今のわたしたちはどこにいるのでしょう。栄光を得るのも叫んだりするのも、信仰があればこそです。でも、これらのことが片手落ちであるなら、神はわたしたちを完全な構造のうちに組み込むことができません。そこまで持っていくことができないのです。わたしたちはそれぞれ、欠けたところ抜け落ちたところがあるものです。でもそれでは神は教会を立ち上げることができません。
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何に忍耐するのですか? どういう忍耐が必要なのですか? まず第一に、神に忍耐しなければなりません。もしあなたに正真正銘の信仰があるなら、正真正銘の忍耐も持つようになります。信仰が忍耐を生み出すのですから。神が何か言われたら、それを信じます。それですべてです。あなたは忍耐を得ました。「昨晩、癒しを神に願いましたが、今朝もまだ病気のままです。」と言うなら、まあまあ、なんという忍耐でしょう。
神がアブラハムに語られてから25年経った後も何の変化もありませんでした。それでも彼は信じていました。彼は神に忍耐しました。常に神と向き合いなさい。逆らおうとしても無理です。だから常に神と向き合いなさい。神が、起こると言われたのですから起こるのです。ね、だから常に神と向き合いなさい。そうです。
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ノアは忍耐しました。そうです、ノアは本当に神のような忍耐強さを持っていました。神が、「わたしはこの世界を、雨を降らせて滅ぼす。」と言われ、ノアは120年間もそのことを宣べ伝えました。すごい忍耐力ですね。その間、天から露ひとつ落ちて来なかったのです。120年間、相変わらず埃っぽい日々が続きましたが、彼は忍耐しました。神はあなたの忍耐を試されます。そうです。次に神はノアに、「ノア、行って箱舟の中に入りなさい。わたしは動物たちを招き寄せる。あなたは箱舟に入って最上階に上がり、窓から外を見なさい。そこに行ったら、『明日、わたしが120年間ずっと宣べ伝えて来たことが起こる』と人々に告げなさい。よろしい、行って彼らに告げなさい。」
何が最初のしるしでしたか? ノアは箱舟に入りました。雨は降りませんでした。
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ノアは準備万端。雨合羽も着込んで、もう一度あたりを見張りました。すべては整いました。しかし次の日・・・彼は家族と義理の娘たちに、こう告げていたかもしれません、「ああ、明日、あなたたちは今まで見たことのないものを見ることになるだろう。というのは、空一面が真っ黒になって、雷鳴が轟くからだ。そして神の大きな剣が大空を引き裂くのだ。この120年間わたしたちを拒絶してきた者たちに、神は罰を与えられるから、注意して見ていなさい。」
中途半端な信者は、箱舟の周りでうろうろしているだけで入って来ようとはしないのです。今もそういう人たちがいますね。彼らはこう言います、「まあ、あの老人は正しかったのかもしれない。だから、一応近くまで行って何日か様子をみよう。それとも朝行って数時間くらい待ってみるか。」
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次の日は黒雲が空を覆うどころか、いつものように太陽が出ていました。ノアは外を見て言いました、「おや、雲なんてないぞ!」中途半端な信者はやって来て言いました、「あはは、やっぱりあんたもそうだったんだ。あんたもここらをぶらぶらしているんだ。」
「やあ、失礼。はは、 ちょっと浮かされちゃったものでね。なんていうか、ちょっとした・・・・ははは、」
しかしノアは違いました。彼は辛抱しました。「もし今日起こらないのなら、明日起こるだろう。」
なぜそのようにできたのでしょう。神がそう言われたからです。
「いつ神はそう言われたのかい、ノア?」
「百と二十年だよ。ずっと待ってここまで来たんだ。さらに待つだけさ。」
ずっと長い間、神も教会を待っておられるのです。でも心配しなくても大丈夫です。神が約束されたのですから。ずっと長い間復活を待ち望んでいますが、必ず起こります。心配しなくていいです。これは神の約束ですから。ただ辛抱強く待つだけです。
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眠ってしまうかもしれません。復活が起こる前に、眠ってしまうかもしれませんが、その時が来たら目を覚まします。神が約束されましたから。いわゆる死の眠りというものから目覚めるのです。わたしたちの言う『死』は、ちょっとした眠り、あるいはキリストのうちに眠りにつくことです。キリストのうちに死ぬということはありません。生と死は共存しません。だからわたしたちはただ、友人に揺り起こされても起きない眠りにつくのです。神だけが目覚めさせることができます。ヨブは、「あなたが呼んでくだされば、わたしは答えます。」と言いました。ヨブはもう4000年も眠っていますが、心配しなくても、神が起こしてくださいます。彼はまだ待っているのです。100
ノアは待ちました。四日が過ぎました。まだ雨はありません。「大丈夫、きっと起こるさ。」ノア夫人が近づいて来てこう言うのが聞こえます、「お父さん、本当に確かなの?」
「そんなふうに言ってはいけない。」彼には信仰があったので忍耐することができました。そうです。彼には徳がありました。彼には神が正しいという知識もありませいた。そして彼には忍耐があったのです。彼は、「もうどうだってよくなったよ。どうせここでの評判は地に落ちているんだから。」なんて自暴自棄に陥ることもなく、「どうせ人からなんとも思われていないのだから、ここを出て行って新しい人生を始めよう。」などとも言いませんでした。彼は辛抱しました。神が約束されたので、必ずそうなります。神は必ずそれを実行されます。なぜなら、神がそう言われたからです。
101
息子がやって来てこう言うのが目に浮かびます、「お父さん、・・・」(彼は父親の長い白髪を撫でました。もう百を越しているのです。)「お父さん、あなたが家長であることはよくわかっています。尊敬しています。でも、もしかしてあなたがちょっと間違っていたなんていうことはありえませんか?」「そんなことはない。」
「なぜ?」
「神がそう言われたのだ。」
「でもお父さん、ここに来てからもう6日ですよ。ずっとこの大きな箱舟の中に座っているんですよ。内側も外側もアスファルトで塗り固められて、わたしたちは長年これを造ってきたんです。あなたはこんなに白髪の薄毛になるまでずっと説教して来ました。そして今、あなたがここから何か言おうとしても、人々は笑って、腐ったトマトを投げつけてくる始末ですよ。あなたは自分のしていることがわかっているのですか・・・」
「息子よ、辛抱しなさい。」
「本気ですか?」
「雨は必ず降る。」
義理の娘も言います、「お義父さん、わたしは・・・」
「雨は必ず降る。」
「でももうずっと長い年月待ち続けているんですよ。ずっとそのための準備をしてきました。そして一週間前にあなたは雨が降ると言いました。それでわたしたちはここにいます。ドアは閉まっています。相変わらず陽が照りつけているのにわたしたちはここで歩き回っているのです。
「しかし雨は必ず降る。」
「どうしてそう言えるのですか?」
「神がそう言われたからだ。」
102
そういう忍耐があったら、それを加えなさい。でもそうでなかったら、加えようとしてはいけません。無駄です。そういう忍耐がなかったら、癒しも何も起こりません。溶接するものと同じ素材でなければならないのです。そうです。神の約束を忍耐する、こういう忍耐を加えなさい。ノアは信じて、120年も神に忍耐しました。103
モーゼも神に忍耐しました。そうです。「モーゼ、わたしは民の嘆きを聞き、彼らの苦しみを見た。わたしは彼らを救い出す。わたしはあなたをエジプトに遣わす。」神とモーゼの間にちょっとした対立がありましたが、神はご自身の栄光を彼に見せられました。それで彼は、「わたしは行きます。」と言いました。神の栄光を見たので、彼には信仰が備わりました。
「モーゼ、あなたの手にあるのは何か?」
「杖です。」
「それを地面に投げなさい。」杖は蛇になりました。
「あらまあ、なんと。」
「モーゼ、それを拾いなさい。それを蛇にすることもできれば、元に戻すことも、わたしにはできるのだ。」
アーメン! わたしに肉の命をくださったのなら、霊のいのちもくださることが、神にはできるのです。最初の誕生を与えてくださったのだから、第2の誕生も神は与えてくださるのです。アーメン!神は、この体を癒すことができるのですから、終わりのときに神の栄光へとわたしを復活させてくださることもできるのです!そうです。
「わたしには、この杖を投げてそれを蛇に変えることもできれば、それを元の杖に戻すこともできるのだ。蛇の尻尾を掴みなさい。」モーゼは手を伸ばしてそれを掴みました。すると蛇は杖になりました。モーゼは知識を加え始めました。
「モーゼ、あなたの手はどうしたのか?」
「なんでもありません。」
「胸の中に手を入れなさい。」
「はい。でも何なのですか?」
手が重い皮膚病で真っ白になってしまい、「ああ、主よ、わたしの手を見てください!」
「モーゼ、もう一度手を胸の中に入れなさい。」そうすると、元どおりの・・・
彼はこの知識も加え始めました。
104
モーゼはエジプトに下って行きました。そしてはじめに現れたはっきりとした差異は、これです。モーゼは言いました、「主はこう仰せになった。『我が民を去らせよ』と。ファラオよ、わたしは神から遣わされたここに来たのです。従いなさい。」ファラオは答えました、「従う? わたしが誰だかわかっているのか? わたしはファラオであるぞ。奴隷であるおまえに従えというのか?」
「従うか、滅ぶかのどちらかです。どちらでも好きな方を選びなさい。」なぜこんな大胆なことが言えたのでしょう。彼には確信がありました。彼は神から任務を受けてエジプトに下って来たのです。彼は神と語りました。そして信仰を持ちました。自分の立場をわきまえていました。
「おまえに従えというのか? さっさと出て行け!」
「しるしを見せましょう。」
「しるしだと?」モーゼは杖を投げました。するとそれは蛇に変わりました。
105
「なんで。」ファラオは言いました、「そんな安っぽいトリックを使って。ヤンネとヤンブレよ、こっちに来なさい。おまえたちの杖を投げなさい。」彼らが杖を投げると、それは蛇に変わりました。「そんな安っぽいものを持ってエジプト人であるわたしのもとに、はるばるやって来たとは。わたしはエジプトのファラオであるぞ。おまえはそんなくだらないトリックを使うためにここにやって来たのか。ハァ!(いかさまとか読心術だとか、言っている意味がわかりますね。テレパシーを使っているとか、いろいろと言うのです。)そんなものを持って来たのか。でも我々は同じことができるのだ。」
モーゼはどうしたでしょう。彼は、「ああ、ファラオさま、ごめんなさい。わたしはあなたの奴隷になります。」なんて言いませんでした。彼は平然として立っていました。アーメン。
神は言われました(心の中で疑ってはいけない)、「黙っていなさい。どうするか、わたしが教えよう。」
106
神が言われたとおりのことをしたなら、たとえ事態が悪い方に進むように思えても、平静を保ちなさい。辛抱するのです。モーゼは言いました、「わたしが基礎の上に据られたとき、忍耐が置かれた。だからわたしは神が何をされるのか、待っているだけである。」蛇たちは這いまわって喘いだり、シューシューして互いに威嚇しあっていました。するとモーゼの蛇がガブガブと他の蛇を食べてしまいました。モーゼは忍耐しました。
主を待ち望むものは
新たなる力を受けん
鷲のごとく翼を張りてのぼらん(そうですね?)
走れども疲れず
歩めども倦まざるべし
ただ主を待ち望むのです。辛抱して。
107
そうです。そしてイスラエルは出て行きました。大きな対立が起き、モーゼは待ちました。それから荒野に行きました。ただの3~4日の旅です。彼が渡って行ったところから、渡って戻ってくるまでは65キロ程度の距離の旅です。しかしモーゼは荒野で40年間待ちました。忍耐です。アーメン。そうです、彼は40年間待ったのです。
108
そしてわたしたちもお互いに忍耐し合わなければなりません。お互いに我慢することができなくなっています。モーゼを見習わなければなりません。モーゼは民に忍耐しました。そのおかげで、彼は約束の土地に渡って行くことができなくなってしまいました。わたしがこのメッセージをこの会堂で伝えようとするように、もし何かをしようとするなら、困難が伴います。会堂の人たちがこんなふうにするのを見るのは、辛いことです。ずっと辛抱してきました。33年になりますが、女性は相変わらずショートカットにしています。でも辛抱、辛抱です。待たなければならないのです。もし辛抱できないのなら、それを加えてはいけません。忍耐しなさい。
109
モーゼもある時、反逆的な人々にキレて、間違いを犯してしまいました。それでも、神が彼らの行動に辟易して、「モーゼ、彼らから離れなさい。わたしは彼らをみな殺して新しく始める。」と言われたとき、モーゼは神と民の間に自分の身を投じて言いました、「神よ、おやめください。」なんでそんな行動が取れたのでしょう。彼に反逆する人々に、彼が忍耐できたからです。
わたしたちも同じようにできるか疑問です。もしできないのなら、その上に建てようとしてはいけません。無駄なことです。そのようにして初めのが溶接し、次々に同じようにして溶接してきたのです。もしそうしないなら、生ける神のお住まいとなる身丈まで成長することはできません。まだ忍耐がないのです。お互いを我慢し合うという忍耐が。
110
そうです。あのヘブライ人の子たちには確かに忍耐がありました。神は彼らに約束されて、「いかなる偶像も礼拝してはいけない。」と言われました。
彼らは忍耐しました。「わたしたちの神にできないことはない。しかし、そうでなくても、偶像を礼拝したりはしまい。」神が、終わりの日に復活させてくださることを知っていたので、忍耐しました。この世の命は大したものではないのです。神は終わりの日に復活させてくださいます。「偶像礼拝のこととなると、わたしたちは従いません。カエサルのものはカエサルにと言われていますが、そのカエサルでも神に介入するなら、わたしたちは神を第一とします。神は、『偶像を礼拝してはいけない』と言われましたから、わたしたちはそれをしません。わたしたちの神は、危機から救い出してくださるお方です。もしそうでなくても、偶像に頭を下げたりはしません。」
王は、「よろしい。それなら燃える炉の中に入るがよい。」と言いました。
「でも、今夜激しい雨が降って、火を消してしまうかもしれません。」でもそうはなりませんでした。彼らは忍耐しました。
111
次の朝、法廷に引き出された彼らに、ネブカデネザル王は言いました、「よろしい、息子たちよ。わたしが王であることを覚えているか?」「もちろんでございます。王が末長く繁栄されますように。」
「それなら、わたしの偶像に跪きなさい。」
「いいえ、それはできません。」
「それなら、おまえたちは火で焼かれることになるのだ。おまえたちは賢い者で、よく頭が切れ、大いにわたしの助けとなってくれた。おまえたちはわたしの王国に祝福をもたらした。わたしがこんな刑を下したくないことがわからないのか? しかしすでに布告してしまったので、実行せねばならない。本当はおまえたちを火の中に投げ込みたくないのだ。まったく、どうしてしまったのか、おまえたちは?」
「王様のお言葉はもっともです。でもわたしたちの神には、わたしたちを救うことがおできになります。もしそうでなくても・・忍耐します。」
炉に向かって歩き出しました。お互いに見合って言いました、「大丈夫だよね?」
「大丈夫だよ。わたしたちには忍耐があるんだから。」
一歩進みました。神はおられませんでした。2歩進みました。神はおられませんでした。3歩進みました。4歩、5歩、進んでいきましたが、神はおられませんでした。燃える炉への最後の一歩を踏み入れました。彼らには忍耐が備わっていました。そして神がおられました。彼らが手足を焦がすほど火に近づいた時、穴の底に落ちた時、神はそこにおられました。わかりますか、彼らには忍耐が備わっていました
112
ダニエルも同じでした。ダニエルにも忍耐が備わっていました。確かです。彼は妥協しませんでした。とんでもない。彼はどうしましたか? 窓を開けて、いつものように祈りました。それが神からの言いつけだったからです。彼には忍耐が備わっていました。彼は神を待ち望みました。神がみことばを守られることを知っていたからです。「おまえをライオンの餌にしてやる。」と、彼はライオンの洞窟に投げ込まれました。彼には忍耐が備わっていましたから、「それでも構わない。」と言いました。「わたしはずっと神を待ち望んで来た。もうあと2~3000年ほども待たなければならないとしても、終わりの時が来たら、わたしは復活する。だから辛抱して待つのだ。」
パウロにも忍耐が備わっていました。確かです。パウロが被った困難を見なさい。
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忍耐といえば、ペンテコステ派の人達はどうでしょう。「待っていなさい・・・力を受けるまで待っていなさい。」という命令を受けたのです。「どのくらい待つのですか?」
「どのくらい待つのかは問題ではないのだ。」彼らが得た答えは、「待っていなさい。」だけでした。彼らは上階の部屋に上がって言いました、「さあ、みんな、多分15分もすれば聖霊が降って、わたしたちは福音の奉仕活動に出かけるのだ。」15分たちましたが、誰も聖霊を受けませんでした。1日たちましたが、誰も。2、3、4、5、6、7日たちました。誰かがこう言ったかもしれません、「ねえ、わたしたちはもうすでに受けたと思わないか?」
「いや、違う、とんでもない。」
「もう出かけて行ったほうがいいんじゃないか?」
悪魔がこう囁きました、「君たちが望んでいることはすでに君たちのものになっているんだよ。さあ出て行って福音の奉仕活動をしなさい。」
「いいえ、とんでもない。わたしたちはまだ受けてはいない。なぜなら神がこう言われたからだ、「(終わりの日に起こることとして、)この人たちは、どもる唇と知らない言語を語る。そしてこれがわたしが語る安息である。」(イザヤ28:19)「これがわたしたちの受けるものです。それが来たら、はっきりわかるはずです。」
「それが来たら、はっきりわかるはずです。父なる神の約束なのだから。」彼らは9日待ちました。そして10日目になった時、神はやって来られました。彼らは辛抱強く待ちました。
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さて、神から約束された後にそのような忍耐を持つなら、そして聖書にそれを見出して「その約束はわたしのものです。」と言うなら、待ちなさい。そしてそのような忍耐が備わったら、それをあなたの信仰に加えなさい。どれくらい背丈が伸びたかわかりますか? ここのところまで成長したのですよ。(時計の針もこんなに回ってしまいました。)いいでしょう。これをあなたの信仰に加えなさい。常に神があなたの前におられるようにしなさい。約束を与えてくださったのは神であることを忘れてはいけません。わたしが約束したのではないし、牧師でもないし、我らが兄弟ネヴィルでもないし、他のミニスターでもありません。司祭でもなければ、教皇でもありません。地上の誰でもないのです。約束されたのは神であり、神は約束されたすべてのことを守られます。
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そうです。もしあなたにそのような信仰があり、神が約束されたことを知っているなら・・・「ブラナム兄弟、わたしは病気です。とても癒しを必要としています。」と言うなら、認めなさい。癒しはあなたに与えられた賜物です。そうです。もしそれを信じることができるならば。「それでは、わたしは信じます。」そう言って忘れてしまいなさい。それでいいのです。もう済みました。わかりますか、忍耐するのです。
もしあなたに忍耐が備わっているなら・・・もし備わっていないなら、せっかく建てあげてきた建物を脆くも崩してしまいます。それ一つで、他の構造をも崩してしまうのです。忍耐を持たなければなりません。忍耐が備わっていないのなら、それを加えてはいけません。建物を壊してしまいます。もしあなたが、あなたの信仰に加える徳を持っていないのなら、そして持っていると思っていた信仰も持っていなくて、その上に徳を加えようとするなら、信仰も崩れてしまいます。
そしてこんなことを言うのです、「でも、ちょっと待てよ。これは何かの間違いだったのかもしれない。もしかしたら神は神ではないのかもしれない。もしかしたら神は存在しないのかもしれない。」このように、真っ二つに壊れてしまうでしょう。
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でも、正真正銘の信仰があるなら、その上に正真正銘の徳を加えなさい。その上に正真正銘の知識を、その上に正真正銘の節制を、その上に正真正銘の忍耐を加えなさい。するとぐんぐん背丈が成長してきました。よろしい。5番目に、信心を加えなさい。なんとまあ、信心が加えられるのです。「信心(ゴッドリネス)」とはどういう意味ですか? わたしは4〜5冊の辞書を調べましたが、意味がわかりませんでした。ジェフリー兄弟が来たときに、やっと辞書で見つけることができました。「信心」とは「神のようになる」という意味です。なんとまあ。信仰を得た後、徳、知識、節制、忍耐、それから神のようになるのです。大変だ。
「そんなことできないですよ、ブラナム兄弟」いいえ、できます。ちょっと聖書を読んでみましょう。マタイ5:48です。ここを読んで、神のようになるというのがどんなふうなのか、みてみましょう。マタイ5:48です。
聖書は「あなたは神々です。」と言っていますね。イエスがそう言われました。神のうちにあるすべてのものがあなたのうちにあるからです。マタイ5:48「(山上の垂訓でイエスが話しています。)だから、あなたがたは、天の父が完全であるように、p-e-r-f-e-c-t(とは?)完全でありなさい。」
そうなる前にはここから始めなければなりません。まず、これらのことがすべて備わっていなければならないのです。ここまできたら、神はあなたがたに完全になるように、神のようになるように、神の息子や娘になるように求められるのです。そうです。この線に沿って、どれほど多くのことを言うことができるでしょう。
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エぺソの4章を開いて、これについてわたしたちがどうすべきと言いているか、エペソ4章で調べましょう。エフェゾ4章の12節です。11節から読みましょう。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、(昨晩、他人の職務をとってはいけないと話したことを覚えていますね。)ある人を伝道者とし、ある人を牧師また教師として、お立てになった。
それは、聖徒たちをととのえて(聖徒とは? 聖別された人のことです。ここの基礎から始まった人のことです。)奉仕のわざをさせ、(キリストの奉仕の仕事です)キリストのからだを建てさせ、(強化して立ち上げるためです。)
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、(揺るぎない確信を持つに至り、)全き人となり、ついにキリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
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完全になること。信心をとってあなたの信仰に加えなければなりません。信心。徳の上に知識を加え、その上に節制を加え、その上に忍耐を加え、今度はその上に信心を加えるのです。神のようになることです。あれまあ、なんと時間が過ぎていくことでしょう。でも『信心』の意味がわかりますか? 歌っていますよね。イエスのように、イエスのようになる
この地において、イエスのようになることを望む
地上から栄光への人生の旅をとおして
イエスのようになることのみを求める
それが信心です。イエスは、片方の頬を殴られたら、もう片方を差し出しました。ひどいことを言われても、彼は黙っていました。ひどいことを言い返すことはしませんでした。信心さ。常にひとつのことを念頭に置いていました。「わたしは、父に喜んでいただけることだけをする。」そうです。イエスは常にそうされました。それが信心です。
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まずこの段階をへて、ここに上がって、ここに上がって、ここに上がって、ここに上がって、ここに上がって、神の子の身丈にまで上ってきました。でもこれらすべてに加えてこれを得なければなりません。そしてこれを得なければ、始められないのです。さて、孔雀の羽をくっつけたカラスを忘れないで覚えていてください。生まれ変わるまでは、何も加えようとしてはいけません。しても無駄なことです。こことかここまでは上がることができるかもしれませんが、どうせ崩れ落ちます。でも生まれ変わって本物の鳩になるなら、何も加えようとしなくていいのです。自然に加わっていきますから。
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大丈夫、完全に向かって進んでいます。それから6番目に、聖書は、兄弟愛を加えなさいと言っています。兄弟に優しくすることです。これはいいですね。これが、ここ6番目です。7番目。そうです。兄弟愛を加えるのです。兄弟愛を得たなら、自分を他者の状況に置くようになります。ペトロは、「兄弟がわたしに罪を犯したら、赦すべきですか? 一日に7回?」と尋ねました。
イエスは答えられました、「7の70倍赦しなさい。」
それが兄弟愛です。兄弟の調子がおかしくなっていても、苛立ってはいけません。優しくしなさい。とにかくそうしなさい。
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誰かがこう言いました、「あなたは、こういうことを信じているのに、どうしてアッセンブリーズ・オブ・ゴッドやワンネスなどの人たちのところに行ったりするのですか?」それは兄弟愛です。いつの日か彼らも・・・。忍耐です。それに節制も必要です。我慢するのです。彼が信じていることを理解する知識を持つのです。そして覚えていてください。彼の心の中にあるのが・・・。いつの日か神が彼をも引き入れてくださると信じて、あなたの内にある徳を優しさや柔和さとともに彼に届けるのです。兄弟愛、第7番目です。1、2、3、4、5、6、7。そう、7つのことです。
それから次に、愛を加えるのです。これが頂上にかぶさる頭石です。いつの日か教会に・・・。
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さて、テープを聞く人やその他の人たちに言っておきますが、これから話すことを教義としてとらえないでください。神の助けによって、皆さんに真相をお知らせしたいのです・・・。神が最初に書かれた聖書は、空の星座です。乙女座から始まって獅子座で終わります。第6と第7の封印に取り掛かる時、その他の封印が開かれた時期が蟹座にあたることに気がつくでしょう。わたしたちが今いる時代が蟹座の時代です。次に封印が開けられるときは、獅子座になります。キリストが再臨されるときです。キリストは初めに乙女座の時代に現れ、次に来られるのは獅子座の時代です。
このことをこれらを通して・・・。さて、今朝時間がじゅうぶんあるかわかりませんが、できるだけ丁寧に、これらのステップがピラミッドの形をしていることを説明したいと思います。ピラミッドは、神が書かれた第2の聖書とです。エノクが書いて、それをピラミッドの中に入れました。
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そして3番目に、(神は常に3番目を完成とされます)神はご自身がみことばとなって現れました。ここにいる兵役に就いた人たちやエジプトに行ったことのある人たちはご存知でしょうが、ピラミッドには頂上の頭部がありません。今までずっと欠けた状態でいるのです。キャップストーンとか色々試したのですが、未だに・・・。ポケットに1ドル札があったら、見てみてください。右側にアメリカの国旗を持った鷲がいます。そして、『合衆国の印章』と記されています。一方左側には、ピラミッドと、人の目のついたキャップストーンが描かれています。そして『国璽(グレートシール)』と記されています。もしこの国が偉大な国なら、どうして印章として自国のものを使わなかったのでしょう。神は彼らがどこに行こうとも証しをしておられます。
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いつだったか、神の癒しを否定してわたしを引っ掻き回す医者と通りで話をしました。彼は言いました、「ブラナムさん、あなたはただ人を混乱に陥れているだけですよ。癒すことができるのは医学だけです。」わたしはふと振り返って、彼の車のマークを見ました。蛇が棒に絡まった印でした。それでわたしは言いました、「それならあの印を車から取り外したほうがいいですよ。あの印が、神が癒しをなさることを証しています。」本物の医者は信じています。偽医者だから信じられないのです。棒に絡まった蛇。モーゼは(青銅の)蛇を棒で掲げ、「わたしは主、あなたがたの病を癒すものである。」と言いました。民は癒されるためにその蛇を見上げました。それなのに彼らは神の癒しを否定するのです。それでも彼らの持っている印が、彼らに反して神の癒しを証しています。ひゅう。
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わたしたちの国家がここでこう言っているのです。それなのに人々はそれを見下しています。自分たちの貨幣が、宇宙全体の印章は神であることを証しているというのに。この紙幣に浮かんでいる目がわかりますか? これが国璽です。一度もピラミッドの頂上に落ち着いたことはありません。その理由を人々は理解できません。なぜ? 頭石であるキャップストーンが捨てられたからです。それはキリストです。でもいつの日かやって来られます126
さて、徳を建て上げるには、この記念碑を建て、この身丈まで建て上げるには、まず基礎石である信仰から始めなければなりません。それから徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛と続きます。それからどうしますか?それから頭石を待ちます。それは愛です。神は愛だからです。神が全てを支配されます。神はこれらすべての力の元ですから。そうです。まさにここです。見えますか? この小さな波がやって来ます。それは何ですか? キリストによって聖霊がやってくるのです。聖霊はすべての上にあり、すべてを溶接して、建物を、何の建物? 頭石が覆いかぶさることのできる完全な教会を建て上げるのです。何が行われているのですか? 7つの教会時代とそのメッセンジャーによって現されてきたことです。
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ここから始まりました・・・。初めに築かれた教会はどこでしたか? 初めにペンテコステの教会が始まったのは? エフェゾで聖パウロによって始まりました。エフェゾ教会時代の星です。エフェゾ。2番目の教会は、スミルナで徳を表します。パウロの福音を継承した偉人エイレナイオスがメッセンジャーです。その次の教会時代は、ペルガモスで、マルティンはしっかり踏みとどまった偉人でした・・・。パウロ、エイレナイオス、マルティン。それからティアテラ時代でコロンバが出ました。コロンバはここから引用されていることを覚えておいてください。コロンバのあとに暗黒時代がきました。それからサルディス、その意味は死。ルターが出ました。ハレルヤ!それから次は? ルターのサルディス時代の次はフィラデルフィアです。敬虔を表します。ウェスレーの始めた、神による聖別の時代です。ルターが、「義人は信仰によって生きる」と宣言し、ウェスレーが聖別されることの必要性を説きました。それから兄弟愛のラオデキア時代が始まりました。今わたしたちは、この終わりの日にエリアが再度現れて、国中を一掃することを期待しています。
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7つの教会時代です。7段階あります。神が建て上げられる教会は、個々人がひとりの人のようになって、栄光の神の中に内包されていくような感じです。神の力がこれをとおしてやってきてわたしたちを結びつけて溶接します。ですから、ルター派やウェスレー派などを飛び出したペンテコステの人々には、彼らの話していることがわからないのです。彼らは神殿のこの部分で生きています。それで、上に上がってくることができずに脱落してしまう人が出るのです。でも建物を建て上げていく正真正銘の部分もあります。「わたしは回復する。」と主は仰せになりました。
『花嫁の木』を覚えていますね。『花嫁の木』のメッセージを覚えていますか? 彼らは木を食い荒らしましたが、神が彼らを剪定なさいました。教団の枝ができると、神はそれを切り落とされました。彼らがまた別の教会を立ち当て、教団の枝が伸びると、神はそれを切り落とされました。でもその木の中心部は成長を続けました。
「夕べの時刻に光がある。」そのときにはキリストなる聖霊がやって来られます。イエスはやって来られ、教会の頭となられます。そして教会はキリストの体としてよみがえります。神はわたしたちひとりひとりが、神が教会に与えられた栄光の光を輝かせるものとなることを期待されます。すべての教会時代が・・・一つの大きな教会になります
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わかりましたね?この段階にいる人たちは、こちらの段階にいる人たちの要素は求められていません。こちらは、こっちの持っているものが要求されていないのです。神は、人々を成長させるのと同じように教会も成長させました。それでペトロが7つの要素を掲げたのです。信仰、徳、(ね、上に向かっていくでしょ)知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛と兄弟的優しさ、それから神の愛、聖霊です。
聖霊の姿でキリストがあなたに臨まれると、あなたは真の聖霊のバプテスマを受け、これらすべての徳があなたのうちに備わった印の封をされます。すると神がこの建物、幕屋のうちに住まわれます。あなたは生ける神が住まわれる生きた幕屋となるのです。
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これらのことを備えたら、聖霊がその人に臨まれます。どんなに異言を語っても、神の賜物を真似しても、これらの徳が備わらなければ、正真正銘の信仰の基盤から外れているのです。しかしこれらの徳が成長するなら、それを加えなさい。そうすれば、あなたは生ける記念建造物になります。あなたは生きて活動する神像になります。異教徒は偶像にひれ伏しますよね。想像上の神に対してそうします。想像上のやり方で、想像上の神が彼らに語ると思い込んでいます。それが偶像崇拝で、ローマ教とも言います。彼らはあらゆる聖人に礼拝します。聖セシリアだとか、家の神だとか、その類いの多くのものを礼拝の対象とします。彼らは想像上のやり方で、実際それが神だと信じて礼拝するのです。真の生ける神への礼拝となんという違いでしょう。
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でもわたしたちは、想像上のやり方で神を礼拝しません。わたしたちは、生ける神、生きている徳、生きている知識、生きている忍耐、生きている敬虔の前にひれ伏すのです・・・。生ける神からの命ある力が送られて、命ある人は、神の身丈に成長していきます。その人は何をしますか? イエスがなさったのと同じことをします。イエスが歩かれたように歩き、イエスと同じことをします。これは想像上の出来事ではないのです。きちんと証明できる現実のことなのです。言っていることがわかりますか? これらの徳、これらの建築素材が、教会時代と教会のメッセンジャーに、うまく重なり合っているのがわかりますか?
いつか、これらの言葉ひとつひとつを取り上げて調べ、このことを証明したいと思います。すべてうまく重なり合っているのです。確かです。なんとまあ、素晴らしいことでしょう。
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さて、それこそが神がお住まいになる家です。尖塔があって大きな鐘がついている建物ではないのです。「あなたは、わたしのために体を用意してくださいました。」とあるとおりです。神がお住まいになる体です。その体を通して、神が歩かれ、見、話され、働きをされるのです。アーメン。生きている神の媒体です。神はあなたのうちにあって二足歩行されるのです。凄いことです!「義人の歩みは神に同調する。」神があなたを通して歩かれるのです。「あなたは、あらゆる人から読まれる生きた手紙です。」もしあなたの内にキリストのいのちがあるなら、キリストと同じいのちが生じます。133
わたしが常に言っているように、桃の木から樹液を抽出して、りんごの木に注入するなら、りんごの木が桃を実らせます。確かです。枝が何であれ、りんごの木にその樹液があるからです。他のどんな木でも同じです。桃の木から樹液をすべて取り出して、それをりんごの木に注入するとどうなりますか? もしりんごの木に桃の木の命が入るなら、りんごはならず、桃が実るのです。桃の命が入ったからです。
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わたしたちなど野生の瓜のようなもので、誇れるようなものではありません。罪の状態で死んでいるからです。わたしたちはみんなこのような状態なのです。でも神に降伏して自分を開け渡すなら、そして神の輸血チューブであるイエス・キリストの名を受け入れるなら、(天の下には、わたしたちが救われるための名前はこの他にないのです。)キリストのいのちがわたしたちの中に輸血されるのです。するとキリストと同じ信仰を持つようになります。キリストの信仰は、ファリサイ派やサドカイ派の人たちとは別の基盤です。あるいは彼らの壺ややかんや鍋や洗い物とは違います。それは神のことばを基盤としています。キリストご自身がみことばだからです。みことばは人となられたとあるとおりです。
そして神の力によって輸血されると、わたしたちは自分の考えで生きなくなります。そして信仰が正真正銘の信仰になり、(ハレルヤ!)キリストのいのちが輸血されるので、わたしたちは神の生き物となります。神の住まいです。そこから聖霊の祝福が放たれます。わたしたちはキリストの身丈に成長するのです。
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イエスは言われました、「わたしが神の子だと言ったことで非難するのか。聖書にあなたがたは神々であると書いてあるではないか。そのことをあなたがたの律法が伝えていないだろうか?」モーゼやエリヤや、神のそばで仕えた預言者らは、神ご自身の移入を受けて、自分の言葉でななく、神のことばを語りました。「何を語ろうか心配しなくてよい。語るのはあなたではなく、あなたのうちにおられる父が語られるのである。」彼が語る言葉は、自分のものでないのです。彼の命は絶えて、彼は死んでいるからです。136
死んだら、血を抜き取って防腐処理します。問題なのは、多くの人が、死んでも防腐処理をしていないことです。血を抜き取ったら、その人は死んでいます。その人がもう一度生きるためには、別の血を輸血しなければなりません。血を抜き取ったら、今度はイエス・キリストの血を輸血しなければなりません。そうすればイエス・キリストの信仰、イエス・キリストの徳、イエス・キリストの知識、イエス・キリストの自制、イエス・キリストの忍耐、イエス・キリストの敬虔、イエス・キリストの兄弟愛を持つことになります。キリストがあなたを統制する頭です。あなたの足は信仰の(アーメン)基盤で、頭によって制御されます。(注:不明)・・・を取りなさい。そうです。これらの徳をすべて備えたなら、完全な神の人になります。
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それから神は、教会を花嫁として再現されます。女性です・・・神は教会を花嫁として再現され、神の子となった各自を花嫁の中に組み入れられます。神は各教会時代をとおして花嫁となった者たちも組み入れて、一つの完全な教会を作り上げられます。わたしの足は動きます。頭がそうするように司令を送るからです。それは足なので、手のように動くことはできません。ルターは、わたしたちがしていることをすることができません。メソジストにもできません。彼らは別のものだからです。このように足は頭からの司令を受けて動きます。頭は、「さて足よ、手になれ。耳よ、目になれ。」などとは決して言いません。
神は、各時代に各部分を教会に位置付けてこられました。各自がみな、これらの・・・これらの資質を備えていること表すことが型となって、表されています。こうして完成した『存在』は、神のもとに上げられることになる神の教会です。この『存在』は、完成すると、神の教会を構成する神の僕となり、携挙されます。素晴らしい!わたしの言っていることがわかりますか? そうです。たくさんのことがあるのです。
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そこへパウロが登場して、土台を敷きました。エイレナイオスがその土台の上にこれを注ぎ、次のメッセンジャーがこれを注ぎ、次の人がこれを注ぎ、次がそれを、次がそれを、次がそれをとしながら、最後の時代までやってきました。でもすべて同じ霊です。わたしのうちにおられる同じ霊が、「手よ、それを取りなさい。」と言い、同じ霊が、「足よ、一歩踏み出しなさい。」と言うのです。言っていることがわかりますか?そうしてあなたの存在全体はこれらのことによって、統制され、操作されます。でもこれらの資質がすべて備わるまでは、完全に統制を受けることはできません。
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こういうことを聞いたことがありませんか? お話ししますから、聞く耳をもってしっかりと聞いてください。連結が一番弱い部分では、束縛は一番強いのです。そうです。一番弱い連結部分ほど強いものはありません。どれほど頑丈に建て上げても、弱い連結部分があるなら、その建物は壊れます。だから一番弱い連結部分ほど強いものはないのです。あなたにこれとこれとこれとこれがあって、でもこれがなかったとします。そこが崩落部分となります。もしこれを備えていてもそっちのを備えていないのなら、その場所で崩れます。これを備えていても、これを備えていないのなら、崩れます。これがあっても、これがないなら、崩れます。これがあってもこれがないなら、崩れます。それに、これを備えていないなら、これを持つことはできません。ですから、あなたのすべてを委ねるときに初めて、聖霊がこれらの徳をあなたに注がれます。そうなったらあなたは生きた神の幕屋です。
そうなったら、人々はあなたを見て、「この人は、徳と、みことばを信じる知識を備え、節制と忍耐と経験と兄弟愛を備え、聖霊の愛に溢れて生きている。」と言うでしょう。未信者でさえ、あなたを見て、「この人はクリスチャンだ。自分が語っていることがわかっている。これほど親切で優しくて、神のような人は見たことがない。」と言うようになるほどに、神の身丈に成長するのです。
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あなたは封印されました。封印は両面に施されています。だからあなたが行くにしても来るにしても、傍目から見ても同じ封印です。そうです。これを得た人たちのもとに、頭石が降りてきて、神の御国入国の封印がなされます。それは聖霊の働きです。すると、ここから来るみことばが、各自をとおして現われ出るようになります。そして完全な存在となった人たちは、生ける神の幕屋となり、キリスト教の生きた模範になります。
キリストのすべてが、この人たちにあります。キリストのいのちを宿しているからです。彼らはキリストのうちにあり、彼らの命は死んでいて、神によってキリストのうちに隠されています。そして聖霊によって封印されました。1コリント12です。そうです。あなたは自分が死んだことを認識します。それから信仰によって生まれ変わり、それから徳やこれらのものが付け加えられ、しまいには神の姿を十全に現す者となるのです。
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素晴しいではありませんか。それから神は、この構造に7つの教会時代を関連づけられました。7つの段階を踏んで各自が神の似姿に建て上げられていくことを表すためです。神は、ご自分の似姿になるよう教会を完全な姿に建てられました。そして復活の時に、この完全な体は、神と共に永遠に生きるために復活します。花嫁だからです。だからそれぞれの教会時代をそれぞれの段階に割り込ませているのです。そしてもっと要求されています。覚えていますか? パウロがヘブル書11章で言っていたことを。おしまいにする前にちょっとこの箇所を読ませてください。これを読むと、いつも不思議な気持ちになります。ヘブル11章です。32節から読みます。
このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。
彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、獅子の口をふさぎ、
火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。
女たちは、その死者たちをよみがえらせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。
なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。
あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、
(この世は彼らの住むところではなかった)、ー(ここに括弧書きで挿入語句が書かれているのです。) 荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。
神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
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わかりましたか? これらの人々は、わたしたちに望みを託して死んだのです。だからこの教会は、よみがえりを実現させるために完成されなければならないのです。祭壇の下にいる霊魂たちは、この教会が完成して、イエスが来られるのをするのを待ち続けています。そしてこの教会は、見てわかるように、どんどん規模が小さくなっていきます。ここに十字架の印を描きましたが、この部分は他よりずっと先がとんがって、針先のようになってきています。そしてこの少数規模の教会は、ここの部分が残した働きと同じ働きをするようになるまで成長します。頭石が来られるときには・・・
ここの部分には小さなくぼみがあって、定型のピラミッドのその部分にちょうど乗っかるようになっています。ただてっぺんにちょこんと乗るのではなく、フランジのようになっていて、しっかり定着するのです。ここで水を流さなければなりませんから。そして頭石がくるときには、この教会は研磨されなければなりません。
ピラミッドのすべての石は、何トンもあるのに、カミソリの刃を挟むこともできないほどしっかりと積み上がっています。どのようにして積み上げたのか、誰もわかりません。でもとにかく建てられたのです。そしてピラミッドであるキリストの体のこの上の部分においては、ピラミッドの頭石がくるとき、砥石で磨かれなければなりません。信条や教義やその他諸々だけが改められるのではありません。キリストの体は完璧にキリストに似たものとなり、キリストが来られるときには、キリストと体の働きがぴったりと合うのです。それから携挙があり、帰郷します。
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わたしたちがいる時代を見てください。ラオデキア時代です。教会が最悪状態にある時代です。この時代に限っては、神が、教会の外からノックをして中に入ろうとしていると聖書に書いてあります。信条やら教団やらが、ご自身の教会から神を追い出してしまったのです。「見よ、わたしは扉に立って、たたいている。もし飢え渇いている人がいて、ドアを開けるなら、わたしは入ってその人と共に食事をしよう。」神はこの教会時代におられます。教会は次第に神を締め出し、この時代に完全に追い出してしまったのです。彼らは神と関わりを持ちたくありません。
さて、わたしたちはどこに向かっているのでしょう。ラオデキア時代が終わりに近づいて、どんどん形式化しており、教会とカトリック教義(ここで別れたのですが)が、また歩みを共にするようになり、さらには一つの大きな教会へと結束していきます。教会連合です。カトリック教会と同じものです。
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両者にはひとつの違いしかありません。もしそれを克服したら、(それは聖餐式のことです)・・・。カトリックとプロテスタントが結束することを妨げている唯一のことは、聖餐式のあり方です。カトリック教会はそれを『ご聖体』と呼び、プロテスタント教会は、「それはキリストの体を記念するものだ」と言います。カトリックは聖体拝領を中心にミサをあげます。ミサとは、赦しが与えられることを望んで聖体拝領をすることです。プロテスタントは信仰によって、赦されたことを神に感謝して聖餐式をします。プロテスタントは、「わたしたちは赦された」と言い、カトリックは「わたしたちは赦されることを望んでいる」と言います。ミサと聖餐式の違いは、彼らがミサと言い、わたしたちが聖餐式と言い、ミサが希望をかけているのに対し、聖餐式は、すでに得ていることを神に感謝するのです。これが結束することを妨げる唯一のことです。
でも彼らはそれを成し遂げるでしょう。
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それはよいことのように見えるのです。彼らが一緒になって行動し・・・。聖書は、『これらの獣は淫婦に力を与えた』と記しています。わかりますか、彼らは結束したと言っているのです。彼らが今活動していることの結末を、聖書ははっきりと記しているのです。今週そのことが確定しました。わたしは何もカトリックの人たちを悪く言っているのではありません。ましてやプロテスタントの人たちも同様です。あなたがたメソジストやバプテスト、そして多くのペンテコステの人たち。あなたたちの教会が教会連盟に加盟したなら、ニューヨークに建てられた、教会連盟という強大な死体安置所に加わったなら、国連等の機構と変わらなくなるのです。彼らはすべてのプロテスタント主義を統一しようとしています。
さて、カトリックはこの点、上を行っています。彼らは教皇ヨハネ23世だとか22世だとかを持ち出して、実に謙虚そうで柔和な物腰で、すべてのプロテスタントの信仰とカトリックの信仰を一つのものにしようとしています。まさに聖書が、彼らがすると記したとおりのことをしているのです。
そしてプロテスタントはその釣り針、釣り糸、重りに引っかかります。なぜ? それは、彼らがこのことを備えていないからです。みことばは正しいという知識、そして「主を待ち望むものは・・・」とある忍耐です。言っていることがわかりますか?
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あの件が通過した後であのメソジストの司教が先日言っていたように。何があの件をを引き起こしたのかは誰もが知っていますが、学校で生徒がある祈りをしようとしたことです。その祈りとは、多分長老派の祈りの本か何かにあるものだったのでしょうが、とにかく学校がその祈りを認めなかったということで両親が学校を訴えました。このメソジストの司教は利口者でした。彼は立ち上がって言いました、「それは間違っている。憲法に反する行為だ。」彼はその場の流れをつかんで言いました、「わたしたちメソジストの教会にあるように・・・、わたしたちメソジストの教会では、多くの人がいつもハリウッドのスキャンダルを話題にしています。そしてどうしたものか95パーセントの人が上映を観に行きます。」どうなってしまったのですか? 彼らは離れたのです。まさに離反したのです。
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先日、フォールス市で一番大きなメソジスト教会の役員と、ここで話をしました。フォールス市で顕著な霊的メソジスト教会です。わたしたちペンテコステの時代のひと世代前のメソジスト時代を代表しています。彼が言うには、「ミズーリ州セントルイスで3~4か月前に統計をとったところ・・・、」その人は今朝ここに来て座っているかもしれませんね。彼は施工業者で、わたしたちの建物を手がけてくれています。彼はラム兄弟らが牧しているメインストリートメソジストに所属しています。それで、統計でわかったことは、70+パーセントのメソジストが・・・。セントルイスの統計によると70+パーセントのメソジストが喫煙し、68パーセントがアルコール類を飲んでいるのです。メソジストがですよ!
奇妙なことに、分析が示しているのは、男女間で、女性が、男性の約50パーセントに対して70+パーセントだと言うことです。男性より女性の方がより多く喫煙したり飲酒したりしているのです。70パーセント・・・70+パーセント、女性の用が男性より多いのです。
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さて、聖書の教えからショートパンツやショートカットなどの問題に及んだらどうなるでしょうか。冒涜です。女性は信心と聖さを公言していながら、トランプなどのパーティーでぺちゃくちゃおしゃべりし、自分の舌を制御できずにいます。あちこちで喋りまくっています。男性はどうでしょう。トランプパーティー、ゴルフなどに薄汚い服をだらしなく着て出かけるのです。そんな男性に女性がくっついて行くのです。無理もない!あの刑務所牧師が、着せられた汚い濡れ衣がわかりますか? そうです、私はあの人の無罪を信じます。彼らは何をしたのですか? 彼の名前が思いつきませんが、ああ、ダン・ギルバート、刑務所牧師です。男が押し込んで来てダンを殺害した時、数ヶ月前のことですが・・・そしていま彼の妻が妊娠しています。もちろんダンは死んでいます。今その赤ちゃんに輸血することはできません。彼女はダンから暴行を受けたといい、その子はダンの子だと言っています。カラスに鳩の羽が生えたというのと同様、わたしは彼女の言い分を信じません。とんでもない嘘です。わたしは、ダン・ギルバートは神の人であったと信じます。あれは悪魔の策略だと信じています。
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あの祈りの問題をうまく切り抜けたように。あのメソジストの司教は意思疎通をうまくやるやりました。もしあの件が通過していたら・・・あれは何か別のものに知恵を吹き込まれていたのです。そうです。ここ南部の人種分離政策も同じです。わたしは人は自由であるべきと信じます。この国は自由の上に成り立っていると信じます。ケネディ大統領が部隊を派遣したことを非難しませんが、わたしは『ニューディール政策に賛同するもの』ではありません。わたしは民主党員でも共和党員でもありません。わたしはクリスチャンです。でもわたしはあのことを信じません。
わたしは、黒人が自分の生得権をあんなことのためい売るようなことをしてはいけないと思います。あれは共和党が・・・。アブラハム・リンカーンの血が彼らを解放しました。彼は敬虔な人でした。もし投票するなら少しはその党に固執すべきではないかと思います。
でも一つだけ言います。あの少年がああいうことをしたのは、そこに学校があったからではありません。彼は市民であり、アメリカ人です。これはすべての人に与えられた自由です。人は肌の色を変えるべきではありません。神は言われました、「わたしたちは一人の人からでてあらゆる人種、あらゆる国となった。」わたしたちはみな一つなのです。
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でもあの少年は、兵士でした。彼は老練家でした。権利のために戦いました。彼には学校に行く権利があります。そうです。でも彼には入れる学校がたくさんあったのです。それが事実です。問題の裏を探れば、現代の教団的なものが影響しているのです。なぜなら、彼らは黒人の投票を共和党から民主党に٢>そうとしており、そのことで&[$❊たちの٪ح١o権を売り٤هしているからです。本当のことです。聖霊がここにおられ、「知恵のあるものは、知識のあるものは・・・・」そのとおりです。現代の教会が自分たちを身売りしているのと同じです。何が起こるのかわかりますか? この話が録音されていていようと構いません。そうです。いったいどうしたというのです?わたしの母は、よく言いました、「どんなに気にくわない人にでも、公平にしなさい。」
分別ある行動をとった人が一人いました。それは向こうの国のカストロです。そうです。そこでは資産家がサトウキビやあらゆるものを占有していました。アメリカと同じく金本位制だったのです。そこで彼は何をしましたか? 彼はあらゆる債券を買いまくり、何としてでも多くのお金を集めました。それからどうしたでしょう? 彼は貨幣を偽造し、それを市場に流通させたのです。その国にできる唯一の方法でした。
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先日の朝の『ライフライン』を聞きましたか? なんと、金を元にして債券を売るようなものです。債券はもう取り上げられています。そして現在の政府は何のお金を使っていますか? 今から40年も先に徴収する税金です。この国がしたことです。ワシントンD.C.から全州に渡る『ライフライン』がこれです。税金です。税金を使って外国の・・・。なんと彼らはそれを使い果たしています。彼らがしようとしていることがわかりませんか? それが何か見てみなさい。もしこの国が破産したら・・・。破産するしか道がないのです。この国にできることは破産することです。それが唯一、分別ある行動です。貨幣を変えることです。
でも彼らはそれをしません。現在の政府のもとでは、ローマ・カトリック教会が世界の金を所有しており、彼らがこれから何をするかといえば、それを売るのです。地上の金持ちなどの連中が何をすると聖書は言ってますか?彼らは失う前に・・・。ブラウン・アンド・ウイリアムソンたばこ会社(ほとんどがカトリックです)や他の連中が何をするでしょうか? 彼らはそれを受け入れて、ローマからお金をとるのです。それでこの国は、まさに生得権を売ることになるのです。ローマがこの国を支援します。ローマ教会の後ろ盾を受けることになるのです。
彼らはじゅうぶんに政策を練って、それを国会に持ち出そうとしています。ケネディ大統領が何を要求するか見ていなさい。
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先日のことを見たとき・・・。もはや投票する必要がなくなりました。投票してどうなるというのです? 彼らは新聞に載せ、事実を公にしたのです。全州の投票機械が、ケネディ氏を当選させるように操作されていたことが証明されたにもかかわらず、彼らはそれに対して何もしようとしないのです。彼はまやかし、いんちきによって現れると聖書は言っていませんか?わたしは民主党に反対しているのではありません。共和党も同じです。ただ、聖書から事実を述べているだけです。投票して何になるのです? 彼らはすでに当選結果を知っているのですから。
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あのテレビ中継を覚えていますか? 二人の女性が出ていました。プロテスタントの女性が、「わたしはケネディ氏に投票します。」と言いました。リポーターが、「なぜですか?」と聞くと、
「それは、彼がニクソン氏より賢い人物だと思うからです。彼の方がいい大統領になるでしょう。」と答えました。
それからリポーターが、「こちらの女性はカトリックです。あなたはどちらに投票しますか?」と尋ねました。
その女性は、「わたしはカトリック、ローマ・カトリックの忠実な信徒です。わたしはニクソン氏に投票します。」と言いました。
「なぜですか?」
「それは、ニクソン氏の方が良い大統領になると思うからです。彼のほうが経験に富んでいます。彼のほうが共産主義に精通しています。」この女性は嘘をつきました。
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わたしは、『わたしたちの信仰の事実』という最高のカトリックの本を持っています。これは買うことができます。そこにはこう書かれています、「カトリック信者が出馬してプロテスタントと競った場合、もしプロテスタントに投じるカトリック信者がいるなら、その者はカトリック教会から破門される。」そうです。そしてもし2人のカトリック信者が出馬するなら、どちらがカトリック教会に忠実か調べ、そちらの方に一票を投じなければならないのです。どのように偽っているかわかりますか? 彼らは何をしようとしているのでしょう? お金を使って・・・。なんと、彼らはこの国を倒そうとしているのです。それが彼らのしていることです。この国は破産しています。
どうして? この国が金本位制に則っているからです。カトリック教会(聖職階級制度)は世界中の黄金を所有しています。168億です。そうです。
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金本位制度に戻させるのです。人々は家などは維持しますが、カトリックに属することになります。国家がカトリック教会に属するようになります。すべてのことが、彼らの貨幣によって摂取されます。聖書はそのことを語っていないでしょうか? 聖書が描くとおりのことを、わたしたちはしていないでしょうか? 兄弟のみなさん、わたしが言おうとしていることは、今日彼らが、素晴らしい教会を作ろうとしてプロテスタント主義を統合しようとしていることです。それは肉の目には素晴らしく見えることでしょう。でもこの世の知識は神にとっては愚かなのです。神に喜ばれるのは、失われた魂を救うために宣教するという愚かな行為です。神は教会をこれらの霊的資質を用いて立ち上げるように命じられました。地上に属するものを用いて教会を建て上げよとは命じられませんでした。
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ペテロは言いました、「あなたがたは、世にある欲のために滅びることを免れたのです。金銭の欲から、成功をおさめる欲から、快楽や飲食などの欲から、その他あらゆる欲から、あなたがたは免れたのです。そして今や確かな生活の上に建てられています。わたしは教会にこのことを告げています。」そうです。これを読みましたか? 言っている意味がわかりましたか? 第2ペトロを読んだ時、これを聞きましたか? では、彼が言ったことを聞きましょう。なんと美しい文を彼は書いたことでしょう。なんと美しい語りかけでしょう。彼が言ったとおりのことを聞きましょう。いいですか。
イエス・キリストの僕また使徒であるシモンペテロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。(誰が地上すべてのものを受け継ぐのですか?)
また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、(よく聞いて!)世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。
イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり、救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、命と信心に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(誰が地上すべてのものを受け継ぐのですか?)
その栄光と徳によって、尊い、素晴らしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、(よく聞いて!)世にある欲のもたらす滅びから免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
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金銭の欲、有名になる欲、人気を勝ち取る欲求。信者は、これらのことから解放されています!わたしたちは気にしません。テントであろうが、小屋であろうが、どうして気にする必要があるでしょうか。生きようが死のうが、沈もうが溺死しようが。わたしが心にかけるのはこのことです。それは神の国です!自分の家を維持しようが、家庭を保とうが、なんでも維持しようが、そんなことより、わたしはキリストを保ちたいのです。キリストは栄光の希望です!主よ、わたしをキリストのうちに建て上げてください。キリストがわたしの頭となりますように。わたしの信仰はキリストのうちにあるという、わたしの土台を通して働いてくださいますように。徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛がわたしのうちに機能しますように。これが、主よ、わたしの祈りです。生きようが死のうが、沈もうが溺死しようが、教団だろうが非教団だろうが、友人だろうが友人でなかろうが、そんなことは気にしません。キリストの徳、キリストの知識がわたしのうちに流れ、これらのことを教えることができるようにしてください。神は教会に、使徒、預言者、教師、牧師、宣教師をお与えになりました。それは教会が、これらすべての徳を備えて、成熟し、来るべき神の子の完成へと導かれるためです。
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これらの石一つひとつは、そのための素材です。これが素材です。それぞれの徳はキリストに属しています。それらは彼らを通して、キリストから注ぎ出されています。アーメン!もう12時です。時間はどこに行ってしまったのでしょう。アーメン。神を愛しますか? 信じますか? 小さな群れよ、聞きなさい・・・
キッド姉妹が今朝、「ビル兄弟、もう会えなくなるかもしれませんね。」と言いました。そういうことを聞くのは、身を切られる思いがします。彼女はもう年取っていると思っています。実際そうです。姉妹とキッド兄弟の時を長らえてくださることを神に祈ります。ところでわたしたちは、これから先、どれほどお互いに顔をあわせることができるかは、わからないのです。わたしがこれから先どれほどみなさんと一緒にいられるかわかりません。神はわたしをこの世から取り去られるかもしれませんし、別の奉仕分野に導かれるかもしれません。神はあなたたちをどこかに導かれるかもしれません。わたしたちには、まだわからないのです。
でもしっかり獲得しましょう。これを逃してはいけません。獲得しましょう。聖書に書いてあります。聖書に典型やあらゆることが記されています。もしわたしに、そうする時間さえあれば・・・。それは一日でできることではありません。でも全体のことをしっかり結びつけて把握しましょう。見て、あの時あのメッセージを語り終えたあと、聖霊が壁に何をしたか見たでしょう。あの場にいた人が、今どれだけいますか? そうです。主の天使が降りてきて、同じことを描いたのです。
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そうです。本当のことです。見逃さないよう気をつけて。みんな、しっかり把握してください。よく覚えて、あなたの信仰の上に徳、知識、忍耐・・・を建て上げるのです。どこかに書いた紙があるはずなのですが、説教している間にどこかに落としてしまっていなければ・・あ、ありました。(ありがとうございます、兄弟)もしこれを見て、この中から何か可能性を見出したければ・・・。あなたがこれを見てスケッチしたなら、これよりもっとよい図になるかもしれません。ここに貼っておきますから、見て、スケッチしてください。
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さて、これを自分のものにしてください。それを調べて、比較して、そして実行してください。ただ調べたり比較するだけでは駄目です。その後で実行してください。真剣に取り組んで自分のものにしてください。「ああ、聞いて楽しかった。」これでは駄目です。私もそうでしたが、聞くだけと、受け入れることは違います。大きな違いがあります。神の身丈に成長するための7つの資質があります。この資質に成長するための7つの教会時代があります。そして神は、それを実行させるため7人の使者を送られました。7、7、7です。7は、完成を意味する神の数字です。3は、完全を意味します。ここに3つの7があります。だから数学的にも、みことばによって霊的にも、また、聖霊の証しによっても、そのすべてが完成して一緒になっています。160 さて、これを自分のものにしてください。それを調べて、比較して、そして実行してください。ただ調べたり比較するだけでは駄目です。その後で実行してください。真剣に取り組んで自分のものにしてください。「ああ、聞いて楽しかった。」これでは駄目です。私もそうでしたが、聞くだけと、受け入れることは違います。大きな違いがあります。
神の身丈に成長するための7つの資質があります。この資質に成長するための7つの教会時代があります。そして神は、それを実行させるため7人の使者を送られました。7、7、7です。7は、完成を意味する神の数字です。3は、完全を意味します。ここに3つの7があります。だから数学的にも、みことばによって霊的にも、また、聖霊の証しによっても、そのすべてが完成して一緒になっています。
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さあ、追求しましょう。これらのことをわたしたちの信仰に増し加えましょう。そして、キリストの身丈まで完全に成長するのです。神の愛によってお互いに結び合い、神への畏怖を持ち、互いに心から深く敬い合い、兄弟姉妹の愛を持って接し(決して野卑な思いを抱かず)、聖霊の清らかさのみによって生きるのです。共存し、キリスト者となりなさい。信仰によって歩みなさい。神の徳があなたを通して流れ出ますように。善悪を判断するとき、神の知識を基準とし・・・悪魔が何か反聖書的なことを送ってきたら、そこから立ち去りなさい。そうです。162
使徒たちは、わたしたちのような行動を決して取らなかったことと思います。彼らは多分、説教台に立つまでは寡黙でいました。入って行ってなすべきことをし、出て行きました。彼らには力がありました。徳も備えていました。彼らは人々と議論しませんでした。自分たちの立場を知っていたからです。彼らは自分たちの信じているお方を知っていました。ただ聖霊によって歩き続け・・・。先日の夜話したように、ちょっと頷くだけ、神はそれだけで済みました。それで、彼らを止めるものは何もありませんでした。彼らは疑問を持たず、受講せず、わたしたちのようにこうするべきかああするべきか心配しませんでした。彼らはとにかく出かけてなすべきことをしました。神はちょっと頷くだけでよかったのです。それで彼らは出て行ってなすべきことをしました。ただそれだけ。何も複雑なことはありませんでした。
なぜ、彼らはそれが神の頷きだとわかったのでしょう? 彼らにはこれらの徳と資質がすべて備わっていたからです。まず神がちょっと頷かれると、わずかばかりの兆候をみことばと照らし合わせ、それが神のことばであることがわかれば、すぐに出かけました。彼らに心配すべきことはありませんでした。神が語られれば、彼らは行きました。
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神が語られると、私たちは、「それなら始めようか。これをやり遂げることができるかやってみよう。」なんて言うでしょう。それから次に、誰かから煩わされるのです。確かです。それは悪魔です。今朝わたしがこの集会に来るために、悪魔からどれだけの引き止めを受けたか、あなたがたも見ればよかったと思います。あなたがたも一度経験すべきです。ああお慈悲を!集会のことを口にする度に、わたしには戦いがあります。もし病人や死にかけている罪人のために祈るために出かけようとするなら、10分の間に30回電話がかかってきます。(もしそんなに早く電話をとれるものなら)それはわたしを行かせなくするためです。「ねえ、ブラナム兄弟、あなたはこうするべきです。」そんなことより、ひとりの魂が危機に立たされているのです。
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このあいだの夜、ある若者のところに呼ばれました。わたしは何年か前にこの若者と、スーパーマーケットで話をしたことがありました。彼はアルコール中毒になっていました。彼はいい若者でした。でも罪人でした。彼の母親がわたしに電話をくれました。彼女は何度かドックに電話をし、ビリーに電話をかけ、やっとわたしに伝言を残したのでした。その伝言をわたしが受け取った時、神にかけて正直に言いますが、わたしはその若者のもとに行くために、これほど多くの戦いをしなければならないことは今までありませんでした。そしていざ彼のもとに行くと、かわいそうに彼はわたしがわからなくなっていました。彼は意識を失って横たわっていました。彼の父親が、彼を軽く叩いて言いました、「ねえ、おまえ」(彼は50歳くらいでした。いえ、51歳でした)「ねえ、おまえ。これ。」「そのままでいなさい。」彼は起きようとしましたが、彼の腕はこんなに大きくなっていました。その若者は全身ありとあらゆるところを癌に侵されて、癌の塊となっていました。内臓が全て癌に侵され、血管も癌に侵されていました。全てです。そんな彼が、体を起こそうとしました。
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わたしは彼の手を取って言いました、「ウッドロー、ウッドロー、わたしだ、ブラナム兄弟です。」彼の父親が、「わからないか? ブラナム兄弟だよ、ウッドロー。ブラナム兄弟だよ。」と言いました。
彼は、「うう、うう、ううっ」と、こんなふうに答えました。
彼の父親は、これを見て、「ビリー、来るのが少し遅かったようだね。」と言いました。
わたしは、「遅すぎることはない。神はここにおられます。わたしはここに来るまでに戦ってきたのです。」と言いました。そこには若者が(罪人の)何人か立っていました。皆、彼の親戚でした。わたしは彼らに、「わかるかい? 君たちも覚悟したほうがいいよ。君たちも必ずこんなふうになる時が来るからね。このように癌に侵されることはないかもしれない。他のことで最期を迎えるかもしれないが、ハイウェイで血まみれで死ぬとかなんとか、でもとにかく最期を迎えることになるんだ。」と話しました。
わたしは霊が語ってくださるのを待っていました。まず・・・わたしはわずかな頷きを感じました、「あなたの手を彼の上に乗せなさい。」
わたしは近寄って、言いました、「みんな、頭を下げて。」そこにいた皆が頭を下げました。(若い子も2~3人いました)わたしは手を彼の上に置き、言いました、「神なる主よ、この若者がこれからどうするのか知るために意識を回復してください。彼は今きちんと立ち向かわなければならないのです。彼は死にかけています。悪魔が彼をめちゃめちゃにし、彼は死のうとしています。彼は死ぬほど酒を浴びたのです。その結果このような状態に陥っています。神よあなたに祈ります。彼をあわれんでください。」わたしが彼のために祈ったとき・・・・次の朝、彼はちゃんと座って父親と会話していました。
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バスティ・ロジャーズ、ちょっと前にわたしが病院に呼ばれた時・・・。わたしは、ハミルトンで説教した次の日そこにいました。あのジョージー・カーターが癒されたのがミルトンです。みなさん覚えていますね。そこにはスミス兄弟がいましたが、そこで、あるメソジストの説教師がこんなふうに言いました、「もしイエス・キリストの名によって洗礼を受けた者が、このわたしのテントの中にいるなら、今すぐ出て行きなさい。」トッテンスフォードで集会を行っていたのです。ああ、あらゆる知恵を絞って、わたしを非難するがいい。わたしはひと言も言いませんでした。ただ黙々と続けました。
わたしには使命があったのです。主がまぼろしで、そこの原野の中に、一匹の羊が引っかかっていることを告げられたのです。みなさん全員、そのまぼろしを覚えていますね。覚えていることと思います。覚えていますか?
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そうです。それからわたしは原野を通って狩りに出かけたのです。わたしはトッテンスフォードに行きました。ライト兄弟がそのことを知っています。わたしたちは何をすればいいかわからずにそこに行きました。そこで10セントで石鹸箱を買いました。その上に乗って説教をするためです。彼が、商売をするために丘の上に行くと言いましたので、わたしもついて行きました。そこに古い大きなバプテスト教会が立っていました。中は空っぽでした。主がわたしに、「そこにいなさい。」と言われました。
そこでわたしは、ライト兄弟に、「わたしはここにいます。」と告げて、とどまりました。彼は自分の用事をしに行って、また戻ってきました。教会の扉を開けることができませんでしたので、こう言いました。「主よ、もしあなたが関わっておられ、わたしたちにこの教会に入ることを望んでおられるなら、どうかこのドアを開けてください。」ドアの前に座って考え事をしていました。
誰かが近づいてくる音がし、わたしの前に来て、「こんにちは。」と言いました。
彼は、「教会に入りたいのですか?」と、わたしに聞きました。
「はい、そうです。」
「わたしは鍵を持っていますよ。」
それから集会を始めました。最初の週はほとんど何もありませんでした。最初の晩そこにいたのは、ライト兄弟とその家族でした。それからなんとまあ、その週の終わりには、庭にも立っていられないほどになっていました。それでもあの羊は現れませんでした。あの集会の中でホール兄弟は救われ、今ではそこの牧師をしています。でも、あの羊がどこにいるのかはわかりませんでした。
しばらくして、丘のふもとで、9歳の女の子が、動けずに寝たきりでいるのがわかりました。彼女はチャーチ・オブ・クライストに属する家庭の子でした。やっと羊を見つけたのです。みなさんこの話を覚えていますね。
168
そうです。あの午後、わたしはバスティ・ロジャーズ(体格が大きい、ガッチリした退役兵士です。)と一緒に出かけました。そこにはスミス兄弟の教会員たちがいて、わたしたちがイエス・キリストの名によって洗礼を行うのを馬鹿にして笑っていました。
わたしはトッテンスフォードの濁った水の中に入りました。そこには小川があり、轟々と音を立てて流れていたのです。2人の執事がわたしと一緒にいてくれました。わたしは言いました、「わたしはこの午後、神の聖なる書物を代表してここに立っています。」続けて言いました、「聖書から、ペトロが語った言葉を読みます。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。』」
わたしは振り返って、執事の一人に聖書を渡し、言いました、「誰でも、自分の罪を悔い改めたい者は、来なさい。」水の中で待ちました。そして言いました、「天使があちこちにいて、この様子を注視しているようです。」
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それからなんと! わたしが2~3人に洗礼を施していた後に、彼のところの教会員すべてが、甲高い声をあげて水に入りました。その中には高価なシルクのドレスを来た女性たちもいました。わたしは、彼のところの教会員全員に、イエス・キリストの名によって洗礼を授けたのです!みなさん知っていますね。その時の写真もあります。それはいったいどういうことだったのでしょう? あなたの・・・徳を加えなさい。それだけです。神は何をすべきかご存知なのです。神はどのようにしたらこれらのことが起こるかご存知なのです。反対者には言いたいことを言わせておきましょう。いずれにせよ、変わりありません。黙々とやり続けるだけです。
バスティ・ロジャーズは、この一部始終を見て言いました、「こうなったら、俺も心から信じるぞ。」そして、いい服を着たまま水に入りました。イエス・キリストの名によって洗礼を受けるために。
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3~4年くらい前にここニューアルバニーの病院に呼び出されました。ロジャーズが癌に侵されて危篤だったのです。医者は彼の命が明日の朝までだと言いました。「彼は死にかけている、すぐに来なさい。」と言われたのです。病室に入って立ったまま祈りました。彼が言いました、「ビリー、あそこの隅の方で虹が回っているのが見えるんだ。」
わたしは振り向いて、見て、言いました、「バスティ、それは契約のしるしですよ。あなたは死にません。キリストの血の契約があなたを救ったんですよ。」わたしは彼の上に手を置いて、「神なる主よ、あのまぼろしによって、あなたがここにおられることを証明してくださいました。あなたの契約とは、あなたが打たれた傷によってわたしたちは癒されたことです。」彼の上に手を置くと、彼は回復しました。彼は退院して家に帰りました。
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4~5年前には・・・4年くらい前でしたか・・・川を行ったり来たりして釣りをしていました。癌が食道を侵していて・・・胃が硬くなっていたそうです。大きな硬いこぶになっていました。病院で経験豊富な医師が、コバルト治療をしてそれを伸ばして、一度にもっと多くの食べ物を取り入れることができるようにすると、彼に伝えました。彼は食べるのに苦労して、とてもゆっくりとでないと食事できなかったのです。彼はその治療を受けました。わたしは彼が病院にいることを知りませんでした。手術中にけいれんが起き、彼は卒中を起こして、こんなふうに体の半分が麻痺してしまいました。彼にできたのは、半分で泣くことでした。彼は鉛筆をこんなふうにして良い方の手で持ち、「あふ、あふ、あふ」とフラフラしながら書きました。彼の左半分が麻痺したのです。彼の手は・・・「イエス 救う 900と なんとか」最後まで書くことができませんでした。
それで彼の妻がわたしに、「ブラナム兄弟、彼は何て言いたかったのでしょうね。」と聞きました。「ロジャーズ夫人、彼が言いたかったのは、彼は900と何匹目かで救われて、イエスの名によって洗礼を受けた。それで支払いが済んだので、死ぬことは怖くないということですよ。」
わたしは、「神なる主よ、彼の命を取り上げないでください。彼の命を取り上げないことをイエスの名によってお願いします。」と言って、それから彼の上に手を置きました。すると卒中がなくなって、けいれんが治りました。彼はベッドから起き上がり、今でもそのことを証ししています。
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あなたの信仰に徳を加えなさい。あなたの徳に知識を、あなたの知識に節制を、あなたの節制に忍耐を、あなたの忍耐に敬虔を、あなたの信心に兄弟愛を、あなたの兄弟愛に聖霊を加えなさい。それからキリストが来られます。キリストのちょうど下に聖霊がおられ、この霊はイエス・キリストの霊であって教会におられ、これらの徳を備えさせてくださるのです。 (あれまあ、12時15分になってしまいました。)
愛します。愛します。
彼が先に愛してくださったから(わたしがなんでもなかったその前から)
そしてわたしのために救いを(どうした?)買い取ってくださった。
カルバリの木の上で。
(どうして今のわたしがいるのでしょう。彼が先に愛してくださったからです。)
愛します。愛します。
彼が先に愛してくださったから(これが理由)
そしてわたしのために救いを買い取ってくださった。
カルバリの木の上で
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この朝、神の助けと恵みによって、神に心から誓います。これらの要素がすべてこの如拙な者に行き渡ったと思うまで、また、わたしが生けるキリストを現す者となることができるまで、わたしは祈り、止むことなく求め続けます。キリストが、わたしのような罪人になってくださり、わたしが、キリストのような神の義となることができるようにしてくださったからです。彼はわたしの立場を担い、わたしが彼の立場を受けることができるようにしてくださいました。それが十字架の死の目的だったからです。神の恵みによって、どれだけの人が同じ誓いをしますか? 頭を下げて手をあげて、
愛します・・・(主よ、誓います。この教会の誓いです。イエス・キリストの完全な背丈に成長することです。)
彼が先に愛してくださったから、
そしてわたしのために救いを買い取ってくださった。
カルバリの木の上で。