CAB-01 七つの教会時代の解説 第一章 イエス・キリストの黙示
An Exposition of the
Seven Church Ages
Chapter One
七つの教会時代の解説 第一章
イエス・キリストの黙示
ヨハネの黙示録1:1-20
1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
1:8 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を
言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
第一章への緒言
ヨハネの黙示録1:1-3
「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」
この本の筆記者は(著者ではなく)聖ヨハネです。歴史家は、この本の執筆時点では、彼はパトモス島にいったが、彼は、人生の最後の期間にエペソに住んでいたことに同意します。これはヨハネの人生の物語ではありません、これは将来の教会時代についてのイエス·キリストの黙示です。第3節でそれは予言と言い、それは本当のことです。
この本は、通常、ヨハネの黙示録と呼ばれるが、それは正しくありません。それはすべての時代のクリスチャンのためにヨハネに与えられたイエス·キリストの黙示です。それは聖書の中で筆記者に個人的に現れることを通して、イエスご自身によって書かれている唯一の本です。
これは聖書の最後の本ですが、福音書時代の始まりと終了を教えてくれます。
revelationのギリシアの語は“apocalypse”で、「除幕」を意味します。この「除幕」は、彫刻家が彫刻作品にかぶる布を取り除き、観衆に展示する時の様子を例にして完璧に説明できます。それはふたを取ることであり、以前隠された物を明かします。
明らかにされるのがキリストに対する黙示だけでなく、これから来る7つの教会時代についての黙示です。
真の信者に聖霊によって黙示の重要性が強調しすぎることがありません。黙示あなたにとっての黙示はおそらくあなた自身が実感しているのよりも遥かに重要です。今、私は言っているのはヨハネの黙示録とあなたのことではなく、 すべての黙示について話しています。それは教会にとてつもなく重要です。あなたは、マタイ16章でイエスが弟子たちにこの質問をしたのを覚えていますか。
「『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』
かれらは言いました。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』
イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』
シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』
するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』
ローマカトリック教会は、教会はペテロの上に建てられていると言う。今では本当に現世な考えです。神はこのような不安定で、主イエスを否定し、そうしたときに呪われた男の上に教会を建てられることなんてできるのですか。神は罪の中に生まれた男の上に御自分の教会を建てられることはできません。そして、それは神がその場を神聖な場所とされることができるかのようにそこに横たわっているいくつかの岩ではありませんでした。それはプロテスタントが言うように、教会がイエスの上に構築されていることでもありません。それは黙示です。それは聖書に書かれているように:「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。この岩(黙示録)に基づいて私はわたしの教会を建てよう」:教会は黙示に基づいて、「主はこう仰せられました」の上に建てられました。
どのようにアベルは神に適切な犠牲を提供するためにどうすればよいのかを知っていましたか?信仰によって、彼は血の黙示を受け入れました。カインはこのような黙示(彼は戒律を持っていたにもかかわらず)を取得できなかったので、正しい犠牲をささげることはできませんでした。神からの黙示が違いを生み出し、アベルに永遠の命を与えられました。今、あなたは、牧師が何を言うかもしれません、または神学校で教えられるかもしれません、雄弁であなたに教えられるかもしれません、イエスがキリストであり、主の血であなたを清め、神があなたの贖い主であることをあなたに明らかにするまでは、あなたは永遠の命を持つことはありません。それは聖霊の黙示がされたことです
ヨハネの黙示録は、イエス御自身の黙示とイエスがそれらの7つの時代の教会のためになさっていることの黙示です。それは黙示です、なぜなら、弟子たち自身はこれらの記録された真理を知りませんでした。これは、以前に彼らに明かされませんでした。あなたは使徒の働きでは彼らがイエスのもとに来て、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と尋ねたことを覚えていますか。そしてイエスは、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。」と答えられました。使徒たちは、まだイエス様はこの世で王国を作られると考えていました。しかし、主が構築するつもりのものは霊的な王国だったのです。でも、主は父なる神が御自分にそれをまだ明かされていなかったため、その中の御自身の位置について使徒たちに教えられることができませんでした。主の死と復活の後、主が仲介者として働かれるこの特定の時間に、彼は御自分が教会の中での栄光と存在についての黙示をヨハネに述べられることができます。
この黙示で主は悪魔の終結が何であるかを教えられます。主は御自分がどうやって悪魔に立ち向かわれ、火の池に投げ入れられるのかを教えられます。主はサタンに従った邪悪なものたちの終結を明らかにされます。そしてサタンはそれが嫌いです。(ヨハネの黙示録20:10)
あなたは今まで、サタンは聖書の他の本と比べて特に2冊の本が嫌いなのに気づいたことがありますか?自由主義の神学者と疑似科学を通して、サタンはいつも創世記とヨハネの黙示録を攻撃しています。この2冊の本の中で、我々はサタンの起源、その邪悪な行いと絶滅が見えます。彼はそれらを攻撃している原因です。サタンは公開されることを憎みますが、この2冊の本の中でまさにサタンが何のものかをはっきりと暴露しています。イエスはサタンについて言った、「彼はわたしと関係ない。わたしも彼と関係ない。」(ヨハネの福音書14:30)彼はわたしに対して何もすることはできません。悪魔は、その異なることを証明したいと思いますが、できないです。そのため、サタンはできるだけ御言葉の信頼性を破壊しています。しかし、教会は御言葉の聖霊の黙示を信じてサタンを信じないときに、ハデスの門は教会に勝つことはできません。
もし気にしないのであれば、私は自身の伝道事業からここに少し言葉を入れてみましょう。あなたはみな私の人生にあるこの贈り物は超自然的であることを知っています。その贈り物によって、私は聖霊によって病気や人の心の中の考えを判別し、 そして神のみぞ知り隠されていることは私には明かにされます。あなた方が私と一緒に立って、サタンは自分が暴露されそうだと知った時の人々の顔を見られたらと思っています。ほら、私が人について話しているのではありません。それはサタンが罪、無関心、病気を通して人たちの命を制御しているということです。しかし、あなたたちは彼らの顔を見るべきです。サタンは、暴露されそうと知ったとき、人々の最も独特な変化が表情の上に来るわけですサタンは恐れている。サタンは、神の御霊がサタンの行いを人々に知らせることを分かっています。彼はこれらの集会をとても嫌っている原因です。人々の名前が呼ばれ、病気名が明らかにされたときに、サタンはそれを嫌っている。これは何ですか?それは読心術でも、精神感応でも、魔術でもないです。それは、聖霊による黙示です。それは私が知ることができる唯一の方法です。もちろん現世的な考えはそれが聖霊以外のものだと言うでしょう。
あなたがたにサタンが教会でイエス·キリストの黙示のこの本を憎むもう一つの理由をお見せしましょう。サタンは、イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがないことを知っている。サタンは90%神学者よりもこのことを知っています。彼は、神が本質的に不変であると同じく、神の行いも不変であるということを知っている。したがって、ペンテコステ時に神の御力を持った初期の教会こそがイエスは御自分の真の教会だと主張されているのをサタンはよく知っています。(なぜならそれはマルコによる福音書16章17-18節に書かれていたのを成就したからです。) 他のすべての教会は偽物です。そうです。
これを覚えて下さい。真の教会中におられるキリストは使徒の働きの続きです。しかし、ヨハネの黙示録では、反キリストの霊が教会に来て、それを汚し、ぬるくて、形式ばった無力なものにしようとすることを示しています。それはサタンを暴露し、火の池に投げ込まれた時点に至るまで神の民を滅ぼし、神の御言葉を信じないようにする行いを明かにします。 サタンはこれに反抗しています。我慢できないのです。彼はもし人々が真の教会の黙示を得て、真の教会とは何か、その立場は何か、そしてより大きなことをすることができることを知ったら、無敵の軍隊になることを知っています。信者たちはキリスト教の教会の枠組みの中で2つの霊がいるという真の黙示を得て、神の御霊によって反キリストの霊を識別し、撃退すれば、サタンが教会の前に無力になります。昔荒野で、キリストはあらゆる試みで御自分を制御しようとしたサタンを撃退したことと同じく、間違いなく、今日も確実にサタンを撃退できます。はい、サタンは黙示を嫌っています。しかし、我々はそれが大好きです。私たちの命の中での真の黙示によって、ハデスの門は私たちに打ち勝つことはできません、逆に我々はそれらに打ち勝ちます。
このメッセージの最初に今勉強している本は、イエス御自身の将来教会時代でのお仕事の真実の黙示と述べたことを思い出すでしょう。その後、私は、それは聖霊による黙示が必要であり、そうでなければ分からないと述べました。これらの2つの考えを合わせると、普通の勉強と考察では、この本の真実を理解することができない、それは聖霊の働きが必要だと分かります。つまり、この本は誰も明かにされるのではなく、特別な人々だけに明かにされることを意味します。それは予言の洞察力を必要とします。それは、神からの御言葉を聞く能力を必要とします。それは、超自然的な指導を必要とします。ただ学生みたいに、節と節を比較することではないのです。それは良いことですけれども。奥義は聖霊の教えを必要とします、そうでなければ、いつまでも明らかになることはできません。私たちは神の言うことを聞いて自分の心を開くこと、そして聞いて知るために聖霊に従順にすることがいかに必要でしょうか。
すでに述べたように、この本(黙示録)は聖書を完結させています。しかも聖書の正典で正確に配置され、最後に置かれてあります。今あなたたちはどうして この本を読んだり聞いたりする人は誰でも恵まれると言われるのかが分かります。それは悪魔に対しての権威をあなたに与える神の黙示です。この中の御言葉を追加したり、削除したりする人は必ず呪われるのは、あなたたちには分かるでしょう。必ずそうでしょう。だれが神の完全な黙示から何を取り出せば、敵を克服することができるであろう?それは単純なことです。御言葉の黙示ような打ち勝つパワーより強いものは何もありません。3節では、本書には特別な関心を示す人に祝福を与えています。 私は、これは旧約聖書中祭司たちが朝会衆に御言葉を読む習慣を指すと思います。ほら、多く人は読むことができませんでした ので、司祭は彼らに読む必要がありました。御言葉である限り、祝福がそこにありました。読んだり聞いたり、 それは関係ありませんでした。
「時は近づいている。」以前は、時間はまだ近づいていませんでした。神の知恵と計画では、この力強い黙示(ただし、神は完全に知られている)はこれまで出て来ることができなかった。そこで我々はすぐに一つ原則を学ぶ - 各時代に与える神の黙示は、その時代のみの、特定の時刻にしか来ることができません。イスラエルの歴史を見てみましょう。モーセに神の黙示は歴史の特定の時間にだけ来ました。特に、人々は神に叫び求める時に来ました。イエス御自身は、時が満ちたときにいらっしゃいました。彼は神性の完全な黙示です。そしてこの時代に(ラオディキア)神の黙示は、その期限内に来るでしょう。これはたじろぐことがなく、早すぎることもないでしょう。考えてよく耳を傾けて下さい、我々は終わりの時にいるのである。
(二)ご 挨 拶
ヨハネの黙示録1:4-6。
「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
「アジア」という単語は、実際に小アジアを意味します。それは、インディアナ州の大きさぐらいの小さい区画です。七つの教会は、それぞれの特徴によって他のすべての教会から選ばれました。同じ特徴はその後の何世紀間に続けて到来するそれぞれの教会時代に見えます。
王座の前に七つの霊は、それぞれが住んでいた時代に向けた伝道事業を与えられた7人の使者の聖霊です。
「今いまし」、「昔いまし」、「後に来られる方」、そして 「死者の中から最初によみがえられた方」、「地上の王たちの支配者」。「アルファであり、オメガ」、「万物の支配者」、といったこれらのすべての表現はただ一人の同じ人物を指しています。それは御自分の血で私たちの罪を洗って下さった主イエス·キリストです。
ヨハネにおける神の御霊は、イエス·キリストの最高神性を定め、神格を唯一神として明らかにするために表現しています。今日は致命的な誤りがあります。これは、唯一神の代わりに3つの神がいると主張することです。イエスは、御自身でヨハネにこの黙示を与えられ、この誤りを訂正しています。それは、3つの神ではなく、3つの職務を持つ唯一神がいるということです。父、子、聖霊という3つのタイトルを持たれる唯一神がおられます。この強大な黙示は、初期の教会が持っていたものであり、それは水のバプテスマの正しい方式と一緒に、この最後の日に復興させなければなりません。
現代の神学者は私を賛成しません。なぜならある偉大なキリスト教の雑誌に下記のように書いてあります:「その教えは(三位一体について)まさしく旧約聖書の中心と核心であり、同様に完全に新約聖書の核心でもあるのです。新約聖書は旧約聖書と同じく複数の神が存在するという教えに反対しています。しかし、新約聖書は同じようにはっきりと父は神であり、御子は神であり、そして聖霊は神であることを教示しています。これらの3つは、同じ人の3つの側面ではなく、お互いに本当に個人的な関係で立っている3人です。新約聖書は同等の透明性と教えています、父は神であり、御子は神であり、聖霊は神である。そこで、我々は3つで一つの神という偉大な教義を持っています。」
彼らはまたこう言っています、「神は、聖書によれば、ただ一つではなく、3つが一つの神の中にいるのです。これは三位一体の大きな奥義です」。
それは確かに大きな奥義です。どのように3つが唯一神になることができますか?それを支える聖書はありません。また、それは知的な推論にさえも不足していることを示しています。3つの異なった人は、同一の実質でも、3つの神になるのです。そうじゃなかったら、言語的にまったく意味を失ってしまったことになります。
再び、これらの言葉に耳を傾けて、「私はアルファであり、オメガ、始まりと終わり、主はこう仰せられた、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。」(ヨハネの黙示録1:8)。これが神性です。これは、単に人間の預言者ではありません。これが神です。そしてそれは、三つの神の黙示ではなく、唯一神、全能の神の黙示です。
最初の教会は3つの神を信じていませんでした。あなたは、使徒たちの中でこのように信じる者を見つけることができません。この理論は使徒時代の後のニカイア会議で入ってきて、本当に議題、そして核心教義になりました。神性の教義はニカイアで二方向に分かれました。そしてその分割から両極端ができました一つは、実際には3つの神を信じ、多神教に入りました、そして、他のものはユニテリアンに入りました。もちろん、この教義は時間をかけて現れました。しかしそれは確実にきて、今もあります。しかし、ヨハネの黙示録を通して聖霊によって教会に与えた黙示は、「私は主イエス·キリスト、私はそれのすべてです。他の神はいません」でした。そして彼は、この黙示録の上に御自分の印を押されました。
考えてみましょう:誰がイエスの父なのでしょうか。マタイ1:18では、「彼女は聖霊によって妊娠していた」と書かれています。しかしイエス御自身は神が御自分の父であると主張されました。私たちはしばしば、これらの用語を表現するように、父の神と聖霊の神は父と聖霊一つにしているのです。もちろんそうです。そうでなかったら、イエスは二人の父がいることになってしまいます。イエスは御自分と御自分の父は一つであり、二人ではないと述べられたことに気づいてください(ヨハネの福音書10:30)。それは神が唯一神であることを証明しています。
このことは歴史的にも聖書的にも真理なので、人々は三位一体がどこから来たのだろうかと不思議に思うでしょう。これは、紀元後325年にニカイア会議での基本教義になりました。この三位一体は(絶対的に聖書に反する名詞)ローマの多くの神に基づいていたのです。ローマ人は多くの神々を持ち、彼らは多くの神々に祈りました。彼らはまた、先祖を仲介者とみなして、先祖に祈りました。それは、古い神々に新しい名前を与えるための手順だったので、彼らは聖徒を使うことによってこういうことを聖書化にするのです。したがって、木星、ヴェネツィア、火星などの代わりに、彼らはパウロ、ペテロ、ファティマ、クリストファーを使ったのです。彼らは、唯一の神を通して異教の宗教の仕事を作ることができなかったため、神を三つに分割しました。彼らの祖先は仲介者にしていたように、この聖徒たちは彼らの仲介者にされました。
それ以来、人々は3つの職務もしくは現われを持つただ一つの神であることに気づきません。彼らは聖書によると神は一つであることを知っています。しかし、彼らは神がぶどうの房のようなもので、同じ神性を持っているという3つの身柄は全員が平等に共有しているような異様な理論にしようとしました。 しかし、ヨハネの黙示録にははっきりイエスは「今いまし」、「昔いまし」、「後に来られる方」であると書かれています。「アルファとオメガ」はイエスが「AからZまで」 、或いは「これのすべて」であることを意味しています。主はすべてです。主は全能です。主はシャロンのバラ、谷のゆりの花(ソロモンの雅歌2:1)、輝く明けの明星(ヨハネの黙示録22:16)、正義の若枝(エレミヤ書23:5)、永遠の父(イザヤ書9:6)父、子、聖霊(マタイの福音書28:19)です。主は、全能の神であり、唯一の神です。
テモテへの手紙第一3:16にこう書かれています、「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『神は肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』」これは、聖書に書かれていることです。ここでは第一または第二または第三者についての事は書かれていません。それは、神が肉体においての現われだったと書かれています。唯一の神です。唯一の神は、肉体において現われました。それではっきり決着がつきます。神は人間の形でいらっしゃいました。それは別の神になりません。神であり、同じ神です。そして、それは黙示であり、それは今でも黙示です。唯一の神です。
私たちは聖書の中に戻って、初めに、与えられた神御自身の黙示を見てみましょう。偉大なエホバは火の柱でイスラエルに現われました。聖約の天使として、その火の柱に住んでいて、毎日イスラエルを導きました。聖殿では、彼は偉大な雲で御自分の到来を告げられました。そしてある日、神はご自分のために用意された処女に生まれた体内に現れました。イスラエルのテントの上に住んでいた神は、自分自身肉のテントを取り人間の仲間として住んでいたが、同じ神であった。
聖書は、神がキリストの中にいることを教えています(コリント人への手紙 第一5:19)。身体はイエスです、キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています(コロサイ人への手紙2:9)。これ以上の明確なことはありません。奥義でしょう、確かにそうですが、実際の真理であります、十分に明確なことであります。昔は3つの神ではなかったら、今も3つの神ではあり得ないのです。唯一の神であり、この同じ神が人となりました(ヨハネの福音書1:14)。
イエスは言いました「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」、ヨハネの福音書16:27-28。まさにそれが起こりました。主は御自分の死、埋葬、復活、そして昇天の方法で地球から姿を消されました。そこでパウロは、ダマスコへの道で主に会い、主はパウロに話しかけて言われた「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒の働き9:3-5)。主は火の柱、光でした。主は肉体の幕屋の前にいたのと同じ形に戻った。それはヨハネが見たこととまったく同じです。ヨハネの福音書1:18 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネが言っているイエスがいる所に注目してください。主は父の懐におられます。
ルカの福音書2:11 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」天使は彼らに言ったとおりに、彼は、キリストとして生まれた、8日後イエスと名付けられ割礼されました。私はブラハムの家族に生まれた、私が生まれたとき、彼らは私にウィリアムという名を付けました。彼はキリストですが人間の仲間にイエスの御名を付けられました。人々が見える幕屋はイエスと呼ばれました。彼は栄光の主であり、全能者が肉体で現われました。彼は父、子、聖霊と呼ばれる神です。すべてのことは彼を指しています。
父、子、聖霊はただタイトルです。名ではありません。私たちは、主イエス·キリストの名によってバプテスマを授けの理由は、これはタイトルではなく、名前です(使徒の働き2:38)。それはあなたの生まれたばかりの息子に名前を付けるのと同じように、これらのタイトルの名前です。彼は赤ちゃんで、息子は彼のタイトルです、あなたは彼にヨハネ·ヘンリー·ブラウンという名前を付けます。あなたは「イエスの名」だけでバプテスマを授けていません。世の中にJesusという名前の人は数千人もいます、私たちの救い主の前にいました。しかし、キリストとして生まれたのは、唯一1名であり、つまり「主イエス·キリスト」であります。
ある人はイエスが神の永遠の御子であることについて話しています。矛盾ではありませんか? 誰が永遠である「息子」のことを聞いた? 息子は始まりがありますが、永遠のものは始まりがありません。彼は肉体に現れた永遠の神(エホバ)である。
ヨハネの福音書では(ヨハネの福音書1:1、14)、こう書かれている「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」彼は、父の永遠の言葉に真実・忠実な証人だった。主は預言者であり、父なる神が命じられたことを言うことができます。主は「わたしが父にいる」と言われました。それは幕屋としてのイエスが言っている、「私の父は私にいる」ということです。
神は多くのタイトルを持っている: 「私たちの正義」と 「私たちの平和」と「常に存在する」、および「父」と 「子」、および 「聖霊」;しかし、神の人間の名前はただ一つだけ、つまりイエスです。
彼は3つの職務を持ち、三重の現わし方を持っているので混同しないでください。地球上で主は預言者だった。天国で主は司祭であり(ヘブル人への手紙4:15) 、地球に戻って来て主は王の王である。「昔の主」 はイエス、預言者でした。申18:15、18,19、ヨハネの福音書4:19 「昔の主」 は大祭司であり、中保者とし、私たちの弱さにタッチできる「ヘブル人への手紙4:15-16」。地球上で主は御言葉—預言者でした。モーセは主のことを言いました。「あなたの神は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わない人を民の中に取り除きます。」(申命記18:15、18,19)。
イエスについてのこれらの事実に注目してください。地球上で主は、預言者、子羊、そして子でした。これは、主は3つに分けられているということではありません。これらはただひと人イエスの三つの現われ或いは職務でした。
三位一体論者が聖書の中に非常に好きな部分があります。彼らはこれで神格内の複数の人というポイントを証明できると思っています。 それは、ヨハネの黙示録5:6-8です。
「さらに、私は、御座、そこには、四つの生き物がいる、と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」
孤立された場合に、確かにこれらの節は、彼らのポイントを証明するように思われる。注意してください、私が「これらの孤立された節」と言いました。しかし、ヨハネの黙示録4:2-3と9-11を読んで下さい。「たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」
「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 2節の「その御座に着いている方(複数ではなく、1つです)があり」
慎重に注意しましょう。3節でこうは言う、彼(彼ら)は碧玉や赤めのうのように見えた。 9節でこう言う、これらの生き物が御座に着いている方(彼であり、彼らではなく)に、栄光をささげるとき、11節でこう書かれていた、彼らは叫んで言った「主よ(主たちではなく)。あなたはふさわしい方です。」 11節では、王位におられるこの方は“創造主”であると言っています。この方はイエス(ヨハネの福音書1:3)であり、旧約聖書のエホバ - 御霊-神(創世記1:1)です。
しかし、私たちはそこに停止しないようにしましょう。黙示録3:21を読みましょう。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
また、ヘブル人への手紙12:2を読みましょう、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
下記のことを注意して下さい、黙示録を書いていたイエスによると、主は父なる神と御座に座られました;パウロの中の聖霊は(パウロの中の聖霊はキリストの中の聖霊と同じで、それは予言の御霊です。御言葉はこの御霊から出ています。)、神の御座の右に着座されますと言いました、しかし、ヨハネは見る時に、王座の上におられたのは一人だけでした。いまだかつてありませんが、ヨハネの黙示録5:6-8(ヨハネの黙示録4:2-3から続く)では、我々はやっと子羊が王位の上に座っておられた「あの方」から本を取られるのを見ることができます。これは黙示録4:2-3と9-10で示されています。それは何でしょうか。それは「唯一の神」の奥義です。主(イエス)は神から来て、肉体で現れ、死亡し、そして父の懐に戻ります。ヨハネが言ったように:「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1:18)」今は神(救世主)が御自分の花嫁を受け入れ、イスラエル人に御自分を知ってもらうために戻って来る時です。したがって、我々は、神がさらに人に関連する職務を引き受け、つまり「ダビデの子、王の王、主の主」、かつ、異邦人の新郎新婦です。二人の神ではない、唯一の神が偉大な職務とタイトルの現れです。
人々は、主は預言者であることを知っていました。彼らは、メシアのしるしが預言者からのみ来ると知っていました。
ヨハネの福音書1:44-51
「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。』ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。『これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。』ナタナエルはイエスに言った。『どうして私をご存じなのですか。』イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』ナタナエルは答えた。『先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」
人の心の中の思考を判別する能力は、神の選民がこれはメシアであり、神の油注がれた言葉だったと理解できるようになります。
ヘブル人への手紙4:12 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
井戸の傍のサマリアの女性はイエスが彼女の心の思いを識別するお話しを聞いてから、彼は預言者だと歓呼して認めました、メシヤは、その偉大な能力で知られているであろうことを宣言しました。ヨハネの福音書 4:7-26 「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは肉を買いに、町へ出かけていた。)。そこで、そのサマリヤの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。イエスは答えて言われた、『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』
イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
ヨハネの黙示録15:3 、「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。』分かりますか。 我々の罪のために、神の憐れみの御座の上に贖いとして御自分の血を持っている子羊である大祭司は、全能の神である主です。それは、主の現在の職務です。それは主が現在されていることです、我々の罪のために主の血を代わりに訴えています。しかし、ある日、その子羊は、ユダ族のライオンになります。彼は力と栄光で出て来て、王として支配する御自分の権限をとられます。彼は、この地球の来たるべき王です。当然のことながら、それは、彼が現在王でないと言っていません。彼は、我々の王(聖徒の王)です。今は霊的な王国です。それは、この世界のシステムに属しません。我々もこの世界に属しません。 それは我々が世の中の人と違う振る舞いをする理由です。私たちの国籍は天にあります。私たちは、イエスが王である所における私たちの新生の霊を反映しています。私たちの女性は男性の服を着ないし、自分の髪を切ったり、化粧品などこの世が大好きなものを使用していない理由です。それは私たちの男性が飲酒と喫煙と罪の中の娯楽を追求しない理由です。私たちの支配権は罪を支配する権限です、それは私達に宿っているキリストの御霊の力です。地球上のすべての王国が取り壊されるが、我々の王国は残ります。
今、私たち唯一の真の神の職務について話しました。さらに、聖書の勉強で神の栄光に注目しました。しかし、知識によって神を知るのではなく、御霊の黙示によって神を知ります(コリント人への手紙第一2:10-11)。肉体におられて、イエスとして知られていた神は火の柱に戻ってきました。しかし、彼は御自分が戻って来て、と御霊によって人々の中にお住みになることを約束されました。ペンテコステの日に、火の柱が降りてきて、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。神は何をなさいましたか?神は教会に御自分を分け、そこにいるすべての男性と女性に御自分の一部を与えました。彼は彼がそう言ったように教会の中で御自身を分けました。
ヨハネの福音書14:16-23
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。』イスカリオテでないユダがイエスに言った。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。』イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』
イスカリオテでないユダがイエスに言った。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。』
イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
イエスはわたしが父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでも彼ら(使徒)とともにおられるのですがまだ彼らの中に宿していません。これはキリストです。23節、ご自分と父について話しますと、彼は「私たちは来ます」と言われました。それこそ:御霊は来られます、同じ神の御霊は父なる神として現わしたり、御子として現わしたりします、そして、沢山の信者において現わします:唯一の神の御霊です。
それはなぜ誰もその聖者は法王、もしくはその聖者は主教や神父だと言わない理由です。その聖者はキリスト、私たちの中にいる聖霊です。聖職階級はよくも、平信徒は言う言葉がないと断言しています。平信徒にはそれぞれが言いたいことを持っています。平信徒は、それぞれは仕事があり、福音を広める仕事を持っています。聖霊はペンテコステの時に来てそれぞれにご自身を分け与えられた。それはキリストの言われたことを成就されました:
「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。(ヨハネの福音書14:20)」
偉大な「I AM」(わたしは)、全能の神は、聖霊の形で来られ、真の教会を満たされています。神は御自分の行きたいところに行き、御自分が覆いかぶせたい人の上に降りる権利を持っておられます。私たちには「聖人」はいません。聖霊がおられるので、主の真の会衆全体が聖なるものです。聖霊こそが聖なるものであり、会衆ではありません。
この黙示はこうです:イエス·キリストが神であることです。旧約聖書のエホバは、新約聖書のイエスです。あなたがいくら努力しても3つの神が存在することを証明することはできません。しかし、神はひとりだけという真理が分かるために聖霊による黙示が必要です。黙示によってのみ、旧約聖書のエホバは新約聖書のイエスであることを知ることができます。サタンは教会に入り人々がこの真理に対して盲目であるようにさせました。人々は盲目にさせられ、間もなく、ローマの教会が主イエス·キリストの名によるバプテスマを停止させました。
聖書がこのように多く曲解される状況の中に神性についての真理が分かるために聖霊から本当の黙示が必要であることは認めます。しかし、かつて、打ち勝った教会は黙示の上に建てられているので、神が御自分の真理を私たちに明かしてくださることを期待することができます。ただし、実際に水のバプテスマについての黙示は必要としません。それはすでにあなたの目の前に置いてあります。使徒たちが主から父と子そして聖霊の御名でバプテスマを授けるようにと言われてからすぐに惑わされ、あとから彼らはわざと従わなかったということを、知っていたでしょうか。彼らは御名が何であったかを知っていた。彼らはその御名とは何かを知っていて、そして聖書の中に、主イエス·キリストの御名以外の他の方法で洗礼を授けたことは1箇所もありませんでした。常識はあなたに使徒の働きは行動中の教会についての本であり、使徒たちはその方法で洗礼を授ければ、その方法は洗礼の正しい方法だと教えるでしょう。もしあなたはこれが言いすぎだと思いましたら、下記のことはどう思いますか?主イエスの御名において洗礼を受けなかった人は誰でも、もう一度洗礼を受けなければなりませんでした。
使徒の働き19:1-6「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来ました。そして幾人かの弟子に出会って、 『信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。 『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマです』と答えた。 そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです』と言った。 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」これです。エペソでこれらの善良な人々がこれから来られるメシアについて聞いていました。ヨハネは主(メシア)のことについて説教していました。彼らは罪の悔い改めバプテスマを受け、イエスを信じることを期待していました。しかし、その時はイエスに振り向き、罪の赦しのバプテスマを受ける時間でした。それは、聖霊を受ける時間でした。そして、彼らは主イエス·キリストの名によってバプテスマを受けたとき、パウロは彼らの上に手を置いて、聖霊が彼らに下りました。」
ああ、それらは素晴らしいエペソ人です。安心できる人がいるとしたら、彼らです。彼らがこれまでに至る道のりがどれだけ長いかに注意してください。彼らは来るべきメシヤを受け入れるためにはるばる遠いところからやってきました。彼らはメシアを受け入れることのために準備ができていました。しかし、気付きましたか?これでも彼らはメシアを逃しました。彼が来て、行ってしまいました。彼らは主イエス·キリストの名によってバプテスマを受ける必要がありました。彼らは聖霊に満たされる必要がありました。
あなたが主イエス·キリストの名によってバプテスマを受けてきたのであれば、神は御自分の御霊であなたを満たされます。それは御言葉です。
私たちが読んだ使徒の働き19:6が使徒の働き2:38を成就しました。
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
ほら、パウロが聖霊によって言ったことは、ペテロが聖霊によって言ったこととまさに同じです。彼らは言ったことを変えることができません。これは五旬節から選ばれた人の中の最後の人まで必ず同じでなければなりません。
ガラテヤ人への手紙1:8 「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」
何人かのワンネスの人が間違ったバプテスマを授けています。あなたは水中に浸ることによって救われるみたいに、新しく生まれるためにバプテスマを授けています。新しく生まれることは水のバプテスマではできず、聖霊の働きによってできるのです。聖霊によって、「悔い改めて一人一人主イエスの名によって洗礼を受けなさい」と命令を与えた人は、水が人を新しく生まれさせるとは言わなかった。彼は、それが「神に向けた正しい良心」の唯一の証拠であると言いました。それがすべてでした。
ペテロの手紙 第一3:21、「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」
私はこれを信じます。
もし誰もが歴史では、主イエス·キリストの名前ではなく、他の方法で水の洗礼を証明することができるという間違った考えを持っている場合、私は、あなたが歴史を読み、自分で調べるように助言するでしょう。以下は、ローマ西暦100年に行われた洗礼の真の記録であり、1955年12月5日の「タイムズ」誌で再び掲載されました。「執事は手を上げて、パブリウス・デシウスは、洗礼堂のドアを通って来ました。プールに腰までの深さに立っていたのは、木材の販売商人マーカス·ヴァスカでした。パブリウスはプールに歩いて行ったとき、彼は微笑んでいました。 「お名前はクレディスですか?」と彼は尋ねました。 「クレドと言います。」とパブリウスは答えた。「私は私の救いはイエス·キリストから来ていると信じています。主はポンティウス·ピラトによって十字架につけられました。私は主と一緒に死ぬことで、主と永遠の命を持つことができます。」 それから強力な腕が彼を支えているのを感じながら、彼はプールの水の中に倒れました。 水が彼を覆ったとき、彼は「私は、主イエスの御名によってあなたにバプテスマを授けます。」という耳元で響くマーカスの声を聞きました。
真理が失われるまで、ずっとこのようにしました。(そして、最後の時代になるまでこの真理は戻ってきませんでした。 これはニカイア会議からこの世紀の始めまでのことです)。彼らは主イエス·キリストの名によってバプテスマを授けます。しかし、それは戻ってきました。聖霊がそれを与えたい時にサタンは黙示を抑えることはできません。
そうですね、三つの神があった場合は、ひとりの父、ひとりの御子、ひとりの聖霊のためにバプテスマを授けることがよいかもしれません。 しかし、ヨハネに与えられた黙示は、唯一神が存在しており、その名は主イエス·キリストであり、あなたが1つの神と唯一の神のためにバプテスマを授けるというものでした。それがペンテコステの際にペテロがこのようにバプテストを授けた理由です。彼はその黙示に忠実でなければなりません。 使徒の働き 2:36、「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」それが神、「主イエス・キリスト」です。
もしイエスは、主とキリストの「両方」でしたら、主(イエス)は他の人ではなく、 「父と子と聖霊」がひとりの人間として肉体ではっきり現われているのです。 それは、 「神は三位の中にいる、祝福された三位一体」ではありません、ひとりの神、三個の主なタイトルを持った一名です。三つの職務はこれらのタイトルをはっきり現わしているのです。もう一度それを聞いて下さい。この同じイエスが「主とキリストの両方」であり、主(父)とキリスト(聖霊)はイエスです。 主(イエス)は、それらの両方(主またキリスト)だからです。
もしそれが私たちに神性の真の黙示を示すことができないなら、もう示せるものはないでしょう。主は別の者ではありません、キリストが別の者ではありません。このイエスは主イエス·キリスト:唯一神なのです。
「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネの福音書 14:8-9)「わたしと父とは一つです。(ヨハネの福音書 10:30)」あるとき私はそれを引用しました。 ある女性は「ちょっと待って、ブランハム、あなたとあなたの妻が一つです。」と言いました。
私は言った、「そういう意味ではありません。。」
彼女は言った、 「私は理解できません。」
そして私は彼女に言った、 「あなたは私を見ていますか?」
彼女は言った、「見ています。」
私は言った“、「あなたは私の妻を見ることができますか?」
彼女は言った、「できません。」
私は言った、 「その『一つ』は違うことです。なぜなら主はこう言われたからです、『わたしを見た者は、父を見たのです。』」
預言者は、「夕暮れ時に、光がある。(ゼカリヤ書 14:7)」と言いました。賛美歌ではそれが書かれています:
「夕暮れ時に、光がある、
あなたは栄光への道をきっと見つけるでしょう
水による洗礼は今日の光、
イエスの尊い御名によって埋葬され。
老いた者も若い者も、みな自分の罪を悔い改め聖霊がかならず宿り
夜の光がもはや来た
それは神とキリストが一つであることの証拠になる。」
それほど大昔ではないが、 私はユダヤ人のラビとしゃべったことがありました。彼は私に、「あなたたち異邦人は神を3枚に切ってユダヤ人に渡すことができない、我々はそれをよく知っている。」と言いました。私は彼に言った、 「ラビ、まさにその通りです。我々は神を3つにカットしません。あなたは預言者を信じますか。」「当然私は信じます。」と彼は述べた。
「あなたはイザヤ9:6を信じますか。」
「はい。どの預言者について話していたのでしょうか。」「メシア。」
私は「神とメシアはどのような関係でしょうか。」と言った。
彼は「彼は神であろう。」と述べた。
私は「その通りです。」と言った。アーメン。
あなたは、神を3つまたは3つにわけることはできません。あなたはユダヤ人に一の位の父と一の位の御子と一の位の聖霊がいることを述べることができません。彼はすぐそのアイデアはどこから来たのかをあなたに教えます。ユダヤ人は、この信条は、ニカイア会議で確立されたことを知っています。彼らは私たちを異教徒として軽蔑するのも驚くことではありません。
我々は、変わらない神について話しています。ユダヤ人も信じています。しかし、教会はその変わらない神を一つから三つに変えました。しかし、光は夕方に戻っていました。さらに驚くべきことには、この真理は、ユダヤ人はパレスチナに戻った時に来ました。神とキリストは一つであり、このイエスは主そしてキリストなのです。
彼はご自分のことについてこう言われました「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」 (ヨハネの黙示録1:8)
もしあなたが黙示を持たないなら、神があなたに与えるように仰ぎ望みなさい。これは、黙示を頂く唯一の方法です。神からの黙示は、必ず神から来ます、肉体の能力から来るものではありません、聖霊の賜物です。あなたが聖書の中の御言葉を暗記できたとしても、それは非常に良いことですが、それはなんの効果もありません。聖霊によらない限り、だれもイエスがキリストであると言うことができないと御言葉に書かれています。あなたは、聖霊を受け入れなければなりません。そして、この方法によってのみ、聖霊はあなたにイエスはキリストであり、神、油を注がれた者だという黙示を明らかにすることができます。
神の御霊と神の御霊を明らかにする人以外、誰も神のことを知ることはありません。(コリント人への手紙 第一2:10-11) 我々は、世界のすべてのもののために祈るよりも、黙示を与えられるように神にお願いをすべきです。我々は聖書を受け入れ、それの偉大な真理を受け入れていますが、聖霊によっての黙示がない、それらのお言葉がまだよみがえっていないので、それはまだ大部分の人々にとって現実的ではありません。聖書のコリント人への手紙第二5:21では、私たちがイエス·キリストと連合による神の義となっていると書かれています。 分かりますか?それは我々がキリストの中にいることによって、神御自身の正義になると言っています。それは主(イエス)が私たちのために罪とされたと言っています。これは彼が有罪になったと言っているわけではなく、イエスが私たちのために罪とされ、私たちと彼と連合することによって、神の義となると言っているのです。もし(我々はそうしなければなりません)主が確かに私たちのかわりに罪とされたという事実を受け入れたら、私たちが主と連合することによって、神の義となるという事実も受け入れなければなりません。これを拒絶するとそれも拒否することであり、これを受けいれるとそれも受け入れることになります。私たちは、聖書にこう書かれているのは知っています。否定できません。しかし、神性の黙示は失いました、多数の神の御子たちに対してこの真理は不確実です。それは聖書の良い一節にすぎないのです。しかし、我々は、この聖書の一節を生き返らせることが必要です。これに黙示が要ります。
あなたたちを驚かせかつ助けることができることを教えましょう。新約聖書は、もともとギリシャ語で書いていたことを信じない聖書学生はほとんどいません。我々のすべての偉大な聖書の学生は、神が福音のために世界に三大貢献を持つ3つの偉大な国を与えたと主張しています。神は世界共通語を与えたギリシャ人を下さいました。神は救い主を通して真の宗教、神の真の知識を与えたユダヤ人を下さいました。彼は私たちに法律や高速道路のシステムを持つ統合された帝国を与えたローマ人を下さいました。そこで我々は、真の宗教を持ち、多くの人々に真理を表わすための言語を持ち、真理を実際に広めるため必要な政体や道路も持っています。 そして歴史的に言うとこれは確かに正しいと思われる。 そして今日我々のギリシャ学者は聖書の時代において、ギリシャ語は非常に完璧と正確であると言います。もしギリシャの学生は、洗練された、正確な文法を持っているのであれば、彼は本当に新約聖書の御言葉が教える内容を正確に把握することができます。
しかし、これは理論にすぎないのでしょうか?これは本当ですか?それはすべての宗派のギリシャの学者間の激しい論争の課題です。しかし、彼らが論じているものは同じギリシャ語の単語と文法のルールに基づいているものではありませんか?確かにそうです。 そこペルガモ時代で、325年のニカイア公会議の直前には、二人の偉大な学者アリウスとアタナシウスの間ではギリシャ語について、教義の論争がありました。彼らの論争はとても強烈で、かつ影響力が広かったので、歴史家は世界が母音の1ペア(2個の母音を持つ音節を指す)で2つに分かれたと言いました。
ギリシャがとても完璧で、神によって定められている場合、なぜそれがそこにこのような紛争だったのですか?確かに、私は皆ギリシャ語を知るのは神の意図ではないです。今日、私たちまたギリシャ語についての論争があります。例えば、ジョンソン博士によって書かれた本<無能なキリスト教の教会を分析する>という本です。 その中で彼は多くの有名なギリシャ語文法学者から引用して、ギリシャ語の文法の不変の規則を証明し、さらに聖書は人間が新たにうまれてから聖霊で洗礼を受けていることを自慢げに証明しています。彼はまた、預言という言葉は説教することを意味しますので、女性が教壇を引き継ぐことができることをきっぱりと述べています。しかし、彼は、その時の賢い学者たちを納得させることができましたか。まったくそういうことはありません。もしあなたは違う主張を持っている学者の本を見て、彼らの学問豊富な論述を聞けば、分かるでしょう。
本当のことは先に私が言ったことだけでなく、これからさらに説明します。今日はいくつかの学者はオリジナルの原稿はアラム語で書かれていたと主張しています。あれはイエスの時代の人々が使った言葉です。彼らは当時の人々は、一般的に想定されているようなギリシャ語で話したりと書いたりはしないと主張しています。実際には、我々の歴史家は、そのことで意見が分かれています。例えば、最も優秀な学者ションフィールド博士は、新約聖書は当時の人々に使われたギリシャ語方言で書かれていることをうまく証明しました。彼は手元にあった様々な文書に基づいて、力強く証拠を構築しました。一方で、もう一人有名な学者ラムサ博士は新約聖書がアラム語で書かれたのを確信しています。彼は有名な歴史家トインビーに支持され、その時代の言語はギリシア語ではなくアラム語であり、新約聖書が最初にアラム語で書かれていた可能性があると彼は思っています。
我々はあまりにもこの点において考えすぎる前に、欽定訳聖書とラムサ博士の翻訳バージョンを両方お読みしましょう。私たちはこの二つのバージョンは驚くべきほど一致しており、内容と教義も全く一緒であることに驚くでしょう。神はこれらの新たに発見された古い原稿や最近の出版された良く知られているバージョンは、私たちがすでにもっている物は信憑性があることを示して下さいます。そして、我々は翻訳者がお互いに論争するかもしれませんが、原稿は論争がありません。
聖書が書かれた言語に対する専門家の奥深い知識に基づいて聖書を解釈することができないことがわかりました。あなたはもし伝統に心が包まれているためにまだ悟ることができないのであれば、ここで最後の例があります。紀元33年、その時の律法学者、パリサイ人と多くの偉大な学者が、旧約聖書の文法ルールと言葉の意味を正確に理解できることに誰も疑問を持ちません、しかし、彼らはそのような深い知識を持っているにもかかわらず、それでも神の御子に現わされた神の約束された御言葉の黙示を見落としました。創世記からマラキまでの旧約聖書の多くの章は、主と主の聖職について述べているが、それにもかかわらず聖霊によって悟っている少数の人々を除いて、彼らは完全に主を見逃しました。
今結論を下しましょう、我々は聖書の中ですでにこの結論を発見しました。我々は御言葉のもっとも良い記録を取得するために聖書の最古と最良の写本を見つけるように努力すべきと信じます。しかし、我々はどんなに敬虔にしても、御言葉の研究と比較を通して聖書の真の意味を得られません。御言葉神の真の意味をわかるために,神からの黙示が要ります。 それはまさにパウロが言った通りです、「コリント人への手紙 第一2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」。真の黙示は、神が約束を立証することによって御言葉を解釈しているものです。
私が言ったことを誤解して、今我々が持っている神の言葉の正確さを信じていないと思わないで下さい。私は、この聖書は正確であると確信しています。イエスは地上におられた時、完全に旧約聖書を認証されました、旧約聖書の編集は新約聖書と同じ正確です。それについては間違いなく、我々は今日、神の絶対確実な言葉を持っており、敢えて御言葉から取り消したり、追加したりしようとする人はいません。しかし、私たちは聖書を与えた神と同じ霊が私たちに教えることが必要です。
ああ、我々は聖霊による黙示をなんて必要でしょうか!新しい聖書は必要ありません、新しい翻訳は必要ありません。いくつかの新しい翻訳は非常に優れており、私はこれら新しい翻訳に反対するわけではありません。しかし我々は聖霊による黙示が必要です。神に感謝します、神は御自分の御言葉を明らかにしたいですので、私たちの必要な黙示をくださいます。
神は聖霊により生命の活力と実勢の黙示を私たちに与え続けるように願っております。ああ、もし教会は新鮮な黙示を得ることができれば、この新鮮な黙示によって神の生きた言葉が現れ、我々は、より大きな仕事をし、天にいる私たちの父なる神に栄光をたたえることができます。
(三)罪から解き放った
ヨハネの黙示録1:5 「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち」。「洗った」という言葉は実際には 「解き放った」です:「自分の血で私たちを罪から解放されるのです。」。素晴らしいことではありませんか?しかし、あなたは霊的な悟りがありますか?あなたはこれがわかりましたか?主御自身の血によって、私たちを罪から完全に解き放ったのです。それは人間の血ではありませんでした。それは神の血でした。ペテロはそれをキリストの血と呼びます(ペテロの手紙第一 1:19)。パウロはそれを主の血とイエスの血と呼びます(ヘブル10:19)。それは三人ではなく、一人です。これはまたあの同じ黙示であり、唯一の神です。その全能のエホバ神が降りてきて処女がみごもることによって御自身の体を作り、この身体に住んでいました。それによって、私たちの罪から自由に解放される神の血であり、 私たちを大きな喜びでもって御前に完璧に捧げられます。
あなたは、旧約聖書でそれを表していることを聞きたいですか?エデンの園に戻りましょう。最初の神の子、アダムが堕落したという知らせが栄光の神に届いたとき、神は天使を送られましたか?彼はある息子を送られましたか?彼はわたしたちのように人間を送られましたか?いいえ、神御自身がその堕落した息子を贖いに来ました。ハレルヤ!神は別の人にご自分の計画を委託しませんでした。神は御自分しかを信頼されませんでした。神自らが人となって、私たちの間に住まわれ、わたしたちを御自分のもとに贖われました(ヨハネの福音書1:14)。私たちは「神の血」によって救われました。永遠の神が罪を取り除くために、私たちの死すべき体に住まわれました。主は血を流し、この血で幕の内側に入るために、子羊になりました。
このことを考えてください。それは神の血であるため、完璧な血です。完璧な血が罪の権限と罪の束縛と穢れから私たちを解放されるなら、この解放は完璧かつ完全であります。したがって、私たちはもはや罪に定められることはありません。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:33-34)これです、主の死は私たちに血を与えられました。血は私たちを解放されました。私たちは罪に定められることがありません。どうやって罪に定めることができるのですか?血は私たちを解放されたために罪に定めるものはありません。我々は自由かつ無罪です。御言葉に耳を傾け、人の話に耳を傾けてはいけません、あなたは血によって解放されました。
伝統や信条や組織によって再び縛られないで下さい。御言葉の力を否定し、イエスの救いも否定し、癒し、聖霊に満ち溢れることを否定することに耳を傾けて惑わされることのないようにしてください。あなたは、神の血によって解放され、神の自由な人です。あなたたちは自分の信条と宗派に信仰を持っているなら、それはあなたが御言葉に対しての信仰を失っているという証拠です。
(四)王と祭司
ヨハネの黙示録1:6また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方!ああ、私たちは特定の真理を強調する必要があります。これはそれらの一つである。 主は私たちを王としてくださる!救いは、主のわざです。救いは主からのものです。すべての恵みです。一つの目的のために主は私たちを贖います。一つの目的のために彼は私たちを買います。私たちは王です、霊的な王です。ああ、主が王座に座っていた時に私たちは主とともに地上で王となります。しかし、今、我々は霊的な王であり、私たちは霊的な王国を治めています。
ローマ人への手紙5:17で述べている。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
コロサイ人への手紙1:13 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」今、私たちはキリストと共に支配しており、罪、世界、肉体、そして悪魔を越える主権を持っています。主の賛美と栄光を現わされ、主御自身を現わされます。なぜならそれはキリストが私たちの中におられ、主が喜ばれることを決心し実行されることだからです。それが私たちにキリストであり、彼の好み御旨をなすために、彼の賞賛と栄光、彼自身をあらわします。はい、確かに、今でも私たちは、キリスト·イエスと天上の王座に座っています(エペソ人への手紙 2:6)。
そして、私たちを司祭としてくださった。はい、主の祭司にしてくださり清められた口で霊的な賛美を持って神に仕えます。御霊と真理によって神を礼拝します。仲介して請願します。神に祭司と王として勤めます。私たちは世界には興味がないのも不思議ではありません、我々は熱心に良い行いをしている独特の人々です。私たちは神の子供になるように新しく創造され、父に似ています。
(五)これから到来する神
ヨハネの黙示録1:7 「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
主が来ています。イエスは来ています。神は来ています。預言者が来ています。祭司と王が来ています。すべてのすべてが来ています。しかり。主イエスは、すぐに来る。アーメン。
主は、主が変貌の山で見られたときのように雲、栄光の雲の中に乗って来て、神の力が彼を覆いて輝きます。そして、すべての目は神を見るでしょう。これは 携挙のことではありません。主は世界の支配者として正当な地位を引き継ぎます。信条や宗派の教義をもって主を刺した人たちが、主が御言葉であるため恐怖に泣き叫ぶのでしょう。
これはゼカリヤ12:9-14の黙示のストーリーです。ゼカリヤは、約2500年前にこのことを預言した。それはすぐに行われている。聞いて下さい。
「その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:9-10)
さて、いつ福音はユダヤ人に戻りますか。異邦人の時代が終了する時です。福音は、ユダヤ人への戻る準備ができています。ああ、私はあなたたちにこの時代で起きようとしていることを伝えることができたらどれほどよいでしょうか。もうすぐ起こる偉大な事の繋がりはヨハネの黙示録11章に書かれています。それらの二人の証人、二人の預言者であるモーセとエリヤは福音をユダヤ人へ向かせていきます。我々は、それのために準備が整いました。すべてのことが整いました。ユダヤ人が異邦人にメッセージをもたらしたように、異邦人はユダヤ人にメッセージを戻します。携挙が来るのでしょう。
今、私たちはヨハネの黙示録とゼカリヤで読んだことを覚えています。両方とも苦難の直後に来ます。長子たちの教会は苦難を通過しません。我々は知っています。聖書はそれを教えています。(ヘブル12:23)
神はそのときにイスラエルの家に御自分の御霊を注ぐことを述べられています。それは異邦人の時代に異邦人に注がれたのと同じ御霊です。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く」(ゼカリヤ12:10)。
主は第二回の再来で栄光の雲の中に来る、この氏族たちが離れてひとりで嘆きます。主を刺したものユダヤ人は主を見て、別の聖書の節に書かれているようにこう尋ねるでしょう、「どこでこの打ち傷は受けた?」そして主は、「私の愛人の家で打たれた傷です」と言われます。それは、救世主として彼を拒絶したユダヤ人だけではなく、それはこの時代に彼を主として拒絶した異邦人も悲しみに沈みます。
そこに嘆き悲しむことがあるでしょう。眠っている娘は嘆きになります。彼らは手遅れになるまでランプ(体または油を盛る器の象徴)に油(聖霊の象徴)を得ることを拒否した教会を表しています。それは、彼らが良い人ではないとは言っていません。彼らは娘であり、それは高い道徳的な人を意味します。彼らはランプに油を持っていませんので、追い出され、そこで嘆きと歯ぎしりしました。
私たちは、創世記、第45章を例として表現してみましょう、ヨセフはエジプトで彼の兄弟に会って、彼らに自分のことを明かにしました。創世記45:1-7「ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、『みなを、私のところから出しなさい』と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。ヨセフは兄弟たちに言った。『私はヨセフです。父上はお元気ですか。』兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。『どうか私に近寄ってください。』彼らが近寄ると、ヨセフは言った。『私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。」
これとゼカリヤ12章を比べると、ぴったりではありありませんか?二箇所の聖節を一緒に置けば、正しい答えを得るでしょう。
ヨセフは非常に若かったとき、彼は彼の兄弟に嫌われていました。なぜ彼は彼の兄弟に嫌われたのですか?彼は霊的な者だからです。彼はそれらの幻を見なければなりませんでした、また彼は夢を見ることと夢の解釈をしなければなりませんでした。それらのものが彼の中にあります。彼が自分のもの以外のことを表すことができませんでした。したがって、彼は理由もなく兄弟に嫌われました。しかし、彼は父の最愛でした。彼の父は預言者であり、彼のことを理解できました。それは、キリストの完全な象徴になります。神父は御子を愛しました。しかし主は病気を癒す、奇跡を行う、未来を予言する、幻を見ることができたために兄弟(律法学者、パリサイ人)に嫌われました。あれは理由のない憎みでした、ヨセフの兄弟のように、理由なしに憎みました。
さて、あなたたちはヤコブの息子たちがヨセフをあしらったことを覚えてますね。彼らは彼を穴の中に投げ入れました。彼らの父がヨセフに与えた長服を取り、血で浸しました。彼の父は少年が動物に殺されたのを信じるように謀りました。彼は奴隷商人に売られてエジプトへ連れて行き、そこで彼はパロの廷臣で侍従長のポティファルにさらに売られました。侍従長の妻は、彼を不当に投獄されるようにしました。しかし、時が経って、ヨセフの預言の能力はパロの目に入り、パロの右側に上げられました。ヨセフの場合は、民が彼を通して行かないと、パロに近づくことができなかったような権限を持っていました。
さて、わたしはヨセフのエジプトで滞在の間に、ヨセフの生活を調べてみましょう、私たちは、彼をキリストの完全なタイプとして考えています。侍従長の妻は、彼を偽って、理由なしに非難し、処罰し、そして投獄しました。これはイエスにやったことと同じです。牢獄で彼は一緒に囚人だった献酌官と調理官の夢を解き明かしました。献酌官は、もとの地位に戻りましたが、調理官は死刑に定めされました。キリストは、十字架上で投獄され、神と人間に見捨てられました。彼の両側に泥棒がいました、一人は霊的に死亡しましたが、もう一人は、生命を与えられました(ヨハネの福音書14:6)。そして注意してください、イエスが十字架から外された、そして天の高くまで挙げられ、エホバの偉大な御霊の右に座って、そしてだれも主を通さないと、神の御前へ来ることはできません。彼は神と人との間の仲介者であり、あなたが必要なもののすべてです。そこにはマリアもしくは聖人はいません、いるのはイエスだけです。
ヨセフの象徴について続いて見ますと、我々は彼がエジプトで行ってすべての仕事が繁栄したことに気づきます。最初の侍従長での仕事は、繁栄しました。刑務所でさえも繁栄しました。イエスが戻られたときに、砂漠はバラのように咲くでしょう。主は、「繁栄の息子」です。ヨセフの時代より繁栄した時代はありませんでした。時が来ると、人間が見たことがない祝福の時代が来るでしょう。我々のすべての人は自分のいちじくの木の下に座って、笑って、喜んで、主の存在のもとで永遠に生きます。主とともにいることは完全なる歓喜であり、主の右手には永遠の喜びがあります。神を賛美します。
ヨセフがどこに行っても、役人たちはヨセフの到着を知らせるためにトランペットを鳴らしました。人々は叫び、「ヨセフに敬意を表してください!」。みんなは何をやっていても、トランペットが鳴ったとき、ひざまづかなければなりませんでした。ある人は多分何かを売って、まさに手を伸ばして現金を受け取ろうとしていたかもしれません、しかしトランペットが鳴ると、すぐ立ち止まり、ひざを曲げなければなりませんでした。トランペットが鳴り、ヨセフの到来を知らせると、演奏者もしくは俳優でさえ止まって、ヨセフにひざまづかなければなりませんでした。そのように、近いうちに、神のトランペットが鳴り、時間が静止します。そして、キリストの中で死んだ者は起き上がります、朝の明るい光が美しく照らします。
その時すべてのひざはひざまずきます、なぜならこう書かれているからです、
「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9-11)
しかし。ヨセフの象徴の中に、ほかの栄光の黙示にも注意してください。ヨセフは、エジプト中に、異邦人の花嫁を与えられ、彼女を通して二人の息子、エフライムとマナセを得ました。ヨセフは二人の少年を祝福するように彼の父親にお願いしました。それからヨセフはふたりをヤコブの前に連れてきました、エフライムはヤコブの左手に向かわせ、長子マナセはヤコブの右手に向かわせて、彼に近寄らせるようにしました。ヤコブはもうすぐ祝福する前に、手を交差して、右手を弟であるエフライムの頭の上に置きました。ヨセフは父に言いました、「父上。そうではありません。右の手の側が長子なのですから」ヤコブはこう言いました「神は私の手を交差させました」(創世記48:13-21)この象徴の中で、主イエス・キリストの十字架(交差された手)によって、長子(ユダヤ人)に属する祝福は幼い子(異邦人)に与えられました。祝福は十字架によって与えられました。
ガラテヤ人への手紙3:13-14「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」 アブラハムの祝福は、十字架を経由して異邦人へ来ました。ユダヤ人は、十字架を拒否していたため、イエスは異邦人の花嫁を得られました。
さてヨセフの兄弟たちの出会いの話に戻りましょう。あなたは兄弟の全員が来ることではないのを思い出しますね。ヨセフはそれを知っていたし、すべての兄弟が彼の前に現れることを主張し、そうしなければ、兄弟たちに自分のことを明かすことができませんでした。最後に、その時現場いなかった彼らの兄弟、小さなベンジャミンを連れてきました。小さなベンジャミンはヨセフの完全に血のつながった弟です、それは彼の魂に火をつけました。そして、私たちのヨセフ、イエスは、戒めを守ってパレスチナのユダヤ人の前に戻って来る時に、主の魂にも火がつけられます。
小さなベンジャミンは、贖いのために地球各地からパレスチナに戻って来る144000人はイスラエルの象徴です。彼らは主を受け入れることの準備が整えられてそこに立っています。彼らは主は永遠の命であることを知っています。彼らは「これは我々が待っていた神である」と言うだろう。それから彼らは自分たちが突き刺した者を見上げるのでしょう。そして、彼らは落胆して叫ぶでしょう、「どこでこの打ち傷はされた?それはどのように起こるのですか?」そして彼らは嘆き悲しんで泣き、すべての家族は離れ、それぞれの人は悲哀の苦しみの中にいるでしょう。
イエスは、自分を兄弟たちに知らせている間、異邦人教会はどこにいるでしょうか?ヨセフの花嫁と2人の子供は、宮殿にいたことを覚えていますね。なぜかと言いますと、ヨセフは命じた「誰もここに残らないで下さい、人は皆私の前から出て下さい。」。(創世記45:1)だから、異邦人花嫁はヨセフの宮殿に隠されていました。 異邦人教会は携挙の時にどこへ行くのだろうか?宮殿へです。花嫁は、地球から上げられます。地上で大きな試練の前に彼女は空中で主に会います。(テサロニケ人への手紙第一4:16-17)。 神の報復の怒りが注がれている三年半の間に、花嫁は子羊の大きな結婚の晩餐(婚宴)にいます。主は「父の家」にいる彼の花嫁と離れ、彼自身の兄弟に知られるために戻ります。まさにこの時、ユダヤ人はローマと結んだ反キリストの契約が破棄されます。ローマとその同盟国は、すべて神を恐れ、御言葉を守るユダヤ人を滅ぼすために軍隊を派遣します。
エルサレムに来てこの都市を滅ぼす時に、天に人の子とその強大な軍隊が現わし、 地球を破壊してきた者たちを滅ぼします。
敵が撃退されてからイエスは来られ、144000人に御自身を明かします。救いの偉大なわざを見たので、彼らは主の御力を知るようになります。また、彼の傷を見て、彼らはその瞬間まで主を拒絶したことを知るようになり、それらの原因で、彼らは驚き恐れ叫びます。昔、自分の兄弟に悪事をしたヨセフの前に立ったヨセフの兄弟たちと同じく、彼らは主に殺されることを恐れます。ヨセフは「嘆くことも、悔むこともいりません。大丈夫です。神は命を救うためにこのようになさいました」(創世記45-5)。イエスも同様に彼らに平和と愛のお話しを語ります。
なぜ、ユダヤ人がイエスを拒否したのか、それはすべて神の御わざです。それは異邦人の花嫁を引き出すことができる唯一の方法です。主は異邦人教会の命を保全するために十字架の上で亡くなられました。
さて、これら144000人は花嫁ではありません。黙示録14:4では、それらは処女と呼ばれ、彼らは、子羊がどこへ行っても従っています。彼らは女性と自分自身を汚していないという事実から見ると、彼らが宦官であることを示しています。宦官は花嫁室の守り役です。彼らは、従者でした。彼らは御座の前で立っていて、御座に座っていないことに注意してください。彼らは花嫁ではないが、輝かしい千年王國の治世にはいります。
イスラエルは最後に主の愛に連合される時、敵は滅ぼされました。神は聖なる山を準備します、つまり、花嫁とそのアテンダントのための千年の新婚のハネムーン(蜜月)のエデンです。アダムとエバは、エデンに千年まで過ごせませんでした。今私たちの最後のアダムであるイエス、そして主のエバ(真の教会)は神のすべての計画を果たしていきます。
ああ、聖書はなんと繰り返されているのでしょうか。ヨセフとその兄弟たちの場面は繰り返されます、もうすぐイエスがいらっしゃいます。
我々はヨセフの象徴を終わらせるまえに、私はこの末世についてのことをもう一つをあなたたちに気付かせたいのです。彼はよくヘブライ語を知っていたのにもかかわらず、ベンジャミンが現場にいない時に、ヨセフは兄弟たちの前に立って、通訳を通して話したことを思い出してください。彼は別の言語で彼の兄弟に話をしました。あなたは、最初の異邦人の時代(金の頭、バビロニア時代)(ダニエル書2:31-38)の壁に書かれたものが方言で終わったことを知っていますか?同じように、この時代では、豊富な方言は異邦の時代が終わり、神がイスラエルに戻って回っているというさらなる証拠です。
主はもうすぐいらっしゃいます。アルファとオメガ、預言者、祭司と王、すべてのすべてで、万軍の主なる神は、すぐにいらっしゃいます。主イエス、唯一の真の神よ、すぐにいらしてください!