CAB-06 七つの教会時代の解説 第六章 ティアティラ教会時代
- 伝道者:ウィリアム・ブランハム
- 録音番号:CAB-06
- 年:CAB
An Exposition of the
Seven Church Ages
Chapter Six
七つの教会時代の解説 第六章 ティアティラ教会時代
黙示録2:18-29
「また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われる──。
わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。
わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。
見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。
また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。
しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。
勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」
ティアティラ
歴史的に言えば、ティアティラ市は黙示録中で書かれた7つの町の中で一番目立たない町でした。それはミュシアとイオニアの間に位置していました。多くの川に囲まれていたが、それらの中はヒルであふれていました。この町の一番挙げられるべきものはその財政の豊かさであり、それは陶工、なめし革業者、織工、染め物屋、ローブを作る人の組織団体のおかげでした。この街から紫布の商人のリディアが出て来ました。彼女はパウロが指導した初めてのヨーロッパ人の信者でした。
4つ目の時代の霊的要素を持つものとして御霊がこの町を選ばれた理由はその宗教です。ティアティラの主な宗教はアポロティリミナイオスに対する崇拝で、帝王崇拝のカルトと連合していました。アポロは太陽神で、彼の父であるゼウスの次に力がある者でした。彼は「悪を回避する者」として知られていて、宗教法律と罪の贖い(贖いの方法、悪事と罪の償い方)を管理しました。プラトンは彼についてこう言いました、「彼は人々に神殿の設立、神への生贄を捧げる方法と崇拝の方法、それらに加えて死と来世につながる儀式を教えました。」彼は預言者と予言を通して人々に「将来」および彼の「父の意向」について教えました。ティアティラにおいて、この儀式はある三脚の椅子に座る女預言者が霊に取り憑かれた時に伝言を伝えることで行われました。
この信仰の影響力はとても目を引くものでした。その人を恐れさせるパワーは神秘的な領域にだけあるものではなく、人々がアポロの神殿での崇拝に参加しないと、生計を立てるための協会に入ることができないという事実にありました。偶像の祭りとみだらな宴に参加することを拒否した者はこれらの一世紀目の連合に入ることを拒まれました。社交的そして商業的な生活を送りたいならば、活発な異教偶像崇拝者にならなければなりませんでした。
一番注目すべきところはこのティアティラという名が、「支配をする女性」を意味することです。したがってこの時代の特徴はある支配力、容赦なくすべてを侵略し、すべてを征服して横暴に支配する力です。今支配をする女性は世界でもっとも大きい呪いです。世界でもっとも賢い男はソロモンで、彼はこう言いました、
「私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。
私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。
伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。
私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」
伝道者7:25-28
パウロは言いました、
「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」
エデンの園の時から女性は絶えずに男性を支配することに成功してきており、そして今日は女性の世界で、アメリカ人にとっての女神はある裸の女性です。あの天から降りた女神の偶像のように(彼女の腕は鉄の棒であることを思い出してください)、一つ目もしくはエペソ時代を象徴し、彼女の力は絶対的な権利を手に入れるまで成長し続け、彼女は鉄の性質でその権利を手に入れました。
女性は鉄の性質を持つべきではありません。聖書によると、彼女は男性に服従するべきです[1ペテロ3:1,5-7, エペソ5:22-23, 1コリント14:34,37]。それが彼女への命令です。すべての本当の女性はその性質を持ちます。ドアマットではありません。本当の男性は女性をドアマットとして扱うことはありません。しかし彼女は支配の下にいることを望み、男性を支配することを望みません、なぜなら彼は家の頭だからです[1コリント11:3, 創世記3:16]。もし彼女は神が彼女のために作られたイメージを壊すならば、彼女は堕落します。女性に支配権を握らせる男性もそのイメージを破り、堕落してしまいます。それがなぜ女性が男性の服を着ることそして髪を切ることができない理由です[申命記22:5, 1コリント11:5-13,15]。彼女は決して男性の服を着ることそして髪を切ることができません。彼女がそうした時、彼女は男性の領域に入り、支配権をとり、堕落します。そして女性が講壇に上ってはいけないと命じられているが、講壇に侵入するなら、彼女は自分が持つ霊を示します[1テモテ2:11-14]。支配する女性はアンチキリストで、ローマカトリック教会の種は彼女の考えの中にあります、彼女は強く否定するかもしれませんが。御言葉に向かい合う時、神が真実であり、すべての人の言葉は偽りです[ローマ3:4]。アーメン。
最初に戻りましょう。私たちが今日知っているように、元の物理的な創造物は、神はペアで造られました、オスとメスです。2匹のニワトリ、おんどりとめんどりがいました。2匹の牛、雄牛と雌牛がいました。そしてすべてがこのように続いております。しかしヒトになると、たっだひとりでした。彼らはペアではありませんでした。アダムは神のイメージで作られました。彼は神の息子でした。神の息子として彼は試されたり堕落したりすることはできませんでした。それは不可能でした、それは不可能でした、そのため神はヒトの副産物を造られ、その副産物が堕落を引き起こしました[1テモテ2:13-14]。女性は神の手から直接的な産物として出てきていませんでした。彼女は男性から作られました[創世記2:22]。そして神が彼女を男性から造られるようにされた時に、彼女は神が造られた他のメスの生き物とはまるっきり違いました。彼女は誘惑されることができました。他のメスの創造物は不道徳になり得ません、しかし人間の女性はほとんどすべての時に触れられることができます。
そしてあの彼女の弱みが悪魔にサーパントを通して彼女を誘惑することを許し、そして神と神の御言葉の御前において女性にとても奇妙な位置に立たせました。彼女は俗悪で汚れた、いまわしい存在の象徴である一方で、清潔で美しく、聖なるすべてのもの象徴でもあり、その聖潔は御霊と神の祝福になることができるような器です。一方で彼女は自分の淫行のぶどう酒に酔う淫婦と呼ばれています[黙示録17:1-4]。もう一方で彼女はキリストの花嫁と呼ばれています[2コリント11:2, エペソ5:22-32]。一方で彼女は秘密なバビロンと呼ばれ[黙示録17:5]、神の御前でいまわしいものであるが、もう一方で彼女は新しいエルサレム、私たちの母と呼ばれます[黙示録21:2]。一方で彼女はあまりにも汚れて邪悪で、みだらで、直ちに彼女に唯一適した場所である火の湖に投げ入れられるような者だが、もう一方で彼女は天に挙げられ、神と神の御座を共に享受しており、そこはそのような王妃に唯一ふさわしい場所です。
そしてこのティアティラ教会時代において彼女は支配する女性です。彼女は秘密なバビロンです。彼女は大淫婦です。彼女は偽女預言者のイゼベルです。なぜですか。それは真の女性は神に柔順であるからです。キリストは彼女の頭です。彼女は主の言葉以外言葉を持たず、主の考え以外考えがなく、主の導き以外の導きがありません。しかしこの教会はどうでしょうか。彼女は御言葉を追い出し、聖書と敬虔な人の著作を破壊しました。真理を宣べ伝える人々を殺害しました。王たち、王子たち、そして国々を掌握し、軍隊を支配し、そして自分はキリストの真の身体で、彼女の教皇はキリストの代表だと主張しました。彼女は完全に悪魔に誘惑され、そして自分もが他人を誘惑する者となりました。彼女はサタンの花嫁であり、そしてサタンの庶子の宗派を生み出しました。
彼女は暗黒時代を通して支配してきました。彼女は900年間以上の間、略奪そして破壊してきました。彼女は芸術を殺し、科学を破壊し、真理の光がほとんど完全になくなり、うっすらとした一束の光のみが残るまで、死以外何も生み出すことがなかったです。油と酒はほとんど流れ出なくなりました。しかし彼女が世界の国々を支配し、全ての人が彼女の国民になるように要求している間、神に属し天国に市民権を持つ小さいグループがありました、そして彼らを彼女は破壊することはできませんでした。このローマの教会はアタルヤ王妃と同じように不信心そして邪悪で、全ての王族の種を破壊しようとし、ほとんど成功したが、神はひとりを保護され、彼からさらに多くの信心深い人が出ました[2歴代22:10-12]。そのため神はあの長い暗黒の夜に小さな群れを保護され、そして彼らの真理のために最終的にルターという方を起こされました。
ローマ・カトリック教会そしてその崇拝の方式について少し知っている人ならば、なぜこのティアティラの町が暗黒時代にいる教会を代表するように御霊によって選ばれたのかがわかります。それは、まさに私たちの目の前にあります。
時代
ティアティラ時代は全ての時代の中で最も長く、およそ900年間で、606年から1520年まででした。
使者
教会は早々と2つのグループ、西と東に別れました。どちらかもしくは両方のグループに時々改革者が起こされ、しばらくの間、教会の一部を導いて神とのより深い関係に入りました。そのような方は西側ではアッシジのフランチェスコがいました。しばらく本当に成功したのち、彼の働きは最終的にローマの階級制度によって抑えられました。リヨンのピーター・ワルドーは自分の世俗的な生活を捨てた商人であり、精力的に主に仕えそして多くの人々を主の元に引きつけました。しかし彼は働きを邪魔され、教皇によって破門させられました。聖句の光によって調べると、西側のグループにも東側のグループにもこの時代の使者になりうる方はいませんでした。しかし、イギリス諸島に2名の方々の御言葉の中での伝道事業と行いが真理の検査を受けた時に立てられました。彼らは聖パトリックと聖コルンバでした。聖コルンバに使者となる運命が降りました。
ティアティラ時代の使者は聖コルンバであったが、私は私たちへの見本として聖パトリックの一生について少し触れたいです。それと同時に、ローマ・カトリックが聖パトリックは彼らに属しているという主張は嘘であると指し示したいです。聖パトリックはジャンヌ・ダルクと同じようにローマ教会に属していませんでした。パトリックはクライド川の河畔の小さな町ボナヴェンにて、聖マーティンの姉の子として生まれました。
ある日彼がふたりの姉と海岸で遊んでいた時、海賊がやってきて彼ら3人を誘拐しました。姉妹ふたりのその後のゆくすえは誰も知らないが、パトリック(彼の名はスキャット)は北アイルランドの族長に売られました。彼の責務は豚を放牧することでした。これをするために彼は犬たちを訓練しました。彼の犬たちはとてもよく訓練されたので、その犬たちを買うために多くの人々は遠いところからやって来ました。彼は孤独の中で神に振り向き、そして救われました。
やがて彼は逃げて自分の両親の元に帰るという切実な願望を持つようになりました。彼は自分がトレーナーとしての能力を存分発揮できる計画をたてました。彼は犬たちに自分の上に横たわって自分の体をよく覆い、そして自分が命令するまでそこから動かないように犬たちを訓練しました。したがって、ある日彼の主人が何匹かの犬を売ったとき、パトリックはリーダーとなる犬以外の犬たちに船に入るように命令しました。彼はリーダー犬に逃げて船に入るのを拒絶するように秘密な合図を送りました。主人とバイヤーがその犬を捕まえようとしている間、パトリックは船に入り犬たちに自分を覆うように合図を送りました。そして口笛を吹いてリーダー犬を船の中に呼び、自分の体の真上に乗るようにしました。パトリックのことが見えないため、バイヤーは帆を揚げて海に出ました。
戻るには遠すぎる距離になったのを確認すると、パトリックはもう一つの合図を送り、犬たちに騒動を起こすようにしました。そして彼はやってきて、船長にもし自分を自分の家ある岸に下ろさないと自分は犬たちに騒ぎ立て続けるように命令し、船に乗っ取ると言いました。
しかし、その船長はクリスチャンであり、この少年の物語を聞くと喜んで彼を彼の家のある岸に下ろしました。そこでパトリックは聖書学校に行き、アイルランドに戻り、御言葉と神の御力によって多くのしるしと不思議を行い、何千もの人々を主のために勝ち取りました。彼は一度もローマに行ったことはなく、一度もローマから命令を受けたことはありません。このことの真実は、ローマがついにその島に足を踏み入れた時に、時期を見て、十万人以上ものクリスチャンを殺したことです。彼らは聖パトリックの導きによって主の御元に来た元のグループから何年もの時を経た後の末裔でした。
およそ聖パトリック死後60年後、コルンバは北アイルランドにあるドニゴール郡のフェルギュス王族の家系に生まれました。彼は聡明で自分自身を主に捧げた学者となり、ほとんど全ての聖句を暗記しました。神は聞くことができる声のような形で彼に宣教師になるように呼びかけられました。彼が神の御声を聞いた後、何も彼を止めことはできず、そして彼の奇跡に満ちた伝道事業で多くの歴史学者に彼は使徒たちの次に位置する者だと主張しました。超自然なしるしのある彼の伝道事業はあまりにも偉大なので、何人か(特にローマの学生)はその記述たちは誇張されたものだと考えました。
彼の伝道の旅の中で、ある時彼は城壁のある街に近づき、鉄の門が彼の行く手を阻んでいることに気づきました。彼は声を上げて神が自分を人々のところに行って伝道できるように助けてくださることを祈りました。しかし彼が祈り始めると宮廷の魔術師たちが大声で彼の邪魔をしました。そしたら彼は賛美歌を歌い始めました。彼が歌う時、神は彼の声の音量を上げられ、異教徒たちの叫びを消しました。すると、突然鉄の門が自ら開きました。彼は中に入り、福音を宣べ伝え、多くの人々を主の御元に勝ち取りました。
別の時、彼はある村から入るのを拒絶され、身を振り向いて離れようとした時に、村長の息子は突然重病になり、死にかけました。彼らは急いで聖コルンバを探して呼び戻しました。彼が信仰のある祈りを終えると、その少年はすぐざま癒されました。その村は福音によって伝道へドアを開きました。
コルンバと彼の同僚たちによって宣べ伝えられた純正な福音は全スコットランドに広がり、それを神に振り向かせました。福音は溢れ出てアイルランド、そして北ヨーロッパに入りました。彼の福音を宣べ伝える方法は、およそ12人がひとりのリーダーのもとで新しい地域に入り、文字通り福音の中心となる町を建てます。これらの12人の中には大工、教師、伝道者などがいて、皆御言葉をよく知り、敬虔な生活を送っています。この小さな居住地は壁によって囲まれていました。すぐに学生や彼らの家族はこの囲いの中に入り、彼らと一緒に暮らし、御言葉を勉強して宣教師、リーダー、伝道師として主に仕えるために外に出る準備をします。男性たちは結婚できる自由はあったが、多くはより良く神に仕えるためにそうしませんでした。彼らは政府の援助を受けず、政治を避けました。他の宗教を攻撃する代わりに彼らは真理を教え、なぜなら彼らは真理は神が彼らに望まれる目標を達成できる十分な武器だと信じていたからです。彼らは絶対にローマから独立していました。
アイオナ島(スコットランドの南西に位置する)には大きい聖書学校があり、聖コルンバはその創始者でした。彼がその島に行った時、その島はあまりにも荒廃としていて石ころで溢れかえっていたので、彼らに十分な食料を生産することはできませんでした。しかしコルンバは片手で種をまきながら、もう片手を上げて祈りました。今日その島は世界で最も肥沃な島のひとつとなりました。この聖書が中心である島から力のある学者が出て、神の知恵と御力に満ちあふれていました。
この偉大な神に仕えた方の歴史そして彼がした奇妙な働きを読み、教皇の勢力が貪欲に全ての人々をその手の中に握り、最終的にこれらの伝道事業の場を汚し、そしてコルンバによって教えられた真理を破壊したことを知った時、私の心は悲しみに暮れました。
挨拶
黙示録2:18、
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われる──」
ティアティラ時代への神性についての啓示はイエスは神の子であることです。御自分の肉身におられた時に主は一度は人の子として知られました。しかし今後私たちはもはや肉身として主を認識していません。主はもはや人の子、すべての予言を一身に集められる偉大な預言者ではありません。ひとり子の神が父のふところに戻られました[ヨハネ1:18]。今私たちは復活の力によって主を認識します。主は蘇られ、偉大なる力は主のものであり、主は全てのものの上におられ、全ての栄光は主に捧げられます。主は御自分の栄光を他の者と分かち合われることはありません。主は御自分の教会におかれるリーダーシップを誰にも渡されることはありません。
主はティアティラを見下ろされ、その町で、その4つ目の時代で主が所有されるはずの栄光が他の者に捧げられてしまったのをご覧になります。アポロが神の子として崇められているのをご覧になった時、主の御目は怒りと裁きの炎で燃えておられました、なぜなら主のみが父なる神のひとり子であるからです。主がティアティラ時代の宗教に下された裁きはとても恐ろしい物に違いありません、そこで教会メンバーは神の子(ゼウスの子アポロ)を崇拝する異教徒たちのように、ある人の支配者を上げて崇拝し、かつ政府の力によって支持されているのです。それがまさに主がご覧になったことです。ローマ・カトリック教会は完全に太陽神(アポロ)の儀式に基づいた偶像崇拝の中に入り、教会と政府の連合によって、ある人(教皇)を神と同等なところまで上げました。なぜならトマス・アクィナスとアルヴェルス・ペラギウスは明確にこう言いました、「霊的な目を通して教皇を見る者にとって、教皇は人ではなく神です。彼は無限な権利を持っています。彼は自分が望むままにどんなことをも正しいとすることができ、気が向くままにどんな人の権利をも奪うことができます。この万能な力を疑うことは救いから離されることをもたらします。教会の最大な敵は真の従順者であるくびきを背負おうとしない異教徒たちです。」
「神と人々(編注:原文は複数形です。新改訳2017では「神と人」と訳されています。)との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエス(神の子)です。」
1テモテ2:5。
しかしローマ教皇は御言葉を変えました。彼は、「神と人(人々ではない)との間の仲介者も唯一であり」としました。そのため今彼は仲介者と人々の間を仲介しています。しかし御子以外に仲介者は他にありません。教皇は救いはローマの教会を通して行われると宣言します。しかし神の御子を通す以外救いは他にありません。両目が裁判の火で燃えるのも不思議ではありません。主が立ち上がられ、この世界の邪悪な国々を粉々に踏みつぶそうとされた時、その両足は光り輝く真鍮のようであるのも理解できます。強い真鍮の両足のために神に感謝いたします。その両足は私たちの代わりに裁判を経験されました。その両足は今私たちの基礎であり、主イエスが勝ち取られた物は私たちの物でもあるからです。私たちは立って神の御子イエスの中で主と同一視します。
この時代において私たちはイスラム主義が起き、そしてそれは神の御子を否定し、自分たちをクリスチャンと呼ぶすべての者を殺そうと決心するのを見ることができます。
同様に、この時代において全能の神の一つ目の戒律を破ったその偽教会は二つ目の戒律をも破ろうとしていました[エジプト20:4-5]。なぜならそれは自分の教皇をイエス・キリストの位置に置き、偶像崇拝を設立して実施し、教会の中で像を置くのを拒む者たちでさえも死に至らしめました。テオドラ皇后の時代だけでも、842年から867年の間、十万人以上の聖徒が偶像は価値がないものだと考えたために殺されました。
この時代は確かに悔い改めなければ、すべてを失います。栄光の主が立っておられ、神御自身の御言葉がそばにおいやられ、神御自身も拒絶されたが、人の手と心は神を退くことはできません。彼らに神を否定させよう、神は依然と誠実な方です。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。わたしが燃える炎のような目と真鍮の足で来た時、わたしは報います。復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われました[ルカ12:32、黙示録2:18,22、ローマ12:19]。
称賛
黙示録2:19、
「わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。」
ここで私たちは再び同じ序言である、「わたしは、あなたの行いを知っている。」を見つけます。神の御子御自身が言われました、「...わざのゆえに信じなさい」[ヨハネ14:11]。主が地上におられた時、主は御自分の御わざを強調されました。主がなさった御わざは神があらかじめ定められたもので、人々が主に対する信仰を起こすためのものです。それは主の伝道事業の偉大な部分でした。
使徒パウロの中におられる主の聖霊がこう言われました、
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」
エペソ2:10。
「これらの御わざは主に対する信仰を起こすためのもので、パウロが『主にあって造られた』と描写したように、それらは主との関係を示すことができます。」
行いは私たちの救いのために神の中での信仰に取って代わることはできません。しかし行いは私たちの信仰はすでに主の中にあるのを示します。良い行いはあなたを救うことはできないが、それらは主に捧げる実として救われた命から出てきます。私は良い行いを信じます。ある人が救われていないとしても、彼は良い行いをするべきであり、最善を尽くすべきです。神の御目の前人々が悪の行いをしながら自分たちは主の御心を行っていると言うのはなんと恐ろしいことでしょう。それは司教と教皇とローマの聖職者階級制度が行っていたことです。彼らは主の御名で人を殺し、傷つけ、そしてあらゆる悪事を行いました。彼らは御言葉が教えたのとまさに真逆な生活を過ごしていました。あの邪悪な日々に、それらの真の信徒は暗い所の光のように輝いていました、なぜなら彼らは絶えず良い事をしていたからです。彼らは呪いに対して祝福をもって返し、多くの人々はそのために死んだにも関わらず、真理を行って神に栄光を捧げました。
この聖句の中で主は御自分の子どもたちを称賛されており、なぜなら彼らは生まれ変わったいのちを生きていたからです。彼らの行いは彼らの中に新しい霊が宿っていることを証ししています。人々は彼らの良い行いを見て神に栄光を捧げました。そうです、もしあなたがクリスチャンならばあなたは良い事をするようになります。あなたの行いはあなたの心は正しいと示します。それはあなたが演じているものではなく、なぜならあなたは神以外誰も見ていないときに神の御心を行うからで、そして命を捧げることになっても神の御心を行うのです。
「わたしは、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。」彼らの愛は「行い」と「奉仕」の間に置かれていることに気づきます。そしてそれは正しい位置で、なぜなら愛がなければ私たちの行いも奉仕も神の御前で受け入れられることはありません。パウロはコリント人たちにこう言いました、「愛がないなら、私は無に等しいのです。私が行うことは、愛がなければ、何の役にも立ちません。」[1コリント13:1-3] ここでこれらの信徒は救いのためもしくは人から賞賛されるために行いをするニコライ党のクラスの中にいる人とは異なるのを見ることができます。彼らが良い行いをするのは聖霊によって、神の愛が彼らの心に注がれているからです[ローマ5:5]。彼らの心の中の愛は神が御自分の人々への愛なのです。イエスは言われました、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」[ヨハネ13:35] 初期のクリスチャンたちを見た異教徒は言いました、「見よ、彼らはなんとお互い愛し合っていることでしょう。」ヨハネは言いました、
「愛がある者はみな神から生まれ」
1ヨハネ4:7
ここである警告をしたいです。最後の時に不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなると書かれています。ラオディキアもしくは最後の時代で、自分に対する愛と、物に対する愛が神の真の愛にとって変わります。私たちはこれらの最後の日々の罪の力を防衛する必要があります。こんなにも多くの人々が頑なになってしまったのは、彼らがこの最後の日の霊がもたらす効果に気づいていないからです。神に近づき、神に御自分の愛で私たちのいのちを満たしていただく時がきました、さもないと私たちは最後の日の教会の冷たさを感じ、私たちを唯一助けることができる神の真理を拒絶することになります。
それらの暗黒で恐ろしい年月の中で、真のブドウの木は神への愛、そして兄弟への愛を保ちました。神はそのために彼らを称賛されました。
「わたしは、あなたの奉仕を知っている。」イエスは言われました、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」ある知恵のある方がその言葉に言及しました。これが彼が言ったことです、「歴史のみがその格言を証明することができます。」その方は正しいです。歴史上のすべての本当に偉大な方々は皆一度は人に仕えていました。今まで他人に服従するように要求し、迫害し、いつも頭になろうとする人たちは恥じらいの中で失脚してきました。非常に裕福な人たちでさえ正しく財産を使っていなかったのが原因で神に咎められました。歴史を調べると、本当に偉大な方たちは一度は人に仕えていたことがわかります。歴史は一度も他人からたくさん奉仕を受けてきた人々を喝采せず、逆にいつも他人のために多くのことをした方々を称賛します。
さてそのことを私たち自身に当てはめてみましょう。人の子でさえ仕えられるために来られたのではなく、かえって人に仕えるために来られた、そのため私たちはその見本を見習うべきです[マタイ20:25-28]。主が使徒たちの足の前で腰を低くされ、彼らの疲れて汚れた足を洗われるのを見てください。主は言われました、「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。今見たわたしがしていることを、あなたがたも同じようにするべきです。」[ヨハネ13:4-17]主は神が彼をいと高き所まで上げられるようにしもべになられました。そしてある日聖徒の裁きの時に私たちは主がこう言われるのを聞くことになります、「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ。」いつもしもべとなるのは難しいことです。しかし他人のために生きた人々はある日主とともに主の御座に座ります。その時に、すべてはそれに値します。「ご主人のために働きましょう、朝から晩まで、主の驚くべき愛と加護について語り合いましょう、そして人生の旅を終え、地上での役目が果たされると、向こうで名が呼ばれる時私はそこにいます。」(編注:When the roll is called up yonderという賛美歌の歌詞)
「わたしは、あなたの信仰を知っている。」ここでペルガモ教会に言われたような「あなたはわたしに対する信仰を持つ」という言葉をここで言われていません。主は今御自分に対する信仰について語っておらず、彼らの忠実さを賞賛しています。そして主は彼らの「忍耐」についても言及されています。忠実と忍耐は一緒にいます。
実際忍耐は忠実から出るもので、なぜならヤコブ1:3でこう言われています、
「信仰が試されると忍耐が生まれます。」
忍耐を得る方法は絶対にこの他にありません。それは私たちの信仰に対する試練から来ます。
ローマ5:3、
「苦難が忍耐を生み出し」
私たちの忍耐の成果を神はいかに重視されているかはヤコブ1:4で見られます、
「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」
神の御心は私たちが完全になることです。そしてその完全は忍耐です—神を待ち、神のために待つことです。これは性格が成長していく過程です。神はこれらの暗黒時代の聖徒をなんと高く称賛されたことでしょう。屠り場に引かれていく羊のように忍耐し、愛と忠実をもって神に仕えました。彼らの報いはどれほど大きいものでしょう。
「わたしは、あなたの行い、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。」
これは確かに注意に値ます。時代の暗闇が増し、殉教者の名誉名簿が日に日に長くなっていった時、彼らはますます努力して、神に仕え、そして彼らの信仰は増加しました。エペソ時代で愛が弱くなってしまったのはなんと悲しいことでしょう。そして他の時代でも愛の労苦が増えたと言われたことはないが、この時代において、全ての時代の中で最も暗い時代で、彼らはますます神に仕えました。それはなんたる教材なのでしょうか。主に対する愛の感謝の奉仕はやめるどころか、増えていきました。それが秘訣です。敵が私たちの主に対する奉仕を邪魔しようとする時、私たちの返答は奉仕を増やすことです。弱っている人が恐怖で泣く時、その時こそ勝利を叫ぶ時です。
「わたしは、あなたの行い、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。」
すでに言ったように、この時代は暗黒時代と呼ばれ、なぜならそれはもちろん全ての歴史の中で最も暗い期間だったからです。それは教皇インノケンティウス3世の時代で、彼は自分が「キリストの代理者—教会と世界においての最高の支配者」であると主張し、宗教裁判所を設立し、彼の指示のもとに宗教改革時代以外で最も多くの人々の血を流しました。それはポルノクラシーの時代、淫婦たちの支配でした。サガリウス3世は愛人がいて、そして「情人と庶子たちで教皇の聖歌隊を満たし、教皇の宮殿を強盗たちの巣に変えました。」アナスタシウス3世はサガリウス3世の愛人であるマロジアによって窒息死させられました。ヨハネ11世はマロジアの庶子でした。ヨハネ12世はマロジアの孫であり、彼は「未亡人と処女たちに乱暴をし、淫行の時に女性の怒った夫によって殺されました。」それは教会大分裂の時代で、なぜなら2系列の教皇たちがいたからで(一人はアヴィニョンから、もう一人はローマから治めていました)、お互い罵り争いました。これらの教皇たちは不道徳な性行為の罪(数えきれない庶子の父であり、同性愛の罪など)だけでなく、聖職者の職務を一番高く金銭を出した人に売った罪も犯しました。
それは光があまりにも弱々しく光る時代で、しかしわずかな信者たちは暗くなるければなるほどいっそう熱心に主のために働き、その時代の終わりには多くの人が立ち上がって宗教改革を試みました。彼らの働きはあまりにも熱心で、これから来る宗教改革のために道路を整備しました。したがって御言葉はその時代について言われました、「近ごろ(時代の終わり)の行いは初めの行いにまさる」。
ティアティラという言葉の意味は多くの意味があり、その中のひとつに「絶えずに犠牲にする」という意味があります。多くの人がこれはミサをすること、すなわちキリストの犠牲を絶えずに演じることに関する予言であると信じています。それは優れた考えだが、これは真の信者たちの命と労苦を絶えずに犠牲にすることをも意味すると思います。
これらのティアティラの聖徒たちは信者たちの中のエッセンスであり、聖霊と信仰に満ち、良い働きのために造られ、神の称賛に値し、自分のために生きず、自分たちのすべてを良き捧げ物として主に捧げました。
譴責
黙示録2:20
「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている(我慢している)。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。」
この節と一緒にその下の23節に行き、ずっと注意を喚起してきたある偉大なる真理の証明を見てほしいです。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。」聖霊がそれぞれの時代で彼らに話す時はまるでひとつの教会に話されているようだが、実は2つの教会があるのだと私は絶えずに言い続けました。ここでは教会が複数あると明言しており、その中のいくつかは主は人の思いと心を探る方であることを明らかに知らないとはっきり言われています。主は彼らにそうだと証明されるつもりです。さて、どのような教会がこの真理を知らないのでしょうか。もちろんそれは偽りのブドウの木のグループであり、なぜなら真の信者たちはもちろん裁きは神の家から始まると知っていて[1ペテロ4:17]、彼らは神を恐れているので、裁かれないように自分たちを裁きます[1コリント11:31]。
さてそれらの教会は偽のブドウの木であるにもかかわらず、なぜ神はこれらの教会を御自分の教会だとお呼びになるのでしょうか。この問題の真相は彼らがクリスチャンだからです。しかし彼らは御霊のクリスチャンではありません。彼らは肉のクリスチャンです。彼らは御名を背負っても虚しいです。マルコ7:7、「彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」しかし彼らはもちろんクリスチャンです、それ以外彼らは何になることができるでしょうか。イスラム教徒はイスラム教徒です。彼がどのように生きようと、それが彼の宗教であり、なぜなら彼は理論上コーランの教えに同意したからです。
同じようにイエスは神の御子、処女から生まれ、十字架につけられ亡くなり、そして再び蘇られ、人間の救い主でいらっしゃるなどのことに同意するなら、そのクリスチャンはクリスチャンです。(実際、ラオディキア教会では自分たちのことをクリスチャンと呼ぶ者が現れます、なぜなら彼らはイエスの良き資質に同意しつつ、主の神性を否定しようとします。クリスチャン・サイエンスはすでにそうで、その他にも同様に多くの社会的福音を伝えるところが多くあります。)彼は名ばかりのクリスチャンで、教会に属します。しかし彼は真のもしくは霊的な信者ではありません。そのような信者はバプテスマを受けてキリストの体の中に入り、主の一員となります。しかしそれでもなお、神のご命令は毒麦を麦と一緒に成長させ、抜き出さないことです。それが神が命令されたことです。彼らが縛られ焼かれる日がいずれ来ますが、まだその時期ではありません。
そのため御霊はこの混ざっているグループに言われました。一方で主は称賛をされ、一方で責められます。主は真の信者が正しいであることを話されました。今、主は偽のブドウの木が主の御前で義とされるためにすべきことを警告されました。
あの女イゼベル
使徒ヤコブは私たちに罪はどうやって起きるかを示してくれました。
ヤコブ1:14-15
「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」さてそれは実際それらの教会時代中で起きていることの描写です。罪は他でもない感覚的なことから始まるのと同じように、教会の死はニコライ派のシンプルであまり気づかれない行いから始まりました。それは行いから教義に発展しました。教義から政府の力を手に入れ、異教を導入しました。今この時代において、それは自分の女預言者(教師)のところに行き、そしてさらに前進し、最終的に自分が火の湖の中にいることに気づきます、なぜならそこは実際それが第二の死で終わるところです。
神がこの第4の時代に対する全ての反対の叫びをこの女預言者イゼベルに対する非難の中で見つけることができます。実際なぜ主が彼女をそこまで非難されるのかを理解するために、聖書の中での彼女の歴史を調べる必要があり、そこで彼女が何をしたのかを見つけられれば、この時代に何が起きているのかを知ることができます。
イゼベルについて一番最初に知る重要なことは、彼女はアブラハムの子孫でもなく、モアブの女性ルツのように霊的な方法でイスラエルの部族に入ったわけでもないということです。いいえ。この女性はシドン人の王エテバアルの娘であり(1列王16:31)、その王はアスタルテの祭司でした。彼は前任の王のフェリスを殺害することで王位を手に入れました。そのため彼女は殺人犯の娘であると見ることができます。(これはもちろんカインのことを思い出させます。)そして彼女がイスラエルの一部になったのは神が異邦人が入るために定められた霊的な通路によるのではなく、イスラエルの10の部族の王であるアハブと結婚することによるものでした。見た通り、この連合は霊的なものではなく、政治的なものでした。したがって偶像崇拝に浸っているこの女性は唯一の真の神の崇拝者になる願望はまったくなく、逆に彼女はイスラエルを主から背けさせると公言してやって来ました。
今イスラエル(その10個の部族)はすでに金の子牛を崇拝するのはどういうことかを知りましたが、彼らはまだ偶像崇拝に自分たちを売り出していません、なぜなら神は崇拝されそしてモーセの律法は認められているからです。しかしアハブがイゼベルと結婚して以来、偶像崇拝は迅速に蔓延しました。この女性が自分がアスタルテ(ヴィーナス)そしてバアル(太陽神)のために建てた神殿の女預言者になった時、イスラエルは生命の危機に瀕しました。
このことを念頭に置いたら、神の御霊がこのティアティラ時代で指し示されたいことを見始めることができます。ではいきましょう。アハブは自分の王国を強め守りたいという政治的な策略のもとでイゼベルと結婚しました。これはまさに教会がコンスタンティヌスと結婚した時に行ったことでした。霊的な雰囲気を出していたが、彼らは共に政治的な理由で連合しました。さて誰もコンスタンティヌスがクリスチャンだったと私に納得させることができません。彼はクリスチャンを装った異教徒でした。彼は兵士の盾に白い十字架を描きました。彼はコロンブス騎士団の創始者でした。彼はソフィア大聖堂の尖塔に十字架を置きましたが、そこからある伝統を始めました。
異教徒、名ばかりのクリスチャン、そして真のクリスチャンをみんな集めることがコンスタンティヌスのアイディアでした。そしてしばらくの間彼が成功したように見えました、なぜなら真の信者はやってきて御言葉から遠ざかった人たちを取り戻そうとしました。その人たちを真理の中に戻すことができないのがわかると、彼らはその政治的体制から離れることを強要されました。そうした時、彼らは異端と呼ばれ迫害されました。
ここで言わせてください、私たちのところで今まさに同じことが起きているのです。人々は集まってきます。彼らはユダヤ教であろうと、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、みんなに合うような聖書を書いています。彼らは自分たちのニカイア公会議を持っているが、それをエキュメニカル公会議と呼びます。これらの組織は誰と戦っていると思いますか。彼らは真のペンテコステ信者と戦っています。ペンテコステ派と呼ばれる組織を指しているわけではありません。聖霊に満たされることでペンテコステ信者となり、真理の中で歩んでいるので、その間にしるしと賜物があるという人々を指しています。
アハブが政治的な理由でイゼベルと結婚した時、彼は自分の長子の権利を売りました。信じようと信じまいと、ある組織に参加すると自分の長子の権利を売ることになります、兄弟よ。全てのプロテスタントグループは出てそして戻って自分たちの長子の権利を売りました、そして長子の権利を売った時、エサウのようにどれくらい泣き悔い改めようと、もうどうすることもできません[創世記27:38]。唯一できることは、「彼女から出て行きなさい、彼女の罪に関わらないように!」することです[黙示録18:4]。もし私が正しいと思っていないなら、この質問に答えてださい。組織に入り宗派になってからリバイバルが起きた教会や神の運動がありますか?これについて誰か私に教えることができますか。歴史を読んでください。ひとつも、ひとつでさえも見つからないのです。
イスラエルが世界と連合し、政治的な理由で霊的なことを離れた時、それはイスラエルにとって真夜中の時でした。教会がニカイアで同じことをした時、それは教会の真夜中でした。教会が集まってくる今、それは真夜中の時です。
アハブがイゼベルと結婚した時、彼は彼女が政府の金銭でアスタルテとバアルを崇拝するための二つの大きい建物を建てることを許しました。一つはバアルのために建てられ、全てのイスラエル人がその場所で崇拝するのに十分に大きいものでした。そしてコンスタンティヌスと教会が結婚すると、彼は教会に建物を与え、そして祭壇と偶像を置き、すでに形成されている聖職階級制度を組織しました。
イゼベルが政府の支持を得ると、自分の宗教を人々に強要し、神の預言者と祭司たちを殺しました。状況があまりにもひどく、その時代の預言者エリヤは自分が唯一残った者だと思ったが、神はバアルに跪かなかった者を7000人残されました[1列王19:18]。そして今、バプテスト派、メソジスト派、長老派などの宗派の中で、何人かがそこから出て神のもとに戻ってきます。私は一度も人々に敵対することをしたことがないのを知ってほしいです。それは宗派です、組織のシステムに反対しているのです。それに反対しなければなりません、なぜなら神はそれを嫌われるからです。
ここで少し止まって、先ほどティアティラでの崇拝について話したことをおさらいしましょう。私は彼らはアポロ(太陽神であった)、そして皇帝をとともに崇拝したと言いました。さて、このアポロは「悪を回避する者」と呼ばれていました。彼は悪を人々から回避させました。彼は彼らを祝福し、そして彼らにとって本当の神でした。彼は人々を教育すると考えられました。彼は崇拝、そして神殿の儀式、神々に対する奉仕、いけにえ、死、そして死後のいのちについて解釈しました。彼はやり方は三脚椅子に座る女預言者を通してこのことを行いました。おお!見えますか?ここにあのイゼベルと呼ばれる女預言者がいて、そして彼女は人々を教えています。そして彼女の教えは神のしもべたちを誘惑し、彼らに淫らなことを行わせることです。さて淫らの行為は「偶像崇拝」を意味します。それはその霊的な意味です。それは非合法な連合です。アハブの連合とコンスタンティヌスの連合は共に非合法的なものでした。両者ともに霊的な淫行を行いました。淫らなことを行う者は皆火の湖に投げ入れられます[黙示録21:8]。神がそう言われました。
さて、カトリック教会の教え(教会は女性として表されます、それは女の人です)は神の御言葉を否定します。教皇は文字通り現代版のアポロで、人々に自分たちに加わって偶像崇拝をするように呼びかけます。ローマ・カトリック教会は今人々にとっての偽女預言者になったのです。なぜなら彼女は人々から主の御言葉をとり、罪の赦しを得られるためにすべきこと、神の祝福をもたらすことといった彼女自身の考えを人々に与え、そして司祭たちは自分たちはいのちをつかさどる権限だけでなく、死をつかさどる権限も持っていると主張するまでになったのです。彼らは煉獄があると主張し教えるが、御言葉の中でそれを見つけることはできません。祈りとミサと金銭によって煉獄から出て天国に入ることができると彼らは教えます。システム全体が偽りの教えの上に建っています。それは神御自身の御言葉に対する啓示の確固たる基礎の上ではなく、それ自身の悪魔な偽りの揺れ沈む砂の上に建っています。
教会は組織から宗派へ移り、そして偽りの教えに入りました。そうです。ローマカトリックは神は御自身の御言葉の中におられることを信じません。いいえ。もし信じるなら彼らは悔い改めて戻るが、彼らは神は御自分の教会の中におられると言います。それは聖書の中身をカトリック教会の歴史へと変えてしまいます。そうではありません。彼らが水による洗礼に対しての取り扱いだけを見てみてください。彼らはクリスチャンの洗礼の代わりに異教の称号を作りました。
私とあるカトリックの司祭の話をお話ししましょう。私が洗礼した女の子があるときカトリック教徒になったので、その司祭は私に彼女について聞きたがっていました。彼は彼女はどのような洗礼を受けたのかと聞きました。私が知っている限りそれは一種類しかないが、彼女にクリスチャンの洗礼を施したと彼に教えました。私は主イエス・キリストの御名で彼女を水の中に埋めました。その司祭はある時期カトリック教会はそうしていたと私に話しました。私はすぐざまにいつカトリック教会がそうしたのかと聞きました、なぜなら私は彼らの歴史を読み、彼が言っていたことを見つけることができなかったからです。彼はそれは聖書の中で見つけることができる、そしてイエスがカトリック教会を組織したと私に話しました。私は彼にペテロが本当に最初の教皇だと思うのかと聞きました。彼はペテロだと強調して言いました。私は彼にミサは正しくそして変更されることなく行われるためにラテン語で行われるのかと聞きました。彼はそうだと言いました。私は彼に彼らはさまよって最初のところから遠く離れてしまったと思うと話しました、もしカトリック教会が本当に使徒の働きを信じるなら、私は旧式なカトリック教徒だと彼に言いました。彼は聖書はカトリック教会の記録であり、そして神は教会の中におられたと私に言いました。私は彼に賛同することはできない、なぜなら神は御自身の御言葉の中におられるからです。
たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです[ローマ3:4]。あの書から何か取り除いたりつけ加えたりするなら、神は何かつけ加えた者には災いを加えられ、何か取り除いた者をいのちの書から除かれると約束されました。黙示録22:18,19。
ローマ・カトリック教会がどのようにして神が御言葉の中ではなく教会の中におられるのを信じるのかについて話させてください。ここにヨハネ23世の日記からの抜粋があります。「教皇になって三年が経ち、『恐れおののき』ながら私は純粋な服従の心で主の御心に従いこの奉仕を引き受けました。この御心は枢機卿会がコンクラーベによって私のところに伝えられ、この金言の証人になることは私がそれに忠実になるように動かし続けています。それは私に現在のすべてのことで完全に神を信じるようにさせ、完璧な平静な心で未来に向けさせます。」この教皇は神は教会を通して話され、御自分の御心を明かされると話しています。なんて嘘な話だ。神は御自分の御言葉の中におられ、そして御言葉によって話され、御自分の御心を明かされます。彼は自分が人の言葉に絶対的な信頼を置き、それによって平静な心で服従したとも言いました。とても美しく聞こえるがとても虚偽なことです。エデンの園でのこじつけと同じようなことです。
黙示録17章に戻って神の御言葉ではなく偽の予言の中で生きているこの婦人、すなわち教会を見てみましょう。第1節で神は彼女のことを大淫婦と呼ばれました。なぜ彼女は淫婦なのですか。それは彼女が偶像崇拝の中にいるからです。彼女は同じことをするように人々を巻き込みました。偶像崇拝を直すにはどうすればよいでしょうか。神の御言葉です。そのためこの婦人は御言葉を離れたため、淫婦なのです。そこで彼女は大水、それは多くの群衆のことを意味するのだが、その上に座っています。これはもちろん偽の教会のことであり、なぜなら神の教会は少人数で、それを見出す者はわずかです[マタイ7:13,14,16;ルカ12:32;13:23,24]。
彼女が人々にとっていかに素晴らしく映ろうと、哲理あるように聞こえようと、彼女が神の御目の前でどう映っているのかに注意してください。彼女はみだらに自分の淫行に酔いました[黙示録17:2]。今彼女は殉教者たちの血に酔いました[黙示録17:6]。まるで預言者と祭司たちを殺し、バアルに跪いて崇拝しなかった神の人々を破壊したイゼベルのようです[1列王18:4,13]。そしてそれはまさにカトリック教会がしたことです。彼らは教皇のルールに跪かなかった人々を殺しました。人の言葉ではなく神の御言葉を望んでいた人々は処刑され、大抵残酷な処刑方法によってでした。しかしこの死と取引をする教会はそれ自身が死んだ者であり、自分がそれに気づいていないのです。彼女の中にはいのちがなく、彼女にしるしも伴いません。
悔い改める機会
黙示録2:21、
「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。」
この教会は実際アハブよりもさらに悪い者であるのを知っていますか。アハブはしばらくの間悔い改め、神の御前で打ちひしがれて歩いたのを知っていますか。ローマ・カトリック教会に関してはそうは言えません。いいえ。彼女は一度も悔い改めることがなく、そして頑なに彼女が悔い改めるのを助けようとする者を皆破壊しました。それが歴史です。今神はそれぞれの時代に使者を起こし続けられていただけでなく、それらの使者の素晴らしい助っ人たちをも何人か起こされました。神はそれぞれの時代に神の素晴らしい人々を与えられ、そして彼らはあらゆることをして教会を神のところに取り戻そうとしました。神は確かに彼女に悔い改める機会と助けを与えられました。彼女は悔い改め、実をもってそれを示しましたか?いいえ!彼女は一度もそうしたことがなく、決してそうしません。彼女は酔った者です。彼女は霊的なことに感覚を失っているのです。
混乱しないで下さいね。ローマ・カトリック教会が自分の信条をプロテスタントの信条に合わせようとすることでプロテスタントと連合しようとするのを見てたら、それ彼女が聖徒たちを屠殺したことを悔い改めたと思わないでください。彼女は一度も謝罪して、その大屠殺は過ちだったと言ったことがありません。そして決してそうしません。この時代で彼女はいかに穏やかで甘いように見えようと、いつか彼女は起きて殺人をする、なぜなら彼女の悪で悔い改めない心の中には殺意が潜んでいます。
淫婦に対する判決
黙示録2:22-23
「見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。
また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
何?この婦人には子どもたちがいるのですか。そして彼女は淫婦ですか。もしその場合、彼女は淫行によって子どもたちを産んだので、御言葉によると彼女は火によって焼かれなければいけない、それは絶対に真実です。それが彼女の最期で、なぜなら彼女は火によって焼かれます。彼女の結末は火の湖です。しかし立ち止まってこれらの子どもたちについて少し考えて見ましょう。子どもは女性から出てくるものです。この婦人から子供たちが生まれ、そして彼ら子供たちは彼女がしたことと同じことをしたのは明らかです。組織から出てきて、そして組織に戻らなかった教会があったら教えてください。一つもないです。一つもない。ルター派は出てきてまた戻って組織化し、そして今日彼らはこのエキュメニカル運動と密接に連結しています。メソジスト派は出てそして組織化して戻りました。ペンテコステ派は出てそして組織化して戻りました。これから出てくるひと群れがいるが、そして神を賛美します、彼らは組織化して戻ることはない、なぜなら彼らは真理を知っているからです。そのグループは最後の日の花嫁になります。
ここで淫婦は子どもたちを持つと言っています。彼女たちは誰のことでしょう。彼女たちは娘たちで、なぜなら彼女たちはその婦人のような教会たちだからです。さてこれはとても面白いポイントです。イゼベルとアハブには娘がいました。その娘はヨシャファテの子ヨラムと結婚し、2列王8:18でそう書かれている、
「ヨラムは義理の父の道を歩んだ。」
彼はこの結婚によって偶像崇拝の中に入りました。彼は神を恐れ、神を崇拝するユダ家を偶像崇拝の中に連れて入りました。先指し示したように、それは実にこれらのすべての娘教会がしたことです。彼女たちは真理から始まったが、組織に嫁入りし、そして伝統と信条などのために御言葉を離れます。この点について分かってほしいです。
ヘブル13:7でこう書かれています、
「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。」
私たちを支配しているのは御言葉であり、人ではありません。ある夫である男性はその女性のかしらです。彼は彼女を支配します。しかし教会も女性で、彼女の支配者は御言葉です[エペソ5:23, コロサイ1:18,2:10,19]。イエスは御言葉です[ヨハネ1:14,黙示録19:11-13]。もし彼女は御言葉を拒絶して他の頭をとったら彼女は淫婦です。伝統と信条のために御言葉を放棄する選択をしなかった教会があったら、教えてください。彼女たちはみな淫婦で、娘はその母親に似てきます。
淫婦とその子どもたちにはどのような罰が下されるのでしょうか。はい、それは二倍となるものです。まず、主は言われました、「わたしは彼女を床に投げ込む。」22節の最後の部分によると、それは患難の床、もしくは大患難です。それは実にイエスがマタイ25:1-13で言われたことです。十人の娘がいました。五人は賢く、五人は愚かでした。賢い五人は油(聖霊)をもっていたが、他の五人は持っていませんでした。「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした時、愚かな五人は油を探し求めに走らなければならなかったが、賢い五人の娘たちは婚礼の祝宴に入りました。外に残された五人は大患難の中で取り残されました。それが携挙の中に入らなかった人たちに起こることです。それが淫婦と彼女の娘たちに起こることです。次に、主は彼らを死で殺すと書かれている、もしくは文字通り解釈すると、「彼らに死によって死なせる」。これは奇妙な言い方です。一般的な言い方として、「絞首刑で死刑を執行する、もしくは電気刑や他のやり方で死刑を執行する」というのがあります。しかしここでは「彼らに死によって死なせる」と言っています。死自身が彼らの死の原因となっているのです。
これをはっきりと分かってほしいため、イゼベルの娘がユダ家に嫁ぎ、ユダ家を偶像崇拝の中に連れて入り、そして神がユダを死に処されたという例で説明しましょう。それがバラムも行なっていたことです。一方ではイゼベルと彼女の異教です。もう一方ではユダが正しく神を崇拝しそして御言葉のもとで生きています。そこでイゼベルは自分の娘をヨラムの元に嫁がせました。それが起こった途端、ヨラムは人々を偶像崇拝をする者たちにさせてしまいました。その結婚が行われるとユダは死にました。霊的な死が来ました。ローマの初めての教会が組織化した途端、それは死にました。ルター派が組織化した途端、死が入り、彼らは死にました。ペンテコステ派は最近出てきて、そして彼らは組織化しました。御霊は離れた、彼らはそう思いませんが。しかしそうなのです。その結婚は死をもたらしました。その後一神論の光が来ました。彼らは組織化してそしてまたもや死にました。神の火が1933年にオハイオ川に降り、世界を席巻する癒しのリバイバルをもたらしたが、それはどの組織からも来ていませんでした。神はペンテコステのグループの外におられ、組織の外におられ、将来なさることも組織の外でなさいます。神は死んだものを通して働かれることはできません。神は生きているメンバーを通してのみ働かれることができるのです。それらの生きているメンバーはバビロンの外にいます。
わかりますか、「死」もしくは「組織」が来た時、教会は死にました。あるいはもっとはっきり言うと、いのちによる短い支配が終わると、死が住民になりました。当初エバが人間に死をもたらしたのと同じように、今組織は死をもたらし、なぜなら組織は二重の破壊者であるニコライ主義そしてバラム主義の産物であり、女預言者イゼベルによって推進されたからです。エバはサーパントとの憎むべき行いのために共に焼かれるべきでした。しかしアダムは介入して、彼女を素早く自分のところに受け入れたので、彼女は救われました。しかしこのサタンの宗教がすべての時代を渡ってきた時、誰も介入することはなく、そして彼女は彼女を誘惑する者と共に焼かれます。なぜなら淫婦と彼女の子どもたちそしてアンチキリストそしてサタンは火の湖に入れられるからです。
この点に関して、話すのには少し早く、これを最後の時代のメッセージにとっておくべきかもしれないが、今これを話すのにはちょうど良いようで、なぜならそれはとてもはっきりと組織についてのこと、そしてそれを通して何が起こるかについて説明するからです。そしてあなたに警告を発したいです。
黙示録13:1-18、
「また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。
私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。
その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、
竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。『だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか。』
この獣には、大言壮語して冒瀆のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。
獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。
地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。
耳のある者は聞きなさい。
捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。
また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。
この獣は、最初の獣が持っていたすべての権威を、その獣の前で働かせた。また、地と地に住む者たちに、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませた。
また、大きなしるしを行い、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
また、この獣は、あの獣の前で行うことが許されたしるしによって、地に住む者たちを惑わし、剣の傷を受けながらも生き返ったあの獣の像を造るように、地に住む者たちに命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、また、その像を拝まない者たちをみな殺すようにした。
また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。
また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、あの獣の名、またはその名が表す数字である。
ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。」
この章はローマカトリックの力、そして彼女が組織を通して行うことを示しています。これは偽のブドウの木であることを覚えてください。それは主の御名を呼ぶが、偽りでそれをしています。それのリーダーは主ではなく悪魔です。それは最終的に獣と完全に同一化します。その淫婦は緋色の獣の上に乗っていて、彼女の力は圧力の神(悪魔)から来たものであり、私たちの神主イエス・キリストから来たのではないのをはっきりと示しています。
節では彼女が完全に世界の経済を掌握し、彼女から離れたら誰も商売をすることができないと強調しています。これは黙示録18:9-17でも言われており、彼女が王たち、王子たち、そして商人たちと関与していると示していて、それらは全てローマと商業と関連があるものです。
黙示録13:14で、獣が自分のために作られた像を通してその影響力を広げていることを学びます。作られる像は世界規模のエキュメニカル協議会で、そこで全ての組織された教会はローマカトリックと一緒になります(彼らは現在ですらそうしようとしています)。この連合が共産主義の力を止めようとして立ち上げられた可能性があります。しかし淫婦の体を燃やすためにネブカドネザルが起こされたように、共産主義も起こされ、ローマは打ち負かされそして破壊されます。ローマ教会がどこに行っても共産主義がついて行くことに留意してください。そうなるのです。そして今警告させてください、共産主義だけが敵だと思わないでください。いいえ。カトリック教会もです、むしろそっちが大きい敵です。
黙示録13:1-4を読んで、これを黙示録12:1-5と比べてみてください。
黙示録13:1-4、
「また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。
私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。
その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、
竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。『だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか。』」
黙示録12:1-5、
「また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。
女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。
また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。
その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。」
悪魔と彼の悪魔な宗教はこの2頭の獣です。黙示録14章で(編注:13章3節の間違えの可能性)、打たれて死んだと思われたが再び生きた獣は異教のローマ帝国が蛮族の猛攻撃を受けて俗事上の権利を失ったが、教皇ローマにおいて再びその権利を得たことです。わかりますか。全てを破壊することによってこれまでで最強な帝国になった国が、最終的に傷を受けて死にました。彼女は表面上は兵隊によって維持された力を失いました。しかし、コンスタンティヌス帝によって彼女は蘇った、なぜなら教皇ローマは全世界に浸透して、そして彼女の力は絶対的だからです。彼女は王たちと商人たちを利用し、そして彼女の死に至らしめる宗教と財力をもって、彼女は現在の時代において女神として君臨しています。彼女は男の子を食べてしまおうと待っていた竜でもあります。ヘロデは主イエスを殺そうとしましたが、失敗しました。その後イエスはローマの兵士によって十字架につけられたが、今は御座に上げられました。
先言ったことを頭に入れつつ、ダニエルの幻を思い出してください。像の最後の部分で、最後の世界の力は足にありました。それは鉄と粘土からできていました。鉄はローマ帝国です。しかしそれはもはや今純粋な鉄ではありません。粘土がそこに混ざっています。しかしそれはそこにいて、民主的な国々ともっと専制的な国々の間で世界の出来事を掌握しています。ローマ教会は全ての国々にあります。彼女は全ての国の中に混じっています。
鉄と粘土について少しお話ししたいです。フルシチョフが彼の靴を国際連合の机に叩きつけた時を覚えていますか。はい、そこには5個の東側の国々と、5個の西側の国々がありました。フルシチョフ東側を代表して発言をし、アイゼンハワー大統領は西側を代表して発言しました。ロシアにおいて、「フルシチョフ」は粘土の意味で、「アイゼンハワー」は鉄の意味です。世界の二人の主要な首脳、鉄と粘土の両足の2本の親指が、隣り合わせでした。私たちは全ての終わりにいます。
4節でそれは尋ねた、
「だれがこの獣と戦うことができるだろうか。」
今世界で何人かの偉大な人がいます。力がある国がいくつかあるが、現在はローマが全てを支配しています。教皇がハンドルを握っています。そして彼の力は増加します。誰も彼と戦うことはできません。
6節ではこう書かれています、
「獣は神を冒瀆するために口を開いて」
(人の命令を教えとして教え[マルコ7:7]、向こう見ずで、思い上がり、快楽を愛する者、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定します[2テモテ3:4-5]。)彼は神の御名を冒瀆し、その御名をタイトルたちに変え、そしていかなる場合でも間違いを認めません。
第7節ではこう書かれています、
「獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。」迫害すること、神の御名が冒瀆されるように、真の信者を皆主の御名で処刑し、ロシアでさえもカトリックがそこで行った悪行でそうなったのです。
8節ではこう書かれています、
「地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。」
神に感謝いたします、ひつじたちは彼を拝みません。選民以外皆騙されます[マタイ24:24]。しかし彼らは騙されません。なぜなら彼らは牧者の声を聞きそしてついて行くからです[ヨハネ10:4]。
今この点に注意してください、これが示そうとしていることです。この死の種、組織の種は一つ目の時代に始まり、最終的に木となって空の鳥が巣を作るようになります[マタイ13:31-32; 黙示録18:2]。彼女は自分はいのちを与える者だと主張しているにも関わらず、彼女は死を与える者です。彼女の実は死です。彼女と淫らなことをした人たちは死にます。この力がある世界教会システムは彼女の中に肉体的そして霊的な救いがあると世界を騙し、群衆を破壊します。しかし彼女は死の化身だけでなく、この死んだ腐肉からなる者はそれ自身死によって死に至らしめされ、すなわち火の湖です。彼女の中に留まった人々は自分たちの結末を見ます。「彼女のところから出て行きなさい[黙示録18:4]、なぜあなたたちは死のうとしているのですか。」
最終の警告
黙示録2:23
「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
神は心をご覧になります[1サムエル16:7]。それは決して変わらないことです。決して変わりません。ここで、時代を通して2つのグループがあり、両方とも自分が神から啓示を受け、神とつながっていると主張します。
「しかし、神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』」
2テモテ2:19。
「主は人の思いを探る者」[黙示録2:23]
「探る」という言葉は「追跡」もしくは「ついて行く」を意味します。神は私たちの考え(思い)を追跡されます、私たちの心の中のものをご存知です。神は私たちの働きをご覧になり、その働きはしっかりと私たちの中にあるものを表わすのです。義も悪も心から出ます。私たちの動機、私たちの目的、神はすべてご存知で、なぜなら神は全ての行動を見ておられるからです。そして全ての行動、全ての言葉は私たちが自分の人生を神と会計する時に私たちを裁くものとなります。偽のぶどうの木は神を恐れないので、大きい代償を支払うことになります。主の御名を呼ぶ者は皆聖徒のように生活をするべきです。私たちは人々を騙せるかもしれないが、主を騙すことはできません。
あの暗黒な日々に約束されたこと
黙示録2:24-25
「しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる『サタンの深み』を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。」
約束日入る前に再度、この本の中で御霊によって語られた教会はお互い枝が絡まっている2本のブドウの木からなると示させてください。
「しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れないあなたがたに言う。」
ここです。主は2つのグループに話されています。一つは教えを持っていて、もう片方は持っていない。彼らはいろんな国々に分散し、互いの教えを反対しています。一つは神のもので、もう片方はサタンのもの、サタンの深みを知る者です。
「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」
重荷の意味は重さもしくは圧力です。暗黒時代の圧力は頭を下げて服従するか、破壊されるかです。屈するか死ぬかです。それは宗教裁判で、皇帝の力がサタンの崇拝を支持します。組織化するか、命を支払うかです。それぞれの時代は各々の圧力があります。例えば最後の時代は富、快適な暮らしそして精神的に張り詰めることの圧力で、複雑な時代で生きるには適していないように見えます。この4つ目の時代ははっきりとした重荷があるように見えます。それはローマに反抗すること、死に至るまででさえ御言葉のために立つことです。
「『サタンの深み』を知らないあなたがた」
この節はコメンテーターたちから放置されてきたように見えます、なぜなら彼らはこのフレーズがどのような教義もしくはどのような経験を意味するのか思いつかないからです。実際これの意味を知ることは簡単です。まず神の深みを知り、そしてその逆がサタンの深みとなるです。
エペソ3:16はこう書かれています、
「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」
これらの節によれた、ある人がその人生で神の深みを経験した時、それは神の御霊が彼に注がれる個人的な経験であり、そして彼の心は御言葉を通して神の知恵と知識に照らされます。しかしサタンの深みはそこにあり、彼はこれを壊そうとするのです。彼はいつものようにこの神の真実の代替物を作ろうとします。どのように行うのでしょう。彼は神の真理の知識を取り除き、「神は本当に言われたのですか」という彼の自分の言葉で御言葉を破壊します[創世記3:1]。そうしたら彼は私たちの霊の中でキリストに取って代わります。彼はそうします、イスラエルにそうさせたように、神の代わりに人の王が治めたのです。教会に加入することが新しく生まれる経験にとって代わります。サタンの深みはあの時代に入りました。そしてあのサタンの深みの実はそこから出てくる偽り、殺人そして恐ろしい犯罪です。
報奨
黙示録2:26-29
「勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」
「勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者」
御霊が働きを評価される観点から見ると、主はご自分の人々にご自分が義の働きに対する意見をわからせようとしていることが明らかです。主は4回働きに言及されました。そして今、最後まで主の御わざを守る者には、諸国の民を支配する権威が与えられる、そして強くて有能で、屈しない支配者、どんな状況でも対応でき、最も凶悪な敵でさえも撃破することができる支配者になると主は言われました。その力のある支配の表れは神の御子の様です。これはとても驚くべきことです。
しかしこの時代の光でこの約束を見てみましょう。力強いローマが政府の支持を得て、王たちと軍隊たちそして立法者たちを雇用し、自分の目の前のものを全て破壊し粉々にします。彼女は何百万もの人々を殺し、そして自分に屈しなかった人々をさらに何百万も殺そうとしています。彼女は気が向くままに王たちを立てたり失脚させたりします。はい、彼女の干渉は国々を崩壊させました、なぜなら彼女は神の選民を破壊しようと決めたからです。彼女のわざは悪魔のわざで、なぜなら彼女は彼のように人を殺し、嘘をつくからです。しかしあくる日主はこう言われます、「これらのわたしの敵どもをわたしの目の前に連れて来て、彼らを打ち殺せ。」[ルカ19:27]主の義の御怒りが冒瀆者たちに降り注ぐ時、義人たちは彼らの主とともにいます。義人は栄光の中で主とともに来て、地球を破壊して神の聖徒たちを傷つけた者たちを破壊します。これは「左の頬も向けさせる」時代[マタイ5:39]、恐ろしい苦難に満ちた時代、しかしある日、真理が打ち勝つ時に誰がその火の前に無事に立っていられるのでしょうか。主に贖われた者たちのみです。
「わたしは明けの明星を与える。」
黙示録22:16、そして2ペテロ1:19によると、イエスは明けの明星です。
「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
「夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは。」
したがって、御霊は暗黒時代に御自分とつながっている選民そしてこれからくる時代の選民たちにある約束をされました。
すでに言ったように、イエスはご自身のことをそれぞれの時代の使者の中に表されます。彼らは主からそれぞれの時代のための御言葉の啓示を受けます。この御言葉は神の選民を世界から連れ出しそしてイエス・キリストと連合するように導きます。これらの使者たちは星と呼ばれ、なぜなら彼らは御子イエスから借りたもしくは反射で光る光で輝きます。彼らも星と呼ばれ、なぜなら彼らは夜に「ともしびを持つ者」だからです。したがって罪の暗黒の中で、彼らは神の光を神の人々にもたらしました。
これは暗黒時代です。主の御言葉にとってそれは特に暗い時期で、なぜなら神の御言葉はほぼ人々たちから隠されました。いと高き方に対する知識はほとんど消えました。死は多くの信者に勝ち、信者の大部分が殺されるまでに至りました。神のことはこの時最も減退し、サタンが神の人々に勝ったように見えました。
もし夜がない地を抱きしめられることの約束を必要とする人がいたら[黙示録21:25]、それは暗黒時代の人です。そしてそれがなぜ御霊が彼らに明けの明星を約束されたかの理由です。御霊は彼らに星々の主イエスが、誰も近づくことができない光の中に住まれるイエスが、これから来る国で御自分の臨在で彼らを照らされると教えています。主はもはや星(使者たち)を使って暗黒に光をもたらすことをされません。それはイエス御自身が、御自身の国を彼らと分かち合う時、彼らに面と向かって語られます。
明けの明星は朝日が輝き始める時に見えるのです。私たちの太陽、(イエス)が来られる時、もはや使者を必要としません、主は私たちに御自分の大いなる喜びのメッセージをもたらされます。そして主が御自分の御国を治められる時、私たちは主の御臨在の中で生き、御言葉の光は私たちの完全な日にいよいよ輝きます。[箴言4:18]
イエス以外、私たちは何を望みましょうか。主が全て、完璧な全てではありませんか。
耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。アーメン。主神よ、私たちが主の御霊によって、主の真理に耳を傾けられますように。