CAB-08 七つの教会時代の解説 第八章 フィラデルフィア教会時代
- 伝道者:ウィリアム・ブランハム
- 録音番号:CAB-08
- 年:CAB
An Exposition of the
Seven Church Ages
Chapter Eight
七つの教会時代の解説 第八章 フィラデルフィア教会時代
黙示録 3:7-13
「また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。
わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、噓を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。
わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。
わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。
耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」
フィラデルフィア
フィラデルフィア市はサルデス市の東南方向にあり、75マイル離れていました。それはリディアの2番目に大きい町でした。それはある有名なワインの産地の中のいくつかの丘に建てられていました。その硬貨にはバッカスの頭像とバッカンテ(バッカスの女祭司)が刻まれていました。その町の市民にはユダヤ人、ユダヤ人にルーツを持つクリスチャン、異教から改心してクリスチャンになった人々がいました。その町は何度も地震に苦しみましたが、黙示録で挙げられた7つの町の中でもっとも長く続いた町でした。実はその町はまだそのトルコ語の名前で存続していて、アラシェヒル、もしくは神の町と呼ばれています。
その硬貨の刻印からその町の神はバッカスであることが垣間見えます。バッカスはニヌスもしくはニムロドと同じ意味です。彼は「哀悼する者」です、私たちのほとんどは彼のことを酒を飲み騒いて酩酊する者と考えているけれども。
これはどのような啓発を与えてくれるのでしょうか。ここに片面が神像で、片面が女祭司もしくは女預言者の硬貨があります。今硬貨をはじき上げてみましょう。どちらの面が表になるか裏にあるかで違いが生じますか。いいえ、やはり同じ硬貨です。それがイエスとマリアを信じるローマカトリックの信仰です。
ローマカトリックだけを考えているわけではありません。大淫婦だけではありません。決してそうではありません、なぜなら彼女の淫行が彼女を母親にしたからです。今は彼女の娘たちは同じ型から造られた硬貨です。硬貨の片面に彼らはイエスに対する崇拝を立ち上げ、もう片面に彼らの女祭司もしくは女預言者にその教則と教理と教義を書かせ、それによって救われると、人々に売りつけ、そして彼女のみが真の光を持っていると主張しています。
はっきりとした事実ですが、この時代の特徴はその硬貨に描かれているのです。なぜなら母親と娘たちはみな天に向かう道を金銭で買っています。血ではなく金銭がその代価です。御霊ではなく金銭が彼らの前に進む原動力となっています。この世の神(マモンMammon)は彼らの目を盲目にしました[2コリント4:4]。
しかし彼らの死の中での交渉はすぐに終わります、なぜならこの時代で聖霊は「わたしは、すぐに来る。」と叫んているからです。主イエスよ、来てください!
時代
フィラデルフィア教会時代は1750年から1906年あたりまで続きました。この時代はその町の名前の意味によると、兄弟愛の時代と呼ばれてきたが、それはフィラデルフィアは「兄弟の愛」を意味するからです。
使者
この時代の使者は疑いもなくジョーン・ウェスレーでした。ジョーン・ウェスレーは1703年6月17日にエプワースでサミュエルとスザンナ・ウェスレーの19人の子どもの中の一人として生まれました。彼の父親はイギリス国教会の牧師でしたが、ジョーンの信仰に対する改心は彼の父親の神学理論よりも彼の母親の模範的な生活から影響を受けたようでした。ジョーンは素晴らしい学者でした。彼がオックスフォードにいた頃にチャールズとともにある団体に参加したが、この団体は霊的に訓練され、教義を基準にして神を崇拝するのではなく、経験によって真理に生きる人々から成っていました。彼らは貧しい者を支援し、病人と囚人を訪ねるといった霊的な働きに関するガイドブックを設定しました。このため彼らはメソジストもしくは他の嘲笑的なタイトルで呼ばれました。さてジョーンは全世界の人々は皆宗教が必要であるというビジョンの元、アメリカのジョージア州に宣教師としてインディアンの人々のところへ向かいました。旅の途中で船の大半の乗客はモラヴィア兄弟団の信徒であることに気づきました。彼はその方々のどんな状況においても柔和で平和、そして勇気のある態度に深く感銘を受けました。ジョージア州での自己犠牲かつ勤勉な働きにもかかわらず、彼の苦労は失敗に終わりました。彼はイングランドに戻ってこう叫びました、「わたしはアメリカに行ってインディアンの人々をキリストに改心させたが、ああ、誰がわたしを改心させるだろう!」
ロンドンに戻ってから彼は再びモラヴィア兄弟団の方々に会いました。ペーター・ベーラーが彼に救いの道を示しました。彼は本当に新しく生まれ変わりました。このことは彼の兄であるチャールズをひどくろうばいさせそして怒りを感じさせました。チャールズはなぜジョーンのような霊的な人が自分はこれまで神と良い関係ではなかったと言うのかを理解することができませんでした。しかし、その後まもなく、チャールズも恵みによって救われました。
ウェスレーはロンドンの昔訪ねた所に説教しに行き、福音を宣べ伝えはじめました。しかしすぐに彼らは彼を拒絶しました。この時、彼の古い友人であるジョージ・ホワイトフィールドが彼を助けました。彼は何千もの人々が御言葉を聞く野外で伝道し、自分を助けてくれるようにジョーンを招きました。最初ウェスレーは自分は建物の中ではなく、野外集会で伝道すべきかどうかに疑問を持ちました。しかし、彼が大勢の聴衆を目の当たりにし、福音が御霊の力で働いていることを見た時、彼はこのような伝道に誠心誠意に転じて務めました。
福音の働きはすぐに大きく展開し、彼は御言葉を宣べ伝えるのに大勢の平信者を遣わし始めました。これはまるでペンテコステの時のように、御霊が力を持つ人々を起こし、御言葉をほぼ夜通しで伝道し、教えました。
彼の仕事は強烈な反対に会いましたが、神は彼とともにおられ。御霊の働きが大いに表れ、人々にその罪を気づかせ、力を失わせました。人々は自分の罪の自覚ために非常に苦しみ、地に倒れて泣きました。
ウェスレーは非常に強い人でした。彼は自分が新しく生まれ変わってから瞬時も霊的に低下したと感じたことがないと言います。彼の1日あたりの睡眠時間は6時間未満でした。ほぼ毎朝5時に起きて伝道をし、毎日4回伝道して、1年間にした伝道は800回を超えました。
彼は巡回牧師とともに福音を近所や遠方に伝えるのに何千マイルも、旅をしました。事実ウェスレーは毎年、馬で平均4500マイルもの旅をしました。
彼は神の御力を信じ、力強い信仰で病人のためにお祈りをし、驚くべき結果を得ています。
彼の集会の多くで御霊の賜物の表れが見られました。
ウェスレーは組織を作ろうとしませんでしたが。彼の仲間たちは「連合会」を作り、彼らは「敬虔な外見があり、神の御力を探し求め、共に祈るために連合し、訓戒の御言葉を聞き入れ、愛のうちに互いに確かめ合い、救いのために助け合いました。」。加入したい人が持つべき唯一の条件は「これから来る怒りから逃れたい、自分の罪から救われたいという願望を持っている」ことです。徐々に彼らが魂のための自己規制で一連の厳しい規定を設定したので。ウェスレーは自分の死後その運動が組織化され、神の御霊はそこから離れ、死んだ形式だけが残されることに気づきました。メソジストの名前が地上から消えることは恐れないが、御言葉がそこから飛んで離れてしまうことを恐れていたのだと、ある時彼は述べました。
人生の中で、彼は莫大な富を手に入れることが可能だったが、彼はそうしませんでした。金銭に対して彼が一番好きな格言は、「できるだけ稼ぎ、できるだけ貯蓄し、できるだけ捧げる」なのです。もしウェスレーが戻ってきて、今日メソジストの名を名乗る教会を見たら、彼はなんと違和感を覚えることでしょう。彼らは富んでいます、非常に富んでいます。しかしジョーン・ウェスレーが持っていたいのちと力は失われてしまいました。
ウェスレーは一度も宗派的もしくは学派的な基礎に基づく働きを行うことを望まなかったことも言及すべきです。彼は信仰においてはアルミニウム主義に属するが、教義の違いでは他の兄弟たちと離れたくありませんでした。彼はヤコブ書を一番よく実践していた者でした:単に信条や教義的な声明を受け入れるよりも、信仰や働き、もしくはその生き様で永遠のいのちを得ました。ジョーン・ウェスレーは88歳で亡くなり、誰も考えつかない、ましてやできるとも思えないような形で、神に仕えました。
挨拶
黙示録 3:7
「また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。」
ああ、これらの言葉はなんと美しいことでしょう。それらの言葉の響きでさえなんと威厳があることでしょう。これらの全ての属性がある方に帰するのを考えるのはなんとワクワクすることでしょう。栄光の主、イエス・キリスト以外誰が自分についてこう語れるでしょうか。これらの素晴らしい描写の聖句の意味の解釈は第9節で見つけられると信じています。
「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、噓を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」
この節がとても重要だと言っているのは、それがいつも自分たちのことを神の子どもと呼び、他の人たちを排除するユダヤ人たちについて言及しているからです。彼らは主イエス・キリストを十字架につけて殺害しました。彼らの恐ろしい行いによって、彼らは何世紀もの間、迫害されました。これらはすべてイエスがメサイアであるにもかかわらず、彼らがイエスを自分たちのメサイアとして受け入れることを拒絶したからです。彼らにとって主はこれから来られる方、もしくはダビデの子ではなく、彼らにとって主はベルゼブル[マタイ12:24]、または不義で破壊に遭うべき人でした。しかしそうではありませんでした。主はもちろんインマヌエルで[マタイ1:23]、神が肉においての現れでした[1テモテ3:16]。主はもちろんメサイアです。もちろん、主は今そうでおられるように、昔もそうでした。主は、同じイエス、昨日も、今日も、いつまでも同じイエス・キリストです。燭台の真ん中におられた聖なる方はガラリアの海辺で歩いておられた同じイエスで、病人を癒され、死者を蘇らせ、罪がないと定められたにも関わらず十字架につけられ、殺された方です。しかし主は再び蘇り、そしていと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
ユダヤ人は当時主を聖なる方と呼びませんでした。彼らは今も主を聖なる方と呼びません。しかし、主は聖なる方です。
詩篇16:10、
「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」(編注:聖書 新改訳2017は「敬虔な者」と訳しておりますが、欽定訳聖書は「HOLY ONE」、「聖なる者」と書かれています。)
彼らは律法によって自分たちの義を探し求めましたが、惨めな失敗に終わりました、なぜなら肉なる者は律法によって義と認められることができないからです[ガラテア2:16]。誰も律法によって聖となることはできません。聖は主から来るものです。
1コリント1:30、
「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」
2コリント5:21、
「それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」キリストを認めなければ、滅びることになります、そして彼らは主を拒絶したため滅びました。
あの時代の人々、そして今日の人々でさえも同じ間違いをおかしています。ユダヤ人がユダヤ教会での礼拝で自分たちを守ろうとしたのと同じように、フィラデルフィア時代の人々も教会に入ることで自分たちを守ろうとしました。教会に入ることが重要ではありません。いのちは教会の中にありません。いのちはキリストの中にあります。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」[1ヨハネ5:11−12]人は聖霊によって聖とされるのです。イエスを死から蘇らせた聖なる御霊が私たちの中に入られ、その聖潔さでもって私たちを聖にされるのです。
そこでその方、聖なる方は立っておられました。そして私たちは主と共に立ち、主の義を身につけ、主の聖潔で聖となります。
この時代は第6つ目の時代です。神の御目の中で、時は終わりに近づいています。主はすぐに戻って来られます。主が戻って来られるとすぐに叫び声が発せられます、
「汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
黙示録22:11
ああ、なんと嬉しいことでしょう、私が聖とされることは私自身によるものでないのです。キリストの中にいて、主のすべての義の奇妙な性質が私の中に入ることに嬉しく思います。そうです、私に与えられました。神は永遠に褒め称えられるべきです!
「真実の方がこう言われる。」さてこの言葉「真実」、はとても奇妙な言葉です。これは単に偽りの反義語の真実の意味ではありません。これは部分的な認識と反対な意味で、完全なる認識を表しています。
例えばイエスがヨハネ6:32に言われたことを思い出してください、
「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。」
ヨハネ15:1、
「わたしはまことのぶどうの木」
ヘブル9:24、
「キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。」
1ヨハネ2:8、
「闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」
この言葉は確かにそれらの聖句で描写されているように、部分的な認識に相反する意味で、完全なる認識を表しており、そこから私たちは本型と象徴、実体と影の相反する意味を理解することができます。天からのマナの例を見てみましょう。神は天の上から天使の食べ物をイスラエルに送りました。しかしそのマナは満足させるものではありませんでした。それは一日のみ食べられました。それを食べた者は次の日もお腹が空きます。もしそれが残ったならば次の日に腐ってしまいます[出エジプト16:17-20]。しかしイエスは天からのまことのパンで、マナはただの象徴なのです[ヨハネ6:31-25,48-51,58]。その天からのパンを食べた者は再び飢えることはありません。もう一度戻って食べる必要はありません。もはや象徴は必要ありません。それを食べた時に永遠のいのちを持ちました。これが確かに実体です。影はもはや必要がありません。部分的な贖いは必要ありません。ここに完全なものがあります。このことは、イエスは部分的な神ではなく、神そのものであるのと同じです。
イスラエルは光を持っていたのを否定できる人はいません。彼らは唯一ひとつの国として光を持っていた人々です。それはエジプトがあまりにも闇に満ちて、その闇は感じられることができた時でした。しかしイスラエル人の家の中には光がありました。しかし今真の光が来ました。世界の光はイエスです。モーセや他の預言者たちは聖書の中でメサイアに関する光をもたらしました。したがってイスラエルは光がありました。しかし今その光が満たされる時が来ました、昔光っていた御言葉は今神が自分の民の間で表されたことによって光輝きました。火の柱が夜光を与えたように、それは素晴らしいことでしたが、今光といのちは神の満ち満ちたご性質に形をとって表れています。
イスラエル人は昔赤い雌牛を引いてきて、罪の赦しのためにその牛を祭壇の上で献げます。一年分の罪は覆われました。しかしその覆いは罪の欲望を取り去ることはできませんでした。それは完璧な献げ物ではありませんでした。それは本物が来るまでの影でした。そのため毎年人は献げ物をして、そして毎年再び戻って来る、なぜなら彼はまだ同じ罪の欲望を持っていたからです。動物の命は彼の罪の償いをしましたが、しかし流れたのは動物の血であり、献げられた動物の命はその人に戻ってきません。もし戻ってきても役に立つことはありません。しかし完璧な代替物であるキリストが献げられた時、彼の血は流れ、そしてキリストの中にあった命は悔い改める罪人に戻ります。そしてその命はキリストの完璧な命となり、罪がなく、義であることから、その罪人は罪の欲望を持たなくなったため、自由なることができます。イエスの命は彼に戻ってきました。それはローマ8:2で言われているように、
「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」
しかしイエスの時代のユダヤ人はその献げ物を受け入れたくありませんでした。雄牛と雄やぎの血は完璧ではありませんでした[ヘブル10:4]。それは一度は神が決められた方法ではありました。しかし今キリストが肉のうちに現れ、御自分の血を流すことで罪を除かれ、そして御自分を献げることで私たちを完璧にされました[ヘブル10:5,10,17-18]。ユダヤ人はそれを受け入れることはできませんでした。しかしフィラデルフィア時代、そしてそのほかの時代はどうでしたか。彼らは本当にこのキリストにある真実を受け入れましたか。いいえ。ルターが義認の真理をもたらしたが、ローマ教会、そしてそれの東側の相棒である東方正教会はまだ行いを強調しました。
行いは良いことですが、それらはあなたを救うことはできません。あなたを完璧にすることはできません。キリストか滅びかどちらかです。そしてそれはキリストおよび行いですらないのです。それはただキリストのみです。この時代からキリストを真実として信じないアルミニウス主義が始まりました。それは「血潮のほかなし」を歌わず、「血潮そして私の行いのほかなし」を歌います。さて、私は良い行いを信じます。もし救われたのでしたら、正しい行いします。もうその点について話しました。しかし今教えましょう、救いはイエスプラス何かではありません。それはイエスのみです。救いは主のものです[ヨナ2:9]。始まりから終わりまで全て神です。主の命が私の中にありますように。主の御血が私を清めますように。主の御霊が私を満たすように。主の御言葉が私の心と口の中にありますように。主の打ち傷が私を癒すように[イザヤ53:5,マタイ8:17,1ペテロ2:24]。イエスです、イエスのみです。私たちが行った義のわざによってではないです [テトス3:5]。いいえ。キリストは私の命です。アーメン。
私は自分がこれらの真理を話し続けることができると感じていますが、もう一点お話ししましょう。それはA.B.シンプソンが書いた素晴らしい歌についてです。
「昔は祝福、
今は主。
昔は感覚、
今は主の御言葉。
昔は主の賜物を求め、
今は与える方を。
昔は癒しを求め、
今は主のみ。
とにかく永遠に、
私はイエスのみを歌う。
全てはイエスにあり、
イエスは全て。」
非常に満足できるものであろうと、とても良い美しいものであろうと、この世の命はなんでもないものです。あなたはキリストの中にすべての完璧を足し合わせたを見つけます。主がいなければすべてのものが無意味なものとして消え去ります。
「ダビデの鍵を持っている方」この美しい聖句は前の聖句である、「真実な方」に続いています。すなわちキリストです、完璧の認識です、部分的な認識と反対な意味です。ここです。モーセは神の預言者だったが、イエスは(モーセのように)神の預言者でした。ダビデ(神を喜ばせた人)はイスラエルの王たっだが、しかしイエスはさらなる偉大なダビデ、王の王、主の主、神御自身です。ダビデはユダの部族出身で、そこから祭司は出なかったが、祭司に与えられる臨在のパンを食べました。彼は敵に勝った偉大な戦士で、人々を守り、御座に座りました。彼は預言者でした。彼はキリストの驚くべき象徴でした。
イザヤ22:22でこう書かれています、
「わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」
御霊はこの旧約聖書の聖句を引用して主イエス・キリストおよび教会においての主のミニストリーを暗示されています。ダビデの鍵が象徴するものはあの時はまだ影に過ぎなかったのですが、今、イエスが燭台の間に立っておられることで成就されました。これは主の復活後のことについてのものであり、主がこの世での一生の間でのことを指していません。しかしこの鍵は何を象徴しているのでしょうか。答えは鍵が置かれている場所に隠れています。それは主の手ではありません。それは主の首に掛かっていません。それは他の人の手にも置かれておらず、さもないとその聖句は主のみがその鍵を使うことができるとは言えない、なぜなら主のみが開け閉めでき、イエス以外誰もその権利はないのです。そうではありませんか。しかしその鍵はどこにあるのでしょうか。それは主の肩にあります。しかし肩と鍵はどのような関係があるのでしょうか。
イザヤ9:6を読んでください、
「主権はその肩にあり」
しかしこれが意味することはなんでしょう。答えはこれです。「主権はその肩にあり」という聖句は東洋の婚礼から来ています。花嫁が自分自身のことを花婿に委ねた時、彼女は自分のベールを下ろし、それを花婿の肩に置きます。これは彼女が彼の支配下にあることだけでなく、自分の権利を彼のところに移行するということ、そして彼が頭であり、それだけでなく、彼は責任と気配りの義務を負い、そしてそれは彼で彼のみであり、他の人、別の男性、別の権力がそういう権利と責任を持たないことを象徴します。そして親愛なる兄弟姉妹たちよ、それがダビデの鍵です。神はいと高き方であり、至高の神性によって誰が自分の花嫁なのかをご存知です。主は彼女を選ばれました。彼女が主を選んだのではありません。主が彼女を呼ばれました。彼女が自分で来たのではありません。主は彼女のために亡くなられました。主は彼女を自分の御血で洗われました。主は彼女のために代償を支払われました。彼女は主に属し、そして主のみに属します。彼女は完全に自分のことを主に委ね、そして主は義務を受け入れられました。主は彼女の頭です、なぜならキリストは教会の頭なのです。サラがアブラハムのことを主と呼んでいたように、花嫁も主が彼女の主であることを嬉しく思っています。主が話され、彼女は聞き入れます、なぜなら喜んで聞くからです。
しかし人々はこの真理を心に留めましたか。彼らはご自分の教会に対する完全なる至高な権力を唯一お持ちな主に対して敬意を払っていますか。私は、「いいえ」と言います。なぜならすべての時代で教会はある聖職階級制度、祭司職、使徒継承によって支配され、それは人々への憐れみと恵のドアを閉じ、愛と責任を負わず、金銭への欲で彼女を捕まりそして破壊しました。聖職者は贅沢に暮らし、貧困な教会は虐待のさやを飲み込みました。そしてどの時代も一緒でした。それぞれが自分を組織に縛り付け、人に支配権を渡し、教会をその支配に委ねました。もし人々が反抗しようとするものなら、残虐に迫害され、追い出されたりしました。すべての宗派は同じ霊を持っています。すべての宗派が教会を支配する鍵を持っていると断言します。すべての宗派はドアを開けられると主張します。しかしそれは真理ではありません。それはイエスです、イエスのみです。主がご自分の体の一員を決められました。主は彼らにそれぞれのミニストリーを与えられました。主は賜物をくださり、彼女が使えるようにされました。主は彼女を気にかけ、導かれます。彼女は主のみの財産であり、彼女のほかにありません。
私たちが暮らしているこの教会時代は現実からなんと遠ざかっているのでしょう。そして近い将来、教会のために代弁すると主張している人々は、今の教会も含め、世界教会統一運動においで、自分たちの組織の中に頭として生けるアンチキリストを置き、彼は主を退け、そして私たちは主(キリスト)が教会の外でこう言われているのを聞きます、
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
黙示録3:20
しかしこれを言わせてください。私たちの主は敗れることはありません。人々は神に通じるドアを開け閉めできると主張しているが、彼らは嘘つきです。父が主に与えられた人は皆主のところに来ます、来た者は決して捨てられることはなく、主は彼らを誰一人失うことはありません。ヨハネ6:37-39。そしてキリストの身体の最後の選ばれた一員が入ってきたとき、主は現れます。
ダビデの鍵。ダビデはイスラエル、全イスラエルの王ではありませんか。聖書によると、ダビデの子であるイエスは至福千年の時にダビデの御座に座られ、ご自分の財産を統治し、管理されます。もちろん。だからダビデの鍵は至福千年をもたらされるのはイエスであることを象徴します。死とよみの鍵をお持ちである主はご自分に属する人を起こされ、彼らは主の地上での正義の統治を共に享受します。
私たちの主はすべての答えをお持ちであることはなんと素晴らしいことでしょう。実に主において神のすべての約束は成就されました。実に主の中で私たちは主が私たちのために支払われたものを受け継いでいます。
そうです、栄光なる主はそこに立っておられます。一度は父として、主は天使に囲まれ、大天使たち、ケルビムたち、セラフィムたち、そしてすべての天の軍勢は、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主神。」と叫んでいます。主の聖潔さで誰も主に近づくことはできませんでした。しかし今私たちは主が教会の中におられ、主の中で私たちは神の義そのものになるまでご自分の聖潔さを私たちと分かち合っておられるのを見えます。そうです、そしてそこに主は立っておられます、「イエス、完璧なるすべて。」谷間のゆり、輝く明けの明星、万人の中で最も美しい方、アルファとオメガ、ダビデの根、また子孫、父、子、そして聖霊、すべてのすべて。
イザヤ9:6
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
主の中で完璧に成就されました。一度は主を尊敬しなかったが、今私たちは言葉につくせない、栄に満ちた喜びで主を愛しています[1ペテロ1:8]。教会の中で主は立っておられ、私たちは主の賛美を歌い、なぜなら全能な征服者はご自分の花嫁である教会の頭であるからです。主はその花嫁を買取られました。主は彼女を所有しておられます。彼女は主のものであり、主だけのもので、主は彼女を気にかけておられます。主は私たちの王で、私たちは主の王国、主の永遠の財産です。
最初黙示録3章7節の時に、9節はそれの理解を助けると言っていたことを覚えていますか。私が言いたいことをわかっていただきたいです。イエスはご自分自身のことを聖なる方、真実な方、(もしくは唯一の真実)、ダビデの鍵を持っている方、開け閉めができる方だとおっしゃっています。そしてそれはまさに真実です。これらの聖句は主を完璧に描写しています。しかしイエスの時代のユダヤ人たちはイエスとイエスが行われたことをすべて拒絶しました。彼らは自分たちの救い主、主が彼らにとっての重大な意義をすべて拒絶しました。名ばかりのクリスチャンはもう一度主を十字架につけ、そして真の教会を攻撃し破壊しようとしています。しかし神は真実です、そしてすべての上におられる方は戻ってこられ、その時主は誰が唯一の主権者なのかを示されます。主がご自分を世に示される時、世のすべては主の御足の前に跪き、世のすべては聖徒たちの足の前に跪き、彼らが主と一緒に立っているのは正しいことだと証明します。神が永遠に褒め称えられますように!
門を開く時代
黙示録 3:8
「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
この聖句の一番最初の文である「わたしはあなたの行いを知っている。」が指しているのは後ろの文に書かれているもので、なぜなら彼らの働きは「開く門」、「少しばかりの力」、「神のことばと名」と関係している。
「見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。」という文に含まれる豊富な意味を理解するために、それぞれの時代は終わりと始まりで交差するという話を思い出すべきです。重なりがあります、突然な終わりとはっきりとした始まりがあるというよりも、むしろ融合するもしくはゆっくり切り替わるような感じです。この時代は特に次の時代へ流れ込んでいます。そしてこの時代が最後の時代へ流れ込むだけでなく、最後の時代は多くの側面で単に第6つ目の時代の性質を受け継いでいます。第7つ目の時代(一つとても短い時代)は一つの早い仕事のためにすべてを集めます、すべての時代の悪、そしてペンテコステのすべての真実をです。フィラデルフィア時代が終わろうとするとき、ラオディキア時代は素早く始まり、収穫のために毒麦と麦を集めます、
「まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい」
マタイ13:30
覚えてください、サルディス時代で始まった宗教改革はペンテコステで植えられた種が種植え、灌漑、施肥などの一連な完全な過程を経て植えられたのと同じ種を実らなければなりません。このことが行われるのと同時に、撒かれた毒麦も同じような過程を経て収穫されなければなりません。それが私たちが見ている出来事です。季節を考えてみてください、そうすればはっきりとした図が見えます。夏に勢いよく成長する植物は突然種をつけようとします。いつ夏が秋になるのかを区別することができません、それは徐々に変わるのです。それがそれぞれの時代で、特にこれらの最後の2つの時代で起きています。
この時代に対してイエスは第11節目で「私はすぐに来る」とおっしゃっています。それが最後の時代をとても短いものにしています。ラオディキアは早業の時代です。それは短縮されます。
だれも閉じることができない開く門についてじっくり考えてみましょう。まず、あの時代の驚異的な伝道事業を象徴する開く門についてじっくり述べたいと思います。パウロは主のための新しい伝道の努力を開く門と呼んでいました。
2コリント2:12、
「私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、」
聖句比較することでこの開く門は世がこれまで見た中で最も大きい福音の広がりを象徴することがわかります。
ここでいくつかわかって欲しいことがあります。神は三の中で働かれます、そうではありませんか。第3の時代もしくはペルガモ時代で教会は政府と連合しました。ニコライ派の人々の行いはニコライの教義になりました。あの時代は偽のブドウの木のための開く門でした。政府の力で支持されると、クリスチャンという名前を持つが、それは実際に世俗な組織になりました。したがってそれは野火のように広がりました。しかし今、3つの時代が過ぎ、長く辛い信仰の戦いの後、真理への開く門がやってきました。主の御言葉の時代が来ました。もちろん第5つ目の時代はこの力のある働きのためのステージを設置しました、なぜならその時代で人々は探検、移民、そして書籍の印刷などなどを行ったからです。
この開く門が神がペンテコステ行われたように起こるものならなんと素晴らしいのでしょう、ヘブル2:1-4で言われているように、「こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。」これはイエスの伝道のパターンだとわかります、なぜなら主御自身こう言われたからです。
マルコ16:15-20
「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。』
主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。アーメン。」(編注:聖書新改訳2017に最後の「アーメン」は翻訳されていない。)
主は一度も彼らに全世界に出て行き、聖書学校を設立するように言われていません、印刷物を配るようにとも言われていません。それらのことは良いことだが、イエスが彼らに行うようにと言われたのは福音を宣べ伝えることです、御言葉にぴったりついていきなさい、そうすればしるしは伴います。最初に紹介する神の御国を宣べ伝えるやり方は主が十二使徒を遣わす時に言われたものです。マタイ10:1-8において、主は彼らを任命してこう教えました、
「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。
十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」
この主が彼らに与えられたミニストリーは実際主が御自身のミニストリーを彼らに分かち合ったものです、なぜならマタイ9:35-38でこう書かれています、
「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」
多くの人々はこの主から与えられたミニストリーを持つのは使徒のみで、彼らが亡くなると、ミニストリーは終わってしまったと考えています。そうではありません。ルカ10:1-9において、主が地上におられるとき、主はすでに力のあるミニストリーを御自分の人に与えられたことを見ることができます、
「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。
そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。
財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい。道でだれにもあいさつしてはいけません。
どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。
その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。」
ピリポの力のあるミニストリーを否定できる人はいますか。エイレナイオス、マーティン、コルンバ、パトリックそして神の油注ぎを持つ数えきれない方々の力のあるミニストリーを否定できる人はいますか。
そうです。聖書の道こそが開く門の本当の道です。そして私は自分の証をそれに付け加えたいです。そうしなければならない理由は私は神が私の人生でなさったことについて正直に言わなくてはならないからです。もし個人的な証を気にされないのであれば、ここで私はなぜ私はイエスが昨日も、今日も、そしていつまでも同じであること、そして神の御力はそれを信じ受け入れる人に与えられるということを確信するのかを教えます。
私が南アフリカでの伝道の旅の間で、神は多くの祝福を与えてくださいました。私がダーバンを訪れた時、人々が入りきれる唯一の場所は世界で2番目大きい競馬場でした。群衆は十万人を超えました。規律と秩序を守るために彼らはフェンスを設けて様々な部族を分離させました。彼らは何百人もの警察を配置し、会場を静かにさせました。それらの飢えた魂たちは何マイルもの遠いところからきました。あるローデシアからやってきた女王は27両編成の列車でやってきて、その中にはアフリカの原住民でいっぱいでした。彼らは多くの野原と山を駆け抜け、助けが必要な愛する者を背負い、何マイルもの長旅をしてやってきました。国全体が聖霊によって表された力のある働きで動かされました。
ある日の午後私は伝道を始めた時、あるイスラム教徒が壇上に上がりました、彼女は何千ものイスラム教徒の中の一人でした。彼女が私の前に立ったとき、あるイスラム教徒に伝道する伝道者は小声で主に懇願し始めました、「ああ、その尊い魂をお助けください。ああ、その尊い魂をお助けください。」彼はそこで何年もいました、そして彼の証によれば、彼は今までたっだ一人のイスラム教徒がイエス・キリストを救い主として受け入れに来たことを見たことがあるそうです。彼らはもともと法律がは変わらないメディア−ペルシア人です。彼らは勝ち取るのにあまりにも難しいのです。「イスラム教徒になったら一生イスラム教徒である」というのが彼らの間で法律になっているようです。
さて、彼女が私の目の前に立った時、私は彼女やその何千ものイスラム教徒たちに通訳を通して話しかけました。私はこう言いました、「伝道者たちはイエスという方があなたがたを救うために来られたと教えませんでしたか。」私がそう言う時、人々はお互いに見返しました。彼らがその通りと答えた後、私は続けてこう言いました、「伝道者たちはあなたがたにこの本を読み(私は彼らが見えるように聖書を高く挙げました)、この同じイエスという方が力のある癒しをされる方で、再臨して御自分の人々を御自分のものとして迎え入れるまで、時代を通して彼らの中に住まれると教えませんでしたか。イエスの中にいた同じ御霊が彼らの中にいて、彼らはイエスがなさったような力のある働きを行うことができると教えませんでしたか。あなたは救われるのと同じように、癒されることができると教えませんでしたか。この同じイエスが私たちの間に降りて来られ、昔地上でなさったのと同じことをなさるのを見たい方はどのくらいいらっしゃいますか。」彼らは皆見たがっていました。それが彼らが同意することです。
私は続けて言いました、「もしイエスは地上におられた時になさったことを御自分の御霊によってなさるのなら、主の御言葉を信じますか。」あのイスラム教徒の女性が私の前にいました。御霊は私を通して働き始められました。
私は彼女に言いました、「さて、あなたは私はあなたのことを知らないのをわかっています。私はあなたの言語でさえ話せないのです。」彼女はそれを認めました。私は言いました、「あなたは私はあなたを癒すことはできないことを知っています。しかしあなたはこの午後のメッセージを聞いて私の言いたいことを理解しました。」彼女のインド人の通訳者は彼女の代わりに理解したと答えました、なぜなら彼女は新約聖書を読んだからです。
イスラム教徒はアブラハムの子孫です。彼らは唯一の神を信じています。しかし彼らはイエスが神の御子であるのを認めることを拒絶し、その代わり彼らはモハンマドは神の預言者だと思っています。彼らはイエスは死んだ後復活していないと言います。彼らの祭司はそう教え、彼らはそれを信じています。
私は言いました、「しかしイエスは死んで復活しました。主は御自分の御霊を教会に送り返されました。主の中にいた同じ御霊は今教会の中にいて、イエスがなさったことをなさることができます。」
主はヨハネ5:19でこう言われました、
「イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」
そしたら、もしイエスが来られて私にあなたの問題やあなたがここにいる理由、もし主は私にあなたの過去を教えることがおできでしたら、あなたは将来信じることはできますか。彼女は通訳を通して、「はい、できます。」と答えました。
私は、「よろしい、主がそうされますように。」と言いました。
それらのイスラム教徒は注意深く見ていました。彼らは皆前乗りになって何が起きるのかを見ようとしました。
そうしたら聖霊は言われました、「あなたの夫は背が低くてずっしりしてる人で、黒ひげを生やしています。あなたは2人子どもを持っています。あなたは3日前に医者のところに行って、彼はあなたのために検査をしました。あなたは子宮の中に嚢胞を持っています。」
彼女は頭を下げてこう言いました、「それは真実です。」
私は彼女に聞きました、「なぜあなたは私、1人のクリスチャンのところに来ましたか。なぜイスラム教の預言者のところに行きませんでしたか。」
彼女は言いました、「私はあなたは私を助けることができると思ったのです。」
私は言いました、「私はあなたを助けることはできません、しかしもしあなたがイエス・キリストをあなたの救い主として受け入れるのでしたら、今ここにおられ、あなたのすべてをご存知の主があなたを助けることがおできです。」
彼女は言いました、「私はイエスを私の救い主として受け入れます。」そうしたら事がそのように起きました。彼女は癒され、その日約一万人のイスラム教徒がキリストを受け入れました、なぜなら福音は御言葉と力で宣べ伝えられたからです。神は決して人に三十年間苦労して何も収穫しないようにと言われていません。主は私たちに御言葉と力の開く門を与えられ、それが私たちが使うべきものです。それがパウロに偉大で成果のあるミニストリーを与えたのです。1コリント2:4、「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」
私の話を聞いてください。この同じ旅の中で、私がローデシアのニュー・ソールズベリーで飛行機に乗ろうとしていたとき、私はアメリカパスポートを持つ4人のグループを見ました。私は彼らのところに行って言いました、「こんにちは、アメリカパスポートをお持ちであるのが見えました。どこか旅に出かけようとしているのですか。」
その若者は私に答えました、「いいえ、私たちはみなここにいる伝道者です。」
「なんと素敵なこと、」私は返事しました、「自分たちで伝道しているのですか、それとも何かの組織と一緒に働いているのですか。」
「私たちはメソジストです。ケンタッキーのウィルモアから来ました。」と彼は言いました。
「あら、それはほとんど私の裏庭にあるようなものです。」と私は答えました。「あなたはまさかその方面から来ているブランハム兄弟ではないでしょうね。」
私は言いました、「はい、その通りです。」それを聞くと彼は黙りました。彼はもはや何も言わず、彼はその3人の女の子たちとお互い見返しました。そのため私は言いました、「ちょっと待って若者よ、私はいくつかの原則についてあなたと話したいのです、私たちはここでみなクリスチャンであり、ある偉大な目的のためにいます。今あなたはあなたたち4人ともここに来て2年経つと言いました。あなたたちはイエスの御名によって、ある魂を指して主の元に導きましたと言うことはできますか。」彼らはそうすることはできませんでした。
「女の子たちよ、私はあなたたちの感情を傷つけたくないのですが、」私は言いました、「あなたたちは本当は家にいてあなたたちのお母さんの皿洗いを手伝うべきなのです。あなたたちは聖霊に満たされて、聖霊の力の表れによって真実の福音を宣べ伝えない限り、この現場とは関係がないのです。もしイエスが見ることになるだろうと言われた効果が見えないなら、それはあなたたちは真実の福音を伝えていないからです。」
さらに一歩進んで伝道の現場で起こりうることを示しましょう。すべてがそう起こるとは言いませんが、残念ながら多くはそうなるのです。私はこの旅でダーバン市長とともにその町を回ったとき、ある原住民が首にタグをつけていて、彼は偶像をつけていました。私は友にそのタグはなんのためのものかと聞いたところ、彼は原住民ががキリスト信仰を信じた時、彼らはその人にタグをつけると言いました。それは私をとても驚かせました。なぜならここである人は自分のことをクリスチャンと呼びながら、あの偶像をつけているのです。そのため私はどうしてそうなるのかと聞きました。
彼は言いました、「私は彼の言語を話せます。行って彼に話しかけてみましょう。」そのため私たちは行ってそしてその市長は私の通訳者になってくれました。私はその原住民に彼はクリスチャンかどうかを聞きました。彼ははっきりと自分はクリスチャンだと言いました。そして私はなぜクリスチャンなのに偶像を身につけているのかと聞きました。彼はそれは彼の父親がつけていた偶像で、彼に残したものだと答えました。私がクリスチャンは偶像を身につけるべきではないと彼に話した時、彼はこの偶像は彼の父親を大いに助けたと答えました。私は好奇心でなぜだと知りたがっていました、そして彼はある日彼の父がライオンに忍び寄られた時、彼は呪術師が教えた通りに火を起こしてその偶像に話しかけたら、ライオンは離れました。私はそれは彼にそれは火がライオンを遠ざけたのだと教えました、なぜならすべての野生動物は火を怖がるのです。私は決して彼の返事を忘れることはできません。彼は言いました、「なるほど、そうだと思った、もしアモヤ(聖霊)が失敗しても、この偶像は失敗しない。」
(アフリカキャンペーンの話の詳細は「あるアフリカを訪れた預言者」という本の中で見つかります。)
それが多くのクリスチャンが持つ力で、なぜなら御言葉は元々ペンテコステで開いた門の通りに彼らに伝えられていなかったからです。
さて、フィラデルフィア時代の開く伝道の門に戻りましょう。この時代は本来持つべき開く門の力を持っていませんでした。同じ聖句で主が開く門について言及されていることに注意してください。主は言われました、「あなたには少しばかりの力があって」。その通りです。御霊の力はその時代で見つかりませんでした。御言葉はとてもよく宣べ伝えられました。魂たちを救いに向かわせることがよくできました。しかし神の力強い働きを示す偉大な力が、御自分に属される人々に現される御腕があちこちに散らばっているグループ以外では見つかりませんでした。しかしながら、神を褒め称えよう、それは成長していて、そして宗教改革の時よりも増えました。
この時代で私たちが伝道の父と呼ぶ方が現れました。ウィリアム・ケアリー、ある村の靴職人が、イングランドのモールトンにあるパティキュラー・バプティスト教会で牧師を務めていました。彼の伝道は多くの反響を呼びました、彼はこう伝道しました、「伴ってくる約束が同範囲なところを見ると、使徒たちに与えられたあらゆる国で福音を宣べ伝える命令はすべての伝道師が世の終わりまでの責務であることがわかります。」彼は救われるべき者はいづれ救われ、伝道事業は御霊の働きの邪魔をしてしまうということを信じるカルバン派の人々に反対されました。しかしアンドリュー・フラーは伝道と資金面でケアリー氏を援助しました。彼らの働きは大きい効果が出て、1792年にあらゆる国々へ福音を宣べ伝える協会が設立されました。この協会はケアリーをインドに遣わし、彼はに人々の魂を神に導くのに神から大いに祝福されました。1795年に情熱に溢れたクリスチャンのグループはよく知られているロンドン伝道協会を設立し、多くの資金を集め、主の望まれていることを成就するのに何千人もの伝道者を遣わしました。神の御霊が働かれ、「ほかの羊」[ヨハネ10:16]を得ることはそれらの熱心な信者たちの心の叫びに違いありません。
「わたしは門を、あなたの前に開いておいた」これらの言葉をもう一度見てほしいです。今回、私はそれらを伝道事業と切り離すつもりはないが、最後の時代に深く入る考えをもたらしたいです。すでに言いましたが、この時代は最後の時代に溶けこんでいきます。この時代でイエスは「私は早く来る」と言われ(11節)、最後の時代でイエスは「完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」と言われました。ローマ9:28。黙示録3:8の言い方に注意してください、「開く門—少しばかりの力、ことば、名」。開く門はほかの3つと連動しなければなりません。門が象徴することは何でしょう。
ヨハネ10:7でこう書かれています、
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。」
そうです、「わたしは(I AM)」は羊の門です。さてこれは変わった表現ではありません。事実そうです。ヨハネ10章でイエスがこのたとえを言われたときに注意してください、主は御自分のことを羊使いと呼ばれました。次に御自分のことを門と呼ばれました。そしそれは羊にとっての羊使いの存在そのもので、彼は実に彼らにとっての門です。
私が海外に出て東洋に行ったとき、夜になると羊使いが自分の羊たちを集めるのを見ました。彼は羊たちを囲いの中に入れます。そうしたら彼らを数えます。みんな入ったことを確認すると、彼は開く門で横たわり、文字通り囲いにとっての門となります。彼を通さないと誰も出入りすることはできません。彼は門でした。次の日私がある友人とジープに乗っていたとき、ある羊使いが自分の羊群を連れて町に入り始めたことに気づきました。すぐざますべての交通は止まり、羊たちが渡ることができるようにしました。東洋にある町はここのと違います。私たちは自分たちの商品をすべて店の中に入れます。しかしそこでは農民の大きな市場のようにすべての商品を道におき、通りすがりの人々が見て買うことができるようにしています。私は思いました、「おっと、大混乱が始まりますよ。それらの羊たちは外においてある食べ物が目に入っちゃうから。」しかし羊使いが前で歩くと、それらの羊たちはただぴったり一歩一歩後ろについていくだけでした。彼らはみんなそれらの商品が見えるのですが、どの羊も触れませんでした。ああ、もし私が彼らの言葉を話せたら、クルマから降りてついさき見たことで彼らに伝道をしたのでしょう。
あの偉大な羊使いの羊になると、あなたは主のすべてのステップについていくのです、それらの羊たちがしたように。あなたはある教会の大きな花で脇見したり、神学博士や哲学博士や法学博士の声に耳を傾けたりはしません、あなたは羊使いと一緒にいます。聖書で羊は羊使いの声を知っていて、彼についていくと言っています、見知らぬ人の声はただ彼らに逃げて本当に羊使いについていかせるだけです。神を賛美いたします。
それは私がそこで見て学んだことのすべてではありません。ある日私は人々が草原で様々な種類の家畜を放牧していたことを思い出しました。ブタを放牧する人、ヤギを放牧する人、ラクダを放牧する人、ラバを放牧する人などなどです。そのため私はある友人に誰がそこに住んでいるのか、その人々たちは何と呼ばれるのかを聞きました。「ああ。」彼は答えました、「彼らはシェパード(shepherd)と言うよ。」
私は納得できませんでした。私は言いました、「彼らはみんなシェパードだということではないでしょうね。シェパードは羊だけ放牧するのではないか?」
「いいえ。」彼は言いました、「シェパードとは放牧するもしくは家畜たちに草を食べさせるために草原に連れていく者のことを言います。そのため、家畜を草原に連れていく者はみんなシェパードと言います。」
なんと、それは私を驚かせました。しかし私はその他の家畜を放牧する人と羊の世話をする人に違いに気づきました。夜になるとほかの放牧する人は家畜をおいで家に帰るが、羊使いは違います。羊使いは羊を連れて、彼らを囲いに入れてから横たわり、羊の門となるのです。ああ、神を賛美いたします、私たちの羊使いは決して私たちを置き去りにしたり見捨てたりしません。夜がやってくるとき私は主の囲いの中に入りたいです。私は主の御加護の中にいたいです。
これで、イエスが門であることがわかります。主は羊の門です。そして今それが門は開いていると言っていることに注意してください。主の啓示とはなんでしょうか。そしてその啓示は開き、力をもたらし、御言葉を照らして主の御名を讃えます。最後の2つの時代の間でイエスキリストの神性についての啓示が私たちの前で花開きます。そうです、私たちは、主は神だと知っていました。私たちの救い主となられる以外、何になられましょう。もちろん私たちは、主は唯一の神、ただひとりの神だと知っています、主はアルファとオメガ、このイエスは主でありキリスト—それで主は主イエス・キリストとなり、父、子、そして聖霊は全部ひとりのことです。これは一つ目の教会時代で失われましたが、今再びそれが見えます。主は誰なのかの啓示は戻ってきました。もちろん神性は三つの神格が一つの神性の中にいるということではない、なぜなら一つの神格はひとりの神なのです。もし神格は一つならば、神はひとつなのです。三つの神性をもつ三つの神格を信じる者は一つ目の戒律を犯します。
神性についての啓示が戻ってきました。今真の教会は再び力を得ることができます。この時期を経てついに彼女は彼女の主はどなたかを知ります。私たちは再びペンテコステでされていたように主イエスの御名で洗礼を受けるようになっています。
神からきた 三位一体の洗礼についての夢について教えましょう。これは幻ではなく夢でした。知っていますか、聖霊より夢を授けられることは教会時代の祝福の一つであり、これは幻を受けることができるのと同じです。それはある土曜日の朝3時のことでした。私は起きてジョゼフに飲み水を持っていきました。横になったあと、すぐに眠りに入り、この夢を見ました。夢の中で、私はある男性を見ましたが、その方は私の父だと思い込みました。彼はとても柄が大きい男性でした。私は同時に私の母だと思われる女性を見ましたが、その女性は彼女に似ていませんでしたし、その男性も私の父に似ていませんでした。この男性は彼の妻に対してとても凶悪でした。彼は三つの角をもつ木の棒を持っていました。ある木材をとって立てて斧でそれを打つと、くさび状の木材となります。そのようなものです。彼はこの棒を持って彼女を叩き、彼女を打ち倒しました。彼女がそこに横たわって泣いていると、彼は胸を上げ、威張っていて高慢な態度で歩き回り、可哀相な女性を叩くのに威張って満足したように見えました。彼女が起き上がろうとするたびに彼は彼女を叩きました。私は彼の行いが好きではなかったが、彼を止めようとした時、こう思いました、「私はあの男に組みつくことはできない、彼はあまりにも大柄だ。そして彼はまるで私の父のようだ。」しかし心の中で私は彼は私の父ではないことを知っていたし、女性に対してそのようなことをする権利を持つ男性はいないことも知っていました。私は行って彼の襟を掴み、彼をこっちに向かせて言いました、「あなたは彼女を叩く権利はない。」そう言ったとき、私の筋肉は成長し巨人みたいになりました。そのお男性はそれを見て私を恐れました。私は言いました、「また彼女を叩こうとするものなら、思い知らせてやる。」彼は彼女を再び叩くのをためらい、そうしたら夢は終わりました。
私は夢見たあとすぐに目を覚めました。私は思いました、なんと変なことだったでしょう。私はなぜ自分がその女性についての夢を見たのかと思い巡らせました、そうしたら突然神が来られ、私は神の御臨在を感じ、神が私に夢の解釈をされました。(私はあなたたちの夢を正確に解釈しただけでなく、あなたたちが私に教えるまでもなく、何度も、何度も夢の中身をあなたたちに話したことをあなたたちは知っています。)その女性は今日の教会を象徴しています。私はこの苦境、彼女がいる苦境の中に生まれました。彼女は良き母であるべきでした(彼女は淫婦たちの母です)。彼女の夫は彼女を支配する宗派です。3つの角の木の棒は三位一体教義の偽の三位一体洗礼を象徴します。彼女が起き上がろうとするたびに(それは会衆が真理を受け入れ始めたことを意味します)彼は再びその偽な教義で彼女を打ち倒しました。彼はあまりにも大柄なので、私は最初彼を恐れたが、彼に対抗しようとした時に私は自分が大きくて力がある筋肉を持っていたことに気づきました。それらは信仰の筋肉です。その夢の結論は、「神が私とともにおられ、そしてそのような力を私にくださるなら、私は彼女を守るために立ち上がり、世界の宗派の勢力に対抗し、そして彼が彼女を叩くことをやめさせます。」
さて私はある夢に基づいてある教義を作ろうとしていません。ある夢によって自分の教義を立証しようともしていません。神性の唯一性は創世記1:1から黙示録22:21まで一貫しています。しかし人々は聖書に基づかない三位一体の教義で盲目となり、その教義はあまりにも広く受け入れられしてしまっているため「ひとつの神」を理解するのはほぼ不可能になってしまいました。もし人々は神性の真理をわからず、それに敵対するなら、残りの真理は見えません、なぜなら啓示はイエス・キリストが御自分の教会におられ、そして7つの時代の中で教会の中で働かれることです。わかりますか。わかるはずです。
「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」どのように力が戻っていたのかについて話しました。実にそうでした。宗教裁判所の力は衰えました。人々は自分たちの故郷を離れ、礼拝の自由を求めました。聖職階級制度のくびきは壊されていきました。政府はどちらも味方しないのは賢明だと気づきました。実際、良い動機はあるが導きが足りない人々は自分たちの宗教の権利を戦って得ようとします。おそらくこの時代の宗教の力でもっとも大きい成果は、フランスが革命に巻き込まれた一方で、偉大なウェスレーのリバイバルはイギリスを革命から遠ざけさせ、何年もの栄光の間神の手の中の器となるように救ったことです。
この時代より御言葉の伝道が広まる時はありませんでした。サタンが大勢の自由主義思想家、共産主義の創始者、自由神学者を起こして彼らの汚れた物を広める同時に、神も力ある信仰の勇士たちを起こされ、もっとも偉大なキリスト教の書物や教えや伝道はこの時代から来ました。この時代に他とは比べられない伝道者や教師たちが出てきました。スパージェン、パーカー、マックラーレン、エドワード、バニヤン、ミュラー、ブレイナード、バーネス、ビショップ、皆この時代から来ました。彼らは伝道し、教え、そして御言葉を書きました。彼らは主の御名を称えました。
偽ユダヤ人の裁き
黙示録3:9
「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、噓を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」
さてこの偽ユダヤ人もしくは偽信者の問題はふたつ目の時代ですでに存在していたことにすぐ気づくことができます。これらの自分たちのことをユダヤ人だと嘘を言っている人たちは一つ目の時代で聖霊が初めて湧き出たあとすぐに出現し、そして今宗教改革後の次の時代で再び現れました。これは決して偶然ではありません。実際、偶然ではありません。これはサタンの企みです。その企みは組織してそして自分が元の教会だと主張し、それによって特別な権利と栄誉を得ることです。お見せしましょう。昔スミルナ時代の時これらの人々は自分たちのことをユダヤ人(もしくは信者)だと言って嘘をついたが、決してそうではありませんでした。彼らはサタンの会衆の属する者です。彼らはサタンの組織の群衆で、なぜならその時代から人々は伝道事業において奉仕している兄弟たちの上に聖書に基づかないリーダーをおいてしまったのが見えるからです。(それぞれの地区において長老たちの上に主教を設立しました。)次に見えたのは、三つ目の時代において、「サタンの王座」と的確に呼ばれる場所があるのが見えました。あの時代において教会と政府の結婚が与えられました。彼女の後ろに政府の力がつくと、その教会は文字通り実質上征服不可能なものとなってしまいました。
政府の力が強かったにも関わらず、神はその統制を打ち破られ、宗教改革は大きい光をもたらしました。しかし何が起きましたか?ルター派の人々は組織を立ち上げて、政府と手を組み、この六つ目の時代においてサタンの会衆が表れるのが再び見えます。さてもちろんこの会衆のグループは自分たちはサタンから来た者だと言いません。いいえ。彼らは自分たちは神から来た者だと言います。しかし彼らは嘘をついています。本当のユダヤ人(彼らは自分たちをそうだと主張しているが)内なるユダヤ人、御霊の中にいるユダヤ人です。それならば、もし彼らは偽ユダヤ人ならば、彼らはユダ書19節で言われている「御霊を持っていない人間」ということになります。神の子は御霊から生まれています。御霊を持たない人はすなわち神の子ではありません、彼らがどう激しく主張しようと、どう力づくで証明しようとそうではありません。彼らは死んだ者です。彼らは組織の子で、真の実を持ちません。彼らは信条、教理、そして教義の上で建てられており、彼らは自分たちの意見を神の御言葉の上に置いたため、真理は彼らの中にありません。
私がずっと教えようとしている二つの異なる霊から来ている二本のブドウの木のことを示しましょう。今回イエスとユダの例をとりましょう。イエスは神の御子でした。ユダは滅びの子でした。神はイエスの中に入られました。サタンはユダの中に入りました。
イエスは聖霊に満ちたミニストリーをお持ちでした、
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」
使徒10:38に書かれています。
「ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。」
使徒1:17。
マタイ10:1、
「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」
ユダの中にいた霊がずっとイエスのミニストリーについっていきました。そして両者とも十字架に来ました。イエスは十字架につけられ、喜んで御自分のいのちを罪人たちのために差し出され、御自分の御霊を神に委ねられました。主の御霊は神のところに行き、ペンテコステの時に教会の中に注がれました。しかしユダは首をつって死に、彼の霊はサタンのところに戻ったが、ペンテコステの後にユダにいた同じ霊が真のブドウの木とともに成長する偽のブドウの木に戻りました。しかし注意してください。ユダの霊はペンテコステに決して行きませんでした。聖霊を受け取りに行くことは決してありませんでした。できませんでした。しかしユダの霊は何のためにに出て行ったのですか。それは金の袋のために行ったのでした。それはなんと金銭を愛していたのでしょう。いまだに金銭を愛しています。もしそれがイエスの御名で出て行き、偉大なことをして大きいな集会を開くなら、やはりもっと多くの金銭と建物、教育、そして物質的な概念を持つあらゆることを得ようとします。彼らにある霊を注意深く見て、騙されないようにしてください。ユダは十二使徒のひとりとして出て行き、同じく奇跡を行いました。しかし彼は神の御霊を自分のものとして受け入れませんでした。彼にミニストリーはありました。しかし彼は真の種を持っていないので、ペンテコステに行くことは決してありませんでした。彼は神の真の子どもではありませんでした。いいえ。そして今サタンの会衆でまさに同じようなことが起きています。騙されないようにしてください。もしあなたが選民なら、騙されません。イエスはあなたは騙されないと言われました[マタイ24:24]。
はい、これらの人々は自分たちのことをクリスチャンだと言っていますが、違います。
「彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」
1コリント6:2
「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。」
十二人の使徒が十二個の王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くだけでなく、聖徒たちも、世界を裁きます。その時、自分たちは神に属していて、神が自分たちのことを愛していると主張する人たちは誰が本当の神の子どもなのか、誰が神の御子に愛された者なのかを知ることになります。はい、あの日はやってきています、それが表れます。今いくぶん世界を支配していて、最後の時代に獣の像を建てることで実際に世界を支配するこれらの人々は、ある日イエスが御自分の聖徒たちと来られ、世界を義によって裁かれるときに卑しい者となります。それが実にマタイ25章に書かれたことで、第一回の復活を逃した者はみな裁判官と彼の花嫁の前に立つことになります。
称賛と約束
黙示録3:10、
「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」
「忍耐についての主のことば」とはなんでしょうか。ヘブライ6:13-15。「神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、『確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす』と言われました。このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。」御霊はここで私たちに与えられる神の御言葉について言われていることがわかります。その御言葉が成就されるまで待つのにはアブラハムの時のように忍耐が必要です。彼は見えないお方を見て耐えました。彼は忍耐をし、そしてその御言葉はついに成就されました。これは神が御自分の人々に忍耐を教えられる時の方法です。なぜ?もしお祈りすると神が御自分の御言葉をすぐに物理的に成就されるのなら、あなたは決して忍耐を学ぶことはできず、人生にますます忍耐を持てなくなります。この真理をもっと完全にお見せしましょう。
ヘブル11:17、
「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。」
ここです:アブラハムは御言葉の約束を受け取った後に試されました。イエスの御名で神の良い御心を祈れば試しは来ないと思っている人が多いです。しかしここでアブラハムは約束を受け取った後に試されたと書かれています。それは詩篇の詩人がヨセフについて話したのと一緒です、105:19、
「彼のことばがそのとおりになるときまで主のことばは彼を錬った。」
神は尊く大いなる約束を私たちに与えられています[2ペテロ1:4]。神はこれらを成就されることを約束されました。神はそうされます。しかし祈り始めてから答えを受け取るまでに忍耐を魂に入れるのを学ばなくてはなりません、なぜなら忍耐することによってのみ私たちはいのちを勝ち取るのです[ルカ21:19]。この六つ目の時代の人々が忍耐を学んだのと同じように、神が私たちをこのレッスンで学ぶことをお助けしてくださいますように。私たちはこれらの偉大なクリスチャンの人生の歴史を読みました、彼らの人生は私たちのとなんと大きい違いがあるのでしょう、なぜなら彼らはとても忍耐があって静かで、今日私たちはみな忍耐ができず、性急なのです。
主は続けて彼らにこう言われました、「あなたは私のことばを守ってその中で生活し、忍耐を持つようになったので、私はこの世界に試練がやってきて地上にいる人々が試されるときにあなたを守ります。」ここで再び私たちは2つの時代の重なりを見ました、なぜならこの約束は異邦人の時代の終了に関するもので、それは大艱難の中で終りを告げるのです。
「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」この聖句は真の教会が大艱難を経験すると言っているのではありません。もしその意味ならそういうふうに言うからです。しかしそれは「わたしはあなたを試練から守る」と言いました。この試練はエデンでの試練と同じです。それは神の命令された御言葉から真逆なとても惹きつけられる主張で、人の考えで推理するととても正しく聞こえ、そても啓発的で生命力のあるものなので、世界を騙すことができます。
選民のみが騙されることはありません。試練は以下のようにやってきます。世界キリスト教運動は一見美しくて祝福された原則(私たちが一つになるというキリストの祈りを成就すること)で始まりました。しかし彼女は次第にあまりにも政治的に強くなり、全ての教会が彼女と直接連合する、もしくは法律に組み入れられた原則を守ることを通して連合するように政府に圧力をかけます。この協議会に直接的もしくは間接的に支配されないと、実質な教会として認められ無くなります。小さいグループは特権や特典などを失い、次第に彼らは全財産と霊的な権利までも失います。
例えば、今ほとんどではないが、多くの町で当地の牧師教会の許可が得られないと宗教的礼拝のために建物を借りることができません。武装部隊、病院などで牧師となるためには三位一体の全キリスト教会の承認と認可を得るのがほとんど必須条件となっています。この圧力が増えると(そしてそれは増加する)、反抗し難いものとなる、なぜなら反抗すると特典を失うからです。そして多くの人はそうするように惑わされる、なぜなら彼らはまったく公開的に神に仕えることができないよりは、この組織の枠組み中で公開的に神に仕える方がいいと感じているのです。しかし彼らは間違っています。彼をエホバと呼びたいかもしれないが、悪魔の嘘を信じることはサタンに仕えることとなります。しかし選民は騙されません。
さらに、選民は守られるだけでなく、この運動は「獣の像を造るように」なると、聖徒は携挙されます。そしてエペソで交流から始まったこの活力があって魅力的な運動はサタンの怪物となって全世界を汚し、そして騙します。なぜならローマカトリックとプロテスタントの教会システムは一緒となって世界のシステムのすべての富を掌握して、全世界がそれの宗教的な罠の中に入るように強要し、生活する上で必要な売買をする特典を拒絶することで彼らを殺します。これは簡単に成し遂げられます、なぜなら淫婦の娘たちは皆彼女の周りに戻りました。同時に、ローマはほぼすべての金鉱の供給を獲得しました。ユダヤ人は債券とすべての紙幣を持っています。時期が来ると、その淫婦はすべての紙幣そして金鉱を回収することでその時の金銭システムを破壊します。金鉱がないとそのシステムは壊れます。ユダヤ人は罠に引っかかって協定を結び、そして淫婦の教会は全世界を支配します。
御自分の人との約束
黙示録3:11-12、
「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。
わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。」
主がすぐ来られるという概念についてコメントをする必要はありません。私たちは主はそうなさると知っています、なぜなら今最後の時代の終わりにいるからです、そうではありませんか。しかし主は続けてこう言われました、「自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。」[黙示録3:11]
大きい困難がある時期の真ん中でイエスは来られます。そして主が来られる時に復活があります。多くの人は塵から出てきて起き上がり、生きて主が戻って来られるのを待つ人々とともに天に昇ります。そしてこれらの人々は冠を与えられます。なぜですか。それは彼らは神の子たちだからです。彼らは主とともに王となります。彼らは主とともに治めます。それが冠が象徴することです:偉大なる王、主御自身とともに治め管理します。それが主と共にこの地上で苦しみを受けてきたすべての人々、辛抱強く忍耐し、正義の裁判官である神が自分たちに奨励をくださることを知っているすべての人々への約束です。主のためにすべてを捨て、主にすべてを委ねた人々は主の御座に座り、主の栄光な王国を分かちあいます。
ああ、今この時のすべての人々への言葉があります。それはしっかりつかみ、辛抱することです。あきらめないでください。神のすべてな武具を身につけ、神が与えられたすべての武器、賜物を使い、喜びをもって前を向き、なぜなら私たちは王の王、主の主によって戴冠されるからです。
今主は冠を与えられるだけでなく、これらの花嫁となる人々は神の神殿の柱となると言っています。しかし神の神殿はなんでしょうか。イエスはご自分の体は神殿であると言われました[ヨハネ2:19-21]。そうでした。それは神の神殿でした。しかし今私たちは主の体です、真の教会は聖霊が私たちの中にいることによって神の神殿となるのです[1コリント6:19]。今主は勝利を得た人をその神殿の柱とするつもりです。しかし柱はなんでしょうか。柱は実は基礎の一部で、なぜならそれは上部構造を支えるからです。神を賛美致します、神は勝利を得た者を使徒と預言者と一緒に置かれました、なぜならエペソ2:19-22でこう言われています、
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。
このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
そうです、その22節で私たちは彼らとともに築き上げられると書かれています。すべてのことはドア(イエス)を通り、そしてその体もしくは神殿の一部となるのです。さて、神がある人を神殿の柱として置かれ、そして彼をその基礎の一部とされる時、神は何をなさろうとしているのでしょうか。神は彼に御言葉そして御自分自身についての啓示を与えられているのです、なぜならそれは実に使徒と預言者が持っていたことなのです。マタイ16:17。そこで彼はその言葉の一部となるのです。彼はそこに立っています。誰も彼を追い出すことはできません。
「勝利を得る」という言葉について熟考してください。ヨハネは「誰が勝利を得る者ですか」という質問をしました。そして答えはすぐにかえってきました、「イエスがキリストであることを信じる者です」。主は勝利を得る者はある「イエス」とある「キリスト」を信じる者とは言っていません、それはイエスがそのキリストを信じる者です、ひとりであり、ふたりではありません。勝利を得る者は主イエス・キリストの御名で洗礼を受けた人です。
神はここで花嫁について言われています。彼女についてのもう一つの描写をみたいですか。それは黙示録7:4-17にあります。
「私は、印を押された者たちの数を耳にした。それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。
ユダ族から一万二千人が印を押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、
アシェル族から一万二千人、ナフタリ族から一万二千人、マナセ族から一万二千人、
シメオン族から一万二千人、レビ族から一万二千人、イッサカル族から一万二千人、
ゼブルン族から一万二千人、ヨセフ族から一万二千人、ベニヤミン族から一万二千人が印を押されていた。
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
彼らは大声で叫んだ。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。
『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。』
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』」
イエスは来られました。主は144,000人に印をつけられました。主はそれぞれの部族から12,000人ずつ選ばれました。しかしこれらの144,000人に属さない別のグループが9−18節に見られます。彼らは誰でしょう。彼らは花嫁に属する人で、異邦人から選ばれました。彼らは昼夜主の御前にいます。神殿で主に仕えます。彼らは主が特別気にかけられた者です。主の花嫁です。
花婿が行かれるところは、花嫁もついて行きます。彼女は決して彼に忘れ去られません。彼女は決して彼から離れません。彼女は彼とともに御座を分かちあいます。彼女は彼の栄光と名誉によって戴冠されます。
そしてわたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都の名を書き記します。そして神の御名は何でしょうか。はい、主は神が私たちとともにおられる、またはインマヌエルですが[マタイ1:23]、それは主が与えられた名ではありませんでした。「その名をイエスとつけなさい。」[マタイ1:21]。イエスは言われました、「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。」[ヨハネ5:43]したがって神の御名はイエスです、なぜなら彼はその御名で来られました。彼は主イエス・キリストです。そしてある女性が男性と結婚するとき、何の名をとりますか。彼女は彼の名をとります。主が彼女を花嫁として迎え入られるとき、彼女に主の御名が与えられます。
黙示録21:1-4。
「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』」
何と素晴らしいことでしょう。神のすべての素晴らしい約束が成就されました。それはすべて過ぎ去ったこととなります。変化は完成されます。子羊と彼の花嫁は神のあらゆる完璧の中に永遠に住みます。それを描写しなさい?それをできる人はいるのですか?いや、誰もできません。それについて考えること?夢見ること?それについて御言葉何とおっしゃっているのかを読むこと?はい、それらはすべてできるのですが、ごく微小な部分のみ知ることができません、それは第一回の復活の時に真実となるのです。
「そしてわたしの新しい名を書き記す」
わたしの新しい名。すべてが新しいものとなるとき、主は御自分に新しい名をとり、そしてその御名は花嫁の名にもなります。その御名は何でしょう、誰も推測する勇気がありません。それは御霊が与えられる確固たる啓示となり、誰も否定する勇気がありません。しかし主はその名を明かされたい日までにその啓示をとっておかれます。それが私たちが想像できるのよりもはるかに素晴らしいものだとわかれば十分です。
この時代に与えられる最後の警告
「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」
すべての時代はこの同じ警告で終わります。それは教会が主の声に耳を傾けるように忠告するやまない嘆願です。この時代は前の時代よりも嘆願が強くなってきており、なぜならこの時代は主の到来に実に近づいてきたからです。「次にもう一つの時代があるのに、なぜそんなに緊急なのですか。」という疑問が浮かぶかもしれません。答えはここに横たわっています。最後の時代は短いもの、早く完結するものとなるのです。それだけでなく、神の御目の中に時間はとてもつかの間のものであると覚えておかなければならない、そうです、一千年は一日のようです[2ペテロ3:8, 詩篇90:4]。そしてもし主は御自分の時間で見て後何時間で来ようとされるなら、とても緊急に私たちに警告するのに違いなく、その到来に準備できるように主の声は私たちの心の中で絶えずに響くものでなければなりません。
ああ、この世にはこれだけ多くの声があり、これだけ多くの問題と需要が注意を引こうと叫んでいますが、聖霊の声ほど重要で注意に値するものはありません。そのため、「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」