携 挙

THE RAPTURE

携      挙

    教会の携挙についてはこう書かれています:トランペットが鳴り、主イエス・キリストが大きな叫び声と大天使長の声とともに天から降りて来られ、そしてそのときに生きているわれわれクリスチャンたちは、堕落しやすく死を免れないこの肉体から栄光のある不死の体に変えられ、天に召されて私たちの主に会うのです。これは、下記の聖書の言葉にも預言されているように、まさに実際に将来起きることなのです:

    テサロニケ人への第1の手紙 4:16-18 「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」 

    また、コリント人への第1の手紙 15:51―54には 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。(【第三版訂正個所】 私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。)終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。」

秘密の携挙

    イエス様は御自分は夜の盗人のように突然やって来ると言われました。なぜならこれはイエス・キリストの花嫁の「秘密の」携挙となるからなのです。このような出来事は大患難時代(第六の封印)の直前、そして反キリスト組織が全世界の宗教や政治組織を支配する直前に起きるのです。

    テサロニケ人への第1の手紙5:1―11 「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

キリストの三度の到来

    イエス・キリストは地球に三度来られます。彼は三人の子の名前で到来します。すなわち、(1)「人の子」(イスラエルへの預言による派遣)、(2)「神の子」(七つの教会への聖霊の派遣)、(3)「ダビデの子」(イエス様の至福千年の統治)。

キリストの一度目の到来

    キリストの一度目の到来の目的は、十字架の上で血を流すことによって彼の花嫁を「取り戻す」ことでした。

    ヨハネの黙示録5:9―10にはこう書かれています、「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」

キリストの二度目の到来

    キリストの二度目の到来はまさに、教会の携挙のことを指しています。つまりイエス様が、大患難時代が地球を苦しめる前に七つの教会からのご自分の花嫁を迎えることなのです。

    終末のメッセージを信じる者、即ちキリストの花嫁は大患難時代を免れます。花嫁は、苦難が始まる前にこの地球を離れるからです。花嫁は許され、そして義と認められるのです。イエス・キリストはすでに信者のために死に、そして十字架の上で信者のために代価を払って下さいました。イエス様はご自分の花嫁を取り戻すためにご自身の命を失いました。なぜなら花嫁はまさに、イエス様ご自身の肉体そのもの、骨そのものであるので、この上更に清められる必要がないのです。花嫁はすでに、私たちのために犠牲となられた主イエス・キリストを通してその過程をすでに経たからです。イエス様は、信者(ご自分の花嫁)を正義の者とするために、ご自身が身代わりとなって罪を背負われたのです。キリストの花嫁はまた、マタイによる福音書25章で、婚礼に向かう賢い娘たちに喩えられています。彼女たちのランプのなかには「油」が入っていました。神の御言葉の黙示によると、「油」とは「聖霊によるバプテスマ」のことを指しています。大患難時代の苦しみを味わうのは、愚かな娘たちの方なのです。

愚かな娘たち

    では、愚かな娘たちとは誰のことでしょうか。愚かな娘たちとは、この世の末期に終末のメッセージを信じなかったり拒絶したりしたために、「油」つまり「聖霊によるバプテスマ」を受け損ねたクリスチャンたちのことです。彼らはそれぞれの宗派の信条や教義にしがみついて離れようとせず、そしてある日、宗教主義がただの「獣の象徴」であることにやっと気づくのです。それぞれの宗派の信条や教義から抜け出してこの「油」を捜し求めようとすのですが、すでに遅かったと気づくでしょう。その時、携挙はすでに起こり、婚礼の扉はすでに閉ざされてしまっているでしょう。愚かな娘たちは取り残されて「泣きわめいて歯ぎしりする」のでしょう。取り残されたがために、反キリストは彼らをむさぼり食い、そして彼らの信仰のために彼らを迫害することになるでしょう。手かおでこに獣の印を持つ者でなければ誰も売買することができないために、彼らは生活することができないでしょう。隠れる場所がないので、彼らは反キリストに迫害され、そして死ぬまで迫害を受けるのでしょう。これらのすべての出来事が大患難時代に起こっているその間に、黙示録の11章で示されている二人の証人の呼びかけによって、イスラエルの選ばれた144,000人の者たちもユダヤ教から抜け出して、イエス・キリストの真実の福音に立ち戻ることになります。

    マタイによる福音書25:1―13に、この出来事が分かりやすく書かれています「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

 したがって、携挙されるかどうかは、賢い娘たちに属するかもしくは愚かな娘たちに属するか、によって決まるのです。賢い娘のみが携挙されるのです。愚かな娘たちは最後の審判のときには助かるのですが、彼女たちは反キリストに命を奪われなければならず、キリストの二度目の復活(白い御座の審判)のときに永遠の命が与えられることになります。賢い娘たちだけが第一回目の復活(携挙)(1テサ4:15-17)でよみがえり、キリストとともに君臨し至福千年の時を過ごします。彼女は悪人の灰を踏み、鉄の棒を持ったキリストとともに地球を1000年統治し、そして支配するのです。

キリストの三度目の到来

    キリストの三度目の到来とは、ハルマゲドンの戦いのことを指しています。ハルマゲドンの戦いは、至福千年の統治に渡ってイエス・キリストが敵であるイラン、ロシア、そしてアラブの国々に囲まれ、今にでも戦いが始まりそうなイスラエルを守るために、再び地球に戻られるところから始まり、この世の終わりまで続きます。この出来事は次のような言葉で聖書に明記されています:

    ヨハネの黙示録19:11-16「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実。』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」

    このイエス・キリストの三度目の到来は、地球が燃やされ、義人が悪人の灰を踏みつけて、イエス・キリストの至福千年の統治が始まるときに起こります。このことは、ペテロの第2の手紙3:10-13にも次のように書かれています:

    「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」原子爆弾や核兵器が、この地球を滅ぼします。

聖書にある六つの携挙

    聖書には六回の携挙について述べられています。その中の四回はすでに起きたもので、残りの二回はこれから起きるものです。初めの三回は旧約聖書時代に起きたものでした。

    一回目の携挙は、ノアの時代の大洪水の前、エノクが天に召された時のことです。(創世記 5:24)

    二回目の携挙は、エリヤが外套をエリシャに残し、生きたまま火の戦車に乗って、神様によって天に上った時のことです。(2列王記 2:11)

    三回目の携挙は、イエス様が十字架で大声で叫ばれた時に、旧約聖書時代の聖徒たち(アブラハム、サラ、イサク、ヤコブなど)がよみがえった時のことでした。旧約聖書の聖徒たちの墓は開き、彼らの栄光を与えられた体は起き上がり、多くの人々の前に現われました。このことは、マタイによる福音書27:50―53にも記されています:「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。」

    四回目の携挙は、使徒の働き1:9―11に次のように書かれているように、主イエス・キリスト自身がついに天に召されるときに起きました:「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」

    五回目の携挙は、テサロニケ人への第1の手紙4:16―18そしてコリント人への第1の手紙15:51-54に書かれた次のようなことを指しています:五旬節の日から七つの教会の時代を経て今日に至るまで、神様が送って下さったその時代のメッセージを受け止めた、聖書を信じる真実のキリスト教徒たちが携挙されるのです。

    六回目の携挙は、ヨハネの黙示録11章にある二人の証人(モーゼとエリヤ)が、144,000のユダヤ人をイエス・キリストの福音に呼び戻すためにイスラエルに現れるときに起きます。ユダヤ人が、異邦人たちが全て救われるその時まで、福音の真実に気付くことが出来ないということを思い出して下さい(ローマ人への手紙11:26)。