CAB-02 七つの教会時代の解説 第二章 パトモス島の幻
- 伝道者:ウィリアム・ブランハム
- 録音番号:CAB-02
- 年:CAB
An Exposition of the
Seven Church Ages
Chapter Two
七つの教会時代の解説 第二章
パトモス島の幻
ヨハネの黙示録1:9-20
パトモス島にいたヨハネ
ヨハネの黙示録1:9
「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
彼はパトモス島に追放された時に、このイエス·キリストの黙示録の幻のシリーズはヨハネに与えられました。この小さな島は、エーゲ海の小アジアの海岸の沖から30マイル離れています。その島は岩だらけで、ヘビ、トカゲやサソリが多く生息し、ほとんどない商業的価値がなかったので、ローマ帝国はそこを刑務所として使用し、自暴自棄な犯罪者、政治犯などを収容しました。
ヨハネはキリスト教徒に自分を紹介する時に、自分は試練中にいる兄弟だと言っていることに気づくでしょう。あの時、初期の教会は大きな迫害にあっていました。彼らの宗教は至る所で批判されるだけでなく、彼ら自身が投獄され、殺されました。ヨハネは、ほかの大勢な信者と同様に、神の御言葉とイエス·キリストの証言のために投獄され、苦しんでいました。逮捕されたとき、その人たちはヨハネを二十四時間の間に油で煮沸し殺そうとしましたが、無駄でした。激怒された無力な役人達は彼のことを魔法使いだと言って、パトモス島に投獄しました。しかし、神は彼とともに居られて、彼は島を出て亡くなるまで牧師としてエペソにて奉仕し続けました。
A.D. 95-96の2年間、ヨハネはこれらの幻を受け取りました。御言葉の中におけるすべての幻の中で最も顕著です。この本の全体が象徴的な描写であるため、多くの批判や紛争の対象となっています。しかし、神はこの本に印をされ、その印は本を真実なものにしました。その神聖なページを読み聴きするすべての人にとって、それはとてつもなく大きい価値をもっています。
主の日に御霊にいた
ヨハネの黙示録1:10
「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」
「御霊にいた。」(編注:英語を直訳)なんと素晴らしいことでしょう。ああ、私はそれが大好きです。それを“クリスチャン生活のすべて”と呼ぶことができます。私たちはクリスチャンとして生きるには、主の御霊にいなければなりません。ヨハネは、彼自身の霊のことについて話しませんでした。それはこれらの幻をもたらさないでしょう。それは神の霊でなければなりません。神の御霊が私たちと共でなければ、私たちのすべての努力は無駄です。パウロは言った、「私は霊で祈ります、私は御霊に歌います、私は霊に生活しています。」私に来る益になる良いことがあったら、それは御霊によって明らかにされ、御言葉によって確認され、さらに生み出す結果によって現れなければなりません。ヨハネはイエスから新鮮な啓示を受けるために御霊にいなければならないことと同様に、私たちは神の御言葉の啓示を受け御言葉によって生きるために、御霊にいなければなりません。
こうのように見てみましょう。大勢の人は使徒の働き2:38でこう述べている「 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」を読んでいる時に、みていません、目をつぶって無視します。もし彼らが御霊における、それを見たら、聖霊をうけるために悔い改め、主イエスの御名によってバプテスマを受けた後、神の言葉を成就するために聖霊を受けるでしょう。彼らは一度も御霊の中にいません、そうでなかったら、御言葉の通りに成就されるのでしょう。御霊による黙示を下さるように祈りましょう、これは一番目のステップです、必ず御霊の中にいてください。
このようにみましょう。大勢の人は聖書を読む時、使徒の働き2:38において、
「 そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
と書かれている箇所を素通りします。彼らは見えません。もし彼らが御霊の中に入ることによって、それを見ると、自分たちは聖霊をうけるために悔い改め、主イエスの御名によってバプテスマを受ける必要があり、そうした神は御言葉を成就されるために自分たちを聖霊で満たしてくださることをわかるでしょう。彼らは一度も御霊の中にいたことがありません。逆にもしそうしたなら、御言葉の通りに成就されるのでしょう。御霊による黙示を下さるように祈りましょう、これは最初のステップです、必ず御霊の中にいてください44-2 別の例を挙げてみましょう。あなたが癒しを必要だとします。 御言葉はどうおっしゃっていますか?私たちは皆何度も読みましたが、読む時に御霊の中にいませんでした。真理を教えていただくように、神に御霊をお願いしましたか?もしそうしたならば、私たちは、長老を呼んで自分たちの罪を告白し、油を注いてもらい、祈ってもらうでしょう。そうすべきです。[ヤコブ5:14]。癒しはすぐに来ないかもしれませんが、御霊によって、すべては成し遂げられます。上訴する裁判所は他にありません。神は御自分の御言葉を成就されます。先に行動を起こさないでください。聖霊の中に入ってから行動し、そして神がそれからなさることを見てください。
世間の人がどのようにこの世のことの雰囲気に入り込むのかを気にしたことはありますか?彼らはボールゲーム、スポーツイベント、ダンスに行きます。彼らはそれらの物事の雰囲気に入り込みます。彼らは壁に飾られた花や乾燥した古い棒のようにそこに座ってなんかいません。彼らはその物事に入り込んで、その一部になります。しかし、ああ、彼らはなんと神の御言葉の霊に入っているキリスト教徒を憎んでいることでしょう!彼らは私たちのことを狂信者や聖ローラーだと呼びます。憎しみや不満を容赦なくあらわにします。しかし、それを無視して下さい。あなたはそうなるとわかっていて、それがどこから来たかを知っています。ただ、続いて礼拝の御霊に入って下さい。
我々の霊は清潔で、新鮮で、真実です。冷静で、まじめですが、主の喜びに満ちています。世の中の人々が好きなことに夢中になるように、クリスチャンも同じように主の中で熱狂的に喜びに満たされるべきです。クリスチャンと世の中の人々は同じ人間です、どちらも感情を持っています。違いは、世界が情欲で満足している時に、クリスチャンの心や感情は、栄光の主と主の愛の中に純粋に浸っています。
ヨハネが主の日に御霊にいたと言います。
ああ、これは実に意見の相違を起こさせる聖句です。この聖句は衝突を引き起こす必要がある、もしくは衝突を引き起こすべきだとは言っていません。ただ、ある人は御言葉の本当の意味を分かっていません。
まず、 ある良い人たちは、主の日を安息日と呼び、それは土曜日だと思っています。そして、主の日は日曜日、週の最初の日だと言う人もいます。なぜ主の日はこれらの中の一日、もしくは二日なのでしょうか。ヨハネは二年もの間に聖霊の中に幻をうけましたよ。実際に起こったことは、ヨハネが御霊の中に上げられ、これからやって来る主の来臨の日に移されたということでした。聖書は主の日が将来のことだと言っているが、ヨハネは今その将来のことを見ています。しかし同時に、心を落ち着かせて、現在の安息日が一体なんなのかを調べてみましょう。
安息日は、新約聖書から分かるように、特定の日を守ることではありません。私たちは、土曜日を安息日として守るようにという命令をまったく受けていません、また週の最初の曜日である日曜日を守るようにという命令もまったく受けていません。安息日の真の意味は「休息」です[ガラテヤ4:10-11; コロサイ2:16,20]。
ヘブル人への手紙4:8-10,
「もしヨシュアが彼らに安息(あるいは「休日」)を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。 したがって、安息日の休み(安息日を守ること)は、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
あなたはこの節の最後の部分の重要な言葉を聞きました?「神がご自分のわざを終えて休まれた」神は世界を創造し、その中のすべての創り終えた時に創造を止められたことの記念として、イスラエルに安息日として七日目を与えられました。神はわざを終えて休まれました。同じ場所にいる人々への安息日の休息を与えることは問題はなく、皆特定の日を保つことができるからです。今日は、世界の半分はお昼の時に他の半分は夜ですので、この方法はありえないです。だから、それはただの肉の考えによる論争です。
聖書の安息日の休みについての教えを見てみましょう。 「神の安息に入った者ならば」、ここの「入る」は安息の中に入るだけではなく安息の中にとどまるということです。これは永遠の安息、七日目は単なる象徴なだけです。「七」は「完成」、八は再び「最初」の日です。イエスの復活は週の最初の日でした。私たちに永遠の命と永遠の安息日の休息を与えました。それで、神は週の特定の日を安息日として私たちに与えることができなかった理由がわかりました。私たちは安息日の中に「入った」、しかも「とどまっています」。これはイスラエル人にはできないことです。イスラエル人は我々の持っている実際のものの影を持っているだけです。 我々は今、今実際のものを持っているのに、なぜその影に戻るのですか。
我々が、この安息を受け取る方法、または安息日を継続する方法は、イエスのご招待によって決まります。
イエスはマタイ11:28-29でこう述べられています、
「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます
...あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます(あるいはこういう意味です:安息日を守ることは、一日だけではなく、魂が永遠の命の安息を得ることを指しています)。」
あなたがいままでどんなに長い間罪の負荷の下で苦労してきたとしても、それが10年、30年、50年、またはそれの以上でも、どうか、あなたの疲れた命を持って来てください、あなたは主の安息(真の安息日)を見つけるでしょう。イエスは、あなたに安息を与えられます。
イエスが与えられたのはどうな安息でしょうか?
イザヤ書28:8-12
「どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。
「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。
彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」
まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。
主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」
イザヤはここで予言しています。そして、700年後に彼らはすべて予言の通りに五旬節で聖霊に満たされました。これは、約束された真の安息日です。したがって聖霊に満ちてから、彼らは世俗的な働きや世俗的な行い、そして悪の道をやめました。聖霊は彼らの生活を支配され、彼らは安息に入りました。これこそあなたの安息です。あなたの安息日はこれです。一日、あるいは一年間ではなく、永遠に聖霊に満たされ、恵まれることです。あなたは仕事から休み、神が働かれます。神はあなたの考えにおられ、御自分の良い喜びのあることをされます。
安息日会の者について少し注目しましょう。彼らは私たちが日曜日に、つまり、一週間の最初の日に集会するのはまちがっていると主張します。ジャスティンが第二世紀にこう述べていました、「日曜日に都市と農村に住んでいるすべての人は集会を開き、時間の許す限り、使徒の回顧録と手紙を読まれます。読み終わると、主席は訓戒を言い、これらの高潔なものを見習って下さいという勧告を与えました。これが終わると、私たちは皆立って一緒にお祈りしました。お祈りが終わると、以前お話したように、パンとワインが私たちの前に置かれます。感謝の祈りがされると会衆は『アーメン』と言いました。そしたらこれらはみんなに配られ、また執事の方々はこれらを欠席した方々の家にも持って行きます。富んでいる人と快く貢献する人は、寄贈をしました。集まったものはそれらを必要とする孤児、寡婦、囚人、旅人に供給されます。」初期の教会がユダヤ人の伝統を継続し、週の最後の日(土曜日)に集会すると主張する人々は歴史の記載を無視しました。したがって信頼に値するものではありません。
ああ、人々は主のところに来て、休みを得られますように。人々はみなその休みを求めながら、大半はその答えを知らないのです。心の叫びを鎮めるために、彼らはまだ特定の日を守ったり、宗派の信条や教義を受け入れたりしています。しかし、それに失敗し、多くの人は酒を飲んで大騒ぎし、情欲を満たそうとします。世俗的な快楽によってなんらかの満足感が得られると思い込みます。しかし、これらのことは休みをもたらしません。彼らはタバコを吸い、薬を飲み、神経を黙らせようとします。しかし、この世の薬は休みをもたらしません。彼らにはイエスが必要です。彼らは天国の治療薬、御霊の休息が必要です。
彼らのほとんどは日曜日に教会に行きます、それは良いのですが、でも、彼らは神に近づく方法と崇拝する方法がよくわかりません。イエスは真の崇拝は、霊とまことによって礼拝することと言われました(ヨハネ4:24)。しかし、神に対しての認識はクリスマスにサンタクロースを置き、イースターにうさぎを置くことだけの教会中に、何の礼拝を得ることができますか?彼らはどこでこれらのことを取り入れたのですか?彼らは異教徒からそれを取り入れ、教会の教義の一部としました。しかし、人が主に向い、聖霊で満たされている時に、彼は、それらすべてのことをやめます。彼の魂は休まり、真に生き、神を愛し、神を礼拝し始めます。
さあ、聖書に戻りましょう。私たちは、主の日は土曜日でもなく、日曜日でもないことがわかりました。では一体主の日は何ですか。さて、言い方を変えてみましょう。今日は確かに主の日ではありません、今日は人の日です。それは人の行い、人による仕事、人の教会、礼拝について人の考えです。すべては人によるもの、人の世界(cosmos)です。しかし、主の日は近づいています。はい、そうです。イエス・キリストの啓示の時に、ヨハネは聖霊によって、来たるその素晴らしい日に上げられたのです。人間の時代が終わっている時は主の日です。この世の国は、私たちの神の御国となります。裁きの時は主の日であり、その後至福千年が来ます。今、世界はクリスチャンたちを思うままに取り扱い、あらゆる悪名で呼び、からかっています。しかし、大いなる恐ろしい日が来る時に、彼らは必ず嘆き、泣きわめきします。子羊は怒りをもって世界を裁きに来るからです。主の日は義人が主と一緒におられる日です。なぜなら悪者は燃やされ、義人は足で悪者の灰を踏みつけ、至福千年に入っていきます。
マラキ書4:3 「あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は仰せられる──」
ラッパの音のような声
黙示録1:10
「…私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」
ヨハネは御霊にいました。彼が御霊にいたときに、主イエスの偉大な素晴らしい日と主のすべての聖なる力を見ました。神は彼に教えようとするので、将来のことは展開しようとしていました。ヨハネはそれはラッパだと言いませんでした。ラッパのようだったと言いました。通常、ラッパが吹かれた時は、切羽詰まっていることがあります。それは伝令官、王の使者が人々のところに来るようです。彼がラッパを吹きます。それは緊急の呼びかけです。人々は耳を傾けるために集まります。 (イスラエルは常にラッパの音によって集まります。)何か重要なことがもうすぐ起きます。“聞いてください。”この声はラッパと同じ緊急性を持っていました。明確かつ強力な音で、人を驚かせ、目覚めさせました。ああ、今日、我々はラッパを聞くように神の声に耳を傾けるべきです。なぜなら「福音のラッパ」が「予言の言葉」を鳴らし、これから地球に起きることを私たちに知らせ、準備させるからです。
書く命令
黙示録1:11
「わたしはアルファであり、オメガである。今いまし、昔いまし方である。(編者注:日本語聖書はこれまでの内容が訳されませんでした)あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
この方です。今いまし、昔いまし方であり、アルファであり、オメガである。彼はこれらのすべてです。唯一の真の神です。神の声と御言葉です。真実と真理はもうすぐ来ます。霊にいることはなんと良いことでしょう。おお、神と共にいて、神にあって聞きなさい。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会に送りなさい。」エデンの園とシナイ山で響いた神の声は、変貌の山の素晴らしい栄光の中でも聞こえました。今度、再び、七つの教会に完全かつ最終的なイエス·キリストの啓示について発声されました。
「ヨハネ、これらの幻を書いて下さい。これらは必ず成就される真の予言なので、後で来る各時代のために記録して下さい。人々がこれらの予言を知るように書いて送って下さい。
ヨハネはあの声を認識できました。ああ、もしあなたは主に属するのであれば、主はあなたを呼ぶ時に、あなたは必ずあの声を認識できます。
金の燭台
黙示録1:12
「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。」ヨハネは、聞いた声を発した者を見ようとしたと言っていない、声を見ようとしたと言っています。 ああ、私はそれが好きです。彼は声を見ようとしました。声と発した者は同じです。イエスは御言葉です。
ヨハネの福音書1:1-3
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
あなたたちは本当に言葉を見ることができれば、イエスを見られます。
ヨハネは回すと、七つの金の燭台が見えました。実際にそれらは灯台でした。そして20節によると、それらは七つの教会のことです:「七つの燭台は七つの教会である。」教会を象徴にはキャンドルではありえません。キャンドルは燃え尽きます。しかし灯台は燃え続けます。それはキャンドルにない性質です。
ランプの美しいイメージを得たい場合は、ゼカリヤ4:1-6を読んで下さい、
「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」
ここでは別の純金のランプがあります。両側に立っている二本のオリーブの木から十分な油を得ているので、明るく燃えています。この2本の木は旧約聖書と新約聖書を表しています。もちろん、油は聖霊を象徴しています。聖霊のみが人々に神の光を与えることができます。ゼカリヤに話しかけた天使はこう言っていました「貴方は見ているものはこういう意味です:教会が自分の力では何も達成できないです。 聖霊によってのみ行うことができます。」
今、この燭台の構造を調べてみると、それに油を入れる大きな容器、もしくはタンクを持っていることに気づくでしょう。その容器はそれから出てくる七本の枝の真ん中にあります。 容器はオリーブ油に満たされ、その油は七つの腕の中に入れられた七つの灯芯に流れます。 この油は七つの管の端末で燃やされて光となる油と同じものです。祭司は油缶に油を注ぎ続け、この光は、消えたことがありません。
ランプは特別な方法で点灯されました。まず、祭司は、神聖な祭壇から神が初めに灯された火を取りました。最初にボウルの上に置かれたランプを点灯し、そして、1番目のランプの火から2番目のランプを点灯しました。次に、3番目のランプは、2番目のランプからの火を受け取りました。 4番目のランプは3番目のランプから火を受け取りました。すべての7つのランプが点灯されるまで続けられました 。祭壇から、ランプからランプに移されるこの聖なる火は、7つの教会時代における聖霊の素晴らしい象徴です。五旬節の時に湧き出た聖霊(憐みの御座にお座りになったイエスから直接湧き出た聖霊)はすべての7つの教会時代にある主の教会に与えられ、完全に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」であることを表します[ヘブル13:8]。神の御本質と行いは決して変わりません。
ヨハネの福音書15章でイエスはこう述べられています、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」。主はぶどうの木の主幹です、オリジナルの種子からオリジナルの根から出て、その中に命があります。木の主幹が実を結ぶのではなく、枝が実を結ぶのです。さて、これを見てください:柑橘類のオレンジのような木にグレープフルーツの枝、レモンの枝、タンジェロの枝、そしてその他の様々な種類の枝を接ぎ木することができます。それらの枝がすべて成長しますが、オレンジの実を結びません 。 そうです、皆さん。レモン枝はレモンの実を結び、グレープフルーツの枝はグレープフルーツの実を結びます。移植された枝は幹の命によって生きています。しかし、そのオレンジの木からの枝は必ずオレンジを結びます。 なぜですか。移植された枝とその幹の中の命は同じです。しかし、移植された枝は他の違う樹、他の違う根、そして他の違う種から来たものなのです。ああ、すべての枝は間違いなく実を結ぶのですが、オレンジの実を結びません、オリジナルのものではないためできません。
教会も同じです。ぶどうの木が切り裂かれ、枝が接ぎ木されました。そこにバプテスト派の枝、メソジスト派の枝、長老派の枝、そしてペンテコステ派の枝が接ぎ木されました。そして、バプテスト派の枝、メソジスト派の枝、ペンテコステ派、長老派の実を結んでいます。宗派の種は宗派の実しか結びません。もしぶどうの木自身からもう1本の枝が伸びたら、この枝はまさにぶどうの木と同じものになります。ペンテコステの時の枝と同じなはずです。異言、預言を語り、復活されたイエス·キリストの力としるしを持ちます。なぜですか?ぶどうの木自身の力によって生きているだからです。ほら、それがぶどうの枝に接ぎ木されたものではなく、ぶどうの木自身で生まれたものです。ほかの枝は接ぎ木されて自分の実しかむすべません、ぶどうの木から生まれたものではないからです。彼らは、オリジナルの命とオリジナル果実について知りません。オリジナルの木から生まれていなかったためです。オリジナルの木から生まれていれば、オリジナルの幹(イエス)のと同じ命が現れはずです。ヨハネの福音書14:12にこう書いてあります、
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
人間が監督している宗派は神から生まれるものではあり得ません。命を与えるのは聖霊であり、人間ではないためです。
この7個のランプは油の缶の源から命と光を吸収している、なぜなら灯芯は油に浸しているからです。このことを考えるのはなんと興奮すべきことでしょう。ここでは、各教会時代の使者が聖霊の火に燃えていることを描いています。使者の灯芯(命)はキリストの中に浸漬されています、灯芯でキリストの命を取り込み、その光を教会に与えます。彼はなんの光を与えますか?与えるのはまさに一番目で灯されたランプと同じ光です。この光は時代から時代へと伝えられ、今日最後の時代に至り、使者はキリストと一緒に神の中で隠されている命により、同じ命と光を現わします。
使者だけではなく、真の信者もみなここで生き生きと描かれています。彼らは、みな同じ源から吸収しています、同じ油の缶の中に浸されています。彼ら自分に向かって死に、彼らの命はキリストと一緒に神の中に隠れています。彼らは聖霊によって封じられています。エペソ4:30、
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
だれも主の御手から彼らを引き抜くことはできません[ヨハネ10:28-30]。彼らの命を邪魔することはできません。目に見える命は燃えて輝き、光と聖霊を現わします。目に見えない内側の命は、主の言葉によって育てられ、神の中に隠されています。サタンは彼らを触れることができません。死のとげが失われたために死も彼らを触れることができません。墓は勝利を失ってしまいました。神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました[1コリント15:54-57]。アーメン、そしてアーメン。
もはや祭司ではありません
黙示録1:13
「それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。」
主は立っておられます、人の子の様です。宝石は指輪の真ん中にはめられているように、教会の真中で主の栄光が輝きます。それは主の日であり、なぜなら、ヨハネは主が祭司としてではなく、来るべき裁判官として立っているのを見ているのです。祭司が神聖な場所で神に仕えるときに黄金の帯を腰に巻かなければいけないが、主はもはやそこにつけられていません。今帯は肩に巻かれてあります。なぜなら主は今祭司ではなく、裁判官になられたからです。ヨハネの福音書5:22は成就されました、
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
主の任務は全うされました。祭司の時代、そして予言の時代は終わりました。今裁判官として金の帯を身につけられ、立っておられます。
神の神性の七重の栄光
黙示録1:14-16
「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
ヨハネの前にイエスが現れたのは実に感動深いことでした。ヨハネは御言葉のために追放されたが、見よ、今生きている御言葉が彼の前に立っておられます。すべての特徴の描写は独自の意味を持ちます。なんと感動的な幻でしょう。神の栄光についてのなんという啓示でしょう。
1.その髪は雪のように白い
ヨハネは最初に注目し、言及したのは 主の髪の白さです。雪のように真っ白にで輝いていました。これは、年齢と関係ではありません。いや、輝く白髪は年齢ではなく、経験、成熟度、そして知恵を意味しています。永遠の神は、年齢がありません。神にとって時間は何ですか?時間は、神にとってあまり意味がないものです、しかし、知恵は神にとって重要なことです。 ソロモンがイスラエルの人々を裁く知恵を神に求めたときなどがそうでした。今主は、全地球を裁くために来られています。主は知恵の冠をかぶられます、それは白く輝く髪が意味するものです。
このことをダニエル7:9-14で見てみましょう、
「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」ここです。ダニエルはその白髪の主を見ました。主は本を開いて審判される裁判官でした。ダニエルは、主が雲に乗ってやって来られるのを見ました。 それはヨハネが見たのとまさに同様です。両方はまったく同じ主の様子を見ました。 彼らは、あの裁判官が肩に裁判の帯を巻き、純粋で聖潔に立っておられ、世界を裁く正義と知恵、そして資格に満ちているのを見ました。 ハレルヤ。
この世の人々でさえこの象徴の意味を理解しています。古代で裁判が行われたとき、裁判官は自分の完全な権限を象徴するために、かつらをかぶり、頭から足までの長いローブを着ることで正義を果たします。
2. その目は、燃える炎のよう
考えてください。一度悲しみと同情の涙でかすんだ目です。ラザロの墓で同情して泣いておられた目です。その目は主を十字架につけた殺人犯たちの悪を見ず、悲しんで「父よ。彼らをお赦しください。」と叫ばれました[ルカ23:34]。今その目は燃える炎のようで、自分を拒絶した人々を報いる裁判官の目となっています。
人の子として登場した時に、すべての人間の感情の中で彼が最も明らかに現わしていました[ヨハネ11:35; ヘブル5:7; イザヤ53:3]。彼はしばしば泣かれました。しかし、その涙と悲しみの背後でも、彼は神です。
これらと同じ目は幻を見ました。これらの目は、人々の心の奥を深く見て、人の心思いを読み、人の様々な行いを知っていました。この肉眼から光を放つ神は、主がどなたであったかを知らなかった人に叫んでいました、
ヨハネ8:24、「...もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし(わたしの父のみわざを)行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。...」(ヨハネ10:37-38)古代のエレミヤのように、主は涙の預言者でした。人たちは神の御言葉を聞き入れず、啓示を無視しているからです。
裁判官の燃える炎のような目は、今でもすべての人々の生活を記録しています。主の御目は全地を行き巡られ[2歴代誌16:9;ゼカリヤ4:10]、主が知らないものは何もありません[詩篇139:15-16; 箴言15:3]。主は人の心の欲望と意図を全部ご存知です。神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。[ヘブル人への手紙4:13]。考えてみてください、主は今あなたが何を考えているのかもご存知なのです。
はい、主は炎のような目で、裁判官としてそこに立って裁判しています。憐みの日は終わりました。まだ時間があるうちに、人たちは悔い改めて正義の中に主の御顔を求めることができます。世界が火で溶かされる前に、彼らは主の胸を自分の枕をすることが出来ます。[2ペテロ3:7,10]
3. 真鍮の足
「1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝く真鍮のようであり...」真鍮は、顕著な硬さのために注目されます。ここで書かれた主の真鍮の脚はもっと注目に値します:誰も耐えられなかった猛烈な火の炉の中の試練を耐えられました。これは絶対正しいことです、真鍮は神の裁きの意味をしています:神は定めて行った裁きです。
ヨハネの福音書3:14-19
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」
民数記21:8-9
「すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
イスラエルは罪を犯しました。罪は裁判にかけなければなりませんでした。そのため神はモーセに一匹の青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけるように命じられました。青銅の蛇を仰ぎ見る者は、自分の罪の罰から救われました。
旗ざおの上の青銅の蛇はエデンの園の罪を意味します、そこでサーペントはエバを誘惑し、彼女に罪を犯させたのです[創世記3:13; 1 テモテ2:14]。 銅は裁きを意味します、銅の祭壇に見られるように、祭壇の犠牲は、罪の罰を解除しました。エリヤの時代に神はイスラエルの罪のためにイスラエルを裁かれた時に、神は雨を降らせず、燃える天は真鍮のようになりました。今、この例では、旗ざおの上の青銅の蛇はすでに裁かれた罪を意味します。青銅でつくられたので、神の裁きはすでに罪の上に降りかかっていることを示します。それの意味の重要性を受け入れ、旗ざおの上の蛇を見た者なら誰でも癒されます。これは主の仕事または救いなのです。
旗ざおの上に蛇は、イエスが地球に来て成就されることの象徴です。彼は自ら罪のゆえに神の裁きを取るために肉体を造られました。犠牲の祭壇の基盤は青銅でした。世界が造られる前から殺害された子羊を象徴します[黙示録13:8]。まだ罪人が存在する前に、彼はすでに裁かれていました。 救いは、完全に主からのことです。主は一人で神の激しい怒りを踏みました。主の衣装は自身の血で真っ赤に染まりました。 正義の裁きと神の怒りの火の炉は主の分になります。彼は苦しみを受けました、正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです[1ペテロ3:18]。
「神の子羊よ。あなたはふさわしい方です。あなたは、御自分の血により、私たち人々を贖いました。」
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」[イザヤ53:5-6]
主は彼に私たちのすべての罪を負わされました。彼は今までの誰よりも苦しみました。十字に付けられた前でさえ、彼は苦難の激しい苦しみで、血が彼の静脈の中で分離し、体から血のような大粒な汗を流していました。ルカ22:44 、
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」
しかし、いつの日か真鍮のもの足が地上に立つだろう。そして、主は全世界の裁判官になられ、公平にしかも非の打ち所がなく人類を裁かれます。そして、その正義の裁きを回避したり、転覆したり、介入したりすることはできません。焼き戻しはありません。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行います[黙示録22:11]。変わることのない方は変わることはありません。今まで変わったことがなく、これからも決して変わりません。真鍮の足が敵を粉砕します。彼らは反キリスト、獣とその像と彼の目の前に悪を行った者をすべて滅ぼします。主は、御自分の栄光の聖なる名を台無しにした教会のシステムを滅ぼし、反キリストと一緒に粉砕されます[黙示録19:20]。すべての邪悪、無神論者、不可知論者、モダニスト(近代主義者)、リベラル派は、すべてあそこにいるでしょう。死、地獄、そして墓があるでしょう[黙示録20:10-15]。はい、彼らはそこにいます。主が来られた時、本を開かれます。生温い教会[黙示録3:15-16]と5人の愚かな処女[マタイ25:1-13]が登場します。主は、羊と山羊をわけられます[マタイ25:32]。主が来て王国を引き継がれます、それは主の御国だからです。主に仕える何千何万の花嫁は一緒にいます。栄光かな!ああ、手遅れになる前に、今悔い改めて下さい。今、時間があるうちに、死人の中から目を覚めて神の聖霊に満たされるようにし、永遠の命を逃さないように神を求めてください[黙示録5:11-13]。
4. 主の声は大水の音のようであった。
水は何を表しますか?黙示録17:15の聖句を聞いてください,
「...あなたが見た水,...もろもろの民族、群衆、国民、言語です。」
主の声は群衆の話し声のようでした。これはなんでしょう。これは裁きです。これは各時代に聖霊による福音を伝えた群衆のキリストへの証言の声です。裁きの時に、証人たちが警告を聞かない罪人を責める声です。七人の使者の声は大きく聞こえます。忠実な伝道者はイエス・キリストの救いの御力を伝え、主イエス・キリストの御名によるバプテスマを伝え、聖霊の御力と聖霊に満たされることを伝えました。彼らは自分のいのちよりも神の御言葉を守りました。彼らはすべて各時代に聖霊によるイエス・キリストの声でした。
ヨハネ17:20、
「 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」
考えてみましょう、ある人は滝に向かって流されています、なんと恐ろしいことでしょうか?あの怖い轟音を考えてみてください、彼は確かに破壊に近づいています。それとまさに同じことです、裁きの日が来る時に、福音に気付かずに時がすでに遅いため、貴方は沢山の人の声に責められます。今こそに耳を傾けましょう。この時点であなたの考えは天に記録されています、あなたの考えはあなたの言葉よりも雄弁です。主に耳を傾けない口で大声で主張するパリサイ人は、時が遅すぎるまで、彼らの心は腐敗と邪悪になりました。同じように、これはあなたへの最後の呼びかけかもしれません、神の御言葉を聞いて永遠の命を受け入れてください。沢山の声による裁きと悲運に近づくときに、もう遅すぎます。
しかし、あなたは美しくて緩和な水の音に気づいたことがありますか。私は釣りが好きです。私は水がさざ波となってささやく場所を見つけるのが好きです。そこでただ横になり、それが私の心に平和で喜びと満足に満ちる話を語りかけることを聞くことができます。こういうことができるために神に感謝します。主の平和な話を語られる声が聞こえる安らぎの港で停泊することができるのはなんと嬉しいことでしょう。なぜなら神の御言葉は清い水のようにそのように言明されています。主の愛、いたわり、導き、と保護の声が聞けることに大変感謝致します。そしていつか、私たちは同じ甘い声が話すのを聞くことができます。裁きではなく、罪を主の血によって清められ、神の御言葉の中に歩いている私たちを歓迎する声です。 大勢の歓迎の声を聞いて、神を信じて永遠の命を得た群衆に囲まれることより尊いことはあるのでしょうか。いや、他にありません。 私は、あなた方は主の声を聞くことができ、心を固くせず、主を王として受け入れらますようにお祈りします。
ああ、あなたがたが分かるように願っております。世界を破壊した同じ水はノアを救い[2ペテロ3:6; 創世記:6-8章]、またノアのために地球全体を救いました[1ペテロ3:20]。主の声、主のしもべたちの声に耳を傾けて下さい、それは悔い改めと命への呼び出しだからです。
5. 右手に七つの星を持ち
「また、右手に七つの星を持ち」もちろん、我々は20節からすでに七つの星は実際になにかを知っています。
「七つの星の秘められた意味は七つの教会の御使い(メッセンジャー)たちである。」(黙示録1:20)
主はすでに私たちに解釈されたので、我々はここで間違えるはずがありません。これら七つの星は七つの連続した教会時代の使者です。 彼らは名前で呼ばれていません。ただ、彼らは七人と記載されています、各教会時代に一人います。エペソ時代からこのラオディキア時代へのそれぞれの使者が、人々に真実のメッセージを持って来ました。それはその特定の教会の時代への神の御言葉を守ることに決して失敗しませんでした。一人一人が御言葉を保ちました。 彼らは元の光に忠実で確固でした。各時代の教会は神から離されたとき、主の忠実な使者はその時代を御言葉に戻しました。彼らの能力は、主から来たもので、さもなければ流れに抵抗できなかったでしょう。彼らは神の御加護のもとで安全であり、病気、危険、裸、飢え、剣、生きること、死ぬことなど、彼らをキリストの愛から引き離すものは、なにもないからです。[ローマ8:35-39] 彼らは主に完全に身を委ね、そして主の全能によって守られました。彼らは自分の身に来る迫害を案じませんでした。痛みや嘲笑はあるが、彼たちは、自分たちは御名のためにはずかしめられるに値する者と思い[使徒5:41]、神に栄光を捧げました。 主の救いのために神を感謝し、主の命の灯火で自分の人生を燃やし、主の愛、忍耐、柔和、節制、優しさ、誠実さを反映しました。神は不思議、しるし、そして奇跡で彼らを証明されました。彼らは狂信者、聖なるローラーであると非難されました。彼らは宗教組織に弾劾され、嘲笑われるが、御言葉を忠実に守りました。
今立ち上がって信条を忠実に守ることは難しいことではありません。 それは簡単です。悪魔はちょうどすべてのことの背後にいますから。しかし、神の御言葉に忠実し、 御言葉がペンテコステの後に元来生み出したものに戻ることはまた別です。
先日、ある男が私にこう言いました、ローマカトリック教会はきっと真の教会です、なぜなら、ローマカトリック教会は長い年代に信じることにずっと忠実で、発展していますし、変わらないです。それはまったく違います。政府に支えられ、まったく御言葉ではない自分の信条を守り、 悪魔に不安させる著しい伝道事業は現れない教会は、確かにいつもうまくいきます。それが判断の基準ではありませんでした。しかし、小さな群れを見てください,そのメンバーは、バラバラにのこぎりで切られ、ライオンに与えられ、しいたげられ、あちこちに駆り立てられたのに[ヘブル11:33-38]、御言葉に忠実です。これこそ神からのものです。彼らはどのようにして信仰の戦いにおいて生き残り、また続けるのでしょう。それが奇跡です。
この慰めは七つの教会時代の使者だけに適用するものではありません、すべての真の信者は神の手の中にあり、主の愛と力を受けられ、神が信者に与えるすべての益を十分に受けることができます。神が使者に与えられるもの、そして使者を祝福し遣われることは、すべての信者にとって御手本であり、神の善と関心を現しています。アーメン。
6. 両刃の剣
「口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」ヘブル4:12、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
神の口からは鋭い両刃の剣が出て、それは神の御言葉なのです。
ヨハネの黙示録19:11-16、
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた。」
ヨハネ1:48、
「ナタナエルはイエスに言った。『どうして私をご存じなのですか。』イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』」
まさにそうです。主が来たとき、その御言葉はすべての国とすべての人を攻撃してくるでしょう、だれも主に抵抗することができません。ナタナエルにされたことと同じく、主はすべての心の中にあったものを明らかにします。神の御言葉は、誰が神の御こころを行ったか、誰が神の御こころを行わなかったかを明らかにします。御言葉はすべての人の隠れた行いとその理由を明かされます。すべてのことを切り開かれます。ローマ人への手紙2:3ではこう書かれています、
「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」
(編者注:同じローマ人への手紙2章の)聖句5〜17では、続いていかに神が人を裁かれるかを述べています。悔い改めない硬い心が裁かれます。行いは裁かれます、その動機は裁かれます。神はえこひいきをされません。すべての人は御言葉で裁かなければなりません、誰一人それを逃れることはできません。御言葉を聞いていたが、神の道を受け入れない人々は、聞いたことによってさばきを受けます。神を信じると言いながら、その信仰で生きない人々も裁かれます。すべての隠れた事が公開され、屋上から言い広げされます。ああ、その日に私たちは本当に歴史を理解することになります。すべての時代の中のミステリーの中で明るみに出ないものはありません。
しかし、知っていますか?私たちが住んでいるこの時代でも、主は人々の心にある秘密を明らかにされます。御言葉御自身以外、誰が人の心の中の秘密を明らかにできますか。ヘブル4:12、
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
それは御言葉です。御言葉は力に満ちているので、行く先々ですべて主の御わざが行われます。この最後の時代に、イエス·キリスト(御言葉)中の同じ御霊は、 最後のしるしとして再び教会で現わし、 人々を裁きから逃れさせようと努めています。 御言葉を拒んだ人々は、再度に主を十字架にかけ、すでに裁きに入りました。ヘブル6:6、
「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
今パウロは、御言葉は声によってだけではなく、力によって来られると言いました。御言葉は、実際に自分自身を証明されます。火をともしている剣のように人々の良心まで切りつけ、外科医のナイフのように病気を切り取り、囚われた者に自由を与えられます。初期の信者はどこに行っても「福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた。」病人はいやされ、悪霊は追い出されました。彼らは新しい異言を語りました。行動中の言葉でした。その御言葉は信じるクリスチャンの口で失敗したことがありませんでした。そして御言葉は最後の時代にいつもより、真の御言葉の花嫁の中で力強くなります。ああ、小さな群れよ、少数派の方々よ、御言葉を守ってください、御言葉をあなた方の口と心に満たしてください、そしていつか神はあなたがたに御国を与えられます[ルカ12:32]。
7. 主の御顔は太陽のよう
「顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
マタイ17:1-13
「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、『起きなさい。こわがることはない』と言われた。
それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、『人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない』と命じられた。
そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。『すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。』
イエスは答えて言われた。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」
マタイの福音書16:28はマタイの福音書17:1-13の序言として書かれてあり、イエスはこう述べられました、「...ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
そして三人の使徒はまさに主の再臨の順序を見ました。彼らは主が山の頂上で変貌するのを見ました。主の衣服は白く輝き、主の顔は、明るい太陽のように輝いていました。そしてそこに彼は現れたとき、両側にモーセとエリヤが立っていました。まさにこのように主は再臨されるのです。エリヤは実に先に来て、子(花嫁)の心をその父の使徒の御言葉の教義に向けさせるのです。マラキ書 4:5,6 、
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
イスラエルはすでに一つ国になりました。イスラエルは軍隊、海軍、郵便システム、国旗、など国家の要素を全て確立させました。しかし、「...国は一瞬にして生まれようか。」[イザヤ書66:8]という聖句がまだ成就されるべきです。その日はもうすぐ来ます。いちじくの木は発芽しています。イスラエル人はメシアを待っています。イスラエル人は主を期待し、彼らの期待必ず満たされようとしています。イスラエルは、霊的に生まれ変わり、彼女の光といのちは彼女に表れようとしています。
ヨハネの黙示録 21:23にこう書かれています、
「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」
これは新しいエルサレムです。小羊は、その都市におられます。主がおられるため、光は要りません。太陽は昇らず照らさず、主自身は太陽と光です。国々の人が都に来て主の光の中で歩いています。あの日が近づいていることに喜びを感じませんか。ヨハネはその日が来るのを見ました。主イエスよ、早く来てください!
マラキ4:1-3
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は仰せられる──
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は仰せられる──」
ここで主は再び現われます。太陽(SUN)は強く輝きます。ああ、神の御子(Son of God)の力は、七つの金の燭台の真中で輝きます。そこで彼は立っておられます、その裁判官である方、私たちのために苦しみ、亡くなられた方はそこに立っておられます。彼は御自分で神の裁きの怒りを背負われました。彼は一人で、神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれます。すでに述べたように、罪人に、主の声は滝や岩が多い岸の死の波の音のように聞こえます。しかし聖徒にとって、キリストの中で満たされ、横になって休む時に、主の声は優しく歌っているせせらぎの音になります。主の暖かい愛の光線は、私たちを照らしてこう言われます、「恐れるな、わたしは神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、わたしは全能者です。わたし以外に誰もいない、わたしはアルファであり、オメガである、そのすべてです。」[黙示録1:8]主はいばらの中のゆりの花[雅歌2:1]、輝く明けの明星です[黙示録22:16]。私の魂にとっては、主は千万人の中にもっとも良き方です。そうです、あの偉大な日はもうすぐ来る、義の太陽が上り、その翼には、いやしがあります[マラキ書4:2]。
打ち勝ったキリスト
黙示録1:17,18
「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
人間は誰一人もこのような幻の衝撃も耐えられません、ヨハネは全身の力が抜けて、まるで死んだかのように主の足元で倒れました、しかし、主の慈愛な手は彼を触り、祝福の声でこう言いました。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」恐れるべきことはいったい何があるのでしょうか。さばきはすでに十字架に付けられ、墓にいた主イエスの上に落ちました、主は私たちのために世に生まれました。主は私たちのすべての罪の傷を負われました。そのために、イエス・キリストの中にいる人々はもはや有罪の判決がありません。見よ、私たちの 「弁護士」は私たちの「裁判官」です。主は、私たちの「弁護士」であり、「裁判官」なのです。裁判官として「訴訟が解決され、終わりです」と告げました。したがってもう罪に定められることはありません。なぜ教会は恐れるのですか。主は御自分のされた約束を全うされなかったことはありますか。なぜ罰や死を恐れるのですか。それはすべて打ち勝たれました。主は全能な征服者です。ここにおられるのは、見える世界と見えない世界の両方を征服された方です。主はアレクサンダみたいな方ではありません。アレクサンダは33才で世界を征服しました。彼はもうそれ以上どこを征服するのかもわからずに、罪と豪遊な生活の犠牲者として亡くなりました。主はナポレオンみたいな方ではありません。ナポレオンは、すべてのヨーロッパを征服しましたが、 最後にウォータールーで負けて、エルバに追放されました。その時初めて、征服されたのは自分自身だったことに気付きました。しかし主を征服できる者はありません。地に下られた主は今高い所に上げられ[エペソ4:8-9]、すべての名にまさる名を与えられました[ピリピ2:9-11]。そうです。主は死、地獄、そして墓を征服され、主はそれらの鍵を持っておられます[黙示録1:18; 1コリント15:54-57]。何でも主が解くなら、それは解かれ、主がつなぐなら、それはつながれます[マタイ18:18]。全く変わることはありません。主の前に征服者は他にいないし、主のそばに誰もいません。主は唯一の救い主、贖い主です[イザヤ43:10-11]。主は唯一の神であり、「主イエス·キリスト」は主の御名です。
「ヨハネよ、恐れないでください、小さな群れよ、恐れないでください。あなたがたは私のすべてものの相続者です。すべての私の力と無限な権力はあなたがたのものです、それは私があなたがたの中に立っているためです。神が私たちに与えてくださったものは、恐れと失敗ではなく、愛と勇気と能力です[2 テモテ2:7]。すべての権威はわたしに与えられました[マタイ28:18]。そしてあなたがその権威を使用するのです[使徒1:8]。あなたが御言葉を語ったら、私はそれを実行します。それが私の契約であり、それは失敗することはありません。」
七つの星と燭台
黙示録1:20
「わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち(使者)、七つの燭台は七つの教会である。」
私たちは、これらの二つ奥義の真理をすでに見出しました。ああ、私たちはこれらの七人の使者は誰なのかを明らかにしていませんが、神の助けによって私たちは、きっと分かるようになります。この奥義をすべて明らかにするでしょう。私たちが知る七つの時代は御言葉に並べられているのですから。私たちがいるこの最後の時代に至るまで、各時代を順番に検討します。
この章の最後のところで、右手に七つの星を持ち、七つの金の燭台の間を歩く主を見られます。いと高き神がそこに立っておられるのを見て息をのまずにはいられません。主は裁判官、祭司、王、鷹、子羊、ライオン、アルファ、オメガ、最初であり、最後であり、父と子、聖霊、昔おられ、今おられ、やがて来られる方、全能者、すべてのすべてです。創始者であり、完成者です。子羊は褒め称えられるべき方です。主は御自分で私たちの救いを買い取られ、御自身がそれにふさわしい方ということを実証されました。今、主はすべての力と栄光をもち、立っておられ、裁判者としてすべてのものを託されました。
そうです、燭台の間に立ち、手に七つの星を持っています。これは夜です。夜には照明のためにランプが必要になります。これは星が太陽の光を反射する時のです。その時は暗闇です、教会は信仰によって闇の中を歩いています。彼女の主は世から去ったが、聖霊は教会を通して闇の中に輝き、この罪で呪われた世界に光を与えます。これらの星も主の光を反射します。星たちが持っている唯一の明かりは、主の光です。それはどれほど暗いのでしょうか。霊的にどれほど冷たいのでしょうか。しかし、主がいらっしゃる時、光と温かみを持って来られ、教会は力を与えられ、主を通して主がなさった御わざを行います。
ああ、ヨハネがしたように、我々は主を一見することができたら!私たちは、その日、主の御前に立って、なんという素晴らしい振る舞いをしなければいけないのでしょうか!
もしあなたは、まだ神に自分の命を捧げていない場合は、今すぐ心を神に向かせ、いるところでひざまずいて、罪のために神に容赦を尋ね、人生を神に委ねてください。その後、私は皆と一緒に七つの教会時代を検討することを試みます。検討する時に、私は、神がこの価値がないしもべを通して御言葉をあなたがたに明かされるよう、お祈りします。