65-0220 神の選ばれた礼拝の場所
- 伝道者:ウィリアム・ブランハム
- ジェファーソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
- 録音番号:65-0220
- 年:1965
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しばらくの間、祈りの為に頭を垂れて立ち続けましょう。そして今、頭を垂れながら、(そして私達の心も頭を下げていると信頼しています)、ここにいる何人が祈りの内に何か特別なことで覚えておいてほしいのかと思っています。そういう方はただ、手を挙げて、「神様、今晩私が探しているものを与えて下さい」と言いましょう。主があなたを祝福されますように。
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天のお父様、この偉大な恵みの御座に謙虚に近づいてまいります、信仰により、神様がおられるところに動き、その天使やケルビムが居て、天の主なる方々が皆あつまっているのです。彼が言われたように、天の父が知らずして、雀が落ちる事もないのです。彼はここに数百人の人々が彼等の頭を垂れてあなたに特別なリクエストを求めているのをご存知です。父よ、必要を持っている必要の大きな世界をご覧になってください、我々は必要を抱えている者たちです。 神様、我々はあなた生きる神に祈りに答えて下さるという、信仰を持っていることを表現するためにここに集まっているので、祈ります。我々は無割礼の世界から出てきたのです、そして心と耳をそれらの人生や生き方から離れてきています、又、我々の信仰をあなたに告白いたします。そして、今晩あなたに向かって、我々は必要を抱えてくることを言いながら、手を挙げています。親愛なる神様、彼等全員のリクエストに答えて下さい。
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そして又、父よ、我々は御言葉の中で、あなたが我々に訪れて下さるように祈ります。訂正されるためにここに集まっています、悟りの為、我々がこの時代にどのように生きるかを知る為に、何を期待するために、何をしたらいいのかをです。我々は主の再来が近い事を知っています、預言者達が予見した全ての印により分かるのです。我々はその時が近い事を知っています。どうかあなたの子供達全てが完全な開放を受ける時が近いのです。神様、我々全員がそこに行けるようにしてください。父よ、一人も残されることの無いようにしてください。それがここに私たちが居る目的なのです。主よあなたを愛しています又、その時の為に準備しようとしています。
我々に語ってください、再び今晩病人を癒してくださるように求めます。この建物の中にいる全ての病人を癒してください、彼らを癒して下さるように主よ祈ります、特に特別な必要を持っている人達の為にお願いします。我々は、全ての失われた魂を救ってくださるようにお願いします。全ての信仰者を聖霊によって満たし、あなたを信じる子供達の力を新しくし強めて下さい。これらの事を認めて下さい。父よ。沢山のtことを求めています、あなたが多くを求めなさいと言われたからです、大きな事を沢山の事を求めます―私達の喜びが満たされるからです。そして我々はイエスキリストの御名によって求めます。アーメン。(おかけください。)
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私は間違いなくこここの高校の演壇に居てこれらの素晴らしい人達と出会い福音を聞ける特権を感謝しています。神の憐れみにより、私が知っている真理を出来る限り告げられるように助けていただけるように祈ります。彼は獅子の口をふさぐことが出来たのと同じように、人の口を宇閉じる事が可能な方です。そして神のご意志に反したり間違ったことを言わないようにしてきました、私の誠実な祈りは、もしそのようなことを言わないように口を神が閉じて下さるようにという事です。本当に、自分自身が天に居たいのです、まだ一度も言った事はありません。そしてそれ以外に、全て、偽の事を何かしてしまうならば、偽指導者になってしまいます。もし私がそうするならば、その差が分からないのです。主の祝福がありますように。5
さて、昨日の朝、神のご意志ならば、「結婚と離婚」の議題について話すことを目標としています。そして皆さんが鉛筆と神を持ってくると信じています。それほど長くならないつもりですが、そうしたいのですというのは、ここに戻って来たそれが私の目的です、インディアナで、皆さんに約束していました。そして明日の朝、それを話す予定にしています、もし明日の朝できなければ、明日の夜になります。しかし、明日の朝話せるようにしようとしています、そのことについて話すことが神のご意志であるならば、二つの学びの考え方になります。そして神が真理を知るのを助けて下さいます。何が真理であり我々が真理とその光の中を歩く事を助けて下さいます。6
ご存知の様に、ある黒人の友人が以前いました。彼は私に「ビリー兄弟、「その川で何の問題もあってほしくない」と言いました。彼は、「自分のチケットを手に欲しいそして笛が鳴る時、そこで問題があってほしくない。神様にずいぶん前に尋ねたのです、何か間違いがあるならば、今すぐ、それを落ち着かせてほしいと」「船が反対側に引っ張られるとき、その朝は暗くて嵐になるから。」と言いました、「何にも邪魔されたくない、今、それについて全て準備したい。」それが我々がここにいる理由です、邪魔になっている全ての事を世話して、我々がその時にその船に歩み乗る事が出来る様に。 さて、今晩はあまり長く話すつもりではありませんというのは、明日2回礼拝をするからです。そしてその後、すぐにどこか別の場所で、他の礼拝があるのです。
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しかし今は、申命記を読みたいです、16章の最初の3節、申命記16章1-3です。あなたはアビブの月を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである。
主がその名を置くために選ばれる場所で、羊または牛をあなたの神、主に過越の犠牲としてほふらなければならない。
種を入れたパンをそれと共に食べてはならない。七日のあいだ、種入れぬパンすなわち悩みのパンを、それと共に食べなければならない。あなたがエジプトの国から出るとき、急いで出たからである。こうして世に生きながらえる日の間、エジプトの国から出てきた日を常に覚えなければならない。
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さて、私の今晩のタイトルは、神の選ばれた礼拝の場所です。アビブの月というのに気が付いたでしょうかそれは4月を意味します。4月は彼等がでてきたときなのです。そして今、おかしなことは我々は今晩、神の礼拝者達としてこの時代に我々は生きているわけで、人々のいろいろな異なる考え方を見ます。物事に対して異なる考え方がある限り、そこには異なる質問が出てきます、それには一つの真実の答えが全ての質問にあるアズなのです。もし私が質問をするとしたら、「これは何ですか?」
「さて、彼らは 机です」というでしょう。
これは何のために使うのですか? 分かりますね?
さて、誰かが、これは机ではなくて、板だというかもしれません。
さて、それは板です、でも机なのです。分かりますか、それには真実の答えがなければなりません。何かそれに近いものでもあるかもしれませんが、真実である必要が、あります、全ての質問に直接の答えがいるのです。そしてだから、我々の人生で出てくる全ての質問には、真実で正しい答えがある必要があるのです。
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そして、今今日、我々は我々の世界の人々の沢山の人々が言いました、宣教師になるというのは、世界中の産みを超えて幾つかの旅をする。沢山の宗教家とつながりがありました、ブッダ、モハメッド、シーク、ジェインとかその他の世界の宗教。そしてその時、ここ我々のアメリカとその他海外の国々で、我々のいろいろな教会全て、例えば、宗派の教会が初期のローマカトリックと一緒に初めてギリシャに行きその後も続き異なる権利があり、宗派の時代の900か幾つかのペンテコステ派の異なる宗派に入ってきました。さて、彼らの各々の一つが、餅ラ音彼らのアイデアを理解できるし、文句をつけられません、彼らが各々真理を追究していて、真理を持っていると思っています。その人々はそれらの教会に属していてそれを信じるべきなのです、その教会があって彼らの目的地がそこにありそれを信じる必要があり、その教会の教えの上に立っているわけです。そして彼らは皆異なっていて、一つ一つ違うのです、それ故、900の異なる質問が出てくるのです。そして一つの正しい答えがあるのです。そして今晩我々の為に天国に行って我々の全てが愛している主イエスに会うために聖句を探してそれを見つけていきたいのです。10
さて、それが聖書の質問ならば、聖書に答えがあるはずです。人々の集まりからそのk多恵が出るべきではないのです、特定のフェローシップとかある教育者あるいはいくつかの宗派や教団、それは神様と会う場所礼拝の場所については聖句から直接来るべきなのです。間違いなく神であられるのですから、彼と会う場所はそうなります。 さて、我々はここ申命記の初めに、モーゼが聖句を再び行っているのを見つけます。その物事は彼が彼等に行ったことでした、どのようにして、偉大な強い腕によって彼が彼等を連れ出すのか、エジプトを出て行くのかそして初めに彼らを設営しなければなりませんでした。彼らはエジプトを出るまでは「神の人々」と呼ばれていて、そして彼らは「神の教会と」呼ばれていました、教会というのは、集まるものあるいは教会の本当の意味は、呼び出された者たち、つまり、呼び出された人たちという意味なのです。そして、彼らは教会になるためにエジプトを出てきたのでした。
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さて、神は彼等に彼らが宮を作る前に、何でも彼らがする前に「私を礼拝する場所を選び、私の名前を付ける」と言われました。そしてそれが神が人に出会う唯一の場所でした。神ご自身が選ばれた場所でした。彼は彼自身の場所を選んだのです、そして彼の名前を付け荒れました。ここの2章で言われているのは、彼はその場所に名前を付け、彼が礼拝させたい人々を選ぶと。さて、その物とは、我々はその場所がどこなのか見つけたいのです。 さて、900と幾つかの異なる考え方によって、我々は、全ての異教徒の宗教をバイパスさせて、クリスチャンの宗教だけの様に語ってきていますが、異教徒への思いがあり、間違いなく、彼らに話すつもりですが、彼らは間違っています。キリスト教が唯一正しい主教です。私が言っているのは、私がクリスチャンでそれを真理だと信じているからでは二のです。それは正しい唯一の宗教なんです。
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白い馬が4時間ごとに変えられる、墓にモハメッド(キリストの後に最高の指導者だと言われ預言者とも目されている、そしてマッカビー兄弟の直後に彼はいたと信じています)しかし彼が死んだとき、彼は蘇ると言いましたそして、世界を支配するだろうと。さて、4時間ごとに彼らはガードを後退し、白い馬を彼の墓に置き続けています。彼らは、2000年間彼が再び蘇り、世界を支配するのを期待しているのです。でも分かりますね。 そしてあなたがブッダに行くとしたら、ブッダは、2300年前に数百年生きた日本の神の一人と言われています。そして彼は哲学者で、ある意味孔子などと同じような感じでした。しかしこれらの全ての創始者やその他は、皆最後死に、彼らの哲学も墓に埋められたのです。しかし、イエスキリストによって打立てられたキリスト教は、空の墓があります。彼が「私には死に蘇る力が命の中に在る」と言われた地上に住まれた唯一の存在です。そして彼はそうされました、そして今日も生きておられるのです。そして今も生きておられることを我々は知っています、彼は我々と共におられ、肉体的な印や奇跡、彼が見せると約束されたものを見せて、又イスラエルの子らを導いた火の柱をも、今日我々と共におられるのです。写真で撮影された物さえあるのです、そして彼の約束された、奇跡と印を今日行っておられ、全て彼が約束されたことが、今日現れています。それ故、残りの異教徒の世界はキリスト教とは全く異なっているのです。
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さて 900以上の神とどこで会うかについての質問があります。「彼はメソディスト派と会う」あるいは「彼はバプテスト派と会う」とか「彼はここそこで会うそしてその他諸々」-今、ここに質問があります。さて、恐れおののいて救いの達成に努める事を皆探しています。しかし今晩、私はその聖句の神が人々と会い礼拝する正しい場所なのかを見つけ証明したいと思っています。そしてもしそうなら、それが彼が会う唯一の場所なのです。14
さて、我々はこの申命記の箇所を見てきました。それはギリシャ語では、二つの意味を持っていますあるいは「二つの律法」という意味で、申命記のギリシャ語の意味は、二つの異なる律法という事になります。そしてそれはただ神が持たれている二つの異なる律法なのです。その一つは死の律法そしてもうひとつは命の律法です。神は二つの律法をお持ちです。彼に従い、彼に仕え、彼を礼拝するに事が命にそしてそれを拒否する事は死に繋がるのです。神には二つの律法があるのです。さて、それらの律法の一つが世に認識されています、それはシナイ山でのものです。神はモーセとイスラエルに律法を与えられました。それらの律法が彼等を助けられるからではなく、彼らが罪びとであることを認識させる事だけが出来る者でした。その時、律法を得るまで、罪が何であるかを知らなかったのです。罰なしの律法はあり得ません。罰のない律法はないのです。それ故、律法に違反する事が罪であり、罪の報酬は死なのです。それ故神は彼等に律法を与え、彼らが違反しないようにしたのです。もしここに律法がなければ、時速20マイルを超えて走るでしょうそして20マイル以上で走れるのです。しかし法律がそれは出来ないと言っているのです、そして法律には罰が必ずついて回ります。
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さて、死とは、、、死の律法がシナイ山の上で人に与えられ、彼は罪びとだと告げられました、そして神の律法の違反により彼は死にました。しかしその律法には救いはなかったのです。警察官だけが、あなたを刑務所に入れる事が出来ます。そこから出すものは何もありませんでした。しかし彼は別の法律をくれました。それがカルバリーの山で、イエスキリストによって罪を取り去っていただけたのです。そしてその罰の分が支払われたのです、律法によらず、ただ恵みいよって、神のあなたという存在に対するあらかじめ定められた予見によって、神の恵みによって救われたのです。さて、これら二つの律法、申命記を見ています。二つの律法について話しました。二つの律法があります、一つは死の律法もう一つは、命の律法です。
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又、二つの契約が人々に与えられていました。そのことを朝話す予定にしています。一つは、アダムに条件付けで与えられていました。「あなたがこれをして、これをしないならば、、、」しかしその律法は破られました。アダムとエバはそれをエデンの園で破ったのでした。そして神が二つ目の契約を作り、アブラハムに与えられました。その律法には条件はありませんでした。「それをしたか又今後しないかではなかったのです」彼は「私がすでになした」と言われたのです。それが恵みです。それは命の律法です。神がアブラハムと彼以降の子孫たちにしてくださったのです。それは全てアブラハムの子孫に対してなのです。聖書が言っている様に「イスラエルの全ては救われるであろう」しかしそれはユダヤ人全てという意味ではありません。パウロが行っている様に、イスラエルは我々の只中に、あるいは外に、、、外側というのは、我々が先日話していた、イサクの子供達つまりは、性交によってできた子供達の事です。しかし、キリストを通しての神の律法は、アブラハムの決められた子孫たちつまり恵みによって全てのイスラエルは救われているのです。それはつまり全てキリストにある者たちは救われているのです。それが神の二つ目の契約です。しかし、これらすべてはキリストを予見していたのです。17
さて、二つ目の節に気がついて下さい。ここ申命記16章の2ですが、私がその名を置くために選ぶ場所で、あなた方は神を礼拝しなければならない。彼は私が選ぶ場所で、と言われていますー誰かほかの人が選ぶとは言われていません。「しかし私が選ぶ場所で」とさて、神が場所を選ばれるならば、神が何といわれているかを見つける必要があります、そしてそれがどこであるか。私はそれを見つけたいのですというのは、本当に心から真実を持って彼を礼拝したいからです。我々は皆ここにいて今晩彼を礼拝しています。ここに座って、メソジスト、バプテスト、カトリック、エホバの証人、クリスチャンサイエンス、そしてその他もrもろもとして、座っていますが、何かを求めているのです。我々は真理が知りたいのです。聖書は、「真理を知るであろう、真理があなた方に自由を得させる」とあります。誰か... 自分のしていることを知らず、どのようにするかも知らない、どのようにするかを知らないなら、どのようにするかを知り馬で知りません。あなたはしている事とどのようにするかを知っていなければなりません。
これは神が彼の礼拝者に一つの特定の場所彼に出会う場所がある事を示してくださったのです、彼の礼拝者に神がお会いになる唯一の場所です。
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さて、彼の礼拝者の為に彼が選ばれた場所であり又、彼はそこに彼の名前を置くと言われています。さて、その聖句を探ってこの場所がどこなのかを見つけていきましょう。確かに、もし神が彼の名前をこの場所に置くと言われたのならば、この場所で彼らと礼拝する場所として人々と会うと場所とえらばれたのです、それはどこか聖書にあるのです。つまり全ての時代の為だったからです。そして偉大なる変わらない神様は変わる事はありません。人は変わります。しかしあなたの人生をいつの時でも、全てかっみが言われた物に信頼する事が出来ますというのはそれが真理だからです。それは真理です。私が完全に信頼がおける唯一の事は聖書にある事ですというのは人の言葉は失敗しますが、神は完璧な方です。今年、私は去年知っていた以上に知っているべきです。あなたも同じです。毎日、我々は進歩するから、より知識を増やすことが可能なのです。彼はもともと、完ぺきな方です。全ての決断は完全に正しくなければなりません。
そしてその方法で神が一度されたのだったら、その方法で永遠に彼は動かれなければならいのですもしそうでなければ彼は初めから間違っていたのです。人が神に神に受け入れられたという基本の下に神に救いを主t目に来たとしたらば、その基本は毎回受け入れられなければならないのです。その通りです。もし人が、神の癒しを求めて神に来たならば、神はその人を特定の企保によって受け入れ、次の人が来たら彼は保同じ方法で彼を受け入れる必要があります、そうでなければ端根の人を受け入れた時に神が間違っていたことになります。神は火とに会う時に、基礎を作られます。彼の造った基礎は神がされるのです、どのようにされるかも、そしてエデンの園での犠牲の子羊の地を通して、始められたのです。神には時間の差はなく、それが変わる事もありません。
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神はどの様に人を救うかを決められました。我々は人々を教育しようとして、学校に入れます、教育して独占しようとしていましたその他のいろいろなことをして、彼らを連れて来て揺るがし、洗礼をして、出来るその他すべての方法を試して、文字によって彼らを動かそうとしましたが、同じ状態でした。神が子羊の流した地によって人に出会われました。血が初めから紙の方法なのです、そして今晩も血が神の方法です。苦行をしたり全てのこれらの事は良いですが、救いは血を通しての実来るのです。血だけが神が人々を救うために選ばれた唯一の方法でそれを神が帰る事は出来ないのです。 ヨブも保馴染事でした。彼は義人でした、というのは神が彼に要求した犠牲をささげたからでした。
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さて、この場所が何なのかを探り見ていきましょう、そしてその場所に彼の名前が付けられているのです。我々は彼の名前のある場所を見つけることになるはずです。そして、もし我々が神の名前を見つけて、それがつけられた場所を見つけたら、その時即座にその場所が礼拝の場所として得られるのです。これらすべての事は、もちろん、これから来ようとすることの影だったのです。 全ての律法は来ようとしていたことの前影でした。ちょうど月が太陽の陰である様にです。それは太陽が居ない時にその仕事をします。教会が神の御子の肉体的存在が居ない時に、見せる様に、光はより少ないですが、教会、信仰者たちが、神に仕え、光を与えて、御子がおられない時の分を使えるのです。しかし、太陽が上がると、もう月を見る事は無くなりますというのは、降るからです。その光はいらなくなるからですというのは、太陽が降った時に第2段階として光を少し与えるだけだからです。
さて、夫と妻のようです、太陽と月、教会とキリスト。さて、我々はこれらの事をキリストの影となる事で見つけました、全ての犠牲、晩餐、そして旧約聖書の中に在る全ての事はキリストの前影だったのです。影が床全体に広がる様に。さて、ここで正しい礼拝の場所を見つける必要があります。旧約聖書のこの場所に戻ってこれらの事が与えられ見れた場所です。
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さて、影が床におりて来た時、それは男性か女性かあるいは獣か何でも、床に影が見えた時に何だかが言えますね。そしてその影が短くなると、影はマイナスになります、そしてプラスなしにマイナスはないのです、それ故プラスが-により近くなるとマイナスがプラスに読まれるのです。その影とプラスが共になり、プラスにするのです。もし旧約聖書に書かれていた古い事の全てが今後来ることの影であったら、それはキリストがその影の表れだったのです。 それ故、我々が旧約聖書の彼が彼の名を選んでつけられた場所は型という事が分かります、現状に関してはです。さて、影がその床に十字架を見せると、私はそれはマイナスになる型だと言えますそして我々は礼拝者なので、旧約聖書の消えゆく影を新約聖書のプラスの中に行くのを見る事が可能なのです。
今、全ての祭りごと、祝日、全ての幕屋、全ての木、幕屋の中に在る全ての事、全てがキリストの中に在る方にあります。全ての捧げもの、全ての律法、全ての事がキリストの方の中に在ったのです。その幕屋でここでも次から次へと我々は経験を重ねてきています。そしてこれらの事を全ての信条、教会と宗派は置き去られたのを見てきました。それはその人種さえ全く関係ないのです。全ての信条、全ての教会、全ての宗派は完全に置き去られました。彼等には全く場所がなかったのです。
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旧約聖書の中にはどこにも聖書の教会が無理やりバベルの塔の団結を作らされた場所はありません。それはただ団結の形なのです。それはニムロッドという酷い男によって小さな国々が一つの場所に来てこの大きな塔を無理やり来させたのです。それは宗教的な崇拝でした、もちろん、それは神の御言葉と見做されてはいません。そしてそれが宗派の宗教の形を表しているのを見る事が出来ます、旧約聖書のバベルの塔なのです。この宗教は間違いなくある宗教なのですが神の言葉ではないのです。神様は彼の名前をどの宗派を選んでつけたりはなさいませんでした。もしそういう聖句があるなら知りたいです。彼らは彼がそうしたと言いたがるのを知っていますが、神はされませんでした。神は彼の名前を多くの場所につけることは不可能ですというのは、彼の名前は一つの場所につけると言われたからでした。そしてその一つの場所を各宗派が彼等がその場所だと言いたがるのですが、それは逆なのです。ところで彼はどこに彼の名を付けたのでしょうか?
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さて、彼の名前は初めは何でしたか?我々は名前がなければなりませんね、神の名前を彼がつけた場所を見つける事が出来る為に。さて、我々は彼には沢山のタイトルがあったことを見つけました。彼は父と呼ばれました、それはタイトルですそして御子と呼ばれましたそれもタイトルです、聖霊とも呼ばれました、それもタイトルです。彼はシャロンのバラとも呼ばれました。それもタイトルです、谷のユリとも呼ばれましたそれもタイトルです、空けの明星、ジェノバジャイラ(供給の神)じぇふぉばラッパ(癒しの神)など7つの異なる贖いと一緒になった名前がありました、しかしそれらすべてはタイトルでどれも名前ではありません。しかし彼には名前があります。 彼がモーゼにあった時、彼には名前がありませんでした。、そしてモーゼに言いました。「私はあってあるものである」とそしてイエス様を我々が地上で見る時、へブル書の6章にごめんなさい。ヨハネ書の6章です、「私がそれである」と言っています。彼らは「あなたは人であり50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たというのか」と。彼は「アブラハムの前から私はいたものである」と言われました。そして私がそれである、燃える藪、火の柱、モーゼの時代に戻って、私はあってあるものである。
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さて、私達はイエス様が言われた「私は父の名によって来たのに、私を受け入れなかった」とも言われているのを見つけられます。そしてその父の名前とはイエスでなければなりません。その通りです。父の名前こそイエスなのです、何故ならイエス様がそう言われたからです。「私は父の名前を持ってきた、父の名前で来たのに、あなた方は私を受け入れない」そして彼の名前はイエスでしたそしてガブリエルは彼をイエスと呼び、預言者達も彼をイエスと呼びました。そして彼は絶対的にイエスなのです。彼の生まれる前、聖なる預言者は彼の名前をインマヌエルと呼びました。それは「神が我々と共に居る」という意味です。そして神が肉体を取って表され、世の罪を取り去るためにされ又、それをされるにあたり、彼はイエスの名前を与えられたのです。イエスこそがその名前なのです。そしてその名前は人につけられました、教会でも、宗派でも、信条でもなく、一人の人間にでした。彼は彼の名前をイエスキリストのうちに人間として置かれたのでした。さて彼が神の礼拝の場所になる事が分かります、そこが彼を礼拝する場所なのです。彼が生まれるずっと前から、彼の名前はイエスと呼ばれていました。それはとても重要だったのです、それは天使ガブリエルによって彼の母に与えられたのです、彼の名目はイエス、神の御子と呼ばれるであろう、それが彼だったのです。
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そしてそこに我々はいるのです。これはそれのみなのです。それは彼以外にはいないのです。神が選ばれた礼拝の場所。神の場所、選ばれた、神に人が会う場所は、教会の中でも、宗派の中でも、信条の中でもなく、キリストの内だけなのです。それが唯一、神が人に会うが書で彼が神を礼拝できるのですそれがキリストの内であるという事です。それが唯一の場所なのです。メソディスト派であろうが、バプテストであろうが、カトリックであろうが、プロテスタントであろうが、唯一正しく神を礼拝できる場所は、キリストの内だけなのです。ローマ署8章1節で「キリストイエスにあって、罪に定められる事は無い、それ故、肉の内ではなく、霊の内に歩みなさい」それこそが福音なのです。26
我々は信条と異なり、人の作った理念とも違うと言えます。メソジスト教会に行けばメソジストでなければならず、バプテストならバプテスト、カトリックならカトリック、しかしキリストの内に洗礼をされたのならば、彼の体の市進となるのです。そこには違いはありません。壁の間にある分かれ目は破られあなたはキリストイエスの内にいるので自由なのですそして神を霊と誠によって礼拝するのですそれはキリストイエスにある時のみ出来るのです。神のあなたへの計画はキリストイエスの内に彼を礼拝する事なのです。 さて、どの教会宗派もこれやあれを請求できません。誰がそんなことが可能なのでしょうか?それこそが反キリストの霊です、キリストから取り去ろうとすることです。そんな事あなたには不可能です。キリストのみが神が礼拝者に会う唯一の場所だからです。
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彼等は、今日、こんなことをいう人がいました。ある人がそれほど前ではなかったのです、テキサスのボーモントで私に電話してきて言いました「ブラナム氏、あなたの名前は私の教会の本にはありませんから、あなたは天国に行くことは出来ません」そんなことを考えたことがありましたか?そんなことを決して信じてはいけません。彼らは特定の教会に属していないと、天国に行けないと考えているのです。それは間違っています。それは反キリストだと信じます。もしそのような霊を信じるならあなたは失われています。それは神がされたことを取り去ってしまうので、あなたは救われていないというはっきりした印になります。神は彼の名前をどの教会にも置きませんでした。神は彼の御子キリストエスに置いたのです、神がイエスキリスト一体になったからです。それこそが唯一の重水な礼拝の場所なのです。他の基礎は置かれていません。他の岩はないのです、「キリストの上に、硬い岩の上に我は立つ、全て他の地は沈む砂にすぎない」宗派は崩れ落ちます。国家は消え去ります、しかし彼だけが永遠におられるのです。人が神を礼拝できる場所を他に見つける事は出来ません、神はその人に反対して語られるでしょう、キリストイエス以外には場所はないのです。そこだけなのです。神が彼の名前を付けた唯一の場所選ばれた唯一の場所神が人に出会う唯一の礼拝の場所なのです。それ以外を信じるならば、あなたは救われていません。28
気がついて下さい、7つのユダヤの祭事は同じ場所で行われ続けました。彼らはメソジストの為、とかバプテストの為とか、長老派の為とかか後ろ側をカトリックとかもうひとつをプロテスタントの為とかの為においては起きませんでした。全て7つの祭事は同じ場所で続けられていました。 それはここにおいてとても美しい形式なのです。我々はちょうど7つの教会時代について学びました、神が全ての7つの教会時代を御言葉の内に保たれたのを見せることになります。書く教会時代は御言葉の一部として創られました。そしていつでも、彼らが作られたときには、光を見たのです。強度、人々がイエスの名によって洗礼する事を初めて発見したのと同じです。彼らは何をしましたか?彼らは宗派を作り、そこで死に絶えました。そして神は誰かほかの人に移っていったのです。彼はそれらの信条や人間の作った教義(ドグマ)に留まられることはありません。彼はそれとは全く関係がないのです。神に関して何も間違っている事は無いのです!神の言葉は聖く、混ぜ物はないのです。キリストが神の礼拝の中心の位置なのです。彼こそが神なのです。
全ての7つの祭事はこの一か所に守られる必要があります。他の場所ですることは出来ませんでいsた、その年の7つの祭事は一か所で行われ続ける必要がありました。それ故、7つの教会時代も一つの場所からくる必要があります、それはキリストが7つの教会全てに語られたのです。それこそ正しい事です。7つの教会時代の形式です。しかし彼らはそれから宗派を作り出してしまいました。
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さて、ここにいる間に、他の形式も見てみましょう。過ぎ越しの形式は、イエス様の影のような物でした。我々は死による血の犠牲にここで気が付きます。その地の犠牲がキリストの前景になるのです。宗派は血を流せますか?教会が血を流すことを考えられますか?宗が血を流す事?いいえ絶対にないです。ある命から血が取られる。そしてその命、、ここでイエスが子羊によって来られたことを見る事が出来ます。その子羊はキリストの形式で、キリストの前景でした、というのは彼は神の子羊としてヨハネによって世の罪を取り去るために来られたと紹介されました。 我々は出エジプト記の12章で、イエス様が来られるのを見出します。気がついて下さい、それは唯一死が撃つ場所なのです。死がその地を撃つとき、特定の場所である必要がありました、この死によって全てが来たのでした。一つの場所だけでした。さて、それは一つの家を意味したのではありませんでしたが一つの場所それこそ子羊が殺された場所。子羊の地が死の天使によって撃たれることは出来なかった場所、それは神が彼の名を付けた場所だったからです。そしてその子羊は初めからその場所に戻って名前を戻されたのです。気がついて下さい。それこそ彼が撃つことのできなかった一つの場所でした。
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そして、さて、それは今日も同じなのです。霊的な死が撃たれない唯一の場所は御言葉なのです。死は御言葉を撃つことは出来ません何故ならそれは生きる神の言葉だからなのです。しかし、それを信条にする時、御言葉の力が失われてしまうのです。水と油の様に分かれてしまうのです。それは混ぜる事が出来ないのです。だから信条が宗派教団に入る時、彼らは信条を追うために誰かほかの人と共に続けるために御言葉が死んでしまうのです。そしてそれがどんどん増えていくのです。聖霊の義化、聖化そして聖霊のバプテスマの瞬間を選ぶとして、そしてそれが実に入っていくのでが分かりますね。神がとどまられる道が分かりますか?彼の名前を同じ様に常に正しいのですというのは彼こそが御言葉だからです。
気がついて下さいね、それは死ぬことが出来ません。命の言葉は死ねません。今こそそれがどれ程完璧かに気がついて下さい。死の天使はエジプトの偉大な知性の高い人々を撃つことを許されていませんでした、その聖地を撃つことは打つことは許されていました。素晴らしい建物や、ファラオやその地の祭司達、天使たちは彼等を撃つことは止められていませんでした。どんな建物でも、場所でも、誰でも、打つことは許されていましたが、子羊のいる場所は打つことが出来ませんでした。死はこの神が与えられた場所をを撃つことは出来なかったのです。そしてそれが子羊の中にいるのです。
気がついて下さい。彼はイスラエルを撃つことさえも許可されていましたあるいは減ブルの祭司達、あるいは彼らの宗派のどれもです。神の選ばれた供給された場所以外は死が撃つことが出来たのです。
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教会、あなたがどこに居ても、何に属していたとしても、何の違いも私には齎しません。しかし、一つ絶対に知っていなければならない事があります。キリストに属す必要があります出なければあなたは死にます。彼の外で生きる事は出来ないのです。あなたの教会が建物であることは良いでしょう、人としてフェローシップがあるのも、でもその体と血とイエスキリストの言葉を否定するとき、その瞬間にあなたは死ぬのです。それが神が選ばれた礼拝の場所だから。彼の名前がそこにあるのです。彼の選ばれた場所に名前を置かれました、教会ではなく神の御子つまりイエスキリストです。気がついて下さい、彼のい選ばれた場所、彼の子羊、その子羊の名前だけが安全な場所なのです。
気がついて下さい、それはオスの子羊です。彼であり、彼女ではないのです。教会ではないのです、それは彼の名前ではありません、彼女の名です、彼が人々に会う場所は彼女の名の中ではないのです、彼の名前、彼、子羊の中です。
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さて、我々は「その教会、偉大な力強い教会、彼女がこれをしたあれをしたと。彼女はその嵐を図った。我々が人を選んだ、偉大な数字になった。我々は力強い教会だ。彼女は偉大なことををしている」と言います。しかし神は彼女について何も言っていません。彼が言ったのは「彼」「彼で」そこが神に会う場所子羊なのです。教会ではありません。彼女の名ではんく、彼の名前なのです!彼は彼女の名をどこにも置きませんでした、彼の名前を置いたのです。彼の中に!だから、言葉でも行為でも我々すべてがしなければならないのは、イエスキリストの名前でやる必要があるのです。我々が祈るのもイエスの名前で祈らなければならないのです。我々が話す時もイエスの名前によって話すのです。洗礼するときも、イエスキリストの名前で洗礼する必要があるのです。言葉でも行為でも全て、イエスキリストの名によって行うのです。33
ある人が、ある時私に言いました、彼と話あっていて「ブラハム兄弟、私の妻は、、よくわからない、、、」彼女の名前は何某と言います(彼は聖職者でここに今いるかもしれません)そして彼は言いました、私の妻、「私の名前を得ています」と言いました(ジョーンズというとしましょう、それはジョーンズではありませんでしたから)彼は「さて、彼女は、朝起きる必要はありません、箒を持って、今私がジョーンズの名によって床を履き、ジョーンズの名によって皿を洗い、ジョーンズの名によって、洋服を治している」彼は言いました、どんな名前も呼ぶ必要はないと思うと。私は「私は呼ぶ必要があると信じている」そうですよね。
そして彼は「さて、なぜ彼女は言う必要がない、彼女は初めからジョーンズの名前で全てをするから」
私は「道を歩いて、彼女にジョーンズ来い、彼女はまず結婚式をしてジョーンズに、成らなければ、もしそうしていないならあなたは姦淫の中に暮らしている」そしてもし他の方法でイエスキリストの名でない名前で洗礼をしているならばそれは姦淫の洗礼であり、それは聖書の中で見つけることは出来ない。言葉と行動において全てイエスの名前によってしないならば、のちに何をしても、、まず彼の名に来る必要があります。
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この建物の中に沢山の素晴らしい女性、美しく、忠実な女性達がいますが、ウィリアムブラナム夫人は一人しかいません。家に一緒に変えるのは彼女です。彼女が私の妻なのです。 世界には、素晴らしい人々がいます、素敵な教会もありますが、イエスキリスト夫人、つまり彼が迎えに来る人達は一つなのです。それは彼の名前を持っている人達。彼を礼拝する場所でそれが彼女の中に在り彼女だけなのです。それは真実です。もちろん。我々はそこに真実を見つけるのです。
さて、だから、言葉と行動をする時全てイエスキリストの名によって行うのです。救いの為に天が下に他に与えられた名はないのです、イエスキリストの名以外にはないのです。使徒行伝で言っています。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。その唯一の名こそがイエスキリストです。アーメン!分かってほしいです。全ての最高の天の名は彼の名なのです。天にいる全ての家族はイエスと名付けられているのです聖書がそう言っています。神が選ばれた名前でそこに彼がおかれたのです。それが神を礼拝する場所なのですーキリストイエスの内でです。
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さて、我々はそうあるべきだと分かっています。他に彼を礼拝する場所はないのです。他の名では天下の誰にも救いうる名は与えられていないのです。彼の名前つまり贖いの神の名なのです。神はエホバジャイラ、エホバラファ、エホバジャイラ「あなたの罪を全て許す主」エホバラファ 「全ての病をいやす主」彼は沢山のタイトルを御餅でしたが一つの贖いの名人間を救いうる名はイエスの名なのです。彼の名を選んでおかれました。彼はどこに置かれたのでしょう?キリストの内にでした。全ての他の教会の名前、信条、タイトルでは死に至るものでしかありません。メソジスト教会が天国に連れて行っていると信頼しているとしているとすると、あなたは失われています。ペンテコステ派の教会が天国に連れて行くと信頼しているとしたら、あなたは失われています。パブテスト、ルター派、長老派、カトリックであれどんな教会でも彼らの名前あるいはタイトルあるいはその信条に信頼しているとしたら、あなたは失われていますというのも、初めに礼拝の場所でに来なければ、礼拝する事さえできないのですから、アーメン! 神が唯一礼拝者に出会う場所は、彼が選んだ彼の名を置かれた場所なのです。全ての他の物をあなたが信頼してるならば、あなたは死に至るでしょう。
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そして他のイエスの影がここに又あります。その聖句に印をつけました。彼は又傷もシミもなくてはならなかったのです、ここにその前景があります。その場所に彼の名を付けたのです、この子羊は傷もシミもあってはなりませんでした。さて、どの宗派や体制がそれにあたるでしょうか?どの教会?カトリック、プロテスタント、ユダヤ教何であれ、どの体制、宗派教団がシミも傷もない状態でしょうか?それは皆拒否され受け入れられないでしょう。しかしその場所が一つあります。ハレルヤ!7その場所はイエスキリストの中に在るのです。彼には傷もシミもありませんでした。失敗した事は無いのです。あなたはこれにくぎを刺すこてゃ出来ません。全てこれらの人々はそうしようと試しました。彼らの教会には問題がないそしてこの様な全ての、御言葉を破るミニウイ、藩士状態の愛人たち、ラオデキアの信条しかしそれは真理ではありません。しかしピラト自身でさえ、彼の敵さえ言いました「この人に何の間違いも見つけることは出来ない」彼自身の敵が彼には問題がないと証言したのです。彼の内に罪を見つけることなど不可能なのです。 彼の時代の祭司たちに言いました「あなた方の内の誰が私の罪のゆえに責めるのか?誰が私が罪びとだと見せられるのか?どの教会が何の間違いも起こしたことがないと言えるなら教えて下さい。はっきり言って、暦にかかれている殺人及び全ての事をしていないものはいないのです。そして彼ら自身を神の礼拝の場所として信条やら宗派を指すのです消化、いいえそんな事は無いのです。37
友よ、気分を害したいわけではありませんが、メッセージに責任を担っています、そしてそのメッセージには、この乱れた状態から出てこいとあります!そして私が出て行くように尋ねたら、どこに連れて行けばいいのでしょうか?ブラナムタバナクルに連れて行くのでしょうか?他の教会と同様に沢山の問題があります。しかし市から守られ安全な場所に私が連れていける一つの場所があります。それはイエスキリストの中なのです、神の礼拝をする場所。その場所を今晩あなた方に紹介したいのです。神が彼自身の名前を置かれた場所です。彼はそこに来る全ての人に会うと約束されました。彼は彼と一緒に礼拝し、共にごちそうを食べるとさえ。それがキリストの内にあるという事です。教会でも、幕屋でもなくキリストの内に。彼は神の幕屋です。彼が神ご自身が来られた場所で住まわれる場所なのです。「これは私の愛する子、喜んでそのうちに住まう、神の幕屋がある場所でキリストイエスの上に彼の名を設ける。彼の名前を人に彼の御子であるイエスキリストに、それこそが彼自身の住まわれる幕屋で鵜s。そしてその幕屋は形式があり、その古いエルサレム、古い祭事、古い寺院はその形でした。煙が上がって、その日箱舟に入ったとその日、契約が結ばれて神オン声がそこから聞かれたのです、神の声がイエスキリストの幕屋で聞かれたのです、古い自然なものは新しい物の陰になったのです。そしてキリストが来られるとき、彼は私の愛する子、喜んで曽於に住んでいる、そして私の名を置くべき場所を選ぶである、そこで私は人に会う、そこで礼拝をする場所なのです。神はその場所を選ばれました。教会宗派ではなく、キリストイエスなのです。そうですね!38
彼は又、傷もシミも合ってはいけません弟子が、私が言った様に、どの宗派もそれを請求できない、も試走するならば彼らは反キリストだと。さて、ここで見つけたのは、彼の影に再び集中してください。子羊は保たれて(さてこれは出エジプト12章にあります、そこに印をつけるとしたら出エジプトと12章3-6節です)。その子羊は、4日間保たれる必要がありました犠牲を払うにふさわしいかどうかを試される必要があったあからです。子羊は犠牲に捧げるまでに4日間試される必要がありました。さて、私が知っているのは、誰かが多少おかしいと思っている様です、14日目に殺されしかし覚えていますね、彼らははその月の10日目に子羊を取って14日目に殺したのです(分かりますね?)4日間保たれていたのです。
さて、イエス、神の子羊の名前は、エルサレムに行き、彼の死後迄決して出てこられなかったのですが、その後 復活されました。彼は4日間と4晩非難にさららせていました。どれ程子羊が完璧に形に入っているのでしょうか?4日間保持されていました。そしてピラトが言ったのです、彼の中に間違いを見つける事は出来なかった。
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彼の他の影は、彼の骨は折れていなかった、それは完璧で彼らは折る事が出来なかった、その犠牲を殺しても、骨を折る事は出来なかったのです。もしそうであったら、それは拒否されていました。そして彼らは既にキリストの足の骨をハンマーで壊そうとしていました、彼らが言った時、「彼は既に死んでいました」彼らは血と水を見つけて彼の脇を刺したのだった。ここでも他の偉大なことに再び気が付きますね。「私はそれを飛ばしたりはしません、彼は捧げものの中で代表され、食事の捧げものの中で。私は一度預言者の学校と聖書の中で呼ばれている学校を彼らが持っていたのを覚えている。そしてそれは凄い学校だった。そしてエリヤがそこに上がって行って、その学校に行ったのを見つけた、そして彼らは、「私達は、、「彼らは彼が去る様に祈って行った、「あなたがここにいる時、物事が厳しすぎた」そして彼らは彼に出て行って欲しがった。彼らは夕食を一緒に取りたがった、そして沢山の祭司たちが出て行った、あるいは彼の為に夕食を作るために預言者達に幾つかの豆を得るために言った。そして彼らがそうした時、彼らは大きなエプロンを集めた。そして彼らが戻って来た時、それは虫の様なものでそれは毒だった。そして彼らは鍋の中にそれを投げて、鍋が沸騰し初めて、誰かが「鍋の中に死がある! さてもう我々は食べる事も出来ない」
そしてエリヤは「少しだけでも食事をくれ」と言った、そして彼はその食事を食べてその鍋を投げて行った、「食べなさいその鍋は癒された」
その食事は捧げられたキリストでした。全ての物は同じようにおかれる必要があり、食事の全ての物は同じように食べ物の捧げものとして置かれていた。彼は癒し主であり、死を取りさり二つの律法によって命を与えられた。ハレルヤ!死がある場所が一つあり、キリストが来て、命がやってきたのだった。彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。そしてそこに死がある場所に命にありったのですというのはキリストが食事の捧げもの中に持ってこられたのです。
これらの事は私達が時間を取ってそれらを壊さった時間は素晴らしい学びでした。
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さて、気がついて下さい。その影が落ちたのは一つの言葉ではなかった。その影が一つの言葉も落ちる事は無かったのです。全ての事を完璧に型を持っていたのでした。彼は神が選んだ礼拝の場所です、又、網の名前はかr寧与えられたのです。彼は神の礼拝の場所ですそして神の名前は彼に与えられていました。彼は神の御言葉であり、彼は神の名前です、彼は神の言葉であり神の名の両方なのです。彼は御言葉が肉となられた存在です。彼自身が神の御言葉であり、神の子羊であり、神の名であり、神ご自身だったのです。それが彼だったのです、その選ばれた唯一の神を礼拝する場所なのです。そして神はキリストイエス以外の他の全ての場所を拒否されます。彼以外の他の場所では彼を礼拝する事は出来ません。「彼らの私を礼拝するものは全て無駄である、人の命令や競技や教えにすぎない。」今日われわれには信条、ドグマがあり又全てが教えています。「これが道である」そして「あれが道である」とそしてイエスは言われました「私は道であり、真理であり、命である、誰も私によらないでは、父の御許(神の所)に行く事は出来ない」つまりは、私が羊の群れの為の扉であり、それ以外は盗人である。彼が唯一の近づく方法である。彼が扉であり、道であり、真理であり、命であり、それが唯一の入り口で唯一の場所、唯一の礼拝の場所で唯一の名前です。全てがイエスキリストと結びついています。旧約聖書の全ても彼とつながっていました、新約聖書も彼に繋がっていました。そして今日の教会も彼の戒律の言葉によって彼に繋がっているのです。他の場所ではなくあるいは他の名前でもなく、あるいは神が人と会う場所として約束したのは、イエスキリストのみなのです、彼が選んだ礼拝の場所なのです。
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気がついて下さい、神は彼の礼拝者とこの一つの場所でのみ会うと約束されましたそしてそれは彼自身の選んだ場所でした。我々の選んだものではなく、我々の考えたものでもなく、しかし彼の考え、彼の選んだものでした。そして彼が彼の名を置いた場所だったので、その場所は彼が選んだものでした。我々が見つけたはその場所で彼の名で彼が選んだものだったのです。さて、我々が見つけた場所、彼の名前を置いた場所(それはキリストイエスの中)そして他には荷はありませんでしたあるいは他の名前もありませんでした。それに満足していますね?「アーメン」と言ってください。さて、その物が、もし我々がその場所を見つけたとしたら、、キリスト以外には礼拝する場所は他にないのです。あなたは悔い改める事が出来ます、そうできるのです、しかしまだあなたは礼拝していません。あなたは許しを求める事が出来ます。ペテロが言いました、ペンテコステの日に彼らが全てが異言で語りそして素晴らしい印や奇跡がありました、彼等は笑い始めたのです(その教会が)そして言いました。「これらの人達は新しいワインでいっぱいです。彼らはまるで酔っ払いの様に行動している。」マリアは処女で、全ての人が一緒で、彼らが120人いてまるで酔っ払いの様に行動していました、異言を語り続けたのでした。彼らは言いました「これらの人々は新しいワインでいっぱいだ」と42
しかしペテロは、立ち上がって言いました、「男性達と兄弟達、これらの人々は新しいワインでいっぱいなのではない、これはまだ3時になったばかりです。しかしこれは預言者よエルによって語られたのと同じです。そしてそれは終わりの時に起こらなければなりません、神が仰せになりました。私は私の霊を全ての人々に注ごう、あなた方の娘息子は預言をし、私の男女の僕たちも私が霊を注ぐので、預言をするであろう。天の上に印が見える、そして地上に火の柱、煙が上がる。それは主の大いなる恐ろしい日が来る前にその日が来るであろうと、誰でも主イエスの名を呼ぶものは救われる。彼等がこれを聞く時、彼らが彼等の心を指す時、人々と兄弟達我々は何を出来るのでしょうか?
ペテロは言いました、「悔い改めよ、あなた方全てが、そしてイエスキリストの名によって洗礼を受け、罪が浄められ、聖霊の賜物をうけるであろう、全ての将来の世代への約束である。
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さて、我々はそれを見つけ、彼の中に我々は見つけたいのです。この礼拝の場所にどのように入れるのでしょうか?第1コリント12章が全てを落ち着かせるのです。「一つの霊によって、「日筒の教会によらず、一つの信条によらず、一人の牧師によらず、一人のビショップによらず、祭司にもよらず、聖霊にもよらず、我々は一つの体として全ての洗礼をします、キリストイエスの体として、その体の中に全ての賜物になるのです。はいそうです!加わらないのです、信条を繰り返さず、下ろすのです、握手をして、他には何もしないのです、しかし誕生により、我々はキリストイエスのからとして洗礼を受けたのです。 アーメン!一つの聖霊により我々すべては一つの体として洗礼を受けたのです、そしてその体とは何でしょうか? 初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった。
そしてその言葉が肉体となって我々の中に住んだmm
一つの言葉を否定して、我々が肉体の中にいる事が出来るのでしょうか<あるいはどこか他の場所に、肉体においても?
我々はどの様にしたらよいのでしょうか?
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神の選ばれた場所! 分かりますね!そしてあなた方が彼の中に本当に洗礼されたとき、その真実があなたが彼を信じる証明になるのです、それが御言葉です。彼を否定したらどのように彼の一部になれるのでしょうか?心になるのに手をどのように否定できるでしょうか?もしそうするならば、何か精神的に私の中で間違いがあるはずです、そしてどのようにでいるのでしょうか?何か精神的に何かが間違っているかをその手を否定しました、私の足を否定したのです、信仰者が御言葉を約束の内で何かを否定するならば何か霊的におかしいのです。何か霊的に信仰者と呼ばれる人を霊的に間違っていたのです。 彼の一つの手紙も否定する事は出kませんというのは、同じパートになっていたから。あなたは彼の一部です、だから聖霊によって彼の内に洗礼されたのです。それがイエスキリストの体の内に齎されたのでした。
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なんて美しいのでしょう! 神は特定の場所を持たれていました、彼はアブラハムに会いましたそしてアブラハムはそこで礼拝しました。旧約聖書を通して全てが描かれています。そして彼の八子測された言葉は彼自身によって解釈されるでしょう。分かりましたか?御言葉は彼がその日に成就する約束で、その時はあなたが生きている時代です、あなたは神の書かれた使徒となるのです。全ての人が読むのです。あなたがもt目るものではなく、神があなたを通して大きく語られあなたが要求す何よりも大きな声で語られるのです。神は言われました「これらの印が信じる者には伴う」それがあなたを通して語られるのです。彼はこの時代の事を語れました、それが今起こっています「この時代の信仰者はこれを信じなければならない、彼が今日約束された事です。箱舟に入った彼等が救われなければならなかったのと同様です、エジプトから出た者たちが救われたのです、彼らは今キリストに入らなければならないのです、その言葉のメッセージに、彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がない方だからです。
どのようにあなたはそれに入るのでしょうか?洗礼により?なんの洗礼?水? 聖霊の洗礼によるのです、一つの霊で我々は皆洗礼されこの一つの体になるのです。
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そして彼の約束された言葉により、彼はされません、だからあなたも解釈する必要はないのです、彼があなたを通して解釈されるでしょう。あなたがすることにより、彼はそれを約束されたのです。教会は彼に従いますそして人々が知るようになるまで、ずっと彼の様になるでしょう。ペテロとヨハネが美しの門と言われる文の前である人の癒しについて質問したことを見て下さい。彼らは、これらの祭司たちがしたことを悟ったと言いました、彼らは両方とも、無知で無学な人たちでしたが、彼らはイエスと共に居たことに気が付いていたのです。だから?彼らは彼がしたことをしたのでした。彼は父の御仕事についてあったのであり、又今日も同じでなければなりません。
さて、彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がない事を覚えておいてください。神があなたに彼の中で会うためには、その唯一の場所は、彼の選んだ彼の名前を付けた場所でなければならないのです。それはイエス、イエスが神の名目です。覚えておいてください、父、御子、聖霊のタイトルの名前がイエスキリストなのです。
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マタイが「行って全ての国民を父と子と聖霊との名によって洗礼しなし。と言った時、それが今日、誤解されているのです、それは「父の名、子の名、聖霊の名、によって、それは書かれてもいません。それは一つの名、父、子、聖霊、なのです。父は名前ではないし、子も名前ではないし、聖霊も名前ではなく、それはタイトル(役職)です。10日後にペテロが立って、言いました「あなた方は皆悔い改めて、イエスキリストの名によって、洗礼を受けよ」とそして彼がするなという事をしましたか?彼がせよという事をしたのです。父、子、そして聖霊の名それこそが主イエスキリストなのです。48
新約聖書で洗礼を受けている全ての人が主イエスキリストの名によって洗礼されています。聖書の中で、父、子、聖霊というタイトルで洗礼をされた人は一人もいません。ニカエア信条がローマのニカエアで出るまで、そんなものは存在しなかったのです。それはカトリック教会のやり方で、ローマカトリック信条に指定されていました。私は分かりました(その通り)私達の信仰とその先の事実は、間違いなくローマカトリックの信条になっているのです。彼らは聖書にないとは言いますが、彼らは御言葉を変える力があると言います。もし教皇がそうした居たなら。私は違います。イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない。「誰でもこの聖書の言葉を一つでも取るならば、、、イエス様が言われました「あるいはそれに足すならば、、彼の事は命の書から取り去られる。一つの言葉、分とか章ではないのです、一言です。「誰でも一つの言葉を取り去るならば、、、49
初めに、神は彼の人々を彼の御言葉によって武装されました。一つの言葉が間違ってしまったことによって全ての死、全ての心の痛み、全ての悲しみが起こったのです。エバ―彼女は一つの文章を壊したのでなく、一言を壊したのです。イエス様がその本の中心に来られた時、それは初めの本でした、イエス様はその本の真ん中で来られたのですが、何といわれましたか?「人はパンによってのみ生きる物ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者であると書かれてある」と言われたのです。最後の書の中黙示録の22章の18節で、聖書の最後の部分で、イエス様がご自身で、「この本から一つの言葉でも取るあるいは足すものは、命の書から彼の部分が取り去られるであろうというのは、彼は偽預言者で人々を誤って導くから、彼らの地は彼の手にかかるであろう」我々は一つの場所で礼拝を保つ必要があります、それはイエスキリストその御言葉、昨日も今日もいつまでも変わる事がない方です。アーメン!大丈夫ですね。覚えておいてください。他には礼拝する場所はありません。場所ではないのです・神がそれを選ばれました。
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ヨハネはその繋ぎ新約と旧約聖書の後ろの方で、(しっかりここは聴いて下さい)ヨハネは素晴らしい鷲で荒野から飛んでいき、彼の大きな翼を広げました。彼はヨルダン川の畔で座り、偉大な預言者として旧約と新約の間の橋を架けました、彼は彼等を左と右から呼びました。彼は悔い改めの人呼んでいました。パリサイ人と佐渡会人が来ました、彼は「自分自身の中でこの様に言い始めるな、我々はアブラハムを父としている、だから私は言うこれらの石からアブラハムの子を作る事がおできになる。オーなんて言う事、彼が福音を出し始めた時、「知らないものが立ち上がっている、私はまだ彼を人強いしていないが、彼が来るとき彼の事を知るであろう、彼の靴の紐を解くほどの値打ちもないが、彼はあなた方を聖霊と火で洗礼するであろう。そして彼のうちわが彼の手の多寡にあり、全てを焼きその日は消える事がない。51
その素晴らしい福音のワシはそこに座って、彼は彼の大きな敵が集まってきて、汚れが出てくるかあるいはヘロデその時代の王が彼の弟の妻と結婚したと言っていた。そして大きな福音の鷲がそこに座っていて、それについて平安を保っていたと思いますか?彼等の内の何人かは、「今結婚と離婚について説教するな、ヨハネ、ヘロデがそこに座っているから」といいました。
彼の顔迄貼る居て行って言いました。「あなたがしている事は律法にかなっていない」その通りです。それは何だったのですか?彼は荒野から来た鷲だったのです。人の恐れや幾つかの宗派のいじめの下で訓練を受けてはいませんでした。彼は洗脳の神の力の下で何が正しいかについて訓練されていたのです。彼はメシア(救い主)の認識を知っていました。ハレルヤ(その言葉意味は、「神を褒めたたえます!」恐れないでください、誰もまだ傷つけてはいません。私は興奮もしていません。私がいる場所を知っています)彼について考える時、それは大きな鷲がそこから飛び出して座っていると考えるのです。彼は「彼が来るときには彼を知るであろう」と彼は言った。
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ある日、彼が説教をして立っていました。その祭司は反対側に渡って言いました「日々の捧げものが取り去られたとき、この偉大な寺院、われうぇれが建てたものそして多くの我々がした全ての仕事は、大きな今日はに?彼は「全てが終わった時に、その時彼らは来るでしょう
そして「それはない、あなたは偽預言者だ。
そして周りを見なさいと彼は言いました「見よ、そこに彼がいる、神には選んだ礼拝する場所を持っておられるのです。そこには子羊が居て、世の罪のゆえに取り去られた本物の子羊がそこにはいます。彼はこうは言われなかった、ここにメソジストがいる、ここにバプテストあるいはカトリックがとは、彼は「世の罪の為に取り去られた神の子羊が来られる」と言われたのだった。唯一の安全な場所は、神の子羊の中にいる事、彼だけが救いを持っておられる。どの教会にも、どの信条にも、どの人々にも、どの母親にも父親にも、聖なる人といわれる人にも何にも、聖なる場所と言われるところも、それは聖なる神、主イエスキリストの中に在るのです。神が彼の名前を贖いの為の人間として置かれた場所です、私達罪びとの為にその代価を支払ってくださった方なのです。それが唯一救いを与えられる場所なのです。
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それがヨハネが言っている、神の事、私が立っている岩なのです。彼は、私は彼を知らなかった、彼が歩いて出てくるのを見た時しかし、私の学校を得た場所に出た時、、、「父の様な神学校でもなく、祭司として訓練をされたわけでもなく、荒野の中で、彼が全知全能の神から神学的学習をされた場所、神の言葉を待っていたのです、グループの人々で集まる訳でなく、神が言われた事だえでした。しかしヨハネが上を見上げると、霊が下りてくるのを見ました、彼は言いました、「私はこれが彼だという事を記録している」素晴らしい!それがあなたが礼拝する場所なのです。あなたが隠れる場所。世の罪を取り去られた神の子執事がおられるのです。教会でも、信条でもなんでもなく、世の罪を取り去れた、神の子羊の実が。どの様にヨハネがそれを置いたかを見てみましょう?彼は「あなた方パリサイ人は正しい、佐渡会人、ヘロデの人々が正しい」とは言いませんでした。彼は、「子羊がいる、それがその場所、彼がその名前を持っていて、彼のみで彼以外天下の下には他の名前は何もない。と言ったのでした。
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イエス様がヨハネについて言ったことを見て下さい。ある日、ヨハネは彼のtころに送られて、何をしているか見てくるようにと。イエスは、彼について言いました。彼は彼の時の前に彼らは正しい道を取り素晴らしい輝いた光だと言いました。彼は初めの使途であるから、しっかり聞きなさい。見失わないように、イエス様は、ヨハネは光であると言われました。マラキ書3章で。間違いではありません。その預言者は偉大な輝く光と共にありました、イエス様だけがその様に認識されていました。他の全ての子羊は、そのことを話していました。全てその他の事も、それは愚かしかったのです。ここに子羊が居ました。素晴らしい輝く光と共に居た人が居ました。イエス様は彼だったと、言いました。マラキ書3章では、「私は私の御使いを私の目も前でその道を整えさせるために送ろう。そしてその道を整えるために送られたものは、その場所で認識されるでしょう。その彼は失敗はなかったそれが彼です。印が伴うのが見えます。それこそが彼なのです。光は天から彼の元に下っていきます。彼は肯定的でした、それが彼なのです。55
さて、兄弟、あなたに占めるにあたってある事を尋ねたいのです。我々はこれを言うかもしれません:、荒木の4章は他の鷲について約束されていて私ではない、この時代の他の教会にも光の柱が魅せられている、彼はへブル13章8にある様に昨日も今日もいつまでも変わる事がないのでしょうか?荒野からもうひとつが飛んでくると約束されませんでしたか?アーメン、その通りです。ルカ17章30が人の子鷲の子自身が表されるとき、他の宗派やその他の礼拝は無駄になる事を表されるのです。神は彼の場所を選ばれるのです。ヨハネは「そこだ」と言いました。そしてその時、人々は今日マラ気4章の子供達の心を戻す、彼は死んでいない、これらの事は他の時代の為でなく、イエスの名前で洗礼する事はその時代でもされていましたが、これらの事は他の時代にもあるのです、イエスの名による洗礼は、その時代に戻る事だけではありません、彼は今も同じだと言っています。アーメン。全て他の場所での礼拝は意味がなくなるのです。終わりの時の鷲に全ての事を見せると、宗派がいかに馬鹿馬鹿しいか、同じ印を彼がしたのと同じ印を見せると、彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。 ハレルヤ!
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又、黙示録4章7節で4つの獣があります。初めの物は、獅子でした、それは初めの獅子でその時代に挑戦に会うのです、ユダ族の獅子です。彼の後、次の獣が来ます。そしてそれが牡牛であることが分かりますそれは重荷を負う獣、犠牲の獣。ローマ教会の時代、教会は死に絶えました―犠牲。その次に人が来ました。人の顔を持つ獣、その人は改革者たち、人の教育、進学など、しかし最後の獣は、飛ぶのです、その獣はやってきます。聖書はそれを飛ぶワシだと言っています。ハレルヤ!そしてその預言者はこの時代には光があるとも言っています。何と素晴らしい。「その時代には、光がある」改革者の時代がありました、それはただ影の様な時代でした。日とか夜とかは呼べません。しかし全ての時に、わしの時には、
鷲の時についてそこには光がある、
栄光への道を間違いなく見つけるであろう、
その水の道の中で、今日光があります。
素晴らしいイエスの中に
年を取っていても若くても全ての罪を悔い改めよ
聖霊が間違いなくあなたを洗礼する
夜の光がくるから
神とキリストが一つであるという事実である
アーメン! 夜の時間に光がある。神の選ばれた唯一の礼拝の場所。
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オーこのメッセージは何になるでしょう?彼は何をされるのでしょうか?そして彼のの日に夜の時に光があるのです。そして何でしょう?彼の小友達を本当の約束の地に変える為に歓迎するのです、同じ椅子られるの子供達を荒野に導いた光の印で。神の選ばれた礼拝の場所。イエスキリスト。それが勇逸の場所のあのです。救いの為の唯一の名。それが天の家族彼が地にいる間の為に名付けたのです。それがイエスキリスト。オー教会、人々、罪びとである友たちよ、イエスキリスト以外何も信頼しないでください。どの説教師も誰かほかの人があなたを救う事を信じないでください。どんな教会も、どんな信条も、宗派教団も、ただ唯一イエスキリストに信頼してください。彼がその時代の光です。頭を下げて祈りましょう。
夜の時間に光があるのです。
栄光への道を間違いなく見つけるでしょう
水の中に今日、光があります。
尊いイエスの中に埋められ
若くても年寄りでもあなた方の全ての罪を
悔い改めなさい。背入れが必ず入ってくれます。
夜の光が入るのです。
それこそがキリストと神が一つである事実なのです。
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兄弟、姉妹よ、もしまだ悔い改めていないなら、イエスキリストの名によって、洗礼を受けていないなら、今晩始めませんか?神に彼を礼拝するあなたを歓迎する機会を与えませんか?覚えておいてください、そこ以外には神があなたを歓迎してあなたが礼拝するために会う場所として約束された場所はないのです。 「ブラナム兄弟、誠実に礼拝しています」というかもしれません、カインもそうでした、彼は全ての種類の捧げものをしました、アベルもしました。カインがしたのは間違った捧げものでした。教会に行き、10分の一税を払い、クリスチャンとしての仕事をするかもしれません、誠実な男女として。ここに約30年この町に立って同じメッセージを叫んできました。年を取ってきました。もうこれ以上一緒に居られないかもしれません。でも覚えておいてください。裁きの日には、私の声は記録されていて、あなたに敵対して話すことになるでしょう。
神が彼の名前を置いた場所は一つだけで、それは教会ではありませんが、イエスの中に在るのです。それが唯一礼拝する場所なのです、あなたが受け入れられる場所それは愛するイエスキリストの中です。他の名前は人々には天下の誰にも与えられていないのです、救いうる名ハデス、教会でも、信条でも他の何物でもなく、イエスキリストなのです。そしてそれがその時代のメッセージなのです、そしてこの心が信仰に戻る、つまり回復するのです、一度聖徒達によって解放されるのです。今晩それを受け入れませんか?
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そして我々が頭を垂れて祈りの中で覚える時、手をただ上げて下さい。もし祭壇まで上がってこれないなら、人数が多すぎるかもしれないから。神があなた方を祝福されますように、私の左側には300人くらいいますね。さて右側の人手を挙げて下さい。「覚えてほしいという方」私の右側には多分150人かそれ以上いますね。このすぐそばの幕屋に水の大きなプールがあります、素晴らしい牧師である、オールマンネビル牧師、アソシエイツ、ここにいる人たちにあって下さい。毎日、毎晩、毎時間、人々は、洗礼を受けて、悔い改めたいのです。いつも待っています。そしてその命令に従うならば、神の約束によって必ず、もし誠実に心から祈るならば、聖霊のバプテスマを受けることになります。
礼拝をする場所は一か所しかありません。さて、それは幕屋ではありません。それはキリストの内です。彼にどのように入ればよいのでしょうか?一つの例によって、皆洗礼を受けて、一つの子の体に入るのです。祈りましょう。
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親愛なる、神様、これらの手が上がっています。彼らは心と確信がその手を上げさせています、あなたからの助けが間違いなく必要なのです。彼ら一人一人の為に祈ります。父よ。私はあなたの御言葉を言います。あなたは言われました。「私の言葉を聞いて彼を信じる者、私を送った方を信じる人は永遠の命を持つ、裁きに来ず、死から命に行く」父よ、数週間待ちから出かけげ戻ってきて、このことについて尋ねました「なぜ彼らは行ってしまったの」
「さてそのことについて?;
「彼らは行ってしまった
親愛なる神様、私達は一人一人呼ばれ、死の影の谷を通って挑戦に出会ってきました。そして私達は皆死すべき体を持っています。しかし今晩、あなたは私達に許しを下さいました。私達が彼を信じ彼の名によって洗礼を受けるならばあなたが我々を受け入れて下さると。そっしてこの身体、キリストの体の中に入れて下さる、教会ではなく、キリストの体に、その体は既に裁きを受けたのです、それは再び裁きに来る必要はないのです。神は彼の錨をその体に注ぎだし、その体は罪から清められ自由になっているのです。そして彼の内に罪から自由になり、自分自身に死んだのです。そして我々はお互いのフェローシップをキリストイエスの血と共に持っているのですそれが我々を全ての罪や汚れから清め続けて下さるのです。
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父なる神よ、あなたの大国に彼等一人一人を連れて行ってくださるよう祈ります。受け入れて下さい。神様。誰一人失われることがないように、少年も少女も、男性も女性も、主よ、私自身の人々が懇願、その地の下に座っています。父の言葉をどれだけよく覚え営るでしょう。そして祈ります、親愛なる神様、彼らのうちだれも失われることがないように。受け入れて下さい。主よ。あなたを今全身全霊を込めて信じています。それを信じる必要があるのです。 私の兄弟、姉妹、ここにいる友人達、この場所にいるひとたちとこれを超えて電話を通して、異なる州に居て聞いて居る全ての東から西海岸に渡って、祈ります、親愛なる神様、宅孫の砂漠からカリフォルニア、ネバダ、アイダホ、東とテク指すの周り、この招待が与えられている間、人々は小さな教会やラジオ局、家などで聞いて居ます。神様、失われた男女、少年少女がこの時間にあなたに来ますように、今すぐそれを受け入れて下さい。イエスの名によって、時間がある間に安全な子の場所を彼等が見つけますようにイエスの名によって尋ねます。壁に手書き外科医ているのを見る時、地球は苦しくなってきています。解放の時が近づいているのです。我々の国の一部は沈み始めています、他の場所は地震があっがりしています。イエス様あなたが約束されたようにです。それが長くなりすぎませんように、主よ、彼らがそれを今受け入れますように、ミーテイングのトロフィーとしてあなたを受けますように、福音を受け入れますように、イエスの名によって祈ります。 アーメン
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彼を信じますか?神の祝福がありますように。それが真理だと何人が信じますか、私の左の人たち手を挙げて下さい。右側の人は何んが信じますか手を挙げて下さい。神の祝福がありますように。見る限り、皆た上げていますね。それが真理です、友よ、神はご存知です。それは真実なのですさて、彼の内にいる間、あなたが彼の中にいるならば、全て彼が死んだ事に繋がれるのです。彼は何のために死んだのですか?我々の罪の為にうたれ、我々の罰を受けて下さったのです、我々の平安は彼の上に有り、彼の打たれた傷によって我々は癒されたのです。それを信じますか?彼の痛みが癒しの為だと信じますか?
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病気の人がいますか?手を右か左を上げて下さい。大人数の人が病気ですね。祈りのラインを呼ぶことは出来ません。分かりますね。プラットフォームに上がってくることは出来ないです。今日はそれは不可能ですね。他の場所で病人の為の祈りの会合があります。教会や幕屋で。皆さんにある事を田主目ます。何人信仰者が居ますか?手をあげ挙げて下さい。あなたに御言葉を言いますね。それはイエスキリストの世に対する最後の命令です。教会に向けて、彼は「これらの印が信じる者に伴う、病人に手を置けば癒される」何人がそれを真実だと知っていますか。マルコ16章では、「アーメン、大丈夫、信仰者として尋ねています。誰かあなたの前にいる人に手を置きなさい。そしてお互いに祈りあいなさい。誰かあなの周りにいる人に手を置いて下さい。64
主よ、ここにハンカチの箱があります、小さなものです。何人かの死にかかっている年老いたお母さんたちが、居ます。ある赤ちゃんは死にかかっています、病人が沢山います。聖書でパウロがハンカチとエプロンを取って病人の上に置いたところを読むことが出来ますそして悪い霊ときたない霊と病が人々から離れた。さて主よ我々は聖パウロではありませんが、あなたはイエス様でおられ、神の唯一下さった礼拝の場所であられます。そして今、今日これらの人達はその人達と斧アジ様に信仰を持って信じて告白しています。間違いなくあなたが彼等の為に道を作られますね。そして私の手をこれらのハンカチの上に置き、それらの病や病気を人々の体から取り去ってください。イエスキリストの名をこれらの人々の上に置きます。65
さて、我々はイスラエルとしてエジプトを約束の地への道に出てきたラインとして紅海が彼等の工程にありました、神はそこを見下ろして火の柱を通してごらんになられ、その海は恐ろしくなっていましたそしてイスラエル人が八子測後に渡るには、神が今晩イエスの血を通してみおろし病をいやされ、悪魔を追い出し、人々が約束された良い健康や神の強さを与えられたには「全ての物の上に私は健康を与えようさてお分かりになる様に主イエス、これらの人々の手はお互いに置かれています。それは信仰をあらわしています。あなたは「これらの印が信じる者には伴う、彼らはお互いに祈っています。隣の人が彼等の為に祈ります。
さて、主よ、この挑戦に答えて下さい、サタン、大きな風船の様な壊れる物、彼は神の子を持つ権利はありません。彼はもう負けています。イエスキリスト、唯一の礼拝の場、唯一の真実の名、カルバリーで彼は悪魔に勝っています。そしてw彼の地によって今、全ての病気、病そしてこの会衆からサタンがイエスキリストの名によって出て行く事を持て\留めます。これらの人から出て行き、彼らを自由にしてください。
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全ての書かれた御言葉の上で癒しを受け入れた人々は立ち上がって証をしてください。「今、イエスの聖名により癒しを受け入れました。「立ち上がって神を賛美しましょう! そうするのです。ここを見て下さい。足萎えが立ち上がっています。神を賛美しましょう。その通りです。ただ信じるのです。彼はここにおられます。何と素晴らしい!ラジオやその他で聞いて居る外の回収の皆さんへ、見てほしいです。ここにいる全ての人々が分かっている限り、この時間立ち上がっています。何と素晴らしい時でしょう。主のご臨在があります。それだけなのです。主のご臨在があるところには自由があります。自由があるのです。神の霊は私達を自由にしてくれます。
今、彼が我々を癒されました、そう信じています。彼が我々を救われました。そう信じています。洗礼を受けたい人達は、プールが準備されています。いつでも着たい時に、誰かがそこにいます。そして今、閉める前に、古い教会の讃美歌を歌いましょう。「彼を愛している、何故なら、彼が私を最初に愛してくれたから」「手を神実向けてあげて、心から歌いましょう。私達は明日の朝9時半に同じ建物で会いたいです。結婚と離婚に関する説教をします。大丈夫です。さて一緒に歌いましょう。
I love Him( この大きな会衆に居間一緒に歌ってもらいましょう。
ラジオや何かで聞いている人達も歌ってください。)
彼を愛す
何故なら初めに彼が私を
愛して下さり
私の救いの為カルバリーの
木の上で支払ってくださった。
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どこでそれがされましたか?カルバリーの木の上で、もう一度その歌を歌っている間、お互いに握手をしてください。旅人たちよ神の祝福がありますように。
愛してる、 愛してる
彼が初めに私を愛してくれたから
私の救いをカルバリーの
木の上で買い取ってくださった
彼を愛していますか?素晴らしい方ではないですか?
彼はあなたを隠して下しますね?彼は苦しい時の岩なのであり、
嵐の時の隠れ家です、唯一の救いです。だから
私の信仰はあなたを見上げる
カルバリーの子羊であるあなた
聖なる救い主
私の祈りを聴いて下さい
私の罪を清めて下さい
今日この日から
完全にあなたの物になりたいです。
歌う時手を上げましょう。
私の信仰はあなたを見上げます。
カルバリーの子羊であるあなたを
聖なる救い主
今、私の祈りを聴いて下さい。
私の罪を取り去ってください。
今日この日から、
完全にあなたの物になります。
頭を下げて今ハミングしましょう
私達の命が暗く迷う中
我々の周りに苦しみが広がる
その時こそあなたが私の導き
暗闇が日になり
悲しみの涙を拭き去り
どこにも離れません。
あなたのそばにいます
頭を下げている間、
愛する牧師の
オールマンネビル兄弟、回収を解散させてください。