65-0410 イースターの封印

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックス
  • 録音番号:65-0410
  • 年:1965
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今朝ここフェニックスで、全福音ビジネスマンのチャプターの誕生日として参加できるたという事は、そして主がこの交わりに加わる機会を与えられたことを知っていることは確かに特権です。カール・ウィリアムズ兄弟と彼の妻、ストロメイ兄弟、そして演台におられる他の方々、ショアーズ兄弟、アウトロー兄弟、ミニスター達、そして素晴らしいあなた方全員に挨拶させていただきます。
ご存知のように私も先週誕生日を迎えました、そして、まさにそのチャプターよりほんの少し年上です。彼がそのチャプターは5年だと言ったと思います。
先日、誰かが言っていました、「あなたは何歳ですか、ブラナム兄弟?」
私は「26歳です。」と言いました、「最初の25年間はかき消されています。私はその時代にはあまりよく主に仕えていませんでした」。と言いました、「彼にもそうしてほしい。」彼(神)にそうしてもらうのは異なったことになるでしょう。
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しかし、ここに居られるのは良いです。
そして今、あなた方の時間を多くをとりたくはありません、なぜならこれらのすばらしい証しや起こっていることのいくつか、そして歌を聞きます。そして、追加できるものがあれば、追加したいと思っていますのでなにかそれゆえにごちゃごちゃにしたくないのです。
今朝その歌を歌ったあの兄弟、黒人の兄弟、私はとてもそれを感謝しています。「雀の上にさえ注がれる神の目(歌のタイトル)」そして、この歌を歌ったこれらの姉妹。私が初めてここに来た時から、それは私の助けの一つでした。私はレコードでそれを手に入れて、そして、それを演奏しました、「彼と共にそれについて話をしたい〔歌のタイトル)」。私の友人であるドーソンラリー兄弟にそこで尋ねました。彼らのうちの何人かが、まだこの世にいるのであれば、今朝再びあの曲を歌ってくれるようにお願いしてもらう事を尋ねたのです。テリーが理解してくれたと望んでいます。私は彼がしたと思います。本当にその曲が好きなので、そこからレコードか何かに多分それを取りたいのです。それについて彼と話し合うことは私の願いです。我々全員がそうしたいと思います。だからこそ我々は皆今朝ここにいるのです。
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次の予定の集会は今週開催されます(お知らせして大丈夫ですか?)今週のイースター礼拝の為に土曜日の夜、日曜日、そして日曜日の夜の幕屋に帰ってきます。それから私はカリフォルニアに戻ります。カリフォルニア各地のすべての皆さん、そこでの集会であなた方に会えることを嬉しく思っています。ビリーが間違った広告を出したと思います。彼はビルトモアホテルだと言ったのですがそれが予定でしたが、彼らは得られませんでした。それはエンバシーホテルで行われることになります。もしあなた方がその道を外れるなら、向こうにいるすべての福音派の人々に知らせるでしょう。
そうすれば我々はそこから戻ってきて、そして私はその時南アフリカに行きます。今日からたった1ヵ月後、我々は南アフリカへ向かって航海し、そこから3カ国程の国々で主にある素晴らしい時を過ごすことを期待し予定しています。それ故あなた方の祈りが間違いなく必要となりますのでお祈りください。私が戻ってくるまで、出かける事を主が引き続きお望みであるならばしばらく皆さんに会えないと思われます。我々が帰国した際に素晴らしい報告がある事を期待しています。
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前回そこで、主は今まで最高の出会いを下さったと思います。アルタコールの際に一度、これは「現地の人々皆」の中から、私が知る限りでは、一度に3万人がキリストを受け入れました。そして我々は多分それらが肉体的な癒しの事だろうと考えていましたというのは2万5千人が一度に癒されたからです。そして翌日、ダーバン市長であるシドニースミスは、「窓に行って、通りを下っているものを見てください」と言いました。そしてまさに古い松葉杖などの物が山積みになってただ積み重なっていました。彼らは原住民の背後から(互いに戦っていた)、街の通りを下って来て、彼らの母国語で「Only Believe」を歌っていました。
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この様な喜びとスリルを分け合います…そのようなことを見たとき、ショアーズ兄弟、あなたの仕事が無駄ではないと感じますよね、あなたはやる事をやっていたわけだから。
神が再びそれを繰り返すことを願っています。我々がそこに行こうとしているからだけでなく、主の再来を期待しているからです。その歌の様に、我々はその失われた小さな羊たちを探しています。彼はその羊が入ってくるまでは帰っては来られないでしょう。その囲いの中にみんなが入らなければならないのです。それで、最後の一人が入るまで彼はドアを閉める事はありません。
さて牧師である兄弟たち、私は今朝あなた方と一緒に最後の羊を見つける努力をしていると確信しています。それは今朝の一人フェニックスにいるかもしれません。わかりませんが、最後の一人が入ると、羊飼いがその扉を閉めるのです。[誰かが、「ブラナム兄弟、一言よろしいでしょうか?とそして何かについて話し始めて通知する事を忘れていました]
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これから言う事について書き留めるべきなのは私なのです。と言うのも、年をとるにつれて覚えるのが難しくなっているのを感じていて、聖句などをちゃんと書いて置いています。以前は、50くらいのお聖句をちゃんと覚えて間違う事もなかったのに、最近は多くの事を覚えるのがむつかしくなっています。
つまり我々は主の再臨を待っているのです。主があなた方全員を祝福されますように。ここで起きて…ここに座り、これらの人々が証しするのを聞いて、そして「さて私は起きる時何かを言うべきである」と考えるでしょう。そして言うべきことがたくさんあり、あなたはそれを一日中いう事になるでしょう。しかし、間違いなく皆さん全員に感謝しています。このこの小さなグループがただ成長し続ける事でしょう。フェニックスのすべての教会がイエス様が戻られるまで引き続き成長し続ける様にと心から祈ります。さて、少し休止を取ったから、祈りの間立っていただいてもよろしいでしょうか?
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全知全能神である、我々の主イエスキリストのお父様、彼を死から生き返らせ、贖いの犠牲として彼を我々にお与えになり、主としまたスく主とされた方、我々は今朝、あなたの御前に立ち救われたあなたの人々として立つため、又この特権に感謝し、彼自身が我々を受け入れるための輝かしい再来を待ち望んでいるのです。
主よ、我々の間に罪があるのなら、あなたのヒソプで清めてください。そして天のお父様あなたが我々の中にいる全ての病人を癒してくださるように祈ります。そしてもしこの偉大な聖霊のバプテスマの中であなたを知らない人々がいるのであれば、主よ心からそれについてお願いがあります、神よ、この終わりの日の聖句によれば、それは「絶対」であると書かれています。我々は祈ります、神様、彼が今日も我々の上にやってきて、この教会の中に新たにバプテスマを施して、外にいる人たちも連れて来てください、天のお父様。
あなたの御言葉を読み、それが御言葉の真実であることを話すように努めるがゆえに祝福してください。偽りの口を閉ざし真実であることに我々の心と口を開いてください。あなたの真理を話すために口を使い、聞くために耳を使い、受け取る心として用いてください。それをイエスの御名によってお祈りし求めますそれがその通りになりますように。アーメン。
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聖書から3か所の聖句を読みたいと思っています。あなた方がこれらに印を付けて、さらなる情報のためにそれらを読み進めるために、それらに印を付けてくれればとてもうれしいです。これから読むところは、マタイによる福音書第28章1-10節、そして黙示録第1章17-18節、そしてローマ人への手紙第8章11節です。
さて、我々はイースターに近づいていて、そして、あなた方はその箇所を見つけて印をつけていますね、次の週は間を通して最も歴史的な週であると思います。今週に祝う最も素晴らしいこと、来たる週はこれまでに地上で起こった最大の出来事であったと思います。私は他の何かがそれを上回ることができるとは思いません。「さて十字架は素晴らしい事だった。」とあなた方は言う。しかし、多くの人々が亡くなりました。我々の主と同じ時代にも、多くの人が十字架にかけられました。しかし、死者からよみがえったのは一人だけでした。それは封印されました。
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さて読み始めたいです。これはイースター前のメッセージのような感じの物です、主によって約40分くらいの予定です。さて、マタイによる福音書、第28章から読み始めましょう。
さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
その姿は稲妻のように輝き、その衣は雪のように真白であった。
見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
この御使は女たちに向かって言った、「恐れることはない。あなた方が十字架におかかりになったイエスを捜していることは、私にわかっているが、
もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、蘇られたのである。
さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう。』あなた方に、これだけ言っておく」。
そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスの御足をいだいて拝した。
そのとき、イエスは彼らに言われた、恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
(マタイによる福音書第28章1-10節 口語訳[翻訳者])
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黙示録の最初の章の17節と18節。
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である、アーメン。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。」(ヨハネの黙示録第1章17-18節 口語訳[翻訳者])
ローマ人への手紙、第8章と第11節で始まる:
もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
(ローマ人への手紙第8章11節 口語訳[翻訳者])
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さて、私は主イエスがこれらの御言葉を読むことに彼の祝福が加えられると信頼しています。
イースターを見ている中で。。。。それを私自身の心の中で最も偉大な集会として、または年最大の出来事として決めています。(ちょっと私にお時間を頂きたいのです、あなた方には轟音のようなものではありませんでした?大丈夫ですか?そのように聞けましたか?大丈夫ですか?あなた方はそれを聞けなかった。良くなりましたか?大丈夫でしょうか?皆さんに近すぎないようにあってほしかったのです。)
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それでは、そのイースターで彼が聖書で言われたことを証ししたいがゆえにこのことを言うのです。彼が行うことを記したすべての聖句は、彼が死から復活したとき、彼は救い主として封印されたのです。イースターの封印。
今日はかなりたくさんの事あります。我々がイースターの封印を得る事ことについて話します。さて、私は今朝イースターの封印について話したいと思います。
それは我々がお金で買うものとは異なる封印で、結核協会、または彼らがそう呼ぶものは何でも行くための手紙を閉じる封印のような物とは、この封印は少し違う封印なのです。そして、イースターは神の子供であると主張する我々クリスチャンにとってその年の内の素晴らしい日であるので、私はそれに入り込んで、キリストが我々のためにしたこの偉大なこととどう交わるべきかを見たいと思います。
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神の御言葉で、彼が来る前に、十字架上での、死、苦しみ、そしてまた復活について、何百年も前に語られました。来週、我々のラジオ番組を聴くとき、そして我々の牧師たちと一緒に、教会で、おそらくこれらの礼拝を経験することになります。しかし、毎日一日中、そしてイエスがしたすべてのこと…そして、神の御言葉の記述とそれが成就されるためにされたことのすべてを確かに感謝します。病を癒し、死者を蘇られせ、悪魔を追い出し、貧しい者たちに福音を説き、神が来られた時にやると言われた、そしてすべての御言葉を成就するためにされました。それから我々の代わりに我々の罪のために苦しまれたのは、彼以外に出来る事ではないのです、十字架上での我々の罪のためにです、それは預言の成就なのです
しかし、それ以上に、私はイースターが全てを封印したと思います。
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彼の前に預言した預言者が地上にいたからです。病人を癒し、死者を蘇らせ、イエスがされたのと同じ業をしたのですが、イースターがそれを証明したのです。
それは真の信者のために永遠に神が御言葉を封印されたのでした。あの至福の朝には、すべての暗闇と疑問がぶっ潰されたのです。その様に、今日まで、刑務所の中の様に、宗教的な人々に対してさえも、閉められていました。彼らが大きな宗教的な動きや聖霊の移動などを見たからですが、ある人が死んだときにはそれを解決したようです。しかし、これがやって来て言いました「私には人生を据え置く力があり、またそれを取り戻す力がある」、それから彼が言ったことを証しに行き、それこそが封印されているのですと。何かが言われたとき、そしてそれは向きを変えて証明されたのです。
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もしある人が、コロンブスの様に、地球が丸い都心ていて、そして船が動くのを見ていて(我々が教えられてきたように)その様に入ってきて、その帆が前に行くのを見たならば。それが彼が世界は丸いという事を証明したことになります。人々はその時代にそれを信じてはいませんでしたが、彼はビジョンのある人でした。彼は真理であることのビジョンを証明するために動いたのです。そして神は彼の尊が真理であることを証明する事が目的でした。それを可能にすることが出来た唯一の人は、イエス様でした、彼はそれが真理であることを証明するために来たのです。
 それは封印されました。他の宗教の迷信的なすべての物を締め切り散らしたのです、その場所には、素晴らしい人々が居て、立ち上がらせ、又素晴らしい事をしていたのです。しかし彼らは今皆墓の中にいます。しかし我々キリスト教だけが唯一空の墓を持っているのです。そして彼こそが死んだ者と生きて居る物両方の神であることを証明しています。彼は死んだ人を蘇らせることが可能なのです。この力を持ち、彼の霊によって長年に渡って証明されているのです。彼だけが死んだ人を蘇らせることの出来る方です。
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彼の約束によって、彼が持っていたこの大きな力を復活の時に証しした時、彼が死、地獄、そして墓を征服できることを証明しました。「また、生きているものである。わたしは死んだことはあるが、みよ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎをもっている。」(黙示録第1章18節 口語訳[翻訳者]) 誰にでも言えることです! 彼はそれを成し遂げただけでなく、彼が持っていると主張したものを持っていたことをすでに証ししました。
私が思うに、「神は、この聖書を信じるクリスチャンとして、我々が話していることを証しできる日を早めたのです。」それがその理由で、しばらく前に言われたように、それは地の塩を作り出すものです。その姉妹は言いました、「そうです。世はこの塩を探しているのです」。そして我々の生き方と聖書によって証明することができるとき、我々の生活はその御言葉が今日生きていることを立証しています。それが…我々が探している時代なのです。
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御言葉…「この御霊」、ローマ人への手紙第8章11節が語っています、「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、…あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
(ローマ人への手紙第8章11節 口語訳抜粋) 彼は、自分がエホバ - 贖い主であり、死、地獄、そして墓をも支配する力を持っていることを我々に証ししただけでなく、我々自身も我々自身が同じ御霊にアクセスするし強められるというできるという保証を与えてくれました。なぜなら、イエスを死からよみがえらせた御霊があなたの体に宿るから、それはまたあなた方の肉体的な体をも蘇らせるでしょう。
今や「蘇る」という言葉は、「死んだ後に生き返る」という意味です。それは詩であり、それは力を入れられ蘇らせられるのです。
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それが証しされるまで、世は長年にわたって疑っていたので黙らされていました。それについて話されただけでなく、証明されたのです。私は何か価値があるもとと思っています。
イエスが言われたように、「あなたがたはそのために行って、すべての国を教え、彼らに神の力を示すことによって彼らに証ししなさい。信じる者にはこのような印が伴うであろう。」約束されているそれらを信じると言う者は、これらのしるしが信じる者に伴うということを、彼は我々にそれについての明確な理解を与え、それこそが彼らの証の証明となるのです
さて、我々は信じると言うことができますが、それが我々の上にあると彼が言われたという証しされたしるしがあるまで、それなら我々は、ただ信者であると告白しているだけで、信者の持ち物として持っているわけではありません。
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忘れないために…数日前、私はツーソンでカイラのラジオ番組を聴いていました、そしてこの牧師は我々に反対の立場をとっていました。ペンテコステ派の宗教はただの偽物でしかなかった、それを聞いていないのであれば、それは不安定でした。そして、異言を話す人、そしてこれらのことを言って、病人を癒すなどと祈って、そこから立ち去り、衰弱した貧しい人々のために幻想を抱いていたので祈りました、彼らに何か問題がありました。ああ、ほんの少しの間その兄弟と話がしたいと思いました!
彼はそれがペンテコステの時代の使徒たちにのみ与えられたものであり、それで終わっているのだと言いました。30年後、パウロはこれらの賜物を教会に定めています、コリント人への手紙第15章であったと思います。彼は異言を語ること、奇跡、そしてその他のこれらすべての賜物をその教会に設定したのです。
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イエス様は言われました、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコによる福音書第16章15節 口語訳)
「どこまで?」全世界に。
「誰に?」すべての作られたものに。彼らはまだそれを受け取ったことがない。
信じる者には、このような印が伴う。」(マルコによる福音書第16章17節 口語訳[翻訳者])
「どのくらいの間」全世界に伝わるまで。
「だれに?」すべての生き物。これらの印は全世界、そしてすべての造られたものに対して伴うのです。
信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。(マルコによる福音書第16章17-18節口語訳) それが教会への彼の最後の任務でした。マルコによる福音書、第16章。
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パウロは、30年後にこれらの賜物を教会に対して任命したのです、ガラテヤ人への手紙第1章8節「しかし、たとえ我々自身であれ、御使であれ、我々が宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら[わかりますか、すでに説教されてきている]、その人は呪われるべきである。」(口語訳)
私はペンテコステが終わりを告げずに始まったと信じています。ペンテコステが常に残るべきであり、ペンテコステの祝福は人々にあるべきというとは、すべての被造物にとって、すべての時間において、すべての場所においてのことであると信じています。
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さて、このペンテコステの祝福とは何ですか?それは復活の確証なのです。
福音そのものが「良いたより」を意味するのも不思議ではありません。何の良い知らせですか?彼は死から復活しました。「そして、私は生きているので、あなたも生きています。」かつて死んでいたあなたがたは、罪と罪を犯し死んでいて、神はその御霊によってイエスを死から蘇らせ、我々は彼と一緒に天的な場所に今一緒に座って、一緒に親しく交わり、彼と語り合います。それが真理であると信じるその話を伝えるのはなんという喜びでしょう。
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今日起こっていることについて疑問に思っています。我々は本当に人々を神に導いているのか、それとも単に彼らを教会に導いているのか?我々は彼らを蘇らせる力があるキリストに連れて行かなければなりません。確かに教会に行くのはいいことです。それを我々が行っている限りでは、十分ではありません。あなたが教会に来るとき、それは良いことです。しかし、教会からキリストに進みなさい。なぜなら、我々がそのような一般的な復活を遂げることを期待するならば、我々はこの蘇らせる力を受けなければならないからでし「もし、イエスを死人の中から蘇らせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ人への手紙第8章11節 口語訳[翻訳者]) 我々にとってなんという約束でしょう!
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この復活の本質は、イエスが死からよみがえられたことを伝え、示し、証しすることです。彼は死んでいません。彼は生きています。彼はここに住んでいます。彼は我々の中にいます。「私はあなたと共に、あなたの中にもいるでしょう。しばらくすると、世界はもう私を見ません。それでも、あなたがたの中に、あなたの中に、私は世界の終わりまで一緒にいるのです。」
今、クリスチャンとして、我々は皆、彼の御霊によって死から命へと蘇られたので、彼が生きていると主張しています。そして、我々が蘇らなければ、我々は生かせられていません。
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さて、我々はこの主題に立ち入り、主のご意志で、そして数分間いくつかの種類の教えを、それをどのように、我々は蘇り、蘇らされ、そしてそれが真実であることを確信できるでしょうか?
今、これはあなた方自身の命です。これは私の命です。それがその場所です…。もしこれが真実でなければ、私が言おうと決心していること、それから私は世界で最も愚かな人々の一人です。私にはなにもすることがない何かのために私の命を与えたので、あなた方は持っています。しかし、もしそれが真実ならば、自分自身であるすべてのものを負っています。そして我々は熱意を失うべきではないと思います。
イースターが近づいているのを見ると、それは私の中で何かをしているだけです。それは、そのことが神の目の前で永遠に封印された日であることを知っているからです。
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今、墓から彼を引き上げたのと同じ御霊が我々の中にあることに気づいています。さてどのようにされたのでしょう?我々の内に住む死から、神であるイエスを蘇らせた御霊です。さあ、それに力を与える御霊です。力を施すのは御言葉ではありません。それは御言葉に力を与え、御言葉に命を与え、飛ばすための羽を与え、アクセスを与えるのです。それをするのは御霊です。
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さて、小麦は単なる小麦なのですが、蘇りの向上のための命がその小麦の中に入ると、それによって命が与えられます。そして、我々はかつて死んでいた、神の像の中で造られましたが、罪を犯しその中で死んでいたのです。神がこの蘇るあなた方の死体に取り入れなければならないといういくつかのやり方があります。
今、あなた方体について話しています。イエスは御言葉でした。あなたはそれを信じますよね?「はじめに[ヨハネによる福音書第1章]、初めに言があった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。そしてその御言葉は肉体をとられ、我々の中に住まわれた。」
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さて、約束された救い主として、彼は自分がするであろうと予言されていた御言葉をすべて行われました。病人を癒し、そして処女から生まれる事、そのような事すべてを現実にされたのです。彼はここ地上に現れた御言葉でした、しかし、彼はこれをただ人として行うことはできませんでした。これらの約束を彼させるためにはに彼の内に住んでいる神の御霊が必要だったのです。
今これが本当の意味で明確になることを願っています。イエスは、人であり、肉体がありますが、それは彼の内に住む御霊が必要だったのですー御霊。「御仕事をするのは私ではなく、私の中に住む私の父のされることです。彼はその仕事をされるのです。」イエスご自身は御言葉であったのは…神様の御前で…これは使うには悪い言葉です、そしてあなた方が群衆の前でそれを正しく使うことを私は願っていますが、彼は神のあらかじめ定められた神の予知によって、神の救い主が贈られるというご計画がそのようになった様子や、そしてこの救い主は彼自身の御子ご自身しかありえないという事でした。
それはエデンの園からの神の約束であり、イエス様はここにおられたのでしょう。
さてここのおられたのは彼です、処女から生まれた人でした、しかしそれは神のその御言葉が働くために神の御霊が必要だったのです。そして彼は御言葉を施されています。その時代の為に御言葉が動かれたのです。
あなた方が救い主を持たなければならない時が来ました。律法は失敗しました。他のことは失敗しました。さて、それには救い主を必要とします、そして彼は約束された救い主でした。彼は神の御言葉によって蘇られたのでした。
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さて、その時代に彼が救い主となったのと同じ御霊を、我々が受け入れたのであれば…さて、その約束と同様に、この終わりの時に、何が起こるか、もしあなた方がその御言葉の一部になるならば彼に救われているのです。なぜなら、キリストに住んでいたのと同じ御霊があなたの中に住んでいて、あなたの命をこの時代に蘇らせるからなのです。そしてそれはまた、終わりの時代に、死ぬべき運命の体を蘇らせ、彼等を復活させ、そして再び齎すのです。そのように見たとき、それは暗がりを取り除きます、それこそが真理なのです。
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ここローマ人への手紙でパウロは我々にそれを証明したのです。「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ人への手紙第8章11節口語訳)これは、真の信者を永遠の命に至らせるために彼を育てたのと同じ御霊です。イエスを死から蘇らせた御霊が信仰者の中に宿り、信仰者を永遠の命へと蘇らせます。
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ただ一つの命、一つの永遠の御霊、一つの永遠の命があり、それが神です。神だけが永遠です。そして我々は、彼の子供であり、彼の一部、つまり彼の思考の属性です。考えが表現され、言葉になります。それから、この永遠の命を持っているここにいる各個人は、神の思考において世の創造前にいました。
あなた方の属性なので、それが唯一の可能性の道なのです。それは思考の表現が言葉になっており、言葉が命を取り、それは永遠です。それは我々が永遠の命を持っている理由です。救い主である神の偉大な御子と同じ理念なのです。我々は同じ御霊を通して、同じ神の予知によって神の息子と娘になるのです。
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イエスがここにおられたときに受けていなかった地上の何百万人もの人々を見てください。しかし、今朝この素晴らしいイースターの朝、我々がこの素晴らしいイースターに含まれているという直接的な証拠と聖書の証しがあることを知っている事を、感謝すべきです。我々の死ぬべき運命の体によって、今真剣に取り組んでいるのです。聖霊が自分自身を主張するようになったとき、あらかじめ定められている者が、もちろん、最初に蘇る者たちなのです。
さて、素晴らしい声明があります。牧師である兄弟たちにもこれを理解してもらいたいです。初めに、神、偉大な御霊…彼はその時神でさえなかった。彼は永遠のものでした。神というのは崇拝の対象です。彼には彼を崇拝するものが何もなかった。御使も、おらず、ただ神だけだったのです。彼だけが永遠でした。しかし、神になるためには、崇拝するものが何かがなければなりませんでした。それで、彼は、彼を崇拝するために、御使、人間、そしてケルビムなどを創られた。彼のすばらしい計画は繰り広げられ始めました。
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しかし、覚えておいてください、今朝あなた方がいる立場で、もし彼の考えにいなかったなら、今ここにはいないでしょう。あなた方には永遠の部分があります。そして永遠のものは神のみに属しています。
神は、あなた方が立っている場所について考えています。彼の考えでは、私は今朝、説教壇に立ちました。彼は無限であり、すべてのことを知っているからです。それゆえに彼は永遠であるので最初から終わりを告げることができました。そして、あなた方は、神の子または神の娘であるので、初めから彼の思考のうちにいました。
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そして聖霊が来る時…、あなた方は地上にいて、罪人としてここを歩き回っている。人生という路の途中には何かがあります。何が起こっているのかわかりませんが、あなたは飢え乾いています。
私は長老派の兄弟のことを聞きました。バプテスト派のことを聞き、(そこにいて、彼は自由意志のバプテストで、彼はできるところどこでも説教しています、私の仲間である兄弟)あなた方の中に入れたことのない何かがあるのです。あなた方がそこにいることを望むことができなかったということです。それは自身の性質に反するものです。それは起こるまえの神の予知なのです。
神の御言葉、
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イエスが神の子としてインマヌエルになるために生まれ、人の中で神の完全な表現となりました…彼はその預言者によってバプテスマを受け、ヨルダンの川で完全な従順のうち彼自身を見出したのです。そしてイエスが彼に従い、水から出るとすぐに天はヨハネに開かれ、そして彼は聖霊が天から下ってくるのを見て言いました、「これは私の愛する子です」。完全な従順。御霊が彼を見出していたのですー従順の内に。
ああ、今朝の手に負えない男女、あなた方がここに座っていて、これが正しいと言う何かが中にある時、それは我々が今生きているというこの時代に関しての真理の知識をもたらすこと求めてあなたを探している聖霊です。過ぎてしまったある時代ではなく今がその時代なのです。
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過去の時代に従っていた何千人もの人々がいましたが、現在の時代がありました。それはイエス様が現れた時代でした。そしてそこで御言葉が立っていて、人々が立っていて、真理でを証明するために起こった神の現れがありました。そして今日のペンテコステ派の人々として、我々は神がすべての肉に彼の御霊を注ぎ出し、そして彼の息子と娘たちが預言する事になる約束された終わりの日に立っていると言いましょう。「信じる者にはこれらの印が伴う。」それがその時代なのです。それがあなた方の中でその創造されている物なのです。
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ここつい最近私がここで話したように(それは少し冒涜的に聞こえましたが、今朝あなた方がそうならないように願っています)、鶏を飼ってワシの卵を持っていた農夫がいます。あなた方の多くは、これを産んだ年老いたワシの話、またはこの鶏をここで産んだ鶏、または彼女の鶏の羽毛の下にいるワシの卵を覚えています。なるほど、それは環境です。長老派教会、メソジスト教会、バプテスト教会それらのどれでもこれらのワシを生み出すことができます。確かに、そうするのは環境です。ボスワース博士が以前言っていたように、あなた方は鶏卵を取ってそれを子犬の下に置いて彼を縛ることができました、子犬は鶏を孵化させるでしょう。どうして?それは環境です。そして、自分たちの信仰や物を捨てて、まっすぐ神の顔を見るまで、集まって祈る教会や集まりがいるとき、それはここに立っているのと同じくらい確実にワシを生み出すでしょう。
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そういうわけで、私はこのビジネスマンの集まりが環境を壊そうとしていたと思います。我々はあまりにも排他的過ぎています。一つはこれかそれに属しています。環境を壊して天的礼拝の環境を作りましょう。環境を正しく整えましょう。
ワシはあらゆる教会から、どこかれでも生まれます。そして、この小さなワシはめんどりと長い間歩いてきました、しかしコッコッという鳴き声はちょっと奇妙ですね。彼は彼女が庭の肥料杭の無駄によって触った時、鶏が何を意味するのか理解していませんでした。それは彼にとって食べ物ではありませんでした。彼女はわしが食べないように虫などを食べます、それで彼にはすべて奇妙に思えました。彼は醜いアヒルの子でした。彼は、この冒涜的なことを言っているのではなく、多分彼は自由意志のバプテスト派だったのかもしれません…しかしそのような宗派か、あるいは長老派だったのかもしれません。
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しかし、ご存じのように、ある日…彼の母親は卵を産んだことを知っていました。どこかに子供がいなければなりませんでした。それで彼女は大きな翼で風を切ってそ彼女は捜しまくりました、そして彼女は自分の出る一番高い声まで叫んで捜していました。ある日、彼女は農家の庭を通りました。それからこの小さなワシがこの聞きなれた叫び声を聞いたとき….彼は前にそれを聞いたことがなかったけれども、彼はそれが手の上の手袋のようにフィットすることに気づき、彼はそれが母親であることを知りました。彼女が息子だと知っていました。彼女は彼を探していましたから。
あらゆる時代に神はその時代のために彼の教会を定められました。その時代へのメッセージ。彼らは法律と望むことなら何でも持つことができました。しかしその時が来ると、神の聖霊は、初めはその時代のことを考え出し、語り、その御霊はその卵を探すのです。そして彼がそのメッセージを聞いたとき、それを保持しようとしている教会の宗派はありません。それ高い所に上り詰めるのです。そうでなければならないのです。
それは違う鳥なのです。違う生き物なのです。彼はワシで、そして彼はその鳴き声を聞くことになります。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。」(ヨハネによる福音書‬ ‭第10章27‬節一部 ‭口語訳‬‬) 誰かが言ったように(ウィリアムズ兄弟)、「羊の食べ物」。「私の羊は私の声をに従います。知らない人には従わないのです」
たとえ教会がどれほど忠実であっても、それがどれほど有名になったとしても、「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。[それは御言葉]ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」 ‬彼らはそれができます。まるで磁石のようです。
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ある日、インディアナ州で、私は製鉄所を訪問していて、そして、笛が吹かれました。誰もが自分のエプロンを脱いで、旋盤から床の真ん中へ、一日を通して集めた削りくずを一掃し始めました。私はある男と一緒に歩いていて、そして、彼は言いました、「これを見てください。」男たち全員がテーブルの上に彼ベンチドレスを置いて、立ち去りました。後ろに戻ると、彼は小さなボタンに触れました、そしてここに大きな磁石がやってきました。それはそれらの部分から削り取られたあらゆる部分の鉄を集めていました。今、それは出て行き、消磁し、それは溶解炉に落下し、そして別の物の断片や同じもの、車軸、あるいはそれらが作っているものは何でも溶けました。私はそこに立って、自分が失われるまでそれを見ていました。
そして「私はどうしたのだろうと思っているです」と言いました。
彼は言いました、「それは何ですか、先生?」
私は言いました、「そのうちのいくつかは上がらなかったことに気づきました。」
彼は言いました、「それはアルミニウムです、そして、磁石はアルミニウムには着きません」。
「なるほど」と私は言いました。それから私は言いました、「では、あなたはそこに鉄片があるのに気づいておられましたか?」
「でもねえ、それはボルトで固定されています。」
「なるほど」と私は言いました。彼がそれを取り出したとき、私は言いました、「さて、そこに何が起こるのですか?」
彼は言いました、「それは工場に戻ってきて、溶鉱炉を通って流れ出て、そしてすぐに戻って、そしてもう一つの車輪を作ります。」
私は言いました、「主を誉め讃えよう。」
そうなんですね。
41
神がいつか彼の指に触れるであろう偉大磁石が空にあるのです。彼がやってくる時は誰も知らず、天の御使たちさえ知りません。神だけがご存知なのです。しかし、この時代の信者である、聖書と聖書のクリスチャンから作り上げられたが何人かがいるのです。それらのうちの一つは別の時代では大きな中心だったかもしれません。これは他の部分かもしれません。それは神の大きな体制を作ることになっています、しかしそれは私が神の偉大な溶鉱炉の鍋に形作られて、そして神の像の中に再び注がれるでしょう。それに引きつけられている人だけが取り上げられます。さて、復活の中に我々に関係する何かがあることを知ることは、なんという特権でしょう。
42
さて、神の御言葉の召命に気づいてください、それは一部であり…、そしてそれはワシからワシへの物です。今、もしその母親がハゲタカのように叫んだとしたら、彼はそれが分からなかったでしょう。その農家の庭でもうまく行っていました。しかしそれはワシの叫び声だったのです。その小さな鳥の中には、自分がワシだという事を知っているという何かがありました。同じことがすべての真の信者にもあるのです。
神の御言葉の伝道が先に出て、その正当さが立証されますまたこの時代に神の御言葉だと証明されるので、信者の中には何かがあるのです ― 彼の父親が教会に対してどれほど忠実であったか、または母親がいかに忠実だったか、彼の祖父母はそうだったのか、そしてその教会が聖霊のバプテスマのこの時に逆らって教えているかどうかは関係ありません ― 叫び声の中が彼の中にあります。彼は農家の庭から去っていく事でしょう。彼はそうしなければならなかったのです。鶏の日がいつの日か来るなるかもしれませんが、これはワシの時代なのです。それは違うのです。それは彼が去っていかなければならない何か - 昔の小屋 - そして空へと飛び去ることです。それからこの地上の体は蘇らせられた御霊によって神の御言葉への従順となり、聖霊によって早められるのです。
43
さて、この聖霊は、地上を飛ぶワシ達によって代表されて、信者を見つけた時 -「誰もわたしのところに来ることはできない。わたしのところに来ることはできない[もし彼がしたくても]。父が、私にお与えくださったすべての物が私のところに来るだろう。しかしだれも自分でやって来ることはできない。」あなた方の考えではなく、あなた方自身の計画ではできません。それは神が描くことです。「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしにくるであろう。」(ヨハネによる福音書第6章37節 一部)
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さて、聖霊はここにいて、神がこの時代に生きるためにあらかじめ定められた人々を探しているのです。そして、それが見つかるとすぐに、それは全員が贖われたイエス・キリスト、すなわち神の偉大な神の超自然な長子にあったの同様なのです。そこに来て、住まいの場所を人間の生活の中に取り入れるのです。
さてすぐ気づいてください、施す力をもたらしたのです。さて、イエスにやって来たその蘇りの力は、その時代の御言葉のすべての約束を現すために、彼を蘇らせたのでした。この日に我々の上に来る聖霊もそうです。それが偽りの聖霊ではないのなら、それが聖霊を嘲笑する悪魔ではないのであれば、本当の聖霊であるなら、それはこの時代の約束を明示するでしょう。
それがルターに降りかかったとき、それはその時代のその約束を明らかにしました。それがウェズリーに下されたときには、それはその時代の約束を明示しました。それがこの時代に落ち、それはこの時代の約束をあらわにするのです。それがモーセに下り、それがその時代の約束を表しました。それがノアに下り、それがその時代の約束を表しました。それがイエスの上に下り、それはその時代の約束を表しました分かりますね。
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それは、神のために蘇らされると予見されている人々を蘇らせ、生き生きとさせ、神のために携挙されると予見されている人々のために降りてくる聖霊です。それは、もし彼が本物のワシであれば。もし彼が本当のワシであれば、彼はその時代のメッセージを理解することでしょう。
さて、その小さなワシ、おそらく、農家の庭の中の小さなワシの食事は大丈夫でしたが。しかし彼はそれが確実に正しくないことを知っていました。しかしそれから彼が真理を聞いたとき、彼はこの真理を受けとりました。
さて、ヨハネによる福音書第14章、ヨハネによる福音書第5章24節で、イエスはこのように言われました、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(口語訳[翻訳者])それがどれほど単純であるかを考えてください。「信じる者」正しい言い方は「悟っている者。」です。
46
さて、あなたは路上でここを出て、この売春婦に言った、「信じますか?」
「もちろん。」
「彼が神の子であると信じますか?」
「当然です。」
「バプテスマを受けましたか?」
「もちろん」
酔っ払いに行き、「それを聞きましたか、その説教者の説教を聞きましたか?」と言います。
「うん」
「それを信じますか?」
「もちろん」
47
わかりますね、しかし「悟っている者。」この時代に彼の場所を知っている者は。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は[現在時制]、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネによる福音書第5章24節 口語訳)
この新しい永遠の命があなた方の中に宿るとき、それは死から不死へと蘇られる可能性あるいは誠実であり続ける事なのです。もう一度言いましょう。この御霊があなた方、個人を見つけ、あなた方の上に下る時、それは神があなた方のことを考え、世界の創造の前に創られた永遠の相続の可能性なのです。それがあなた方の可能性なのです。そのようにあなた方が私に樫の木を頼み、どんぐりを与えたなら。さあ、樫の木の命はどんぐりの中に在るのです、さて、それが成長するまで待つ必要があります。
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だから我々はそうします。あなた方が神の聖霊を受けるとき、る神の潜在的な力で我々に仕えて下さり、それはすでにあなた方を認識し、そして神の約束の霊によってキリストの体に封印されているのです。神ご自身がカルバリーで、イエスが死んだのを見ておられたとき、彼は…花嫁のためにだけでなく、御言葉の教会である体のため - それが足、体、頭、またはどこであろうと関わらずこの時代の御言葉を信じる信者である教会のために死んでくださったのです。
それはキリストが出血し死なれて、そして神が、彼を見つめて、彼の復活を見て、教会は彼の上にイースターの日に教会を復活したのです。さて、ここで少しばかり私が言いたいのは、神のご意志を手に入れたから皆一緒にこの様に集まりたいのです。
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さあ注目してください、それは誠実性または潜在的な力なのです。あなた方の復活の蘇りの力は、聖霊を受けたとき、あなた方の中に住み着くのです - その潜在的な力がです。
注目してください、あなた方は今あなた方の道を進んで、完全な復活へと成長しています。一晩で木が生えることはありません。成長する必要があります。我々は神の恵みと知識の中で成長します。あなた方は聖霊でバプテスマを受けました。さて、聖霊のバプテスマを受けたペンテコステ教会として成長し始めています。四肢は死に、彼はそれらを刈り取りましたが、その木はまだ成長しています。それはまだ続いていて、それは復活に来なければなりません。
彼らは御霊によって導かれています(信者であるあなたに御言葉を蘇らせるため)。あなたが上肢の第一肢、第二肢、第三肢に来るとき、御言葉は蘇り続けます。それはただ蘇るばかりです。神の御霊はあなた方のそれを蘇らせ続けます。
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そのペンテコステ派に注目してください、彼らの体は新しいからだとしてよみがえらされたのですつまり新しい命を受けたことによってです。それが私の献身的にさせるのです。
考えてみてください、さてここに複数の男性の漁師、徴税人、謙虚な小さな女性、ただ普通の主婦たち、小さな処女の少女たちが居ました。彼らは信者でした。彼らはこれが真理だと信じていました。彼らは、イエスが死んだとき - 彼らは彼を信じました - そして彼が死から再び生き返ったとき、彼らは、彼は命へと蘇らせられた、完全な神の証しであると信じました。
さて、彼らはペンテスコテの日に彼らの見えない信仰を受け取るために生きました。あなた方は抽象的な物が何であるか知っていますか?行為がクリアにされたときです。彼らは抽象的な物を受け取るためにそこに上がり、そして彼らは力を受けたのでした。ああ、なんてドキドキすることでしょう!彼らは土地を買いました - 彼らのために購入されたのでした。彼らはそれを受け取りました。
「それは本当かどうか?我々は彼が復活したのを見ましたが、今我々はどうでしょうか?我々は証人なのです。立ち上がって十字架につけられた方を見ました。我々は地上に雲が降りてきて空を暗くし、地が揺れ、神経の衰弱があったのを見ました。それから彼らが彼を墓に寝かせた時、彼らは彼の心臓に突き刺し、彼の体を倒してそれをアリマテアのヨセフの墓の中に寝かせました。、それから三日目に彼は復活したのです。」そして、弟子たちは言いました、「我々はこのことの証人です。彼が復活したのを見ました。彼が生きているのを知っているのです。」
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さて、それが何をしましたか?すべての恐れを取り除きました。イエスが言われたのも不思議ではありません、「また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である 黙示録1:18」彼らがそうしたとき、すべての恐れが取り除かれたのでした。しかし、彼らがペンテコステに行くと、そこで彼らは蘇らせる力、すなわち彼らを生かす力を受けたのでした。
さて、私はあなた方長老派、そしてメソジスト派の兄弟方、あなた方は主イエス・キリストを信じることについて潜在な力を受け取ると思うところがあります。しかし見えない信仰(聖霊)はまだ来ていません。それが聖めの行為なのです。
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神はアブラハムに約束を与えられました。アブラハムは神を信じ、そしてそれは正義を彼に入れ込んだのでした。しかし彼は割礼の封印で契約を封印しました。あなた方に、潜在的な力を、それを受け取るであろう、という約束を与え、あなた方はそれによって蘇るのです。この体は終わりの時に主と共に栄光を受けるでしょう。しかし、分かりますね、その行為についての許可を得なければなりません。そしてその許可のクリアランスはそれに対するすべてが打ち消されたときであり、それに対する聖霊(抽象的な物)を持っています。封印を手に入れています。あなたのものです。すべてがあなたに属しているのです。アーメン!
そして、我々がイエス・キリストを救い主として信じ、悔い改め、バプテスマを受け、そして彼を信じるようになると、神は我々の悔い改めと彼への信仰を認め、その抽象的な物(聖霊)を送ります。その中所的な物は保証です。それはすべてのあなた方が持っていたすべてのことを保証している、徹底的に悔い改めた。ハレルヤ!そして資産が買われ、保証のための要約(聖霊)を保持しているのです。
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誰もあなた方の土地から遠ざけさせてはいけません。抽象的な物を持っているあなたのものではないと言ってください。彼に試させてみなさい。あなた方が要約(聖霊)を持っているので、土地のどの法律もそれをすることができません。そして、聖霊のバプテスマが我々をイエス・キリストにおいて認めているという神の証しと要約(聖霊)の境界を乗り越えることができる悪魔、教会、または神学はありません。
我々は、彼が復活したのと同じくらい確実に引き上げられているのですというのは、我々は彼の内に引き上げられているからです。アーメン。全ての事…それは我々の肉体の死は何をいみするのでしょうか?それは我々の天にある喪にに対して愛を与えるのです、そして煙草、酒やギャンブルなど以前にしていた物は全て死ぬのです、それはあなた方の下に行くのです。
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そしてあなた方はこの蘇らせる力のなかで力を頂いているのです。既に携挙する状態に体が齎されているのです。
注意してください、ペンテコステの日に人々が聖霊によって蘇らせられたのですー聴いて下さい、神からの抽象的な行為(聖霊降臨)を受けたときにそこにいたのです。!確かに、それは彼らの魂に栄光を与えたのです彼らは叫び、彼らはそれぞれの上に火の様な舌が分かれていくのを見ました。そしてそれは彼らがもう地上の言語で話すことさえできなくなるまで彼らの体に力を与えたのです。それは彼らの体を天的な言語を語る力を与えたのです - 彼らが行こうとしていた場所 - へと蘇らせました。
神の蘇らせる力は彼らの肉体を震わせ、全ての一般的な言語が変わって不滅の言語となりました。なんという蘇りの力でしょう!…何かに、属しているのです…「死からイエスを蘇らせた御霊があなたの肉体に宿るなら、それはまたあなたの肉体を蘇らせるでしょう。」
我々は、生きる神の力によって、その時力を受けるのです。異言が - 彼らに話すための新しい天国的言葉を語る力を受けるのです。携挙によって今迄住んでいたのとは違う環境に引き上げられるのです。又、彼らの新たに蘇った命により、彼らにそれが入り、彼らの言語がよみがえらされ。彼らは新しい言語で語ります。はいそうなります!
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さて気を付けていてください。それはまた、この抽象的な物(聖霊)の後に、聖書の中で約束されていて、根拠に基づいたあらゆる約束、神の御言葉に基づいたあらゆる約束を彼らに与えるように設計されていたのです。その蘇りを与える力は彼らに約束を蘇らせるために与えられていたのです。それ故
、彼らが病人に手を置くと、癒されました。新しい言語で語りました。それは神の約束の中にあったからです。奇跡や印を来なったのです、それは神の約束の中に在ったからです。そして、イエスが彼らのことを贖うために死んだとき、それは神の子らに属していた地がありそこに戻ったのです、彼は神が何であるかを示しました。それを社交化にして組織に組み込もうとするとはいかなることでしょうか?我々にはそんなことをする権利はないのです。
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そのメッセージを信じるのは、今日、聖霊が、誠実な心を探し求める事によるのです。信者に対して全ての聖書の約束があります。そしてあなた方がそれを完全に受け入れる時、そして神様があなたがそうする事を神が知っているので彼はそれに対してその抽象的な物(聖霊)を与えるのです。それからなされるすべての約束はあなた方のもので、そして聖霊がそれを蘇らせるようになりました。ああ、なんと素晴らしい!我々はどんな人々であるべきでしょうか?神の偉大な聖霊がここでその力を持ってされることを見るのは何と素晴らしい事でしょう。考えてみてください!
聖霊ご自身が、この時代の記録をここに載せるとき…イエスがそう言われました。彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がありません。だれがそこからそれを消し去ることなど出来るのでしょうか!
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わたしのしているわざをあなた方もするであろう。」(ヨハネによる福音書第14章12節 口語訳[)。「信じる者には、このような印が伴う」(マルコによる福音書第16章17節 口語訳) 何という慰めでしょう。
あるグループの人々が集まり、それらの印が現れているのを見ると、それは聖霊そのものが神の持ち物であるという証拠になるのです。アーメン。
さて我々も又イースターなのです。我々は今我々のイースターににいます。我々はすでに引き上げられたのです(ハレルヤ!)世のものから神の約束のものです。未来形ではありません。今の事なのです。それは可能性なのです。
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それは終わりの時に彼は彼の御霊を注ぎ出すだろうという神の約束で、そしてそれは彼らがする事なのです。
気がついて下さい、彼らは病人に手を置きました 全て神の約束にあります。「私は終りの日に、私の御霊をすべての肉体に注ぎ出すだろう。老人たちは夢を見。若者たちは幻を見るであろう。」そして主がされたこれらすべての異なる約束があります。すべてが神の約束の中にあるのです。
イエス様は我々を贖われたのです。そして、我々がそうなるとき、あるいは我々が…その地に定められているなら、(ワシが鶏の巣の中を歩いているように)我々がその地にいるように定められているなら聖霊はあなた方を見つけるためにここにおられるのです。そしてそれがあなた方を見つけたとき、あなたはその召命を認識するでしょう。自分が生きている時代が分かっていて、これらのことがおそらく起こるだろうであることを知っています。急いであなた方は出会うために携挙で挙げられるのです、そして今、あなたはキリスト・イエスと共に天的な場所に座っています。おお、なんていう約束でしょう!これらのことを我々に与えてくれるなんという天の父なのでしょうか!
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その日に死者たちを呼び戻したので、神と彼らのフェローシップの為に御霊によっ蘇らされました。彼らは死体の上に体が寝かされていました、彼らは命に来ました。よく聞いてください。彼らはイエスがしたの同じことを行いました、なぜなら彼にあったのと同じ御霊が彼らにもあったからです。一人の御霊が人にこのように行動させるならば、それはもう一人の人にもそのように行動させます。
どうすればこの様になれるのでしょうか…あなた方が神の御霊を得たと言って、神の働きを否定するのでしょうか?そんなことは出来ません。
60
気がついて下さい、神の命 - ギリシャ語では「ゾーイ」 - と呼ばれていて、彼らを通してそして彼らの中を動いて、彼らの思いや心を彼の御言葉に蘇らせます。さて、私は今それを静かに言いましょう。人々の間を移動する神の御霊は、その人の心を神の約束へと蘇らせます。分かりますね、そうなるのです。
見て見なさい、私はあなた方に…私が今教会のことを話していること、そしてまた彼の命を蘇らせることをあなた方に見せようとしています。それらは初めに主の属性でしかありませんでした。しかし、もし神が「この日、ジョン・ドウが罪のうちに生まれ[初めに戻り]私の僕になる」と何百年も前に言われたのなら…。今、ジョン・ドウは罪で生まれ、不義となり、嘘を言いつつ世に入っていきます。なぜなら彼には肉体があるから、彼は人間だからですが、少し宗教的な気分になるかもしれません。彼は教会に加わります。多分彼はペンテコステ派の教会に加わるでしょう、私にはわかりません。彼は何にでも参加するかもしれません。しかし、一度彼を神の環境にさらさせてください。ジョン・ドウは彼の父親が誰であるかを認識するように縛られているのです。そのワシが母親が誰であったかを認識したように。
それを認識する必要があります。ジョンドウは語られた御言葉となる神の属性にあるのです、そしてその時聖霊がその御言葉を語るのです。そうなるのです。神は彼を呼んで、彼に永遠の命を与えて、そして神のご臨在に連れて来ます、神の御言葉にです。
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見てください、イエス様を見た時、神様もお持ちだったのです。「終わった」と彼が言われたとき、神がイエスと共に終わったのは、完了した仕事だったのです。計画はすべて完了しました。そして、神の御霊があなた方の上に来るとき、あなた方は本当に神様が語られた彼に属する者の一人になるのです。今、あなたがそうでなければ、あなたあちこちを歩き回りイラつくことになりあちこちに逃げ、そして他のすべての事柄からも逃げて、そして真理の知識に決して達する事は無いのです。
もしあなた方がそのうちの一人であるならば、古いものは消え去り、新しいものになり、そして救いの計画は完成します。あなたは神が今まで語られたすべての御言葉に従う準備ができています。あなた方は彼の御言葉に従う物なのです。
その契約、その通り、その契約への条件。その証書はあなたに属しています。負債はすべて支払われます。それはペンテコステの日にあったように、すべて打ち切られたのです。
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さて、この蘇りの御霊を他の人々にある事を我々に気づかせてください。今、私はそれほど長く話すことはできません、そして私がそれをするために約束を守るとしたら20分しかありませんがー何時かと言ったのは約1時間でした
気がついて下さい、この力を与える力が来るのみなのです。
63
今、それについての多くの嘲笑があります。持っていないのにそれを持っていると本当に思っている人がたくさんいます。多くの人がそうしているのは、彼らが他のクリスチャンがしているのをみて、何らかの誤った印象を受けたからです。
サタンはそれらどのようにでも偽装することができます。そのことは分っています。宣教師たちでさえも、あなた方はそれが偽装されているのを見ることができます - 叫び、踊り、異言で語る、そしてこれらすべてのこと - それがどこでも偽装されているのを見ることができます。間違いなく - 異教徒の中で、、イエス・キリストが神の子である事を否定するというようなことがあります。
彼らはそれらすべてを彼等自身で行います、しかし信者に来る本当の黄泉がえりを齎す力のある御霊は神の御言葉によって力を与えるのです。それはまたワシの食べ物に戻すために戻り、生きられる場所に戻すのですに。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書第4章4節 )
64
ペンテコステの日と同様に、この蘇りの御霊が他の人々の上に下っているのを今に気づかせてください。ペンテコステによって、彼らがどのように行動しているかに注目させてください、そして我々が話しているこの蘇らせる力によって力を与えられているかどうかを見てみましょう。
ペンテコステの日、彼らは皆そこで待っていました。彼ら自身も恐れていました、ユダヤ人たち、しようとしていたことのゆえに、恐れが起こったのです。何が起こったのでしたか?この蘇らせる力が天から下った時、彼らを勇敢にしました。彼らが数時間前にそれについてあまり確信していなかったところで何か、そこにに悟りが来たのでした。
彼が死んだことを知っていて、蘇られたことを知り、途中で彼と話をしました。しかし、それは彼らの為だったのかそれとも単にイエス様ご自身のためだったのでしたか?しかし、ここペンテコステの日には、聖霊が信者たちに下りました。それが彼の復活の一部とし、彼の交わりの一部となったのです。彼らは潜在的に臆病者から勇敢な人へと引き上げられたのですというのは、聖霊がやって来てそうなる事を確信したからです。
65
その時点で考えていたその御言葉そのものを恐れていたのです(これをあなたの頭の上で通過させないでください。)彼らは恐れていたのです。
彼がその御言葉であることを知っていました。ユダヤ人でさえそれを認めなければなりませんでした。ニコデモは言いました、「ラビ(教師を意味する)、あなたは神から来られたラビであることを我々は知っています。神と共におられるないならば、誰もあなたがすることは出来ません。今、我々はそれが分かります。認識しています。
ですから、弟子たちは…ペテロも彼のご臨在の中で誓ったのです。彼ら全員が十字架につけられた時イエス様を見捨てました、しかしここで今彼らは神のご臨在の中で上の部屋にいるのです。
そして突然、この聖霊が天から下ってきて、それが彼らに力を与えました。そして、ほどこしが起こったとき、彼らは信じて真理であると知ってメッセージの証人になることを恐れませんでした。そうでなければ、彼らはそれを恐れていたのでした。
66
今日の地上にいる何人の長老派、メソジスト派、バプテスト派が真理を知っていて、それを支持するのを恐れているのでしょうか?私はあなた方に降ったのは何だったのだろうかと思い込ませるでしょうか?あなた方は彼の復活の一部ですか?人を恐れるような考えのために、叫ぶようなことをするのでしょうか?あるいは。それとも目立つようにして正しいなら「正しい」そして間違いなら「間違った」としっかり言う事が出来る様に実際に充実感と本物の人としての力を得ていますか?
あなた方は彼の復活の一部ですか?それとも信条の崇拝者の集まりにすぎませんか?教会に通っているだけですか?そこにあなたの名前があり、罪の内に死んでいますか?神の完全なる御言葉を信じていないならば罪びとなのです。
67
その時代のパリサイ人たちは多くのことが真理になると信じていました。彼らは言いました、「我々は神の子供たちです」。彼らはその御言葉が宣べ伝えられるまで、しかし、その御言葉が説教されて正当化され、それから彼らは自分たちが知っていたことが正しかったことを否定したことで罪人になりました、次のように証言しました。神が彼と共におられることなしに、あなたがしている事を人は誰もすることができないのです。」
68
今日はどうなっているのでしょうか。我々はどこにいるのでしょうか?あなた方に尋ねます。この復活はどこで我々を見つけられるのでしょう?あなた方は外に出ることを敢えてしますか?あえて神の御言葉を受け取りますか?命に定められているならば、そうするでしょう。あなた方がワシであれば、そうしないでいられません。あなたの中に何かがあります。
それとも、どこかにある信条に仕えて、「教会に行きなさい。あなたと同じくらいいいよ」と言いたいだけでしょうか。あなたがそれらの長子の権を持っているなら…それを分かりいはしないし、それを見ることはできません。しかし、あなた方がこの長子の権を保持しているならば、それはあなた方の一部であり、それの一部であるので、それを理解せずにはいられません。
どうして私を産んでくれた母親を否定できるでしょうか?自分の血が私の中にあることをどうやって父親が否定することができるのでしょうか?チャールズ・ブランハムが私の父親であることをどのようにして私に否定することができるでしょうか?出来るわけがありません。私は彼の息子なので、彼の非難や他の何かに立ち向かいたいと思っています。ハレルヤ!そして神の子であり - そして彼は神の御言葉で - イエス・キリストが昨日も今日もいつまでも変わらないという真理がある聖書を否定できるでしょうか?そして我々が生きている時を見て、教会はイースターを必要としています - 復活(蘇り。我々は、神の命じられた御言葉の力である事を際立たせるための信仰のために男女の復活が必要です。
69
「ええ、我々はキリストのために若者が居ます」と言いましょうそれは大丈夫です。「我々の教会は集会を開いています。たくさんの会員を望んでいます。」それに対して何も反対はしません。大丈夫ですが、それは環境だけなのです。それは古い鶏の羽毛かもしれませんが、もしあなた方がそこで正しい環境になれば、もしワシの卵であれば、それはワシを孵化させるでしょう。それを見ることを神から予見されていたならば、それが起こらい事はあり得ないのです。復活の中でやってくるのです。
その様にして、バプテスト派が生まれ、メソジスト派が生まれたのです復活の日にでした。しかし、彼らはワシの代わりにめんどりに寝返ったのです。
70
少し前に言ったように、ツーソンを降りて行くと私は非常に奇妙なことを見ました。タカがそこのワイヤーの上に座っているのを見ました。あのタカは長い間自分のアイデンティを失っていました。それは以前ワシに一番近い鳥でした。鷲についていくことが出来なかった。いいえそう言う意味ではなかったのです。ワシについていける者は何もないのですは何もありません。しかし彼はタカでした。キリストはワシであり、教会は少なくともタカではあるべきです。彼らは他のどの鳥よりも高く飛ぶことができます。しかし、そのタカが軟弱になりました。そのアイデンティティを失いました。彼らは電話線に座って、何匹かの死んだウサギを待っているのです。彼はタカのように飛ぶのではなくハゲタカのようにチョンチョンと跳ぶだけなのです。
71
ああ、私の兄弟、姉妹、あなた方ペンテコステ派の人々、つまり私自身の愛する人々、教会はそのアイデンティティを失いつつあります。いくつかの死んでいる正式な信条のせいで降りてきてきて新鮮なマナを探して天空を飛ぶ代わりにそれによる様になったのです
タカはかつて自分だけのマナを獲っていました。しかし、今日彼は自動車がひいた、ハゲタカが食べるようなものを食べるのです。彼はハゲタカと同じようにチョンチョン跳びをしてハゲタカの様に見えるのです
我々は現代の世界のやり方にはまってしまっていました - 女性は髪を切ってショーツを履き、男性は説教壇に立って真理を語るには足りません。我々は長い間、御言葉を柔らかいものにして来ました。
おお、神よ、聖霊を送って、何が起ころうともどこにでも知らない所に飛んでいける、どこかで準備ができているそれらのワシを見つけ出させてください。電話線の上に座るのでもなくまた日曜学校の為の文書を探して入ってくるのでsもなく。私に御言葉を持たせて下さい-それは貴重です - 聖霊の力とその表れの活動において。我々にはイースターが、復活の潜在的能力が必要なのです。
友よ、もしあなた方が世のそのような腐敗した状態に満足しているならば、何か問題がああると言えるでしょう。
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私の姉妹、兄弟よ、これを神への恐れと共に言わせてください、私が二度とイースターを見るために生きることができないことを知ります、しかし、確かなことがあります。- 神の御言葉によって本物のあらかじめ定められた神の子が神のその声を聞くとき、彼は生き返り、それに出会います。彼が本当の生きる御言葉に出会うことになるという可能性です。彼がそうであったように、花嫁は新郎に会うでしょう。彼女は彼の体の一部なのです。
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気が付いてください、長い間…我々自身のアイデンティティを失っています。数人は水曜日の夜にここに集まります。他の人々の多くは家にいて、「スージーが大好きなのは誰?Who loves Suzy」などのテレビ番組や、あらゆる種類の世俗的なもの、あらゆる種類の娯楽によって教会から遠ざかっているのです。だから教会としてのアイデンティティを失ったのです。
この時代の神学校や学校によって多くの神学や娯楽、そして教会内のすべてのものを備えた沢山のリッキー達が出て来てそれが祈りの集会に取って代わっているのです。
私たちは服装によって、現代主義者がやろうとしていることを成就させ、彼らを勝ち取ろうとしました。その方法では彼らを勝ち取ることは不可能なのです。あなた方が持っている者よりも彼らが得ている者の方が多いからそれらに打ち勝つことは出来ないでしょう。彼らはあなた方が持っている以上の物を持っているから。彼らの立ち位置では何事も成し遂げられるわけがない。彼等をあなたが持っている本物の洗礼や本物の復活が輝いている所に来させるのです。…。
彼らのような教会を建てるような事はしないように。そのような牧師を持とうとするなんてことは止めなさい。あれこれするのは止めるのです、世の者となるのは止めなさい。彼らはハリウッドの中で輝いているから。
74
本当の福音は力によって輝きます。ワシはそれを聞くのです。彼らは輝きを探さない。彼らは神の輝きを探すのです。謙虚さによって輝き、愛によって輝き、力によって輝く - それが本当のワシが探している者なのです。あなた方は農家の庭を耕させて、彼を満足させられません。それは不可能でしょう。彼はそれを信じていないので、心に決して触れる事はないでしょう。その声を天国から叫ばせるのです、「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」(‭‭ヨハネの黙示録‬ 第‭1章18節‬ ‭) - 何か起こるのです。「私は昨日も今日もいつまでも変わる事がない、終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。」(ヘブル13章8節、および使徒行伝 第2章17節一部 口語訳 )神に栄光を!「私はあなた方の肉的な舌に力を与え、肉の言語を蘇らせ、私と一緒に復活させるという証拠を与えます。」魂の飢え乾いたワシは彼らができるくらい一生懸命それに手を伸ばすでしょう。それはまるで高価な真珠のように全てを売り洗って買いに行くようなものなのです。アーメン。神は我々をお救いくださいます、友よ。我々の教会はそのアイデンティティを失いつつあります。
さて早く進んでいきましょう、さあ、いくつか見ていきましょう…
75
弟子たちの行動を見てください - 怖がっていました。彼らはイエスが真理であることを知っていました。しかし、お分かりのように、それはその時代の人気のある考えや人気のある宗教に反していました。最も厳格な宗教 - パリサイ派、サドカイ派など - (カルト、クランズ、そして宗派など) - 彼らはその異端に反対していました。しかし、イエス様は識別された御言葉であり、そしてイエスは聖霊が入っておられる御霊なのです。「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。」(ヨハネによる福音書 第14章19節 口語訳) 彼に宿る命は肉体ではないのです。
神はその時のように、従順であるように、教会に息子を呼び求めるのです。「わたしはいつも父にとって喜ばしいことをする。あなたがたのうちの誰かがわたしに罪を非難できるでしょうか。[つまり、不信こそが罪なのです。] わたしについて書かれた御言葉で私が成就しなかったものはありますか?するべきことでしなかったことを示してください?誰がわたしを非難できますか?どれが私の父の言葉を成就させていないと指させる人がいますか??
ああ、ペンテコステ派教会がその位置に着いたとき、「だれが私を不信であると非難できるでしょうか?」
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ああ、クリスチャン達は、タカではなくワシと認識されるべきなのです!タカは軟弱です。それは降りてくるでしょう。そうしているワシを見る事は無いでしょう。彼はそんなことしないでしょうから。自分の食べ物を突然見つけてくるのです。見つける事が出来る様に神は彼を準備されました。彼は何か死んだものではなく、新鮮なマナを手に入れます。
ヘブライ語では、彼らが荒野を通過したとき、死んだマナを食べようとし、悪臭を放つようになりました。腐ってしまっていました。つまりその中に虫が湧いていたのです。あなた方は我々が何を意味するのか知っています。それは汚染され、腐っていて、ウジがわいていたのです。
何年も前に死んでしまった食べ物を食べるのはなぜですか?形式や形にはなっているかもしれませんが、新鮮ではありません。あらゆる世代の食料を新しいものにしなければなりません。旅をしているように、ワシはその食物を世代ごとに探します。
気がついて下さい。
77
さて又、何人かの人々を取ってみましょう。いくつかの旧約聖書の預言者を取ってみましょう、彼らがしたことを見てみましょう。最初にステパノを見てみましょう、そのサンヘドリン評議会の中心にいてステパノがどのようにその評議会を彼に導いたか、そこに信者の偉大な集まりが彼を導き - おそらく信者たち - 非難しようとしました、しかし、彼は言いました、「首を固くして、心と耳に割礼を受けず、いつも聖霊に抵抗しているもの。[それは永遠の命です。]あなたの先祖が預言者を否定したように、今日それをしている。」そして彼らは歯噛みをしたのです。
彼らはそれを聞きたくなかった。彼らの信条に反し、彼らの宗派に反していました。そしてその男を石で打ち殺しました。そして彼は両手を上げて天に向かって見上げ言いました、「私は天が開いていて、イエス様が右側にお立ちになられているのを見ます…」。何故?彼はイエス様の胸の中に彼を連れて行った復活と、蘇りの力を持っていました。
78
気がついて下さい、急いで今。ピリポを見てください、あの人のために敢えてされていなかったところで、偉大な復活を待っていました…。もし彼らが持っていたのであれば…教会とそこのすべてのものの間に大きな協力を得られていて、彼に神が蘇りの力をもたらしていたならば「ステパノ…」と言ったのかもしれませんが、「あなたは大きな復活を遂げていますが、一人の男であるおまえに話したい。」そしてステパノは従順であり、それが何であるかにかかわらず、どれだけ批判を受けたのです。
「ああ、ステパノよ、おまえは去ることができない!」
「しかし、できるのです。神はそう言われたから」そして彼は砂漠に出て行き、そこで彼はこの宦官を見つけました。そこで何が起きたのでしょう?言いました「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます。あなたがまごころから信じているなら、受けてさしつかえはありません。」と。彼がバプテスマを受けたとき…見て、彼は砂漠に出て行くために何千人もの人々の復活を一人の男に渡すためにこの蘇りの力によって力を与えてくれたのです。
ああ、それはすべての理由に反するでしょう。なぜここにあなたが望んでいる1万人がいるのですか、それ以外にも彼を待っている1人がいるのです。そして蘇りの力は彼を神の定められた場所に送ったのです。ハレルヤ!
79
皆さん、それがあなた方を自身の足に立たせるでしょう。あなた方に神がしてほしいと思うことをさせるでしょう。他の誰かがそれについて何を言おうと構いません。隣人たちは、「ああ、あの人は一晩中、精神を失っている。一晩中祈って、彼らは聖書を読んだ。」と言います。彼らが言うことは関係なくて、それは神があなた方にするように呼びかけるものです。そのとおりです。「どうして、」と彼らは言います、「我々はこのような昔ながらのペンテコステ派の復活することは出来ません…。」おお、そうですね我々にもできるのです。あなた方自身で持つことが出来るのです、神の中で大多数であり、たとえ他の人々がどんなことを考えようとそれを持っているのです。
80
気が付いててください。しばらくたって従順にして(今しっかり聞いてください)、神がその御言葉に従われた後、彼が任務を成就させたとき、ペンテコステで受けた蘇りの力が彼を捕え、彼の体を蘇らせました。遠く離れたところで彼はその御霊に連れて行かれ、どこか他の国で発見されました。神の力によって蘇らされるのです。そしてもし、我々がペンテコステ派であれば、イエスが死から復活したのと同じ力で、それがあなた方の肉体に宿るのであれば…
大丈夫です。さあ、気付いてください。
81
この蘇らせる力を持つ人をもう一人を取ってみましょう。エノクという名前のずっと前に男がいました。新しいことが起こったとき、あるいは何かが発生したときに言いました、「ああ、さて、我々は古い学校に戻らなければならないか、これか、あれか、それとも他のものに」、エノクは神と共に歩みました。神が何と言おうと、エノクは一言も逃しませんでした。彼は神と共に歩きました。
彼は何ですか?彼は神の子でした。その時代に呼ばれていたワシであり、その時代が来たとき、彼はその蘇らせる力にとても満ちて…忘れないでください、彼は神の前に500年以上歩いていて、そして彼は一度も神の御言葉を逃しませんでした。彼の御言葉を一度も彼自身のことを誤解しませんでした。彼は一度もしませんでしたが、証しをし続けました。神が彼にするよう言われたことはすべて、彼は行ってそれをしました。それについて言い争う事は出kないのです、彼はただ行ってそれを行いました。たとえ他の誰かが何を考えても、彼は行って行いました。どうして?彼はその蘇らせる力に満ちていたからです。
その老人が死ぬ時が来た時、神はただ梯子を下ろして彼は家に歩いて上がったのでした。神は蘇らせて彼の肉体を取り上げ携挙させました。アーメン!それはその蘇らせる力です。
82
エリヤを見てください。彼の仕事が地上で終わった後、彼はその蘇らせる力に満ちて溢れていました…。彼は彼の時代にジャッキーケネディのヘアカットを非難して、彼女について何を考えたかについて古いイゼベルに話しました。説教者や祭司たちに何が正しく何が間違いかを話しましたそして、彼らは彼を信じなかったけれども、彼らに化粧した女性とそれらの事はとても酷いと非難しました。何も彼に害を及ぼすことができないくらい、彼はその蘇らせる力があふれていました。
神は彼を天から養われ、連れ出して脇に置きました。彼が死ぬ時が来たとき、非常に蘇りの力で満たされてたので、ヨルダン川が開き、そして、彼はただ歩いて上がっていったのです…戦車が下りて来て、そして彼を家に連れ帰りました。その蘇らせる力に満ちあるれた彼はまさに真の純粋なる神の子となりました。
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気がついて下さい、彼には後継者がいて、その名前はエリシャと言った。そしてエリシャはこの蘇らせる力の2倍の力を持っていました。彼はその2倍の力を持っていました。今、彼は約80年間説教し、約80歳でした。彼は病気になり死亡した。さてエリヤがしたように彼は家に帰ることができませんでした。
それらは両方とも教会の中でそこに表されています。いくつかの聖人は行き、そして幾人かは永眠しています。しかし注目してください、エリヤが携挙したとき…。それからエリシャは、蘇らせる力に満ちた神の中で眠りにつきました。
彼が死ぬ直前の予言を見てみましょう。
84
さて、あなた方に見てもらいたいのです。あなたが死んでいようが、どこにいようが、その蘇らせる力が去る事がなければ、私は気にしません。彼の死から何年も何年も経ち…彼の肉は腐敗し、皮膚の虫がそれを食べました。しかし、彼らはある日死んだ男を詰め込み、骨の上に彼を投げ入れ、そして人が再び命を取り戻すまで、そこにそのような蘇らせる力がありました。ハレルヤ!彼を死から蘇らせてください、なぜなら神のその聖人にあったその蘇らせる力は決して彼を去らず、それらの骨にしっかりと留まっていたからです。
85
ああ、忘れないでください、花嫁であれば、彼の肉の肉、骨の骨です。死は、その蘇らせる力をまったく邪魔しません。「皮膚を介してこの体を破壊します、しかしそれでも私の肉の中で私は神を見るでしょう。」神に栄光を!追いついてください!私は何と言うべきかわからない….
私のような年配の男にとってなんという希望でしょう。わたしは、56歳で、もうすぐ終わりの日が近づくのを待っています。小さな少年の頃から、これを宣言しようとしてここに立ってきて以来、私は自分の中に神様がおられること、自分がしたことが何もないことを知っています。私の内におられるよみがえらせる力が全てをしたのですから
ある日、私は若者として世のことから、永遠の命に至るまでにその力が私を蘇らせました。起こったことすべて - 私が見た幻、預言として与えられたことされたこと-彼は決してそれらを失敗されることはありません。私は他の言語で語りました。預言しました。それらのことを私の中に宿り神の御霊によって行いました。それは蘇らせる力です。
私はいつの日か知るでしょう…。
86
わたしの救い主は今も生きていて、そしていつか彼が来るとき、これらの骨は空中で彼に会うために再び蘇るでしょう。あなたは私を深く埋葬し、それを燃やす、あなたがしたいように、蘇らせる力は永遠だということです!(ヒュー!)
私は今イースターを感じています!敗訴の通りです。私は何年もそれを持っていました。私の中にあります。あなたの中にあります。イエスを死から蘇らせた御霊があなた方の体の中に宿るなら、それは世のものから神の御言葉へとあなた方を蘇らせるのです。それはあなた方をこの世から永遠の命へと蘇らせました。
かつて罪と罪による死で死んでいたあなた方は、キリスト・イエスと共に天的な場所に座るために、天からのマナによって養われて、神の手が現れてこの時代の約束を神が表されるために来られる為に力を受けているのです。
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ノアの時代にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。」(ルカによる福音書第17章26節 口語訳) 人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていました。そして、ロトの時代にあったように、人の子が地上に現れるのも数時代になるでしょう。「神の子ではなくなり、人の子は終りの日の予言のメッセージとしてそのワシが飛ぶとき戻って来るだろう。獅子としてでなく、牛としてでもなく、犠牲の時代としてでもありません。
見てください、毎回、世界の政治的権力の挑戦に立ち向かうために宗教的権力が進み出て来ていたのでした。宗教的権力を獅子が立ち上げたとき、ローマの権力を満たすために進み出ました。それからそれが犠牲の時に来るとき、彼は主の犠牲の獣であるので、牛が行きました。そしてそれから改革者が来ます。教会の時代を通して人の表に出るのです。そして改革者は送られました - ペンテコステ時代まで、ルター、ウェズリー、カルビンが送られてきました。しかし最後のメッセージが進んでいき、飛ぶワシが現れました。ワシの時代、啓示の時代、神の御言葉は明らかにされ、神の御言葉は証明されました。
ああ、子供たちよ、この聖霊のバプテスマの中に歩みいりなさい。入ってきて全身全霊を込めて神があなたを満たしてくださると信じなさい。
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今ここを見てください。今見つけました…覚えておいてください、我々は彼の肉の肉であり、彼の骨の骨です。神が自分の骨を上げて墓から肉体を取り除いたとき、彼らはその可能性を秘めている人を隠すことはできません。死は彼を連れて行くことができません。
イエスは言いました、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終わりの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネによる福音書第6章44節 口語訳) ああ、なんということ。イースター、なぜ、我々はイースターにいるのです。彼が蘇られたとき、彼と共に蘇りました。彼は(抽象的な物(聖霊)を送り返しました。我々はそれを持ち続けているのです。それが聖霊のバプテスマなのです。彼は永遠に、昨日も今日も、そしていつまでも変わらずに生き続けておられますます。ヘブル人への手紙第13章8節がそれを証明しています。彼は同じなのです。
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彼の救い主である事、油そそがれた人々はそれを信じています。救い主とは何ですか?救い主とは何ですか?救い主とは油そそがれた者なのです。そして、もし彼が救い主であるならば - その日救い主となるために神の御言葉を成就させる油注がれた者であること - そして神がその体を既に蘇らせて、彼の花嫁はこの時代の為に油注がれ、それらふたつはひとつであるので復活の中で、すでに彼と共に蘇っています。アーメン!
私はそれを見ているようにその事を言うことができればと望んでいます。それが共にできる教育があったらと思います。あなた方にもわかる様に。私は神、聖霊がそこに降りてきて私の意味するところを見るためにあなた方の心の中においてくださるように望んでいます。
90
復活 - 我々は今復活しています。復活のために主と共におられますが、命をお持ちの方だけです。命を持っていない人ではありません。彼らはそれを知りませんでした。彼らは決してそれを知ることはないでしょう。彼らは、正しい思考で行き、聖霊を手に入れ、救われ、共に携挙され、そして行ってしまうでしょう。彼は言いました、「エリヤはすでに来ていて、彼らはそのようにしました、そして、あなた方はそれを知らなかった。
91
気が付いて下さい、死は神の蘇らせる力を止めることはないのです。気付いて下さい、死はそれを止められません。あなた方はいいます、「ああ、私の母は御霊に満ちた女性でした。父は、私は父のように力にあふれた男を見たことがないが、彼は亡くなりました、ブラナム兄弟。」確かに、それは蘇らせる力を止めませんでした。
モーセはその蘇らせる力を持っていました。それを信じますか?イエス様まで彼のような人は一切いませんでした。彼は幻を見ただけでなく、神と顔と顔を合わせて方りあったのです。、預言者ミリアムでさえある日彼の言葉に異議を唱えました。「神を恐れていないのか?私のしもべモーゼについて考えなさい。この時代に世には、彼のような人は誰もいなかったのです。」モーセのような人はひとりもいませんでした。「わたしはモーセに語る。」それが本当ではなかったと彼は今まで何と言いましたか?私はモーセに語ります。神を恐れないのか?彼に反対する言葉をかたってはいけない。」そしてその時彼女はらい病に襲われて死にかけていました。彼女はその後あまり長生きしませんでした。
モーセは彼女のために祈りました、
92
そしてモーセは120年間の御仕事を山に登り - または80年間の御仕事あるいは - 120年の人生- 山に登って死に、谷に葬られました。しかし、蘇りの力は彼にありました!約800年後、ここで彼はキリストの変容に関することで立っていました。アーメン。彼は何だったのでしょう?彼はのその復活に含まれてました。確かに含まれていたのです。彼は神の蘇らせる力を持っていました。ここに彼は立っていたのです
93
復活の偉大なその朝に、ヨブ、アブラハム、イサクや聖徒たちを見てください。そしてヨブと彼ら全員は、キリストの数百年前に「わたしの救い主が生きているのを知っている」と言って彼が来ることを知っていました。実際にヨブ記は創世記の前に書かれていたと、彼らは主張しています - ヨブ記は聖書の中で最も古い本なのです。
そして彼の試練の中で、我々が今も経験しているように…そして地上で彼に最も近い彼の妻でさえ、「なぜあなたは神を呪って死なないのですか」と言いました。
彼は言いました、「お前は愚かな女のように話す。主が与え、主が取られる、主の名を祝福せよ。」そして、神の御霊が彼の上に来て、そして彼が予言し始めたとき、彼は言いました、「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。」(ヨブ記‬ ‭第19章25-26‬節 ‭口語訳‬‬)そして彼は自分を葬る場所を作りました。「この土地を買う」と言いました。そしてそこを買い、自分自身を葬ったのでした。
94
その後アブラハムという名の人がやってきました。(教会は成長し、上がってきていました。)アブラハム。ああさて、彼も神の可能性を秘めていました - 永遠の命、永遠に。なぜなら神が彼を呼んだからです。さて注目してください、彼が死んだとき、あるいはサラが死んだとき、彼はパレスチナのヨブの墓の近くに一片の土地を買い、サラを埋葬しました。アブラハムは亡くなり、サラと共に葬られました。
アブラハムはイサクを産み、イサクが死んだ時、同じ地でアブラハムと共に埋葬されたのです。
さて、イサクがヤコブを産み、ヤコブはエジプトで亡くなりましたが、しかし、預言者になることで、この可能性を秘めた力で、この蘇らせる力で、彼は言いました、「私をここに埋葬するな、ヨセフよ。我が預言者の息子よ。神がダメにしたこの腰におまえの手をおきなさい。天の神に誓うなら、おまえは私をここに埋葬しないでだろう。」あの男は何者だったのですか?なぜエジプトは他の場所と同じになりえなかったのでしょうか?彼は預言者でした。彼は復活がどこ起こるかを知っていました。それはパレスチナであることになっていて、エジプトで起こる事はありまなかったのです。彼は言いました、「あなたの手を私の不自由な腰にあてる、私の仕えている神によってあなたは誓う事いなす。 - おまえは私という預言者の息子である - 私の骨をここに埋葬してはならない。私をそこ連れて行きそこで埋葬しなさい。」
95
預言者でもあるヨセフはまた、彼のまがった腰を持つ父親に手を置き、いいました、「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神に誓う、あなたをここに葬らない」と言いました。彼らは彼を連れて行き、その土地で埋葬しました。どうしてなのでしょう?何故でしょうか?
ヨセフが死んだとき、彼は言いました、「おまえは私をここに葬るな。ここに葬るな。」何故でしょう?神はいたるところにおられますか、計画をお持ちなのです。ヨセフは預言者でした。彼は言いました、「いつの日か[彼の言葉に耳を傾けて]主なる神があなたを訪ね、この地から連れ出し、あなたが行くとき、私の骨をとるのです。」それらの骨に蘇りの力がありました。
ああ、もし死からキリストを蘇らせた彼の御霊があなた方の中に宿るなら、彼はあなたの肉体をも蘇らせるでしょう。
「私の骨をここに置くな。それらの約束のものと共に埋葬しなさい。」
96
イエスが来られるとき、…、
ここに、聖句があります、マタイによる福音書第27章51節、イエスが死から蘇られたとき。ヨブはそれが来るのを見て言いました、「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。」(‭‭ヨブ記‬ 第‭19章25-26節‬ ‭口語訳[翻訳者]‬)
彼らはそれが預言者であることを知っていました。アブラハムは預言者でした。イサクは預言者でした。そしてヨセフは預言者でした。そして神の御言葉に従って神の啓示を受けました。
そのイースターの朝、その人たちが来て、主を信じていたすべての人たちを贖ったとき、聖書によれば、彼らもまた蘇らされたのでした。
97
その蘇らせる力はヨブの墓に入り、そこには彼の骨からの埃は匙一杯分さえもなかったのです。そして何百年もたった後、彼の骨は崩壊して戻ってきて地上へと戻っていったのです。ただの灰の埃だけがそこにのこっていました。しかしそれでも、その蘇りの力が - 00神の御言葉の約束にによると何百年も何百年も、はい、数千年後に - その蘇らせる力が墓からもたらされた時、ヨブ、アブラハム、イサク、ヤコブ、彼ら全員は彼と共に墓から出てくるのです
聖書はそのように言っています。マタイによる福音書第27章、そして51節は、それが地上のほこりで眠っていた多くの聖人が復活し、彼がイースターの朝に来た時に彼と共に墓から出て来たと言っています。
どうしてでしょう?彼らは可能性の力を持っていたのです。その蘇らせる力を持っていて、そして死からよみがえり、そして復活において彼と共に行きました - 彼らがその蘇らせる力に満ちていたので、彼と共に復活を楽しんでいました。
彼らはその本物のイースターの封印を持っていました。「そうですね」と「旧約聖書に戻っていきたい」あなた方はというでしょう。ちょっと待ってください。テサロニケ人への第一の手紙第4章、第16節をあなた方にを読んでもらいたい。「兄弟達眠っている者たちについて無知でいてもらいたくないあるいは他の希望を持たない者の様に悲しんでも悪しくない、イエスキリスト死んで3日目に蘇ったと信じている私達と同様(信念ではなく、我々は信じています)、そのようにしても、神が彼と共に眠っている彼らも連れて来られるのです。」
新約聖書の聖徒達は、その蘇らせる力をもって、二度目の復活の時にも復活させられるのです。旧約聖書の聖徒が間違いなくすべてその蘇らせる力で彼らの骨、昇天、そして力などは神に示されたのですから。
そして、キリスト・イエスのにあるすべての人が復活のために神と共に来るという神の約束つまりその骨を神の蘇らせる力の上に共に蘇りを見るのです。
98
病人に手を置く事も不思議な事ではないのです。我々が互いに愛し合っているのも当然のことです。我々は兄弟姉妹です。我々は神の御言葉によって正され清められたのですから、我々は互いを憎むべきではありません。我々は互いに愛し合い、互いを尊重すべきです。お分かりのように、そうしていない場合は、あなた方を聖霊が助ける事は無いでしょう。
99
この教会の下には、今ここに座っている小さな人がいます。数日前 - その男性信者 - 小さな年を取った男が耳に癌を患っていて、そして彼はそれについて何も言わなかったのです。彼はその家で働いていました。彼と一緒に狩猟旅行に行ったことがあり、そこにはモセリー兄弟とドーソン兄弟がいました。ここで狩猟をしていて、そしてウィリアムズ兄弟の息子も。私はたまたま彼の耳を見て、耳全体が腫れ上がっていました。私は、「ドノヴァン、君の耳はどうしたんだい?」。
彼は言った、「ブラナム兄弟、長い間続いているんだけど分からない。」と
私はただ手で彼を取った。それは彼の耳にある大きな癌だった。一言も言わないで、ただそれを持っていた。それは兄弟それはなくなります。その後1、2日後には、傷も残っていませんでした。それは彼の尊重によるものだった。そして天の神の彼の蘇らせる力によってそのガンを殺し、ドノバン・ウェーツの命を救ったのです。そのとおりです。
100
これはどういうことなのでしょうか。ここにいるフェニックスの人々を見て下さい。これを信じている人々を見て下さい。この力がありあなたに手を置いた人々を見てください。何が起こるか見てください。それが蘇らせる力です。「これらの印は、信じる者に従う。もし彼らが病人に手を置いたなら…癒される」その蘇らせる力、ワシから鷲へ、何かが起こりそうです。
今、ワシからハゲタカに対しては働かないのです。ワシからワシへは、巣箱から天国へとあげられているのです。「これらの印は、信じる者に従う」 - それらが両方ともが信じている時に。
101
分かりますねこの二人の預言者エリヤとエリシャには、同じ神の蘇らせる力が表されています。注目してください、同じ単語、それらの一つが「追いつく」であることに注意してください。もう片方は「追いついた」。「追いつく」と「追いついた」。彼は追いついたのです、我々は追いつくことになります。彼らと共に追いついて行きましょう。空中で会うために彼らに追いつきましょう、彼らは追いつかれて空中で会うのです。
注目してください、鳥はそれ自身のバランスをとるために二つの翼をもっているわけですよね。そのですね?エリヤは変換された翼であり、エリシャは復活した翼なのです。分かりますね、両方とも聖徒達を一緒に代表しておりその生徒たちは生き続けているのです。
覚えていてください、過ぎ去ったカーテンを見るために蘇らせられました。この時代にカーテンを見渡して見下ろすために、これらの人々がどのようによみがえらされて戻って来たかを。
それらの預言者…
102
パウロを見て下さい、終わりの時にこれらの人々がクリスチャンだと自分自身を呼びながらどのような行動をするかについて言っていました。彼は預言者であり、蘇らせる力に満ちていて、そのようなことが起こる事を予見していました。彼は蘇らせる力を受けていました。
一つの物事が起こるのも見逃さずに今日にある予見する蘇らせる力を見て下さい。一度も失敗することはないのです。蘇らせる力 - 人の力ではなく、神の力なにです。復活させられたイエス、イースターの抽象的な物、復活のイエスは我々の間に既に彼によって蘇りの力が与えられていることを保証するために送られたのです。
103
注目してください、あなた方はここで「時のカーテンが超えているのを見ている」というビジネスマンの小さな本を覚えていますか?年を取り始めたので自分の時間が段々短くなっているのが分かっていますので、現実的に行っているのです…女性がしばらく前に歌ったその小さな曲の一部を演奏します。今、約18年、20年間それを持ち続けていました、「わたしは話し合いたいです、主よ」私はそこから出て祈りに行き、それからその蘇らせる力が来ます。奮闘しています、そしてそこを見上げて、そして私は言います。「あそこ見て!」
私はその朝が「過ぎ去った」ことを覚えていて、そして、私の妻はそこに座って、その朝私と同じベッドの上に横たわっていました。私が立ち上がって見たところ、彼女は眠っていました。私は言った、「主のために何かをするつもりならば、急いでください、少年よ。おまえは50歳を過ぎています。」それから聖霊が私を捕えました。私は向こうを見て、それらの聖徒を見せられた-ここにこの奥義の書物が横たえて、本当に確実にこの机のそばに福音の牧師が立っていました。
104
主の名について何が起こったかお話したことがありましたか?、もしそうならば、あなた方にそれについて話してもらいたいのです。毎回それは完璧で演壇の上に有ったのでしょうか?毎回、彼が言ったように起こったのですか?これは「主がこう仰せられた」物でした。
私はそこに立ってその時を見回しました、私は何万、何千、何千倍もの若者や女性達が私の周りで走り、私に腕を回して抱き着きながら、叫んでいるのを見ました。私は後ろを振り返り、自分がベッドに横になっているのを見ました。ああ、主よ、私は時間を超えた状態を見せて下さい!
それは何なのでしょう?我々を捕まえて連れて行く蘇らせる力-偉大な蘇らせる力です。蘇らせる力はこの終りの日に来るのです。
105
それは私が今アリゾナにいる理由なのです。、ここフェニックスで立っていたり座っていた人々がたくさんいます、まさにこの演壇からあなた方はわたしが伝えていることを聞いたのでした、「主がこう仰せられる。」と言ったのを聞きました。(何人がそれを覚えていますか?)私が行くと言いました何かが起こる様に決められていると…
七人の御使いがやってくるのを見ました。霧が浮かんでいて27マイルの高さと30マイルの幅の物がありましたねそれをライフマガジンが報道しませんでしたか??フレッド・ソットマンと他の者、ジーン・ノーマンはそこに座っていませんか…七人の御使たちが丘の上に現れたとき、そこに立っていたのではありませんでしたか?何マイルもの間、丘を揺り動かしました。そこには七人の御使いが立っていました(持っていた刀を出していました)そして、「家に帰りなさい、与えられたこれらの七つの封印を開きなさい」と言いました。そして彼らはここで - 結婚と離婚の真の謎、へび(サーパント)の種(子孫)、そしてこれらのことすべてについて大騒ぎしています。それは「こう主が仰せられる。」ことなのです。
それは何ですか?教会にやってくる蘇らせる力は、この時代に彼女を準備させるための - 蘇らせる力です。ああ、神様、我々が受け取るの助けて下さい。信じられるように助けて下さい。それはどんな良い態度を取るかにかかっているのです、それは何か良いことをするつもりかそうでないのかにかかわっているの。それを信じなければならない。もしそれを信じていないのなら、何もあなたにとって良い事にはならないでしょう。
106
かなり年老いたサムエルが民の前に立って言った、「私は今までに主の御名のもとにあなた方に話したことがあるが、何か起きたか?私自身が生活するためにお金を求めたことがありましたか?
「いや、ただ、我々は王様が欲しい。」
それが今日の教会のあり方です。彼らは自分の考えを欲しがっているのです。あなたに少しも注意を払うことはないでしょう。そのあたりを歩き回ります。さて、それはただ蘇らせる力がそこにないことを示すことになるだけなのです。
「ああ」あなた方は言います、「私は異言で話した。跳んだ、叫んだ。」
それで大丈夫ですが、蘇らせる力があるのなら、あなたがたは認識するでしょう - あの小さなワシのように、それが彼のマナです - 御言葉、それは「主がこう仰せられる。」それが神が約束されたことです。それが予見されたものです。それがまさに起こったことなのです。
我々は疑いの影を超えて、潜在的に今すでに復活しています。聖徒たちは空中に引き上げられる準備をしています。
107
この蘇らせる力で満たされているイエス様はlこう言われた、「もしあなたが40年かかったこの神殿を破壊するならばと考えるならば、わたしは3日でそれを建てる」と。
どうして?なぜイエス様はそうを言えるのでしょうか。尋ねたいのです。なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか?彼がその方である事をご存知だったから…アーメン。私はその杖を作ることができたらいいのにと思います。彼は自分が誰であるかを知っていたのです。神がそこに書かれたすべての御言葉を成就していたことを知っていました。ダビデが語った者であるという事を知っていたのです。
あなた方は自分が聖書で語られているものであることを知っていますか?自分の立場がキリストにあることを知っていますか?キリストの中にいて新しく造られた者でしょうか?この御言葉がまさにあなた方の日々の生活そのものだと分かっていますか?どうしてでしょう。もちろん。あなた方のものです。あなたはワシです、それがあなた方の食べ物なのです。
108
彼は、神の御力によってそれがなされることを知っていました、彼がすると預言されていたからです。恐れずにそう言えた理由なのです、「この神殿を破壊し、3日でそれを建てるだろう」なぜならダビデは言った、「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(詩篇‬ ‭第16章10‬節 ‭口語訳) ‬‬彼は自分の体の1つの細胞が腐敗するのではないことを知っていて、そしてそれは72時間で腐敗する。
彼は言った、「この神殿を破壊し、私は3日で再びそれを建てるだろう。」なぜ?彼はすべての御言葉を蘇らせるその蘇らせる力にかなり満ちていました。彼は振り返って、神が主について書かれたすべての御言葉を見て、そして預言者は言った、彼はそれを成就されました。彼はそれが成就されることも知っていました。
109
さて、神が言われたすべての御言葉はあなた方の霊がそれに「アーメン」と言ったことがありますか?そしてそれは信者としての人生において成就しましたか?何かを控えて「まあ、私の教会では違った形で教えている?」と言っていますか?それから注意してください、タカに。
気がついて下さい、ワシは信じます。疑うことなく、彼らはそれを信じるのです。
注意してください。
110
さて、彼は御言葉にかかれているから、主について書かれたすべての御言葉が成就しなければならないからだと彼は知っていました。彼はがそうすることを予言していた聖なる預言者たちによって、神の力によって書かれたものであり、予言が失敗することは決してありません。あり得ないのです。神の御言葉は失敗しないのです。そして、それは御霊によって書かれていますから。
イエス様を死からよみがえらせた御霊であり、もしあなた方の体に宿っているならば、あなた方の体も蘇らせるでしょう。それからそれを撃ち、燃やし、したいことを何でも。からかったり、それを引き裂き、それを引き下げ、あなたがしたいことをしてみなさい、神がよみがえらされるでしょう。
その約束を持っているすべての神の聖人は、それが真理であることを知っています。だから恐れるない事です、兄弟よ、我々はすでにイースターに入っているのです。
111
今、閉じる前に変容を見てください- 変容 -。我々は皆、変容の内に表現されています。今日理解している事を見てください。気付いて下さい、我今日見ていることにおいて、神の蘇らせる力に注目してください。我々は皆そこにいたのです。
モーセに代表される死んだ聖徒たちがいます。復活があり、そこに復活がありイエスキリストが栄光を受けたのです。エリヤ、モーゼ、エリヤとイエス様は一緒に山に立っておられました、その死んだ聖徒達と、携挙された聖徒達そしてイエス様が栄光を受けたのです。
ああ、なんと素晴らしい!
112
さて、あなた方は言うでしょう…私は別の日に他の人が先日言こういうのを聞きました、「あなた方は、何故、もしそのような力を持っているなら、外に出て、できることを人々に教えるべきだ。」。本物のクリスチャンがそのようなことを言っているのとはかけ離れているが。確かに我々は力は主張しませんが、ある事をします。
彼らがこのすべての力を彼らが見回した時、イエス様だけを見ました。そして真の信者は、彼が宗派を支持しているのか、それとも何もしていないのかを気にしません。彼はただ一つのことを望みます - あなた方がその栄光のキリストを見ること。どんな違いがある、本物の山の変容経験がイエス・キリストを賛美するだけです。
それをモーセに栄光を与えず、またそれがエリヤに栄光を与えるわけでもなしそれ自身のも栄光を受けるわけではないのです。しかし、彼らは栄光を受けたキリストを見たのでした。そして真の信者なら誰でも、それが彼の心の中にあるのです - イエス・キリストに栄光を帰すること。それは彼が人々に見せるようにしようとしていることです。「いや、あなたが我々の集まりに来て参加するなら、これをやったり来たりしたら…」と言ってはいけないのです。だから、そうしないでください。してはいけないのです。復活のこの素晴らしい時間の中で、キリストであり、拡大され、そしてこの日の約束を成就する神の御言葉を見てください。
そしてそれは、我々が主、彼の肉の骨、そして彼の骨の骨と共にあることを知ることを彼らに喜びに与えます。なんて喜びとなるでしょう。それが本当の信者が気にかけている唯一のことなのです。
113
彼らは宗派も、組織も気にしないのです。彼らは他の女性たちがどう考えるか、も気にしないのです。絶対に
彼らはこれら他の女性がするようなことはしません。これらの男性達もそういったことはしないでしょう。、ある組織と共に彼らは一緒に居たり子供達の周りに居たりもしないでしょう、そこから離れているでしょう、又、、食事券を持っていないのではないかと心配するかもしれません。彼らはそのようなことは気にしません。それは彼らにとってばかばかしいことです。唯一の心の願いがある、それはイエス・キリストに栄光が帰されることです。
彼らの行動は神と共にあるはずなのです。それは絶対に、絶対にイエス・キリストの栄光以外の何ものでもありません。御言葉。その通りですね?
さて、注目してください…そして彼の復活を証明している同じ正当な方法で見ています。それは何でしょうか?彼が約束によるあなたの人生を見て、つまりその言葉、彼はいまでも生きていて昨日も今日もいつまでも変わらないのですと言ったのですそれこそが、彼がまだ生きていることを証ししているのです。
114
その国のすべての扉が私に対して閉じられていても構わない。私は56歳に先日なった。。もう連れていかれていてもおかしくない。心臓発作を起こすような年齢になっている。私は他のすべて、全て他の物もある年齢なのです。さて何が違うのでしょうか?私が子供の頃は何の違いも齎しませんでした、何時に電話がかかったとしても、その棚に自分のカードが取り出されたとしても何の違いもありません。。私が今まで地上に生きていたという事を彼らが知っているかどうか気にしませんし私にとって違いはありません。私が地上にいたと言うのに、大きな記念碑や大きな建物を持つ必要はないのです。
115
知っていただきたいひとつの事があります。イエス・キリストは昨日も今日もそしていつまでも変わることがない、そして私の心の中で彼の抽象的な物(聖霊)を持っているということ。
私はいつの日か…海で溺れるかもしれないし、アフリカで殺されるかもしれませんし、私に何が起こるかわかりません - しかし私が知っている一つの重要なことがあります。私が抽象的な物(聖霊)を持ち続けるという事です。ハレルヤ!全ての扉が閉じられる可能性があります。それは私に何の違いも齎すことはありません。私は、ある人やある組織、私自身、又その集まりのどれにも栄誉を与えようとしているのではないのです。人々にイエス・キリストが死から復活し、彼の御霊が生きているのを見て欲しいのです。彼は昨日も今日もいつまでもかわることがない。
116
イエスがこういわれたことに質問の余地もないわけです、「恐れるな。わたしは死んだことがあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」今のところ、我々は彼によって救われ、彼と共に生き返っています。そして今、神の天の御座に座っているのではありません。
さて、我々がこの御霊を我々の中に持っているとき、その抽象的な物(聖霊)が、すべての疑問が打ち消されたことを示しています。しかし、キリストは生きておられます。私が生きているのではなく。キリストが私の内に生きておられるのです。あなた方が生きているのではなく、あなた方の中でキリスト・イエスが生きておられる。キリストはあなたの内に生きておられます。彼の生きている御言葉はあなた方の中に生きているからです。あなた方メソジスト派、バプテスト派、そしてペンテコステ派の考え、それらの考え方は、そして他のすべてはイエス・キリストを通して消し去られるのです。
117
山の変容と同じように。すべての預言者と他のすべてのものは完成しました。ルター派、メソジスト派、長老派のすべての日々。彼らはすべて正しかったのだが、「これは私の愛する子。これに聞け。」(ルカによる福音書 第9章35節 口語訳 [翻訳者]) この時代の御言葉。封印の時代、ここ数年の間に隠されてきたすべての謎、そしてその時の偉大なピラミッドはダビデの星が定位置に落ち着くように砥石を切り刻み削り落としました。そして生きている神の大教会がワシの翼のように育ち、栄光に仕上がっていくでしょう。そうです、今、我々の体の中に、新しい言語で話し、予言し、予見し、病人に手を置いて回復し、世界の死者そして世界のすべてのものが回復しました。我々は死から命へと移り変わり、そしていま、力を持っています。ハレルヤ!
復活の朝、死の封印が破られるとき、我々は蘇るでしょうハレルヤ!我々は蘇ります。アーメン。
118
我々を妨げるに値するの悪魔は地獄にはいません。この時代のために神によってあらかじめ選ばれていたのです。神の御言葉は我々を通して正しく示され、神の御言葉の約束によって、神のご臨在の中に住んでいるのです。
地獄にいる悪魔がわたしの蘇りの邪魔など出来っこないのです!その朝、彼は私の顔にどらを閉じられるわけもないのです。封印が解かれたのですから。ハレルヤ!私は自由なのです。私はワシなのです。もはや檻の中になどいません、自由なのです。死からイエス・キリストの新しい命へと蘇らされたのです。私だけではなく、ここに座っているすべての男、女、少年、少女がその神の御霊に満たされ、キリストの新しい創造物なのです、あなた方はワシなのです。
119
我々は今日生きていて、永遠に復活を楽しんでいます。彼が生きておられるから、我々も生きているのです。そして、彼は我々の内に住まわれ、我々を生かしてくださり、そして、我々の存在の中で肉体を御霊によって蘇らせは、体をより偉大な永遠のイースターへと力づけて下さるでしょう。神に栄光を!
オー世を取るなり、何でも好きなようにしてください、でも私にはイエス様をください。アーメン。私は、彼を愛しています。彼は私にとって全てなのです。そして、あなた方は彼の一部であり、私はあなた方の一部であり、あなた方は私の一部であり、そして共に居て我々は彼の一部となっているのです。
120
ああ、クリスチャンよ、何と素晴らしい機会が与えられているのでしょう!我々には、聖パウロが夢を見る事もできなかったような機会を持っているのです。我々には、エノク、エリヤ、そして彼ら全員が今までになかった機会があるのです。
どこかに小さな羊が出ていて、そしてそれがその群れに入るまで彼は満足しません。神の助けを借りて、そして幻によって、そして「こう主が仰せられる」ことにより、私は海を渡って戻ってきました。あの最後の小さな羊は、あのあたりにいる黒い羊となるかもしれません。私が知っているのは彼らは魂を持っているとさえ考えていないかもしれませんが神は違うことを知っています。それがどこであろうと、それを見つけるために人生最後の日まで探し続けるのです。
121
この様な厳しい事を言う事によって兄弟達を傷つけたいと思っているわけでも、教会に行きたくないと思うってほしいわけでもありません。間違いなく、あなた方に教会に行ってもらいたいです。どこでも、行っている教会に行って欲しいです。でも、「我々はこれに属しているとか、あれに属しています」などという事をあなた方の望みにしてほしくはないのです。ああ、兄弟、姉妹、あなた方はキリストに属しているのです!教会に行きなさい、しかしキリストに属して下さい。アーメン!
その可能性を(それがあなた方の中にないのであれば)今すぐあなたの命を蘇らせましょう。今すぐ受け取りたくありませんか?この部屋はそれであふれています。私を今からだじゅうで感じています。私はここにある事が分かっています - 神の力。偉大な幻を見る預言者、今後起こる事を先見し告げる事が出来決して失敗する事のないもの、だれもそれに「違う」と言うことができない偉大な者。彼は誰も閉じる事をの出来ないものを開くことが出来る方。一度死んだけれども今生きておられ、そして今日もここフェニックスに生きておられ、新しく生まれた花の中を歩いておられるのです。
122
イースターの朝に露の小さな水滴がすべてのユリとすべてのバラの上に有ったのも不思議なことではないですね。なぜでしょうか?それは地上で成長していることを知っており、そして、どこかで永遠の花が咲いているのですその場所でいつの日かその様になるのです。そのとおりです。
喜びの涙が我々のほおを流れるのも不思議な事ではないのです。同じ変革の力が我々の心に入り我々を満たし命を与え、天国から来る我々に許可されたとさえいえる言語で語ることも不思議ではありません。
我々はそこに預言し、予見し、予見されたことを告げるために神のご臨在の中で素晴らしく我々に力をアが得られたのです、だから全てが完璧に御言葉と会っているのです。もしその預言が御言葉に反対に預言しているのなら、それを信じないでください。しかし、もしそれが御言葉と会っているならば、それはすでに語られている、「こう主が仰せられる。」つまり既に語られているのです「、「恐れるな。(わたしは初めであり、終りであり、死んだことがあるが世よ限りなく生きている者である)‬‬ それが神のイースターの封印なのです。
その封印はこ御言葉により全ての文字があなたの心の中に刻まれています。封印とは何でしょう?あなたは書かれた書簡であり、すべての人があなたを読んでいるのです。あなた方はそれを知っています。しかし、神があなたの事を要求されたとき、イースターの封印であなたを封印されキリストと共に蘇らせ、そして新しく創られたものとなりました。今現在、封印されていない場合は、頭を下げて祈る時に受け取ってください。
[予言のメッセージが聴衆の誰かによって与えられる。]
それを聞きましたか?祈り頭を下げながら今考えてください、ローマ人への手紙第8章11節:「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださるであろう。)
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何を期待する事が出来るのでしょうか?何が残っていますか?フォルモサと全世界、原子ミサイルと他のすべてが世界を襲う準備ができていることに気がついて下さい。とても緊張し、怖がって、そして叫んでいます、そしてこれらの映画はまるで夜中に小さな男の子が口笛を吹いて墓地を通り抜けて行くのと同じように、すべてが大丈夫だと人々に信じさせようとしているのです。欺かれてはいけません。主の到来が近づいているのです。
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この間気が付きましたか?…ある漁師が険しい場所や何か他の場所で湾の奥に座って私に言った、その地震がギリシャで起こるよりずっと前に、その朝の時間に餌を得ていたすべての魚に餌がありませんでした。それは何でしたか?彼らは表面にはいませんでした。二度目にそれが起きた時、同じことが起こったのでした。彼はその時に何かが起きることを知っていました、そして魚はその時に食べていませんでした。
カモメや魚を餌にしているものはすべて餌を食べるのを辞めたのです。早朝彼らはふつう餌を食べる時なのです。彼らは土手に座って崖やものから逃げ出しました-ほんの数分で海の苔が海底から離れて地球の外から吹き出し始めました。それが起こる前に、魚や動物たちはそれを知っていました。
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インドに行って、新聞で読んだのですが、「地震は終わったに違いない」。と書かれていました。数日間、小鳥が岩の中の巣に戻ってこなかった、牛は日の暑さの中日陰の下でシェルターの周りに立たないでしょう。羊は野原の真ん中に立っていて、お互いに寄りかかっていた。地震が起こる2〜3日前に、彼らはそれらの岩の周りを上がることはありませんでした。なぜでしょう?羊たちはそれが分かっていたのです。何かが起こるのが分かっていたのです。それらの鳥は何かが起こるのが分かっていました。それらのカモメは何かが起こるのを知っていたのです。それらの魚は何かが起こるのを知っていました。動物たちを箱船に導いたのと同じ神がなさる事です。
わかりませんか?霊に満ちた人々、何かが起こるのは決まっている事ですね?根本的ないくつかの大きな普遍性を探してはいけません - 主イエスの到来を除いて。ただ、ただ言葉、主の約束を覚えていてください。
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なぜすぐ来られないのでしょう?大きな壁を避けてください。復活は間もなく手の届くところにあるのです、今なのです。
もしその復活に入る事にすることを知らない人がいて、復活の力が彼らの中にあるのかどうかわからない人がいるのであれば…皮膚の虫がそれを破壊したとしても、原爆があなた方のいるど真ん中で爆発したとしても、蘇りの復活の力は決して破壊されることはないでしょう。いいえ、、姉妹、兄弟、あなた方の大切な名前は小羊の命の書にかかれています。だれもそれをこすり消すことはできません。彼の血がそれを買ったところにある本からあなた方の名前をこすり消すのに十分な研磨剤は地上にありません。よくわからない場合は、今そのチャンスを失わないでください。
どこかでバリケードを通り抜けて殺されない状況を通りすぎる機会がかもしれませんが、あなたはこのバリケードを通り抜けることはありません。いいえ いいえ、それを手に入れるのです。あなたがそれをする必要はありません。今点滅している赤い電気が点滅している今。自分自身の考え方を無視して、世のものを無視するのです。
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来て、この素晴らしい復活の時に、イースターの素晴らしいお祝いで共に復活しましょう。
今週あなたの心の中で祝う事ができますか?もしできないのなら、あなたはただ神に手を挙げて、「神よ、それについて確信が持てません。それを全部やることができるかどうかわからないのです。助けてくださいますよね?。手を挙げますので、主よ。助けてください。」
神の祝福がありますように。神の祝福がありますように。いいですね。「主よ、あなたが欲しいのです、主よ。助けてください。私は引き上げられたい。私は今すぐに潜在的な可能性を持ちたい。私は正しいことを知りたい。私は正しいことを知りたいのです、主よ。」
私にはできません…そして何の間違いもいらないのです、それは手遅れになってしまうでしょう。今がその日です。今がその日なのです、待っていてはいけません。
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それほど前ではありませんが説教をしていました。黒人の老人が建物の裏側に戻ってきて私に会いました。彼は言いました。「牧師先生、あなたは正しいと私は言いたいのです。」彼は言った、「ずっと前に主に言いました、その朝の私のチケットを手に入れたいです。正しく記されていることを知りたいのです。川でたくさんの災難が起こるでしょう」と彼は言いました。「あの川に降りるところです。そこには何の問題も起きてほしくない。すべてがここでは正しくなってほしいのです。」
そのとおり。ビザを取得しましたか?もしビザを持っていないのなら…パスポートを持っているかもしれませんが、あなたのビザを持っていないなら、土地に入ることができません。ご存知ですか?あなたの…すべてを準備しましたか?そうでなければ、今こそそうする時です。
恐れる内でください。あなたが少しでも怖いのであれば、ここには約100人の手があるので、ここから行っている人達がいるから怖いのであれば、今一緒にそれを解決しましょう。
129
さて、我々には異なるやり方があることを私は知っています。ある人達は言います、「上がってきてください握手させてください。」と言う人もいます。他の人たちは言います、「上がってきて、祭壇でひざまずいてください。」さてそれらは大丈夫です。そのことについて反対する言葉は一言もありません。あなた方が言うことに何も反対する事はありません。しかし、私のやり方を教えましょう、「信じる者は誰でも…」祭壇に来ることが信じさせることにもならないでしょう。牧師と握手しても信じさせることにはなりません。しかし、あなたが神から呼ばれていて、ワシであるならば、ある叫びが告げるのです。あなた方は信じるのです。もし本当にそれを信じるならば、私はあなた方と共に祈りましょう。
あなたは小さなワシがもうその農家の庭にとどまることが可能だという事が想像できますか?ムリ!に違いありません、もうここにいないでください、友よ。共に携挙しましょう。そうするための神の恵みがここにあります。
130
天のお父様、終わりの時間に向かって進んでいる時であることを認識しています。我々がここにいる時間はそれほど長くはありません。我々の時代としてではなくその時としてです。我々は、これが起こるとき生きているであろう多くの若者がここに座っていると信じています、そしてそれは今日まだ起きているかもしれません。我々はその分も時間も知りませんが、主よ、あなたは我々に言いました「これらのことが起こっているのを見たときに…」そして、それらは長い間に既に起こっています。
科学者らによると、我々がやり終わったかもしれないと分かっています。6〜7年前、我々は真夜中まで3分でした。どれだけの時間が残っているのか知りませんが、我々はそこにいることを知っています。ああ、神よ、慰めを与えて下さい!我々の心が神のすべての約束を「アーメン」としているのを見るために。我々の中に入って来た御霊そのものが我々の存在を蘇らせるのを見ることをです!
神よ、今朝、私の兄弟達に分からせてください。兄弟達に、その御霊が入ってきて御言葉を蘇らせることを見せてください。私の姉妹達にも同じことを見せてください、主よ。そして、もし彼らがその御言葉を蘇らせることができない何かを彼らが見たならば、ああ神よ、すぐにそれを取り除いてください。それを認めてください、天のお父様。それは今あなたの手の中にあります。
私は多くのことに失敗し、失敗し続けていることを知っています、しかし、主よ、私はやり方を知っているすべてをしました。今それはあなたの手の中にあります。彼らはイエスの御名の中であなたのものです。彼等を受け入れてください、お父様。
131
さて、あなた方はここにいて、体を癒される必要があるのです…何人の信者がここにいますか?手を挙げてください。「私の心で知る限り、信者です。」疑いの影を超えて、どれだけの人があなた方の心の中で死者か蘇ったのでしょうか?なんてすばらしい、このような集会で何が起こる可能性があります、!
遅くなっているのを知っていますが、今何が起こりうるのでしょうか?何が起こり得るのかただ考えてください。可能性はあなた方の中にあるのです。
手を挙げて、あなたは神への宣誓の様に取ったのです。私は何かが私に起こったことを知っています。私がいるべきと所に居ないかもしれません。
132
私もそうではないのです。いいえ。私がいるべき場所へは遠い道のりがあります。しかし、この一つのことを知っています。死から命にやってきたのです。わたしに何が起こったのが分かっています。
今老人としてではなく、何年も、何年も前にそれが起こったのです、そして私が大きな困難を経験したときにその病院に入っていった。その日を覚えています…。私は妻が死んだことを見せられ、彼女の命のために主に求めました。「私は何をしたでしょう、しかし街角に立って病人のために説教して祈る以外に?」
そしてサタンは言った、「まあ、彼はあなたの祈りに答えないでしょう。」彼女が死ぬのを見ましたが、彼女の中にその復活の力があることを知っています。それらの骨は再び蘇るでしょう。
私の赤ちゃんがそこに横たわっているのを見ました。その上に手を置いて、「神よ、連れて行かないでください。」と言いました。神が幕を引き下ろしたように見えましたそして「もうあなたから聞くこともないのでしょうか」と言いました。
サタンは言った、「あるよ。ただ一言だけ。」私がそれを知っていたので、彼は神がいなかったと私に言うよりもよく知っていました。しかし、彼は神は私を愛していない、保護しないと彼は言った。見てください、あらゆる理由付けをして言いました、「あなたはたかが20歳の青年です。奥さんは遺体安置所に横たわっている、そしてここにあなたの赤ちゃんがいてそこにまもなく行くのだ。そしてあなたは彼が偉大な癒し主だったと言い、そして、彼はこのことの全てをやっているのだ。そして、分かるのか彼が何をするのか?と一言で。彼はそれを話す必要さえなく、ただそこを見下ろして言うだけです…頭をうなずくと、ただそれだけなのです。それは起こり、そして癒されるでしょう。しかし、あなたは分るのです、彼はあなた方を愛していません。あなたのことを気にしていないのです。赤ちゃんがそこで死ぬのを待ちましょう。この暗黒の時代に祈りを聞くのを拒んでも。」と
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彼が言ったことはすべて真実です。彼は言った、「あなたは何をしましたか。立ち上がる事ができなくなるまで一日中働き、そして12時から1時まで一晩中座って、通りの角に立って病院に電話をかけます。入って椅子に座って、そこに座って1、2時間寝てからまた仕事に戻って。翌晩も、同じこと。ここであなたはまだ、約21歳、22歳でした。全ての友達、全ての若い女性も男性も皆さんが今までに関わったことのある若者はみな、あなたを気が狂った変人と呼んでいます。あなたは何をしましたか?自分自身をばかにしました。それくらいのことががわかりませんか?」
私は彼に同意する準備が出来ていそうでしたーそして私の中に在る何かーあの蘇らせる力。私は「主が与え、主が取られる、主のみ名は誉むべきかな。」と言ったのです。
すべての望みを諦める時、
その時、彼が私の望みの全てであり共におられるのです。
堅い岩キリストの上に私は立ちます。
他のすべての地は沈む砂の様なもの、
主がラッパの音と共に来るとき、
ああ、彼を私は見つけられるかもしれない….
私自身のものではなく、彼の義の衣に包まれたのです。私にはありません。私のものは汚れていて、汚れた雑巾の様なものです。
私の説教で天国に行こうとするのはあり得ない事です。私の幻で天国に行こうとするのは嫌なのです。彼の恵みを心に抱いているから私は天国に行くのです。それゆえに私は行くのです。我々は皆その様にして行くのです。
134
ああ、友たち、あなた方はこの体の一部です。神の小さな子供たちです。今、私はあなた方の希望を築くためにこのことを言っています。もしあなたからのを見いだし、真実を、そして私が言ったことを言ったのであるなら…何年も前に預言者が言ったように…自分自身を彼の預言者にしない、嫌です、先生。しかし、私はあなた方に真実を語っています。彼は今まで正しいことはということを何か言ったことがありますか?私は、フェニックスで20何年前からあなた方を知っています。その歌、「私は彼と話をしたいのですが」ならず者の兄弟の教会を超えて、そのことを信じている、あるいはそれはガルシア兄弟だと思います。主の御名のもとにあなた方に何も言わなかったのですが、何が起こりましたか?
135
希望は唯一一つしかない事を覚えていてください。この蘇らせる力を手を得るのです。それは他のすべてがなくなってもあなた方を保ちってくれます。保ち続けてくれるでしょう。
彼らのうちの何人かは言った、「あなたは宗教を守りましたか、ブラナム兄弟?」
私は言った、「いいえ、それが私を守ったのです。私が持ち続けたわけではないのです。私が守っていようがなかろうか。彼が持ち続けていようがいまいが、彼は必要はなくとも持ち続けてくるのですそれは彼が守っているかいないかではない。
御使はすべての木に座っていました。指を緩めて引けばいいのです。ただ十字架から(それを取る必要はありません)指をさすのですしてください。ただ指さしてそれを見るだけです…あのバカにしていた人々が見えますか?でも、もし彼がそうしたのなら、私は今日この証しを持つ事は無かったのです。あなた方もその証がありませんしかし彼が十字架にかかってくださったので、彼が持ち続けて下さったから私も彼と共に守り続けるのです。
堅い岩であるキリストの上に私は立ちます。
全て他の地は沈む砂の様なものです....
136
さて、もしあなたが病気ならばあれば、お互いに手を置いてください。共に祈りましょう。ただあなたの手を誰かに置いてください。あなたが間違っている事にかかわりなく、今信仰を持ってください。あなた方に真理を話したことがあるとしたら、今話しているのです。イエスは言われました、「信じる者には次のようなしるしが伴う。」 そしてあなた方は信者だから - ただ両手を挙げてください。疑わないでください。あなたが手を置いている苦労している人がいます。誰かがあなたに手を置いてくれるのです。
蘇らせる力を忘れないでください、イエスを墓から蘇らせたその力。あなた方は自分の体の中に持っているものに信仰を持ってください。手を置いたその人を助けて下さい。それがあなたの中に宿るなら、それはまたあなた方の肉体をも蘇らせるでしょう。
137
親愛なる神よ、私が今朝ここに立って、正午近くになっています、イエスが泣いたのはこの時代になろうとしています、「神よ、私の神よ、どうして私を見捨てたのですか?私は渇いています」と叫んだのがこの時間です。預言者がそれを予見して言ったのも不思議ではありません、「私の骨の全てが私を見ていて、彼らは私の手と足を突き刺しました…」しかし、「彼は我々のとがの為に傷つけられ、我々の不義によって砕かれたのだ、彼は自ら懲らしめを受けて我々に平安を与え彼の打たれた傷によって我々は癒された」我々はこれを要求します。神様、それを要求します。
138
この復活の朝に、
神のご臨在の中で、あなたの御言葉から私が語ったこの示された真理に気が付いてください。彼は裁かれまた、我々は彼が我々を贖われたことの証人なのです、そして、神の恵みによって、その蘇らされる力を我々に置かれたのです
我々の友達は病気で、手が置かれています。オー神様、我々は今朝の信仰の中で、人々に手を置いて悪魔に挑み、そして私の手を人々の上に伸ばして命じました。この真理とご臨在の下で人々を拘束しようとするあらゆる病気、苦痛がイエス・キリストの御名の下に現れるのを許しましょう。これらの人々が今日解放されるように。
我々の神の言葉である聖書は、「彼らが病人に手を置くなら、癒される」と言われました。そして、我々の手は、神であるあなたに向けて手を挙げています。
139
地上のすべての植物があなたの泉から飲むように、そしてその植物があなたの泉からの飲み物であることを確信して、それを築き始めます。育ち始めるのです。とにかく、トウモロコシの茎、花は何でも、あなたの泉で飲んで、あなたに向かって育つのです。そして今朝、我々は数インチも成長したのです、主よ。我々はより高く達することができる。あなたの泉から飲んでいます。我々はあなたの創造物であり、我々の内に復活の力があります。主よ。我々はあなたが兄弟姉妹のための祈りを聴いて下さるように祈ります。そして、この力を持っているこれらの親愛なる人々を妨げているあらゆる苦しみが、彼らが神に仕えることができるように彼らを解放させるのです。そして、それは主イエス・キリストの御名によってよくなるものです。アーメン。
140
あなた方は彼を信じますか?このようなことを残しますか?どの様に出来るのですか?あなたがただしなければならないことは、それは自分自身を引き離すように見えます。そのように感じますか?それは私だけかもしれませんが、変な感じがするのです、人々が一緒にこの様に座っている人々の間からくるのです。私は、私はどこかここで目の見えない、ラジオ、テレビ、あるいはそれが何であれ、そのようなものがこの部屋を取っているのです、キリストがこの部屋におられることは分っています。ただ考えてください、我々の救い主。トニー、彼はここにいます。アーメン!そして、神のあらゆる御言葉が聖書の証しを持って御使や神の存在を見渡すことを明らかにし、予見された予言者の言葉を聞いた人よりも幸せな人はいないのです。まさにその通りです。そしてここで我々は彼の再臨の間近にいるのです。ああ、なんて素晴らしい時でしょう。
141
我々は彼に会うのです。近いうちにある日、彼はここにおられるようになるでしょう。彼が来るまで、あなた方は私のために祈ってくださいますか?
私は目の前に危険を冒しています。私はそれを知っています。そして、私はあなたを水を飲むかのように撃つかもしれない異教徒と会います。そしてあなたはただそのために支払われているのです。あなたは彼等の土地に来たのです - 同様に簡単に聖書の中であなた方に挑戦する悪魔がやって来ます。しかし、時代を一度も見たことがないですが、我々の神が勝利を収めたのです。私は彼の御名の下で、主イエス・キリストの御名の下で、永遠の命の望み、復活、そして人生を持っているのです。
生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」私はそれが神の永遠の御言葉であると信じています。あなた方は同じことを信じますか?私のために祈ってくださいますか?お祈りします。
我々がまた会う日まで神が我々を見守ってくださいますように。
142
さて、ちょっと立ち上がってみましょう。頭を下げましょう。この小さな歌を歌うのは、我々にとって正しい事ではないですか?あなたは我々の歌「I Love Him」を覚えていますか?皆さん覚えていますか?それではただ歌いましょう。愛する姉妹、歌ってくださいますか…?私もあなた方の演奏に感謝します、姉妹。
彼を愛し、彼を愛します。
彼が最初に私を愛したからです。
そしてカルバリーの木の上で
私の救いを買い取ってくださった。
今、我々は歌を変えようとしています
私の信仰はあなた、を見上げます。
カルバリーの子羊であるあなた
救い主であられる聖い方
今、私が祈っている間に
全ての罪の意識を取り去ってください
ああ、この日から
あなたの物にしてください。
143
それはあなた方に何かをしてくれませんか?何人の人達ががその本物が好きですか?私はヨベルの歌が好きです、確かにそうですが、あなた方が崇拝の霊に入る時、それらの古い甘い賛美歌を愛していませんか?私は聖霊がこれらの壮大な歌を書いたエディ・ペロネットと彼らの上に動いたと思います。信じますか?
ファニークロスビーは書いた曲です:
私を通り過ぎないでください、優しい救い主よ、
謙虚な叫びを聞いてください。
他の人々をあなたが呼び出される間、
私を通り過ぎないでください。
あなたが安らぎの流れ全てなのです。
命より以上に
あなた以外に私のそばに誰がいるでしょう?
天国にもあなた以外には誰もいません。
素敵ではないですか?それで、「私は彼を愛しています」を歌いたくなりませんか。今からこれから、「私は彼を愛しています」を歌う間。我々が互いに愛し合いましょう。もし、お互いに愛し合っていないならば彼を愛することはできません。さて、ただお互い握手をして、立って、テーブルの向こう側に手を伸ばして、お互いに握手をしましょう。
彼を愛している、彼を愛している
彼が最初に私を愛して下さり。
そして私の救いを
カルバリーの木に
私の救いを買い取ってくださいました。
さて頭を下げて祈りましょう。
144
ウィリアムズ兄弟、若いウィリアムズ兄弟ににほんのちょっとここに来るようにお願いします。彼にこの聴衆を祈りの中で解散させられるかどうかをお願いします。
若いクリスチャンであるウィリアムズ兄弟を愛しています、そして、彼は本当に小さな家族でキリストのしもべであると思います。これらの、そして貴重なモーズリーの男の子たち、そして彼ら全員とたくさんの交わりを持っています。我々は一緒にいて、そしてここフェニックスにいる親愛なる多くの友人たち全てを心から愛しています。そしてその日の朝の幻の中で、彼は言った、「あなたが今までに愛していたすべてのものと、あなたを愛しているすべてのもの、神はあなたに与えられたのです。」と思います。
145
彼らの罪を悔い改める人がここにいます。床の上に、若い女性が泣いています。彼女のためにちょっと頭を下げて祈りましょう
親愛なる神よ、フェニックスに残されたあの小さな羊ですか?私は知りません、神様あなたがご存知です。でもいつかそうなるでしょう。しかし、天のお父様、これは疑いなくそうです。ですから、あなたが今彼女を助けて下さるように祈ります。優しく扉を開けてください。「さあ、私の子よ、着なさい。疲れ迷った道から来るのです。あなたは暗闇の中でそこにつまずいてきました。私はあなたを受け取るために今日出てきました。今」それは私の霊があなたに語り掛けています今その群れの中にあなたを入れる様にそれを与えてください、神よ。この若い女性がまさに人生の曲がり角にいるのです…「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネによる福音書第3章36節一部 口語訳[翻訳者]) この若いクリスチャンにそれを授けてください、神様。
父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」(ヨハネによる福音書 第6章37節 ) 聖徒が若い女性の為に立って祈っている間、死ぬほどひどく投石されたパウロでさえ、彼は死にかかっていました。なぜなら、それらの聖徒たちの体の中には、その蘇らせる力が命の霊を聖パウロにもどしたのです。神様、それは確かに…死の祈りを祈れますあるいは、命への信仰の祈りによる人の死から命への信仰の祈りを祈ることができます。それをお与えください、親愛なる神様。我々はあなたを待っているので、今祝福してください。イエス・キリストの御名によって、祈ります。さて、頭を下げて、ウィリアムズ兄弟に尋ねます。