水による洗礼の真 実

The Truth on Water Baptism

水 に よ る 洗 礼 の 真 実

水による洗礼の真実    水による洗礼は、クリスチャンにとって必要な儀式の一つです(使徒の働き2:38)。マルコによる福音書16:16にはこう書かれています、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

    ペテロの第一の手紙3:21ではさらにこう書かれています、「それ(水)はバプテズマを象徴するものであって、今、あなたがたを救うのです。それはイエス・キリストの復活によるのであって、肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心を神へ誓い求めることなのです。」

    水の洗礼については様々質問が浮かび上がって来ます:「洗礼の聖書的な施し方とはどのようなものなのか?」、「 洗礼は頭に水を降りかけることなのでしょうか?それとも完全に水に浸すことなのでしょうか? 」、「 父、子、聖霊の御名(マタイの福音書28:19)によって行うのでしょうか、それとも主イエス・キリストの名(使徒の働き2:38)によって行うのでしょうか?」。

    聖書には矛盾があるはずはありません、なぜならそれは神の御言葉だからです。今日私たちに必要なのは、そのなかの一つ一つの言葉を理解してその通りに生きて行くため、全能神から黙示を受けることです。この長らく論争されてきた問題に、さらに近づいて見てみましょう。

    「BAPTIZE(洗礼)」という言葉は「浸す」という意味のギリシア語「Baptizo」から来ています。キリストが天に召されてから1300年の間、洗礼はいつも人を水に浸す浸礼によって行われてきました。使徒の働き8:38にはこう書かれています、「ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。」さらにヨハネ3:23には、「一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。」と、そして使徒の働き8:39には「(ピリポと宦官が)水から上がって来たとき・・・」と書かれています。

 このように、これらの聖書の記述は、洗礼がもともと人を水に浸す浸礼によって行われてきたという証拠なのです。

肩書それとも名前?

 マタイ28:19でイエス様は、弟子たちに大きな任務をお与えになり、このようにおっしゃいました「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々に教えを説きなさい。そして、父と、子と、聖霊の御名によって(in the NAME of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost)人々にバプテスマを授けなさい。」

 さてここで、私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストは、一度も私たちに「NAMES(複数の御名)」によってバプテスマを授けるようには言われませんでした。実は、「NAME(単数の御名)」によってバプテスマを授けるようにと言われたのです。ここでの手がかりは、父と、子と、聖霊がどのような名前(単数)を持っているのかを明らかにすることです。「父」も、「子」も、そして「聖霊」も「名前」ではなく、これらは唯一の、真実の神に対する「肩書」であるということに注目しましょう。

    神の名前をたどって旧約聖書の時代をさかのぼってみると、父なる神は常に「主」と呼ばれていたことがわかるでしょう。新約聖書では、「イエス」は神の子に与えられた名前です。私たちの時代では、五旬節の日のとき以降、神様のあわれみ(愛)によって聖霊があたえられる際、その聖霊は、「キリスト」もしくは「油」と呼ばれています。つまり、「父、子、聖霊」という肩書は、一つの組み合わされた御名のことを指しているということが分かります。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)そしてその御名とは他のどのような名でもなく、主イエス・キリストの御名、すなわち神様のフルネームのことなのです。

    聖書を読み通してみると、イエス様のどの弟子たちも、イエス様の御名を使って洗礼を授けたことが分かります。(使徒の働き2:38、使徒の働き19:15、使徒の働き10:46-48、使徒の働き8:14)聖書のどのページをめくっても、父、子、聖霊という3つの肩書を使ってバプテスマを授けた人は、決して見つけることはできません。実際にご自分の目で探してみても、決して見つけられないはずです。

    使徒たちは、イエス様のおっしゃったこれらの肩書が文字通りの命令ではないことがわかっていました。それはちょうど、イエス様が「私の肉を食べ、また私の血を飲まない限りは、あなたがたのうちに永遠のいのちは与えられないでしょう。」と彼らに言ったのと同じことで、もしこのような命令にそのまま従って文字通りにイエス様の肉を食べて血を飲んだとすれば、弟子たちは皆、人食いと吸血鬼ということになってしまいます。誰が父であり、子であり、そして聖霊なのか、そして神の御名とはいったい何であるのかということが、イエス様の使徒たちには明らかにされていたのでした。

使徒たちは真実を知らされていた

    天国への鍵を与えられた使徒であるペテロは、ユダヤ人に言いました、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒の働き2:38)」聖徒パウロもまた同じように語りました。パウロ自身も同じ方法でバプテスマのヨハネの弟子にもう一度バプテスマを授けました(使徒の働き19:1-5)。そしてこのように言いました、「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか。』と言うと、『ヨハネのバプテスマです。』と答えた。そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」

    ペテロとヨハネは使徒の働きの8章14ー16節でも、サマリヤの人々に対しても同じように主イエス・キリストの名においてパプテスマを受けるように言いました。

    最初に福音を受け入れたコルネリウスの家にいた異邦人たちも、同じ方法でバプテスマを受けました(使徒の働き10:46―48):「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。」

    聖書に書かれている真の信徒たちは、ユダヤ人でも、異邦人でも、そしてサマリヤ人でも皆、イエス・キリストの御名でバプテスマを受けました。なぜなら、それが真実の、そして聖書の施し方だったからです。

    西暦325年以後、水を振りかけるという誤った洗礼をし始め、「主イエス・キリストの御名」を「父、子、聖霊」に変えたのはローマカトリック教会でした。その子教会であるプロテスタント系教会の多くは、今日まで同じような教義を受け継ぎ、誤りに気づかずに同じ信条に盲目になっているのです。

聖徒ペテロとパウロは間違っていたのか?

    いいえ。この2人の使徒は、今日の多くの宗教的リーダーが気づかない次の4つのことについて知っていました:

    1.主イエス・キリストの名は、天国と地上にいるすべてのクリスチャンの姓であるということ。(エペソ人への手紙3:15を参照)

    2.この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです(使徒言行録4:12)。

    3.キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています(コロサイ人への手紙2:9)。

    4.洗礼は、十字架で苦しみを受けた方の御名において行わなければならないということ。(コリント人への第1の手紙1:13)

    聖書は私たちにこう教えています、「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ人への手紙3:17)イエス様はまた、私たちにこうお教えになられた、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカによる福音書24:47)

1つの名に対して3つの肩書

    父、子、そして聖霊というのは、三つの肩書です。しかしながら名前は、たった一つしかありません。クリスチャンの魂の救いがイエス・キリストの名によってのみ実現されるということが、使徒たちに明らかにされました(使徒言行録4:12)。聖書には、魂の救いはイエス・キリストの名以外にはありえない、と書かれています(使徒言行録4:12)。もちろん、イエス・キリストは「シャロンのバラ」、「谷に咲くゆりの花」、「明けの明星」、「アルファとオメガ」(「初めと終わり」の意味)などとも呼ばれます。イエス様は、確かにこれらのすべてなのですが、やはりクリスチャンの魂の救いはこれらの中のどの名でもなく、イエス・キリストの名によってのみ実現されるのです。

    神は多くの肩書をお持ちです:「私たちの正義」、「私たちの平和」、「永遠に居られる方」、「私たちの父」、「私たちの王」、「平和の王子」、「(神の)子」、「聖霊」など。しかし神は人間の名前を一つだけ持っておられ、その名がイエスです。すべてがこの名の御前でひざまずき、すべての者が、この名前こそ王の中の王、そして主の中の主であると認めるでしょう。

    したがって、父と、子と、聖霊という「肩書」によってバプテスマを受けた方は結局、真実のバプテスマを受けていないことになります。これらは牧師、聖職者、博士、さらに、父、息子、娘、妻などと同じく、ただの肩書に過ぎません。別に違いはないと思われる方は、名前の代わりにの肩書で小切手を署名し(例えば夫、息子など)、銀行に行き、銀行が実際に認めるか試してみて下さい。もし神の黙示があなたに示されているにもかかわらず、それを否定するならば、故意に神を信じないということになります。その御名(イエス・キリスト)は、天国へのパスポートです。「信じる人には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。(マルコによる福音書16:17-18)」、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネによる福音書14:14)」

ではマタイによる福音書28:19に書かれていることは間違いなのでしょうか?

    先ほど述べられた使徒言行録にある聖書の言葉は、マタイによる福音書28:19でイエス様が使徒たちに命じられた「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」という言葉を否定するものではありません。使徒たちがその命令をどのように解釈し、そしてどのようにその命令に従ったのかを示しただけです。

    もしあなたが他の名でバプテスマを受け、主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けていなければ、再度バプテスマを受け直さなければなりません。

    使徒言行録2:38でははっきりこう書かれています「悔い改めなさい。そして、(何のために?)それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい(もしあなたがまだ主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けていないなら、あなたはまだ自分の罪の中にいるのです。なぜなら、この名以外には救える名はないからなのです。)。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

    誠実なクリスチャンよ、神は今あなたに、かつて一度聖徒たちに与えられた本来の信仰に立ち戻るようにと呼びかけておられます。ローマ人への手紙8:30に書かれてあるように、「神は、あらかじめ定めた者たちをさらにお召しになり、召した者たちをさらに義と認め、義と認めた者たちにはさらに栄光をお与えになりました。」もしもあなたが元々定められた神の子であるならば、このメッセージを信じるでしょう。そして主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるでしょう。神の哀れみと慈悲がまだ身近にあるうちに神に従いましょう。「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22)』」この終末のメッセージを信じる教会を見つけ、そしてあなたの魂を確実に救うために、主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けましょう。